引き継がれる物語

第2章 自らの意思

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

3

 
 正直なところ、俺は神流の存在に対して少し戸惑っていたけれど、それでも俺は神流と山道を登ることにした。んだけれども――。
「その前に片付けなければならない敵が登場したみたいね」
 神流が呆れるような声で言った。
 神流の視線を追うとそこには、人通りの全くない山に続く細いあぜ道の端の方に、ぽつねんと佇む人影――。
「……おいおい、今日は現れないんじゃなかったのかよ」
 人ではない、影の鬼が俺達の前に立ちふさがった。
「う〜ん、あいつもしつこいわねぇ。昨日の今日で現れるとはさすがに思わなかったわ」
「無責任な奴だ。どうするんだよ?」
 こうしている間にも影がゆっくり近づいて来る。
「決まってるじゃない。邪魔する奴はたたきのめすまでよ」
 そう言って神流は山道を登っていく。影に向かって。
「お、おい。待てよ神流っ」
 しかし神流は俺の言葉を聞かずに歩を進める。
 戦闘開始だ。
 同じ速さで互いに歩み寄る幽霊と影。
 そして2人の体がぶつかりそうになるくらいに近づくと、
「ちぇすとーっ!」
 と、神流が影に回し蹴りを決めてみせた。
「……」
 影は地味なリアクションで地面に倒れ込んだ。
「さぁ行くわよ」
 神流は振り返ることなく、茫然とする俺を呼ぶ。
「えっ……で、でもあいつは……?」
 俺は起き上がろうとする影を指さし神流に注意を促す。
「いちいち相手していてもきりがないから放っておきましょ」
「あ、危なくないのかよっ」
 俺は小走りで神流の後にぴたりとくっついた。
「大丈夫よ。さっきの手応えからして今日はそんなに攻撃的じゃないわ。相手が危害を加えてきたら倒せばいいだけだし」
 なんともいい加減な作戦だ。というかあいつに攻撃的じゃない日とかあるのかよ。
「だ、大丈夫なのか。そんなんで……てか、本当にあいつなんなんだよ。お前以上に謎な存在なんだけど」
 俺は影の方をチラチラと気にしながら山道を歩いていく。
「さぁ、私にだって詳しい事は分からないわよ。気付いた時からいたとしか言えないわ」
 神流はそう言うと、黙ってひたすら道を進む。俺も黙って後をついていく。そして――影の鬼も俺達から離れた後ろから、同じペースでついてきていた。
「お、おい。あいつついてきてるぞっ」
「だから放っておけばいいのよ」
 神流はもはや影に対して何の関心も抱いてはいないようだ。
 影の方も影の方で、一定の距離を保って俺達の後をついてくるだけで、本当に危害を加えるつもりはないらしい。……何が目的なんだ。
 その後なんとなく俺達は交わす言葉が少なくなっていた。ただ、山の中に生息しているであろう蝉やら虫やら何やらの声がジンジン暑苦しく鳴り響くだけだった。
 3つの影は田舎の山道をただ歩く。比較的大きな山でもないので本格的な登山という感覚はなく、どちらかというとこの道は、まるで叶歴とかつて遊んでいたあの廃墟のある丘と似ていた。だから俺は苦もなく歩けた……と言いたいが、正直この時期に山登りはしんどいものがある。
 汗がだらだら流れて気持ち悪い。まるでサウナ風呂で行進している気分だった。
「着いたわ。ここが展望台のある岬よ」
 神流のその言葉で俺の意識は現実に引き返された。俺は顔を上げて周囲を見渡すと、そこは拓けた原っぱで、視界の奥には切り立った崖が見えた。
 とうとう俺達は町が見渡せるという絶好のスポットに辿り着くことができたのだ。
「……ふぅ。疲れた」
 と言ってるが、散歩が趣味の俺は達成感と期待感で胸が躍っていた。
 そして今、気が付いたが。
「あれ? 影の奴がいないみたいだけど……」
 俺達の後を黙ってついてきていた影がいつの間にか消えていた。
「いつもこんな感じよ。倒して消えるか、放っておいたら消えるの……変な敵よね」
 ま、あんな奴の事は気にしなくていいわと言い捨てて、岬の風を身に纏った神流は気持ちよさそうに伸びをする。
 得心いかないながらも、俺は展望台の上に立って眼下に広がる景色を眺めた。ここが俺の住むことになった新しい町。だけど……できるならすぐにでも飛び出したいこんな田舎町。
「どう? いいところでしょ?」
「ああ、悔しいけどそれは認めるよ」
 これがあるから散歩はやめられない。これが引っ越しの多い人間にとっての数少ないメリットの一つだ。
 一面に広がる光景は文句のつけようのないものだった。
