アンノウン神話体系

終章 覚醒

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

4

 
 意識を取り戻した久遠は、自分がアノンの胸に埋まっていることに気付いて、「うわあっ」と慌てて彼女から離れて、わけも分からずに周囲を見渡すと、
「ま、眞由那っ!」
 近くに眞由那が倒れているのを見た。彼女は気を失っているらしい。彼はすぐに駆け寄った。
 アノンはその様子を見て、ふっ――と安心したように微かに笑う。
「大丈夫だ、九縁。彼女はもうワタシの支配からは逃れている。いや、正確にはこれが最後の支配が終わると言おうか」
 心なしかその姿は儚く、透明で、不安定で、もうすぐこの世界から消えてしまいそうな、そんな印象を久遠に与えた。
「な、何を言ってるんだよ、美優ね……いや、アノン」
 眞由那の体を抱き寄せながら、久遠はアノンの方を不思議そうに見る。ここにいるのは美優ではないのだ。久遠は胸の内から込み上げてくる懐かしさを必死で振るう。
「後始末を――するのだよ」
 アノンはそう言って、あらぬ方向に顔を向けた。久遠もつられてそちらを見れば――。
 そこにはもう1人、久遠とアノン以外に立っている者がいた。
「ふ、ふしゃるるるぅうううう……」
 倒れている天使・クライエルの傍らで、不気味で邪悪な声を響かせる者。それは。
「お、俺様は貴様を知ってるぞ……やはり貴様だったか。貴様が……魔王さまを殺した神」
 それは、天使に殺されたはずの悪魔、グラットンだった。
「その通りだ、さすが魔王をずっと慕っていただけはあるな。もはや執念の域にまで達していると言っていいな――グラットンよ」
「貴様から感じられるこの魔力……この感覚……懐かしい……忘れた事はねぇよ! 俺様はただ……それが欲しかっただけなんだっ」
 悪魔と神が邂逅する中、グラットンの足元にいた天使・クライエルが動いた。
「な、なぜ……あなたが……どうせ死ぬのに。悪魔風情が……」
 地面に倒れているクライエルは意識を取り戻したのか、ゆらりとグラットンを見上げる。
「俺様はもう保たない。この世界での俺様の存在はまもなく消え去ろうとしてる。だから天使よぉ〜、お前、魔王の血が欲しいんだったよなぁ? 天使と悪魔の性質を兼ね備えることによって完全なモノになれるんだよなぁ〜?」
 生きていた悪魔は邪悪に歪む笑顔を天使に向ける。
「な……何を、するつもりですか、あなたっ……そんな、まさか……まさかっっ」
 悪魔の意図を察した天使の顔はみるみる青ざめていった。
「ああ、オレがキサマの夢を叶えてやるよ。俺様とオマエで完全を目指そうじゃねえかっ、な!」
「む、無理ですっ。それは魔王の血だから可能な事なのですよ! あなたみたいな低級悪魔とこのわたくしが融合なんて……そんな事したら天使でも悪魔でもなくなり、わたくしは堕天してしまうっ! そもそもお互い意思を持っている者同士でそんな真似すればわたくし達の存在が消えてしまうことになりますっ」
「ペラペラうるせーよ! 天使ぃぃっ!! 俺様は暴食のグラットンッ! その特性は全てを喰らい、同化することッッッ!!! なぁんだ……だったら始めからこうなることは決まってたんだよォ!!!!」
 瞬間――グラットンの体がまるで闇に溶けて散っていくように、真っ黒になって――その闇よりも暗い黒色の液体が、倒れている天使の体にこぼれ落ちていった。
「うわっ、わっ、ああああああああああああああ!!!!!」
 嘆きの天使は絶叫する。もはや優雅で慈悲に満ちた態度を微塵も感じさせない天使が、己の存在を失いそうになることに対し嘆いていた。
 黒い液体のかかったところからその体を溶かしていく天使。まるで強力な硫酸でもかけられたように天使の肉体が消滅していく。
「ぁぁぁぁぁ――」
 天使が悪魔の闇に包み込まれていく。天使の絶叫が闇に溶けて消えていく。やがて訪れる静寂。こうして――悪魔と天使は一つになって、夜の黒色と同化した。
「き……消えた?」
 久遠は半分夢見心地のような現実感の感じられない気分でアノンに視線を送る。
 しかしアノンは依然緊張感を持った瞳で、
「――いいや、奴はいる」
 鋭い眼光である一点を睨みつけると――、そこに影のような、夜の闇を一点に凝縮したようなモヤモヤしたものが蠢くように現れた。
「……っっ」
 なんだあれは、と久遠は言おうとしたが言葉にならない。それはモゴモゴと空中で不定形に踊り、そして一つの形を作っていく。まるで人間のようなカタチに。
「がはっ……はっ……」
 生まれ出でたモノが声をあげた。それは……形成されたのは――天使だった。
「う、あああああ……わ、わたくしはこんなはずじゃ……私は完璧になるはずだった。のに……の……く、くはは、クハハは。スゲー気分悪ぃぜ! 一つの体に2つの意識が混同するなんて。しかもそれが……より、にも、よって……低俗な悪魔とだなんて。この身が汚れる……っ」
 見た目は天使なのだが、その口調は悪魔のものと入れ替わっていく。
「う、わ……」
 久遠にも分かった。天使と悪魔は、融合したのだ。それはおぞましい姿だった。
 白くて美しかったその翼からは、羽がぼろぼろと抜けていく。よく見ると翼は片方しかない。
