アンノウン神話体系

第2章 神やら悪魔やら天使やら魔術師

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4

 
「悪魔に天使に謎の組織……そして神。これから僕達どうなるんだ」
 眠れない久遠は暗い部屋の中でこうなってしまった経過を考えていた。
 ことの起こりは夜中の外出。その時、既に眞由那は眞由那でなくなっていた。全ての原因は眞由那に……いや、アノンにある。
 彼女は悪魔を倒す目的があると言っていたが、その悪魔を倒せば果たしてこんな日々からは抜け出せるのだろうか。
 久遠は迷っていた。アノンに任せて今のこの状況をただ静観すべきか、それとも自分が何か手を打つべきなのか……。
 しかし常人の想像を遙かに超えた非現実の連続に、果たして久遠九縁の入り込む余地はあるのか……。
 そうして久遠は答えのでない自問自答を繰り返す中、次第に眠りの世界に入っていく。
 ……だけどその時だった。
「っ……また、音が……」
 隣の眞由那の部屋から物音がするのを聞いて、久遠は瞬時に意識を覚醒させた。
 とっさに時計を確認する。0時23分。それは連日連夜、眞由那がアノンとなって町を徘徊する時間帯。
 まさか、もしかしてまた、アノンは悪魔との戦いに出向くのだろうか……。
 隣の部屋から窓をガラガラ開く音が聞こえた瞬間に、久遠はいてもたってもいられなくなり、思わず自分の部屋の窓を開け、眞由那の姿を確認するためベランダに飛び出した。
 と――。
「んにゃ? どーしたの、九縁? っていうか起きてたの?」
 そこにいたのは、今まさにベランダから屋根の上に上がろうとしている眞由那の姿であった。
「な、お、お前……眞由那か?」
 折りたたみハシゴに片足を載せた少女は、栗色の髪にブラウンの瞳。そしてだらしなさそうなその表情は、久遠の知る上遠野坂眞由那のものだった。
「うん? そりゃ私だけど……どったの? 九縁」
 落ち着きのない久遠を心配するような瞳で見る眞由那。
「あ、いや……別になんでもないんだけど……いや、お前こそ何しでかそうとしてるんだろうと思って」
 久遠は眞由那が眞由那であったことにひとまず安心したが、しかし今度はどうして眞由那が夜中に屋根の上に登ろうとしているのかが気になった。
「うん。なんかちょっと今夜は月が綺麗だなって。だからちょっとお月見しようと」
 単純且つ明快な答え。眞由那らしいと言えば眞由那らしいと、久遠は安心した。
「お月見って、まだ5月だぞ」
 呆れるようにかぶりを振る久遠。
「ちっちっち……私は季節なんかに囚われないフリーダムな乙女なのよ。どんな既存概念にも私は当てはまらないっ」
 相変わらず電波的な言葉を発して、眞由那ははしごを登って屋根の上に上がっていった。
「あっ、こら……落ちたらどうすんだよ」
「大丈夫だよ。よかったら九縁もどう?」
 上から顔を覗かせて、眞由那が久遠を誘う。
「……ったく、しょーがねーな」
 と、仕方ないので久遠も眞由那の後を追い屋根を上がった。
 屋根の上に上がると、そこはまるで展望台のような幻想に包まれた場所で、大空に広がる星々を見上げる眞由那が神秘的な存在として久遠の目に映った。
「やぁ、九縁。よぉこそ私のリトルガーデンに」
 久遠に気付いた眞由那が両手を広げて自分の世界を紹介する。
 星々の光により淡く光る眞由那の顔を見て久遠は、なるほど確かにこういうのも悪くないと、そんな事を思った。
 今日は満月で、とても綺麗な月だった。
 久遠はしばらく何も言えずに、ただその小宇宙を全身で感じていた。
 神とか悪魔とか天使とか、久遠の知らなかった世界と同様に、この景色も今まで知らずに生きてきた。でもこの素晴らしい世界はこんな身近にあった。認識しようと思えばいつだって分かるものとして存在してるのだ。
 久遠はそんな事を想いながら、眞由那に語りかけた。
「眞由那……お前さ、まだ学校に行くつもりはないのか?」
 ちょこんと座る眞由那の隣に腰を落ち着ける久遠。
「学校? ……行かないよ私、そんなとこ」
 眞由那は、決まりきったような事を聞くなといったように軽く答える。
