アンノウン神話体系

第1章 小さな町の怪事件

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

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 次の日。久遠は朝起きるといつものように朝食を食べて、学校に行く支度をして、啓名に尋ねる。
「啓名さん、眞由那は?」
「寝てるんじゃな〜い?」
 久遠が台所に立つ啓名に話しかけると素っ気ない返事が返ってきた。
「いや、それはまぁ寝てるんでしょうけど……起こさなくていいんですか?」
「う〜ん。でも起こしてもどうせすぐに寝ちゃうから、もう少し寝かせといてもいいんじゃないかしら〜?」
「いや、全然よくないでしょ。なんか眞由那が学校に行かないのがさも当たり前みたいな感じになってるけど、それ駄目でしょ!」
 もはや悪しき習慣になってしまっている。
「う〜ん。そうねぇ……それじゃあ九縁ちゃん。ちょっと眞由那を起こして来てくれる?」
「分かりました。今日こそ連れてきます」
 そして久遠はキリリと顔つきを変え、階段を昇って眞由那の部屋の前に立つ。
 コンコンコンとノックして、案の定返事がないから声をかける。
「お〜い、眞由那〜。朝だぞ〜」
「行かない」
「起きてたじゃん! そして一蹴されちゃったよ!」
 予想していたとはいえ、眞由那は鉄の意志をもってしてテコでも動かないといった口調だった。
 その瞬間、久遠は無駄だと思いながらも一応、形だけでもと久遠は眞由那を部屋から出そうと心がけるも――結局は無駄に終わった。

 学校に向かう久遠は憂鬱な面持ちで、足も重かった。
「はぁ〜あ。僕はどうすればいいんだろ」
 結局今日も眞由那を学校に連れて行く事ができなかった。
 久遠は眞由那の面倒を見ることに責任みたいなものを感じていた。母親の啓名はマイペースで危機感がないので、自分が社会に復帰させなければと考えていた。
 久遠はそんな事をつらつら考えながら、朝の日差しの中を行く。
 まだ散らずに咲いている桜がぽつぽつと並ぶ街道を通り、遠くに海が見えるくねくねした坂道を登る。
 そして坂道を登った先にあるのが、久遠の通う学校である。
 久遠が教室に入って、自分の席に着いた時、前の席に座るクラスメイトで悪友の一ノ瀬大智が話しかけてきた。
「よ〜うっ。おはよう、久遠〜。どしたー、なんか冴えない顔してるなぁ。なんかあったのか? 大丈夫かよ?」
 久遠の顔を見るなりぐいぐいと体を寄せてくる一ノ瀬。頭はそんなに良くないが運動神経のいい一ノ瀬は、何故か知らないけどやたらと久遠に懐いてくるのだ。
「ああ、おはよ一ノ瀬……僕が冴えない顔なのはいつものことだよ。てか、近いってば」
 久遠は身じろぎしながら覇気のない声で言った。
 久遠はあまり人付き合いのいい人間ではなかったが、一ノ瀬が何かと久遠に話しかけてくるので、いつの間にか友人と呼べるような関係になっていた。
「それもそうだなぁ。にしても一体何がお前のやる気を減退させてるんだろうなぁ。う〜ん、心配だ」
 友人は何か嬉しそうににやにやしながら久遠を探ろうとしている。
「さぁ……なんだろうね」
 曖昧にはぐらかしたが久遠には分かっていた。きっとそれは上遠野坂眞由那に関することだろう。
 しかし、久遠はそんな事は言えない。言いたくないのではない。言えないのだ。なぜならこのクラスのほとんどの者にとって上遠野坂眞由那を知っている人間なんていないし、果たして説明したところで何が変わるというのだろうか。
 クラスメイトにとって上遠野坂眞由那というのは、高校が始まって以来一度も学校に来ていない問題児でしかないのだ。
 やがて一ノ瀬は、興味をなくした猿のような表情になって言った。
「まぁ、いいや。その気持ちはよく分かるぜぇ。俺だって今日は冴えない顔をしたくもなるからなぁ」
「気持ちが分かる?」
 明るくてお調子者な一ノ瀬の思わせぶりな発言に、疑問符を浮かべる久遠。というか一ノ瀬にそんな日があるなんて久遠は思ってもみなかった。かるく衝撃の事実だった。
「うん? お前もしかして知らないのか〜? この近くで事件があったこと」
「え? 事件だって? なんだそれ?」
 久遠にとっては眞由那の事でいっぱいいっぱいだったので知りようがない。
 久遠が何も知らないのを見てとると、一ノ瀬はえらくテンションを上げて説明を始めた。
「なんだよ〜、知らないのかよ〜。いやさ、昨夜なんだけどさ、丁度お前が住んでいる近くでなんかもの凄い音が聞こえたらしいんだ」
「音……音って何の音なんだ?」
「ああ。爆発音っていうか、争ってる音っていうかなんか破壊音みたいなのを何人か聞いたらしいんだ。で、何人かが音のする方を見に行ったらさ……ビルとビルの間の通路の奥で大量の血痕が見つかったんだ」
「け、血痕? 喧嘩とかあったってこと? 誰か倒れてたのか?」
「分からねぇ。誰もいなかったんだよ。血痕と、あとはそこら辺の壁や地面がかなり傷つけられてて、明らかに争った跡なんだ……でも人の気配は全くないときた」
 さっき一ノ瀬は冴えない顔をしたくなるって言ってたのに、その口調はとても嬉々としたものだな、と久遠は思いながら感想を述べる。
「う〜ん……ただの喧嘩か何かじゃないのか?」
 穏やかな話ではないけれど、それ自体は特に不思議がるようなものでもないはず。
「でも、もの凄い血だまりだったらしいぜ。絶対に死んでるだろって位に。それで警察に通報してマスコミとかも来てちょっとした騒ぎになってんだよ」
「ふーん。それは怖いな」
 あまり興味のない久遠は興奮する一ノ瀬に対して冷ややかに答えた。
 一ノ瀬は好奇心旺盛と言うか、何にでも首を突っ込みたがる性格の持ち主なのだ。
「まっ、お前も気を付けろよ。もしかしたら犯人とか近くにいるかもしれないからな。お前になにかあったら俺はもう……」
 一ノ瀬が大柄な体をぶるぶる震わせて、顔を青ざめさせている。
「あ、ああ……分かったよ。ほら、もうすぐ授業始まるぞ」
 そう言って久遠が無理矢理に一ノ瀬の体を前に向かせた。
 ――まぁ僕が一ノ瀬の事を色々考えてたって仕方ないよな、と久遠も授業の準備をしようとした――その時、彼は視線を感じた。
 真夜中のような静かな視線。影のような暗い視線。
「……」
 久遠はごく自然且つ小さな動きで、首だけを小さく動かして教室内を見た。
 いた――。
 教室の隅の方の席から、久遠の方をじっと見つめる1人の少女がいた。
 ――四宮……さん?
 四宮烏子。彼女は久遠のクラスメイトで、無口な少女。体つきは華奢で線が細く、運動が苦手そうな感じ。腰にまで届く長い黒髪が印象を暗くしているが、顔は整っていて美人である。そして噂によると彼女には――霊感があるというのだ。
 勿論あくまでそれは噂にしか過ぎないのだが、そんな彼女が久遠を見つめている。
「……」
 久遠は気にはなったが、しかしそんなに烏子と仲がいいというわけでもなかったので放っておくことにした。

