引き継がれる物語

第5章 東京

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

1

 
 ようやく俺は憧れの土地に到着した。
 夜行バスに何時間も揺らされ続けて辿り着いた先は、俺のよく知る都心の駅前の風景だった。
「うっ……」
 バスから降ろされた瞬間、ビルとビルの隙間から覗く朝日に目が眩んだ。
 バスの中ではほとんど寝れなくて頭がぼーっとしていたが、どんどんと明瞭になってくる。俺はキョロキョロと自分の現在位置を確かめる。
 その時――遠くに少しだけ頭を覗かせているスカイツリーを見つけて俺は小さく息を吐いた。安堵感のような達成感のようなもの。俺は……とうとう帰って来た。
 辺りは見渡す限り高いビルばかりで、海や山といった自然的なものは皆無に等しく、そこは人工物ばかりで埋もれた……とてもとても居心地のよい、俺のいるべき場所だ。
 都会は田舎に比べて空気が悪いというけれど、俺にとってはむしろこの空気が心地いい。朝日が昇ったばかりの夏の風を胸に大きく吸い込んだ。
 まだ早朝だからだろうか、普段は車や人で溢れているはずの駅前のロータリーもまばらな交通があるだけ。
 しかしそれでもさすがの大都会。三笠町とは違って、この見渡す限りの固くて冷たい建造物独特の人工美が俺に郷愁を抱かせる。そう、俺にとってはここが魂の故郷なんだ。
 俺は目を閉じて感じる。俺の存在すべき場所の空気を。俺と一番相性の土地の息吹を。音を。振動を。
 大都会の朝日を浴び、満足するまで東京のエネルギーを堪能した俺は、ずっと座りっぱなしで痛んだ腰をさすりながら駅構内へと向かった。
 日差しから隠れるようにして高いビル群の影を踏みながら歩く。
 だけど、その時になって初めて思った――この後、俺はいったいどうすればいいのだろう。
 もちろん叶歴に会いに行かなければいけないということは分かっている。
 でも、突然俺が会いに行ってもいいものだろうか。
 数日間連絡がとれなかったので心配だから会いに来たって言って引かれないだろうか?
 これで彼女がなんともなかったら俺の立場がないような気がしてきて……なんだか目的地に到着した途端に俺の意欲が一気に削がれてしまったような気がした。
「仕方ない……とりあえずは叶歴のところに行こう」
 金銭的に考えて数日分は安心して過ごせる。でも――できれば田舎に帰りたくはない。ここでまた過ごす事ができれば、と俺は考えながら地下鉄に乗って、少し前まで暮らしていた町へと行く。
 たくさんの人々で溢れる地下鉄の切符を買って電車に乗り込む。懐かしき騒音の箱に俺は運ばれる。狭いトンネルの中を駆け抜けていく。三笠町にはない地下鉄。久しぶりに乗る地下鉄に俺は、普段気にもしていなかった特有の匂いを感じた。
 そして地下鉄に揺られながら俺はいいことを思いついた。
 叶歴と会うにあたっての話だが……ここはいっそ叶歴には黙っておいて、こっそりと彼女の様子を見守ってみるのはどうだろうか。
 もし本当に彼女の状態が危なかったらすぐに姿を現したらいいだけだし、大丈夫そうなら彼女の普段の生活を見るチャンスだ。俺がいなくなった後、ちゃんと過ごしているのか心配だったからな。
 それに、バレたらバレたでそれも別にいい。たまたま来たとか言えばいいだけだ。
 そうだ。その方法でいこう。
 俺は思わず口元が緩む。その後も叶歴の事を考えていると、やがて地下鉄は目的の駅に到着。沢山の人がホームに流れていくのに俺も混じりながら地上へ向かう。
 この地上を出るまでの長い道も東京特有の現象。長い長い駅地下構内。地上までの道程にはには様々な店がある。久しぶりに見る店や、新しくできた初めて見る店などを通り過ぎながら、やっとの事で地上に出た。
「ああ……なんだか随分久しぶりな気がする」
