働かずに生きる、と彼女は言った

最終話  幸せ家族計画

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

2

 
 日が傾きかけた暖かい夕方の町。人通りの少ない、細い坂道。
 学校からの帰り道で、玲於麻ねえと対峙した僕と和泉夜さん。
 ――ついにこの時が訪れた。
 萩窪玲於奈と和泉夜翠香。僕はいつか、この時が来ると確信していた。
 いきなり現れた玲於麻ねえを見てきょとんとするどころか、その瞬間に全てを理解した和泉夜さんは――いきなり切り出した。
「貴翔くんからあなたの話は聞いています。あなたが働かずに生きようとするお姉さんですね」
「あなたは……?」
 玲於麻ねえが不思議そうな顔をして和泉夜さんを見る。
「私は和泉夜翠香、通称ノーワーカーのエヴァーグリーン。労働という概念を忌み嫌い、働かずに生きていく事を誓った高校生です。つまり――あなたと同類の人間です」
 和泉夜さんは至って真面目な顔をして、とっても痛い自己紹介をした。
 けれども玲於麻ねえは表情ひとつ崩さず、相手の真面目な自己紹介に、真面目な返答を返す。
「ああ〜、そうか……あなたが例の。うふふ、よろしくね、翠香ちゃん。分かってるとは思うけど、私は翔ちゃんの姉の萩窪玲於麻よ。そして名乗ってすぐで悪いけれど……私はもう働くことになったの。翠香ちゃんが私に何を期待してるか分からないけど、私は翠香ちゃんと同じじゃないわ」
 玲於麻ねえが子供をあやすような声で言うと、和泉夜さんは怒りとも困惑ともつかない顔をした。
「な、なぜ働くんですかっ、あなたは私と同じ種類の人間のはずよっ……。本当はあなただって働くのが無意味だと思っているんでしょ!? お金がないから仕方なく働く事になったんでしょ! だって働く事なんて――」
「翠香ちゃん。あなたは勘違いしてるようだけど……私はなにも働きたくないワケじゃないの。ただ私は……怖かっただけなの」
 動揺する和泉夜さんを落ち着かせるように、ゆっくりした声であくまで落ち着いている玲於麻ねえ。
「こ、怖い? 怖いって何が怖いんですかっ? は、働くのが怖いんでしょう!? だったら――」
「違うわ。怖いのは、大人になること。私はわがままだったの。なんだか……私達家族がどんどん離れていっちゃいそうな気がしたの」
 玲於麻ねえは寂しそうに、腰まで伸びる長い髪をふぁさりと手で払って答えた。
「大人になる……って」
「誰もがいつか大人になるわ。私はもう大人と言ってもいいくらいだし、貴翔や樹新ももうすぐしたら大人になるわ。それにいずれは仄だって……。私達は絶え間なく成長している。そしていつか、大人になって自立していくの。私は――それが怖いの」
 ……ああ。僕はいま、ようやく理解した。玲於麻ねえが何を想っていたのか。
 玲於麻ねえは、大人になるのが怖くて、そしてただ僕達と離れたくなかっただけなんだ。
 働くことで自分が大人になるのを実感して……そして大人になるということはつまり子供じゃなくなるということ。僕や樹新や仄とは違うものになるということ。
 玲於麻ねえは働くことで、大人と子供の心が離れていくのを恐れていたんじゃないだろうか。それは奇しくも、和泉野家のように。
 だけど玲於麻ねえは――ようやくその恐怖と戦うことを決めたんだ。
 なによりも、僕達の幸せのために。
「そんな……分からない。私には分からない……」
