引き継がれる物語

第4章 少年と少女と影

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

999 旅立ちの夜

 
 夜行バスのチケットも買ったし、瑠璃さんにもしばらく旅行に出かけると言ってある。
 まぁ、瑠璃さんと千春からは色々詮索もされたんだけど……それでも半ば強引に許可はもらった。
 後は東京に行くだけだ。
「これでよし……と」
 必要最低限の荷物を鞄に詰め終わって俺はベッドの上に腰を降ろした。
 今夜俺は出発する。
 期待と不安が入り交じった気持ちでそわそわしていると、不意に部屋の扉をノックする音が聞こえていた。
「附音兄ちゃん」
 と、千春の声がした。
「なんだ、千春」
 俺は扉越しに語りかける。いつもだったら俺の返事も聞かずに勝手に部屋に入って来るのに、今日はなんだか嫌に静かだった。
「……千春?」
 俺は不思議に思い、扉まで行って開ける。
 すると、そこにはどことなく元気のなさそうな顔をして立ち尽くしている千春の姿があった。
「なんだよ、千春。こんなところで突っ立って」
「ふん、なんでもないよ。ただ暇だったから来ただけだよ」
 相変わらずの捻くれた物の言い方だが……よく見ると千春の目がかすかに赤く充血していた。夏休みだからって不規則な生活をするから寝不足にでもなったのだろうか。
「そっか。まぁいいよ……中に入れよ」
 俺は千春を部屋の中に通す。千春はベッドの上に座って、じっとしていた。
「……」
 なんだか調子が狂う。千春はさっきからずっと黙ってるけど、用事があるから俺のところに来たんじゃないのかよ。
 この後、俺は東京の街へ旅立つというのに、なんだかなぁと思っていると、千春が意を決したように顔を上げて、ようやく口を開いた。
「兄ちゃん、今日東京に行くんだって」
 その声は弱々しくかすれていた。
「ああ、夜になったら行くつもりだ」
 何を今更なことを聞くのだろうか。俺は何度も言ったはずなんだけどな。
 なのに千春は尚も続ける。
「……どうして?」
「ど、どうしてってなにが?」
 千春の有無を言わせぬ気迫に押されて俺はたじろいでしまう。
「だってこっちに引っ越して来たばかりじゃん。なんでまた戻るの? わけが分からない」
 千春は怒っているのか? いや、ていうか何を怒っているのだ。
「な、なんだよ……お前には関係ないだろ。色々事情があるんだよ」
「……そんなにこっちの生活が嫌なの?」
 千春は俺の言い分を聞いてくれない。なんでここまでつっかかるんだ。
 それよりも――俺はギクリとした。千春は……俺の気持ちを見透かしていたのか。
「べ、別にそういうことじゃない。俺はただやり残した事があるから、それで戻るだけだよ」
 俺がこの町が嫌いだなんて千春には言えない。だから俺は少し突き放すように答えた。せっかくこれから出発だと言うのに、なんで邪魔ばかりするんだ。
「……私には分からないよ」
 千春は泣きそうな顔になってしょんぼりと肩を落とした。
 その時、俺は気付いた。もしかすると千春は寂しいのかもしれない。こいつは結構子供なところがあるから、遊び相手の俺がいなくなると多少胸にくるものがあるのだろう。
 千春とはいつも喧嘩ばかりだから、てっきり俺がいなくなってせいせいすると思ってたが……喧嘩するほど仲がいいとも言うしな。なかなか可愛いところもあるじゃないか。
「大丈夫だよ、千春。俺はすぐに戻ってくるさ」
 俺は千春の横に並んで座り、優しく頭を撫でてやった。
 そうだ、どうせ一度ここに戻って来ようとは思っているのだ。神流のために、一時的ではあるけど。
 千春の頭を撫でていると、その体が気持ちよさそうにふにゃりとなって、そして俺の方にともたれかかった。
 なかなか微笑ましい光景だな――と、そう思ったのもつかの間。
「べ、別に戻ってこなくてもいいんだから……。さみしくないもんっ」
 突然、思い直したように千春の体が跳ね上がって、そして顔を赤くして小さく叫んだ。
「おいおい、千春。なんなんだよ、お前はさっきから。もうちょっと素直になれよな」
「あたしはいつでも素直だよっ。ば〜か、ば〜か」
 そう言って、千春は扉の方に向かって行った。結局何しに来たのか全然分からないし。
 千春の背中を見ながら、俺は思いだしたように忠告をしておく。
「あとお前なんだか目赤いけど、あんまり寝不足し過ぎない方がいいぞ」
 と、いとこのお兄さんとして優しく注意してあげたつもりなのに、
「ば、ばか附音ーっ」
 なんだか知らないけど、千春は怒って階段を降りていった。見たところどうやら元気はあるみたいだが……まったく今日は謎だらけだ。
 でも……うん。やっぱりこの方が千春らしいったららしいよな。


