引き継がれる物語

終章 君が歩くのと同じ速さで

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

・旅立ち

 
 俺があれほどまでに恋い焦がれていた東京の地は、俺の中に消せない痛みを残した。
 早朝になって、俺は東京駅から新幹線で三笠町へ戻ることにした。
 暖かな朝焼けを浴びながら最寄りの駅まで行って、そこから東京駅へ行く。俺は電車の中から東京の街並みを見た。そう言えば結局ゆっくり観光することもなかった事に気付いた。
 まだ目覚めていない街はひっそりと静まりかえっている。東京駅に着いても人の姿はまばらだった。
 俺は切符を買って新幹線に乗った。
 旅の終わり。高速で過ぎ去っていく都会の風景。俺の憧れが去っていく。そして次第に田んぼや畑や工場や、何もない土地が増えていく。遠くにはどこまでも続く山が見え始めた。
 どこかで見たことあるような景色。俺はこの風景を知っていた。俺は同じものを同じように見ていた。
 そう。つい1ヶ月前と同じ光景を見ていた事に俺は気が付いて、そして静かに涙を流した。


 東京から戻ってきた俺を出迎えてくれたのは、いとこのおばさんである藤堂瑠璃さんと、その娘である中学2年の千春だった。
「あら、随分早かったわね? てっきりもう帰ってこないのかと思ってたわ」
 3日ぶりに見る瑠璃さんは相変わらずのサッパリとした調子で言った。
「帰ってこないわけないじゃないですか……だって約束しましたから、すぐに戻るって」
 できるだけ自分の感情を出さないようにして、沈みきった気分を隠しながら、俺は瑠璃さんのななめ後ろで恥ずかしそうに、でもどことなく嬉しそうな顔でこっちを覗き込んでいる千春を見て言った。
「う……あ、あたしは別に帰ってきて欲しいとか思ってないからなっ! ていうか兄ちゃんの存在今まで忘れてたくらいだからなっ」
 千春は千春で相変わらずだった。当たり前だが、こっちは何も変わっていない。そうだ、変わらないものもあるんだ。
 そう思うとなんか……急に張り詰めていたものが解けたというか、ほっとして、急激に眠気が襲ってきた。
「わっわっ、兄ちゃんどうしたっ!? もしかしてあたし言い過ぎた? ご、ごめん。悪気はなかったんだよ。ただちょっと照れくさかったから、それで……」
「なんだ? 心配してくれてんのか? 優しいとこあんじゃん。でも、そうじゃないよ。向こうではあまり寝てなかったからな。ふわ〜」
 俺が言うと、千春はみるみる顔を赤くして、ささっと瑠璃さんの背中に隠れた。
「ま、紛らわしいことすんなよっ。眠いんだったらさっさと寝てこいよなっ」
 半分だけ顔を覗かせた千春がきつい調子で言う。
「あ〜らら、この子ったらホントに附音くんが好きなんだからぁ〜。かわいいわねぇ〜」
 瑠璃さんが背後にいる自分の娘をからかうような調子で言った。
「う、うるさいっ。だからそんなんじゃないってのっ! お母さんは黙っててっ」
「はいはい。それじゃ附音も一度じっくり休むといいわ……目覚ましたらご飯作ってあげる。どうせ向こうじゃたいしたもの食べてないんでしょ?」
 ……この人はなんでもお見通しというか。
「そうですね。それじゃちょっと部屋で寝てきます」
 お言葉に甘えて俺は自室に向かった。
 その背中に瑠璃さんが話しかけた。
「附音くん。私にそんな堅苦しい言葉使わなくていいのよ」
 うん。この家はいつも通りの日常だ。今は……それが俺にとって心が安らかになる。俺を癒してくれる。あんなに嫌っていた町なのに。
 俺は3日ぶりに自分の部屋に行って、引っ越してから開封されていないダンボールを開けて、軽く部屋を整理してから、眠りについた。


