姫の夢を叶える要

 第一章 廻る世界 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

6.  6/30 過去

 
 傾きかけてはいるが、なおもギラギラと照りつける太陽の下、奏目は仰向けに倒れていた。太陽は奏目を照らすように橙色に輝いていた。
「ぅ……くぅ……っ」
 セミの五月蠅い鳴き声と直射日光のまぶしさで奏目は目を覚ます。
「!? うわっ、わっ?」
 徐々に今現在の自分の状況を思い出した。
 自分になにが起こったのかまだよく分かっていないようだが、とりあえず周囲を見渡してみる。歩道橋の上にいるようだ。奏目の母校が近くに見えた。
「……な、なんで」
 辺りは一見何事もなく平和に見えて異変はなかった、奏目がよく見知った光景だった、が……つい今までビルの屋上にいた奏目には異常だった。
 奏目が倒れていた場所は奏目がいつも登下校で利用する歩道橋のど真ん中だった。しかし今は通学途中ではない。今は月の輝く夜の時間のはずなのに――太陽がギンギラギンとさりげなくもなく、これでもかと日差しを向ける今は――どう考えても日本全国的に昼真っ盛りなのだ。
「そんな馬鹿な…… もしかしてこの状況は……まさか……」
 そう――また時間を飛び越えたのか?
 しかし奏目の目がある人物を捉えた時、訳が分からない状況でありながらもその問題はひとまず後回しにすることにした。やらねばならぬ事がある。思いっきり駆けだした――スカイハルトに向かって。
「このぉっ……やろぉーー!!」
 ドゴォォン、と鈍い音が響く。奏目の跳び蹴りがスカイハルトにクリーンヒット! よい子の皆様は真似しないで下さい。
「のわあああああ!!」
 いきなりの不意打ちにひとたまりもないスカイハルト。奏目は今気持ちいいほどに気分爽快だったに違いない。ああ、そうだとも。
「ッ――誰だてめえは……何しやがる……!」
 スカイハルトは背中を押さえつつ奏目を振り返る。そして奏目の顔を不思議そうにみつめて言葉を続けた。それは奏目にはとても意外な言葉だった。
「お前何者だ? オレに何か用か?」
 金色の長髪をたなびかせながら、疑うように奏目を睨みつけるスカイハルト。その瞳はまるで、澄み切った青空のような色だ。
 ……今の蹴りでこの男は記憶が飛んだのだろうかと奏目は驚く。スカイハルトは奏目とはまるで初対面であるかのような様子で、そしていつもとは違う態度だった。表向きはうっとおしいくらい友好的で丁寧な態度とは一変し、今は敵意さえみせている。
「……つまらない冗談はやめてよ。それよりさっきはいきなり何をやってくれたんだ」
「だから何を言ってるんだ? オレにはお前の言っていることがさっぱり分からん」
「しらばっくれるのはよしてよ! あなたがやってるんでしょ! ボクの夢に出てきたり、危ない目に遭わせたり! 今度は何? 記憶喪失!?」一気にまくし立てる奏目。
 その様子を煙に巻くように見ていたスカイハルトだが途中、何かに気付いたようにその顔がみるみる真剣なものに変わっていった。
「……お前もしかして……!」スカイハルトは驚いた様子で奏目を見つめている。思い出したか?「おい、お前。名前はなんていう?」思い出してなかった。
「……桑崎、奏目」
 奏目はスカイハルトの鋭い視線に負け、しぶしぶ口を開いた。
 その言葉を聞くとスカイハルトの顔がますます蒼白になっていく。青い色した目も大きく見開いている。
「そうか桑崎奏目なのか……そうか、そういう事なのか。お前、なのか……」
 何がそういうことなのか、スカイハルトは一人で何か納得しているようだった。
「ねえ、一人で納得していないでボクの質問にも答えてよっ」
「ハハハッ、そうだったか。お前だったのか。まさか、ハッハ、意外だったよ。女とは。しかし、あー……でも、なんというか、ある意味納得かも、なぁ」
 だから何が納得なんだよ、こんにゃろめ。
「は……はぁ? ちょっと何言ってるんですかスカイハルトさん……」
 奏目がその真意を問い詰めようと迫るが、
「ふぅ……悪いな。用事を思い出した」
 さっと片手をあげるスカイハルト。
「え? ちょ、ちょっと待ってよ」
 話の要領を何も得ていない奏目。
「機会があったら今度話してやるよ。じゃあな」
 スカイハルトは奏目をおいてけぼりのままにして去っていった。
「………」しかし奏目はその後を追おうとはしなかった。
 なぜならスカイハルトと話している間、徐々に状況を把握してきた奏目は、学校に向かうことにしたから。
 そう。自分は今、過去にいるのだ。

