アンノウン神話体系
終章 覚醒
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
3
「ねぇ、九縁。この人達は……誰?」
クリクリした瞳を瞬かせて、眞由那はきょとんと首を傾げている。
「ま……眞由那……そん、な……どうし、て」
久遠は激しい目眩の中、何重にも重なって見える眞由那を見ることなしに見ていた。
すると眞由那はここでようやく久遠の異変に気付く。
「く、九縁……? ど……どうしたの九縁っ!」
苦しそうに唸る久遠を、眞由那がわけもわからないままに支える。
「ふふ、もう取るに足りませんね……では久遠さん、新世界のために私の一部となって下さい」
天使は勝利を確信した。微笑を浮かべて久遠達に近づいて来る。
もう戦える人間はいない。絶対絶命だ。これが終末の始まりなのだ――久遠は思った。
その時――疾風のようなスピードで久遠と天使の間に入る影があった。
「え……あ、あなたはっ?」
天使が飛び退いて距離をとる。
颯爽と登場した影は、背筋をピンと伸ばし、凛とした氷のような声で、
「どうやら間に合ったようだ」
それは自在に剣と重力を操る冷徹な少女――桐見東亞。
「――凍亞……テメェ、そんな体で何故戻ってきた」
グレイは助けに来てもらったことに、喜ぶどころかむしろ怒っているようだった。
「お言葉ですがそれが私の任務だからです。先輩……よかった、生きて……いたんですね」
凍亞が少し笑ったような顔を見せた。それは注意して見ないと分からない位の笑みで。
「今更のこのこ誰かと思えばあなたですか……わたくしの姿さえ確認できない内にやられたのをもう忘れましたか? 実力差は歴然ですよ?」
天使が嘲るように笑って、剣遣いの魔術師を見据えた。
「関係ない。私はシンジゲートの構成員として――お前を葬り去る」
そう言って凍亞が剣を鞘から抜いて構えると。
「――てよ、凍亞。お前1人じゃ荷が重い。援護くれぇしかできねえが、オレにも格好つけさせろや」
グレイが凍亞の隣に立って、銀色のナイフを手に構えた。
その様子を見てクライエルは心底つまらなそうな顔をして、
「……死に損ないが何人かかかってこようと無駄ですよ」
「――とえ1人でもォ……」
「貴様のような異端に、私達が負けるはずがない」
傷だらけのグレイと凍亞は、天使に立ち向かっていった。
魔術師2人と天使の激しい戦いが行われている中、久遠と眞由那は離れた場所で、依然危機的状況に陥っていた。
「く、九縁っ、これどうなってるの? あの人達なんで戦ってるの? 倒れてる人は大丈夫なのっ? ていうかあの人なんで背中に羽が生えてるのっ!?」
こちらの世界の出来事を何も知らない眞由那は、わけの分からない事態にパニックを起こしていた。ついこの間までは久遠も同じ状況だったのだ。そっち側の世界にいたのだ。
そう考えると、1人の人間にとって世界が反転する事はなんて簡単な事なんだろうと、久遠は朦朧する意識の中考えた。
「……」
そう。久遠はもう限界だったのだ。もはや眞由那の質問に答える事さえできない。
ただ、どうして突然アノンが眞由那から出て行ったのか、どうして眞由那が己の身体の所有権を取り戻したのか、頭の中で疑問がループする。
そしてようやく口から出せた言葉が。
「すぐに、逃げろ……眞由那。ここにいちゃ……危険……だ」
答えなんかどうでもいい。それよりも重要なのは最悪の事態に追い込まれたこと。
眞由那はただの女の子なのだ。眞由那の身を第一に考えなくてはいけない。
「九縁……」
眞由那は久遠を抱く腕に自然と力を込めて、不安げに眉根を下げて瞳を潤ませている。
しかし久遠はもう、何の反応も示さない。まるで糸の切れた人形のようにぐったりしている。
そして眞由那の瞳から涙がこぼれ落ち、久遠の頬に到着した時――。
久遠の中に眠る悪魔の血が覚醒した。
「ぐああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」
眞由那の腕の中でぐったりしていた久遠が突如起き上がって叫び声をあげた。
「どっ、どうしたのっ九縁っ」
眞由那は怯えた顔で立ち尽くした。
戦闘中の魔術師2人と天使までも手を止めて見つめていた。
「は……はははははははははははははは!」
久遠は――覚醒した。
「……く、くくく。ああ〜気持ちいいなぁ〜。爽快だなぁ〜」
久遠は酔っ払ったみたいにフラフラと体を揺らしながらハイになっている。