 やがてその日の授業が全て終わって久遠は帰宅する。
「おかえり〜、九縁ちゃん」
 久遠が家の扉を開けるとまず目に飛びこんできたのが、ボストンバッグに手に持ってよそ行きの格好をした啓名の姿だった。
「あれ、啓名さんこれからどっか行くんですか?」
 元々啓名は出張が多いので久遠は何気なく聞いてみた。
「そうなのよぉ。というわけでしばらくの間家を空けるけど、お留守番頼んだわよぉ」
 ほんわかした笑顔で言う啓名。
 けれど久遠は、啓名が具体的にどんな仕事をしているのかは未だに知らないでいるのだ。
 まぁ久遠も特にそこまで知りたいとも思わないので突っ込んで訊かないのだが。
「分かりました、任せて下さい」
「数日で帰れると思うから後よろしくねぇ。それと……眞由那のことも」
「分かってますよ」
 久遠は苦笑いを浮かべて、啓名もうふふと笑った。
「それじゃあねえ」
 と、啓名は出張に出かけていった。
 さて――と久遠は玄関から啓名の去っていく後ろ姿を見届けると、階段を昇ってまっすぐに眞由那の部屋へと向かった。
「……と、いうわけだ。眞由那。何かあったら僕に言うんだぞ」
 眞由那の部屋の中のベッドの上に座り、久遠はまるで保護者のような口調で言った。
「もう。私は子供じゃないんだからねっ。失礼しちゃうな〜」
 心外だなとぷんぷんと怒りを露わにする眞由那。
 部屋の中はいかにもな感じの、ぬいぐるみとかデフォルメされた動物とかのグッズで飾られた、可愛い可愛いした部屋だった。
 啓名が帰って来るまでの間、この家には2人しかいなくなるので……というか、眞由那の面倒は久遠が見なければならないことになるので、久遠はちょっと憂鬱気味だった。
「……子供というか、ある意味子供よりも性質悪いからな、お前の場合」
 なにせ子供は真面目に学校にいっている。眞由那は外に出ないし、1人じゃ何もできないし。
「なっ、そんな事ないよっ。自立してるよっ」
 子供のようにムッと頬を膨らませて、眞由那は怒った。
 全然自立できてないくせに何を言ってるんだと言いたいのを抑えて、久遠は話題を変える。
「そういえば、昨日夜中になにゴソゴソしてたんだ?」
 深夜に眞由那の部屋から聞こえてきた物音。
 眞由那は引きこもりなので夜更かしするのは当たり前だけど――それにしては不自然で、大げさな物音だった。それにその音は、ベランダから外へ出て行ったような感じだったのだ。
 問われた眞由那はパッチリした大きな瞳を瞬きさせて一言。
「え? 別に何もしてないよ? 寝てたよ」
 はっきり即答するその表情に、嘘を吐いているような色は表れていない。
 だったら別にいいのだけど、けれど久遠はなんとなく釈然としなかった。
「……そうなのか? なんか色々音が聞こえてたんだけどなぁ」
 それでなくとも一ノ瀬が言うには暴力事件があったようなので、心配したくもなる。
「あっ。でももしかしたら、それは神様かもしれないよっ」
 眞由那は急にテンションを上げて、久遠の方にぐいっと身体を近づけた。
「か、神様ぁ? ……それは昨日言ってた例の妄想か?」
 自分の中には神様がいるとかなんとか。ちょっと本気で眞由那の事を心配したくなるような痛い妄想。ちょっと引き気味になる久遠。
「妄想じゃないってばっ!」
 眞由那が怒って久遠の頭をポカリと叩いた。
「いたいっ」
「私の中には本当に神様がいるんだってっ。はっきりとは分からないけど感じるのっ」
「はいはい……どっちでもいいけど、とにかく知らないなら知らないで別にいいや」
 子供な眞由那はすぐにムキになるから、久遠は早々と折れて大人な対応をする。つまり対立を放棄する。とりあわない。
 とにかく――眞由那が言うには深夜に外出した記憶はないらしい。
 ならやはり僕の気のせいか……。久遠はそう思う事にして眞由那の部屋を後にした。

