アンノウン神話体系

第2章 神やら悪魔やら天使やら魔術師

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

3

 
 家に戻ると、いつの間にかアノンの人格は消えていて、いつもの眞由那に戻っていた。
「あれっ? 私、今日外出たっけ? なんでパジャマ姿じゃないんだろ?」
 リビングのソファの上で眠そうな顔をした眞由那が不思議そうに首を傾げている。
「……さぁ、どうだろうな。お前、覚えてないのか?」
 久遠は何気ない風を装いながらコップに入れたお茶を飲む。
「うう〜ん。それが〜、なんだか頭がぼーっとしててさ〜。よく覚えてないの〜」
 間延びした口調で眞由那は答える。これこそ久遠の知っている眞由那である。
「そ、そうか……」
 と、久遠がぎこちない返事をするのを、とろんとした瞳で見つめる眞由那は不意に、
「ね〜え、九縁。なんだか最近疲れたような顔してるけど、いったいどうしたの?」
 そんな事を尋ねてきた。
 勘ぐられたか、と久遠はほんの一瞬ビクリとしたが、でも眞由那のこの様子だとやはり何も知らないようだ。さっきまで何をしていたのかも。
「は……ははっ。らしくもなく僕のこと心配してるのか? なんでもないさ。ただ眞由那が久しぶりに学校に通ったからそれで色々疲れただけだよ。昔から世話の焼ける奴だからな」
「むー。またそうやって子供扱いするんだからー」
 平和な時間の流れ。これこそが本来の久遠と眞由那の関係。眞由那はいま、久遠の知っている眞由那だ。
 久遠は夕食の支度を始めながら小さく笑う。しかしその笑いは虚ろだった。
 ――眞由那の体はもう眞由那だけのものではなくなったんだ。
 これはきっと眞由那にとっていいことではないだろう。体の半分を乗っ取られているし、その間の意識や記憶はないし、何よりも知らないところで常に危険に晒されているのだ。
 だからといって久遠にできることはない。
 桐見東亞は言っていた。久遠に責任があると。久遠に秘密があると。
 血がどうとか言っていたが、もしかしてそれは自分の家族に何か関係があるんじゃないかと、久遠は思った。
 物心ついた頃に突如行方不明になった祖父。そして事故で死んだ両親。
 久遠は両親の遺体を見ることはなかった。だから未だに2人の死が実感できずにいた。
 でもそれが自分と何の関係があるのか分からず、久遠は考えるのをやめた。
 もしかして久遠の家系は、こうした不幸に見舞われる運命にあるのか。呪われているのというか。今回の事件も、そのせいだというのか。
 そうこう考えているうちに夕食の支度ができあがって、久遠は眞由那を呼んだ。
「おい、眞由那。今日はカレーだぞ」
 そして、久遠と眞由那の2人だけの夕食の時間が始まった。
 啓名はいまだに出張から帰ってこない。長いときは2週間くらい家を空けることもざらなので、今更気にしない久遠であったが、啓名がいったい何の仕事をしているのか気になることが時々あった。
「う〜ん、おいし〜ぃ。やっぱり私が作るよりも九縁が作った時の方が絶対においしいねっ」
 眞由那が幸せそうにスプーンを口にくわえてうっとりしている。
「おだてても駄目だぞ。そう言って自分は料理しないっていう作戦は丸わかりだよ。明日は眞由那が作る番だからな」 
 啓名が家を空けている時は夕食を交代で作ることにしているのが久遠と眞由那の決まり事。
「くっそぉ〜。九縁め〜。どうして私の作戦が……ふん、いいよっ。明日とびきりおいしい料理作って九縁のほっぺた落っことしてやるんだからっ」
 日常の光景。久遠九縁と上遠野坂眞由那の2人の団らんが続く。
 やがて2人共カレーライスを食べ終わって、片付けしたりTV見たり、そんな何気ない時間を送っている時だった。
「あれ、なんか今光らなかった?」
 と眞由那が窓の外を目を凝らして見る。
「光ったってなんだ? 星か? あ、ほんとだ」
