引き継がれる物語

第5章 東京

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

○ キミとボクの終わる世界 ○

 
「それで考えたんだけど――やっぱり行くことにしたよ」
 ボクは彼女にそう告げた。辛いことだけど、無力な子供であるボクにはどうすることもできないんだ。
「そっか……うん。いいよ……行っておいでよ。私の事は大丈夫だから」
 少女はもの悲しそうな笑顔で言う。思えば彼女がボクを救ってくれた。ボクに生きる意味を与えてくれたんだ。でもボクは彼女に何もできないまま終わろうとしている。
「だ、だけど」
 ボクが行ってしまえば叶歴はまた1人になってしまう。
「いいんだよ、私の事は気にしなくて」
 なのに叶歴の声はまるでいつもと変わらず、優しくて穏やかな声で……もうこの声を聞くことはできないのだ。
「でも叶歴……体は」
「こんな時でも附音くんの心配性は健在なんだね。ふふ」
「笑い事じゃないだろ……いつか、いつか絶対戻ってくるから」
 こんなにも別れが惜しくなるなんて思わなかった。こんな経験は初めてだ。
「うん、分かった。私ずっと待ってるから。それまで新しいお話をたくさん考えておくから……だから楽しみに待っててね」
 少女は目に涙を浮かべながら言った。
 ボクはこんな時、いつも彼女を笑わせてやっていた。だから今も冗談を言って彼女を笑わせてあげたかった。
「叶歴……ごめん」
 けれど口から出てくるのは悲しい言葉だけ。
 これ以上いても辛いだけだ。
 もう出て行こう。ここから去ろう。そして叶歴との再会を胸にボクはこれからを生きていこう。またこの場所で叶歴と会える日を生き甲斐にして。夢を抱いたまま。
 ボクは決意を胸に、踵を返してこの場所を立ち去ろうとした。
 その時――。
「やぁ、君達。こんなところでいったい何をやってるんだ?」
 いきなり、ボク達の世界に異物が混入した。
「えっ……」
 ボク達は驚いて振り返る。そこには1人の男。
 闇に溶け込んだ男は、まるで影のように、唐突に、何の前触れもなく、ここにいるのが当たり前のように、ごく自然に佇んでいた。
 ボクと叶歴は突然の来訪者に対して途方に暮れる。
「あ、あなた誰です……?」
 呆気にとられながらもボクはなんとか声を振り絞って尋ねた。
 その影は見た感じ、高校生くらいの男だった。
「ん、そうだな……ただの不良とだけ言っておこうかな」
 高校生くらいの男は変な笑顔を浮かべて言った。不良っていう感じには見えなかった。
 ボクは叶歴の様子をみてみる。
「……」
 叶歴はなぜか男の顔をじっと凝視していた。まるでどこかで見たことあるけど思い出せないとかそういう感じだった。
「あの……それでここには何しに来たんですか?」
 どことなく暗い雰囲気を纏った男にボクは聞く。影という印象がぬぐいきれない。
「ん、あー……まっ、たまたま通りかかったってとこかな。つか、それはお前達も同じだって。こんな時間に子供がいていい場所じゃないだろ。ていうか何時いたって駄目だけど」
 男は飄々とした口調で答える。
「そ、それは……」
 言いよどんでしまった。言い訳が思いつかない。チラリと叶歴を見て見るが、やはり黙ったまま男を見ている。なんとなくボクと男を見比べているような気がした。
「まっ、別にいいんだけどよ。お前らにとってはここは大切な場所なんだろうしさ」 
 男はなにか達観した風な口調というか、全部お見通しというか……。まるで全部捨ててさっぱりしたような目で辺りを見回していた。
 丘の上に建つ、元々アミューズメント施設であった廃墟の中。そのプール跡地にボク達3人は立ち尽くす。
 なにか思うところがあるのだろうか。叶歴は相変わらず茫然としたまま。
 そして男は周囲を見回してから静かに口を開いた。
「やっぱりな……。影はここにいたんだ。そうか……薄々気付いてたけど、そうか。お前だったんだな」
 男が何かに語りかけていた。ボクはすかさず男の視線の先を追う。そこには……。
「にゃお」
