引き継がれる物語

第2章 自らの意思

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 
 うだるような暑さに俺は目を覚ました。
 学校はまだ始まらないというのにこんな早くに目覚めてしまった。
 それにしてもまだ慣れない。毎度の事だというのに、新しい部屋で寝て目覚めた時の不思議な感覚。違和感。
 仕方ない。昨日やって来たばかりなんだ。これからゆっくりここの生活にも馴染んでいけばいい。
 俺がベッドの上で色々と感慨に耽っていると、部屋の入り口の方で人の気配がした。ゆっくりと部屋のドアが開いていく。
 なんだ……? 俺は興味があったので寝たふりをして様子を窺うことにした。薄目を開けて眺める。すると。
「ふっふっふ……どうやら兄ちゃんは寝てるようだな〜」
 居候先の娘……つまりいとこの千春だった。
「さぁ、恒例寝起きドッキリの時間だ〜」
 何やらまたよからぬ事を企んでいるらしい。ていうか恒例ってなんだよ。それはこれからも続く行事かよ。
 うふふふ……と含み笑いしながらこっちに忍び寄ってくる千春をじっくりと観察する。
「そろ〜り、そろ〜り」
 とか言ってる千春の手には――マジックペンがあった。
 うわ……もう全て悟っちゃった。これから俺に何をしようとしているのかを。
 千春はきゅぽりとマジックペンのフタを開けてペン先を俺の額に近づけてくる。
「昨日あたしを置いていった罰だっ……餌食になってもらおうぞ」
 と、千春が呟いてまさにペンが当たろうとした瞬間――、
「ふわぁ〜〜〜〜あ! よく寝た〜〜〜〜っ!」
 ガバリと身を起こして立ち上がる。俺はわざとらしく大げさなアクションで起床してみせた。
「うわっ、うわっわっ……」
 千春は突然の俺の起床に驚いて体勢を崩していた。そして、
「ふぎゃんっ」
 と、胸をぼよよんと揺らしながらベッドの下に落ちていった。
「あれ? お前、千春じゃないか。こんなところで何をやっているんだ?」
 お前の存在に全然気付いてなかったよ的な態度で首を傾げる。
「ふ、ふえええんっ。酷いよぉ」
 床では千春が尻餅をついていて、まくれ上がったスカートからパンツが見えていた。
「って、何見てるの〜〜っ!」
 慌てて千春はスカートを押さえつける。ピンクの縞パンか。うん、千春らしいといえばらしい。
「いやいや、何も見てないって……それよりなんでお前がここにいるんだ? ここは俺の部屋になったんじゃなかったっけ?」
 モロに見えてて記憶にはっきり残ってしまったけど、とりあえず俺は会話を先に進める。
「えっ……えと、それは……」
 と言って千春は俺から目を逸らした。よく見てみれば千春の額にマジックペンで付いたらしい黒い線がある。転んだ拍子に自分の額に当たってしまったのだろう。まぁ……自業自得だ。
「う、う〜ん。それは……そう、兄ちゃんを起こしに来たんだよっ」
 千春は自分の身に起こった悲劇も知らずに満面の笑みで答えた。
「朝の6時なのに? 夏休みなのに? ここの朝は随分早いんだな」
「うっ……それは……うん、ちょっと兄ちゃんに用事があったから」
 引きつる笑顔と引きつる口の千春。視線が泳いでる。
「用事って?」
「えと……用事用事はと……」
 どんどん自分から墓穴を掘っていってる気がするぞ。
「それは……ラジオ体操しようと思って、兄ちゃんもどうかな〜って」
 なんだその理由は。
「俺はいいや。だから悪いが今日はお前一人でやってくれないか」
 俺は即答する。
「えっ、あたしが……ラジオ体操っ!?」
 素っ頓狂な声をあげる千春。
「そうだよ。お前はラジオ体操するつもりだったんだろ? 俺は遠慮しておくからやっててくれよ」
「そ、そんなぁ……わ、分かったよっ。やるよ……やればいいんでしょ! つ……附音のアホうんこー!」
 千春は謎の罵倒を浴びせながら部屋から出て行った。
 そして数分後、庭からラジオ体操の音楽が聞こえてきて窓から見下ろすと、本当に千春が一人でラジオ体操している姿がそこにあった。
 額の落書きはそのままだった。まだ気付いていないのかよ!