 奏目はなるべく怪しまれないよう、学校内を歩いていた。もしかするともう放課後なのかもしれないが人をほとんど見かけない、だからまだ授業中であるかもしれない。そんな状況の中、奏目は生徒が誰もいない教室をみつけた――3年5組――いくつかの机の上に制服がたたんで置かれていた。体育の授業だろうか?
 奏目は黒板を見た。本日の日付を確認するためだ。6月30日と書かれていた。
「時間がまた飛んだとは考えたけど……未来の次は過去、なの」
 奏目は驚愕していた。スカイハルトの態度からも予想はしていたが……未来にも過去にも飛ぶなんてこと。
 奏目がしばらく教室内をゴソゴソしてると予想外のハプニングが起こった。
「ったくケータイ忘れるとは……」
 突然に廊下からこちらへ向かってくる足音と声が聞こえた。「ってもランニングに必要ないんだけどなー。でも空き教室に盗っ人が出るかもしれないしなー」と、独り言が奏目のいる教室のすぐそばまで近づく。
 まずい状況だ。給食費ドロボーと思われるかもしれない。いや……もっと最悪なのは制服ドロボーの変態。これはまずい。
 ガラガラッと扉が開いた。一人の男子生徒が教室へと入っていき、ひとつの机の元へ行って、がさごそと何かを探している。
 今だ! と、その隙を見計らい奏目は静かに教室から立ち去った。
 奏目は自分のクラスへと走っていった。勿論面倒事を避けるため人に出会わないよう注意しながら。階段を駆け上がっていく。
「鳳仙さんなら……きっと」鳳仙舞亜に会うために。
 その時――、
「どこに行くんですか?」と、背後から声。
「!!」奏目は思わず声をあげそうになった。
 恐る恐る奏目は振り返り、驚いた。どうなっているのだ……いったい何回登場すれば気が済むのだ、このスカイハルトは。
「……さっき会ったばかりなのに……なんでここに」
 というかスカイハルトはただでさえ目立つ姿であるのに、なぜこうも堂々と学校にいられるのだろうか。ここまでくればこいつはもう、ただの不審者だ。
「細かいことは気にしないで下さい。それよりも桑崎さん、あなた今からご自分の教室へ行くつもりでしょう?」
 スカイハルトの物腰は、また普段の柔らかいものになっていた。
「そうだけど……、あなたには関係ないでしょ。っていうか性格変わってないですか?」
 そこのところをビシッと追求する奏目。
「いえ、関係あります。だからおせっかいさせて頂きます。あなたはご自分の教室へは行かないで下さい、絶対に。……おおかた鳳仙舞亜さんに会うおつもりなのでしょうけど」
「なんで、知っているんですか……?」
「だったらここにいて下さい。すぐに来ますよ……そして、私の性格の事は気にしないで下さい」
 そう言ってスカイハルトは階段の下を指さす。
 奏目はその先を見ると――確かにいた――鳳仙舞亜だった。奏目は驚いてスカイハルトの方に顔を向けるが、そこには彼の姿はもうなかった。一瞬だった。
「……鳳仙さん」
 とりあえず今はそれどころじゃない、と再び舞亜に視線を向ける。舞亜も目の前でじっと奏目を見つめていた。
「鳳仙さん、ボクを助けて欲しいんだ」
「……なんで?」
 舞亜はゆっくりと首を傾げる。どうやら今回のことは舞亜は知らないようだ。過去なのだから仕方のない事かもしれないが。
「実はボクは7月3日……つまり未来から飛ばされてこっちへ来た、と思うんだ。えと……それでその未来でも一度同じように飛ばされて……その時はさらに未来に飛ばされたんだけど……そこでボクは君に助けてもらったんだ。そして元の時間に戻れた。だからまた何とかしてもらえるかなと思って来たんだけど……」
 仕方なしに説明する奏目だが、自分でも滅茶苦茶なことを言っているなと自覚していた。
「……そう。分かった、助けてあげる」だが、さすが物わかりのいい舞亜。
「あ、ありがとう! 鳳仙さん」
 あっさりなOKに奏目は思わずタップダンスを踊りたくなった。踊れないけど。
「ただし条件がある……あなたの今話した事、詳しく聞かせて」と、舞亜。
 成程。少なくとも3日前の舞亜は、奏目の抱えた事情を知らないようだった。
 その位の事ならと、奏目は舞亜に自分の身に起こった事件の一部始終について話した。
「……ありがと、分かった」一通り話を聞いた舞亜は静かに口を開いた。そして、「ついてきて」と、そのまま奏目をどこかへ案内する。

