働かずに生きる、と彼女は言った

最終話  幸せ家族計画

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

4

 
 坂の上にある目的地に到着した僕は、一旦立ち止まって、深呼吸した。
 沈みかけた夕日のなかに佇んでいる屋敷は、来る者全てを拒むように厳粛然として建っていた。
 僕は深呼吸してから、その敷地に足を踏み入れる。
 幸い大きな門は完全に開かれていて、庭まで入ることができた。
 僕は広い庭を通って玄関の扉まで来ると、呼び鈴を押して、返答がくるのを待った。
 数十秒後、ドアが鈍い音を立てて開く。
 中から姿を見せたのは――中年の男だった。
「あなたが――翠香さんのお父さんですね」
 僕は目の前に立つ男にそう言った。
「いかにも、俺が翠香の父――和泉夜辺縁だが」
 立派な髭を蓄えた、立派な体格の、怖そうな顔をした男は低い声で言った。
 見る者を圧倒するその存在感に、僕は思わず怯みそうになった。
 僕は一度、冷静になって呼吸を整えた。
 そう――僕はいま、和泉夜さんの家にいる。僕は覚悟して来たんじゃないか。だから勇気を出せ。
 僕はなんとか口を開いて言葉を吐き出す。
「僕は和泉夜翠香さんと同じ学校に通う、クラスメイトの萩窪貴翔です」
 僕はいま、初対面の中年男性と話しているけど、元々そのつもりだった。僕は最初から和泉夜翠香に会うためにこの家に来たのじゃない。
 僕は――彼女の父親と話すために来ていたのだ。
「それで、翠香のクラスメイトが俺に何の用なんだね?」
 広いロビーの中央に立つ和泉夜父は、威厳と風格を備えている。
 もの凄い威圧感。僕は物怖じしそうになるのを堪えて、和泉夜父の瞳を注視する。
「あ、あなたは……翠香さんがずっと孤独を抱えて生きてきたことを知っていますか?」
 何て言ったらいいのか、頭で考えていた言葉は全部飛んでいた。ただ感情が僕の口をついて出ていた。
「突然君は何を言っているんだね? 俺は忙しいんだ。くだらない話は――」
「あなたは――彼女が家出しようとしているのを知っていますか?」
「……なん、だと?」
 和泉夜父は初めて僕の言葉に取り合うように、眉間を寄せて、より一層怖い顔になった。
 そして、無言で僕を家の中に招き入れて、玄関の扉を閉じた。
 ここに来るのは2回目だけど、相変わらず生活感の感じられない場所だった。
 静かで広々とした、無機質なロビーの中央付近まで行って、僕は立ち止まり言った。
「翠香さんはあなたを憎んでいるんです。仕事に生きるあなたの事を。そしてあなたを奪った労働という概念も憎み……彼女は全てから逃げだしたいと思ってたんです」
「……いきなり家庭の事情に口を出すなんて、君は失礼な奴だな」
 馬鹿にするように笑う和泉夜父。
 だけど僕は気にせずに続ける。
「あなたは久しぶりにこの家に帰って来て気付きませんでしたか? 翠香さんとまともに話しましたか? 翠香さんの顔を見ましたか? 彼女はあなたに会うのを怖がっているんですよ。あなたは――その事にすら気付いていないんですか?」
「なんなんだ貴様は……部外者にとやかく言われる筋合いはないっ」
 和泉夜父は、僕の逃げ場を防ぐように、玄関を背にして僕を睨み付ける。
「ええ。本当に仰る通りです。でも僕は……それでも悲しんでいる友達を放っておく事はできない。僕しかできないことを僕がやっているだけです。助けられないのが僕しかいないから、僕はここに来たんですっ!」
「……くく。そうか、面白い。なかなか言うじゃないか」
 和泉夜父は口元を歪ませて不敵に笑った。その姿にはどことなく、和泉夜翠香に似通ったものを感じた。
「……あなたは翠香さんを放ったらかしにしてずっと仕事だけに生きてきたそうじゃないですか」
「だからなんだ? 俺は家族の事を考えて生きてきたんだ。俺は翠香の為に頑張って働いてきたんだ」
「翠香さんの為じゃないでしょう……全部、自分の為じゃないんですか?」
 和泉夜さんが父親と向き合うことから逃げているのと同じように――和泉夜父も娘と向き合うことから逃げているのだ。労働という逃避先に。
