アンノウン神話体系

第3章 錯綜する思い

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「ハッ……何だか知らねぇけどぉ……すっげぇ気分がいいんだよぉ、これは……そう、俺が俺じゃないような感じなんだよなァ」
 虚ろだった久遠の性格がいきなり豹変し、凍亞の攻撃を止めるという、意外な行動。その事態に桐見東亞もクライエルも、そしてアノンもぽかんと呆気にとられていた。
 もう既に、戦いの空気は失せている。新たに発生した緊急事態に一時休戦状態となっている。
「くっ、久遠九縁……離せっ、指がなくなるぞッ」
 凍亞は、未だ自分の剣の刀身部分を右手で掴んでいる久遠に、怯えすら抱いていた。
 彼女の剣は重さが100キロを超える、普通の人間なら持ち上げる事もできない代物なのだ。そして本来なら桐見だって不可能であろう。彼女がこの馬鹿重い剣を持てるのはひとえに――魔術による効果なのである。彼女――桐見東亞は重力を操る魔法を使用する。彼女は自分の剣に重力遮断の魔術を施した。これにより、彼女の剣はほとんど重さを感じさせない武器に変化する。ちなみに彼女の剣の技術は、組織での特訓の成果によるものだ。
「久遠九縁っ……おい、聞いているのかっ」
 久遠は凍亞の言葉がまるで聞こえていないように焦点の合わない目を中空に漂わせている。
「……なんかよぉ〜すっげー気分が爽快なんだよ。こんな痛みなんて全然感じないくらいにぃ」
 と、久遠は刀を握る手にいっそう力を込めた。掌はぐさりと切れ、血がだらだらと流れている。
「く、九縁……くぅっ」
 アノンが辛そうに呻いた。彼女はいまだ体の自由が効かないらしく、片膝をついて呼吸を荒げていた。
 そして今まで久遠の異変を黙って見ていた天使・クライエルは、
「……どうやら悪魔の血が流れているというのは本当でしたか。これがあの悪魔の目的……。久遠さんの中にある悪魔の血が何らかの拍子で覚醒したのでしょう……ならば残念ですがあなたを排除しなければいけないようですね」
 しずしずと久遠に近寄ってきた。
「くっ……」
 凍亞がアノンの接近に動揺して、剣を持つ力が抜けてしまった。瞬間、久遠は――。
「させるかよ、天使ぃ〜」
 久遠がにたりと口元に笑みを作って――凍亞の刀を強引に抜き取った。
「なっ――しまっ……」
 凍亞がクライエルに注意を奪われた一瞬の隙だった。
 久遠は血だらけの右手で凍亞の刀を持ち直し――そして一瞬でクライエルの元まで行き、剣を滅茶苦茶に振り回した。
「や、やめろッ、何をする貴様ッ! それがどういうモノなのか分かってるのかっ! というか……なぜその剣を貴様が持つことができるんだッ!?」
 自分の剣を奪われ使用される事に錯乱する凍亞。
「分かんねーよ、分かんねーけど感じるんだよぉ。これがめちゃスゲ―ものだってことがぁ!」
 久遠が乱雑に刀を振り回していた手を止めて――徐々に周囲のコンクリートに、次々と切れ目が発生した。
「ほらぁ、やっぱりスゲーものだった」
「……な、なにっ! なぜ貴様にこの刀が使いこなせるんだっ! しかもこの切断力……なんてことだ。貴様……ビルを切ったというのか……っ?」
 烏子にだって建物を切断するなんてことはできない。
 この剣は魔法の力が封じられた剣で、魔力の高い者が使用すればビルを切断することも可能だが――ただの人間にはそんな芸当できないはずだ。
 それにこの剣は普通の人間には簡単に振り回すことだってできない。それはただ単純に重いから。桐見東亞のように魔術で剣の重さを遮断するなりしないと到底使いこなせない
「め、滅茶苦茶ですね……」
 さすがのクライエルも久遠から距離をとってたじろいでいた。
 建物はその間にもどんどんと亀裂が走っていき、ピシピシと音を立てて崩壊が始まった。
「そんじゃ〜俺は帰らせてもらうぜ」
 久遠は混乱に乗じて、地面にうずくまるアノンの元まで行って、その体を背負った。
「わわっ、な、何をする九縁っ」
 久遠に背負われたアノンが足をじたばたさせて暴れる。
「大人しくしてろよ、ろくに動けねぇくせにっ。それと魔術師……刀は返すぜ、俺にはこんな物必要ねぇからなァ」
 久遠は乱雑な動作で、凍亞の剣を遠くのほうに放り捨てた。
「あ、ちょっと待てッ」
 凍亞はこの場から去ろうとする久遠を引き留めようとしたが――。
 ガガガリッ――、と建物に亀裂が走った。天井から切断された瓦礫がふりそそぐ。
 まもなく建物は倒壊する。この場にいる誰もが一刻も早く逃げないと破壊に巻き込まれるという状況だ。
「久遠さん……このまま逃げられると思っているのですか?」
 自分も逃げないと危ない状況にも関わらず、天使が微笑を浮かべ問うた。
「ああ、逃げられるね」
 久遠は鼻で笑って即答で応える。同時に――彼の足元のコンクリートに円状の亀裂が走った。
「し、しまった……」
 凍亞が小さく叫んだ瞬間、久遠とアノンのいる地面が崩落して、2人は真っ逆さまに落ちていった。
「あらあら……大胆ですね」
「くそうっ……逃がさないぞっ」
 3階から聞こえるクライエルと凍亞の声を背に、久遠はアノンを担いだまま素早く1階を走り抜ける。彼は1階まで降り、魔方陣が描かれていた部屋まで行き、案の定そこのベッドの上に寝かされていた烏子を見つけて両手でかかえると、窓から外へと脱出した。勿論ここは2階であるけれど……久遠は迷うことなく飛んだ。
 瞬間――。
 地響きを鳴らし、轟音を立ててビルは激しく崩壊していく。
 久遠、アノン、四宮烏子は地面に転がって――というより、久遠が2人の少女の下敷きになった。
「ぐっ、うあ……ぁ」
 久遠は体全体に痛みを覚えた。でもこの痛みはただ単に落下した衝撃だけでない。
 ビルから脱出した久遠は――また体の変調を感じ始めていた。
 頭痛。吐き気。目眩。
 それでもここにいては危ない。目の前ではビルが崩れていってるし、中にはまだ天使と魔術師がいる。そして、アノンと四宮烏子は動けない状態である。
 だから彼は気力を振り絞って少女2人を抱え、少しでも遠くへと歩き出す。
 そして人目の少ない路地裏まで行くと、急激に意識が遠ざかってその場に倒れ込んだ。
 この高揚した気分はなんなのか、自分が自分じゃない感覚。自分の正体はなんなのか、もしかして自分は悪魔そのものになったのだろうか――そんな事を思いながら彼は気を失った。


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