 眩しい夏の朝日が俺の目を突き刺す。周りを見渡せば、当たり前だけど1年前とあまり変わらない風景。
 東京だけど、都心から離れているので落ち着きと自然が存在する町。俺と叶歴の町に到着した。
「さてと……まずはどうしようか」
 そういえばまだ泊まるとこも決めていない。俺にはいろいろとやるべき事があったが……なによりまずは叶歴の無事を確認したかった。
「家まで行くか」
 というわけで叶歴の住む家に向かった。
 歩く歩く歩く。そう言えば最近俺は歩いてばかりだなと思う。まあでも俺は元々散歩が趣味なのだからこんな暑い中でも歩くのは苦にならない。黙々と歩を進める。
 やがてジリジリ夏の日差しが照りつける中で俺は思った。
 そういえば、叶歴の家の前までは何度か来たことあったけど、中には結局入ったことなかったなと。ま、ほとんど夜しか会ってないんだからそれは仕方ないか。
 俺は叶歴の自宅に到着して、とりあえず向かいにある公園のベンチの上に座った。
 ここで叶歴を見かけるまでしばらく待ってみよう。ある程度待って見つからないなら、その時またどうすればいいか考えればいい。
 それにしても……叶歴も俺と同じ歳だから高校に通ってるってことなんだよな。叶歴の高校生活か……普段どんな学校生活を送ってるんだろうな。
 夜の廃墟で会う関係の俺には叶歴の日常が想像しにくかった。
 それから結構な時間が経ったが、俺は不思議と苦に感じなかった。こうして待ちながら1年ぶりに会う叶歴を想像するのが楽しかった。
 そんな風に色々と思考を巡らせているうちに――とうとう俺は、彼女の姿を見つけた。
「かっ、叶歴っ……」
 思わず大きな声が出てしまいそうになったのを抑えて俺は物陰に隠れる。
 家の扉から出てきた叶歴はお洒落な水色のワンピースを着ていて、手には可愛いバッグを提げていた。髪型もリボンをつけたりして綺麗にまとめられている。
 一見見たところ体が弱っているといった様子がみじんも感じられなくて、元気そうだったからひとまずは安心だけど……。
 そんなことよりも、正直俺は1年ぶりに見る叶歴の姿に驚いていた。
 なんというか、1年見ないうちに随分垢抜けたというか。俺の知っている叶歴はもっと世間離れしていたような、不思議な少女だった。だけど目の前にいる少女はいかにも現代の美少女女子高生って感じだった。
 叶歴は俺に気付く様子もなく、どこかへと歩いて行った。その足取りはしっかりしている。
「……」
 奇妙な気持ちだった。元気そうなところを見れて喜ぶべきなのに、なぜか俺は少し寂しさみたいなものを感じて、感じながらも叶歴の後を追った。
 歩いて行く内に徐々に人通りの多い場所に入って、そして叶歴は駅に入っていった。切符を買っている。
 どこまで行くのか分からないのでとりあえず俺は適当な値段の切符を買って後をつける。
 座席に座る叶歴にバレないように、かつ見失わないような位置で俺は見張る。怪しまれないように窓の外へと顔を向けていた。
 この景色……懐かしいな。やっぱりほとんど変わっていない。まるでこの東京自体が、あの廃墟のように時間が止まったような、そんな印象を抱いた。
 電車に揺られて3駅を通り越して次に到着した駅で、叶歴は腰をあげた。ここが目的の場所なのか。
 次第に電車は減速し、そして停車。ドアが開く。思った通り叶歴が出て行った。俺も少し遅れて電車から出る。
 幸いこの切符で改札は抜けられるので、俺は叶歴を見失うことなく後をつけられた。
 叶歴も警戒している様子もなく、一度も振り返る事もなかったので、楽勝だった。
 街に出てみると、ここは繁華街だった。以前住んでいた場所から比較的近かったこともあり、俺も何度か来たことのある街だった。
 人で賑わう街を叶歴はまっすぐ進む。俺も見失わないように追う。
 東京の街の日照りの勢いも田舎と当然同じで、燦々と照りつける太陽が俺の体力を奪う。
 ……叶歴は大丈夫なのだろうか?
