引き継がれる物語

第5章 東京

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

2

 
 ――俺はいったい何をしに東京まで来たのだろうか。
 叶歴は全然元気だったじゃないか。何が危険な状態なんだよ。こんなところまで来て俺は何がしたかったんだ。
 結局あの後叶歴と別れた俺は、宿を取るのも面倒臭くなって今日はネットカフェに泊まる事にした。
 幸いここは三笠町と違って都会なので、そういった施設はいたるところにある。
 でもこの街で俺は何も持っていなかった。ここに戻ってくるまでは俺の全てがあると思っていたのに。もう俺の居場所は、存在理由はどこにもないのだろうか。
 ネットカフェの個室で俺はぼーっと中空を見ていた。そうして無為な時間を過ごした。何時間経っただろうか。むしろもう何日も経ったような感覚だった。
 俺の中で時間の概念が消えうせ、刹那で無限の時が流れる。そして時間だけでなく空間も飛び越えた。
 俺はネットカフェの個室から一歩も出ることなく、時と場所を越え彼方の世界へ行く。
 これはきっと夢の中……起きながらにして見る夢なのだ。
 そう……だから俺は身を任せよう。現実に馴染めない俺はここ以外のどこにだって行ってやろう。トリップしてやろう。そして俺は堕ちていく。ゆっくりゆっくり。心配なんてない。だって現実の世界になんかに未練なんてない。全てを投げ出して堕ちてやる。
 …………気が付くと。
 そこは真っ黒で、地獄の深淵のような、なにもないところに……俺はいた――。
「……」
 辺りを見回してみても何もない。ここは――世界の果てだ。俺はそう思った。
 音も光も時間の経過もない――いつまでもここにいたら気が変になりそうだ。確かに俺は現実が嫌になったが、この空間はもっと嫌だ。ここには退廃のみが存在している。わけの分からない不快がある。根源的な恐怖だけがある。こんなところから一刻も早く抜け出したい。俺はそう強く念じた。情けないけど、それ以外どうしようもなかった。
 もしかすると、これが死の世界……いや、現実以外の唯一の場所なのかもしれない。だったら俺はどこに行けばいいのか。俺はふとそんな絶望的な仮説が頭に去来した。いやだ……それだけはいやだっ。
 その瞬間――、一瞬にして世界に色が付いて、音が足された。
「えっ?」
 俺は声をあげて驚く。そして自分の声が出たことに更に驚いた。驚きながらも目の前にいきなり現れた、そびえ立つ建物に目が釘付けになる。
 ――そこはどこかの学校だった。小学校か中学校か高校かは分からないが立派な校舎だ。
 俺はぼけ〜っと学校を眺めていた。その時、ふいに声が聞こえた。
「あ、あの……でも私、体が弱いからクラブとかは……これから病院に行かないといけないし……。その、ごめんなさい……」
 聞き覚えのあるその声に俺は、えっ? となって振り返る。
 そこにいたのは……ノノ羽良叶歴だった。
「こほんっ……こほん」
 しかもその叶歴は、先程俺が会った叶歴ではなくて……もっと小さい頃の叶歴。多分俺と初めて出会った時よりも以前の叶歴だった。彼女は席について読書をしている時に友達に話しかけられた風だった。
「ふーん。そうなんだ。それじゃあ、わたし達だけで行こー」
「じゃあバイバイ、ノノ羽良さん。体に気を付けてね」
 幼い叶歴の近くには、叶歴と同じ位の歳の女の子達がいた。……多分彼女達は小学生だ。
「う、うん……ばいばい」
 校舎に向かう2人の少女の背中に、聞こえるか聞こえないくらいの弱々しい声で言う叶歴。そして1人残された叶歴は、俯いて再び本に目を落とした。最後まで俺の存在に気が付かなかった。目の前にいるというのに。