 しかし和泉夜さんには玲於麻ねえの気持ちが分からないみたいだ。
 本当なら、誰よりも分かりそうなはずなのに。
「翠香ちゃん。あなたにはまだ分からなくていいの。私は翠香ちゃんを責めてるわけじゃないわ。だって翠香ちゃんはまだ高校生だもの。翠香ちゃんも、それに翔ちゃんだって、まだ働かなくてもいいのよ。労働するのは……大人の私の役割なの」
 玲於麻ねえのその声は、大人が子供に言い聞かせるものだった。
「だ、だけど玲於麻さん。私は何も間違っていない。働かないで生きられるなら誰だって働きたいと思わないはずっ。あなただって今、悲しそうな顔をしてるじゃない!」
「ううん……翠香ちゃんは間違ってるわ。労働は国民の義務なの。この資本主義社会の日本で生きていく以上、働かないといけないの」
 玲於麻ねえはごく当たり前の事実を述べたが……まさかこの台詞を玲於麻ねえが言うなんて夢にも思わなかった。違和感ありまくりだった。
「そのような世の中が勝手に作ったルールに、私は盲目的に従わないわっ!」
 和泉夜さんはもはや手玉に取られる子供の如く、泣きそうな顔をして反論していた。
「でも翠香ちゃんは、その世の中のルールに守られて暮らしているんでしょ?」
 対する玲於麻ねえは、まともな大人の意見を振りかざしていた。つい昨日までは、言われる方の立場だった玲於麻ねえが。
「くっ……」
 そして和泉夜さんは、とうとう言葉をなくしてしまった。
 玲於麻ねえは、追い打ちとばかりに言葉を続けた。
「翠香ちゃん。だからもう、貴翔に変なことを吹き込まないで。翔ちゃんはすぐに影響を受けちゃう子だから……とっても心配なの」
「れ、玲於麻ねえ……僕は別に……」
 玲於麻ねえは身内に対してとても甘いんだ。玲於麻ねえが僕達にとって有害なものだと感じたら、彼女はそれを徹底的に排除しようとする癖があるんだ。
 いけない――まずい展開になってしまった。
「翠香ちゃん。あなた自身にどんな事情があるか知らないけれど、貴翔は私の大切な弟なの。あなたが何を考えようともそれは勝手だけど、それを無関係の人間に押しつけるのはよくないと思うの」
 れ、玲於麻ねえ……そ、それは言い過ぎだ。玲於麻ねえ。事情を知らないんだったら、口を出すべきじゃないんだ。
「…………」
 和泉夜さんの表情は、もはや絶望と言っていいほど、暗くなっていて、瞳には光が宿っていなかった。
「翠香ちゃん。あなたにだって、養ってくれる家族はいるんでしょう? 守ってくれる、大切に思ってくれる人がいるんでしょう?」
 そして玲於麻ねえは、押してはいけないスイッチを押してしまった。
 故意ではない。知らなかったんだ。だけど、そうとは分かっていても、それは許されない行為だ。
「ぁ……ぁ……ぁ」
 和泉夜さんは嗚咽をあげて、体中を震わせ始めた。
「え……ど、どうしたの、翠香ちゃんっ?」
 玲於麻ねえはとっさに和泉夜さんの元に駆け出そうとする。が――。
「こないでっ……誰も私の傍に……こないでええええっっっっ!!!!!!」
 叫び声をあげて、和泉夜さんはその場から逃げ出した。
 玲於麻ねえはその叫びに思わず立ち止まってしまい、そして僕は――
 何も考えずに和泉夜さんの姿を追った。
 ふと僕が玲於麻ねえを振り返った時、小さくなった玲於麻ねえが僕を見つめていて――その瞳はやけに遠くを見るようなもので、僕は複雑な気持ちになった。