「って、ここは……」
 学校の外を出て、奏目が連れてこられた先は学校の裏山だった。
 戸惑う奏目を後に、舞亜はさらに裏山の山道を奥へ奥へと進み、この街が一望できる岬まで来た。淵渡岬。学校でいつもけたたましく聞こえてくる、忌々しいセミの99%がここに生息してると錯覚するくらいに、ジリジリと夏を感じられそうな場所だった。
 そこで、奏目はまたも少女との邂逅を果たす。
 岬の先端。そこには転落防止用の手すりに両手を置き、身を乗り出して、街を見下ろす少女の背中が一つ――奏目達に気づいたのか、その姿がこちらを向く。涼しい風が吹いた。
 ――鼎緒姫だった。
「なっ……鼎緒姫っ!?」さすがに驚愕を隠しきれない奏目。
「……あなたは?」鼎緒姫が奏目をじっと見つめながらゆっくり、もったいぶるように言葉を吐く。緒姫の長い髪が風でなびいた。「あなたたち、どちら様?」
「え、えーと……」奏目は返事に戸惑い、
「私は鳳仙舞亜。こっちは桑崎奏目」舞亜が答えた。
「そう……桑崎奏目……さん」緒姫は奏目を不思議そうに見つめている。
 スカイハルトもそうであったがどうやら緒姫もここでは――いや、この時点では、なのか――奏目の事を知らなかったようだ。確かに今日が6月30日なら、この日の放課後に初めて奏目と緒姫は出会うのだ。知らないのは当たり前か。
 だが……おかしい。今が6月30日ならスカイハルトはその翌日、緒姫に至っては本日の夕方に奏目と出会い、尚かつその時点で2人共まるで奏目の事を熟知しているかのように振る舞い、現在に至るまでしつこく付きまとってきたのである。会ったばかりの人間にここまで執着するとは一体どういう事であるのだ……。
「君は……鼎緒姫さんでしょ?」
 するまでもないが、一応確認してみる奏目。
「私の……名前……なんで知っているの?」
 緒姫は警戒心を露わにする。
「え、それは……」奏目は返事に戸惑うと、
「私たちは今より先の時間から来た」奏目に代わって舞亜が答える。
「ほ、鳳仙さん……そんな事いきなり」
 奏目は困惑する。そんな事言っても信じて貰えないだろう。……けれど、
「……よく分からないけど……でもなんだか不思議。あなたとは初めて会った気がしないわ。ねぇ、桑崎奏目……さん? あなたと2人で話したいのだけれど……いいかしら?」
 なぜか緒姫は奏目に対して悪い印象を持っていないようだ。
「あっ、その……」奏目が言葉に窮すると、
「行ってきて。私はここで待ってるから」舞亜が奏目を後押しした。
「ほ、鳳仙さん……でもそんな」
 奏目は困惑する。いきなりそんな事言っても何を話せばいいか分からないしそれに……、
「じゃあ行きましょう」やっぱりあっさりOK。
 緒姫は舞亜を残して、街を一望できる展望台へと奏目の手を取って連れて行った。
 そこは見渡せばとてものどかで、眩しくて、平和で、まるでこの街の生命が感じられるような、そんな場所だった。そんな中での2人の姿はとてもよく――。
「ねぇ、桑崎奏目さん。あなたのことを奏目って呼んでいいかしら?」
 何の前触れもなく緒姫は、満面の笑みを浮かべて奏目に尋ねた。
「えっ? ……うん、別にいいけど……なんで」
 何故か奏目は緒姫に対して以前のような警戒心を抱くことはなかった。
「不思議だけれど、そうする事が自然な感じだと思うの。上手く説明できないわ……でもあなたも分かるはずよ、きっと。だから奏目……。私のことは……緒姫って呼んで」
「……よく分からないけど、分かった……緒姫」
 何故か奏目は緒姫といると安心というか、心が安らぐような気持ちになっていた。奏目にはそれが何に起因するか分からなかった。
 そして緒姫はまたも唐突に不思議な質問をぶつけてきた。
「ねぇ、奏目。あなたは一体何者なの? 私、不思議なの……あなたとはどこかで会った気がするの。そして、なにか大事なことを忘れているような気がするの……」
 奏目にとっては勿論初めてではない。けれど今の緒姫にとってこの邂逅は……。
「初めて……だけど、この先またすぐに会えるよ」
 そう、きっとすぐに会うことになる。数時間後には。
「私も、そんな気がする……なんだか今夜は月が綺麗になりそうね」
 そうして奏目と緒姫の静かで穏やかな時間は流れていった。不思議と奏目は、始めの頃に抱いていた緒姫に対しての警戒心・恐怖心は今ここで、完全に消え去ったようだった。
 もしかすると本当に……お前なら……救えるのかもしれない。

