働かずに生きる、と彼女は言った

第1話  働かない彼女、登場

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 そしてあっという間に時間は過ぎて放課後になった。
 もうすぐ夏の季節が始まるというのに、若干空気が肌寒いのを感じながら僕は学校を出た。
 僕は帰宅しているわけだけど……しかし僕はそのまま真っ直ぐ家に帰るわけではない。それは萩窪家のルールで、今日が僕の買い出し当番日で料理担当日だからだ。
「う〜ん……夕食どうしようかな」
 家からほど近い場所にあるスーパーで、僕は手に持ったチラシを眺めながら長考する。
 夕飯はどうするか。
 今日は僕が作らなければならない。しかしもちろん何を作ってもいいわけじゃない。
 なんたってウチは貧乏なのだから、値段を最重要視して食材を選ばなければならないのだ。でも悲しい事に、そうやって食事にケチケチしてるのは萩窪家でどうやら僕だけらしかった。
 たとえそれでも、僕1人が節約している分はお金の消費を抑えられる。
 僕ははりきって野菜コーナーに向かった。
 メニューは食材を買ってから考える。それが僕の調理スタイル。
 僕はもやしと大根とゴボウを買って、キャベツを取ったけど――高かったから戻した。
 値段を気にしながら買い物するのは大変だ。何を買おうか……冷蔵庫に何か入ってたかなぁ。
 毎度ながら面倒な仕事だ。
「というか、玲於麻ねえが毎日食事当番でいいじゃん……どうせ暇なんだし」
 ついついそんな愚痴もこぼれてしまう。いかんいかん。
 昨日の事もあって、僕は3姉妹に不信感を抱いてしまっているのだ。大切な家族に対してそんな事思っちゃいけない。
 ――とは言っても、一度言葉に出してしまうと、溜まっていた感情は口に出るもので。
「……でも働いていない玲於麻ねえがいけないんだ。それ位はしてもらわないと。働かざる者食うべからずなんだぞ……」
 僕はぶつくさと文句を言っていた。
 だけど、それがきっかけだった。
 僕のこの言葉をきっかけにして、全てが始まったのだ――。
「あなたは姉を責めているの? 滑稽だわ」
 僕の背後から声が聞こえた。
 それは聞き覚えのない女の子の声だった。
 僕はとっさに後ろを振り返った。
 そこにいたのは――和泉夜翠香。
「……え? 和泉夜さん……」
 僕は和泉夜さんがどうしてここにいるのかとか、なんで僕に声をかけたのかとか、色々な疑問が一気にわき上がって、結果なにも言えなかった。
 その代わりに、和泉夜さんが口を開いた。
「あなたのお姉さんがどんな人かは知らないけれど、正しいのはお姉さんの方よ。間違っているのはあなた」
 和泉夜さんは、つり気味の瞳を凶悪そうに、まるで威嚇するように僕に向けて言った。
「って、な……なにを?」
 同じクラスの問題児であり、絶世の美少女の和泉夜翠香さん。
 彼女は何を言っているのだ?
「フン、それにその買い物カゴの中身を見ても分かるわ……あなたは駄目。全然駄目。まるで節約というものが分かっちゃいないわ」
 なぜか和泉夜さんは、僕に対して怒っているようで……て、また僕が悪者なのかよ。
 僕はわけが分からないのと同じくらいに、理不尽に怒られるのに対して怒りがわいた。
「い、いきなり現れて何を言ってるんだよ。僕の買い物術に文句があるってのかっ」
 和泉夜さんがこんなに長く言葉を話すのを、僕は初めて聞いたけど……それがこんな意味不明な会話だなんて。
「文句はありまくりね。あなたの買い物は100%駄目よ。あなたの存在自体までもが駄目に思えてくるくらいにね」
「って、買い物ごときで存在まで否定っ!? な、なにが駄目なんだよっ! この値段を突き詰めた結果のセレクション! 特売価格、もやし一袋10円! 大根1本50円! そしてゴボウ1本40円! この3つでたった100円だぞっ!」
 そうだ。僕は日々、スーパーのチラシやら何やら見て最小の金額で食材を購入するように心がけてるんだ。庶民生活とは縁がなさそうな和泉夜さんなんかにしゃしゃり出てきて欲しくないね。
 しかし和泉夜さんは僕の超特価格の提示に何ら怯むことなく、
「フンッ! ちゃんちゃらおかしいわね! 100円ですって? なら私は、100円でこの――卵を買うわね!」
 と言って、和泉夜さんは特売品でもない卵を1パック手に持って掲げた。
「……え? なんで卵? ……そうか、栄養素が高くて調理のバリエーションも――」
「違うわよ、馬鹿」
「ば、馬鹿って……」
 なんで僕はこんなにぼろくそに言われる必要があるんだろう。泣きたくなった。
「まあ、知らないわよね。いい? これは豆知識よ。実はスーパーで売っている卵でもね、暖めれば孵化することがあるのよっ」
 和泉夜さんは指をピンと立てて言った。
「な……それ本当か? 初めて知ったよ……つーか、孵化してどうするの? まさかひよこ育てるの?」
「……まぁ、今のはたとえ話。そんな事もあるって話よ」
 和泉夜さんは表情1つ変えずに卵を棚にそっと戻した。
「どんな話だよ!」
「普通に買い物をするなんて馬鹿らしいって言ってるのよ」
 そう言いながら、和泉夜さんは試食のウインナーを、まとめて5個くらい爪楊枝に刺して口の中に放り込んだ。
「わらひは、ひょんなもの買わにゃい。試食だひぇで十分ひょ」
 むしゃむしゃ咀嚼しながら堂々と宣言した。
 試食のウインナーが入った皿を持ってるおばさんが、何か言いたそうな目で和泉夜さんを見ていた。
 ……見た目はお金持ちのお嬢さんとか、貴族風な美少女なのに……和泉夜翠香。なんか今までのイメージが崩れ去った。
「……僕は、今日の食材を調達しに来たんだ。悠長に卵からニワトリになるまで待っていられないし、試食で自分だけ腹を膨らませたって仕方ないんだよ」
 すっかり和泉夜さんのペースに乗せられていたけど、この子にはもう関わらない方がいいだろう。僕は彼女に背中を向けようとした。
 すると和泉夜さんは、不敵に笑った。
「ふふふ――っ。お金に余裕がないと、心にも余裕ができないものね。それが一般人の思考システムなのね。悲しいわね……いいわ、ついて来なさい。あなたの間違った考えを修正してあげる」
 そう言って、和泉夜さんはついてくるように首で合図した。
「って、どこ行くんだ……買い物は」
「そんなものいらないわ……買う必要なんてないのよ」
「買う必要がないって……?」
「ついてきたら分かるわ」
 思わせぶりな事を言って、和泉夜さんはスタスタと先を歩いて行った。
 ついつい状況に流されやすい性格の僕は、慌ててその後を追って店の外に出た。
 はぁ……はっきりNOと言える人間が羨ましいよ。具体的には萩窪家の3姉妹。
 夕食はもうちょっと待っててね、みんな。