 すると、叶歴が本を閉じておもむろに立ち上がった。ランドセルを背負ってこっちに向かってきた。
「あ、ちょっと叶歴っ――」
 叶歴はなおもまっすぐ俺の方に近寄る。俺が見えてないのか? このままだと俺の体にぶつかってしまう――と思った時。
「う、わっ?」
 なんと叶歴の体は俺を通り越して、そのまま歩くスピードを変えることなく進んでいった。よく見ると俺の体は半透明になっている。
 そうか……。これは俺が見ている幻影だから、俺の姿は見えないし触れる事もできないんだ。
 俺は納得して叶歴の後ろ姿を見る。
 それはとても寂しそうな背中だった。そう、実際に彼女は寂しかったのだ。彼女はかつて俺によく言っていた。自分には友達がいない。附音くんが初めての友達だって――。
 俺の胸がちくりと痛んだその時――またしてもいきなり世界が暗闇に包まれた。
「なっ……またかっ」
 そして、まるで映写機を回しているみたいに、新たな世界が映し出される。今度はどこかの病院だった。
「駄目です。原因は分かりません……」
「そうですか。やっぱり駄目ですか」
 病室の中。叶歴がベッドの上で眠っていた。枕元には可愛らしい表紙の本が置いてある。叶歴の姿は今しがた見ていたのとほぼ同じぐらいか、あるいはさっきよりも更に若くなった年齢だった。
 傍には歳をとった医者と、そして見知らぬ男女がいる。3人とも沈痛な顔をしていた。
「あなた。もう諦めた方がいいんじゃない? 結果は変わらないわ」と、女が言った。
「そうだな……。先生、何か対策とかはないんですか?」と、男。
「残念ながら私には何とも。ただ言えることは……なるべく安静にして、運動や外出もできるだけ避けて、療養に励むようにとしか……」白衣を着た医者らしき男が言う。
 多分叶歴の両親と主治医だろう。みんながみんな、諦めたというような暗い顔をしていた。
 ただ、すやすやと眠る叶歴の寝顔だけが、この空間に希望を残していた。
 こうして眠る叶歴は、確かに叶歴だと俺が思う位に現実から切り離された、天使みたいな存在に見えた。俺は少女を愛おしく感じた。
 ――場面はまた変わった。
 今度は見覚えのある場所だった。丘の上に建つ大きな建物。俺と叶歴の秘密の場所。だけど――その建物は俺が知っているものとは様子がだいぶ違った。
「ずいぶん綺麗だ……窓ガラスだって割られてないし、周りの草木だって生えていない」
 その建物は俺と叶歴にとっての非日常の象徴。2人だけの世界の舞台。あの廃墟だった。
 でも今の俺の目の前にある建物は廃墟なんかではない。それにたくさんの人の姿も見えた。そしてその中に――。
「ねーねー、早く行こうよ。パパ、ママ」
 幼稚園児くらいの小さな女の子が両親の手をとって引っ張っている光景があった。俺にはその女の子が誰だか分かる。どことなく面影がある。その女の子は幼い頃の叶歴だ。
「お前は本当にこの場所が好きだなぁ〜。もう何回も来てるって言うのに」
 父親が幸せそうな顔をして笑っていた。それは先程病室で悲壮な顔をしていた男。
「こらこら、あんまり慌てちゃ怪我しちゃうわよ」
 母親が幸せそうな顔をして優しく注意した。それは先程病室で諦観していた女。
 この頃の彼女達は、不幸が入り込む余地がない程に幸せだった。父親も母親もさっき見た時よりも若々しく生き生きしていて、老け込んでいなかった。
「きゃははははっ♪」
 叶歴を真ん中にして、手を繋いだままアミューズメント施設に入っていく後ろ姿を見るだけでそんな事くらいは分かる。誰にだって分かる。
 ありふれた家族の姿。ありふれた幸せの形。家族と過ごす時間。これが叶歴の望んでいた幸せ……なのか。同じ場所にいても、俺とは別の世界を見ていたというのか……?
