アンノウン神話体系

第2章 神やら悪魔やら天使やら魔術師

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 桐見東亞。転校生。スラリとしたスリムな体型に、背筋の伸びた凛とした姿勢。そして、見る者全てを凍てつかせるような鋭い瞳。
 彼女と関わるな――と他称霊能者・四宮烏子が言った。それにはどういう意図があるのだろうか……久遠は帰り道を歩きながら考え込んでいた。
「う〜ん、全然分からない」
 しかしそんなこと考えても答えなんか見つかるわけもなく、堤防の脇を通りかかったところで――彼の視界は捉えた。
「あ、あれは……眞由那?」
 意外なものを目撃した。橋の下の河原で動くものを見たと思ったら、それはまぎれもなく上遠野坂眞由那の姿だった。
 基本引きこもりの眞由那がどうして河原なんかにいるのか。いや、果たしてそこにいるのは本当に眞由那なのか。もしかして眞由那はまた……。
「ちっ……心配ばっかかけさせやがって」
 迷う暇もなく久遠は、草の生い茂る斜面を駆けていった。
 久遠は眞由那の為ならどんな危険でも冒せる自身はあった。しかしそれは単に眞由那の為ではない。むしろそれは久遠自身の為の行動といった方が正しかった。
 久遠はもう、大切なものを失いたくなかったのだ。
 眞由那に近づくにつれて分かっていたが、どうやら眞由那は何かと相対しているようだった。影になっていて、暗くてよく見えないが、眞由那の他に何かがいるみたいだった。
 久遠は昨夜の出来事を思い出す。もし眞由那がまたとんでもないことに巻き込まれているなら……そう思うと胸の奥から凍り付きそうになる。
「ま、眞由那っ。なにしてるんだよ眞由――あっ」
 橋の真下の人目につきにくい場所にいる眞由那のところまで行くと、久遠はそこにいた状況を見て目をみはった。
 ――久遠の悪い予感は的中した。それは。
「おや、また九縁クンか。こんなところで奇遇だな」
 ソレは眞由那の顔をしていたけど、金色の髪に赤い瞳。そして尊大な態度。
「……お前、もしかして神なのか?」
 昨夜見た時の眞由那であった。眞由那であって眞由那でない存在。
「うん、そうだが……まぁまぁ今は黙って大人しくしててくれないか、すぐ終わるから」
 あっさり認めた。眞由那の体をした彼女は昨夜の時と同様、眞由那ではない何か――自称・神、アノン――だった。
「な、なにしてるんだよ……」
 と、久遠が渋い表情を浮かべアノンへと近づいていく。そして彼女が敵対しているものの方に視線を向けると。
「おっとこれ以上近寄らないほうがいい」
 アノンが久遠を呼び止める。
 久遠はその言葉に反射的に立ち止まって、影に溶け込んでいるソレを目視した。
「あっ」
 もう驚くつもりはなかった久遠だったが、思わず生唾を飲み込んでしまう。
 それは黒い、黒い、塊。影のように真っ暗なシルエットで構成されたなにか。橋の下の影にいるから暗くて見えなかったのではない。元々が黒一色の存在。
 全身が黒一色という観点からすれば昨夜みた犬のような怪物と似ていたが……夜よりも闇よりも漆黒の塊の存在は、やはり昨夜見た犬とは大いに違った。
 それは犬ではなく、巨大な鳥のようなカタチをしたもの。いや、小型のプテラノドンといっても遜色ない姿。大の人間が手を広げたくらいの大きさのある鳥の形をとった黒い生物だった。
 久遠が為す術もなく立ち尽くしている横でアノンは落ち着いた声で言う。
「平常なら日が落ちた時にしか現れないものなんだが……」
 橋の下の影に溶け込むように存在する巨大トカゲは「ぐるるるる」と不気味に喉を鳴らしている。
「そいつも昨日戦ってたような奴なのか……?」
「そう、こいつも悪魔の使い魔だ。本体は別のところにいるはず」
 堂に入った声でアノンは語る。眞由那の声なのに、それは明らかに眞由那の話し方ではない。
「げじゅうううううう……」
 トカゲは得物を仕留めんとする動きでアノンに忍び寄る。
「すぐ終わらせてやるよ」
 アノンが言い放ったその一瞬後――怪鳥がアノンに飛びかかって、久遠が思わず声を上げようとした瞬間に――既に殺し合いは終了していた。
 久遠の目にはなにが起こったのかハッキリ見えなかった。ただ怪鳥がアノンに接触する瞬間に、その体が霧吹きで吐き出された水のように霧散するのが見えただけだった。
