アンノウン神話体系

第1章 小さな町の怪事件

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

5

 
 久遠は夕食を食べた後、ずっと自室に籠もって耳を澄ませていた。きっと今晩もあるはずだと確信していた。そして夜が更けて日付が変わろうとする頃、やはり今晩も眞由那の部屋から物音が聞こえてきた。眞由那が動いた。
「……よし、いくぞ」
 隣室からガラガラと窓を開ける音がして、そして外へ出る気配がするのを確認した久遠は素早く玄関から外へ出て、周囲を見回す。すると――。
「いた……眞由那だっ」
 遠くの方に、手入れの行き届いていない長い髪でパジャマ姿の少女の後ろ姿があった。しかし、なんだか普段と雰囲気が違うようにも見えたが久遠は気にしないで後を追いかけた。
 眞由那はまるで夢遊病患者のような足取りでふらふらと進む。意識がしっかりしているのか疑いたくなるおぼつかない緩慢な動き。念には念を入れて久遠は気付かれないように注意してその後を追う。
 しばらく尾行しているうちに、久遠はある違和感を感じた。
「ん、髪の色が、違う……?」
 ふらふら右へ左へ歩いている上遠野坂眞由那の髪。
 久遠がよく知っている眞由那の長い髪の色は、可愛らしい栗色をしている。のだけど、現在彼が追っている少女の髪は、いつもに比べて色素が薄いように感じられた。まるで脱色でもしているかのような、金髪に近い色に見えた。
 しかし別人である可能性はないはずだと久遠は確信している。あの絹のようにサラサラな髪や、やたらと無駄にプロポーションのいいスタイル、あの幼稚なパジャマだって、久遠の知っている上遠野坂眞由那のものだ。
 それに久遠は、眞由那のことを見間違えるはずがないと自身をもって言えた。
 髪の色くらいで久遠は迷わない。だけどその結論が、それが久遠九縁の運命を決定づける事になるかもしれないとは、彼は夢にも思わなかった。
 やがて眞由那が建物が並ぶ曲がり道で曲がって姿が見えなくなったので、久遠は慌てて急ぎ足で追いかけて同じところを曲がる――と。
「あれ? いないぞ」
 ついさっきまで見えていた眞由那の姿がどこにも見えなくなっていた。見失ったか? と久遠は落ち着きを失いそうになったが、冷静になって考える。
 ――まっすぐ行った先に三叉路に別れた道がある。
 チラチラと頼りなく灯る街灯の光が、三叉路の交差する道を照らしていた。きっと眞由那はこの先のどこかに行っているはず。
「こうなりゃしらみつぶしに探すだけだっ」
 久遠は決心して真ん中の道を駆け抜けて行った。
 だけど、走っても走っても眞由那の姿を見つける事はできなかった。
「はぁっ……はぁっ……どこに行ったんだ、眞由那……」
 静まりかえった道で久遠は肩で息をする。
 この町は今危険に晒されているのだ。その中に眞由那は1人でどこかをほっつき回っている。
 きっと今晩も何か事件が起こる――確信に近い何かを久遠は感じていた。
 久遠は息を整えながら眞由那の行きそうな場所を推理しようとして――ふと考えを改めた。
「逆だ……逆に考えればいい」
 つまり、眞由那が行きそうな場所ではなく、今夜事件が起こりそうな場所を推理しようと思い至った。最悪なのは眞由那が何か事件に巻き込まれる事。だったら久遠は、眞由那が巻き込まれる前に、まだ発生していない事件現場まで行ってみるしかないと思ったのだ。
 でもそっちを探す方が大変である。
「一昨日も昨日も血痕の事件があった時のことを考えろ……あの状況。そう、きっと大きな事件があったはず。でもいずれも人目に付かない場所で行われた。きっと、人目につく場所だったらそんな騒ぎできないはず……」
 久遠は探す場所にいくつか目星を付けて再び走った。
 眞由那の足取りから見てそんなに遠くには行ってないはず。
 今いる周辺から思いつく限りの場所を駆け回った。
 しかし――やはり見つからない。
 闇夜に映える月の明かりがアスファルトを寂しげに照らす。住人は事件の事で警戒しているのだろうか、町には人影が全くといっていいほどなかった。動く者といえば、野良猫が目をギラギラ光らせているのをチラリと見ただけだった。
「くそっ……眞由那っ」
 誰もいない町中を走り回るうち焦燥感を覚え始めた頃、久遠は遠くの方に公園があるのを見つけた。