 そして辿り着いた先は、スーパーから少し離れた寂れた商店街にある、小さな八百屋だった。
「って、八百屋……?」
 買い物しないと言いながら八百屋に来てるけど、その心はいったい。
 僕が和泉夜さんに真意を問いただそうとすると、彼女は片手で制し、まぁ見てなさい――と、八百屋の主人に近づいた。
 そして和泉夜さんは、1本120円の大根を指さして、もの凄い可愛い笑顔を浮かべた。
「こんにちはっ、八百屋さんっ。その大根く〜ださ〜いなっ」
 …………。
「ふ、普段とキャラが全然違うっ!」
 今まで見たことのない和泉夜さんの表情に、僕は仰天する。
 つか、大根120円って……なに考えてるんだ。普通に買い物してるじゃん。しかもスーパーの倍以上の値段だよ……どういうつもりなんだ。
 すると和泉夜さんに話しかけられた八百屋の主人は、和泉夜さんに負けない位の笑顔を浮かべて言った。
「おぉ翠香ちゃん。今日は大根だけか〜? それじゃあ大きくなれないぞぉ。ほれ、サービスだ。結構とれたから翠香ちゃんにあげるよ。もやしにゴボウ――それに、キャベツだ」
 と、八百屋の主人は大根1本に対して、更に3つも野菜を袋に入れて、和泉夜さんに手渡した。
「す、すごい……スーパーで買うより安くすませてる……」
 ついうっかり感動が言葉となって僕の口から出てしまった。
 それを耳ざとく聞いた主人は、ムッとした顔になって。
「スーパーだってぇ? 兄ちゃん。ウチの野菜はこだわってるからね、そんじょそこらのスーパーなんかには負けねぇよ」
 そう言って、兄ちゃんも食べてみろ――と、野菜をお裾分けしてもらった。