 久遠も眞由那にならって外を見ると、確かになにか明るい光が火花をあげるように、バチリと輝いている。
 しかし、ただ今の時刻は夜の7時で、外は完全な夜の闇。人工的な光にしても違和感のある光だし……と、そう考えた時、久遠は気が付いた。その光の発生源は――外からきたものではなかった。
「これ……家の中だっ」
 久遠はすかさず振り返った。今まで見ていた光は、窓に反射したものだった。この光はつまり――と理解した時、一際強烈な光が、部屋の中を満たした。
「う、うわっ?」
「きゃあっ」
 あまりの眩しさに2人は目を閉じて、腕で顔を覆う。その光はまるで朝の光のような真っ白で、突き刺してくるような強烈な光だった。
「なっ、なんだこれはっ?」
「眩しいよぉ、九縁〜」
 徐々に光は弱まったので、久遠は薄目を開けて、リビングの中心を見て見る。
 そこには萎んでいく光の渦。その渦の中から光の発生源らしきものの姿が徐々に露わになってきた。
 光を放っていた存在。それは――。
「人っ?」
 それは1人の女性だった。白いローブのようなものを素肌の上に羽織った大胆な格好の人間。
 しかし、それより何より、その女性にはもっと言及すべき点があった。
「えっ……九縁。この人……羽が生えてない?」
 眞由那が女性に向けて指さす先には――女性の背中には、立派な、真っ白な、羽がついていた。
「んなあっ!?」
 それはまさに天使そのものを思わせる大きな白い翼。というより、この女性は、どこからどうみてもテンプレート的に天使であった。
 女性は目を開いて、軽く微笑むと、小川のせせらぎのような声で言った。
「夜分遅くに申し訳ございません。わたくし、クライエルと申します。善なる概念を体現した存在なのですが……まぁ分かりやすいように言えば見てのとおり、あなた達が言うところの天使にあたる存在と考えて頂いて下さい。以後お見知りおきを」
 碧眼の瞳に金の長髪をなびかせて、端正な顔の創りの女性は、丁寧な態度で恭しくお辞儀した。いちいち言い回しが面倒臭いけれど、つまりは天使というわけで……なるほど、頭の上には天使の輪っかもついている。
 いつの間にか眩しかった光も消えて、夜の静寂が辺りに戻る。
 ここのところ立て続けに起こる怒濤の展開に久遠もいい加減うんざりしてきて、もはや驚きを通り越して呆れかえっていた。
「……で、お前はどんな用があって現れたんだ?」
 久遠は眞由那を庇うように、クライエルと名乗った天使の前に立つ。
 どうやらこれまで出会った非日常の存在達と比べてまだ話が通じそうな相手なので久遠は内心ほっとしていた。が、安心はできない。久遠の背後で呆気にとられている眞由那を守ってやらねばならない。だって今の眞由那は神ではない、普通の人間なのだから。
「あら、珍しいですね。わたくしを見て驚かないなんて。ですがその方がわたくしにとっても好都合です。そうですね、わたくしは地上の秩序を守るという仕事の為に今回来たわけなのですが」
 流ちょうに、丁寧に語る自称・天使。
「地上の秩序を守るって……悪魔からか?」
「うふふ……まぁ、それも役割の一つですが……今回はそれが目的で来たのではありません」
 クライエルはにこっと笑って、ブロンドの髪がたなびいた。
「ねえ、九縁。さっきから何言ってるの? この人は……本当に天使さんなの?」
 黙って聞いていた眞由那が後ろから声をかけた。きっと状況がなにも理解できていないのだろう。
「うふふ……この方が神を名乗ってらっしゃる人なのですね。可哀相に、体を乗っ取られているだなんて。なんと嘆かわしいことでしょうか」
 天使のその言葉を聞いて久遠はやはりな、と心の中で合点がいった。
 天使の目的は眞由那にあった。いや……正確に言えば、眞由那の体を間借りしている神・アノンに。
 しかし、天使が神に用があると言っても、
「ふええ? 何を言ってるのかさっぱり分からないんだけど……」
