アンノウン神話体系

第3章 錯綜する思い

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

4

 
 烏子に連れられて久遠が辿り着いた先はぽつぽつとビルが立ち並ぶ地帯だった。
 しかし今はみんな昼休みが終わった仕事中なのであろうか、辺りを歩く者は1人も確認できなかった。
 久遠と烏子が言葉もなく、人工的な風景の中を歩いていると、烏子が小さく息を漏らして足を止めた。
「あ。多分、あのビルの中…」
 烏子が指さしたビルは、一見するとありふれた普通のビルだけど、なんとなく周りのものと比べて随分と風化が進んでいた。 
「もう使われてない廃ビルなのかな」
「分からない…けど、とても嫌な気配がする…」
 烏子の言葉に久遠は体を強張らせる。久遠には何も感じられないが、ここには何かがあるのだろう。2人は足を踏み入れた。
 ビルの中は案の定もぬけの空で、人から見捨てられた建物であった。
 ここが魔術結社の2人が言っていた、ロッジと呼んでいる拠点であろう。
 久遠と烏子は用心して進んで行く。4階建てのビルは中もそんなに広くなく、2人は下の階から一部屋一部屋確認してまわった。
 1階には何もなく、階段を昇って2階の部屋を調べていく2人。
 2階フロアも特に異常はなく、残すは最後の一部屋を調べるだけとなった時。
「う……なんだ、これ」
 扉の前に立った久遠は思わず苦い声を上げていた。
 部屋の扉には、なにやらへんてこな幾何学模様が描かれていた。
 ともすれば文字にもみえるし、ともすれば絵に見える。それが扉を埋め尽くそうにびっしり刻み込まれていた。
「…とても悪いものを感じる。この部屋には何かある…」
「でも行くしかなさそうだ……開けるよ?」
「ええ」
 まるで封印でもしているように閉じられた扉に手を置いて、久遠はゆっくりと開いた。
 しかし2人の緊張に反して、部屋の中はもぬけの空だった。空だったが――。
「なんだこれは……? 魔方陣……?」
 部屋の中は異常な空間に満たされていた。
 それは一見すると、部屋の隅の窓際に古びたベッドが置かれただけの簡素な普通の部屋に見えたが……部屋の中の四方、壁という壁にびっしりと図形やら文字やらが描かれていた。それは部屋の扉にあったものに似ていたが、それよりも更に容赦なく、壁の隙間が見えないくらいに徹底的に、病的に描かれていた。
「久遠君…これはあまり見ない方がいい」
 半ば放心して壁を凝視していた久遠に、烏子が忠告してきた。
「えっ、なんで?」
 慌てて視線を意識的に離して久遠はその真意を尋ねる。
「分からないけど……見てはいけない気がする。とても不気味で邪悪な感じがするから。多分普通の人間が関わってはいけない類のものだと思う…その…」
 こんなこと言ったらまた気味悪がられると思っているのだろう、烏子はごにょごにょと語尾を濁した。
「うん……そうだな。見たところ他に何かありそうな感じもしないし、さっさと出ようか」
 久遠は烏子の意見に従うことにして、その部屋を後にした。
 その後も2人はビル内を散策した。ビルは4階建てで小さくて部屋数も少ないので調べるのは簡単そうだったが、
「ここも駄目か」
 探していても何もないし誰もいなかった。
「どうやら手がかりはなさそうだ……」
 全ての部屋を確認した2人は途方に暮れていた。もしかしてもう出て行った後なのだろうか。
「だけどもしかして何か見落としがあるかも…今度は手分けして探しましょう」
 自分の能力で得られた手がかりに未練があるのか、烏子は真剣な表情をしている。
「そうだね。それじゃ僕は3階から上を調べるから四宮さんは2階から下をお願いするよ」
 その熱意にほだされて、久遠は烏子の提案を受けることにして、2人は別れた。
 久遠が3階まで行き、一つ一つ部屋を確かめる。
 それでもやはり何も見つからない。
「また振り出しに戻ったのか……」
 久遠がため息を吐いて最後の部屋から廊下に出て、階段を昇って4階に行く。そして廊下を歩いて手近の部屋に入ろうと思っていたら。
 コツコツコツ……と階段を上がってくる音が久遠の耳に届いた。
 ――きっと四宮烏子だろう。
 もしかして烏子の方は何か重要な手がかりを見つけられたのかもしれないと久遠が階段の方に顔を向けると、
「どうしてお前がここにいるのかは知らないが……言ったはずだ。これ以上関わるなと」
 良く通った、冷徹さを感じさせる声。
 そして徐々に姿を見せる――冷水を思わせる蒼い髪と、凛とした顔。そして、およそ少女には不釣り合いな剣。
「よほど痛い目をみたいらしいな……」
 転校生であり、魔術結社の構成員、桐見東亞だった。
「し、四宮さんはどうしたんだ……」
 この事態を予測していたとは言え、久遠の心臓は脈打った。
 この空間は既に殺気で満たされていた。