 3人の姿が見えなくなると、再び世界は闇でかき消された。喜びも悲しみも寂しさも全てを平等に無情に消し去る闇。
 だけど、闇の後には光が現れる。そしてまた光で世界が照らされる――。
「ノノ羽良さん……でしたっけ? あのう、よかったらさっきの授業のノート見せてくれませんか?」
 女の子が読書中の叶歴に話しかけた。
「え……えっ? あ、は……はいっ。わ、私のでよかったらどうぞ……」
 突然話しかけられた叶歴は、慌てて本から目を離して言った。
 今度はいきなり時代が飛んでいた。
 学校の中の風景だった。この叶歴の姿は俺もよく知っている。高校の制服を着ているようだが、この叶歴は俺が引っ越しした後の叶歴だろう。なんで引っ越し後かと言うと、俺が叶歴と離ればなれになる際に渡したヘアピンを頭に付けているからだ。この時はまだ付けていたのか。そういえば喫茶店で会った時はつけてなかったな……。
「ノノ羽良さん――」
 叶歴の前の席に座る少女は、叶歴のノートの内容を自分のノートに写しながら叶歴の名前を呼んだ。
「えっ? な、なに……?」
 叶歴はどことなく挙動不審だ。人見知りの激しい少女だからまあ仕方ないだろう。喫茶店で会った時はもっと垢抜けて見えていたのだが、叶歴がバイトを始める前の風景なのだろうか。
「叶歴さんって最近まで体が弱くて中学とかはあまり学校に来れなかったって聞いたんだけど……もう大丈夫なの? あっ……話しづらい内容だったら別に言わなくてもいいよっ」
 人の良さそうな感じの女の子が気さくに叶歴に話しかける。
「……は、はい。本当につい最近までです。何故かこの高校に入ってから体調がみるみる良くなって……私の主治医の先生も驚いてましたし、お父さんお母さんも喜んでました」
 それは、俺が引っ越してすぐって事だ。何か関係があるのか?
 叶歴に話しかけてきた気さくな少女はそうなんだ〜、と何やら頷きながら、またもや話題をコロリと変えた。
「ノノ羽良さんって、下の名前叶歴さんって言うんだよね? だったら叶歴さんって呼んでいいかな?」
「え……そ、それは……は、はいっ。いいですよっ。というか……ぜ、是非お願いしますっ」
 叶歴は驚いた感じで深々と頭を下げた。
 何故か俺は空虚さを感じた。
「あははっ、前から思ってたんだけど叶歴さんって結構変わってるわね」
「えっ? そ、そうですかっ? そんな事ないと思うんですけど……」
 叶歴はきょとんと首を傾げている。
「自覚症状ないところが何よりの証拠よ〜。私的にはね〜……叶歴さんには経験が必要だと思うのよね。なんだか世間ずれしてるところがあるって感じがするのよ」
「せ、世間ずれですか……?」
 叶歴は困ったように目をぱちくりさせる。
「そうよ。うん、いいでしょう。私が叶歴さんを立派な人間にしましょう。叶歴さんはバイトとかに興味はある? 私もバイトしてるんだけどさ、いい人生経験になるよ。……あっ、そうだ。今度店に寄って来ない? 私のバイト先ブティックの店なんだけど……叶歴さんに似合う服とかコーディネイトするよっ」
「え? こ、コーディネイトですか……?」
「そうそう。叶歴さんすっごい美人だからきっと何でも似合うわよ。あとさ、そんなかしこまった話し方なしでいいよ〜。だってさ、私達もう友達じゃない?」