 ――俺は夢を見た。いや……また俺は、別世界へトリップした。
 そこは……例の廃墟だった。
 俺がすがり続けていた幻想の場所。俺がずっと離れられなかった場所。
 そんな退廃した廃墟の中を意味もなく歩いていると、人影をみつけた。
 ここで誰かに会うとしたら彼女以外にありえない――叶歴。
 俺は心を弾ませて叶歴の元に向かった。
 だけど俺が近づく気配を感じて振り返った少女は――叶歴ではなかった。
 それは――時雨神流であった。
 なぜこんなところに神流がいるのか俺には理解不能だ。
 神流はただ俺の顔を見て静かに笑っている。そうすることが当たり前のように幸せそうに笑っていた。
 俺は思った。そうだ……俺は知っていた。神流は、神流はずっとここにいたんだ。
 俺と叶歴がこの廃墟にいたときからずっと。俺達と一緒にいたんだ。
 神流は俺自身なんだ。だから神流と俺は通じ合っていたのだ。
 俺の心の生み出した虚像。
 ごめん、神流。俺は気付いてやることができなかった。
 でも神流は表情を変えずに、ただ静かに笑っていた。全部分かっているという風に。それでも全部を許すといった風に。
 俺を縛りつけていたのは両親じゃなかった。どこにいても、振り回されていても、少し不自由だとしても――自分次第で俺は幸せになる事ができるのだ。
 俺は色々な人を犠牲にして、現実から目を背けて、周囲を憎んで。それで……何を得たのだろうか。
 そしてそれらに気付いてしまった俺は、これから何を得られるというのだろうか。
 それは分からない。でも――きっと大丈夫だ。根拠はないけど今はそう思えるんだ。
 だって叶歴はしっかり前を見て進んでいる。
 そして神流はただ真実だけを求めて生きてきた。
 だったら俺だってやれるはずだ。きっとできる。彼女達のひたむきさと、たくましさが根拠のない自信を強くしてくれる。
 だから俺はもう夢から覚めよう。
 この廃墟はもう終わりだ。俺は俺の幻想を壊す。
 そうしたら、俺の前に立って微笑んでいた神流は、背を向けて廃墟の奥へと進み出した。
 俺はそれを追うことはしない。俺はその背中に小さく微笑み返した後、神流とは反対の方角を向いて歩き始めた。
 ――約束は果たしたぞ、神流。


 目を覚ました時、窓の外からは強い日差しが差し込んでいた。
 いったいどのくらい眠っていたのか分からないけど、今が日中なのは間違いない。
 俺はベッドから体を起こして部屋を出て、階段を降りてリビングへと向かった。
「あら、目を覚ましたのね。おはよう」
 瑠璃さんが買い物袋からいろいろと取り出しながら言った。
「千春は?」
「千春なら部活に行ったわ。そういえば……夏休みももうすぐ終わりよね。いよいよ附音もこっちでの学校生活が始まるのね」
 瑠璃さんは愉快そうな顔をして俺の方を見た。
「そうですね。上手く馴染めるといいです」
 俺は瑠璃さんから目を逸らして玄関の方に向かう。
「きっと附音くんなら大丈夫よ。って、どっか行くの?」
「ええ、ちょっと用事を思い出したんで少し出かけます」
「何か食べてかなくていいの?」
「起きてすぐはあまり腹が食べ物を受け付けないんです……すぐに帰ってきますよ」
 俺はそうして家の外に出た。外はやはりとても暑い夏だった。夏休みがもうすぐ終わりだなんて到底思えなかった。
 じーわじーわじーわ、とセミの鳴き声がけたたましく聞こえてくる。
 外にはほとんど人の姿をみかけない。暑いから外出を避けているのだろうか。東京ではそれでも多くの人が行き来していたというのに。やはり時間の流れが異なっているのだ。
 まぁでも俺だって散歩が趣味でなければわざわざこんな暑い中好きこのんで外なんて歩かないだろう。そう言う意味では俺にはこっちの町の方が合っていると言えば合っているのかもしれない。
 そうこう考えながら歩いている内に俺は目的の場所に辿り着いた。
 路地と路地が入り組んだ先にある、注意しないと存在すら気が付かない場所。未だ名前も知らない神社。
 入り口で立ち止まり深呼吸をしてから一歩足を踏み入れた。
 神社の敷地内に入ると空気が変わった。相変わらず不思議な場所だ。
 さーさー、と木の葉のすれる音を聞きながら俺は辺りを見回してみた。
「……いない」
 けれども目的の人物はどこにもいない。
 神流に約束を果たした事を報告したかったのだが……。
 どこかに出かけているのだろうかと思い、しばらく待ってみることにする。
 だが――いくら待っても神流はここには来なかったし、その間誰1人この神社に訪れる者もいなかった。
 神流はいったいどこに消えたのだろうか。
 それとももしかして……。嫌な考えが俺の脳裏に浮かんだ。
 以前、神流が言っていた。
 もしかしたら俺が廃墟に行って真実を見つける事で、神流の存在がきえてしまうことになるかもしれないと。
 でも、神流はそれでいいと言っていた。なぜならそれが神流の進むべき道なのだからと。だから俺はそれを納得しようとして神社を後にする。これが神流の幸せなんだと自分に言い聞かせながら。
 けど、それでも俺は――たまらなく寂しかった。