「ふむ。この調子じゃ敵もせっぱ詰まっているようだ。本体との邂逅も近い」
 先程までとなんら変わらない様子で、アノンは涼やかな顔をしていた。
「終わったのか……? てかいつの間に」
 その全ては、瞬きする間くらいの出来事だった。
 眞由那の顔をしたアノンの金色の髪が、風になびいていた。
「神であるワタシにはそんなこと造作もない。さぁ帰るぞ、久遠九縁」
 と言って、アノンはくるりと踵を返し堤防の斜面を上がって行く。
「えっ、ちょ、帰るて」
「家に帰るに決まっているだろ」
 振り返ることもなく、さも当然のように答えて前を行くアノン。
「えっと、いやでもほら、眞由那の体……」
 家に帰るといってもそれは眞由那の家であって、アノンの家ではないじゃんか。と言いたい久遠だが、それを言えばアノンの存在を認めることになりそうなので口をつぐむ。
「ああ、この体か? 上遠野坂眞由那に返してやりたいのは山々だが、敵も後がない状態だからな。念の為にもう少しこのままでいさせてもらうよ」
 異論はないな? とアノンは言うが、もちろん久遠には異論はありまくり。でもそれで悪魔とか怪物が襲ってくれば久遠はどうすることもできない。
 だから無力な久遠は何も言い返せない。
 困ったな、とアノンの後ろを歩きながら久遠が考え込んでいると、そこに――思わぬ人物を見かけた。
「……桐見凍亞だ」
 口の中で呟く久遠。
 今日、久遠の通う学校に転校してきたばかりの少女――桐見東亞が正面からこっちに向かって歩いてきていた。
 これは、どういうことなんだ――久遠は思わず立ち止まって凍亞を凝視した。
 アノンも久遠につられて立ち止まって、桐見東亞を見ていた。
 桐見東亞。彼女が歩いている方向はどう考えても帰宅する道順とは考えにくい。なぜなら帰宅する久遠と反対の方向に歩いているのだ。これはつまり学校に向かっているということ。つまり終わったばかりの学校に向かっているということで、つまり、これは……どういう意味だ。
 久遠が逡巡している間にも凍亞は歩幅を変えることなく久遠とアノンに近づく。まるで久遠を見ても何も気付かないくらいのペースで。
 まるで……凍亞の目的が久遠九縁こそにあるように。
 そしてとうとう、凍亞が久遠達とすれ違おうとするところまで来た時――。
「異端の神。ただちに地球から出て行けッ。この世界に貴様の居場所はない。貴様は完全にこの世界の外側の存在だッ」
 氷のような声で、桐見東亞は告げた。
「――はい?」
 もちろん久遠にはその意味がまったく分からなかった。というか、今の言葉は久遠ではなくて、隣に立つアノンに言った言葉なのだろうか。
「……」
 凍亞は2人の間に立ったまま微動だにしない。
 久遠はなんの事について話しているのか見当もつかずにいると、アノンが口を開いた。
「ふふっ。まったく……どこにだっているのだな。お前みたいな奴は」
 なにやら意味ありげに含み笑いをするアノン。
 2人はお互いの存在について知っているのか? 久遠は今朝、凍亞を初めて見た時から彼女に不信感を抱いていたが、それがこの正体なのか?
 久遠はじりじりと凍亞から距離をとって、2人の様子を傍観する。
「――それで人間よ。お前は出て行けと言うが、もしワタシがそれを嫌だと言ったらどうするのだ?」
 アノンが挑発するように言う。空気がエスカレート的に緊張していくのが久遠の体にひしひしと伝わる。
 そしてアノンの言葉を受けた凍亞は――、
「ならば私は、アカシャの意向により――貴様を排除する」
 と、機械のような声で呟いて敵対する目でアノンを見据えた。
 なんだ……これではまるで、これからアノンと凍亞が戦うような雰囲気になっているではないか。神を名乗り超人的な動きで影の化け物を退治しているアノンを相手に、凍亞が戦うというのか。そんな馬鹿な……と久遠はゴクリと固唾を呑んで一歩下がった。
 それが、戦闘開始の合図になってしまった。
 ゴォウンッ――とまるで地鳴りのような音を響かせて、拳と剣がぶつかり合った。
「って、ええっっ!? 剣ぃぃぃっっ!?」
 久遠は我が目を疑う。アノンが繰り出した拳と交わっているのは、ファンタジーゲームや、中世が舞台の映画などに出てくるような、鋼でできた重そうな剣だった。
「はああっ!」
