働かずに生きる、と彼女は言った

最終話  幸せ家族計画

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

1

 
 玲於麻ねえが突然働くと言い出したその日は、萩窪家にとって大きな事件となった。
 あれだけ働く事に怯えていた長女が、どうして突然コロリと変わったのだろう。
 僕も樹新も仄も玲於麻ねえに追及してみたけれど、混乱する僕達とは対称的に、玲於麻ねえだけが落ち着いていて、とりとめのない曖昧な答えを返すだけだった。
 結局その日はそんな風にうやむやに終わって次の日。僕が朝起きて学校へ行く支度をしていると、玲於麻ねえが起床してきた。
 こんな時間に玲於麻ねえが起きてくるなんて、それだけでも奇跡だ。
 ……玲於麻ねえは本気で働くつもりだ。今日からもうバイトを始めるんだ。僕はそれを実感すると、昨日感じた胸のもやもやが更に強く感じた。
 僕は久しぶりの、きょうだい4人での朝食を食べ終えて、学校に行った。
 そして昼休み。僕が教室で乾と話しながら、なんとなしに時間を過ごしていたら――珍しく、樹新が僕のところにやって来た。
「やっほー、貴翔」
 ずかずか他クラスに入り込むその姿は堂々としている。何か用事があるのだろうか。
 すると樹新の姿を見た乾が、急に全身を強張らせて。
「って、あ、き、樹新……さん」
 さっきまでやかましく盛り上がっていた乾が、いきなり大人しくなった。
 どういう事だろう。もしかして乾は樹新が怖いのかもしれない。樹新はがさつだし乱暴だから分からないでもない。
「久しぶりだね、乾くんっ。元気?」
 乾に声を掛けられた樹新はニッコリ笑って挨拶した。
「あっ、ああ。元気だぜ……。すごく……」
 とても元気だとは思えないような掠れた声で答える乾。
「そう。ボクも元気だよっ」
 樹新はさらに笑顔を満開にして嬉しそうに答えた。
 それをぽけ〜っと眺めていた乾がゴクリと唾を飲み込んで、突然キリリと真面目な表情をする。
「あ、あのさ、樹新……さん。俺と――」
 乾が顔を上げて樹新の瞳を直視する。
 それと同時に――樹新は僕の方に顔を向けて。
「ねぇねぇ、それより貴翔〜。話があるんだけど、いいかな?」
 やっぱり樹新は僕に用事があるようだったみたいで、親指で教室の外を指さした。
 ズコーっと、机に顔を伏せる乾の姿があった。
 1人でなにやってんだ、こいつ?
 僕と同じく樹新も不思議そうに乾を一瞬見やったが、すぐに教室の外へと踵を返して歩いて行った。
 僕も席を立って、樹新についていく。
「う、ううっ……樹新さん……」
 後には乾が残されていて、樹新に無視されたのがよっぽど悔しいのか、乾は席に顔を伏せたまま嘆いていた。
 教室を出た僕と樹新は、人気のない校舎の屋上に出た。
 そこは暖かい午後の陽気が気持ち良く、町の様子が見渡せて綺麗な場所だった。
「で、用事ってなに?」
 僕は青空を眺めてから樹新に尋ねた。僕と樹新はこうやって、家族についての相談とか何かある時はこの屋上を使っているのだ。
「うん。ちょっとアネキのことでさ」
 元気が取り柄の樹新は珍しく、その顔にいつものような明るい表情は浮かんでなかった。
「やっぱり玲於麻ねえの事か……」
「うん……。アネキ、突然働くとか言ってるでしょ? 普通は喜ぶべきところなんだけど……ボクはなんか……それは間違ってるって感じがするんだよ。アネキの顔を見てたら……なんかそんな気がするんだよ」
「それはお前の野生の勘か? なに言ってるんだよ……祝福すべき事じゃないか」
 僕は強がって言ってみせたけど、樹新の予感は恐ろしい位に当たるのだ。
 それに、僕だって言いようのない不安を感じているのだ。
「ボクだってそれは分かってるよ、貴翔。でもね……最近変だったじゃん。貴翔が働かずに生きていこうとか言い出して色々頑張ってみたり、莉菜さんが来てアネキを連れ出したり……なんかボク達の日常が急速に動き始めたような……」
「…………」
 言われてみて僕は実感する。
 確かに日常は動き始めていた。僕にはその始まりの瞬間がいつか、はっきりと分かっていた。それは僕が学校の帰りに寄ったスーパーで、和泉夜翠香に出会った時だ。
 少なくとも僕の物語は、そこから動き始めたのだ。
「ねぇ、貴翔……ボクはどうすればいいのかな? ボク達はアネキの為に……萩窪家の為にどうしていけばいいのかな?」
 樹新は僕の服の裾を掴んで、上目遣いになって情けない声で尋ねた。
「そんなの……樹新に分からなくて僕に分かるわけないだろ」
 だって、樹新は全てにおいて僕を上回っているのだ。僕は樹新に勝てる要素なんて1つもないのだ。それなのに……僕に訊かれても困るよ。
「……そんなことないよ」
 樹新はやけにハッキリと、僕の言葉を否定した。
「なんだよ、それ。……また勘か?」
「違うよ。貴翔はね、自分で思っているよりも凄いって事だよ……ボクよりもずっと」
 自信満々が取り柄な樹新の、珍しい表情。困ったように眉根を寄せていた。
「すごいってどこが……僕は全然――」
「ボク、和泉夜さんと友達になることができなかった」
 樹新は僕の言葉を遮るように、きっぱりと言った。
「ち、違う樹新。それはだって、玲於麻ねえがいたから……ただの偶然で」
「それでも貴翔は簡単に和泉夜さんと友達になった。ボクにできなくて貴翔にできたことだよ。ボクはね、これまで何回も和泉夜さんと友達になろうって挑戦してきたの……でも駄目だった」
 友達の多い萩窪樹新。彼女にかかれば誰とでも親しくなれるし、寂しそうにしている人間がいたら声をかけられない性格をしている、僕の双子の姉。
 僕はこの間の、体育の時間に樹新が和泉夜さんに声を掛けていた場面を思い出していた。和泉夜さんに拒絶された、双子の姉の姿を思い出した。
「ボクは……きっと貴翔が今回の鍵を握っていると思う。貴翔なら、なんとかできると思う……ていうか、具体的になにをどうするかなんて何も分からないんだけどね。今回の鍵って言っても具体的にどんな事件が起こっているのかすら分からないんだけどね。えへへっ」
 樹新はいつものように明るく振る舞って、はにかんだ。
「……でも、樹新の野生の勘がそう囁いているんだろ?」
「まぁ……ね」
「だったら――やることは決まってるよ」
 そう。僕ができる事は1つしかない。それは僕にしかできない事。
 僕はくるりと樹新に背を向けて、校舎に戻ろうとした。
 すると、樹新は唐突に後ろから僕に抱きついてきた。
「って、お前はすぐに抱きついてくるんだから……」
「えへへ。頼りにしてるよ、ボクの分身っ」
 そう言って僕に抱きつく樹新の力は、いつもよりも強くて――だけど樹新の方が折れてしまいそうな、弱さを感じた。
 仕方ないな……今日は特別だ。
 僕は抵抗することなく、ただ黙って空を見上げた。屋上から見上げる空は綺麗で、雨上がりの青色が広がっていた。
 今夜は月が綺麗になりそうだと思った。


