働かずに生きる、と彼女は言った

第3話  ご家庭訪問

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 学校が終わる頃にはすっかり雨が本格的に降り出していて、傘のない僕は校舎の玄関口に立って途方に暮れていた。
「萩窪くん。傘、忘れたの?」
 その時僕の隣で、雨にかき消されそうな、小さな声がした。
 横を見る。和泉夜翠香だった。
「う、うん、今日は天気がよかったから雨が降るなんて思ってなかったからさ……どうしようかと考えてたんだ」
 僕は今日の体育の授業での彼女の様子を思い出しながら、うわずった声で答えた。
「そう。よかったら……一緒に入る? 途中までだけどね」
 和泉夜さんは僕の方に傘を傾けた。
「途中まで……? 今日は、例の講義はないのかい?」
「雨だからね。今日は調子が乗らないわ。今日は自習よ。それよりどうするの? 入るの、入らないの」
 どことなく、今日の和泉夜さんは機嫌が悪そうだった。というより、落ち込んでるような様子に見えた。雨のせいでそう見えるだけだろうか。
「そ、それじゃお言葉に甘えようかな」
 僕は和泉夜さんの手から傘を受け取って、並んで雨の中を歩き出した。
 和泉夜さんをなるべく濡らさないように、彼女の方に傘を向けて、体を寄せて歩いた。
「ねぇ、萩窪くん。お姉さんの事、教えてくれないかしら?」
 雨の中黙って歩いていると、唐突に和泉夜さんが口を開いた。
「え? お姉さんって、隣のクラスにいる樹新のこと?」
 僕は今日の体育の授業の風景を思い出して、和泉夜さんに尋ねた。
「違うわよ。私はあんな、いつも楽天的にヘラヘラ笑っているような人には全然興味なんてないわ……私は、働かないで生きているお姉さんの事が聞きたいの」
 なぜか、ムキになったように怒る和泉夜さん。
 体育の授業中、和泉夜さんに話しかけていた樹新の笑顔を思い出して……僕はなんだか悲しくなった。
 そうだ……僕と和泉夜さんを繋いでいるのは、働かずに生きるという、ただそれだけの事だったんだ。和泉夜さんが本当に興味があるのは僕じゃなくて、玲於麻ねえ。
 和泉夜さんは徹底的に他人を突き放す人間なのだ。
「和泉夜さん。君はどうして、他人と仲良くしようと思わないんだい?」
 立ち入った事かもしれないけれど、どうしても聞かずにはいられなかった。
「人と馴れ合って生きることに、何の意味もないのよ」
「え……」
「他の人がどうかは知らないけど、少なくとも私はそうなの。私の場合は人と関わる事で自分が弱くなっていくのよ。私は1人だから強くいられるのよ。そこら中にいるような人間は、様々なしがらみを抱えて生きてるから弱いのよ。1人が一番強いの」
「でも1人でって……そんなの無理だ。人は1人では生きていけない」
「だから私は働かないの。1人で生きていくために。社会とは最低限の関わりを持つだけですむように」
 和泉夜さんの決意。和泉夜さんがあんなにも孤独で、けれどあんなにも強い、そのルーツ。それが和泉夜さんの原動力なのだ。
 でも……和泉夜さん。それじゃあ矛盾があるじゃないか。僕にはどうしても理解できないことが。
 1人で生きていくっていうのなら……君は、どうして僕とはこんなにも関わり合えるんだ――。
 とは、さすがにどうしても言う事ができなかった。
 だから僕は、玲於麻ねえさんの事に頭を切り換えた。
「……ああ。玲於麻ねえさんの事だったね。うん……玲於麻ねえはさ、ホントにだらしなくて、いい加減で、先の事を全然考えてないんだよ」
 僕はまるで、自嘲するように小さく笑って言った。
 今や、萩窪家の頂点に立つ存在だというのに、玲於麻ねえさんにはそんな自覚が全くなくて、子供達だけで生きていかなければいけないっていう危機感を全く持ってない。
「でも、そんな姉だけど……僕達は姉さんに失望したりはしないんだ。玲於麻ねえがいなかったら、きっと僕達は今頃バラバラだったし、なんだかんだで玲於麻ねえのおかげで僕達は1つにまとまって暮らしていられるんだって思ってる」
 僕がつたない言葉で話すのを、和泉夜さんはただ黙って聞いていた。
「だから……こうして和泉夜さんと話したりしているうちに、僕は玲於麻ねえにもっと甘くしてもいいって気がしてきたんだ。確かに働くことは大事なことかもしれないけど……でも働くために人は生きているわけじゃないって、気が付いたんだ。僕はもしかして、働かない玲於麻ねえの存在を否定してしまっていたのかもしれない……。和泉夜さんがそれを気付かせてくれたんだ」
 そう、僕は大切な何かを見失っていたのかもしれない。
 僕の言葉が途切れたタイミングで、和泉夜さんは口を開いた。
「ううん。あなたが分かってくれたならそれでいいじゃない。そうよ、働く事は生きていく上で一番大切な事じゃないの。所詮はただの手段でしかないのよ。あなたの本当に大切なものは、ちゃんとそこにあるのよ」
 優しく僕を諭すように語りかける和泉夜さん。
 僕はこれまで、和泉夜さんの労働観念を話半分に聞いていた。でも僕は、玲於麻ねえが働かないというなら、それでもいいと思えた。
 これでようやく僕は、ノーワーカーの戦士になれた気がした。
 僕はこれからはもう、玲於麻ねえをあまり責めないようにしようと思った。働かないなら、別の方法で生きていけばいいだけなのだ。
 生活は苦しくなるかもしれないけれど、家族が笑って幸せに生きられるならそれでいい。和泉夜さんのおかげで僕はそれが理解できた。
 僕はその気持ちを和泉夜さんに伝えると、和泉夜さんも嬉しそうな顔をした。
「ふふ……私、ますます玲於麻さんに会いたくなってきたわ。あなたのその気持ち、忘れないでね……それじゃあね、萩窪くん。また明日」
 分かれ道まで来ると、和泉夜さんは立ち止まって微笑を浮かべた。
「……また明日、和泉夜さん」
 僕から傘を受け取って、去って行く和泉夜さんの後ろ姿は、なんだか小さく見えて、とてもか弱く思えた。
 まるで僕達が間違ってるとでもいうような、景色だった。だから僕はすぐに和泉夜さんから背を向けて歩いた。
 僕は濡れるのも気にせず、ゆっくりと雨の帰り道を歩いた。


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