「あなたと話せて本当によかったわ。ありがとう、奏目」
 結局このあと2人はとりとめもない話をしただけであった。
「いや、ボクのほうこそ……」
 だが、決して悪い時間ではなかった。そのはずだったが――。
「奏目、あなたはこの世界をどう思う?」
 突然、緒姫が漠然とした質問を投げかけた。
「えっ?」質問の内容が抽象的すぎて答えに窮する奏目。
「私は、私がここに存在することは何か大きな意味があるって思っていた。今あなたに会って確信した。私には使命がある、あなたにも。……いえ、あなたと私の2人の使命が」
「存在する意味? 使命? いきなりどうしたの……緒姫……?」
「あなたはこの世界にとって自分がどういう立場にいるのか自覚できていないのね……きっと私とあなたは2人でひとつ……いえ、元々が1つだったのよ……」
 意味深な緒姫の言葉、奏目がその意味を聞こうとした時、まるで今まで2人の会話を聞いていて、それを割って入るかのように舞亜がやってきた。
「そろそろ、時間だから」
「あ……わ、分かった」
 正直奏目は安堵していた。何に対してかは分からない。だが、なぜか奏目は、これ以上緒姫の話を聞いてはいけない気がした。
 それじゃあと、奏目が緒姫に別れの挨拶をしようとしたとき舞亜が、
「私は鼎緒姫に少し用がある。あなたは先に行ってて」と言った。
「私に、用……?」怪訝そうな顔をする緒姫。
「え? 先に行けってどこに……」
 舞亜に促され奏目は当初の目的を思い出したが、それを達成する方法は知らない。
「あなたが言ってたビル。前回の学校での時のようにそこから飛べばいい」なるほど。
「そうか……って、無茶言わないで! そんなのできないよ。前だってうっかり落ちてしまったけど、あれは事故だったのっ! それに今回は学校より相当高いじゃないか……」
「時間がない。このままだとあなたは永遠に戻れなくなる。急いで」
 有無を言わせない舞亜の無表情な顔。奏目はそのプレッシャーにたじろいでしまった。
「……わ、分かったよ。行くよ、行けばいいんでしょ。でも飛ばないからね!」
 そんな2人の会話をキョトンとした顔でみている緒姫に奏目は別れを告げる。
「そ、それじゃあ……またね……緒姫」
「え、ええ。よく分からないけど……また会いましょう、奏目」
 別れを惜しむ間もなく奏目は急いで先程まで自分がいたビルへと向かうことにした。
「いや……ていうかビル行くんだったら、こんな険しい裏山を登ってきた必要なんてなかったんじゃないのっ? 最初からビルに行けばいいじゃん!」
 と、山道を一人行く奏目は今更その事に気付いて、舞亜にひとりごちながら険しい道を下っていった。 