 公園は人目の付かない場所とは言い難い……だけど、その公園の周りには住宅がなく、誰もその存在に気付いてような小さな空間のように見えたからだったから――久遠は迷わず駆けだした。久遠の中の本能的な部分が何かを感じ取ったのだ。
 結果的に言えば、久遠の勘は正しかった。
 誰もいない小さな公園に辿り着いた瞬間に、久遠は思わず驚きの声を上げそうになった。
「なっ――なんだこれは……?」
 想像を絶する光景。
 久遠が見たのはこの世界のものとは思えないシーンだった。それは。
「ば、化け物……」
 それは、公園の中で少女と化け物が戦っている場面。
 化け物――そう。それはまさしく化け物だった。一見すると犬にも見える凶暴そうな獣は、体長をゆうに2メートルは越している真っ黒の獣。
 夜の闇に溶け込み、真っ白の牙を剥く獣は、少女に飛びかかる。
 しかし少女の方はそれをひらりとかわす。
 久遠はもちろん、まずは化け物に驚いていたが――戦っている少女の方にも驚愕を覚えた。少女の動きは人間のそれを超越している。
 ほとんど目で追うのがやっとの位のスピードで、パジャマ姿の少女は金の長い髪を風になびかせながら踊るようにパンチやキックなどの攻撃を繰り出していた。
 怪物は鋭い爪や牙で攻撃するが、少女は紙一重でかわし、カウンターを当てる。
 そして連続でキックを当て、怪物の巨体を空中へ浮かせた。
 それだけでも驚くべき光景なのだったが、その後、さらに信じられない事が起こる。
 怪物が地上に落下しながら少女に向けてどう猛な牙をむいてきた。しかし少女はそれに合わせるように、怪物に向かって空中に飛び上がって――右ストレートを怪物の頭部に繰り出した。
「う、嘘だろ……」
 少女の常識場離れした実力に久遠は開いた口が塞がらない。
 少女のパンチが決まって怪物が地面に倒れた瞬間に、怪物がまるで煙のように消滅していった。
 一方、綺麗に着地した少女は涼しい顔をして消滅していく怪物を見ていた。
 その少女を公園の入り口から眺める久遠は、ここでようやく気が付いた。
「って、待てよ……あれ、もしかして眞由那じゃないのか……」
 少女はあまりにも人間離れした動きを見せていたから気付かなかったけれど、こうして佇んでいる姿を見ると、どこからどう見ても眞由那そのものだった。
 栗色のはずの長い髪はなぜか色あせて、金色に近い色をしていて、さらに瞳の色もうっすらと赤色に染まっていたが――少女は眞由那で間違いない。
「な、なにやってんだよ、眞由那っ」
 少女は眞由那であると確信した久遠は、いてもたってもいられず少女の元に駆け寄った。
「……?」
 少女は小さく首を傾げて向かってくる久遠をただ見つめている。
「これはどうなってるんだ。説明してくれよ、眞由那」
 不安な気持ちや疑問がいっぱいだったが、とにかく眞由那が無事だったことに安堵する久遠。
 だけど眞由那の姿をした彼女は、意外な言葉をかけた。 
「ああ、なんだ……久遠九縁じゃないか。まさか、君に見られてしまうとはね」
 その声は、普段の眞由那のものよりも、ずっと大人びていた。 
「……は、はは。何言ってんだよ。冗談はやめろよ」
 久遠は歩み寄る足をピタリと止めて、苦笑いを浮かべる。
 まるで他人のようなその口調に、久遠は反射的に警戒心を抱く。
「別に冗談で言っているわけではないぞ。つまりワタシは、お前の知っている上遠野坂眞由那ではないということだ」
 それは大胆不敵で、威厳に満ちた声。眞由那とは無縁の話し方。
「ちょ、ちょっと待てよ。意味がっ、意味が分からないっ」
 何がどうなっているのだ? およそ普段の眞由那とはまるで別人のような物言いとその内容にに久遠は泣きそうになる。
 眞由那の姿をした少女は呆れたように頭を振った。
「これだから愚かな人間は困る。そのままの意味だ」
 そのままの意味。目の前にいる眞由那は眞由那ではないという意味。
「えっ、つまりじゃあお前は誰なんだよ……」
 ちょっと髪と瞳の色が違うだけで見た目そのまんまの上遠野坂眞由那。ならこのそっくりの少女は……。
「フン、やはり愚劣なる人間には口で説明しないと分からないようだな。だったらいいだろう特別に我が正体を名乗ろうではないか!」
 謎の少女は不敵に微笑み、闇に映える金色の髪を揺らし、両手をいっぱいに広げ息を吸って――そして、言った。