「すごい……たった120円でこんなに野菜を手に入れられるなんて……」
 八百屋を後にした僕は、隣を歩く和泉夜さんに感想を伝えた。
「ふふ。でもあなたが使ったお金は0円でしょ? すごいじゃない。もしかして才能あるんじゃないの?」
 何の才能なのかいまいちよく分からないけど、そう言ってもらえて僕はちょっと照れくさかった。いや、本来であれば全然嬉しくないことなんだろうと思うけども。
「いい、萩窪くん。お金の使い道というものは見誤ってはいけないの。私がこれから正しいお金の使い方というものを見せてあげるわ」
 と、やけに興奮気味に和泉夜さんは言った。
「え、まだ何かあるの?」
 正直そろそろ帰りたいんだけど。
「ふふ……私の真骨頂はこんなものじゃないわ。いいでしょう。もっと見たいなら見せてやるわ! 私の――錬金術を!」
 和泉夜さんは僕を置いて1人で盛り上がってる。なんか両手広げてポーズとってるし。中二病?
「……どうしようかな」
 なんか怖くなってきたし、ちょっと帰りたいんだけど。てか、錬金術てなによ。ただの主婦の知恵じゃん。
「いいからついてきなさい。きっと目から鱗が落ちる体験ができるわよ」
 手をこまねいている僕の腕を引っ張って、和泉夜さんは商店街の奥へ進んでいった。


 というわけで次にやって来たのは、大手チェーンの古本屋だった。
「てか、なんで本屋に……」
 食事は試食ですませ、繁盛してなさそうな八百屋から野菜をせしめる程ケチな奴が本とは……これいかに。
「いい? 古本は店によって値段が違う。そして大手チェーン店の古本は値段ののバラツキを少なくする為に、他の店では値が張る物も、値段の統一を図る為に100円になってたりするのよ」
 ……それで和泉夜さんはいったい何をしようというのか。いや、何となく分かってしまったけど。
「ふふ……あなたも気付いたようね。そうよ。私はここで安い本を買って、そしてネットオークションでそれを売るのよ! これはいわゆる『せどり』という技術なのよ!」
 バシッとポーズをつけて、和泉夜さんは高らかに宣言した。
 なんか和泉夜さんって、意外と熱い人っていうか……やっぱちょっと中二病入ってるよね。ジョジョ立ち?
 僕が引いているのを気にもとめないで和泉夜さんは、ケータイで漫画とか小説とかの相場を調べながら、店内を軽く散策して何冊か本を購入した。