「でも眞由那……このままずっと家に引きこもってたって絶対よくないって」
「ううん、大丈夫だよ……だって私は神様なんだよ。もう何もしなくたって平気なの。将来の事も今の事も何も考えなくていいんだよ」
 眞由那はアノンに体を乗っ取られている事を知らないけれど、自分が神だということは自覚している。眞由那はその事をどう思っているのか、久遠には分からない。でもこれは言える。
「それは違うぞ、眞由那」
「え――なにが?」
 力強い久遠の言葉に、眞由那はとぼけた顔をした。
「眞由那。お前は……最近どこか体に変なところとか感じたりしてないか?」
 久遠は眞由那に尋ねる。彼女の体の異変について。
「平気だよ。前も聞いてなかった? 心配性だね、九縁は」
 はにかむような笑顔を向けて眞由那は言った。
「でも……意識をなくしたりするんだろ?」
「それはきっと、神様が私の体を使ってるからだよ。私の知らない間に」
 さも当たり前のように、眞由那はそれを口にする。
「眞由那……知ってたのか? それは冗談とかじゃないんだぞ。本当の本当に……お前はそれを分かっていたのか?」
 久遠は真剣な顔をして眞由那を見る。
 眞由那は久遠の迫力に気圧されたのか、本当の事だと悟ってくれたのか、真面目な表情になって口を開いた。
「やっぱりそうだったんだ……分からないけど、何も覚えていないけど、でもそんな気はしてたんだ。感覚で分かったんだ」
「じゃあお前は何も知らないし覚えていないんだな。何があったのかを」
「うん……知らないけど……ねえ、九縁。何かあったの……私、何かしたの?」
 眞由那は怯えるような、泣きそうな顔で久遠を見つめた。
 口ではあんな事を言っているけれど、やはり不安だったのか。自分が知らないところで、自分が行動している。その恐怖はきっと久遠には分からないだろう。
「……いや、お前は何もやってないよ。心配すんな眞由那。でも神だか何だか知らないけど、そんな奴すぐ追い出した方がいいぞ」
 眞由那を心配させまいと、久遠は敢えて詳しい事は話さなかった。
 眞由那を守るのは自分だから。
「……」
 それきり眞由那は黙り込んだ。寂しそうな笑顔で下を向いている。
 久遠は眞由那の頭に手を置いて言った。
「そういえばさ、眞由那。覚えているか? そういえば昔もこんな風に屋根の上で月を見てた事があったよな」
 ここで話題を転換する。そうするのがいいと久遠はなんとなく思ったから。
「うん、そうだね。あの頃は九縁と……あとお姉ちゃんも一緒にいたよね」
 寂しそうな視線を町の遠くに向ける眞由那。
 瞬間、久遠は自分が失言したことに悔いた。
 上遠野坂美優。眞由那の姉であり――久遠が密かに焦がれていた人物。
 そして彼女はこの世にはもう。
「……そんな顔しないでよ、九縁。私はその事についてはもう平気なんだから」
 上遠野坂美優は今年の初めに父親と共に交通事故で亡くなった。
 それから暫くして、春休みに入った頃から眞由那は自宅に引きこもるようになった。それは高校に進学してからも続いて、1ヶ月が経った現在に至る。
「眞由那、僕は君を守るってあの時から決めたんだ……かつて君が僕を救ってくれたように、僕が君を」
 それは久遠の生き甲斐と言っても過言ではない。
「九縁……私は九縁のその気持ちだけで充分嬉しいよ。でも、九縁がそんな事考える必要なんてないんだよ。私は大丈夫だから。だから九縁は九縁の為に生きていいんだよ」
 眞由那は笑った。長い栗色の髪が星々の輝きを吸い込むように光っている。
「眞由那。そんな事は分かってるよ。お前は気にしなくていい。僕がしたいだけだからやってるだけだ。僕はそうする事で救われるから」
 交通事故の会った日、眞由那を守ると決めた日、久遠が生きる意味を見いだした日。
「駄目だよ、九縁。生きる意味は他人に求めるものじゃないよ。自分の人生は自分の為にあるんだよ。だから九縁は私から早く自立しないと駄目なんだよ。だってもう九縁は1人でも大丈夫だから。そして……私も1人で大丈夫だから」
 なんとなくアノンがするような表情になって、眞由那は遠い目を空の彼方に向けた。
