アンノウン神話体系

エピローグ

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 
 死闘の夜が過ぎた翌日、学校に行くのも久しぶりな感じがするなぁ、と思いながら教室に入ると、意外なものを見た。
「……」
 教室の中には当たり前のように桐見東亞が自分の席に座っていた。
 いや、彼女は転校生で久遠のクラスメイトなのだから当たり前と言えば当たり前なのだが。
 てっきり久遠は、この町を騒がす一連の事件が終わったら凍亞は去っていくものばかりだと思っていた。
 ちなみに凍亞は凍亞で、久遠の登場にたいして特に何の反応も示さない。チラリと彼を一瞥して、すぐに視線をまっすぐ前に向けた。彼女がこの町にいる理由とは何か……。もしや彼女にはまだこの町でやらねばならない事があるのだろうか?
 久遠は釈然としない気持ちで凍亞を見つめていると、
「よ〜う、久遠っ」
 予鈴ギリギリで登校してきたクラスメイトの一ノ瀬大智が、久遠の前の席に座って話しかけてきた。
「おはよう、一ノ瀬。今日は天気いいな。町も平和だし」
 なんだか一ノ瀬の顔を見るの、久しぶりな気がするなぁとか考えながら久遠が気のない返事を返すと、一ノ瀬は「天気どころじゃないんだってっ」と興奮した口調でまくしたてた。どうしたんだ、と久遠が尋ねてみると。
「知ってっかよ久遠! 昨日の夜、近くの廃工場で爆発事故があったみたいなんだぜっ。ほら、町の外れにある、あの工場だよっ!」
 ずいぶん興奮した様子の一ノ瀬。鼻をふんふん鳴らしてる。
「へ……へぇ〜。爆発があったんだ……そりゃ怖いな。何が原因なんだろ」
 久遠は、まさか自分がその現場に居合わせたなんて到底言えない。ふと桐見東亞の方に視線を向けると、彼女はなんら動揺する素振りもなく背筋を伸ばして着席していた。
「原因は爆弾らしいぜ! でも……なぜか不思議な事にさぁ、誰もその爆発が起こった瞬間を目撃した人間がいないんだよ。だから正確には昨夜爆発が起こったんじゃなくて、建物が崩れているところを発見したのが昨夜だっていう話なんだよっ」
 一ノ瀬は相変わらずの情報通で、好奇心がいっぱいだった。
「は、ははは……」
 久遠は適当に相槌を打つ。
「すげえなぁ。俺も見たかったなぁ。きっとそこには知られざる物語があったんだぜ! きっと陰謀とか戦いとか非日常なイベントが発生してたんだぜ! お前と一緒に行きたかったなぁ」
 一ノ瀬は相変わらず久遠が大好きだった。
「は、はは……んな非現実的なことありえねーって」
 あながち間違ってない――というか真相に肉薄した想像に、久遠は内心冷や汗をかく。実際イベント起こってたし。
 好奇心猫を殺すと言うが、そういう非日常を望む人間のところに、唐突にその世界は姿を見せるのだろうか。そして軽はずみな好奇心を持った人間はその事態にどうするのか。だったら――こうやって一ノ瀬のように、望んでいるだけの状態が一番幸せなのだろうか。久遠は興奮する一ノ瀬を見てそう思った。
 そして久遠は、今回の事件の功労者である四宮烏子に視線をなんとなく向けてみた。
 烏子は相変わらず無口の無表情で何を考えてるか分からない顔で机に座っていた。
 でも烏子が久遠の視線に気付いて目があうと、彼女は長い黒髪の隙間から、一瞬だけど、柔らかい眼差しを向けて、にっこりと微笑んだ――ように見えた。
 やがて、ホームルームの予鈴が鳴り、久遠の日常生活は再開された。

