アンノウン神話体系
第5章 決戦前小景
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
―― 幕間劇 2 ――
ここは、とある廃工場だった建物の、地下にある一室。
そこには一見何の特徴もなさそうな成人男性が、荒い呼吸を繰り返して部屋の隅にうずくまっていた。
「クッソォッ……あのガキの……あのガキの血さえあれば俺様だってッ」
その男性は、人間が想像することすらできない場所から来た悪なる存在。分かりやすく言うと、魔界から来た悪魔――グラットン。それが人間の姿をかたどったものである。
彼は自分が悪そのものという、この世界の理から反した存在で、且つ曖昧で不安定な存在であるが故、だからこそ人間世界に少しでも普通の一般人に見えるように平凡で特徴のない姿をとっているのだ。
「グ……グハァア……ア」
そんなグラットンは今、瀬戸際に立たされていた。生死の境をさまよっているのだ。
だが彼にも目的はあった。彼は魔王の血を手に入れるためにこの町に来た。それは単純に彼が魔王の力を手に入れたかったからではない……彼は魔王復活を悲願としていた。自分の体を使って魔王をこの世界に再誕させようとしていたのだ。
「しかし……駄目だ……ダメージが酷すぎる。供給させる魔力も既にない……もう終わりだ」
魔術結社の男女2人組に工場を破壊され、グラットンに魔力を供給させるための装置も完全に潰された。彼自身もここまで深傷を負い、もはや為す術はない状況だ。
グラットンは何を想っているのだろうか、壁を背にして地べたに座り込み、己の死を感じた。
「あぁ――すまねぇなあ、魔王さま……」
息を吐くようにそう呟いて、意識が薄れていくままにしていると――。
部屋の中央に、眩しく輝く光が突如発生した。
「……」
もはや驚く気力も残っていないグラットンは、直視していられないような真っ白の光の中心を虚ろな瞳で眺めていた。
すると、光の中から何のシルエットが現れて、
「あらあら、随分手ひどくやられたものですねぇ」
それは場違いなほどに、ひどく穏やかな声で言った。
「な、んだ……お前か。まだ……いたのか」
徐々に光が収まり、シルエットの姿が確認できるくらいまで再び辺りが暗がりを取り戻していくと、グラットンは憎らしげに捨て吐いた。
姿を現した者は、金色の髪に真っ白のローブを身に纏う、背中に大きな翼を生やした存在。
嘆きの天使・クライエルだった。
「あらあら、そんなに怖い顔しないで下さいよ。わたくしはあなたに敬意をはらっているのです。一介の下級な悪であるあなたが、人間界にいる1人の少年の中に悪なる血を見いだし、しかもそれがあの魔王の血だと仰る……どうしてそんな事が分かったのですか? 根拠は?」
その声は穏やかだったけど、質問を拒むことのできない容赦のなさがあった。
「ケッ……貴様、なんかに……教えてたまるかよ」
しかしグラットンはあくまで天使に対して隙をみせるつもりはない。
「ひどいですねぇ。それが命の恩人に対して言う台詞ですか。悲しいですねぇ」
確かに先程、絶対絶命だったグラットンを間一髪のところで救ってくれたのはクライエルだった。あのままだったら確実に死んでいた。
「オ、レは……天使なんかに助けを請うくらいだったら……死を、選ぶ」
これは嫌味でもなんでもない。天使が悪魔を助けるなんて自体恐ろしすぎる。
「そうですかぁ? でもあなたには達成すべき目的があるのじゃないのですか? こんなところで死ぬのがあなたの本望ですか?」
「……クソッタレッ」
「あらあら、言葉遣いが悪いですよ。仲良くやっていきましょうよ。ほら、わたくしに敵意がない事を今から証明してみせますよ」
クライエルはゆるやかにグラットンの元まで行くと、血まみれの頭に手を置き目を閉じた。
そして――クライエルが祈るように、口の中で何かを呟き始めた。
すると2人を中心に周囲が淡い光に包まれ、更にグラットンの傷がみるみる塞がっていく。
グラットンは体力をすっかり回復すると、静かに立ち上がった。
「……馬鹿か。どこに天使と悪魔が仲良くするような話があんだよ」
ボロボロになったスーツを整えながら、グラットンはクライエルを嘲笑するように言った。
「わたくしは善なる象徴そのものです。それに天使は争いを好まないものですし、宿敵の悪魔といえど見殺しにすることなんてできないでしょう?」
それは本心か、それとも仮面なのか、分からない顔でクライエルは歌うように語った。
グラットンにはこの天使が何を考えているのかさっぱり分からなかった。そして彼は単純に疑問を感じたから、だから訊いた。
「……そもそもお前達は傍観者であるはずなのに、なぜこんな辺鄙な極東の地まで来たんだよ。お前の目的はいったい何だ?」
「あなたに目的があるように、わたくしにも思うところがあって来たまでです。それだけです」
この世界に来るということは、それだけで世界の理に反する重罪なのだ。それを天使の立場であるクライエルが堂々と地上を闊歩している。この町は元々魔力が集まるスポットとしてその土壌はあったのだが、それでも今のこの状況、何から何まで異常なのだ。
「それで、グラットンさん――あの少年の中に悪なる王の血が流れているというのは間違いないのですね? あなたはそれを手に入れて――魔王になるつもりなのですね?」
クライエルは笑ったままだけど、その顔にはどこか凄みを感じさせる迫力があった。
「……ああ、そうだ。だけど……お前がそれを知ってどうするっていうんだよ……まさか」
思わず怯みそうになったグラットンは、思い切り目つきを悪くしてクライエルを睨みつけた。
「いえ〜、特にどうという話ではありませんが……うふ。これはなかなか面白い展開になってきました。うふ、うふふふふ」
すぐに柔和な調子を取り戻して、クライエルは何を考えているのか分からないような笑顔を保ち続ける。
「……ちっ。貴様こそ、異端じゃねえか」
そう言い残してグラットンはその場を後にした。
チカラが回復した際、彼は感じ取ったのだ。この廃墟に強いチカラを持った者が近づいて来ている。そしてそれは恐らく、彼がこの町に来てからずっと自分を狙ってきている神を名乗る者。しかしそのチカラは神というより、むしろ自分寄りのもので、つまり彼女は正体不明の不審者でしかない。
だけど、どっちにしても関係無い。なぜなら、その神と一緒に――悪なる王の血が近づいて来るのを感じるのだから。
これはグラットンにとってまたとないチャンスで、恐らくこれが最後の戦いになるだろう。