「それじゃあ、体には気を付けてね。あと、ちゃんとご飯食べんのよ」
「分かってますよ。それじゃ行ってきます」
 珍しくやたらと心配気味になっている瑠璃さんの手からようやく離れて、俺は荷物を持って玄関の扉を開け、そして藤堂家を後にした。
 こうして改めて考えると、認めたくはないが藤堂家は俺にとって心が休まる場所だった。ここには俺が手に入れることのできなかった家族の姿があった。短い間だったけど、瑠璃さんと千春はまるで本当の家族みたいに思えた。それは俺がかつて望んでいたもの。
 こんな毎日も、もしかしたらいいのかもしれない……ふと頭によぎったそんな考えを振り払うようにして俺は歩を進めた。
 家の前の坂道を下り、くねくね曲がる細い道を歩く。ところどころで灯っている街灯と、月の光だけが頼りの夜の道は、俺の不安を一層大きくしてくれた。
 昼間の熱地獄が幻であるかのように、夜の田舎道は静かで物々しい空気を備えていた。
 俺は自然と足早になって歩いて行く。この町から逃れるように。未練が沸いてこないうちに。
 そしてとうとう、町に唯一存在する駅に到着した。
 寂れた無人駅。申し訳程度の明かりしか灯っていない駅には、人の気配なんてなかった。
 ここから俺は電車に乗って比較的大きな町まで向かうのだ。そして、そこからバスに乗って東京に行く。
 俺はボロボロの建物を見上げ、そして券売機で切符を買って、改札に入ろうとした時――、
「ここで会ったが百年目ね、越坂部附音」
 俺の背後から女の子の声がしたので俺が振り返れば、そこにはバイト先でお世話になっている美人姉妹の妹の方――野瀬郁奈がいた。
「なんだ、見送りに来てくれたのか?」
「お姉ちゃんに言われて来ただけだよ。これを渡してこいって言われて」
 それほど長くもないが短くもない、綺麗に切りそろえた赤髪をなびかせて俺の方に近づく郁奈。そして俺に包みを手渡してきた。
「これは……?」
「お弁当よ……早く受け取りなさいよ」
 郁奈はぐいっと俺に押しつけるように包みをつき出す。
「あ、ああ……静奈さんが作ったのか」
 もしかしたら何かの罠かもしれないと警戒しながら、俺は恐る恐る包みを受け取った。でも静奈さんのだったら大丈夫か。優しそうなあの人ならこういう餞別も十分あり得る。
「ち、違うわよ……これはわたしが作ったのよ……」
 なんと俺の予想は外れた。か、郁奈が作っただって? 俺のためにお弁当を?
「お、お前が……っ?」
 正直意外だった。思わず郁奈の顔を凝視する。
 駅施設に設置された人工的な光によって郁奈の表情がぼんやり映し出されている。その顔は少し俯き加減だったけど、どことなく恥ずかしそうな印象があって、まるで恋する委員長みたいな感じで、俺は不覚にもちょっと可愛いかなって思ってしまった。
 しばらく郁奈の方をじっと見ていたけど、郁奈はそんな俺の視線に気付いたのか、いきなり顔を上げて、そして口を開いた。
「か、勘違いしないでよね。本当はお姉ちゃんが作ろうとしたんだけど、お姉ちゃんすっごい料理下手で越坂部附音に何かあっても困るからっ。だからわたしが仕方なく代わりに作っただけだから。それだけだからねっ」
 知的そうな眼鏡を指で押し上げながら、まるで何かを弁明するように説明する郁奈。
「なるほどね。そういうことか。でもお前が料理できるなんて意外だったよ」
「なによ。わたしが料理できるのがそんなに変なの、越坂部附音」
「いや、別に変じゃないけど。おいしく頂くことにするよ。ありがとな、郁奈」
 何にしてもこの誰もいない寂しい駅で、見送りに来てくれた人間がいてくれただけで俺は嬉しかった。
 俺が気分良く駅のホームの方に体を向けようとすると。
「……いいかしら、越坂部附音」
 郁奈が普段より一層、真面目な顔になって俺に問いかけた。
「な、なんだ」
 俺は郁奈の気迫に押されながら郁奈に振り返る。何気なく視線を外すと、小さな羽虫が街灯の周りを飛んでいるのが見えた。
「以前にも言った事があるけど、わたしはこの田舎町に少しうんざりしているの。いつかこの町を出て、都会に行きたいって思ってる」
「あ、ああ。確かにそんな事言ってったっけ」
 俺と郁奈が似たもの同士かどうとかって話。
「でもわたしは行けない。お姉ちゃんを一人にしておくのが心配だってのが建前だけど……やっぱりそれはただの言い訳にしか過ぎない。理由はどうあれわたしはこの町を出られなかった。でも――あなたはわたしとは違う。わたしとあなたに色々と共通点があるかもしれないけれど、それでもその部分が2人を分かつ決定的な要素」
「……」
 理由はどうあれ……か。俺はただ幸運だっただけだ。叶歴がいなかったら、そして神流の言葉がなかったら、俺だってそんな簡単にこの町を出ることはできなかったろう。
「羨ましいとか後悔とかそんな気持ちははないけれど……あなたにわたしの思いを託したわ。わたしの分まで精一杯頑張ってきなさいよね」
 口元で微笑む郁奈。その時、遠くから電車の近づく音が聞こえて、やがて電車の光が徐々にこちらに近づいて来るのが分かった。
「ああ……それじゃあ見送りに来てくれてありがとな、郁奈。お前の思い確かに受け取ったからな」
 やがて電車はスピードを緩めて駅に到着した。
「だからわたしをそんな風に呼ぶなっての。ま、いいわ。悔いのないように青春を楽しむのよ」
 郁奈の言葉に勇気を貰って俺は旅立つ。
 改札を通り、そして電車に乗った。徐々にスピードを加速させて駅を離れていく電車。
 郁奈の姿が小さくなってやがて見えなくなる。そして町からも遠ざかり、真っ暗闇の海ばかりが広がり続けていた。
 そうなると不思議なもので、あれだけ嫌いだったこの町が、今は少しだけいとおしく感じてしまった。
 この町に来てまだ1ヶ月も経たない日の夜、俺は御笠の町を後にした。


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