「……また、悪魔の血が目覚めたようですね」
「先輩、ビルの中の時と同じです。恐らく魔族化です」
「――ちぃっ、厄介な事になったぜ」
眞由那以外の3人は久遠の変貌について知っている。だからいま、彼を最も警戒する。
焦点の定まらない目で辺りを見回し、そしてクライエルに視点を固定すると、
「ああ〜、とにかくこいつらを倒せば全て解決するんだろ? だったら――」
と言った瞬間、久遠は天使の元に移動した。といってもそれは、およそ他の者の目から見れば瞬間移動したとしか思えないスピードだった。
「なぁっ……」
気付けばクライエルの目前に久遠九縁が立つ。狂ったような笑顔を浮かべて立っている。
「早すぎる。なんでこんなただの人間が……」
「――れが魔王の血の力なんだよ……」
久遠とクライエルが向かい合って立つその左右には、凍亞とグレイが傷だらけの体の痛みも忘れて身構え――ていた2人の体が、いきなり地面に崩れ落ちた。
「なぁあああっっ!?」
クライエルが絶叫する。何が起こったのか全く分からなかった。だが結果として、魔術師2人は倒された。そしてそれは恐らく、クライエルの目前に迫るただの少年がやった。
「これであとはアンタ1人だなぁ?」
ごく普通の一般人、久遠九縁は悪魔の如き表情で、狂うように言った。
瞬間、クライエルは生まれてきて初めて恐怖というものを感じた。自分とただの人間との間に、歴然とした実力の差を感じ取った。けれど――やらねばやられる。
「さぁ、どうする? 大人しく俺に倒されるか、戦って俺に倒されるか」
久遠はぐいっとクライエルに向かって挑発する。
クライエルは、覚悟を決めた。天使として誕生して初めての、純粋な、心の底からの本能。
「うぅ……あああああぁぁぁっっ!」
緊張状態に耐えきれなくなったクライエルはすかさず拳を繰り出した。
だがしかし、久遠はその拳を片手で軽く受け止める。そして――、
久遠はクライエルの腹部を思いっきり殴りつけた。
「おぶぅっ……!」
体の形が変形しそうな程の凄まじい威力。
遠ざかりそうな意識の中で、クライエルは今の一撃だけで、確信した。自分には勝てない。
「――だが、まだまだ終わりじゃねぇぜ?」
久遠は、腹を押さえて呻くクライエルに対して、尚も連続で拳をたたき込んだ。
容赦ない連続攻撃。久遠が殴る度にクライエルは痛々しい声をあげ、涙すら浮かべていた。その場の誰もが目を伏せたくなるような光景。眞由那に至っては顔を掌で覆って、泣きながらこの現実を否定しようとしている。
「……うう……ごふっ」
クライエルがボロボロになって、白くて清潔だった衣装もすっかり汚れていて、すがるような瞳で久遠を見ていた。
「なんだぁ? もう終わりかよ? つまんねーな」
久遠はそんなクライエルの頭を片手で掴んで、自分の目の高さにまで引き上げた。
「あぁ……そういえばアンタさっき言ってたよなぁ。俺の中に流れる悪魔の血をアンタが取り入れたら神になれるって」
久遠は何を考えているのか、いきなりクライエルに尋ねてきた。
「な……なにを言ってるのですかっ」
クライエルには久遠の言う事なんて全然分からない。
「つまりこーゆー事だよ。逆に俺がお前を喰らっちまえば、俺が神になるってコトじゃねーのかってよぉ。そんなの、幼稚園児でも分かることだろぉ? 今からどうなるのかも、なぁ?」
「ひ、ひ……ひいいぃぃぃいいいい……?」
久遠の言葉に、クライエルが情けない顔になって力なく暴れ出した。だけど久遠にガッツリ掴まれているので逃れられない。
「こっ、こんなことしてただで済むとっ……や、止めなさいっ! やめてぇっ!」
彼女にはもう、普段のような優しさや慈しみや優雅さや余裕なんて微塵もなかった。
久遠は暴れるクライエルを数発殴って大人しくさせた。
クライエルはもう意識が混濁している。
「はんっ、別に俺は神なんてものに興味はねーが、なんか面白そーじゃねーか。この世界の先にいったい何が待ってるのか気になるんだよなぁ」
久遠がクライエルの顔を自分の顔に急接近させる。久遠は悪人の浮かべる笑みで口元が裂けるくらいに、天使に笑いかけて――。
「……た、たす、け――」
「それじゃ、いただきまぁ――」
「待ってっ! 九縁ッッッッ!!!!!」
久遠を呼び止める少女の声が響いた。
まだあどけなさを残す、だけど透きとおった、力強い、しっかりした声。
「九縁、もうやめよ! こんなの九縁じゃないよ!」
上遠野坂眞由那。久遠と同い年だけど、久遠の妹のような存在。ずっと久遠と一緒に暮らしてきた少女。彼女の言葉に久遠は――。
