引き継がれる物語

第5章 東京

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

3

 
 待ち合わせ場所はあの建物――ではなかった。
 俺にとってあそこに行くのは夜だけなのだ。幻想の世界は夜にしか開催されない。
 それに――今の俺達じゃ多分行っちゃいけない気がする。まだこの状態じゃ行けない。そんな気がする……。
 俺は今、とある人気のない公園にいた。
 暑いからだろう、人の集まりそうな場所なのに人はまばらにしかいなかった。
 俺は木陰の涼しいベンチに座って叶歴を待っていた。ここは夏でも暑さをしのげる穴場スポットなのだ。俺はその事を知っている。
 体力のない叶歴にしんどい思いをさせるのは嫌だから、俺は叶歴の家の近くの公園を待ち合わせの場所にしたが……それとも冷房の効いたどこかの店内の方がよかったかな……なんて思いながら俺はせわしなく叶歴を待つ。
 公園の向こう側に見える都会の街は、夏の暑さで煙が立ちこめているように見えた。
 それでも、こんなにも暑いのに、やはり都会の街にはたくさんの人が行き交っている。みんながそれぞれ目的地を持ってそこに向かっている。公園の中には目もくれずに通り過ぎる。
 暑さは同じなのに、やっぱり御笠の町とは時間の流れが違うなって思った。
 俺はなんとなしにそんな事を考えながら缶コーヒーを飲んでしばらく待っていると、
「お待たせ、附音くん」
 俺にとって特別な声が聞こえた。透きとおって、けれど明瞭とした綺麗な声。俺がこの都会に来た目的。
「あ、ああ……そんな待ってないよ」
 俺はぎこちない動作で声のする方へと振り返る。
 大好きなノノ羽良叶歴が立っていた。
「暑いね、ほんと」
 朗らかな笑顔の叶歴はとても活き活きしていた。
「そうだな……それでさ、今日はどうしたんだ」
 できるだけ感情を押し殺してぶっきらぼうに言う。本当は叶歴に再会できてこんなに嬉しいはずのに。
「だって、附音くんと会うのすごい久しぶりだし。あ、もしかして附音くん、迷惑だったかな」
 久しぶりに会う叶歴は、以前と比べてぐんと女らしく成長していた。出るとこは出て、魅力があって、服だってお洒落な格好をしている。
 なんというか、昔よりも現実に近づいたというか、世間に近づいたというか。なんにしても昔とは違う。昔の叶歴は、この世界からはみ出した雰囲気を持っていた。
「どうしたの、附音くん?」
 俺がぼうっとしていたらいつの間にか叶歴が俺の顔をぐいと覗き込んできた。
「あっ、いや……なんでもない」
 俺は慌てて叶歴から目をそらす。
 叶歴はそんな俺を不思議そうな顔で見た後、ようやく俺の隣に腰をおろした。
 一瞬とてもいい香りが俺の鼻腔をついた。――俺の知ってる叶歴からはこんな人工的ないい香りしなかったはずだ。飾らない自然な香りだったはずだ。
「それにしても久しぶりだよね、附音くん。これまでの事いろいろ聞かせてよっ」
 昔よりもだいぶ豊かに感情表現する叶歴。今でも本が好きなのだろうか? 物語を創っているのだろうか?