 今その神は、ただの一人の少女なのだ。
「訊いているのでしょう、神。すぐに出てきて下さい」
 けれどもクライエルと名乗る天使は眞由那を急かす。
 見た目には同じ人物かもしれないけど、この少女は無関係なのだ。何も知らない眞由那を巻き込みたくない久遠は、勇気を出して天使に立ち向かった。
「ちょっと待てよ、今ここにいるのは何も知らない女の子なんだ。だから――」
「いや、いいんだ。久遠九縁。後はワタシがなんとかしよう――」
 久遠の言葉を遮ったのは、眞由那の声だった。
 久遠は振り返って、眞由那を見ると。
 いつの間にか眞由那が下を向いて顔を俯かせていていた。
「ま、眞由那……」
 久遠は取り残された気分になって、いいしれない不安の感情が胸を満たした。
 そして眞由那がゆっくり顔を上げた時、そこにいたのはアノンだった。
「やれやれ、せっかく眠っていたのに。お前それでも神の僕なのか?」
 眞由那が普段浮かべないような表情を浮かべるアノンは、尊大な態度で天使に対する。
「……残念ながらわたくし、あなたを神とは認めていませんので。ただのできそこないの中途半半端な怪物――じゃないのでしょうか?」
 少女の突然の急変にも動じず、微笑みを貼り付かせたまま天使は言うと、アノンはむっと顔をしかめてみせた。
「失礼な天使だな。ワタシは正真正銘の神だ。疑うなんて天使らしくないではないか」
 珍しく動揺しているのだろうか。
「人間の体を勝手に乗っ取るなんてあなたは駄目な存在です。正体はなんなのです? 神を名乗っているだけの……異端者なのではないのですか?」
「だったらどうするのだ? 力ずくでワタシを排除するか?」
 まるでこれは先程の、桐見東亞の時と同じような状況。
 また戦いをおっぱじめようというのか。家の中なのに。
 しかし、クライエルは肩を竦めて拍子抜けするくらいに、柔らかな声で言った。
「うふ……わたくしの仕事は人間界の監視であって、人間界にできるだけ干渉してはいけないというルールがあるのですよ」
 さすが天使というだけあって、好戦的な性格ではないようだ。久遠にとってそれはありがたかったので溜息をついた。
 だがアノンの方は依然敵対する雰囲気を体に纏ったまま、
「ではどんな用があって来たのだ。天使が干渉するならそれ相応の理由があるはずだろう? ワタシが見たところ、この世界は随分と安定しているみたいだ。それこそ天使の存在なんていらない位に。こうして人前に存在しているだけで、世界の意思によって駆逐される程に」
 世界の意思という言葉。駆逐されるという意味。それはきっと久遠の世界にとっての異分子である存在の彼女達の事を指しているのであろう。だが……世界の意思とは何者なのか。
 会話についていけないが、この緊張感は伝わる。久遠は先程から冷や汗が止まらない。
 クライエルは慈悲の笑みを保ち続けたままアノンに応えた。
「そんな事は重々承知ですよ。わたくしがこんな危険を冒してまで来たわけは……あなたに言っておきたい事があるからです。これ以上この件に首を突っ込まないで頂きたいと」
「この件とは何の件だ?」
「分かっているでしょう? この町に現れた悪なる存在ですよ。あなたが引っかき回しているせいで余計にややこしくなってますからね。後はわたくしに任せて下さい、それだけを伝えにきました」
 組織から派遣された桐見東亞のように、天使までもこの事件に関わっているというのか。天使と悪魔。対極とする2つの存在。
「……言いたいのはそれだけか? 貴様はワタシの存在については何も言わないのだな」
 なぜかアノンは得心いかないような顔をしていた。
「……ふふ、そうですね。確かにあなたは異端の神でしたね。まぁ……ですが今回は悪を断罪するのが先決です。なにしろ彼を放っておいたら被害が出ることになりますからね。あなたの事は後回しにしても大丈夫でしょう。ですが、やはり人間の体を乗っ取ってこの世界の理に影響を及ぼす点については感心しませんね」