 彼女は体力がないから、昼間はあまり外に出ることができないと言っていた。なのにこんな暑い日中に街を歩くなんて……。
「〜♪」
 しかし全然平気そうなところを見ると、もしかして彼女の病気は完治したのだろうか? 一時期は命の危機だって言っていたこともあったのだけど。
 わけの分からないまま追っていると、ようやく叶歴はある建物の前で立ち止まった。
 俺が建物に目を向けるとそこは――喫茶店だった。
 喉が渇いたから何か飲むつもりなのだろうか……いや、誰か人と待ち合わせでもしているのかも……。
 俺は無性に心配になる。
 叶歴は店の中へと入っていく。俺も少し時間をおいて中に入った。
「いらっしゃいませ〜」
 店員に声をかけられ、席に案内させられる。だが俺は無理を言って、なるべく目立たない端っこの席に着くことにした。
 この席なら店の中全体が見渡せるし安心だ――と思って回りを見て見たが……なぜかどこにも叶歴の姿が見当たらなかった。
 まさか見失った? いや……そんなわけはない。出入り口は一箇所しかないし、俺が店内に入ってから誰も出て行った様子もない。叶歴はまだ店の中にいるはずだ。
 俺は焦った気持ちになりながら、とりあえずコーヒーを一杯頼んでじっくり叶歴を探してみる。しかしやはり叶歴はどこにもいない。
 もしかしてトイレに行っているのかもしれないと俺は気を落ち着かせる。だけど、コーヒーが到着してもまだ叶歴は姿を現さない。
 いつの間にか出て行ってしまったのだろうかと、俺は諦めそうになる。その時だった。
「……っ!?」
 俺は意外なものを目にした。それはこの喫茶店のエプロンに身を包んだ叶歴の姿――。
「いらっしゃいませ」
 叶歴は新しく店に入ってきた客に声をかけて、席に通している。
 彼女の姿は俺の知っている叶歴からは成長していて、より大人っぽくて垢抜けていて、俺は胸がときめくのを感じた。
 彼女はこの店の従業員なのだ……。もしかして叶歴はここでバイトしているのだろうか。
 俺は軽くショックを受けた。まさかあの叶歴がバイトしているなんて……叶歴が働く姿なんて想像していなかった。叶歴がどんどん俺の想像を超える存在になっていく。
 俺は半ば放心状態になって叶歴の働く様子を見ていた。
 しばらく見ないうちに益々綺麗になった叶歴のエプロン姿は、この店の中にいる誰よりも似合っていたし、まるでアイドルのコスプレか、メイド喫茶みたいな感じだった。
 きっとこの店には叶歴目当ての客もいるのだろう、俺は叶歴が客にコーヒーを渡しに行ってるのを見て、さらには男性客が叶歴の姿に見とれているのを見て、そんな事を思った。
 俺はいい気分じゃなかった。もしできるなら、今すぐ叶歴の前に飛び出して、そしてそのまま叶歴の手をとって遠くに走り出したかった。もうこんな店に二度と関わらないくらい遠くの場所に。俺と叶歴の世界に。
 自分の中でそんな薄暗い感情が芽生えるのを感じながら観察を続ける。
 しばらく見ていると、なんと1人の若い男が叶歴に話しかけてきた。
 そいつは叶歴と同じく、この喫茶店のバイトらしき男。
「どう、ノノ羽良さん? 何か困ったこととかない?」
 馴れ馴れしい声。チャラチャラした感じの、多分大学生くらいの男だった。
「あ……は、はい。結構慣れてきました。なかなか楽しいです」
 叶歴は笑顔で答えている。
 久しぶりに聞く叶歴の声はあの時と変わらず、体の奥まで優しく染みこんでいきそうな、そんな透きとおって心地いい綺麗な声だった。俺の心は一瞬でときほぐされた。
「何か困ったことがあったら言ってよ〜。オレは可愛い女の子の味方だかんね〜」
 髪を汚い茶色に染めたいかにも軽薄そうな男は、叶歴の背中をぽんぽん叩いていやらしく笑っている。
「だ、だからセクハラはやめて下さいってっ。先輩ったら!」
 叶歴はそっと身を逸らして男のボディタッチから逃れる。
「こんなのただのスキンシップじゃないかぁ。ノノ羽良さんはお堅いなぁ〜」
「せ、先輩が軽すぎるだけです……」