「安心しろ。クラスメイトに危害は加えないさ、四宮烏子なら隣の部屋で眠ってもらっている」
 言いつつ、烏子は腰に据えていた剣に手をかける。
「ま、まさか僕をその剣で斬るつもりなのかっ」
「お前は少々こっちの世界を知りすぎた。もはやお前の存在は私達にとって――いや、この世界にとって障害でしかない。ならば障害は取り除かなければならん。どうせ貴様には悪魔の血が流れている、この世の理から外れているのだ。だから――容赦はしない」
 凍亞は剣を鞘に収めたまま片手で持って久遠の元に近づいて来る。
「う、く、来るな……」
 久遠は後ずさりする。階段は凍亞が塞いでいるので実質逃げ道はない。
 久遠は絶体絶命の状況に追い込まれた。
「安心しろ、殺したりはしないさ……ただ、この件が解決するまで眠っていてもらうよ」
 と言って、凍亞が剣を構えて久遠に向かった――。
 殺される――久遠がそう思った時、
「あらあら、なんだか穏やかそうな話じゃないですねぇ」
 この場にそぐわない、間延びした声が響いた。
「いっ、いつの間に……なんだ、貴様はッ!」
 凍亞は足を止めて、すぐに声の方に向き直った。
 久遠もすかさず同じ方に目をやるとそこにいたのは、
「あっ……あ、あんたは……」
「やぁ。また会いましたね、久遠さん。これもご縁ですね」
 素肌の上に白いローブを纏った姿に、背中に白い大きな翼。それは、天使クライエルだった。
「き、貴様は何者なんだ……全然気配を感じなかった」
 凍亞は恐ろしいモノを見るような瞳で天使を見ていた。
 天使は余裕たっぷりに笑顔を振りまいて、軽くお辞儀をする。
「どうもはじめまして。わたくしは天使のクライエルと申します。どうやら見たところ……あなたもわたくしと目的は同じようですねぇ」
 ブロンドの川の流れのような美しい髪を揺らして、慈しむような目を凍亞に向けた。
「て、天使だとっ……まさか。ど、どうして天使がこんな極東の島国に……いや、そもそもなぜこの世界に……っ」
 いつも冷静沈着で無愛想で、氷のような表情を崩さない桐見東亞が珍しく動揺していた。
「まぁまぁ、そんな顔をしないで下さい。悲しくなります。わたくし達は敵ではないはずですよ。ここは協力して悪魔を倒そうではありませんか」
 一方クライエルは落ち着いた様子で、
「悪魔は現在、どこかに潜伏して何やら企てているようですが……ご存じないでしょうか?」
 取り乱す凍亞に優しく語りかける。
「な、何を言っているのだ。なぜ私が得体の知れない貴様なんかと……それに天使は人間世界に対して干渉するのを何より嫌うはずだ。それはどこの世界線にも言える。お前はなぜ……」
「うふふ……わたくし、天界でも変わり者だって事で有名なんですよ。嘆きの天使なんて呼ばれてるんですよぉ」
 その人を食ったような態度に凍亞は気分を害したのか、クライエルを睨みつけた。
「……くっ、ならば貴様も異端だ……私は組織の名において貴様の存在を抹消する」
「そうですか〜。残念ですね。やはり人間はわかり合えない生き物だということですか。ああ……悲しいです。悲しいですねぇ」
 クライエルは体をくねらせて、顔を歪めて、全身で悲しみを表現している。
「ごたくはいい……さっさとかかってこい」
 桐見東亞は、どうやら天使とは徹底的に敵対する姿勢を一貫するようだ。天使というのはそれほどまでに脅威な存在なのであろうか。
 凍亞の言葉を受けてクライエルは失笑するように吹き出して、
「うふふ。何を勘違いしているのですか? わたくしはあなたと争いをしに来たわけではありません。用があるのは――久遠九縁さん、あなたです」
 クライエルは久遠の方に視線を向けた。
「えっ、ぼ……僕が」
「どうやら悪魔はあなたを狙っているみたいです。ですから久遠さんに協力してもらって悪魔の居所を掴んで退治しようと思っていて……どうですか? あなたの力が必要なんですよ」
 そうやってまたもや久遠を特別視しようとしている。
「でも僕は……」
 言葉が途切れてしまう久遠。
 クライエルは全てを包み込むような柔和な表情のまま語る。
「そういえば、あの神はどうしました? もしかして1人で悪魔を追っていきましたか? だったら悪魔を倒せばきっと彼女も戻ってきますよ。どうです、わたくしに協力しないですか?」
 まるで何もかも見抜いているように天使は久遠の心を揺り動かす。
 眞由那が戻ってくるという言葉に、久遠は天使の元に行きかけた。
 だけど――。
「そうはさせない、天使」
 はじめ、久遠はその台詞を言ったのは桐見東亞だと思った。
 しかしその声は凍亞のものではなかった。そして、この声を久遠はとてもよく知っていた。口調は久遠の知っているものとは随分と違うが、これは、この甘えるような特量的な声質は。
「ま、眞由那――」
 久遠が振り向いた先――階段の付近には、上遠野坂眞由那の姿があった。
「違うぞ、九縁。ワタシは上遠野坂眞由那ではない……アノンだ」