「やめねーよぉ、眞由那ァ。これが本当の俺なんだよぉ。あはは! あははははっっ!」
眞由那の声も届かない久遠は完全に暴走していた。もう理性なんてなかった。狂ったように笑い続ける。
「わ、私が……私が悪いんだ。こうなったのは全部私の責任なんだっ」
自分の声が届かないと分かった眞由那は、己を責め始めた。
「私はずっと逃げてたんだ。学校に行かなくなったのも、部屋に引きこもっていたのも……。本当は全然大丈夫じゃなかったんだ。平気な振りしてたけなんだ……。どうにもできない現実が見れなかっただけなんだ……だって私にはどうする事もできないから、お父さんもお姉ちゃんも戻ってこないから……っ。もう、絶対に……」
上遠野坂眞由那。父と姉を同時に失った少女。その日は眞由那の誕生日で、2人は眞由那の誕生日プレゼントを買いに行って事故に巻き込まれた。
「私はそれから自分を殺して生きてきた。だから神様が宿ったのも……私のせい。それに私はむしろその状況を喜んでた……何も考えなくていいから。私を勝手に使ってくれるから……でも、やっぱりそれじゃ駄目だったんだ。人は頑張らなくちゃいけないんだ……」
眞由那は久遠の方を見ながらブツブツと取り憑かれたように独り言を言う。
久遠は笑いながら――それを聞いていた。眞由那の思いを聞いていた。
「これは私の責任。自分の存在を委ねてた罰……。私は私を生きなくちゃいけないんだ。でも……この状況は私にはどうする事もできない。私の行動で招いてしまった結果なのに、自分の行動に責任がとれないせいで……私は」
「くく、眞由那ァ〜……お前、何さっきからグダグダ言ってんだよぉ? 全くお前らしくねぇぜぇ? お前は……そんなキャラだったかぁ?」
久遠の言葉を受けて、眞由那は気付いた。久遠はこの状態になっても久遠のままだ。
久遠は凄惨な笑いを浮かべているものの、その心が完全になくなったわけじゃない。
こんな状態になっても久遠は戦っているのだ。だってこんな言い方だけど……久遠は眞由那を励まそうとしていた。それが意識的なものか、無意識なのかは分からないが、それでも久遠はいつでも眞由那を助けようとしている。
たとえそれが、亡くなった姉の代わりに向ける気持ちなのかも知れないけど。
だから眞由那は諦めない。
「……神さま、お願いっ、助けてっっっ!」
眞由那が空に向かって吼えるように叫んだ。
「お願い、私の中に神様がいるなら助けて! さっきまでいたんでしょ!? だったら最後にもう一度だけ……お願い! 私が招いた事だけど、私じゃ駄目だから、あなたじゃないとできないから……だから私はあなたの力を借りたいの! お願い、助けて!」
「……」
眞由那の祈るような叫び。久遠はクライエルを掴んだままじっと様子を見ている。
「私は未来を生きるっ! もうお父さんやお姉ちゃんに囚われないから! だから……最後に、もう一度だけ私に力を貸して! 神さまーーーーっっっっ!」
眞由那が叫んだとき、夜の闇の中に――光が出現した。
強烈な七色に光るその光源は、眞由那の体から発せられていた。
「……」
眞由那はガクリと肩を落として、力尽きたようにうなだれている。
その眞由那を包む光は、次第に彼女の体から抜け出していって――眞由那の隣に光が収束していく。光は形を創っていく。その形は人型で――光の中心には何かがいて。
光をまとった――1人の少女だった。
「――ッ」
光の中心に、一層輝きを放ちながら立っていたのは、赤色の長髪に透きとおるような白い肌。そしてツリ目ぎみの気の強そうな容姿。だけどとても美しい――少女だった。
久遠はその少女を知っていた。いや……久遠だけじゃない。眞由那も知っている。
その少女は――眞由那の姉で、久遠の初恋の人だった。
「あ、あなたが……どうして……お姉ちゃん」
眞由那が突如現れた少女を虚ろな瞳で見つめる。
「なっ……上遠野坂美優……だと!? なんであんたがッッ……」
久遠は驚愕に表情を歪める。死んだはずの上遠野坂美優がいる。
その亡霊は驚く2人を気に掛けずに、
「ふむ、なかなかいい体じゃないか。気に入ったぞ」
自分の体をじっくり眺めながら不敵な笑みでな顔をする。
そこにいたのは上遠野坂美優ではなかった。それは――。
「き、キサマぁ……アノンか……」
久遠は忌々しげな瞳をもって美優の姿をしたアノンを睨みつけた。
「か、神さま……あ、あなたが……」
眞由那はまるで少女を崇めるように見つめる。