 すっかり覚醒した俺は着替えて顔を洗ってリビングに向かった。
「おっはよ附音。随分早いんだな〜……感心感心」
 台所で瑠璃さんが朝食を作っていた。
「枕が変わるとなかなか寝付けないものなんで」
「早く慣れるといいね。それより附音……うちの千春がちょっとおかしいのよ。なんか急にラジオ体操なんて始めちゃってさ。あんた何か知ってる?」
「さぁ……よく分かんないですけど、健康に良いことなんだからそっとしておきましょう」
「そっか……きっとあの子も新しい家族にまだ緊張してるってことねー」
 と言って、瑠璃さんは娘の事に興味をなくして朝食の支度を続けた。
 俺はリビングのテーブルに着きながらぼーっと外の様子を眺めた。そこには千春がラジオ体操しているのが見えた。あと通りがかりのおじさんが千春の顔をみて笑いそうになってるのも見えた。
 千春は俺の視線に気付くと、何か言いたそうに表情を歪めたが、きっちりと真面目に体を動かして、そして最後の深呼吸を終えるとCDラジカセを持って家の中に戻って来た。
「さぁ附音。朝ご飯できたわよ」
 タイミング良く、朝食ができたようだ。テーブルの上にはご飯や味噌汁や、トーストやベーコンエッグが並べられている。
「随分とバラエティに富んだ朝ご飯ですね……」
「どう。和食と洋食のコラボレーションよっ」
 大きな胸を張って言った。
 さて、どういう風に食べていこうかと悩んでいると、千春が姿を現した。
「食べないのなら兄ちゃんの分まであたしが全部食べるからねっ」
 なんて食い意地のはった奴だ。もしやその栄養が胸へといくのか?
「誰も食べないなんて言ってないだろ。いただきまーす」
 俺はとりあえずトーストを掴んでジャムをつけて口に入れた。うん、普通においしい。
「それじゃあたしも食べようかなっ。思わぬ運動したからお腹ペコペコだよ」
 と言って嬉しそうにご飯に手を伸ばす千春。だけど俺は千春にストップをかける。
「千春。その前にお前、ちゃんと手を洗ってこいよ」
「えっ……な、何言ってんの。あたし、ちゃんと手は洗ったよ」
 ぎくりと体を強張らせて千春は俺を見つめる。
「いや、嘘つくなよ。お前手洗ってないだろ」
「な、なんであんたにそんな事分かるの。ちゃんと洗ったって」
 千春は俺の忠告も聞かずに再びご飯に手を伸ばした。その時。
「あら、千春。どうしたのその顔。変な跡がついてるけど」
 瑠璃さんが台所から現れて千春に尋ねた。
「えっ……?」
「ちゃんと朝、鏡で自分の顔見たの? 洗面所行ってきなさい」
 瑠璃さんに叱られて千春はわけが分からないといった様子で洗面所に向かっていった。
 俺は千春のことは放っておいて、朝食の続きを食べ始めた。
 ――そして数分後。朝食も食べ終わろうとした時。
「ちょっと附音っ! これはどういう事なのっ。なんであたしのおでこに落書きがあんのよっ! なんで言ってくれなかったのっ! 落とすの大変だったんだよっ!」
 怒りながら千春が再登場した。額の落書きはきれいに落とされている。
「いや、てっきりお洒落なのかなって」
「お洒落なわけないでしょ! たまに家の前を通る人があたしの顔見て笑ってたのを、てっきりあたしが可愛いからだって勘違いして、ちょっとすました感じで挨拶とかしちゃったじゃないの! あたし完全に馬鹿みたいに思われてるじゃん! 大体これはあたしがあんたに……っ」
 瞬間、千春はしまったという風に目を見開いて口を押さえた。いや、最初っから分かってるんだけど……面白いから気付かない振りをしよう。
「お前が俺に……なんだって?」
「う……いや、それは、別に……」
「どうしたの2人とも。何かあったの?」
 瑠璃さんが不思議そうに俺達を見比べている。
「いや、千春が俺になんかあるらしいだけど……どうしたっていうんだ、千春」
 俺は笑いを堪えながら千春を追及する。千春はしどろもどろになっていて、もはや正常な思考をしてないような風体だった。
「う……あ、あたしが……あたしはダイエット中だからあんたにあたしの分の朝ご飯をあげるって言いたかったのっ……ってええ、しまったあああああ!!!!」
 やばい。こいつ……馬鹿だ。
「あら、千春ダイエット中だったの? 私そんな事初めて知ったけど……ま、年頃の娘だからしょうがないけどダイエットも程々にしなさいよね」
「ふ〜ん、そうか。だったら俺がお前の分も食べてやるよ」
 俺は千春の分の朝食をとりあげて頂く。不良の俺はたとえいとこにも容赦はしないのだ。
 千春の体はぷるぷる震えていて、時折お腹からぐぅ〜、と情けない音が聞こえてきて、そして爆発した。
「つっ、附音〜〜〜〜〜っ! 覚えてろっ! すぐにぎゃふんと言わせてあげるからね〜〜〜〜〜〜〜〜っっっっっ!!!!!」
 千春は叫んでリビングから走り去っていった。……全然懲りていないようだ。


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