 尚も叶歴は男と楽しそうに喋っている。それは決して迷惑してるって感じじゃなかった。
 なんでなんだよ、叶歴。なんで……こんなに楽しそうなんだ。
 何故か分からないけど、俺は叶歴の笑顔を見ていると無性に辛くなってしまった。なんで、俺はこんな気持ちになるんだ。
 叶歴はただバイト仲間と普通に話しているだけじゃないか。なのに俺は……。
 そのうちにバイトの男は馴れ馴れしく叶歴の肩に手まで置いて、冗談っぽくヘラヘラ笑う。
 俺はもう限界だった。だから――。
「か、叶歴っ……叶歴じゃないかっ!」
 わざとらしく俺は立ち上がり、声を上げて叶歴に話しかけた。もうこれ以上黙って2人の様子は見ていられなかった。
「……え? つ、附音くん?」
 エプロン姿に身を通した叶歴は、呆気にとられた顔をして俺を眺めていた。
 チャラチャラした男も、何事かとぽかんとだらしなく口を開けてこっちを見つめている。
「な、なんで……ここに」
 叶歴は約1年ぶりに会う俺に驚いているようだ。そりゃそうだろう。
「ちょっと、東京に用事があって……それでここに立ち寄ったんだけど」
 嘘は言っていないつもりだ。俺は君に用があってきたんだ。
 だけど……こうして間近に立ってみて改めて俺は叶歴の可愛さを再確認する。見た目は垢抜けた感じがしたけれど、やっぱり叶歴は叶歴だ。昔とちっとも変わらない。
「そ、そうなんだ……附音くん。その、私」
 どことなく叶歴の様子はぎこちなかった。でも、それはきっと俺も同じなんだろう。
「ねえ、ノノ羽良さん……この人は?」
 すると、俺達のやり取りをぼけ〜っと見ていたバイト仲間の男が口を挟んできた。
「あ、あの……この人は私の……私の友達です」
 叶歴は俺の方を見て、躊躇しながらもそう答えた。
 友達。そうなんだ……友達、なのか。
「ふ〜ん。ノノ羽良さんの友達か〜。じゃ、ゆっくりしてってよ。で、よかったら後で色々話とか聞かせてよ」
 見たところ、男はチャラチャラしてるが結構顔は整っているし、背も高く体つきも良かった。
「話……ですか」
 なんとなく俺はこの男の事が好きになれない。どんな人間かは知らないけれど、話なんかしたくないし関わりたくない。俺は一刻も早くこんなところから抜け出したかった。もちろん叶歴を連れて。
「そうそう。あっ、じゃあオレからも聞かせてあげるよ〜。ノノ羽良さんってこう見えて結構ドジなとこあってね、よく変な失敗するんだよ。この前だってさ〜……」
「って、もうっ。やめて下さいよっ先輩っ」
 パニクりながら叶歴がチャラチャラ男をポカリと叩いた。
「いてっ。何も叩くことないじゃん。ノノ羽良さん〜。はははっ」
 ポカポカ叩かれながら男は馬鹿みたいに軽薄に笑っている。
「そ、それは先輩が変な事言おうとするからっ」
 2人は楽しそうに会話している。俺が入り込む余地はどこにもない。
「……」
 だから俺は自然と席を立って、店を後にしようとした。自分でもなんでこんな行動をとったのか分からないままに。
「って、あ、あれっ……ど、どこに行くの? 附音くんっ」
 慌てて叶歴が俺を呼び止めた。
 俺は少しだけ体を振り返らせて、叶歴の顔を見る。
「うん、俺ちょっと用事があるからそろそろ行かないと……まだしばらくはこの街にいるから……またな」
 用事は叶歴にあるんだ。俺は……なにを逃げようとしているんだ。今度こそ叶歴と一緒にいるってあんなに勢い込んでいたのに。
 きょとんとしている叶歴の顔。俺がずっと求めていたものが目の前にあるのに……俺は。
「つ、附音くん……ま、また会えるよねっ」
「あれ〜、もう帰っちゃうんだ?」
 叶歴の鈴の鳴るような美しい声と、チャラチャラ男の癪にさわる声を聞きながら俺はその場を立ち去る。きっと俺は正常な思考ができていないのだ。やけになっていたのだ。
「ちょ、ちょっと附音くんっ」
 俺を求める叶歴の悲痛な声を背中で受けて、店の外へと出た。


inserted by FC2 system