「ワタシは――神だッッ!」
 高らかに宣言した少女。瞬間、刻が止まった。
「……」
 久遠はあんぐりした顔で脳を回転させる。
 こいつは今、なんて言った? 神。そう、神と言った。神だということはそれは。
「……いや、分からない」
 やっぱし久遠には理解不能だった。
「物わかりの悪い奴だ。ワタシは神だ。この世界の理から大きく外れた超越的存在なのだ」
 少女は綺麗な顔を崩さないままため息を吐いた。
 心なしか、いつもの眞由那と比べて表情もなんというか、凛々しさとか端正さとかそういったものを備えているような気がした。
「え、えーと……なんなんだ? つまり眞由那のそっくりさんのあんたはその……神様?」
 とりあえず一つ一つ整理していこうと、久遠は眞由那っぽい人物に質問する。
「そうだと言いたいが久遠九縁よ。そっくりという表現は正確には間違っている。ワタシのこの体は正真正銘、上遠野坂眞由那のものだ。ワタシの精神が彼女の体をコントロールしてるのだよ」
 夜の闇に金の長髪を揺らめかせ、少女は雄弁と語る。
「コントロールだって? それって、眞由那の体を乗っ取ってるって事じゃないのか?」
 全然穏やかそうな話ではなさそうだ。これは思っていたより深刻な事態なのかも。
「悪く言えばそういう事になるが、勘違いしてもらっては困る。彼女は自らの意思でワタシに体を貸しているのだ」
「み、自らの意思でだって? ど、どうして眞由那がそんなこと」
 いつの間に眞由那は、久遠の知らないところでそんな滅茶苦茶な事をしているんだ。第一引きこもりの眞由那に、そんな機会がありそうに思えなかった久遠。
 神はその立場にふさわしい尊大な態度のままゆっくり語る。
「この街に今、大きな脅威が訪れている。ワタシは――それを解決するために来たのだ」
 神を名乗る少女は胸を張って答えた。
「えと……分かんないです」
 さっきからテンションが対称的な2人。もう久遠はついてけない。
「そうだろうな。君はワタシ達側の存在ではないからな。では……仕方がないからワタシから詳しく説明しようではないか」
 間抜けな顔で見つめる久遠をよそに、夜の公園の電灯を受けながら金髪の美少女はぽつぽつと話し始めた。
「この町には悪い奴がいるのだ」
 頼りない街灯の光に照らされる少女の顔は真剣なそれであった。それは、眞由那がしないような顔。とんでもない話の中身だとしても、妙な説得力を持たせる顔。
「わ、悪い奴……? それはいったい誰なんだ?」
 神とか言ったり、さっきから話が飛びすぎてこれが現実の話だなんて久遠には到底信じられない。
「君もいちいち話の進まない男だな。悪い奴はは悪い奴だよ。そうだな……便宜上ここでは悪魔とでも言っておこうか。君達だったらその方が分かりやすいし……悪魔だったら分かるだろ?」
 やれやれといった感じに両手を上げる自称・神。
「いや、それは知ってるけど……でもそれでも全然分からないよ。その悪魔がなんなんだ。なんでこの町に……」
「うむ……。君は知らないと思うが――まぁ、こうなってしまったら君もこちら側に足を踏み入れたようなものだから話していいか――この町は少し特別でな、そういう者を多く引きつける場所なのだよ」
 そんな話全然久遠は知らなかった。知らずにずっと生きてきた。生まれた時も、そして上遠野坂家に引き取られてからも。
「その悪魔は……ある目的があってこの町にきた。彼は……そうだな、悪魔の王……魔王を復活させようとしているのだ」
 言葉を選ぶようにしてアノンはとんでもない名前を口にした。
「ま、魔王……」
 日常の世界に生きる人間にとってそんな話、一笑して取り合わないものであろう。しかし、それでも眞由那の姿をした神は至って冗談とかそんな空気を微塵も見せずに偉そうに語る。
 だから久遠も反論することなく、むしろ積極的に話を促していく。
「その……さっきあんたが戦ってた犬みたいな奴も悪魔なのか?」
 犬にしてはあまりにも大きく、あまりにも黒く、あまりにも凶暴な、まさに化け物だった。
「いや、惜しいけど正解ではない。あれは使い魔。本体は別にいる。そいつがワタシの追う悪魔だ。と言ってももうだいぶ追い詰めた。名前だって既に判明したし、奴はもう丸裸同然だ」
「追い詰めたって……」
「ワタシは――その悪魔を倒す為に来た。ワタシにはワタシの悲願がある」