「と、友達……。あ……う、うんっ。あの……よろしくね」
 叶歴に友達ができたようだ。俺以外に誰も友達がいなかった叶歴に……。俺は……。
 こうして――この世界の映像も消えた。
 あの叶歴に友達ができて、俺にとってこんなに嬉しい事はないはずなのに……なのに俺は胸の奥がチリチリしていた。なんだか叶歴が遠くに行ってしまいそうな気がしていた。
 世界に明かりが灯る――。ああ、まだあるのか……。
「きょ、今日からここでバイトするノノ羽良叶歴ですっ。よ、よろしくお願いしますっ」
 この風景は、今日の昼に俺が見た場所だった。喫茶店内の様子。叶歴の他には店のスタッフらしき人物が何人かいる。
「へ〜、すごく可愛い女の子だね〜。よろしく〜」
 1人の男が軽薄そうな口調で語りかけた。
 ……俺は無性に気分が悪くなった。俺はこの男を知っている。そう。こいつは昼間に喫茶店で見た、チャラチャラした大学生風のバイト男だ。
「あっ……えと、その……そんな事、ないです」
 すごく可愛いと言われて、叶歴は困っている様子だった。おろおろしている。
「ははは〜、そんな緊張しなくていいよ〜。もっと気楽にいこうよぉ〜。そしてもっと自身を持ちなよぉ。ノノ羽良さん絶対可愛いって〜。学校じゃ男子にモテてるでしょ? 彼氏とかいるの?」
 ……なんて気安い男なんだ。できるなら今すぐにもこいつを殴って叶歴を助けたい。
「べ、別に私はそんな事ないです……。彼氏なんてそんな……」
 そうだ。叶歴に彼氏なんていてたまるか。だって叶歴には……俺が……。
「へ〜、そうなんだ。じゃあオレが立候補しちゃおっかな〜。なんちて」
 とりあえずこいつ一回ぶっ殺す。
「わっ……そ、それは駄目ですっ……だって私には。私は……」
「ん? もしかして好きな人がいるの?」
「……そんなところです」
「じゃあ告白したらいいのに。ノノ羽良さんだったら絶対OKだって」
「……でも今は遠くにいるから」
「ああ……そうか、遠距離ね。ふ〜ん……。でもさ、いつまでも過去に縛られてるのはどうかなってオレ思うよ。何ていうか、前に進む為には手放さなければいけないものもあるっていうかさ」
 こいつ何言ってるんだよ。そんな……簡単に手放せるわけないじゃないか。離れたって俺は1年以上ずっと叶歴を想い続けていた。
「でも、私は……その、約束したから」
 その通りだ。何も事情を知らない他人が何を知った風な口を。
「約束か。うん……確かに約束は大事だけどさ、でも時は移り変わるものなんだ。そして人も成長する。それを約束に縛られてずっと過去に生きているのって、人として悲しいことだとオレは思う。人生はこれから先ももっと楽しい事が待ってるんだ。人は未来の幸せに向かっていかなければならないんだよ」
 チャラ男のくせに……なにシリアスな顔で正論ぶちかましてんだよ。
「で、でもそんな裏切るようなこと……」
「裏切りじゃない、解放だよ。約束をずっと守り続けてるってことはつまり相手の人生もその約束に縛りつけてるって事だよ。相手の事を思うからこそ、お互いのそれぞれの未来を進んで行かないといけないんじゃないかな、ってオレは感じるね」
「それが、相手の……ため」
 駄目だ……叶歴。こんなただの詭弁だ。騙されちゃいけないっ。俺は叶歴が必要なんだ!