 この廃墟に住み着いた、名前もない黒猫がいるのみだった。男はこいつに話しかけたのか? 影ってなんなんだ? さっきからわけが分からない。ボクには男の方こそが漆黒の影に見えるんだ。
「ふっ、やっぱり全部俺が創り出してたんだな。俺が現実に向き合おうとしないばっかりに」
 男はなおも1人で意味ありげに話し続けていた。だけれどその顔はとても悲しそうな、まるで心地いい夢を見ていて、でも途中でそれが夢だと気付いてしまったような、そんな目をしていた。きっと男は影だから……だから男が見ているのは全て手に入らない幻影なんだろう。
 そして男は黒猫から目を逸らすと今度は、懐かしそうに窓に映し出された満月を見つめていた。あの月は実体だ。あの月だけが本物で、ボク達の存在をその光で照明している。
「なぁ、君達……もうこの場所には戻ってくるな」
 そして、もの悲しい声で男は言った。
「え? な……なにを言ってるんですか、いきなり」
 ボクは男が突然言った言葉に戸惑う。
「ここはずっといちゃいけない場所なんだ。時間の停止した死んだ場所。ここにいたら前に進めない」
「……は、はぁ?」
 男が何を言っているのか全然分からない。もしかしてこれは何かの比喩か?
 ボクを置き去りにして男は更に話を進める。
「俺はかつてこの場所に魅せられていた。ここで夢を見ていた。そしてここを去った後も俺はずっと幻想を追い続けていた。離れられなかった」
 男もこの廃墟に来ていただって? ボクは意外な事実を知って驚いた。
「で、でもなんでこの場所が駄目なんですか? だってここはただの廃墟じゃないですか」
 ボクが知らないだけでここはそんなにも大きな意味を持った特別な場所だっていうのか。
「……変われないんだ。この場所にはある種の呪いがかけられているんだ。まるでぬるま湯から出られないように、ずっと停滞してしまうんだ。ここは――現実から切り離された幻想の世界だから」
 男はいたって真剣な目で、真面目な顔をして答えた。
 月光が妖しく男を照らす。男は影から高校生らしきものへと姿を変えた。
 さっきからなんなんだよ。男は……いや、そういえばなんだかこの男の顔……。ボクは見覚えがある。も……もしかして叶歴がさっきから見つめているのも。
「ふふ……だけど君達なら大丈夫だ。だって俺はその為に来たんだからな」
 そうだ。この男……似ている。とてもよく似ている。それは、それは……。
「なぁ――附音よ」
 このボクに――。
「なっ……あ、あなたは……あなたはいったい誰なんですかっ」
 叶歴。君がさっきから黙ったままなのは、この男がボクにそっくりだからなの? ボクは叶歴の方を見るけれど、叶歴はまるで全てを悟って諦めたように俯いているだけだった。
「もういいだろ。さぁ、いつまでも夢を見ていたって何も始まらない。もう……帰ろう」
 男はボクに手を差し伸べる。どういうつもりなんだ。そもそもボクは今、叶歴との別れという大事な局面に立っていたんだ。そんな大事なシーンに割って入るなんて。
「意味が分かりませんよっ。か、叶歴……叶歴からも何か言ってやってよっ」
 わけの分からない状況にボクは叶歴に助けを求める。しかし叶歴は――。
「もういいの……附音くん。もう、終わりにしよ」
 叶歴は辛そうにボクを見て、何もかも分かっている風に呟いた。
「な、なんで……こんな……こんな」
 突然の急な展開にボクはついていけない。ボクだけが取り残されている。
 まるでボクが悪者みたいに。まるでボクが現実から目を逸らしているみたいに。まるでボクが逃げているみたいに。
 ボクは――でも、そうなんだ……きっと。
 なんとなく気付いていた。ボクはこの幻想的な場所と病弱な可愛い女の子に浮かれていたってことを。その状況自体に酔いしれていたんだ。
 でもそれが駄目なことなのか。ボクはただ楽しい日々を永遠に続けたいだけなのに。
 夏の夜のプールサイドは藍色の闇に満たされている。ボク達はみんな闇にとけておぼろげだ。ただ、満月だけがくっきりとその存在を主張していた。
 最初に口を開いたのは叶歴だった。
「附音くん。私は……先に進みたい」