 労働は本来、憎むものでも恐れるものでもない。人と共にあるものなのだ。
「貴様に何が分かる?」
「あなたよりは分かります。少なくともあなたは娘が家出しようとしていた事を知らなかったじゃないですか」
「……ふん」
 僕が言うと、和泉夜父は言葉を失って、顔を歪ませた。
「僕には両親がいません。2年前、交通事故で亡くなったんです。でも……それでも僕には2人の姉と1人の妹がいます。僕達はお互い支えながら生きているんです」
 僕は毎日が騒がしい日常の、萩窪家の事を話し始めた。勝手に言葉がでてきた。
「…………」
「正直言って僕達の家計は苦しくて貧乏な生活です。でも、僕達は幸せに暮らしているんです。笑って毎日を過ごしているんです」
「…………」
 和泉夜父は、黙って僕の言葉を噛みしめるように聞いていた。自分とは違う世界の人生に想いを馳せていた。
「幸せのカタチは人それぞれです。でも――幸せかどうかを決めるのは、本人なんです。そして和泉夜さんは……翠香さんは、幸せだとは思ってないんです」
「……そんなこと、分かっているんだよ」
 和泉夜父は、ぽつりと一言漏らした。
「え……」
 僕は意外なその一言に、言葉を見失った。
 しかし和泉夜父は黙ったまま、玄関の隅の方に置いてあった大きなカバンを持って、僕に背を向けた。
「ど、どこかに行くんですか」
「俺はこれから海外に行く。事業を大きく展開させるチャンスなのだ」
 ……僕は頭が真っ白になりかけた。僕の言葉は、この人に全然伝わらなかった。
「そ……そんな、いきなり。す、翠香さんをまた1人にするんですか……っ。そんなに働くことが大事なんですかっ! また……翠香さんと向き合わないまま、問題を先延ばしにするんですかっ!」
 僕は結局、和泉夜さんの為に何もできなかったのか。確かに和泉夜父がこの家から出て行ったら、また和泉夜さんはこの家に戻ってくることになるかもしれない。だけど……それじゃあ根本的な解決になっていない。
 しかし和泉夜父は、僕の不安をかき消すように、僕に初めて笑顔を見せた。
「安心してくれ。俺には全部分かってると言っただろう? 俺は翠香の父親なんだ。そう……翠香にとって今は、こうする事が彼女の幸せなんだ。今の俺が彼女にできる事は、離れていてやること……それくらいしかないんだ」
 僕に向けて強がるように笑う儚げな姿。その笑顔は、和泉夜翠香に似ていた。
 僕はとんでもない誤解をしていたのかもしれない。家族は……どこの家庭でも、その根本は変わらないのかもしれない。ただ少し、複雑になっているだけなのかもしれない。
「そ、それでも……あなたは、あなたはそれでいいんですか……?」
 逃げる事で、問題を先延ばしにする事で、そんな後ろ向きな決断で、何ができるのだ。
「だから――俺ができない事を君がやればいい」
 和泉夜父は、正面から僕を対等に見つめて、言った。
「……え、僕が?」
 僕は言葉の意味を理解しようと頭の中で反すうするけど、思考が追いつかない。
「君にこんな事を頼むのは間違っていると思う。だが、君がこうして俺のところまで来たという事は、覚悟を持って来たという事だろう? 家庭の事情に首を突っ込むということは、責任を果たす覚悟があるということだろう? 頼む。君がいれば……それできっといい方向に変わってくれると俺は信じてるんだ。俺はそれで安心できるんだ」
 そして和泉夜父は、玄関に置かれた帽子立てから帽子を取って被った。
「…………あ。ぼ、僕は」
「翠香に伝えておいてくれ。俺も……そして母さんも、お前の事を忘れた時なんて一度もなかったと。虫のいい話かもしれないけど――それは本当なんだと」
 和泉夜父は僕に託して、玄関の扉を開いた。
「翠香を頼んだ。萩窪貴翔君」
 和泉夜父はそう言い残して、外へと出ていった。
 僕はしばらく静寂に包まれた豪邸の中で立ち尽くしていて――外から車のエンジン音が聞こえ、そして遠ざかっていった。
 再び何も聞こえなくなった頃、僕はゆったりとした速度で和泉夜家を後にした。
 いつの間にか日は沈んでいて、外はすっかり暗くなっていた。
 今夜は満月だった。