「だからさ、ノノ羽良さん。未来に向かう第一歩としてオレと付き合わない〜?」
 ぱっと、男の表情がまた軽薄になってニヤニヤと言う。
「えっ……いやっ。それは結構ですっ。というかその為に長々と話してたんですかっ? もうっ!」
 叶歴はぷいっと男から顔を背けた。
「それもあるかもしれないけど、新人とのコミュニケーションの為でもあるよ。ほら……さっきよりは大分肩の力も抜けただろ?」
 男は鼻を鳴らして微笑んでいる。何様のつもりなんだよ。
「あ……」
 心が綺麗な叶歴は警戒する素振りもなく、ぽかんとして男を見ていた。
「で、でもこんなのはずるいですっ」
 叶歴はまるで、俺に対して接する時のように、感情が表に出ていた。
「ほらほら、そろそろ仕事始めよ〜」
「も、もうっ」
 そして2人は店の奥へと消えていく……確かに叶歴からは緊張が抜けていた。
 つらい。つらい。つらいつらいつらいつらいつらい。さっきから俺に何を見せたいんだ。消えろ。消えろ。消えろ。あらゆる世界なんて消えちまえばいいんだ。
 俺は世界の消滅を強く願い、そして――この世界も消えた。
 だけど、世界はどこまでも続く。永遠に回帰するが如く生まれ変わる。
 そして次の世界は――。
「……ここも久しぶりだね」
 叶歴が、どこかの建物の中にいる風景だった。
「……ここは」
 俺は一瞬で理解した。ここは俺達の世界。丘の上に建つ廃墟だ――。
 喫茶店で会った時のような、現在の垢抜けた叶歴が、1人で廃墟の中を歩いていた。しかし、叶歴の見た目は変わっても、廃墟の中は以前のまま、時の経過が全く感じられない、そのままだった。
 唯一その景色に違和感があるなら、それは時間帯が夜ではなくて昼間だということ。いつもこの場所では夜という、俺達の中での暗黙の約束があったが、1人歩く叶歴の周りの景色は草木も建物の瓦礫もくっきりと確認できる昼時だった。そこに幻想性はなかった。
 叶歴が俺達との思い出の場所を順番に巡って行く。
 バッティングセンターにボーリング場にプール。
 そして叶歴がロビーまで来ると、小さく独り言を呟いた。
「さようなら……」
 意味深な言葉。それは誰に対しての、何に対しての言葉なんだ。
「かっ、叶歴っ」
 届かないと分かっていても俺は思わず叫ばずにはいられなかった。
 しかし、不条理で理不尽で無意味で不均衡で曖昧な世界はすぐに崩れ去る。
 ――そして、世界は反転し、再び闇へと帰っていく。
 だけどその際に、俺はそこに見覚えのあるものを見た。
 消えゆく世界の中、叶歴の後ろにくっつくように立つ黒いなにか。まるで叶歴を守るかのように寄り添うなにか。
 それは影のように真っ黒で、でも人間というよりは人間らしいフォルムではないなにか。
 まるで――鬼のような形をしたなにか。
 俺はしかし、この影に対してもはや何の恐怖も嫌悪も憎悪も持っていなかった。この影は、敵じゃないから。影は影なのだ。見る人間の心が映し出される存在。俺がそんな風に理解した瞬間に、何もかも悟ったような気がした。叶歴の事も影の事も神流の事も俺自身の事も。
 そして――世界は終わる。1番始めの真っ黒の、影でできたような世界へと回帰した。
 また……この闇が続くのか。俺はこの世界に畏怖していたが、またすぐに世界は切り替わるだろうとたかをくくっていた。だけど……世界はなかなか切り替わらない。
 だから俺は恐怖を紛らわせるために、暗闇の中で考えてみた。
 叶歴は俺と別れた後、普通の女の子の生活を送っていたようだった。その事に対して俺は本来ならそれを喜ぶべきなのに、素直に喜べない自分がいた。俺は……俺は叶歴を縛っているのだろうか?