「あ、ああ。そうだな……とりあえずこの夏までいた町について話すよ」
 俺は少し戸惑いを感じつつも、まずは御笠の町に来る前に約1年ほど住んでいた町の事から話し始めた。
 と言っても――そこの町での思い出は少ない。
 それは叶歴と離れたばかりで俺の心はぽっかりと空虚な状態になっていたから。だからそれは灰色で空白の1年だった。
「そうなんだ……」
 俺の話を興味深く聞く叶歴は神妙に頷いていた。
「で、そこも引っ越すことになってさ……しかも今度は両親、凄く忙しくなって俺が心配だからって海と山しかない田舎町のおばさん家に預けたんだぜ。1ヶ月くらい前からなんだけどさ」
 メールでも伝えていた事だけど、やっぱりメールだけでは伝わらないこともある。
 振り回されて、それをただ受け入れるだけの受動的人生。意思のないペットのような人生。
 俺は叶歴がいない退屈な田舎町での生活をべらべら話した。
 ほとんど愚痴だったけど、それでも叶歴は嬉しそうに笑いながら俺の話を黙って聞いていた。ああ……この辺りは昔と変わらないなって話ながら俺は思った。
「ってわけでさ〜、ほんといとこが変な事ばっかしてくんだよな〜」
「ふふっ、面白いね。その子」
「まあな。……っと、なんかさっきから俺ばっかり喋ってるけど、今度は叶歴の話を聞かせてくれないか? 久しぶりに叶歴の創った物語も聞いてみたいし」
 俺と別れた後の叶歴がどうしていたか俺はとても興味があったし、その間彼女が創りあげた物語がどんなものか聞きたかった。だけど。
「ごめん。附音……実は附音と離れてからお話は創っていないんだ……」
 その告白に俺は軽い衝撃を受けた。俺と別れる際に新作を考えておくって言っていたのに。
「あっ、そ、そうか。そりゃ仕方ないよな……じゃ、じゃあ叶歴の話を聞かせてくれよ。今どんな感じなのか」
 そう、これは仕方ない事だ。人が成長するとはこういうものなのだ。俺は努めて明るい表情を崩さなかった。
「私の話か〜……聞いても別に面白くないと思うけどな〜」
 叶歴は苦笑いして言い渋っている。長い髪がふわりと揺れた。
「いや、すごく気になるよ。だって叶歴、なんか見た感じ以前と雰囲気が結構変わってるっていうか……体とかは大丈夫なのか?」
 俺と別れる前の叶歴はすっかり衰弱していたのだ。それに叶歴自身が言っていた。もう自分の命は短いって。
「うん。それなんだけどね……なんだか不思議なんだ。附音くんが引っ越していった後、だんだん体が元気になっていって……お医者さんも不思議だって言ってた」
「不思議って、そんな、なんで突然……」
 全然理解できない。なら神流が言ってたことはなんだったんだ? この世界での存在が消えてしまうとかそういう話だったんじゃないのか?
「う〜ん。どうしてなんだろう……。もしかしてあれかなぁ。私、附音くんが引っ越した後なんとなくあの場所に行くのが辛くなって、あれ以来一度も行ってないんだ。それ……関係あるかなぁ」
 首を傾げて上目遣いになる叶歴。
 そうか……。叶歴はもうあの場所には行ってないのか。俺と叶歴の2人を繋ぐ秘密の場所。2人の思い出がなくなってしまったようで俺は少し悲しくなった。
「ま、まぁでも叶歴が元気そうで何よりだよ」
 つまり、もう俺が叶歴の体を心配する必要はなくなったという事なのだろうか。これでやっと解放されるというか、やれやれというか……。でもこんなに呆気ない幕切れだなんて……せっかく東京まで戻って来たのに、なんだか拍子抜けした。
 けどその結果、叶歴の体が全快してくれたのなら俺にとってそれは最高に喜ばしい事だ。
 喜ばしい事……なのに、俺はどうしてこんなにも胸がぽっかりするような、そんな寂しさを感じているんだろうか。
「でね、学校にも普通に行けるようになってね……」
 叶歴は嬉々として話し続ける。こんなに饒舌な叶歴の姿を見るのは初めてなんじゃないだろうか。でも、こんなに近くにいる叶歴が今すごく遠くに見える。
 俺は自分の気持ちにどうする事もできず、ただ黙って聞いているしかなかった。
「私今まで友達とかいなかったんだけどね、最近学校で何人かと仲良くなって一緒に帰ったり遊びに行ったりしてるんだっ。こういうのって……なんかいいよね」
 嬉しそうに語る叶歴。それは俺の知らない彼女の顔。物語を創らなくなった彼女。理解はしていたつもりだけど……彼女はもう廃墟の少女ではなくなったのだ。