 ――そして授業が全て終了して放課後。
 久遠九縁はため息を吐きながら自宅への帰路を辿っていた。
 それはここ数日続いた奇妙な事件のせいで、まだ体の調子が取り戻せていないから――という事ではない。
 それは彼が同居する幼なじみの少女が原因であった。
 同じ学校に通う同じクラスの上遠野坂眞由那。だけど彼女は今は学校に来ていない。恐らく家で引きこもっているのだろう。
 しかし久遠が不安に思っている部分はそこではない。
 それはここ数日、上遠野坂眞由那の身に起こったことが原因である。
 上遠野坂眞由那は昨夜まで神に憑かれていた。その神は眞由那の体を使って悪魔退治をしていた。
 神が表に出ている間は眞由那の意識はもちろんなかったし、その間の眞由那の記憶もない。それが1週間ぐらいも続いた。しかも最後の数日はほとんど神に意識を乗っ取られていたのだ。
 そんな事があって眞由那は大丈夫なのか、体に問題はないのか……久遠は今、その事で頭がいっぱいだった。
「なんにしても……もう終わったんだよな」
 そう、全ては終わったのだ。もう眞由那の中には誰もいないし、そして久遠の中に宿る異常も取り除かれた。久遠は、久遠のいるべき世界に帰って来た。
 夕焼けに染まる堤防を歩いていると、久遠は前方から歩いてくる見慣れた少女を発見した。
「……桐見東亞」
 魔術結社の魔術師、桐見東亞である。
「なんだ、久遠九縁か。偶然だな」
 相変わらずピシッと姿勢を正して機械のように歩く少女は、氷のような冷たい声で言った。
「以前にもこんな感じで丁度同じ場所で会ったような気がするけど……」
「なに。今度は本当に偶然だ。というかそういう事にしておけ。それでだ……偶然ついでに一応貴様に話しておこうか、今回の事件について」
 偶然を装った風ではあるが、桐見東亞はその後の事について話した。
 凍亞が言うには、あの悪魔――グラットンは魔王の血を求めてきたわけだが、その目的は自分が魔王になるということよりもむしろ魔王の復活にあった。グラットン――悪魔では弱小の存在であるが、それ故にこの世界に来る事ができたという。彼には力はないが、かつては魔王を随分慕っていて、彼の復活の為に血をずっと探していたのだという。そしてその血がこの町にあることを突き止めて今回の事件は始まったのだという。
 そして天使――クライエルは天界では問題児とされていて『嘆きの天使』と周りからは呼ばれていた。彼女の目的は定かではないが、どうやら野心の強かった彼女は、以前から密かに神の座を狙っていたらしいのだ。魔王復活を悲願としていたグラットンと、さらにはそれを追う神がこんな僻地に来たことに何かがあると感じ取った彼女はこの町にやって来て、今回の事件をいっそうややこしくする狂言回しとなったのだ。
「……ああ。そういえば言うのを忘れていたが、私はしばらくこの町に滞在して貴様達の見張りをする役目を任させた。しばらくはいる事になるだろう」
 一通り話し終えた桐見東亞はさらりと重大な事をついでのように言った。
「って、ええええっっ!?」
「そんなに驚くな。貴様が宿していたのは魔王の血なのだ。その後の経過を確認しないと安心できないし、上遠野坂眞由那だって同じだ。彼女にはその魔王の血の持ち主である神が取り憑いていたのだからな」
「ま、まぁ……そりゃそうだな」
 またいつ何が起こるか分からない。第二第三の悪魔が現れてもおかしくないのだ。
 それに――と、凍亞はいきなり顔を少し紅く染めて、急にたどたどしい口調になった。
「それに……先輩が言ってた。いい機会だから普通の高校生として過ごしてみろって……ふん、私はそんなの興味ないのだがなっ。先輩が言うから仕方なくなのだからな!」
 先輩も今回の手柄で幹部になることが決まったし、しばらく忙しくなるそうだから、まぁ仕方ないな! と凍亞は何かいいわけがましく早口にまくしたてた。
 ……どうやらそっちも順調のようだな、と久遠はなんとなく安心した。
 そして久遠は堤防の下に流れている川の方に視線を向けてみた。そこは夕日を映した川が穏やかに流れていき、辺り一帯の時間まで穏やかに流れているような錯覚を受け――そこに、四宮烏子の姿を見た。
 今まで川のほとりに座っていたのだろうか、烏子がおしりを両手ではたいて、こっちに近づいてきていた。
「やぁ、四宮さん。こんなところでどうしたの」
 事件が解決したことは昨夜既に電話で伝えていた。だからもう彼女と久遠はもう、以前のような何の接点もない関係性へと戻っていたのだが。
「…一緒に帰るところ」
 風でなびく黒髪を片手で押さえながら、無表情に無感動に答える烏子。
「……って、一緒に帰る? 誰と?」
 確か烏子には友達と呼べる友達はいないはずだけど、と久遠は疑問に思った。
「決まっているだろう。私と帰るんだよ」
 と、答えたのは意外なことに凍亞だった。
「な……お前ら、いつの間に仲良くなったんだ」
 女子はよく分からない生き物だなぁと思う久遠。あと実はちょっと期待してた彼はほんの少しガッカリした。
「…久遠くん」
 女子2人の水を差すのもなんなので、久遠が静かに立ち去ろうとすると、それを烏子が呼び止めた。
 久遠が振り返って見ると、夕日の朱に染まった烏子が照れ笑いのような顔を向けて、
「ありがとう…」
 と言った。その隣には凍亞も同じように、嬉しそうな顔をしていた。
 彼も彼女らも、もう以前のような関係ではない。だって、関係を持ってしまったのだから。深く繋がってしまったのだから。だからそう、彼らは――友達なのだ。


