アンノウン神話体系

第2章 神やら悪魔やら天使やら魔術師

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

5

 
「って、学校っ?」
 目的の建物を前にして、久遠は思わず声を上げた。
「そうだ、この建物の中に奴の気配を感じる……どうやら奴も九縁の存在に近づいているらしいな。君への手がかりを探しているのだろう」
 アノンは澄ました顔で闇と同化する学校を眺めている。
 そう、2人が辿り着いた場所は久遠が通う高校だった。
 久遠は息を呑んで、緊張を露わにする。これから悪魔との決闘が始まるのだ。
 否応なしに足が竦む。アノンは平気なのだろうか、と久遠が横を見ると。
「さぁ、行こうか。九縁」
 アノンは久遠の事などおかまいなしに、校門を乗り越えてさっさと歩いて行った。
「って、ちょっとは警戒して行けよっ!」
 その大胆不敵さに久遠は呆れて、そして緊張の糸も切れてしまって、仕方ないので彼も校門を乗り越え校舎の方へと向かった。
「遅いぞ、九縁」
「お前が何も考えずにさっさと行くからだろ。作戦とか何もないのかよ」
 先に校舎の前に着いて立っていたアノンに追いついた久遠は、彼女をたしなめる。
「フン、作戦なんて無用だ。このワタシを誰だと思っているのだ?」
「そうっすね……なんだって神様なんだもんね」
 久遠はもう半ばヤケクソ気味になって、アノンと共に深夜の校舎へと踏み込んだ。
 中は真っ暗で、窓から差し込む月明かりだけが頼りの、陰鬱な空間だった。
「やっぱ夜の学校って相当怖いな……まさに別次元だ」
 月並みな感想を述べながら2人は下から1階ずつ確認していく。
「この階も駄目だったか……」
 3階まで調べ終わって久遠は溜息を吐く。本当にこの校舎の中に悪魔がいるのかも疑わしくなってきて。
 そんな時だった、悪魔が唐突に現れたのは――。
「ヒャハハハハッッ! 魔王の残滓を感じ取ってぇ俺様が直々に来てやったわけだけどぉ、超ラッキーじゃん! まさか目的の人物にいきなり出会えるなんてなぁ!」
 それは一見何の変哲もない成人男性だった。スーツを着た中肉中背の、どこにでもいるような20代後半の男。それが久遠の印象で、男に敢えて特徴があるとするならばその男は……あまりにも普通であまりにも特徴がないから、それがもはや個性に見えた。
「ようやく会えたな……暴食の悪魔、グラットン」
 アノンの口から悪魔の名が語られた。――グラットン。
「ぐ、グラットン……こいつが悪魔?」
「悪魔ァ? ぎゃはは! そうか、悪魔か。なかなかいい響きだ……そうだよ、俺様が悪魔・グラットンだよ。悪魔の名を知るという事はそれだけで意味があるというが……ふふ。だが名前が分かったくらいで勝った気でいるなよッ。……おい、そこのガキ。俺はお前の力を頂いて……そしてこの町を支配してやるよォ」
 見た目は特徴のない男だけど、言葉遣いはやたらと特徴的である。
「ヒャハッ、それじゃさっそくお前の――」
 悪魔・グラットンが久遠に向けて足を一歩踏み出したその瞬間――。
 久遠は閃光のようなものが一瞬走ったのを感じて――その直後に、グラットンが吹っ飛ばされた。
「ぶッッッッぎゃああああーーーーーーーっっっっっっっ!!!!!!????」
 グラットンの叫び声が廊下の暗闇の果てへと消えていく。
 何があったのか分からない久遠はぽかんと口を開けていると、
「グラットン。さっきから大事な事を忘れてないか? 悪魔が神に勝てるわけがないだろうに」
 アノンが指をこきこきと鳴らして不敵に微笑んでいた。
「ア、アノンッ」
 その姿だから未だに馴染めないけど、久遠は改めてアノンの強さを痛感した。
「警戒を怠るなよ、九縁。奴の狙いはあくまで君だ」
 アノンがそう言うが早いか、暗い廊下の端から「ヴオオオオ!」という叫び声と、ドタドタと爆音のような音を立てて久遠達に近づくものがあった。
「ちっ……異端の神め。俺様の邪魔をするモノはぶっ殺してやる!」
 グラットンは怒りの形相を顔中に作って突進してくる。
「う、うわっ」
 怯えて後ずさりしてしまう久遠だったが、アノンは相変わらず落ち着いた口調で、