「ああ、そうだ。今までその体を使わせて貰ってすまないな……君には本当にすまないと思っているし、同時に言葉で言い表せないくらい感謝している」
綺麗な、よく通る声で少女は言った。
「そ、そうなん……だ。私こそ……ありがとう。そして……ごめんなさい……」
眞由那はそう言うと、全身の力が抜けてその場に倒れる。
アノンがすかさずその体を抱き留める。
その姿はかつての光景そのままだった。上遠野坂美優と上遠野坂眞由那、仲のいい姉妹のかつての姿。
久遠はその様子を何も言わずに見ていた。だけどその顔は、言いようのない戸惑いが現れている。心の奥底で眠る感情が魔物と化した久遠を止めるように。……久遠は動けなかった。
アノンはまるで本当の美優のように、静かに眠る眞由那の顔の前で、優しく囁く。
「君はとても優しくて強い女の子だ……君の強い想いがワタシを一時的に実体化させたのだ。君の胸の内に強く刻みつけられた姉の姿を借りることによって、ワタシはこの世界に現界することができたのだ。君の想いが奇跡を起こしたのだぞ」
そして美優は愛すべき妹をそっと地面に横たえて、ゆっくりと久遠九縁の方を振り返った。
「この姿で留まっていられる時間は限られている。さぁ、すぐに終わらせよう。ワタシの――最後の力を使おう。九縁の中の魔王を浄化する……このワタシの存在と共に」
その少女は上遠野坂美優の姿をしていたが――それは既に上遠野坂眞由那の顔ではない。悪魔を殺す正体不明の神・アノンだった。
「クックックゥ〜……いいねぇいいねぇ! アノン〜〜〜! その決意はとても格好いいけど……けど俺はとても気分がいいんだぜぇ! この血のおかげで俺は最強の力を手に入れることができた! 別に浄化なんていらねぇんだよッ!」
そう叫んで久遠九縁は、今まで掴んでいた既に意識のないクライエルを、悪魔・グラットンの死体が倒れている辺りに乱雑に放り投げた。
「……いいや、九縁。その感情は魔王の血による洗脳からくるものに過ぎん。本当のお前はそんな事を言うような奴じゃないのだ」
「そんな事ってどんな事だよっ! 俺はもっと好きに生きたかったんだ! 自分の事だけ考えたかったんだよ! 上遠野坂の連中なんて関係なくッ! 眞由那の為に生きるんじゃなく、俺が俺の為に生きる、その為の力なんだよおおおおおおお!!!!」
久遠が周囲の木々を震わす程の強烈な雄叫びをあげる。
地面に倒れている――天使、悪魔、魔術師2人に、眞由那の体が振動で小刻みに震える。
「やはりお前は魔王に体を乗っ取られようとしている。ワタシの知っている久遠九縁はな、決してそんな事は微塵も感じてなかったんだよ。彼と過ごした時間は短かったが……その時間はとても濃密だった。その程度のこと簡単に分かるくらいにな」
アノンは不敵に、威厳ある神の笑顔を、魔王に向けた。
ここに立つたった2人、久遠九縁……魔王と、上遠野坂眞由那……神の戦いに幕が下りる。
「魔王よ……」
アノンは久遠に近づいた。
「な、何をするつもりなんだ……く、来るな……くそ、体が……からだが……」
久遠は嫌悪に表情を歪めるが、しかし、体が思うように動かない。久遠九縁の中に半分ある悪魔の血液の……そのさらに半分のアノンの血が、神と一つになることを望んでいるみたいに。
そしてとうとうアノンは久遠の元までやって来た。
「や、やめろ。なぜだ、俺は無敵の力を得たんだぞ。どうして……」
「魔王よ。ワタシが楽にしてやるよ。安心しろ、ワタシも一緒だ。これでようやく……お前も静かに眠れるだろ」
そう言ってアノンが優しく久遠の体を抱き寄せた。豊満な胸に彼の顔を埋めて、両手を背中に回して、包み込んだ。それは先程アノンがクライエルにやられたような格好だった。
「これが1番正しい方法だったんだ……そうだろう、魔王。ワタシとお前は一心同体なんだからな」
アノンは久遠の耳元で囁いた。
次第に、2人の体はキラキラ輝き始める。プラネタリウムの星々のように、夜を切り裂いていく。抵抗していた久遠も動かなくなった。輝く2人は、一つの彫像のように立っていた。
やがて輝きはゆっくりと勢いをなくして、再び夜が世界を支配する。と。
「……うぅ」
アノンの胸の中にいる久遠九縁の体が、もぞもぞ動き出した。そして。
「ぼ、僕はいったい……なんでまた、こんなことを……くそっ」
久遠九縁は気が付いた。
「よ……よかった……戻って、これた」
アノンは苦しげに、だけど嬉しそうに微笑んだ。魔王の血が――消えたのだ。