 商店街を出る頃には、もう辺りはすっかり陽が傾いてきていて、町はオレンジに染まっていた。
「ま、こんなものね。だけどこれはまだまだ序の口よ。私の秘伝の術は108に渡って存在している」
 右手に野菜の入った袋、左手に古本の入った袋を持って、和泉夜さんは不敵に微笑んだ。
 つか、そんなにあるんだ……迷惑な話だなぁ。
「術って何の術なんだよ……ていうか……和泉夜さんはこんなことしていったい」
 僕は西日に目を細めながら訊ねた。
 和泉夜さんはさっきからやってる事はいったい……。えらくお金に執着しているようだけど……彼女の目的は。
 そもそも和泉夜さんに振り回されていて考える暇がなかったけど――学校では誰とも仲良くしようとしない彼女が、どうして僕にグイグイ関わってくるんだろう。
 そうだ……和泉夜さんは言っていた。
 お姉さんは悪くない。悪いのは僕だと――。
 つまり彼女の在り方というのは……ごくり。
 和泉夜翠香は、長い黒髪をサラリとかき分け、キリッとした瞳で僕を見据えて、言った。
「私は働かずに生きる事を決意した、自称・ノーワーカーのエヴァーグリーン――和泉夜翠香よッッッッ!!!!」
 その声は凛としていて、ある種の強い決意すら感じられた。
「え……何を言ってるの?」
 突然の宣言に茫然とする僕をおいて、和泉夜さんは続ける。
「私は労働はしないし、お金の為に生きるなんて事も考えない。私はそんなものに縛られない。私は働かずに生きる方法を知っている!」
 暖かい風が吹いた。ようやく梅雨が明けて夏の近い、生ぬるい風だった。
 ようやく実感は確信へと変わった。
 彼女は……彼女は典型的なニートだっ!
「そもそも労働なんてこの資本主義社会の上において必要なものであって……現代の人々はその事を見失っているのよ。人生とは労働こそが全てだと考えているのよ! 違うわ……労働はあくまで人生の中にある選択肢の中の1つに過ぎないのっ! 私は労働という選択を捨てた、それだけの話。そして……あなたのお姉さんも同じはずよ。あなたはお姉さんの思想を否定しようとしているのよっ」
 に、ニートの理論だ……っ。働かない人がネットとかで言ってそうな事だ……っ。
 だから和泉夜さんは僕に声をかけたんだ。まっとうな世間一般論的な僕の考えを修正させるために。だけれども。
「そ、そんな……働かないで生きるなんてそんな……」
 僕は和泉夜さんの言葉の力強さにたじろぎながらも、なんとかそれだけを口にした。
「できるわ。いや、私はやってみせる。耳に挟んだところ、あなたの家庭は少々問題があるようね。だけど問題の本質はあなたの考え方にあるのよ。ふふ……一度、あなたのお姉さんに会いたいものね。そしてお姉さんは間違っていないと言ってあげたいわ」
 僕を見透かしたような和泉夜さんの声。ていうか和泉夜さんを玲於麻ねえに会わせたらとんでもない事になりそうだし、それだけは阻止しようって決意した。たった今。
 だが、そうか……和泉夜さんが本当に興味を持っているのは僕ではなく、僕の姉さん。僕の姉さんが、自分と同じタイプの人間だと思ったから。だから和泉夜さんは……。そして働かないで生きる方法が僕に必要だと思ったから和泉夜さんは……僕に話しかけたのか?
 僕はただ黙って、和泉夜さんの小さな顔を見つめている事しかできなかった。
「どう? あなたさえよかったら、私の家に来ない? 特別に伝授してあげてもいいわよ。私の生み出したノーワーカーの方法論を」
 平気で恥ずかしい台詞を、恥ずかしいポーズをつけてのたまう和泉夜さんだけど、それは不思議とサマになっていた。
「え〜と……そ、それは嬉しいんだけど……ほら、今日はもう遅いし……僕は家に帰って夕食を作らないといけないから……また明日でいいかな?」
 絶世の美少女の自宅訪問というのも魅力的だけど、それ以上に怪しさとか得たいの知れない不気味さとかの方が大きいから、僕は全力でお断りさせて頂くことにした。
「……。ふ、ふん……いいわ、あまり詰め込み過ぎても身につかないからね。分かったわ、なら萩窪くん。今日からあなたは私の弟子にしてあげる。私の技を盗むがいいわ。光栄に思いなさい」
「いや、僕は別に弟子になるなんて……」
「? な、なんだって? あなたはなんて愚かなのっ? せっかくのチャンスを無駄にするというの? あなたはどれだけ労働に対して心酔しているの? 世で働いている人の多くがストレスと疲労を抱えているのよ? 労働は悪なのよ? 働かないで生きていけるなら、多くの人が働かないでしょう? 労働しないで済むなら、しなければいいだけの話なのよっ」
 僕を諭そうとする和泉夜さんは、必死な表情をしていて、見ていて微笑ましくさえあった。
 ああ……和泉夜さんはこんな顔もするんだ。場違いにもそう思った僕は、だけど彼女がこんなにも楽しそうに喋っているところを見れて嬉しかった。
 孤高の美少女、和泉夜翠香。誰も近づく事のできない腫れ物。そして変てこな労働観念と感情豊かな一面を持った少女。
「……ま、弟子になってみるのもアリだな」
 僕は半分無意識のうちに、そのような事を口にしていた。
 すると和泉夜さんは顔を輝かせて僕を見た。
「ほ、ほんとっ?」
 その顔はまるで子供のようで、不安半分、嬉しさ半分というものだった。
「よろしく、和泉夜さん」
 僕は微笑んで和泉夜さんを見ると、夕日に照らされた彼女の顔は、少し赤くなっていて、そして少し僕から視線を逸らして言った。
「仕方ないわね……こんな秘術を教えるなんてないんだからね。特別なんだからね」
 学校の中では決した見せた事のない、笑顔。
 不覚にも僕は――その笑顔が見れただけでも僕が和泉夜さんの弟子になった価値はあったと思ったし……それになにより、本当に働かないで生きる術があるのなら――僕達家族はこれからもっと豊かに過ごす事ができるかもしれない。
 期待半分で話に乗ってみるか。
「それじゃあ、さようなら」
 和泉夜さんは両手それぞれに袋を抱えて、夕日の方向に向かって歩いていった。
 僕はしばらくその後ろ姿を見ていた。
 そして考えていた。僕には1つ疑問が残っていた。
 どうして。和泉夜さんはどうしてそこまで働かない事に執心しているのだろう。
 噂によると、彼女の家は名だたる名家で結構なお金持ちだという話だけど……。
 彼女の話しぶりは……働くという事にむしろ憎しみさえ抱いているようだった。
 どうして彼女には、働かずに生きる方法が必要なのだろうか。分からない。分からないけど。
 だけどまあ……僕には関係ない話だ。
 帰るか。


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