働かずに生きる、と彼女は言った

第1話  働かない彼女、登場

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1

 
 梅雨が明けたというのに教室の中はまだまだ蒸し蒸ししてて暑くて、節電の為に冷房が付いていない事に苛立ちを感じつつも、僕は友人に愚痴っていた。
「また姉の説得に失敗してしまった……というか3姉妹から酷くバッシングされた。いいことやってたはずなのに、気付いたらなぜか僕が悪者になっていた」
 僕はうなだれて溜息を吐いた。
「ホントかよー? お前んちの家庭ってなんていうか、すげーな」
 僕の前に座っているクラスメイトの乾大悟郎が、大して感動してるようには思えない声で言った。
 僕は学校の教室の中にいて、今は朝のホームルームが始まる前の時間だった。
 登校してくる生徒達が挨拶したり笑ってたりしてる端っこで、僕と乾大悟郎はひっそりと話していた。
「それに樹新や妹も、姉に対して甘すぎるんだよ」
 僕は怒りを露わにして愚痴をこぼしていた。やはり男の話相手って大切だと思う。
 乾とは高校に入ってから知り合った仲であり、こいつは性格はいい加減で頭もそんなによくないけど、運動神経はすごくいいし、困ってる時は親身になって相談に乗ってくれるし、なんだかんだと僕の一番の男友達といえる存在だ。
 なのに僕が相談事をしているというのに、眠いからか知らないけど乾は、口を開けて間抜けな顔で僕をぼけーっと見ていた。
「き、樹新さん……」
 そして、なぜか僕の双子の姉の名を口にした。
 ちなみに僕の双子の姉の樹新は隣のクラスに在籍している。普段学校内では樹新とはあまり会う事はないのだけど――彼女はこの学校内ではそれなりに有名人なのだ。
 樹新は運動神経抜群で、様々な運動部からスカウトされてるし、大会前になるとしょっちゅう助っ人に呼ばれている。しかも勉強もできるというオールラウンダーな存在なのだ。
 双子なんだから、その才能を少しでも僕に振り分けられてもいいと思うのに……僕は運動も勉強もそれなりの、何の特徴もない平凡男なのだ。神様はいじわるだ。
「で、乾。樹新がどうかしたのか?」
 樹新は有名だから乾が知っていても当たり前だけど、僕の話全然聞いてないんじゃないだろうか。
「い、いや。なんでもないよ。樹新さんはその……家ではどんな感じなんだ?」
「……はい? なんで樹新のプライベートがここで出てくるんだ?」
 ちょっと乾が言ってる事が飛び過ぎてて分からない。寝ぼけすぎだろ。
「樹新の事なんてよくしらないけど、そうだな……昨日も、はしたない格好してたな」
 ほぼ半裸に近いといっていい服装だった。
「自分の家だからって、年頃の女の子が裸みたいな格好でうろつくなって言いたいよ」
 と、僕は呆れながら言うと、それを聞いた乾が、急に目をギラリと光らせた。
「ふぉ……ふぉおおおお……」
 そしてなんか鼻から白い変な煙を出しながら、奇声を発し始めた。どこか頭のネジが外れたのだろうか。
 僕が友人の身を心配しているその時、ガラリッ――と、一際勢い良く教室のドアを開ける音が響いた。
 そして思わず、僕は目を奪われた。この乱暴な登場をする人間は彼女しかいない。
 ――和泉夜翠香。
 僕のクラスの中で一際目立った存在というか……一番浮いた存在の少女。
 その和泉夜翠香が一歩、教室の中に足を踏み入れた。
 瞬間、クラスが沈黙に包まれる。
 みんなが和泉夜翠香に数秒ほど注目し――そして数秒後、何事もなかったように再びそれぞれの時間に戻った。
 もう一度言うが、和泉夜翠香。彼女の存在はこのクラスで浮いている。
 学年の有名人で、みんなから好かれているのが僕の双子の姉の萩窪樹新だとしたら――和泉夜翠香はまた違った意味での有名人だ。
 どういう意味での有名人かと言うと……それはこの学校に入学して直後の頃の話になる。つまり2、3ヶ月前の話だ。

 ――この学校には有名なモテモテイケメン先輩がいた。そのモテモテ具合は他校から女子達が見学に来る程だったらしい。
 勿論、彼は今までの人生で自分から女性に告白したことはないようだ。
 しかしそこで事件は発生する。その彼が下校時に、和泉夜翠香に告白した。一目惚れだったのだ。確かに彼女は学校で他に並ぶ者がいないくらいに美しかった。
 しかし驚くのはここからで、モテモテ先輩は告白したその一瞬後にフラれたのだ。
 彼は戸惑った。今まで自分が女性を振ることはあってもフラれる事態なんて想像もできなかったのだ。
 なぜ自分はフラれてしまったのか、彼は和泉夜翠香にその真意を問いただした。
 すると彼女は――。
「人生において一番大切な物はなにか分かるか? ……ああ、いや、答えなくていい。君の答えが合っているか間違ってるかなんて私にとってはこれっぽちもどうでもいい。答えは金と時間。タイムイズマネー。お前が私にとってそれだけの価値があるか? 私には思えない。私にはお前に費やしてやれる時間なんてないし、金もないのだ。だからそんな顔をするな。お前は悪くない。ただ、私とお前の生き方が違いすぎるだけなのだ」
 それだけ言ってモテモテ先輩に背を向けた和泉夜翠香は、そのまままっすぐ帰っていったらしい。
 モテモテ先輩は茫然としたまま、何時間もそこに立ち尽くしていたと言う。
 その後すっかり自信をなくしたモテモテ先輩は、モテモテじゃなくなって、今ではひっそりと学校の片隅で息を潜めるようにして過ごしているらしい。