 和泉夜さんの足は速く、僕はついていくのだけで精一杯だった。
「待ってくれ、和泉夜さんっ!」
 全力で走りながら僕は、逃げる和泉夜さんの背中に何度も呼び掛ける。
 しかし和泉夜さんは立ち止まってくれない。
「萩窪くん……萩窪くんなら分かってくれるよねっ、間違ってるのはお姉さんの方だってっ。正しいのは私の方だってっ!」
 和泉夜さんは息をきらす様子もなく、走りながら答えた。どんだけ体力あるんだよ。
 僕はそうだって言いたかった。全部君が正しいんだって言いたかった。
 でも――。
「ち、違うっ。れ、玲於麻ねえはっ……僕の姉さんは間違っていないんだっ」
 走りながら喋るとお腹がとても痛い。しかし、僕に立ち止まることはできない。
「裏切るのねっ、あなたもっ」
 和泉夜さんはまるで忍者のように、曲がり角を急ターンで曲がり、塀を軽々昇って、屋根の上をジャンプして伝っていく。
「い、いくらなんでも無茶苦茶だ……っ。く、くそっっ! う……裏切るってなんだよっ……誰も、最初から誰も君を裏切ってなんかないじゃないかっ!」
 僕は彼女を見失わないように必死に地面を駆けた。
「あらそう? だったらそれはっ……見解の相違ね。いいわっ。どうせ……私は1人でいるのが一番いいのよっ。私は1人きりを望んでいるのっ。だから――もう追いかけて来ないでっ」
 和泉夜さんはスタッと地面に降りたって、さらに走り続ける。川原の方へと走っていく。ようやく彼女も息切れし始めたようだ。
 僕は生まれて初めての、死ぬ気で走り、彼女に呼び掛ける。川の流れより速く、風が通り過ぎるよりも速く、雲のゆく速さより速く、言葉の速さで僕は走る。
「ほ、本当はそうは思っていないはずだっ。和泉夜さんだって……1人は辛いって思ってるはずだっ」
 僕の足にはもうとっくに感覚がない。息をする度に肺がズキズキする。喋ることさえ本来なら不可能だ。でも男には、自分の限界を超えなければならない時があるんだ。
「なっ、なんでそんなことっ……あなたに分かるのっ」
 和泉夜さんは雑草の生い茂る斜面を駆け下りて、ちろちろと緩やかに流れる川に沿ってひた走る。
 だが和泉夜さんの体力も限界に近いらしく、それは歩くのと変わらない速さだった。
「だ……だって和泉夜さんっ。君は僕と関係を作ったじゃないかっ! こうして僕が君を追いかけてるのも、すべて君が僕に話しかけてきた事がきっかけじゃないかっ!」
 僕の足ももう走ることはできない。足を引きずるようにして、和泉夜さんの後ろ姿に呼び掛ける。
 夕空の川原で追いかけっこする僕達は、他人から見たらどんな風に見えるのだろうか――なんて僕は思う。
「和泉夜さんがスーパーで僕に声をかけてきたのはっ、本当はずっと寂しかったから、一人きりなのは辛かったからだろっ」
「ち、違う。そんなことは……っ」
「いいや! だって僕と一緒に街で遊んだ時に、君はとても楽しそうな顔をしてた! いろんな服を着て僕に見せていた時もっ、アイスクリームを食べていた時もっ、景色を眺めていた時もっ。1つの傘の下で一緒に歩いていた時もっ」
「…………」
 和泉夜さんは言い返す言葉を失って、逃走する速度が急速に落ちていった。
 そして――僕はとうとう彼女に追いついた。
 和泉夜さんと僕は、立ち止まる。
 夕日を映した川面が、オレンジ色にキラキラ輝いていた。
「……だからどうだって言うの? それは一時の気の迷いよ」
 僕に背を向けたまま、和泉夜さんは小さな声で言った。
「僕がいるから……君は1人じゃないんだ」
 オレンジに溶け込んだ和泉夜さんの後ろ姿は、今にも消えてしまいそうなくらい、おぼろげだった。
「……どっちみち、私にはもうどこにも居場所なんてないわ」
「それは、どういう事……?」
 僕と和泉夜さんの距離は手を伸ばせば届くものだったのに、僕にはその数十センチが何万光年もの遠くに思えた。
「私、もうあの家には帰らない」
 和泉夜さんは、人を突き放すようにきっぱりと断言した。
「な、何を言って……」
 彼女の突拍子もない言葉に、僕は理解が困難になる。
「帰らないのよ。父親がいる家にはもう戻らない。私は1人で生きていく。居場所のない学校にももう行かないわ」
 家に戻らないっていうことは……それはつまり、家出するってことなのか。
「ど、どうするんだよ。これからどうやって暮らしていくんだよ! そんなの無理だ。高校生の女の子が1人きりで生きていくなんて、いくらなんでも無理だっ。現実がみえていないっ!」
 和泉夜さんが言ってるのはただのわがままだ。父親と仲が上手くいかないってだけでそんな事言うのは絶対に間違ってる。
「わ……私には独自に研究したノーワーカー理論があるっ! 生きていく為の108の方法があるのっ!」
「な、何がノーワーカー理論だ。そんなの現実から目を背けてるだけじゃないか! 世の中そんなに甘くないんだよッ!」
 世の中は甘くない。両親を失った僕にはそれは痛い程分かるし、納得してる。
「楽しくて幸せな事があるのと同じ位に、世界は悲しくて辛い事で満ちている。僕だってそんな事くらい知っているし、悲しい事を乗り越えて生きてるんだよッッ!」
 強がって生きているけど、本当はとっても弱くて寂しがりやの女の子。僕はその細くて白い手を握りたかった。そしてこっちを振り向かせたかった。
 ――だけど数十センチであり何万光年もの距離を、僕は乗り越えることができなかった。
「……私はあなたと違う。あなたのように支えとなるものが何もないの。私は虚ろなの」
 そして、彼女は再び駆け出した。そのスピードはさっきまでよりも大分遅かった。
 遅かったけれど僕は、これ以上彼女の後を追うことはできなかった。
 その代わりに僕は――ある決意をする。
 彼女に、僕が無力じゃないって事を分からせてやる。
 凪いだ風が川の表面揺らして、夕日の光が反射して僕の目に差し込んだ。
 僕は目を眩ませながらも確信する。
 きっと上手くいく。だって、世の中は悲しくて辛い事でたくさん溢れているのと同じくらい、楽しくて幸せな事で満ちているのだから。


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