「……分かったよ。僕はただお前を危ない目に遭わせたくなかっただけだ……それだけ分かってくれたらいいよ。眞由那まで失いたくないから」
 上遠野坂美優の分まで彼女を守ると、美優と約束したから……。だから久遠は、やらねばならないのだ。たとえ相手が天使と悪魔と秘密組織と……神であっても。
「……美優ねぇ」
 久遠は夜空を眺めながら密かに決意を新たにする。
 ――その時だった。
「くぅっ――ううっ!?」
 眞由那が突然、表情をなくして俯いた。苦しそうにうめき、その肩が小刻みに揺れる。
「ど、どうしたんだ! 眞由那!」
 あまりに突然の異常に久遠が体を支え呼び掛けるがしかし、眞由那は何のリアクションも返さずただ震えている。
「眞由那っ、おい眞由那っ!」
 眞由那の異常に久遠は気が動転する。眞由那、眞由那、眞由那。どうしたんだ眞由那。
「ぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ…………」
 眞由那は頭をグラグラさせて、息を荒くして、そして――。
「……ああ――もう大丈夫だ。眞由那くんはいないよ。ワタシだ、神だ。アノンだ」
 再び顔を上げて久遠を見つめた少女は、眞由那であって眞由那でなかった。
「ア、アノン……か」
 久遠は険しい表情で少女を睨みつける。
 しかし彼女は素っ気ない態度で夜空を見上げていた。
「ふむ、なかなかいい眺めじゃないか。気に入ったよ」
 黄金色の絹のような長髪。大海を内包したような瞳。悔しいけれど、彼女はこの景色にすごく溶け込んでいるなと久遠は感じた。
 神でも星空の光景に感動する者なのか、アノンは気分が高揚したかのように表情を綻ばせて、熱心に上空を見つめている。
 そして目を輝かせながら語る。
「この世界はとても美しいところだ。ワタシがこれまでいたどの世界よりも不便で、一般人は無力といっていい程に特別な力を持っていない。だけど――その分、団結している。知恵がある。安寧を保っている。この世界は笑顔で充ち満ちている。ワタシは……割と好きだぞ」
 アノンの言わんとしている事が久遠には分かりかねたが、この世界で……いや、その体で彼女をこれ以上好き勝手させるわけにはいかなかった。
「なにしたり顔でくつろいでるんだよ……お前今日はずっと出てきてるじゃないか。その体は眞由那のものなんだぞ」
 眞由那の苦しそうな姿を見ていた久遠は、神に対してもはや負の感情しか抱いてなかった。
「まぁまぁ、いいじゃないか。減るものではあるまいて。はっはっは」
 おどけるような声を出して快活に笑うアノン。
 久遠はその脳天気な態度に、無性に腹が立った。
「なんだよ、それ。いいわけないだろ。眞由那の体は眞由那のもので、お前は関係ないんだ」
 アノンの傍若無人ぶりに声を荒げる久遠。
「……どうしたんだ、九縁。なんだか随分ご機嫌斜めじゃないか」
「誰のせいだと思ってるんだよ。全部お前のせいじゃないか」
「ワタシのせいだと? 何を世迷い言を。ワタシがいなければ今頃どうなっていたか分からないのか?」
 アノンは本当にわけが分からないといった顔で久遠を見る。
 それに対し久遠は余計に怒りのボルテージが上がって、
「分からないよそんなのっ、そもそもお前が来なければこんな事に巻き込まれなかったんじゃないのかっ」
 久遠はとうとう爆発した。どうしようもない神が許せないのだ。
「ど、どうしたのだ……九縁」
 さすがのアノンも狼狽しているみたいだった。
「返せよっ、それは眞由那の体なんだぞ! お前が好き勝手使っていいもんじゃないんだぞ!」
 すると久遠は、半ば食いかかるようにして眞由那に問い詰めた。
「だ、だがワタシは上遠野坂眞由那から許可は頂いている……」
 半ば泣きそうな顔をして、アノンは取り繕うようにいいわけする。
「そんなの嘘だ、眞由那は何も知らないぞ。お前の事をっ」
「いいや、本当だ。彼女はワタシについての記憶はないが、もしワタシの存在を拒否すればワタシはすぐにでもこの体から追い出される。そういう仕組みなのだよっ」
 久遠もアノンもお互い引くつもりはまるでない。
 アノンはこれで話は終わりとばかりに仰向けに寝転がって、髪を掻き上げて言った。