「ふん、どうやら堕天したのだな……いや、もう天使でも悪魔でもなくなったのか……。これがワタシの最後の役目だ。お前を――地獄に堕とす」
 そう言うと、アノン姿が一瞬で消える。久遠はしかし、すかさず堕天使を見る。
「さぁ、ここがお前の居場所だ――」
 堕天使の背後に立っていたアノンが、その頭に手を置いた。
「なっ、なにぃをぉぉずるううううう!!????」
 醜い声で叫ぶ化け物。
 アノンが押さえつけた手は地面に向かって降ろされ――その動きに従うように堕天使の体が地面に吸い込まれるように消えていく。地面には、淡く光る魔方陣のようなものがいつの間にか浮かび上がっていた。
「ああああああああああああああああ!!!!!!」
 片翼の堕天使は絶叫する。苦悶に表情を歪めてみるみる地面に――地獄に吸い込まれていく。足、胴体とこの世界から消えていき、とうとう首だけ残された状態になって――ソレは言った。
「魔王さま……どぉやらアンタの帰還はまだ先になりそぉだぜ……俺様は、先に帰って待ってるから……いつか……くぅううあああっっ……いやだっ。地獄にっ地獄に行くのはっっ! カスみたいな悪魔なんかと同じなんて、そんなのは……っ」
 そして――堕天使は完全にこの世界から消滅した。
「……終わったのか?」
 世界が日常を取り戻して暫くした後、眞由那の傍に付き添う久遠は、彼に背中を向けてじっと佇むアノンに声を掛けた。
「いや……まだ残っている」
「え!?」
 まさか、まだ敵がいるのかと久遠が表情を硬くすると――アノンは久遠の方に体を向けて、静かに首を振り、親指で自分を指した。
「ま、まさか……アノン……お前」
「ああ、ワタシもいかねばならない。ここでさよならだ、九縁」
「ど、どうして……お前が行く必要なんて……」
 久遠は思わず眞由那の体を地面において立ち上がった。
「あるのだよ。完全な状態となった魔王の血を持つワタシは、それだけで危険だ。またいつ血が転生するとも知れない。今度は見つけられないかもしれない。だから――これはチャンスなのだ。分かってくれ、九縁」
 美優の顔をしていても、あくまでアノンは尊大な態度で、堂々たる口調だった。
 久遠は本当のアノンの姿を知らないが、きっと彼女を見ればどんな姿をしていようと分かりそうな……そんな気がした。
「……ではワタシはそろそろいくよ――今まで迷惑をかけたな。でも、君がいなければここまでこれなかった。ありがとう、九縁」
「…………」
 久遠は何も言えなかった。引き留める言葉も、見送る言葉も。
 そしてアノンが手を空中にかざすと、そこに先程堕天使を地獄に送った魔方陣のようなものが現れた。大の人間が通れるくらいの丸い、大きな光る円。
「ありがとう、久遠九縁。短い間だったけど君と過ごした時間はなかなか悪くなかったぞ」
 そして彼女は魔方陣の中に入っていこうとするが、思いとどまるようにふと足を止めて、
「なぁ九縁……以前言った事を覚えているか?」
「え?」
 地面に視線を落とし、やるせない気持ちで立っていた久遠は、いきなりの質問に対して潤んだ瞳をアノンに向けた。
「ワタシの人格はこの体の宿主に依存している。だからワタシの趣味嗜好も宿主の上遠野坂眞由那から影響を受けている――と」
「た、確かにそんな事を言ってたような気もするけど……」
 けれどそれがなんだっていうのだ。今はこんな事、関係ないはずだ。
 美優は――アノンは――普通の女の子の顔をして、告白した。
「ワタシは――君がずっと好きだったぞ。あの日の夜、君と初めて会ったあの時から――ずっとな」
 その顔は妹の眞由那に似た、無邪気で明るい、満面の笑みだった。久遠がずっと好きだった――笑顔だった。
「え――っ」
 もう一度見たいとずっと願っていた、懐かしいその顔を見て――久遠が呆気にとられていると、おもむろに美優ねぇが久遠の傍までやって来て、
「――んっ」
 と、久遠に口づけを交わした。
 唇と唇が触れるだけの短いキス。だけど、それは永遠をも感じられるようなキス。
 アノンは久遠から唇をゆっくり離して、彼の瞳を見つめて言った。
「これがワタシの感謝の気持ちと……ワタシの、自分に対する最後のご褒美だ。……これで決心できたよ。この気持ちをもってワタシは往くよ」
 そしてアノンは放心する久遠の傍を離れて、魔方陣に向かって歩き出した。
 気付いていたら久遠は――叫んでいた。
「お……おい、アノン! ま、待ってくれ、アノンっっっっ!!!!」
 自分の中の理性でも本能でもない、ただ自然と、自分の意思が運命づけられているように言葉が勝手に口をついて出た。
 しかしアノンは歩みを止めない。魔方陣の中へと姿を消していく。
 そして彼女の体は完全に魔方陣の中に吸い込まれていった。彼女を取り込んだ魔方陣は周囲の景色と同調するように徐々に消えていく。
「あ、アノン……アノンっ、アノン」
 消えゆく非日常の扉から、微かに久遠を見つめる美優の姿があった。
「さようなら、九縁……さぁワタシも今そちらに行くよ、魔王……いや、兄さん」
 ゆらめきの中に溶け込んだ彼女は、そして完全に消滅した。
 後に残ったのはその場に倒れている人間が3人と、久遠のみ。
 こうして――長い一日は終わりを告げて。
 久遠の仄かな恋は、再び終わった。


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