 眞由那の姿をした神、アノンはその立場にふさしく、尊大に構えて不敵に笑っていた。
「……今までどこにいたんだよ、お前」
 あれだけ心配していたのにあっさり登場されて、久遠は少し複雑な気分だ。
「話は後だ。九縁。それより今はやらねばならんことがある」
 アノンは憮然とした声で言うと、天使と凍亞に向き直って――その途端、表情が厳しくなった。
「あらあら。なんだか話がややこしくなりましたね。この調子じゃ話し合いは無理そうです」
 クライエルが天使の微笑を浮かべた。
 そして、彼女が纏う空気が明らかに今までと変わった。
 桐見東亞もその異変を感じ取ったのか、
「ふっ、丁度いい機会だ。ここでお前達2人を削除するッ」
 刀を構えて、クライエルとアノンに対峙する。
「よかろう人間。神の力を見せてやろう!」
 アノンが両手を広げて忍び寄ってくる。
 もはや戦闘は避けられないのか。
「ちょ、待っ……」
 それでも久遠が彼女達を止めようと言葉を発した――瞬間。
 それが合図となって、3人の少女が一斉に跳んだ。
「くっ――」
 まずは凍亞がアノンに斬りかかった――が、アノンはそれを躱し、さらにそれと並行して、アノンは足技をクライエルに向かって繰り出した。
「あらあら」
 天使は笑顔を崩さないままに上体を逸らしてアノンの蹴りを避ける。
 だが、避けた地点を狙って桐見凍亞が、クライエルに剣での突きを入れる。
 しかし天使はジャンプして避けて、勢い余った凍亞の体を踏み台にする形で蹴り飛ばした。
「うわっ、わっ、わあああっ」
 凍亞はバランスを崩して地面に転がっていって――勢い余ってそのまま階段を転げ落ちていった。
 一方アノンは、空中へと跳んだクライエルに隙をみつけて、クライエルが地面に着地するタイミングを狙って拳を放つ。
 だが――それも届かない。
 クライエルは空中でアノンの腕をからみとって、体に巻き付くように密着し、囁いた。
「いくら神だといっても所詮人間の体を借りているだけのあなたに、生粋の天使である私が負けるはずがありません」
「くうッ――この!」
 アノンが叫んで、クライエルを振り払った。
 そしてすぐに追撃をしようとアノンが拳を振り上げた刹那――。
 なぜか突然――アノンがピタリと動きを止めて、苦しそうに顔を歪めた。
「ど、どうしたんだアノン」
 もしかして何か攻撃でも受けたのかと、久遠はアノンに呼び掛けるが、
「わ、分からない。けど……くっ……思うように体が動かない」
 アノンの動きが次第に鈍くなっていった。
「どうやらあなたはその宿主の体と、いわゆる拒否反応を起こしているようですね」
 クライエルが淡々と推測する。
「きょ、拒否反応だなんて……そんな」
 アノンは言葉を発することすら苦しそうな状態だった。
「お、おい……アノン……眞由那っ」
 久遠は突然の異常な事態に、思わずアノンの方へと歩み寄ってしまう。
 すると、今度は久遠の方に異常が発生した。
「う……?」
 アノンに近寄った途端、久遠はまるで心臓をおさえつけられたかのような胸の痛みを感じた。頭の中で何かが這い回るような頭痛がする。全身のコントロールが効かなくなった。
「くっ……う、あ……」
 久遠の心と体が――壊れた。
「く、九縁……どうし、たんだ」
 アノンが苦しみながらも久遠の異常に気付いたようだ。
「わ、分からない……でも体が、思うように……動かせない」
 久遠は今、アノンとシンクロするかのように身体がおかしくなっていた。
「分からない……なんだ……頭がくらくらする……意識が遠くなっていく」
 一見するとアノンと久遠は同じ症状に見舞われているようだった。
 これには天使も不思議そうに見ているしかなくて、そしていつの間にか戻って来ていた桐見東亞も、この状況を見守っていた。
 だけど状況は変わらない。アノンも久遠も苦しそうに体をフラフラさせている。久遠に至っては言葉すらもう発せない状態で、意識があるのかないのか、ぼけーっと俯いている。
 やがて桐見東亞はこの異様な状況に見切りをつけたのだろうか。
「……なんだか分からないが、私達は勝負でなく殺し合いをしている最中なのだ。だから私は……お前を容赦なく攻撃するッ!」
 そう言って、桐見東亞が剣で串刺しにする体勢で、アノンに突撃した。
「うっ、くぅッ」
 アノンは凍亞が向かってくるのに気付くが、避けたくても体が動かない。
 そして、まさに凍亞の剣が眞由那の体に突き刺さろうとした時――。
「フ、ハ、ハァ……そんな事、させるかよォ。くはははぁッ!」
 という声を挙げ、剣を素手で掴んで、それ以上の凍亞の進行を止めていた。
「なっ、何をやっているのだッ貴様はッ!」
 凍亞は、その人物のまさかの行動に愕然としている。
 彼女の攻撃を止めたのは――久遠九縁だった。


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