 凍亞・烏子と別れて、久遠九縁が自宅の扉をくぐると。
「おかえりなさぁい、九縁ちゃん」
 玄関には久遠がお世話になっている家主、上遠野坂啓名がエプロン姿で掃除機を持って立っていた。朗らかな笑顔で久遠を出迎える。
「ああ、啓名さん。おかえりなさい。もう出張から帰ってきたんですか? なんか今回はやたらと長かったですよねぇ。どこ行ってたんですか?」
 久遠は靴を脱ぎながら何気なく聞いてみる。
「だ〜か〜ら。言ってるでしょ、九縁ちゃん。私の事はお母さんって呼ぶのぉ」
 啓名はぷんすかと冗談っぽく久遠をたしなめた。
「あ〜、いや……でも思春期だし、お母さんて呼ぶのは照れくさいというか何というか」
 このやりとりも久しぶりだなぁと考えて、久遠は思わず吹き出しそうになった。すると。
「あれ……九縁ちゃん、なんだかちょっと顔付きが変わったっていうか……」
 啓名が頬に手を当てて不思議そうに久遠を見た。
 久遠は啓名からの意外な言葉に、しかし大して驚きもしないで、
「そりゃ眞由那の面倒を何日も見ていたら嫌でも成長しますよ……母さん」
 それじゃ、お嬢さんの様子でも見てきます――と久遠は眞由那の部屋のある2階へ昇っていった。
「あらあらぁ……どうしたのかしらね九縁ちゃんったら。私が出張に行ってる間にたくましくなったんじゃない〜?」
 啓名は嬉しそうに笑っていた。その目は自分の息子の成長を見守る母の瞳だった。


 久遠は眞由那の部屋の前に来ていた。
「お〜い、眞由那。入っていいか?」
 ノックして尋ねてみると。
「どうぞ〜」
 と気のない返事が返ってきた。
 久遠は小さく息を吐いてから扉を開けて、眞由那の部屋へと入って行った。
 そこはファンシーファンシーとした部屋で、片隅の窓際に置かれたベッドの上に上遠野坂眞由那が寝っ転がっていた。なぜか下着姿だった。
「って、眞由那っ。お前はなんちゅー格好してんだよっ!」
「まぁまぁ九縁、固いことは気にしなさんなって」
「気にするよ……まぁいいけど。それより眞由那。お前……その、何ともないか?」
 慣れないことだけど、いつものことなので久遠は眞由那の言う通り、気にせず眞由那が寝っ転がっているベッドまでいってそこに腰を降ろす。
「ん……なんともないって何が? どうかした、九縁?」
 眞由那は上半身だけ上げて、きょとんと久遠を見た。
「何がってお前……覚えてないのか? その、昨夜のこと……」
「……うん?」
 どうやら眞由那は昨夜の出来事を覚えていないようだ。
「ねぇ、昨日の夜なんかあったの? 私、その時の記憶がおぼろげで……っていうか、最近なんか記憶が飛ぶっていうか、気付いたら時間が進んでたりするっていうか……う〜ん」
 眞由那が首を傾げて悩んでいる。
「いや、別になんでもないんだ……それにもうその事なら気にしなくていいよ。もう全部、大丈夫だから」
 何もかも終わったことだから。
 こうしてまた、久遠と眞由那もこれまでの日常に埋もれていくのだ。
 それは幸せな事なのだろうけど……久遠は少し寂しく思った。
 そしてなぜか、脳裏にアノンのことが浮かんだ。
 彼女の事もまた日々の忙しさの中に消えていくのだろうか。上遠野坂美優のように。
 もしかしたら眞由那は、美優の事を消したくなかったから、だから彼女は学校に行かなかったのじゃないか、そして神に体を渡したのじゃないだろうか、久遠はそう思った。
 眞由那はずっと戦ってきたのかもしれない。不器用で誰にも分からないけど、これが彼女なりの戦いだったのかもしれない。
 だけど彼女の戦いもいずれは終わるのだ。
 だって人は、前に向かって歩いて行く生き物なのだ。
「ねぇ九縁……」
 久遠がぼんやりしていると、眞由那がベッドから起き上がって隣に座る久遠の肩に頭を預けた。
「ん? どうした?」
 女の子特有のいい匂いが久遠の鼻腔をついて、少しドキドキしながら、それを悟られないように視線をわざと逸らして尋ねた。
 眞由那はまるで、短い日々だけど確かに一緒に過ごしていた、尊大な態度の神のように不敵な笑みを顔に浮かべて、
「私、明日から学校行くよっ」
 こうして少女の戦いは終わって、彼女は普通の女の子に戻る。
 そういう風に彼らは成長していく。それがこの世界での理なのだ。
 それはそれでいいと久遠は窓の外の暮れなずむ夕日を見て思った。
 だって久遠は上遠野坂美優の事を忘れた日は一日だってない。そしてそれはきっと、アノンの事だって同じだろう。それに彼女は忘れたくても忘れられるような奴じゃなかった。
 そう。人は前に向かって歩いて行く生き物だけど、いつだって後ろを振り返れるのだ。
 だから久遠はこれからも、彼女達と一緒に生きていく。 
 久遠は隣に座る少女の横顔を見ながら明日から始まるであろう波乱の日常の日々に、やれやれと口元を緩めながら小さな溜息を吐いた。


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