 俺はそのまま帰るのもなんとなく癪だったので、山の麓にあるバイト先の野瀬商店に行った。
 相変わらずのぼろっちい店構え。台風がきたら飛ばされてしまいそうな佇まいだった。
「あら〜、附音くんじゃない。なぁに、もう帰ってきたの? 早いわねぇ……てっきりもう帰ってこないかと思ってたわよぉ」
 俺が店に入ると、野瀬姉妹の姉の方――野瀬静奈さん――が目を丸くしておっとり言った。
 瑠璃さんも同じ事言ってたし。俺はそんなに信用できない人間なのか。
「やだな、戻るに決まってるじゃないですか。お金だって返さないといけないんだし。とにかく東京遠征から無事生還してきましたよ」
 俺はこの人には恩があるんだ。給料を多く頂いた分、しっかり働かないとな。
「えははっ。そうだったわねぇ。じゃ、さっそく明日からまたここで働いてくれるかしら? それとも……もうお金を貯める目的なくなっちゃったかしらぁ?」
「……そんなことありませんよ。金は必要です。俺はまだ諦めていません。俺はいつかここを出ます。そして……今度こそ自分の居場所を見つけます」
「うふふ。ならこれからも頑張らなくちゃねぇ」
 静奈さんは目を細めて笑って、店の奥へと行った。
 そうだ、今まで逃げてきた分、俺はこれから頑張らなくちゃいけない。今度は自分の意思で自分の進むべき道を見つけるんだ。
 だからそれまでは、当分この田舎町で暮らすことになるだろうし、この小さな商店で働くことになるだろう。
 まぁ、それはそれで悪くないかもしれない。この町を好きになってもいいかもしれない。
 そんな事を想ったとき、店の扉が開いた。
「お姉ちゃん、配達終わったよ……って、わっ、越坂部附音っ! なぜここにいるっ? もうこの地に戻ってこないと思ってたのに!」
 静奈さんの妹の郁奈が店の扉を開けてやってくるなりズビッと身構える。俺はそんなに危険な生き物じゃないんだけどな。そしてそんなに俺に帰って来て欲しくなかったのか。みんな同じリアクションじゃん。
「残念だったな郁奈。俺、明日からまたここで働くことになったから」
「……ふ、ふん……あなたは東京でのたれ死にでもしてくれればよかったのに」
 郁奈はじっとり俺を睨みつけていた。やれやれ、不良の俺はどこに行っても嫌われる運命なんだな。
「それじゃあ今日はこれで。明日からまた世話になるぜ」
 郁奈に付き合っていたらまた無駄に体力を消耗してしまう。俺は早々に立ち去る事にした。
「あっ、附音くん」
 すると、静奈さんが店の奥から顔を出して、出て行こうとする俺を呼び止めた。
「なんです?」
「うん。お帰りなさい……附音くん。よく戻ったわね」
 にっこり笑っていた。そして続いて郁奈が――。
「ま、まぁ戦力があるに越したことはないから……その点では帰って来てくれてわたしも少しは嬉しいから……店開けていた分、明日からしっかり働きなさいよねっ」
 やれやれ。どうせ客なんてほとんど来ないのに。ま、でも案外俺もこの仕事に慣れてきたから、まあしばらくは楽しくやっていこうかな。
 店を出た俺は、さぁ家に帰ろうかなと思ったが……目の前の山を見て立ち止まる。
 ――この山を登った先にある岬。そこからはこの町の景色が一望することができる。
 俺はその景色を時雨神流と眺めた記憶を思い出した。
 人に見ることのできない存在、時雨神流。俺の中だけの存在。
「……」
 俺はふと思い立って、山を登ろうかと考えた。
 そこにいけば神流と会えそうな気がして……。それは神流と交わした約束だったから。全部が終わったらまたここで会おうと――。
 気付けば俺は、山の上の岬へと足を踏み出していた。