 僕は庭を抜けて、門の外に出ると――そこには和泉夜翠香が所在なげに立っている姿があった。
「和泉夜さん……」
 僕は、随分と久しぶりに和泉夜さんの顔を見たような気がする。
「どうして……萩窪くん。あなたはどうして私のためにこんな……」
 和泉夜さんの声はかすれていて、その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。
 僕は言葉を見失ってしまいそうになる。だけど僕はそれを必死で繋ぎ止めた。
「……そんなの単純だよ。僕はただ――和泉夜さんにも笑っていて欲しいから。僕は和泉夜さんの笑っている顔、好きだったんだ」
「それは告白してるの?」
 月夜の下の和泉夜さんは、妖艶ともとれる微笑を浮かべた。
「かもしれないね。でも……そう思ってるのは僕だけじゃないよ。君のお父さんだって同じ事を考えてる。きっとお母さんだって」
「そんなの……そんな事……」
 それを否定したい気持ちと、どこかで望んでいる気持ちが、和泉夜さんの中で葛藤している。僕にはそれが分かった。今の僕なら分かる。
 そして。和泉夜さんだってもう子供じゃないし、分かっているんだ。
「君のお父さんが言ってたよ。俺も、母さんも、翠香のことを忘れた時なんて一度だってないって」
 そう伝えてくれって君のお父さんは、君みたいな寂しい笑顔をしていたんだ。
 父親の言づてを聞いた和泉夜さんは、その言葉の意味を噛みしめるように沈黙して、そして僕の傍まで寄って来て――言った。
「……さっき、あの人が車で出ていくのを見たの。その時、私と目が合って言葉を投げかけてきたの」
 僕の正面に立つ和泉夜さん。僕は心臓の鼓動が高まるのを感じた。
「そ、それはなんて……」
「すまなかった――って」
 そう言って和泉夜さんは、僕の胸に体を預けた。
「……っ」
 僕は倒れそうになるのを踏ん張って、そして思わず和泉夜さんの体を抱きしめそうになったけれど――結局、それはできなかった。
「…………」
 満月がくっきり浮かぶ夜空の下。僕の胸に顔を埋める和泉夜さんと、黙って直立する僕。
 僕は緊張して言葉が出ない。ぶら下げた両手の拳を、ただ握ったり開いたり繰り返すだけだった。
 ――どうやら数千光年に及ぶ数十センチは、僕には当分乗り越えられそうになかった。
 僕はとても情けなかった。
 きっと僕の心臓の爆音は和泉夜さんに筒抜けになっているだろう。だって……僕も和泉夜さんの鼓動を感じているのだから。
 どれくらいの時をそうやって過ごしていただろう。やがて和泉夜さんは顔を上げて、僕の瞳を覗き込んだ。和泉夜さんの瞳にはもう、涙はなかった。
「ねぇ、あなたのお姉さんの事……教えてくれないかしら」
 和泉夜さんはぽつりと、1人ごとのように僕に訊いた。
「それは……玲於麻ねえの事かい?」
 お互いの呼吸の音が聞こえる位の距離で、僕は囁く。
「ううん。あなたの双子のお姉さんの樹新さんよ。隣のクラスの」
「え……」
 僕は少し、意外に思った。彼女がそんな事言うなんて信じられなかった。
 僕はなんて言えばいいのか言葉を探していると、和泉夜さんは照れくさそうに顔を赤くして、僕から視線を逸らした。
「だって友達……作らないとね」
 そう言って、和泉夜さんは照れ隠しのように僕の胸から体を離して、僕に背を向けた。
 僕はこの一言で――ようやく僕達が報われたような気持ちになった。
 そして僕がスーパーで和泉夜さんと会った瞬間から始まった奇妙な物語が、完結したのを感じた。 
「ああ、教えてあげるよ……樹新だけじゃない。妹の仄の事だって、その友達や、僕の友達だって、みんなみんな紹介してあげるよ」
 僕は、月を見上げながら体をふわふわ揺らしている少女に向かって答えた。
 そうさ、和泉夜さん。これから君の日常はとっても騒がしくて、休む暇のないくらいハチャメチャなものに変わるから、覚悟しておくんだ。
「そう。それは、とっても楽しそうね」
 そう答えた和泉夜さんの後ろ姿は、まるで満月の下で踊る妖精のようだった。
 思わず僕は、ほとんど無意識にその手をとって、引っ張った。
 こっちを振り向いた彼女は笑顔で――悲しみの日々はもう終わりで、これからは幸福な毎日になっていくだろうってことを、象徴しているみたいだった。


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