 だとしたら俺はもう、ずっとこの闇に閉じ込められていた方がいいのかもしれない。
 そんな事を考えた時、俺はふと藤堂家の瑠璃さんや千春のこと。それに野瀬商店の静奈さんに郁奈の事も……そして神流の事を思いだした。1ヶ月経たずの短い時間を。
 そんな事を思った時――終わりの世界が――終わった。
 暗闇に光が差し込む。まるでその先に希望が満ちあふれてるといわんばかりに、視界が眩しく照らされる。
「うっ……?」
 そして俺が目覚めた時――そこはネットカフェの個室の中だった。
 蛍光灯の明かりに目が眩んで頭がくらくらした。
 どうやら俺はトリップから抜け出して、現実世界に戻って来たらしい。
 なんだ、今のは……。ただの幻覚か? それにしても妙な現実感を持っていた。まるで日常の延長のような……まるでこの日常自体も幻覚のような。
 そう……まるで叶歴の語るお話の中に迷い込んだ気分だった。
 俺は妙な感覚に周りを見渡してみる。どこにも異常はない。残ったものはなにもない。やはり全てが幻だった。
 なにもかもが一気に俺の体から抜け出してしまったような、そんな喪失感だけがあった。
 今のはなんだったんだろうか。夢にしてはリアルでやけに生々しかった。なら幻覚でも見ていたのか? ……一度病院に行った方がいいかもしれないな。
 考えても仕方ないので俺は何気なく窓から外を見てみる。するともうとっくに日は暮れていた。もう深夜だろうか。どうやら結構な時間が経過していたようだ。
 俺は綺麗な満月を見て思った……。あの場所に行ってみようか。神流との約束の場所――。
 しかし、なかなか一歩が踏み出せなくて――。
 結局俺はこの日ネットカフェから出ることはなく、気が付いた時には朝になっていた。

 俺がネットカフェから出て、とりあえず朝食をとろうと近くのファーストフード店に入ってハンバーガーを食べている時だった。
 ピロロロロ……とケータイの着信音が鳴る。俺のものだ。俺はすぐに確認してみた。それは――叶歴からの着信だった。
 俺は一瞬、躊躇してしまった。
 あんなにも待ち望んでいたはずの叶歴からの電話のはずなのに。なんで俺は。
「……」
 けれど、俺は思い出す。かつて叶歴と共に過ごした幻想的な日々のことを。2人で描いていた世界を。
 俺は勇気を振り絞って携帯電話をとり通話ボタンを押した。
「もしもし……附音くん?」
 受話器の向こうから聞こえてくる声は、まさしく俺のよく知る叶歴のもので、それは俺が東京に住んでいた時と変わらない声だった。
「か、叶歴……」
 俺はそれだけで嬉しくなった。叶歴はあの頃と変わっていないんだ。叶歴は俺の叶歴なんだ。
「附音くん……まさかこっちに帰ってきてたなんて、全然知らなかった」
 その声には少しばかりの照れがあるように聞こえた。叶歴らしい、はずかしそうな声。
「あ、ああ。ちょっと用事があったから」
 本当の事は言えない。君の為に帰ってきたなんて……しかも全然元気そうだし。
「そうなんだ。昨日はごめんね……ろくにお話できなくて」
「仕事なんだからしょうがないだろ。それよりまさかお前がバイトしてるなんてな。正直意外だったよ」
 俺としては複雑な気持ちなのだけれども。
「うん。つい最近バイト始めたんだ……だから忙しくて、それで附音くんからのメールの確認や返事をするの忘れてたの……ごめんね」
 なるほど。連絡が途絶えたのは、たったそれだけの理由だったのか。こういう部分で抜けてるのは昔から変わらないよな、と思った。
「は……はは、なんだよ。結構俺心配したんだぞ。まっ、なんでもなかったんならそれでいいんだけどな」
 俺はわざとらしく快活に笑ってみせた。
 しばらく受話器からは声は聞こえてこなかったけれど……やがて、いたずらが見つかった子供のような声で叶歴が言った。
「ねぇ、附音くん。もう一度会いたいんだけど……いいですか」
 どこか悲壮感を感じさせる声。俺はなんだか緊張した――が。
「ああ、いいぜ」
 反射的に即答する。これが俺の正直な気持ちだから。叶歴に会いたい俺の気持ち。
 しかし俺はこの時、まだ考えてすらいなかった。
 これが俺と叶歴の、別れの始まりになるなんて。


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