 そして僕は教室に戻って、席に着いていた和泉夜さんに対面した。
「和泉夜さん……ちょっと話があるんだけどいいかな」
「……もうすぐ昼休みは終わりよ?」
 突然僕に話しかけられた和泉夜さんは、戸惑い半分驚き半分みたいな顔をして言った。
「今日くらいサボったっていいだろ。なんだったら放課後でもいいけど」
 真面目な僕らしからぬ発言に、和泉夜さんはしばらく何か考えているようだった。
「分かったわ。目立たない場所に行きましょう」
 そう言って和泉夜さんは席を立ち、僕達は並んで廊下を歩いて校舎を出た。
 和泉夜さんに連れられた場所は旧校舎の裏だった。
 木々が点々と並ぶ寂しげな場所。屋上とはまるで対称的な、薄暗い場所だった。
 なるほど、確かにここなら人なんて誰も来ないだろう。
「和泉夜さん……君に言っておかなくちゃならない事があるんだ」
 僕は話を切り出した。生暖かい風が吹いて、木々がざわざわと音を立てた。
「なに、萩窪くん」
「うちの姉さん……玲於麻ねえが今日から働くことになった。今頃仕事していると思う」
 それを聞いた和泉夜さんは、呆けたような顔をして、言葉も忘れて、口を開けていた。
 風が彼女の髪を揺らして、和泉夜さんは正気に戻った。
「そ、そんな……どうして、いきなり……ま、まさか萩窪くん。あなたが……」
「違うよ、和泉夜さん。僕は何もしてない。僕はあくまでも玲於麻ねえの意思を尊重する立場だから。……これはあくまで玲於麻ねえが自分の意思で決めたことだから」
 僕はとつとつと和泉夜さんにコトの経緯を話して聞かせたが、実際のところ、僕だって詳しいことは分からないし、玲於麻ねえが何を考えているのか分からない。
 和泉夜さんはよほどショックだったのか、茫然自失した顔のまま、僕の話を聞いていた。
 僕が一通り話し終えると、彼女はようやく口を開いて言った。
「萩窪くん……1つ、お願いがあるの」
「なに?」
「私をあなたのお姉さんに……萩窪玲於麻さんに会わせて」
 その目には、僕が和泉夜さんと初めて話した頃の、他人を威圧するような鋭さと、孤高に生きる者の強さが秘められていた。
 和泉夜さんは僕と出会う前の、近寄る者誰もを傷つける少女に戻っていた。
「分かった……」
 僕はそれだけを言うと近くにある裏門の方へと歩いて行った。
 もちろん学校を抜けて、今から玲於麻ねえに会いに行くためだ。


 と、僕と和泉夜さんは勢い良く学校を出たのはいいけど――玲於麻ねえはまだ仕事中らしく連絡は繋がらないし……だからと言って他にやることはなかった。
 肩すかしを食らった僕達は、適当に午後の町を散歩したり、古本屋に行ったりスーパーに行ったりしてたけど……だけど2人共なんだか言葉少なく、どことなく居心地の悪いものを感じていた。
 しばらくしてから僕達は、どちらともなく今日はもう帰ろうという意見になって――途中まで一緒に帰り道を歩くになった。
 そして分かれ道までさしかかった時、そこで思わぬ事態が起こった。
「あら、偶然だね。翔ちゃん」
 僕の背後から慣れしたんだ、聞いていると心が安らかになる声が聞こえた。
 振り返るまでもない。彼女のことなら、すぐにでも分かる。
 こっちから行くまでもなかった。まさかこのタイミングで、この瞬間が訪れる事になるとは……。
 なぁ……玲於麻ねえ。


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