働かずに生きる、と彼女は言った

第4話  社会復帰更正プログラム

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3

 
 玲於麻ねえが試着室から出てくるより前に、僕は店を後にしていた。
 そして僕は、とりあえず家に帰って漫画の続きでも読もうと、雨の中を駅まで歩いていたら――。
「あら、奇遇じゃない。萩窪くん」
 目の前で傘をさした、とても可愛い女の子が声をかけてきた。
 っていうか和泉夜翠香だった。
「い、和泉夜さん……偶然だね」
「こんなとこで何やってるの?」
 僕にそう尋ねる和泉夜さんの服装はなかなか素敵で、春と夏の間のこの季節にマッチしたワンピース姿だった。
 玲於麻ねえと並んで歩いていたら、さぞお似合いだろうな……って、いかんいかん。
「ああ、ちょっと買い物に付き合ってたんだ。いま帰るとこなんだけど」
 ついつい見とれてしまってたけど、僕は平静を装って答えた。
「私も買い物をしに来たのだけど……そうだ、丁度いいところに来たわね。ちょっとついて来なさい」
 そう言って和泉夜さんは僕の手をとって、引っ張っていった。
「って、和泉夜さんっ。どこに行くのさっ」
 僕の傘と和泉夜さんの傘がぶつかりそうになって、僕は慌てて自分の傘を閉じて言った。
「私とあなたがすることと言えば1つしかないじゃない?」
 和泉夜さんは僕が濡れないように、傘を2人の頭上の間にかざした。
 僕のむきだしの腕が和泉夜さんのむきだしの腕に当たって、暖かいのと柔らかい感触に僕はドキリとした。
 和泉夜さんと僕がすること……僕はちょっといかがわしい妄想をしそうになったけど、慌てて頭を振った。そんなんじゃノーワーカーの戦士失格だ。
 でも……そういえば和泉夜さんのノーワーカーのレクチャーするの、なんだか久しぶりな気がする。実際には数日も経ってないんだけど。
「そ、それで和泉夜さん。今日は具体的にどんな事を実戦してくれるんだい」
 僕は緊張が伝わるのをごまかすように、和泉夜さんに訊いた。
「今から服を買いに行くのよ。梅雨明けのこの時期は、店にはたくさんの夏服が並んでいるわ。つまりそれが意味するものとは?」
「分かりません」
「あなたはまるで成長していないわね。春服が投げ売りされてるってことなのよ。私はそれを買って、そしてネットオークションで売ろうって言ってるのよ。そろそろあなたもそれ位は理解しなさいな」
 お、怒られてしまったっ。ていうか、和泉夜さんは休日に繁華街でいつも1人でこんなことをやってたのか。ちょっとそれは寂しすぎるだろ。想像したら可哀相になってきた。
 なんて思ってるうちに僕達はブティックに入って(さっきの店よりも随分と庶民的な店だった)、和泉夜さんが楽しそうに投げ売りされてる洋服を眺めて、僕にそのお買い得感を熱心に説明する。
 いや、そんなの説明されても僕あまり分からないんだけど……。
 でも和泉夜さんが嬉しそうに説明してるのを聞いてたら僕も楽しくなってきて、ちょっと和泉夜さんに試着を勧めてみたりした。
「えっ……わ、私がっ……」
 和泉夜さんはちょっと戸惑っていたけれど、結局は僕の押しと年頃のお洒落心に根負けしたようで、
「ま、着るだけならタダだからね」 
 と、洋服をたくさん抱えて試着室へと入っていった。
 衣装をとっかえひっかえ替えて登場する和泉夜さん。どれもこれも非常に素晴らしかった。簡潔に言うとビューティホーだった。
 僕がそんな単純な感想を述べる度に、それでも和泉夜さんは幼い子供のように喜んでいて、気が付いたら――本来の目的はそっちのけになっていた。