「……とにかく今は悪魔の探索をしなければならない。まぁ見逃してくれ」
 という、アノンのその言葉に――久遠はとうとうキレた。
「そんなの関係ねえよ。返せよ、それは眞由那のなんだぞぉ!」
 久遠はおもむろにアノンにつかみかかる。
「うわっ、ちょ……何をするのだ、貴様っ」
 突然の久遠の突進に、アノンは驚きを隠せない様子でうろたえる。
「うるさいっ、返せ、眞由那を返せっ!」
 屋根の上で転がるように、2人の体はもつれる。
 久遠は必死だった。こんな事になってしまったのは全部アノンのせいなんだと責任を押しつけたかった。
「うわああ! くそおおああああぁぁ……」
 久遠は無我夢中でアノンの両肩をがっつりと掴んで揺さぶる。
「お、おいっ。やめろ、久遠九縁っ、落ち着くのだっ」
 久遠に揺すられるアノンは、困惑した顔で彼を諭そうとする。
「うるさいっ! その話し方をやめろっ! そんなのは眞由那の言葉じゃない!」
 久遠はアノンの体に抱きつかんばかりの形になって、それでも決して離さなかった。
 何もできない自分が悔しかった。どうにもできない状況が憎かった。何もかも奪っていったのに力だけは持っているアノンが憎かった。
 そうだ。アノンが全てを奪っていった。
 眞由那がわけ分からない事を口走るようになったのも、眞由那が部屋に引きこもるようになったのも、眞由那の父親が……そして美優ねぇが交通事故で亡くなってしまったのも。
「ううっ……うああ……」
 アノンに掴みかかっていた久遠はやがて力尽きた。嗚咽をあげてぐったりする。
 そして唐突に久遠の視界が暗くなった。同時に、顔に柔らかいものが当たるのを感じた。
「久遠九縁……もう満足したか」
 久遠の頭のすぐ上から眞由那の――アノンの声が聞こえる。
 どうやら久遠はアノンの胸の中に埋もれているのだ。
 彼は無力なのだ。
 久遠は抵抗することなく、ただ身を任せていた。
「本当は、僕が原因なんだろ……」
 そしてようやく落ち着きを取り戻した久遠が擦れた声で呟いた。
「……」
 アノンは久遠の問いかけに何も答えない。 
「変な転校生や天使が言っていたから分かるんだ。答えてくれ、アノン。ここ最近の異常は僕のせいで起こってるんだろ?」
「ああ、そうだ……お前は特別なんだ」
「特別って……」
 立て続けに起こっている妙な事件はアノンのせいだと確信していた久遠だったが、これは全て自分のせいなのだとしたら。無力な上に悲劇を起こすだけの存在だとしたら。
 アノンは無情に、残酷な真実を、きっぱりとした声で久遠に伝えた。
「君には悪なる血が流れている」
 それは有無の言わせぬ、容赦のない声。
「あ、悪なる血……?」
「つまり悪魔の血が流れているということだ」
「あ、悪魔……の血? ぼ、僕に?」
 あまりに突飛な答えに、久遠は言葉を失った。
「そうだ。なぜ君にそんなものが流れているのか詳しい事は分からないが、悪魔の子孫であるか、それとも祖先の者が悪魔と契約を交わしたのだろう」
 黙ったままの久遠に追い打ちをかけるようにアノンが説明する。
「……そ、そんなの信じられない」
「信じなくてもいいさ。ただ、ワタシがここにいるのは君のせいだとも言えるのだよ。本来この世界はワタシ達、神や天使や悪魔などの存在がない状態で完成されている。だからワタシ達がいる余地はないのだ。でも君みたいな特異点があるから……そこに異物が入り込む余地が生まれる。そしてこの町にいる悪魔も例外ではない。奴は君の血を狙っているのだ」
 悪魔が狙っているのは久遠九縁――。その事実を聞かされて、久遠は胸を打ち砕かれそうな気持ちになる。
「あ、悪魔の目的が僕……? あ、悪魔は魔王を復活させようとしているんじゃ」
 もはや何もかも信じられない。久遠の世界は根底から覆されている。
「そうだが……悪魔の考えている事はワタシにもよく分からない。奴にとってこの行動は、世界そのものを敵にまわす、言わばほとんど自殺行為と言っても同義であるはずなのに」
「その……世界がどうとかって何の話なんだ? まるで世界自体が意思を持ってるような……」