 歩くこと数十分。残暑が厳しく相変わらず厳しい道程だった。
 そしてようやく岬へと辿り着いたが、そこに神流の姿はなかった。
 俺はとりあえず町を一望する。
 熱気で白く霞む街並み。じわじわ滲む。滲む。滲む。こんなにもちっぽけな町なのに俺の人生の舞台にされてしまっている。
 俺は……ここから出られない。でもそれは誰のせいでもない。だって、俺は出ないだけで、実は出ようと思えば簡単に出られるのだ。俺の覚悟の問題なのだ。だから俺は俺の問題のせいで今はここから出られない。でも、きっとその問題はいつか解決できるはずなのだ。
 視界を街並みから少し上にあげた。海。どこまでも続く海。この水平線の向こうに、東京の大都会が、叶歴との思い出が詰まったあの廃墟があるのだろうか。
 俺はぼうっとしていた意識を呼び戻す。生暖かい風が吹くのを感じた。背中には山の昆虫達の声が突き刺さる。
 そして山の音に混じって、俺を呼ぶ人の声が聞こえた。
「あら、附音じゃない。待ってたわよ」
 それは俺のよく知っている声。
「か、神流……っ」
 俺は振り返る。
 けれど――そこには誰もいなかった。
 俺の聞き違いだったのか。
 その時、俺の体の中を何かが駆け巡ったのを感じた。俺と神流が一つに合わさった。不完全だった俺はようやく完成した。
 そして、この瞬間悟った。
 俺と叶歴を繋ぐ少女、神流。そして彼女の役目はもう終わった。
 神流はやっぱり不完全な存在だった。神流が以前予期していた通り、もう彼女は消えたのだ。
 神流はもう――この世界のどこにもいないのだと。
「は、ははははは……約束したのに。また会うまでは消えるなって約束したのに……っ」
 俺は全身の力が抜けてその場にしゃがみ込む。無性に泣きたくなった。
 結局、俺がやったことって何だったんだろう。
 俺はこんな辛い思いをするだけで、何一つ得たものなんてなかったんじゃないのか。
 全てが嫌になった。何もかも投げ捨てて、どこか知らない土地に逃げたかった。
「どうしたのよ、そんな顔して」
 山風に乗って、ふいに俺の耳に神流の言葉が聞こえた気がした。
 俺は顔を上げて、立ち上がって周囲を見回す。けどやはり誰もいない。
 そうだ。俺は目覚めたのだ。長い夢は終わったのだ。
 俺にはもう誰もいないんだ。
 と、思ったら――。
「にゃお」
 いつの間にか一匹の猫が俺の足元にいた。
「……あ、あれ。お前は?」
 俺はこの猫に見覚えがあった。
 片方の耳の先が欠けている、黒い猫。闇を象徴するような不吉な黒猫。それは……。
「あの廃墟にいたよな、お前」
 叶歴と共に過ごした廃墟にいつもいた黒猫。あの時のままの姿で、いま目の前にいた。
 俺は東京の街に全てを捨ててきたと思っていた。
 叶歴との思い出も約束も未来も。
 だけどそれは違う。捨ててなんかいないんだ。全部俺の中にある。名前のない黒猫は俺にそれを教えてくれた。生きる勇気を与えてくれた。
 俺は最後に振り返って――もう一度この町を眺めた。
 俺が生まれ変わったからだろうか、町がさっきまでと違って見える。具体的にどこが変わったのか分からないけれど、雰囲気が少し違って見える。
 海と山しかない、人の姿をほとんどみかけない小さな小さな田舎町。
 だけど、俺はこの町で生きていくのだ。少なくとも当分の間は。
 だから俺は前を向いて進もう。踏みだそう。
 俺はそう誓うと山を下り始めた。気持ちが楽になったせいか、疲れを感じない。
 黒猫は俺の後にしずしずとついてきている。
 そういえば、最近まであんなにうるさかったセミの声もあまりしなくなっていた。それに――心なしか暑さもましになっているようだ。あれだけ暑かった夏ももうすぐ終わりなんだ……。季節は秋に向かっている。俺の中では御笠の町は夏というイメージがこびり付いていたが……季節は巡るんだ。時は無情に、残酷に、そして優しく流れているんだ。
 でも……大丈夫だ。俺は何かをなくしたわけじゃない。失うものなんて何一つない。叶歴だって、神流だってついている。俺の中にいる。
 だから俺は前を向こう。新しい場所に進もう。
 夏休みは今日で終わり、明日からは2学期が始まる。
 そして俺の、この田舎町での学校生活が始まる。俺はこれから未来を生きる。
 俺のドラマはこれから始まるんだ。
 しかし、始まりが訪れることはなかった。俺が思っていた始まりは永遠に訪れない。それはもう既に終わっていたのだ。


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