 天使はそう言ってアノンを見据えた。その瞳の柔らかさが、久遠はむしろゾクリとした。
「ならさっさと帰れ。体の宿主は私の事を受け入れてくれてるんだからそれでいいだろう」
 アノンはクライエルに怯むことなく嘯いたが……果たしてそれは本当の事なんだろうかと、ふと久遠は感じた。
 確かに近頃眞由那は自分は神になったとかそんな事を言い出し始めていた。しかしそれはいつもの眞由那の突拍子もない言動の一つ程度にしか久遠は感じていなかったし、何より眞由那はアノンに体の所有権を与えている時の記憶が一切残っていない。
 改めて思うと疑わしい。いったい眞由那は、どういう経緯でアノンに体を貸すに至ったのだろうか……それはもしかして久遠自身に関係があることなのだろうか。転校生の桐見東亞が言っていた、原因は久遠にあるという言葉が頭から離れなかった。
 天使は用件を果たして満足したのだろうか、慈しむように目を細めて言葉を放つ。
「そんなに怖い顔をして……できる事なら力を合わせていきたいと考えていたのですが、悲しいですねぇ……ですが、分かりました。今日のところはこれで引き下がることにします。わたくしは争い事を好みませんから」
 やはり今までの相手と違ってこの天使は話の分かる相手だったようだ。少なくとも穏便に済ませられそうで久遠は安堵するが、同時に引っかかった。先程の口ぶりからすると人間に干渉するのを嫌っているようだったのに、こんな事を言うためだけに姿を現した彼女の行動理由に。
「……本当に話はそれだけなのか?」
 だから思わず久遠は天使に問いかけていた。
 天使はまるで初めて久遠の存在に気付いたように、微笑みを向けると。
「話はたくさんありますけど、わたくしも忙しいのですよ。あなた達ばかりに構ってはいられません。どうやらこの町には他の勢力もいるようですからね……」
「なるほど随分と事情通なのだな」
 アノンが横から嫌みったらしく口を挟んだ。
「……ええ、ワタシにとっての脅威はあなたよりも……むしろあっちの方にあると言っても過言ではありませんから」
「そのままできればもうワタシに構って欲しくはないのだがな」
「うふふ。それは無理な相談ですよ。いいですか、覚えておいて下さいよ異端の神よ。人間界に過剰な干渉をしているのはあなたなのですよ……それではワタシはそろそろ失礼します」
 そう言って天使・クライエルは部屋の窓を開けて、そこから翼を広げてゆっくり空に上がっていった。
「すげー、空を飛んでる……」
 アノンが忌々しそうに天使を見上げる横で、久遠は暢気に感嘆の声をあげていた。
 すると上空に滞空しながらクライエルは振り返って、2人に言い放った。
「このまま世の中を乱そうとするならきっと他の者が黙っていませんよ。くれぐれも目立った真似はしないように気を付ける事ですね。特に久遠九縁さま……あなたはもっと危機感を持った方がいいですね。あなたが原因なのですからね」
 そう言い残して、今度こそクライエルは翼を羽ばたかせて天高くに昇っていった。
「……」
 久遠は天使に対して何も言うことができなかった。自分の名前をなぜ知ってるのかも聞くことも。
 そして天使が帰った後、アノンは何かが納得できないというような顔で、ずっとしかめっ面をしていた。
 久遠がさりげなく訊いてみると、
「天使がワタシよりも組織の連中の方に興味があるなんて変な話だ。だって所詮奴らは人間ではないか。何より重要視するのは、世界にとっての異物であるワタシの方だというのに……」
 とかよく分からない事をぶつぶつ言ってただけなので、久遠は放っておくことにして、部屋に行こうとしたら、
「ふにゅ〜」とアノンは唐突に意識を失って眞由那へと戻り、久遠は眠る眞由那を部屋のベッドに寝かせて、そして自分の部屋に行った。


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