 そういう彼女の顔は、眞由那では絶対にできないような強い決意に満ちたものだった。
 少しの間、久遠はその迫力に気圧されたが、やがて再び質疑応答に向かう。
「あんたは悪魔を追ってここに来て、その悪魔は魔王を復活させる為に来た。で、魔王ってのはまぁなんとなく分かるけど……それを復活させるってどうやってそんな事を……」
「魔王を復活させるためには、魔王の血が必要なのだ」
「……で、この町にそれがあるっていうのか?」
 なんとなく要領が掴めてきた久遠は半信半疑で、幼なじみの顔をした神に訊いた。
「……まぁ、平たく言うとそんなところだな」
 何故か神は久遠から視線を逸らして言葉を濁した。
 久遠は神の態度に釈然としないものを感じたが、なにより今やらねばいけないことがある。
「……よし、話は分かった。僕の見解を述べさせてもらうよ」
「ふむ、なんだ。ワタシは体の宿主と君には全面的に友好的にありたいと考えているからな。遠慮せずなんでも言うがよい」
 豊かな胸を張って尊大な態度をとる自称・神に、久遠は小さく息を吐いて――、
「とりあえずそんな馬鹿な事やってないで帰るぞ、眞由那」
 そう言って少女の手を引っ張った。
「って、ワタシの話を聞いてなかったのか! ワタシは神なんだぞ!」
 と、怒っているその姿は、いつもの眞由那そのものの姿だった。やっぱり眞由那は眞由那で、これが悪魔だと言われても久遠には到底信じられなかったのだ。
「ま、別に僕はお前が神であろうがなかろうがどっちでもいいんだ。ただ眞由那が無事でいてくれれば。こんな遊びもどうせすぐ飽きるだろ。その派手な髪とかはどうかと思うけどな」
「いや、だからホントだって! これだから人間はクズなのだ! ちょっと常識から外れた事態に遭遇すると自分に都合のいい解釈で納得しようとする!」
 なにかのスイッチが入ったのか、1人で勝手に盛り上がっている少女。
「あんたが言う事が本当だったら、眞由那の体は現在乗っ取られている真っ最中なんだけど……だったらそろそろ眞由那にその体返せよ。少なくとも僕達と友好的でいたいんだろ?」
 冷静に少女に対応する久遠だが、しかし心の中では半分疑っているのと同時に、半分は信じているところもあった。いや、信じざるを得ない。
 それだけ今夜の出来事は非日常的過ぎたのだ。
 少女は久遠の顔を眺めながらしばらく逡巡すると、降参したように声を絞り出した。
「ふんっ……分かったよ。では戻ればいいのだな? ……いいだろう、今日はもう悪魔の奴も現れないだろうからこの体は返すよ……」
 そして神を名乗る少女は静かに目を閉じて――、
「ちょ、ちょっと待ってくれっ」
 久遠は反射的に少女を呼び止めた。
 本当はまだまだ色々と聞いておきたい事は沢山あるのだが、久遠の口からはとっさに出てきた言葉が――。
「お前……名前はなんて言うんだ」
 自分でも意外な質問で滑稽な質問だと感じた。けれどこの時の久遠にはこれが最善の質問だと感じていた。
「……ふふ。神たるワタシに名前を聞くなんて人間の分際でおこがましいにも程があるが――だが、そうだな。あえて言うとしたら……女神、アノンだ」
 とそれだけ言うと、アノンと名乗った眞由那の体ががくり、と重力に身を任せるように――崩れ落ちた。
「わっ、ま、眞由那っ」
 久遠は倒れそうになるアノンの体を素早く抱きとめた。
「ふぅにゅ〜……」
 どうやら気を失っているらしいアノンは、髪の色もいつもの栗色に戻っていて、おそらく彼女はもうアノンとかいう神ではなくて――自分の知っている眞由那だろうと久遠は思った。
 アノン……アンノウン――すなわち『正体不明』。果たしてそれが本当の名かどうか分からないが、久遠がやるべき事は決まっていた。
「……ったく、しょうがない。背負って行くか」
 久遠の腕の中で寝息を立てている眞由那はあまりに気持ちよさそうな顔をしていたから、久遠は無理に起こす必要もないと考えて眞由那を背負って帰路に着くことにした。
 その夜の月は満月にはまだ程遠い半月で、まるでそれは一つの体の中に存在する2人の少女のようだと、軽い少女の小柄な体を背負いながら、久遠は漠然とした不安を感じた。


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