 今までどうやって持ち歩いていたのかというくらいの剣を凍亞は軽々と使いこなす。容赦なくアノンに向かって剣を振る。振る。振る。まるで重さを感じさせない位の剣裁き。
「ふっ、なかなかやるじゃあないか。人間にしては上出来だ」
 一方のアノンは余裕を浮かべて斬撃を躱す。
「いやっ、そうじゃないだろっ! お前、眞由那の体でなにやってんだよ!」
 思わずツッコまずにはいられない久遠。
 一撃でも喰らえば普通の人間なら即死クラスだ。眞由那の体がその危機に見舞われている。なぜ眞由那がこんなわけの分からない戦いに巻き込まれなくてはならないのだ。
 しかしアノンは相変わらずの堂に入った口調で言う。
「九縁、すぐに終わるから大人しくしていてくれ」
 そして何故か桐見凍亞までも、
「部外者の貴様には関係ない。さっさと消えろ」
 シンクロするようにボロカスに言われた。でも確かに久遠に入り込む余地なんて全くなかった。それは、別次元の死闘だった。
 すると隙を見つけたのか、凍亞が突然もの凄い勢いでアノンの懐に潜んで、
「斬――ッ!」
 目にも止まらぬ速さで剣を振りかぶった。
「うおっとっ」
 しかしアノンはギリギリのところで上体を逸らし、それをひょいと躱して、躱しざま凍亞にキックを浴びせた。
「くっ……」
 凍亞は凍亞の足技をすかざず剣でガードするが、その衝撃を殺しきることができなかったのか、華奢な体が後ろに吹き飛んでいった。
 ――それら一連の行動は、ほんのわずかな時間だった。
「こ、こんなものでっ!」
 桐見は飛ばされながらも体勢を立て直し、地面を蹴って再びアノンに飛びこんでいった。
 そして拳と剣の戦いが再開される。そのような戦いが延々と続いている。
 久遠は目で追うのがやっとで、そこに介入しようという意思さえもはや持ち得なかった。
 次元が違う。悔しいが久遠は戦いを止めるための資格を持っていなかった。
 見ている限りではアノンの方が桐見東亞よりも優勢のようで、久遠も眞由那の体の無事を祈りながら見守っていて、そして桐見東亞が何度目かの突撃を仕掛けてきたとき、勝負はついた。
「し、しまったっ……」
 久遠が初めて聞く凍亞の感情が入った言葉。
 凍亞の大振りの一撃が回避されて、その際にアノンが剣を手で払って、剣は大きく弧を描いて空中を飛びドズンと、久遠の目の前の地面に深々と突き刺さった。
 久遠はこの瞬間に、2人共が常識を遙かに超えた怪物なのだと痛感した。こんなにも重い剣をおもちゃのように扱う桐見東亞と、そんな彼女と互角以上に戦うアノン。
 剣を失った凍亞はアノンから距離をとって鋭い視線を浴びせる。
 アノンは勝ち誇った表情を浮かべて、桐見東亞を一瞥する。
「それで、お前の目的はなんだ? どうしてワタシを狙って来たのだ?」
 アノンは凍亞に質問を投げかけた。
「……」
 凍亞はしばらく黙り込んだまま答えようとはしない。
 遠くの方からランニングする学生の声が聞こえてくる。世界は相変わらずの日常なのに、どうして非日常がこんなにも強烈に存在するのだ、と久遠は疑問に感じる。
 凍亞はアノンを睨め付けながら対応を模索しているようだったが、策はもう尽きたのだろうか、やがて彼女は観念するように渋々と言葉を吐いた。
「……私は貴様達のような化け物から世界を守る為にいる人間だ」
 まるで恨み言でも言うかのような低い声と、刺すような視線。
 アノンはその言葉で理解できたのだろうか、ふっと笑うと。
「そうか。どこの世界にもあるよ……つまり、そういう組織に属している者、というわけだな」
 意味深なアノンの言葉。どこの世界にもあるとはどういう事なのか。そういう組織とはなんなのか。神や悪魔との関係は? 久遠には何一つ分からなかったが、凍亞は。
「今日のところはこれで引き下がるが……私は諦めないぞ」
 久遠に何の回答も与えないまま帰ろうとしている。むしろ余計に謎が深まるばかりで久遠は混乱するが、しかし自分がこの状況に到底関与することはできそうになかったので、ただ凍亞の方を見ていると――意外な事に凍亞が久遠の方に顔を向けて、
「それに久遠九縁! 貴様はそうやって被害者面しているが……そもそもの原因は貴様にあるのだ! それを肝に銘じておけ!」
 凍亞は突如久遠に向けて怒声をあげた。
「……えっ? なんの事を言ってるんだ?」
 もちろん久遠はそんなもの身に覚えがない。原因がなにを指しての原因かも分からない。