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 鼎緒姫と鳳仙舞亜は、岬に2人残っていた。
「それで……私に用事ってなんでしょうか?」緒姫が尋ねる。
「あなたは誰?」舞亜は逆に質問を質問で返した。
「え? 私は……鼎……緒姫……」緒姫は戸惑うように答えた。
「桑崎奏目についてどう思う?」
 さらに舞亜が追撃するかのごとく質問をぶつける。
「なんだろう……、分からない。分からない、けど、奏目といると忘れてしまった大事な何かを思い出せそうな気がする……」
「……そう」
 何かを確認したのか、舞亜は一人納得して、緒姫にゆっくり近づいてゆく。
 緒姫はその姿に、現実のものでないような不気味さを感じ取った。
「……あなた、一体何なんですか?」
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 鳳仙ビルはじきに沈んでいく太陽の光を浴び、鮮やかな橙色の衣を纏っているようだ。同じ建物でも夜とは違った姿のビルが奏目の目の前にあった。いや、奏目は気付かないが、実際に少しだけ様子は違っていた。最初に奏目が来たときにあった立ち入り禁止の看板やテープ等は今はなかった。封鎖状態ではない。
 建物内部も夜の時とは姿が違ってみえる。夜の時にみせた、月の光を受けて輝いた顔と、現在の沈みゆく夕日のオレンジの眩しさは全然違う……けれども、どちらも同じく美しく、幻想的である。奏目は13階フロア――自分がそこから消失した場所へとやってきた。
「来るには来たんだけど……」
 奏目は13階内で一番大きいと思われる部屋にいる。
 大きな窓ガラスが一面に広がり、そこから地上を見下ろせば下で動いている人や車が永遠の距離にも感じられる程に錯覚する。それほどまでにここは空だった。
 実際には先程の岬の方が高さ的には上にあったのだが、この場所の方が奏目にとっては恐怖だった……遙か下にみえるアスファルトの平面が今にも迫ってきそうな錯覚がした。
「やっぱり無理」
 こんな高さからダイブするなんて狂気の沙汰だ。
「とりあえずこっから離れてじっくり考えてみようか、うんそうしよう」
 どうやら戦意喪失したようだ……はぁ……仕方がない。
「っていうか別の方法もあるかもしれないよね」
 奏目は飛び降りる事を諦め、ガラス窓から離れるために身を翻そうとする、その時。
「……!」奏目は思わず体が固まってしまった。とんでもないものを目撃してしまった。
 窓ガラスに映りこんだ影。それは丁度このビル内を徘徊するように、いや……奏目を追ってやってくるかのように……人魂のような白い光がふわふわとこちらにやって来た。それはまるで――。
「な……お、お化けっ……」
 この世界に紛れ込んだ異常。別の世界から間違えて入ってきた存在。
 奏目は動けない。逃げたくても逃げられない。部屋の出入り口は1つ。逃げ道はない。窓に反射して映りこむおぼろげな影をじっと見つめる奏目。
「あ……あわ……」
 常軌を逸した存在の接近に為すすべもない。なぜこちらに来るのかも不明。しかしひとつ言える事があった。これにつかまったらおしまいだ、と。
 未だ正体がはっきりと見えない、ふわふわ漂う白い光が奏目のいる部屋のすぐ前まで来ていた。……だから――本当に、仕方がない。

「     」
 
 ――また、だった。夜の学校、屋上での出来事――あの時と同じ。体が、動かない。恐怖からじゃなく、そのままの意味で。まるで誰かに操られてるみたいに、体の中から……。そう、この体が乗っ取られたかのように……。
 その時、激しい炸裂音がした。何が……起こったんだ? 体が……動かない。
 次の瞬間、部屋一面の窓ガラスが一気に砕けた。感覚が麻痺する。
 どうして……? 足が勝手に……無意識に一歩一歩踏み出していく……外へ向かって、空に向かって。思考が白濁していく。ああ、これ以上は……。落ちてしまう……。
 強風が吹きすさぶビルの中からガラスを踏みしめて、大空のダイブへと一歩一歩死のカウントダウン。息もできない程に、強風が体中を叩きつける。
 最後の一歩、窓を越えて――大空へと大きく飛び込んだ。

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