働かずに生きる、と彼女は言った

第3話  ご家庭訪問

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 翌日、体育の授業中に、僕は体育座りでハードル走の順番待ちをしながら、隣にいる乾に尋ねた。
「そういえば乾って、和泉夜さんとは小学校から同じだったよな? なぁ、和泉夜さんってどんな人なんだ?」
 天気は快晴で、もうすぐ夏の訪れを予感させる気温が僕達の体力を奪っていく。
「なんだ突然……その質問の意図はよく分からないけど、彼女は昔から目立った存在だったよ。ま、クラスメイトだったってだけで、彼女についてはそんなに知らないけど、俺が知ってる範囲でいいなら話すよ」
 乾は怪訝な顔をしながらも、和泉夜さんについて語り始めた。
「親が結構金持ちなんだけど……そういえば授業参観とかでも和泉夜さんの親って見たことないよな。なんか離婚したとかって噂もあったんだよな。彼女、小学校の時から今みたいな感じでいつも1人だったな」
 僕はチラリと視線をグラウンドの離れた場所に向けた。
 そこではうちのクラスと隣のクラスの女子達が、走り高跳びの授業をしている光景があった。
 樹新が大きな胸を揺らしながらオリンピック選手顔負けのジャンプをするのを、女子達が歓声をあげて拍手していた。
 僕はその隅にぽつんと体育座りしている、和泉夜さんを見つけた。
 まるで1人、ここじゃない違う場所にいるような顔で、どこか遠くを見ていた。
 大きな入道雲が浮いている、そこまで迫った夏の空の彼方を見ているようだった。
「樹新さん。カッコイイよなぁ……」
 と、いつの間にか乾も女子達の方を見ていた。しかし乾が見ているのは多くの人が注目しているように、僕の双子の姉だった。
「なんていうか……儚いよな」
 日向にいる人間と日陰に生きる人間。僕はなんとなく……そんな事を口にしていた。
「え? 儚い? 俺にはその逆だと思うけどなぁ」
 だけど乾には僕のこの詩人的な感情が理解できないのか、見解の相違を口にする。
「だってさ……誰にも注目されずにさ……」
 僕は遠い目で和泉夜さんを眺める。その姿は今にも消えそうなくらい、存在が薄かった。
「いやいや、みんな注目してるだろ。だって彼女は存在感たっぷりじゃん。……胸とか」
 胸? なに言ってるんだ? 和泉夜さんの胸は、それこそ儚いじゃないか。
 さっきから僕と真逆の意見だ。乾はえらく僕の言葉を否定している。僕には和泉夜さんを注目する人間がいるようには思えないんだけど。
 いや……でも逆の意味で存在感は浮いているといえるな。なら乾の意見も正しいか。
「ああ……確かにちょっと変わってるもんな。美人だけど、行動が突拍子もないもんな。それに……誰とも仲良くしようとしないし」
 常に孤高で、必要以上の会話をしない和泉夜翠香。
「そうだよなー。美人で行動力があって、友達も……って、えええっっ!? 仲良くしないっ? そ、そうかっ……? 俺にはとてもそうは思えないけど……い、いやっ。お前が言うなら真実味があるよ……もしや普段ああやって振る舞ってるけど、実は心の深いところでは孤独感が埋め尽くされてるというのか? だったら……俺にもチャンスがあるかも」
 チャンスってなんだ? なんのチャンスだ? ああ、そうか。
「なるほど……僕もそう思うよ。そうだね……彼女はきっと、もっと友達を作った方がいいと思うんだ。だから乾……。お前もそう言ってくれるなら僕も嬉しいよ」
 和泉夜さんは、樹新達の輪の中に入るのが一番いいと僕は思うのだ。
 なのに乾は。
「え? マジでっ? お前も認めてくれるのかっ? 俺の事を応援してくれるのか!? だったら萩窪……いつかお前の事を弟と呼ぶことになるかもしれないという事だな……」
 ????? いや、意味が分からない。まったく話が通じていない気がする。僕の言葉が伝わっていないのか?
「なんで僕が乾の弟にならなきゃいけないの? なに言ってんの、お前。気味悪いぞ」
 思わず僕は乾の顔を見て不快感を表した。
 しかし乾は――もうこれ以上は何も言わなくても分かってるぞ、みたいな顔して。
「ま、友達から急にそんな関係になるのは恥ずかしいよな。俺も恥ずかしいよ……」
 そう言って顔を赤くして僕から視線を逸らした乾は、ハードル走の順番が回ってきたので立ち上がって駆けていった。
 さっぱり分からない。僕には、乾に対する得たいの知れない不気味さだけが残った。
 だから僕は、再び女子の方に視線を送る。
 ちょうど、和泉夜さんが高飛びする番だった。
 和泉夜さんは、とても綺麗な動物のように、走って、ジャンプして、軽やかにとんで、しなやかに体を反らせて、そして軽やかに着地した。
 それらは芸術的ともいえる、一連の動作だった。
 だけど、樹新の時とは違って、誰も関心を寄せている者はいない。
 いや……いた。
 和泉夜さんが先程までいた場所に戻って腰を降ろした時、彼女に近づく人物がいた。
 それは――僕の双子の姉、樹新だった。
 樹新が体育座りしている和泉夜さんに何やら話している。遠いから何を話しているかは分からないけど、樹新の顔はいつものようにように明るくて快活な笑顔だった。
 ……ああ、でもやっぱり僕の予想通りというかなんというか。
 さっきから見ていれば樹新が一方的に話してるばかりで、和泉夜さんはずっと前を見たまま表情1つ変えない。樹新の顔を見ようともしない。拒絶感100%の表情。
 ……駄目なんだ。樹新。彼女は、お前とは違うんだ。お前が太陽だとしたら、和泉夜さんは深海であり静寂であり戦慄なんだ。お前には……無理なんだ。彼女とは決して相容れることはできないんだ。
 見ているだけで辛い光景だった。――痛い。ただそれだけだった。
 そのうち。やがて樹新の顔から徐々に笑顔がなくなっていき、そして――そのタイミングを見計らったように、和泉夜さんの口が開いた。
 樹新の方を見ようともしないまま一言、何かを言ったようだった。
 それを起爆剤にして、樹新はしばらく固まってしまった。
 学校で一番の人気者は、学校で一番の異端者に敗北した。
 樹新はやがてぎこちない笑顔を浮かべ、和泉夜さんに弱々しく手を振り、遠巻きに見ていた女子達の元にいって、何事もなかったように、いつもの笑顔で会話を始めた。
 そして――樹新が楽しそうに女子達と喋っている輪から離れたところで、ぽつんと世界から切り離されたように座っている和泉夜翠香。
 先程までと変わらない、相変わらずの揺るがない姿。揺るがない孤高。
 1人で生きていくと言った和泉夜翠香。
 僕は彼女の事が全然分からなかった。
 だって彼女は、僕と話している時は――もっと楽しそうな顔をしていたんだ。彼女は僕だけは突き放さないんだ。
 僕はその事を、もっとしっかり受け止めなくちゃいけないような気がした。
 僕は空を見上げた。
 青空は、さっきよりも暗さを増して、雲が多くなっていた。
 夏前の天気はとても不安定なのだ。


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