「ふん。おめでたい人間だな。いいか……次はこんなものじゃないからな。私は所詮組織の末端でしかない。私の上司が来たからには、貴様達に未来はないと思え!」
 そう言って、桐見東亞は地面に刺さった剣を片手で軽々引き抜いて回収し、その場を去っていった。
 久遠はぼんやりと凍亞の後ろ姿を見ながらアノンに尋ねる。
「なんだったんだろう……なんかお前の事を敵対視してるみたいだけど」
「恐らく彼女の裏には巨大な組織的なものがあるのだろう。きっと世界を影から動かしているような秘密組織だ。そういう存在はどこにでもあるものだ」
 全然危機感の感じられない声でアノンは言うと、「さぁ、帰るぞ」と体の土埃を払って再び歩き出した。
「って、待てって! だから正確にはお前の家じゃないだろ!」
「ふふ、何をいうか久遠九縁。ワタシと上遠野坂眞由那は一心同体なのだぞ? 眞由那のものはワタシのもの。全てのものはワタシのものなのだ」
「なんだよ、その自己中心を端的に表す代表的発言は! どこまで自尊心の強い奴なんだ!」
「そして――久遠九縁もワタシのものだ」
「なに言ってんだよっ!」
 妖艶な瞳で見つめるアノンに、久遠は思わずドキっとしてしまった。
 そんな心を気取られないようにアノンの頭を軽く小突いた久遠。眞由那の姿だからついいつもの調子でツッコミを入れてしまったのだが、少し後悔する。
「ふははっ。それでいい。お前はワタシを眞由那だと思って接してくれればいいんだぞ。ワタシと眞由那は一心同体だからな。自然、思考や好みや感情もシンクロしているから」
 と、ここで突然アノンが口を閉ざして視線を忙しなく動かし始めた。
「いるから?」
 久遠はアノンの変化が気になって顔を覗き込みながら尋ねる。するとアノンは。
「つまり、その、なんだ……ワタシはお前が好きだぞ」
 らしくもなく、蚊の泣くような声でそう言うと、アノンは久遠の顔を見ないようにそっぽを向いた。
 その時のアノンの顔がなんだか少し赤く染まったように見えたのは気のせいだろうか……眞由那とは違うそのしおらしさに、久遠もなんとなく照れくさくなった。
「っていうか神なのに随分と俗っぽいんだな」
 まぎらわせるように久遠はあっけらかんと言った。
「全知全能だからこそ、感情という点についても豊かに備えているものなのだ。感情が行動のエネルギー源。創造の源。人間となったワタシは人一倍人間味に溢れた存在になるのだよ。あはは、はははは」
 と、アノンはわざとらしく高笑いした。
 なにかにつけて誇らしげな態度をとるアノンを見ていて、久遠は少しずつ彼女にも慣れ始めてきていた。
 神だといっても、そこにいるのは1人の少女で、眞由那なのだから。
「はいはい。それはすごいですね。で……これからどうなるんだよ? お前このままこんな事続けてて平気なのか?」
「ふん、まだワタシの実力が信じられないのか九縁。仮にも神のこのワタシをみくびってもらっちゃあ困るなぁ」
 ちっちっち、と指を振って口元に笑みを浮かべるアノン。
「っていうか、心配してんだよ。悪魔とか秘密組織とかなんか明らかにヤバイだろ。ま、でも桐見の方はまだ話せば分かってはくれそうだけどな。同じ人間なんだし」
「ふはは、笑わせてくれるわ小童がっ。何も分かってないのはお前だ、九縁。話が通じるからって組織はワタシ達の味方ではないのだぞ? むしろ話が通じるからこそ敵なのだ……ある意味、悪魔よりもよっぽどタチの悪い相手になるだろうな。実力的にも」
「そんなのが相手って……大丈夫なのか、アノン。厄介なことになってきてるみたいだけど」
 悪魔に加えて世界を影で操る闇の組織。なんでもありな展開に久遠も辟易する。
 しかしアノンは久遠の不安とは対称的に。
「ああ、厄介だな。恐らく彼女は組織でも末端の人間だろう。きっとこの次は実力者がやってくる……だけど、平気さ。なにせワタシは神だからな」
 相変わらずの自信たっぷりの不敵な笑みを久遠に向けて、アノンは歩くスピードを速めて先を進んだ。
 久遠は少しの間、立ち止まってアノンの――眞由那の後ろ姿を見ていた。
 日が傾き始めた、春も終わりの夕日を浴びた眞由那の背中。
 そうしていると不意に、なんだか眞由那がどんどん遠くなっていくような気がして、久遠は胸が苦しくなった。


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