 そして日が暮れて――夜に再び、異変は起こった。
「……ん。なんだ?」
 久遠はベッドの中で物音を聞いた。ゴソゴソと隣の部屋から聞こえてくる。
 昨夜に引き続き、全く同じ現象だった。
 自分の部屋から聞こえる音は、時計の秒針を刻む音のみ。
 隣の部屋からは、ガタガタと――まるで着替えか探し物でもしてるみたいな音。
 暗い部屋の中で静寂と騒音が入り混じった奇妙な心地を久遠は味わっていた。
「眞由那のやつ、なにしてるんだ……?」
 久遠が携帯電話を手にとって時間を確認すると、それは昨夜と同じぐらいの時間だった。
 やっぱり眞由那が起きて何かしているのか……でも本人は知らないと言っている。
「まさか……本当に神様?」
 そんな馬鹿なと思いながらも久遠が耳を澄ませて聞いていると――やはり昨夜と同じように窓を開けて外に出て行くような音を聞いた。
「外に行って何するんだよ……」
 久遠は訝しんだ。そして脳裏に、学校で一ノ瀬から聞いた話を思い出す。
 昨夜に起こった事件。この近くのビルの隙間で見つかった大量の血痕と、瓦礫の跡。
「大丈夫かな、眞由那のやつ」
 久遠は眞由那を守ると誓った。
 眞由那の父親と姉の分まで――自分が。
「……美優ねぇ」
 と、久遠は呟き立ち上がって、窓から外を眺めてみた。
 すると、遠くの方に眞由那の後ろ姿らしきものを見つけた。
 でもそれはいつもの眞由那とは少し雰囲気が違うような気がして……けれどもやっぱりその少女に眞由那の面影を感じたから。
 一瞬だけだったけど――それを見て眞由那だと感じた。それだけで十分だ。
 だからそれだけで、久遠は迷うことなく外へと駆けだしていた。
 その際にチラリと眞由那の部屋を覗こうとしたが、鍵がかかっていて入れなかったし、返事も人の気配もなかった。
 久遠は靴を履くのももどかしいくらいに、急いで眞由那を見た辺りまで走る。
 だけど――。
「あれ……いないぞ。足そんな速くないだろ、あいつ。くそ……どこいったんだよ」 
 人気の全くない住宅街。久遠は周囲を見渡すが眞由那の姿は見えない。
 久遠はそれでもあてもなく走り出す。静まりかえった夜の町。ぽつぽつと灯る街灯と月の明かりを頼りに久遠は前に進む。
 しかし走れど走れども眞由那はみつからない。
「仕方ない……帰るか」
 息が切れるほど走って、久遠はようやく探すのを諦めた。
 5月の夜に久遠の白い息があがる。
 ゆっくりした足取りで帰る久遠の上空には半月が輝いていた。遠くに古びたトンネルが見えていて、その中は真っ暗で何も見えなくて、夜の不気味さを際立ていた。
 なんだかもの寂しくなって急ぎ足になる久遠。今夜はやけに月が綺麗だった。
 自宅に戻った後、一応眞由那の部屋をノックしたが、予想通りというか返事はなかった。


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