「慌てないで。ワタシにとってこんな奴は造作もない相手なのだから」 
 と言って向かってきたグラットンに対して微動だにせず、
「今度はこっちからいく番だな」
 ただ笑って待ち構えていて、そして神と悪魔が交わった。
 ……久遠はこの時初めて、神・アノンの実力を思い知る事になる。
 まさしくそれは――一方的な虐殺だった。
「ごぼぉっ、ぐべぇっ、ぐがっ。どっ、ぎゃっ」
 久遠の目に映っているのは、スーツ姿の男性がまるで1人で踊っているかのような姿だった。
 それはいびつな踊り。恐らく見えない敵から四方八方攻撃を受けているのだろう。全身の骨が抜き取られているみたいに、ぐねぐねと体をのたうちまわせている。
 アノンの姿は見えないが……ただグラットンの周囲に突風のような、アノンらしき残像が縦横無尽に動き回っているのがかすかに確認できる。
 なんていうスピードなんだ――久遠は恐怖を忘れて目を凝らして見ていると。
「ぐぎゃあああっ!」
 上下左右に揺れていたグラットンの体が大きく跳ねて――ガシャン、と近くの窓を突き破って外に投げ出された。
 その下は高さ3階分もある地上の大地。
 グラットンは地面に真っ逆さま――と思いきや。
「くっっそがァアアアアアアアアア!!!! 偽物のくせに生意気なんだよおおおおおおおお!!!!」
 外から声が聞こえてきて、思わず久遠が窓から身を乗り出して見ると――グラットンが校舎の壁を四つん這いで走ってきていた。
「ば、化け物だ……」
 久遠は目の前の男が悪魔であるという事実を初めて実感した。
 まるでは虫類のようないびつな動き。
 久遠はすぐに窓から離れて後方に距離をとった。
 その直後、グラットンが割れた窓から廊下へと飛びこんできて――吼えた。
「貴様の血を一滴残らずもらうッ。徹底的に殺し尽くして絞り尽くしてやるっ!」
 グラットンの気迫に久遠は震えるが、しかしアノンは平然とした態度を崩さなかった。
「無駄だ。もう貴様の実力は充分に分かった。貴様がワタシに勝てるなんてあり得ない」
「やってみなくちゃ分かんねぇだろーーーーッッ!!」
 グラットンは十指それぞれから鋭い爪を伸ばし――アノンに飛びかかろうとする。
 だが、
「これだから低級の悪魔は困る……どうやら貴様は大人しく地獄に帰るつもりはないようだな」
 アノンは嘯いた。そして――、
「いいだろう、だったらワタシの本気を持ってして貴様を葬ってやろうではないか」
 その刹那、一般人の久遠ですら分かった。アノンから放たれる殺意。それは極限まで圧縮した金属のような、それは極上に煮詰めたスープのような、宇宙の始まりの大爆発のような禍々しいほどに猛々しい暴力と殺戮の波動。
 眞由那の体からその異常が流れている。その事実が久遠には堪らなく辛かった。
「……な、なんだとっ……こんな、馬鹿なっ」
 いままさに飛びかからんとしていたグラットンはすっかり冷静になっていた。落ち着かざるを得ない状況。これは絶対的な被食者としての立場の当然の反応なのだ。
「さぁ、ではいくぞ。グラットンよ。覚悟はいいな?」
 アノンが一種の蠱惑的とも言える顔をして笑って、腕を高く真上に振りかぶった。瞬間。
「―――ッッッッ!」
 グラットンが大きく後方へ跳んだ。開かれた窓の方に――脱出口へと向かって、
 だが――。
「逃がさない」
 アノンの声が聞こえた刹那に、久遠の目からアノンの姿が消えた。だがすぐに彼女の姿が現れて、いつの間にかガッチリとグラットンの足首を掴んでいた。
「ぎゃばああああああああああああ!!!!!! はっ、離せええええええ!!!!!」
 夜の学校にグラットンの叫びがこだまする。その足は肉が千切れそうな程に、形が変わる程に強く握られていた。
「逃がすわけないだろ。貴様を解き放てば即ちこの町の滅びに繋がる。ワタシはここで貴様を消滅させる」
 アノンが確かな殺意を持ってグラットンを冷たく一瞥した。
 久遠は息を呑んで命のやり取りを見守る。
「くう――ぅ」
 グラットンが怯えた目をして震えている。
 そしてアノンが手刀を振りかぶった。グラットンが覚悟を決めたような諦観に似た顔をする。久遠が……小さく息を吐いた。
 そして――少女の死の一撃が振り落とされて、