 闇を切り裂くような、澄んだ叶歴の美しい声が響く。
「え?」
 叶歴の発言にボクは動転する。どうして? 叶歴はボクと一緒の気持ちじゃないの?
「……私は今が楽しい。でもずっと今のままなのは駄目だと思う。私はもっと色々な事がしたい。学校に行ったりバイトしたり、そうやって大人になっていきたい」
 それが叶歴の本音。そしてきっと、それが正しい事で、普通の事なのだ。
「叶歴……キミは、そう思ってたんだね」
 いや、そうなんだ。最初からそうだったんだ。元より叶歴は普通の生活を望んでいた。
 でも普通の生活を望まなかったのはボクの方だった。ボクが叶歴を縛りつけていたんだ。
 これは全部――ボクの仕業だったんだ。
「附音くん、ごめんなさい」
 病弱なはずの叶歴は……いつもみたいに咳もしていなかったし、顔色も悪くなかった。叶歴はもう、ボクが求めていた少女の姿ではなくなっていた。
「ううん……謝るのはボクの方だよ。ごめん、叶歴……今までボクのわがままに付き合わせちゃって」
 叶歴はボクの犠牲者だ。叶歴をボクの夢から解放してあげなくちゃいけない。
 ボクは、ボクと同じ顔をした男の人に向かって言った。
「……分かりました。ボクはもうここには帰ってきません。この場所に全てを置いていきます」
 月が雲に隠れて辺りはすっと暗くなった。
「そうか。よく言った……お前は偉いよ。俺にできなかった決断を下せたんだから」
 その人は寂しそうな目でそう言った。この人はきっと――ボクなんだ。だからさっきからこんなにも自分の事のような顔をしてるんだ。
 ボクは男の目を見てしっかり意思表示する。
「ボクはただ、叶歴の幸せを願ってるだけです。それと同時にもう叶歴の事をいいわけにして自分から逃げるのはやめただけです。ボクはこれから、ボクの道を歩いて行きます」
 やがて雲に隠れていた月が再び姿を現す。
 男は悲しそうな目をして、そして本当に、心からボクの事を想うような声で、言った。
「少年、お前は強い不良だよ」
「ふ、不良……ですか?」
 ボクは、男が突拍子もないことを言い出したので驚いた。でも……もっと驚いたのは、男の顔だった。どう形容すればいいのか分からない顔。まるでボクを息子みたいに見ているような。
「いやいや……悪い意味での不良じゃないよ。大切な人を守る為なら社会の理不尽さとも戦う、そんな強い不良だ。大切な者の為なら世界からも抗おうとする不良。お前は……1番強い不良だ。だから自分が正しいと思う正義を信じる心と、大切な人を想う心を忘れるなよ」
 ……この言葉は決してお世辞とかじゃない。この言葉はこの男にとって真実なんだ。男の目を見て直感した。それはまるで、ボクに何かを託すかのような瞳だった。
 プールサイドに立つボク達を、月は平等に照らしていく。今日はやけに月の光が強く綺麗に輝いていた。
 そしてボクは目を閉じて、ゆっくり深呼吸する。
 ボクは――不良になる。そして、叶歴を守る。
 暗闇の中から男の声が聞こえる。
「……お前もだ。さっきから見ているんだろう――神流」
 男は誰かに向けて語りかけたようだ。
 ……かんな? ボク達の他に誰かいるのだろうか。猫か? でも……ボクはどこかでその名前を聞いたような気がした。それは……どこだったか。
 駄目だ。頭がぼーっとしてきた。目を開けたいけど開けられない。なんだかとても眠くなってきた。
 ボクは急激に意識が遠のくのを感じ、そして今までに聞いたことのない、女の人の声がふいに聞こえた。
「ありがとう……私を――見つけてくれて」
 それは聞いたことのない声だけど、知っている声。
 きっとボクはこれから先の人生でこの声の人に出会うんだろう。なぜかは分からないけど、ボクは消える記憶の中でそう思った。
 ボクは――ボク達は消えていく。
 ボクはここに全てを捨てていく。残ったものは思い出とせつなさ。
 だけどボクは、ここから前に歩き出す――それぞれの向こう側に。


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