「それで思ったんだ。今まで私やりたいこととかあまりできなかったから、だから思い切って最近バイトを始めたの」
 叶歴はうきうきした感じに話す。性格の方も以前と比べて明るくなり口数も増えている。
「ああ、それで喫茶店で働き出したのか」
「うん。でも私、働くの初めてだから失敗ばかりしてるんだけど、それでもみんな親切でとっても優しくしてくれるんだ」
 ……叶歴と俺は、いつも一緒だった。俺も叶歴も友達がいなかった。だから俺達は2人だけの世界を創りあげた。
「それでね、バイト先の店長とか先輩とかとっても面白いんだよ。みんな冗談ばっかり言っててさ」
 俺の知らない物語を彼女は進んでいる。あんなにも一緒だったのに、今は俺とは全く無関係のものになってしまっている。俺はもしかして……俺が好きだった少女というのは……。
 叶歴は今、俺を置いてどんどん先に進もうとしている。叶歴の道を。そこに俺はいない。
 そう思った時、俺は叶歴が話しているのを遮って言葉を放った。
「――昨日の男の人。あの人だれ? 随分仲よさそうに話してたけど」
 まるでこれ以上置いて行かれるのを止めようとして。自分の居場所を求めて。
「え……? ああ、佐藤さんのことだね。うん。あの人はバイトの先輩。大学生なんだって。面白い人でいっつも私を笑わせようとしてくるんだよ〜」
 叶歴の表情がより一層明るくなった。こんなにも嬉しそうな顔を俺は今まで見たことがなかった。俺は……俺はこんな叶歴は知らない。
「あ、そう……なんか楽しそうだよな」
 何を拗ねているんだろうか。つい悪態が口から出てしまう。
「え? うん。まあね〜。だってさ、今までできなかった分まで思いっきり頑張ろうって青春を謳歌してるんだっ」
 叶歴は俺の心に気付いてないようだ。俺は、胸の奥の何かがちりちりと熱くなってくるのを感じた。俺が好きな少女は……どこかに行ってしまったのか。
「じゃあもう俺がいなくても平気って事……だよな」
 ……しまった。なんでこんなこと……俺は何てことを言ってしまったんだ。ついうっかり口が……。違うんだ、叶歴。これは……。
「うん。そうだね。附音くんはもう心配しなくても平気。私はもう大丈夫だよっ」
 だけど、叶歴は顔色一つ変えずに平然と答えていた。
 叶歴のその返事に俺は茫然自失になる。表情がどんどん暗くなるのが自分でも分かった。
「な、なんでそんな事言うんだよ……お、お前はそれでいいのかよ」
 いや、俺もだろ。俺はいったい何を言ってるんだ。なんでこんな喧嘩みたいな感じに……。
「え、どうしたの? 附音くん。だってもうこれ以上附音くんに心配をかけないですむんだよ?」
 叶歴は怯えたように俺を見つめている。そうだよ。これは喜ばしい事じゃないか。俺はどうかしている。叶歴に謝らなければ。叶歴を傷つけるつもりなんてないんだから。
 なのに俺は――。
「だってお前は俺がいなきゃ駄目なはずじゃないか。俺がついてないと……なのに、なんでそんな」
 ち、違う。これは俺の言葉じゃない。さっきから意思に反して言葉が勝手に口から出てくる。なんでこんな……。だって俺は叶歴が好きなんだ。好きだったんだ。
「附音くん……私、附音くんが心配するほど弱くないんだよ? 私を必要としてるのは附音くんなんじゃないの……?」
 その言葉に俺は衝撃を受けた。いや、気付かされた……思い知らされた。
 叶歴の言う通りだ。駄目なのは――俺の方なんだ。俺の方が今までずっと叶歴の存在に頼っていたんだ。幻想の世界の少女という非日常に。
「お、俺が叶歴を必要としてるだって? そ、そんな事あるわけないだろ。だって俺達は昔からずっとそうだったじゃないか……そんな関係だったじゃないか。なのに……」
 それなのに俺は、なおも見苦しく叶歴にすがりつこうとする。
 さっきからずっとズレている。会話がかみ合わない……いや、違う。ズレていたのは昨日会った時から。そうだ……だってここは幻想じゃない。現実なんだ。おかしいのは、彼岸の世界にいるのは俺だけなのだ。
「附音くん……私はもう昔の私じゃないんだよ? 附音くんも私も前に進んでいるんだよ?」
 叶歴の言葉によって、俺の幻想が解体されていく。もはや俺の拠り所は何もない。
 俺はただ、昔と変わらない叶歴の澄んだ瞳を見つめた。……俺が好きだった少女の。拙い言葉で物語をつぐんでくれた少女を。