 ――というエピソードで、彼女の事が少しでも伝わるだろうか。
 ちなみに僕には無理だった。
 しかもこのエピソードは和泉夜翠伝説の氷山の一角にしか過ぎなくて、彼女の逸話は無数にあるし、彼女に近づく者はみなが心に傷を負うので――次第に誰も和泉夜さんには近づかなくなった。
 その和泉夜さんがスタスタと華麗に自分の席へ座って(実は僕の隣の席)、机の中から何かたくさんの封筒みたいなのを取りだして、何かコソコソやり始めた。
 彼女はいつも内職か何か分からないけど、手を動かしている。何をやっているのかは全然分からない。
 タイムイズマネーという言葉がふと僕の脳裏によぎった。
「――って、おい。萩窪。聞いてるのか? 萩窪」
 そして気付いた時には、いつの間にか正気に戻った乾が僕に語りかけていた。
「う、うん。なに?」
 少し頭がぼんやりした気分で僕は尋ねた。
「だから、そのさ……ほら、お前の姉さんの事を俺にもっと教えてくれよ……」
 なんでか知らないが、乾は少し顔を赤らめて視線を中空に漂わせた。
 思い出した。確か僕は玲於麻ねえの事を相談していたんだった。
「あ、ああ……そうか。それで、もう姉さん一日中ゴロゴロして外にも出ないから、なんとかして健全な生活を取り戻して欲しいんだよねぇ。僕が文句言ったら笑って頭撫でて誤魔化そうとするし……」
「あ、頭なでなでっ!? そ、そんな羨ましい事を……っ」
 乾は目を丸く鼻息を荒くして言った。
「ん? まぁ、姉さんは凄く綺麗だし、僕も尊敬してるからちょっと嬉しいけどね」
「う、嬉しいのかっ!? お、お前ら実はそんな仲だったのかっ!? っていうか……一日中ゴロゴロって……家では一日中ゴロゴロしてるのかっ!? 意外にもっ!」
「意外っていうか……家ではっていうか……最近じゃほとんど家から出てないしなぁ。姉さん働かないから、それじゃ僕が働くよって言ったら」
「て、ちょっと待て! 家から出てないってどういう事なんだっ! だって彼女はちゃんと学校に――って、ああっ! なんだっ! そ……そっちのお姉さんかっ!」
 乾は1人で勝手にテンションを上げて、椅子から飛び上がっていた。
「……ん? 他に誰かいるのか?」
 意味の分からない乾の奇行に、僕はちょっと彼の精神状態が不安になってくる。
「い……いや、何でもないさ。心配するな。ええと……そうだな、萩窪。こいつは姉さんを説得して、なんとか働かせないとまずいことになるな」
 乾は再びテンションを下げて、めんどくさそうな声で答えた。
 割と普通な助言だな。てか僕だって分かってた答えだけど。
「でも……僕の姉さんを働かせようと思ったら、それこそ力ずくで連れて行くしかないよ。……いや、それでも僕の力じゃ姉さんには勝てないと思うけど。まぁそれ位にうちの姉さんは、絶対に働かないんだ。働かない事に確固たるプライドすらも持ってるね」
 僕は日頃の恨みを晴らすように好き勝手に乾に愚痴っていると――言いしれぬ視線を感じた。
 ……っ。僕はとっさに右隣を見た。すると。
「…………」
 隣の席に座っている和泉夜翠香が、僕の方をじっと見つめていた。
「え……」
 僕と目が合っても、和泉夜翠香は視線を逸らさない。
 な、なんだ……ずっとこっちを見ているけど。何か言いたい事があるんだろうか。
 和泉夜さんはクラスメイトの事を空気のようにしか思っていないというのがクラスの総意だったけど……。
 もっ、もしかして彼女はいま、彼女なりに徐々にクラスの中に馴染もうとしているのか?
 ならばこれは、和泉夜さんと仲良く話すチャンスなのかもしれない。
「あ、和泉夜さ――」
 和泉夜さんも僕の姉ってひどいと思うよねぇ、と言いたかったんだけど――、
「ぷいっ」
 と、わざわざ口で言って、和泉夜さんは僕から視線を背けて、ただ真っ直ぐ前を見ていた。
 ……せっかくのチャンスを棒に振りましたよ、和泉夜さん。僕がきっかけを用意してあげたというのに。
 はぁ……どうやら噂は正しいようで。
 やっぱり和泉夜さんに関わる人間は例外なく――これで僕も、心にトラウマを抱えることになりましたとさ。


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