「持っているのだよ。世界は君の知っているここだけじゃない、数限りなく無限に存在している」
「えっ――?」
 もう何を聞かされても驚くことはないだろうと思っていた久遠だが、これには目を丸くさせるしかなかった。
「神がいる世界。悪魔がいる世界。君みたいな普通の高校生が当たり前のように魔法を使う世界。いくつもある。そしてこの世界にはそういうものはない。だが――概念というカタチではワタシが知っているどの世界よりも多種多様な力で溢れている。物語という一つのカタチで存在を許されているのだ。本当に……不思議な世界だ」
 我々が非日常と呼んでいるものが日常の世界。それが幾重にも広がっている。久遠からすれば信じられないような世界だろうと思うが……同時に、それらの世界の住人も久遠のいる世界を知れば同じ事を思うのだろう。それが世界の在り方なのだ。
「そしてここは神や悪魔が現実にいるはずのない世界だ。そんな場所にワタシ達がいれば世界の構成がおかしくなってしまう。辻褄が合わなくなってしまう。確かに君の言う通り――世界には安定を保とうという意思があるのだ。誰かはそれを運命とも呼ぶ。そしてその力にはワタシ達ですら逆らえない。世界を脅かせば意思によって淘汰されてしまうのだ」
「それで悪魔も命がけでこの町で色々やっているってわけか……」
 自分が悪魔の血を引いているかもしれないのに、それどころじゃないのに、久遠はアノンの話に自然と耳を傾けていた。
 しかし、それからアノンはぱったりと口を閉ざしてしまって。
「おい、アノン――」
 と、久遠がアノンに呼び掛けようと顔を見たら――今まで穏やかな瞳で語っていたアノンの顔つきが、曇っていた。
「ど、どうしたんだ?」
 そのただならぬアノンの様子に、久遠は心配して声を掛ける。
 するとアノンは興奮したように目を見開いて言った。
「いる……反応を感じた。ヤツだ、本体が近くにいる」
 アノンは厳しい顔をして視線を街並みの遠くの方に向けた。街灯や家々の灯りが頼りなげに点在する遠くを。
「ヤツって……悪魔か? 悪魔がこの近くに……ほんとかっ?」
 答えの代わりにアノンは、口元をにやりと引きつらせて不敵に笑った。そして彼女は、
「そうだ。とうとう本体が動き出したってわけだ……今夜、ワタシはヤツを狩る」
 宣言した。この町に来た目的の対象と決着をつける刻が訪れたのだ。
 満月の下、一連の事件に終止符を打とうとする少女を見ながら久遠は、
「なら――僕もついていく」
 自然とその場で立ち上がって、アノンに伝えた。
 自分は悪魔の血を宿していてそれどころではない状況かもしれないのに。そもそも悪魔はこの自分が目的であるかもしれないのに。
 それでも彼は――。
「これは僕の問題でもあるんだ。それに……大事な眞由那を1人で行かせるわけにはいかない」
 そうでないと……美優ねぇに顔向けなんてできないのだから。
 アノンは思案する顔を見せていたが、すぐに久遠の目を見据えて言った。
「そうだな……この世界にとってワタシの存在は異端。なら排除されるべきはワタシや悪魔の方であって、君はむしろ世界から加護されている……だったら君を連れて行った方がメリットはあるわけか……」
 アノンの言葉の意味は久遠には分からない。しかし久遠は尚も力強くアノンを見る。
 やがてアノンは観念したように薄ら笑いを浮かべた。
「分かった。だが気をつけるのだぞ。今度の敵は今までのとは訳が違う。安全は保証できない」
「ああ……そんな事は初めから承知だ」
 そしてそれが百害あって一理ない、馬鹿げた行動であるかもしれないことも重々承知だ。ただ久遠は誓った。もう大切なものを失わないと。自分の前から消え去るところを見ないと。
 そんな久遠の気持ちを読み取ったのか、アノンは不敵に不遜に笑うと、月夜をバックにしてまるでオーケストラの指揮者のように優美な雰囲気を身に纏って、言った。
「では行こう、悪魔狩りの始まりだ」
 2人は幻想と化していた屋根から下りて日常に回帰し、そしてもっと色濃い幻想を目指して走った。


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