「ご、ごめん……言い過ぎたね。でも分かって附音くん。私は……」
 そうだ……俺が見ていたのは廃墟の少女であって――目の前にいる少女ではないんだ。
「……か、叶歴」
 同時に、俺はもう一つ気が付いた。
「え? なに、附音くん」
 神流が言っていた救うべき者というのは、叶歴の事ではなかったのだ。
 それは――この俺自身。だから。
「俺、もう行かなくちゃいけない……」
 だから俺は静かにベンチから立ち上がった。
「え……どうしたの、附音くん。いきなり」
 叶歴もつられて立ち上がる。けれど、俺は彼女を連れて行かない。連れて行けない。
「もう俺は東京を離れなくちゃいけない……行かないと」
 叶歴は既にこの世界で生き始めたのだ。俺の好きだった少女はもういない。だから今度は俺の番だ。たった1人だけれど。思っていたものとは違ったけれど。
 今こそ、約束を果たしに行く時だ。
「え、そうなんだ……で、でもせっかく会えたのに……もうちょっと附音くんとお話ししたかったな」
「時間がないんだ。俺は行くよ」
 突き放すような口調になってしまう。だってそうしないと――俺は1人でやって行けそうな気がしないから。そうでもしないと俺は叶歴から離れられない。俺はいつまでも叶歴の幻想を見続けることになってしまう。縛られ続けることになる。それは俺が嫌っていた両親のように。
 そう。もしかして俺がずっと囚われていたのは両親でなく……。そして、それはつまり神流も――。
 俺は意を決して、叶歴の瞳を正面から見つめた。
「それじゃあな、叶歴」
「え、あ……そ、それじゃあ……さようなら、附音くん。ま……また、会えるよね?」
 叶歴は戸惑ったような、けれど少し寂しげな表情を浮かべて尋ねる。
 本当は……俺はただ、ずっと叶歴と一緒にいたかっただけなのだ。それだけだったんだ。
 なのに、1年で2人の心はこれほどまでに離れてしまったのか。……全部、俺のせいなんだ
「……。じゃあな、叶歴」
 俺は叶歴の質問には答えずに、それだけ言うとすぐに背を向けて歩き出した。
「つっ、附音くんっ……」
 俺の背中に叶歴の悲痛な叫びが突き刺さる。でも俺は振り返ることなく公園を出て、そのまま駆けだしていった。
 夏の暑さも都会の喧噪も忘れて、自分の場所も分からず。俺の頭は真っ白だった。何も考えられなかった。
 ロケットビルの窓が太陽の光を反射して俺の目を眩ます。
 俺達はもう終わり――なのか。
 もう俺は叶歴と一緒にあの楽しかった日々を過ごす事はできないのか?
 そうだ。もう俺は……叶歴のお話を聞くことはできないのだ。
 叶歴は俺と離れた後、自分の人生を歩み始めた。
 しかし、俺はいつまでも叶歴の影を追い続けていた。叶歴との幸せという幻想に甘えていた。
 一方、叶歴は日常世界へと回帰していった。俺はけれどずっと抜け出せずにいる。
 だから俺は1人でも行くことにしたのだ。
 もう俺には何も残っていないかもしれないけど、それでも俺にはやらなければいけないことがあったのだ。
 今の俺には助けを必要としてくれる人がいる。俺を頼ってくれている人がいる。俺は俺のお話を紡いでいかなくちゃいけない。 
 きっと、大丈夫な気がする。たとえ俺が空っぽだったとしても。
 今は辛くて、悲しくて、まだ叶歴のことを忘れ去ることなんてできないけれど、でもきっと乗り越えられる。ずっと夢を見続けてきた俺の目を、そろそろ覚ましてやらないといけない。
 だって、俺はまだ16年しか生きていないし、人生はこれからもずっと続いていくんだから――。たとえ好きな女の子と別の道を行くことになっても、きっと乗り越えて行くのだ。
 俺は理解した。理屈ではなく心で。
 東京に来た目的。ここに戻ってきた意味。やり残してきた事を清算する。俺は俺を今度こそ救う。何度も何度も繰り返されてきた長い夢に終止符を打つ。

 ――そして夜になって、俺は丘の前まで来ていた。どこからともなく鈴虫の声が聞こえてくる。夏の夜は涼しくて静かで、ここが東京だなんて思えないくらいだ。俺は木々が生い茂る丘を見上げる。丘の上には古びた建物が見えていた。
 俺は一歩、足を前に踏み出した。それは終わりなき輪廻を打ち砕く一歩。
 さぁ、今こそ約束を果たすときだ。神流――。


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