 しばらくしてブティックを出た僕らは、1つの傘を差して歩いていた。
「何も買えなかったじゃない」
 和泉夜さんは目的を果たせなかった事に不服みたいだ。
 周囲には、カップルや家族連れや友達同士の人達が楽しそうに笑って歩いていた。
「まぁまぁ、お詫びにアイスでも奢るから許してよ」
 僕はすっかり楽しい気分になっていて、ノーワーカーの事も忘れかけていた。
「あ、アイスなんてっ……そんな高級なものを買えるなんて、あなたは私の弟子としての自覚が――」
「まぁまぁ、たまにはおいしいものでも食べないと気持ちが続かないよ? お金に執着しないのが君の理論だろ? こういう時くらいはアイスくらいいいじゃないか」
「そ、そういう気のたるみが……」
 と和泉夜さんは不平を漏らしていたけど、近くにあった移動販売車のアイス屋で購入したそれを和泉夜さんの口に入れると、彼女の顔は一気に朗らかになった。
「お、おいふぃ〜……」
 今までに見たことのない和泉夜さんの顔と声。また彼女の知らなかった一面が知れた。
「ほら、あっちの方に行ったらゲームセンターがあるんだ。行ってみよう」
 僕は繁華街の中心部に指を差す。
「ふえ? げ、ゲームセンターなんてっ。そんなお金を巻き上げていく施設になんて誰がっ……」
 アイスをペロペロ舐めながら、和泉夜さんは目を丸くした。
 でもその瞳に好奇心が混じっているのを、僕は見逃さなかった。
「ふっふっふ。そう言うと思ったよ、和泉夜さん。だけどね……そこのゲームセンターは休日になると、クレーンゲーム無料券を配ってるんだよ。僕達は2人いるから、つまり2回タダで遊べるんだよ?」
「えっ? そ、それは……素晴らしいわっ」
 僕の言葉に、和泉夜さんはアイスを食べるのも忘れて目を輝かせた。
 ふっふっふ。成功だ。
 僕はさっそく繁華街の中心に、和泉夜さんと一緒に向かった。
 僕達はその後、ゲームセンターでクレーンゲームをして(なんと和泉夜さんはクレーンゲームを初めてしたらしい。しかも初挑戦でぬいぐるみを取った)、そしてゲームセンターを出た後はウインドウショッピングをしたり、ベンチに座っておしゃべりしたり、綺麗な景色を眺めたりして過ごした。
 和泉夜さんは終始楽しそうにしていたけれど……たまにすごく寂しそうな表情で遠くを見ている時があった。

 そしてあっという間に時間は過ぎて夕方。
 僕達は西日に赤く照らされながら2人並んで駅に向かって繁華街を歩いていた。雨はだいぶマシになってきた。
「楽しかったね」
 僕はまっすぐ前を向いたまま何気なく言った。
「た、楽しい? ふ、ふん……私は生きるためにやってることなの。遊びじゃないのよ」
 和泉夜さんは照れるように、ムキになって言った。でもそれは強がりを言っているようにしか聞こえなかった。
 だって僕は、和泉夜さんが楽しんでいるように思えたんだ。だから僕にとって和泉夜さんは楽しんでいた。それだけだ。
 僕達は電車に乗って、そして座席に並んで座った。
 電車のガラス窓からオレンジの陽が差し込んで、僕は視線を彷徨わせる。
 僕はふと、隣に座る和泉夜さんに訊きたくなった。
「ねぇ……和泉夜さんはノーワーカーなんて実戦しているの? お金を使おうとしないの? だって……お金には困ってないんだろ?」
 和泉夜さんの家はお金に不自由はしていない。むしろお金持ちなのだ。
 いくら父親と仲が上手くいってないとはいっても、和泉夜さんがお金に対してストイックになる必要なんてないのだ。
 和泉夜さんは少し黙っていたけど、やがて口を開いた。
「……父親が、家に帰ってきたの」
「……え?」
 それは僕の質問に対する答えになっていないようだったけど、だけど……なんとなく分かるような気がした。
「あの人は私の事を放ったらかしにして、ずっと仕事をしてた。ずっと生活費だけが送られてきた。なのに今更……なんで」
 和泉夜さんは戸惑っていた。
「で……でも、よかったじゃないか。だって、家族なんだから」
 僕は恐る恐る言う。当たり障りのない、世間一般の意見を口にする。
 彼女は、キッ――と僕を睨み付けた。
「よくないわ! ……全然よくない。私の家の事情も知らないのにそんな事言わないでよ」
 ……そうだ。確かに知らない。だって僕には和泉夜さんの気持ちが理解できないからだ。だって僕にはもう、嫌いたくても両親はこの世にいないのだから。
「私は家にいる時はあの人に会わないようにしているけど……もう駄目、会うのが怖いの。だって私はあの人に会った時、どうすればいいか分からない。会った瞬間、今までの私が変わってしまいそうで怖い……そしてまたあの人に振り回されるんだって考えると、私もう……家には帰りたくない……」
「そ、それでも君は……」
 家族なんじゃないか――と、僕は言いかけたけど、どうしてもそこから言葉が出なかった。
 その時。ちょうどタイミングよく電車は目的地の駅に到着して、僕達は黙ってホームに降りた。僕は卑怯にも、助かった――と感じて、そして自分が嫌になった。
 僕達は黙ったまま駅を出て、黙ったまま帰り道を歩いて、やがて分かれ道まで来ると――和泉夜さんが口を開いた。
「萩窪くん……今日はありがとう。こんなの、生まれて初めてだったから私とても嬉しいの。今日は……とても、楽しかったわ」
 雨はもう降っていないのに傘をさした和泉夜さん。
 彼女の表情は分かりづらかったけど、頬に涙が伝っているのだけは分かった。
 僕はそれでも何も言えず、黙って彼女の顔を見ていることしかできなかった。
「萩窪くんは、私の味方よね。私を……見捨てないよね」
 和泉夜さんは今にも泣き出しそうな声でそう言うと、背中を向けて歩いていった。
 僕は和泉夜さんの姿が見えなくなるまでその姿を見守り続けて、そして僕も自分の家の方向に歩いていった。
 僕はどうしたいんだろう――歩いている途中で、僕は軽い目眩がした。そして僕は、意味もなく傘をさした。


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