「うッ……をおおおおおおおおおお!!!!!!!!」
 それよりも早くグラットンが掴まれた己の足を切断し、窓の外へと飛び跳ねて行った。
「な、なにいいいいいっっっ!? 自分で自分の足をっ!」
 久遠はグラットンの狂気の行動に声を上げた。
 アノンはグラットンの切断された足を持ったまますぐに窓の方へ駆け寄った。
「ちっ、逃げ足の速い奴め。もう姿を消したか。にしても……死を回避する為に自らの足を切ってその場を逃げ切るとは。なかなか大した奴じゃあないか」
 さして慌てた様子もなくアノンは窓から校庭を見下ろしていた。
 久遠もそれに続いてアノンの隣から外を見る。そこには生き物の影一つ見当たらない。
「やはりもう気配も消したか。まぁ、このくらい用心深くなければこの地上に出てから今まで生きてこれなかったか」
「あいつの目的は……やっぱり僕なのか。魔王の血とか言ってたけど……」
 久遠は窓から離れ、アノンの方をチラと横目で伺う。なぜか、久遠はアノンのことを直視するのが忍ばれたのだ。
「……魔王、か。まさか君が魔王の直系とは思えないが……どうなのだろうな」
 そうしてアノンは手に持っていたグラットンの左足首を軽く投げた。すると空中でその足は水蒸気のようにあっという間に蒸発して消えていった。
 もうこの学校に用はない。アノンは踵を返して歩き始め、久遠もその後を追う。
「僕はまた見てるだけしかできなかった……」
 下を向いて暗い階段を下りながら、久遠はうなだれた声をあげた。
「足手まといにならなかっただけマシさ」
 励ましているのだろうか、先を歩いていたアノンは一言ぽつりと言って、そして久遠の隣を並んで歩いた。
「ごめん……アノン。僕は眞由那の体を奪ったお前を責めてばっかりいたけど……そもそもは僕が悪かったんだ。僕は何もできないくせに。君になにも言う資格なんてないのに……っ」
 久遠が自分に嫌気がさして何もかも捨てて逃げたくなって――その時、右側に歩いているアノンが久遠の手を、そっと握った。
 包み込むような、とても優しい力加減で。
「……っ」
 久遠ははっと息を呑んで、隣を歩く少女を見た。
「――」
 少女は何も言わず、ただ黙って歩いていた。しかし……心なしかその顔は少し赤く染まっていて、これは照れているんだ――と久遠はすぐに分かった。
 なぜならその顔は、久遠がよく知っている少女のものだったから。同じ表情を浮かべていたから。
 やがて手を繋いだ2人は黙ったまま校舎を出て、学校の敷地外へ出た。
 校門を乗り越えた後、久遠は再びアノンの手を握ろうかと近寄る。
「あ、悪魔にも逃げられた事だし、今日はそろそろ帰ろうか」
 少し照れながら手を差し出す久遠。しかし、アノンは何も言わず、くるりと久遠に背を向けた。
「……って、おい。どこ行くんだよっ、帰らないのかよ、アノン!」
 そのまま家とは反対方向に向かっていくアノンに久遠は叫んだ。行き場を失った右手を伸ばしながら。
 アノンは言った。
「ワタシはこのまま奴を追う。今のあいつを放って置いたら何をするか分からないからな。九縁、君は1人で先に帰ってくれたまえ」 
 キッパリとした、容赦のない声だった。
 アノン。神。彼女は何故そこまで悪魔に固執するのだ。
 久遠を置いて深夜の町に消えていこうとするアノンを、彼は止めた。
「ま、待ってくれ、なんで……なんでお前はそこまでするんだ。神のお前はいったい何の目的でこんな事を……」
「それはワタシが……ワタシこそが1番の元凶だからだよ」
「えっ――?」
 久遠には一瞬、アノンの言った事が分からなかった。けどよく考えても分からない言葉。この事態を招いた元凶は、悪魔の血が体に流れている。アノンはとばっちりでないのか?
「安心していいぞ、久遠九縁。君は何も悪くない。正真正銘の、根本の原因は全てワタシにあるのだ……その罪滅ぼしにワタシはこの町に来た」
 そうしてアノンは、肝心のことは何も説明しないまま、夜の闇へと溶け込んでいった。
 ただ黄色に輝く満月だけが、彼女の後ろ姿を照らしていた。
 久遠は1人、月夜の道をアノンとは反対の方向へ歩いて帰った。


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