「なによ、はっきりしない物言いね」
「分かったよ。まあ悪くはない」
 悔しいけれど、この町は小さなど田舎だと思うけれど、太陽の光を反射する海と緑豊かな森林に囲まれたこの町は確かに美しかった。
 でも俺には、町を取り囲む海と山が、まるでここに暮らす人達を逃さないようにしているみたいにも思えた。それはまるで俺の両親の呪縛のように。
 そう考えると俺は背筋が凍りそうになった。俺はこの町からずっと逃げられないのかもしれない。両親はこの町を俺の墓標にして……だから藤堂家に預けたのかもしれない。十年経っても二十年経っても俺この町に縛りつけようとしているのかもしれない。
 だが――俺は違う。俺にはもう自分で行動する勇気も意思もある。俺はもう子供じゃないんだよ! チャンスさえあれば俺は東京に戻る。叶歴の元に。俺はこの呪縛から逃れるんだ。
「さぁ。では約束通り話しましょうか……私の秘密を」
 俺が殺意にも似たどす黒い感情に全身を支配されていると、神流が不敵に笑って言った。
「ああ。そうだったな……じゃあ始めてくれ」
 俺の両親に比べれば神流の存在はまだ可愛い方だ。それに俺は色々文句を言っていても、神流の存在に対して興味があるのは確かだった。
 神流はつらつらと語り始める。
「私は存在が希薄な者……元々は人間だったの。でも昔から体が弱くてね」
 その声はまるで、自分自身を嘲笑うかのようなものだった。
 俺は口を挟むことなく黙って話を聞くことにした。
「私、元々は東京に住んでいたのよ。でも療養のためにこっちに引っ越してきたの」
 東京……か。俺にとってその街は特別な意味を持っていた。初恋の人との思い出の場所。そして俺が再び戻らなければならない場所。甘美にして希望を与えてくれる言葉。
「そして……そこから先の事はよく覚えていないの。記憶がはっきりしていないというか。とにかく……気付いたら私は今の状態になっていたの。もうずっと昔の事のようにも思えるし、あるいはつい最近の事なのかもしれない」
「なんだかすごいあやふやだな……それだけ過去を覚えてるんだったら、自分がこの町のどこに住んでたとか家族の事とかなんか手がかりくらい覚えてるだろ」
 俺はつい口を挟んでいた。
「ううん。それが自分のプロフィールについては名前くらいしか覚えてないの。私が覚えてるのはほとんど風景の記憶だけ。しかも具体的なものじゃなくてとても曖昧なものなの。記憶を辿ってこの町を彷徨い続けた時もあったけど駄目だったわ」
「そうか……」
「それに私がこんな状態になったのとほぼ同じ頃に例の敵も現れたの。なぜ襲ってくるのか見当もつかない」
 なんだか途方もない話だ。俺がこんな滅茶苦茶な目に遭ったらどうなっていただろう。
「そしてあなたにとってここからが重要な話なのだけれど……あなたが私を見ることができるって事はつまりね――あなたの周りにも私と同じ現象が起こっているということなんじゃないかしら」
 神流は信じられないような事を言ってきた。神流と同じ現象?
「それは……そんなわけないだろ。俺は別に透明になったわけじゃない」
 東京からこの田舎町にやって来たという点では、俺と神流の状況は確かに似ていると言われてみれば似ている。けれどそれだけだ。俺は別に病弱ではない。
「あなた自身じゃなくて身近な人の可能性だってあるわ。そうね……例えば近しい人を残していったとか……?」
 神流の言葉に、俺は一人の少女の事が脳裏によぎった。それはノノ羽良叶歴。物語を作るのが好きな少女。作家になるのが夢の少女。俺にとって大切な人。
「い、いるっ。叶歴だっ。叶歴は体が弱くていつも夜しか出歩かなかったんだっ。で、でもそれが……それが何か関係あるのかよっ」
 俺は取り乱していた。叶歴は、神流と同じく昔から病弱なのだ。
「そうなの……それは大変ね……」
 神流は深刻そうに表情を暗くして口元に手を当てた。生暖かい風が吹いて長い黒髪がサラリと揺れる。
「た、大変って……?」
 俺は息を呑んで神流にその心を問いただす。
 そして神流は言った。
「もしかしたらこのまま放っておくと――彼女も私と同じ存在になるかもしれないってこと」
 神流の声はひどく冷たく、無感情に俺の心を突き刺した。
 その瞬間、あれだけ五月蠅かったセミや虫や木々のすれる音とか全てがやけに遠くに感じて、真夏の暑さを完全に忘れてしまった。


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