ヒーローズ

エピローグ 碧の空

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 
 朝の暖かな空気の中、碧之宮臥はいつものように起き、いつものように学校に行く。
「おはよう、碧之君っ」
 その通学路の途中、坂道を昇っている時、ふいに碧之は後ろから声を掛けられた。それは透きとおるような少女の声だった。
「あ、おはよう……煤ヶ崎さん」
 人通りの少ないレンガの坂道の真ん中で、碧之はゆっくり振り返って言葉を返した。
「うんっ」
 そこには煤ヶ崎煤利が涼しい顔をして立っていた。その顔は朝日に照らされていて、長い黒髪が風に揺らいでいた。
 昨日、あれだけ名前で呼び合っていたのだが、もちろん現実世界での呼び名は名字だ。そして相変わらず煤利は大人しそうな雰囲気を身に纏っていた。黒髪長髪で黒縁眼鏡の、白くほっそりした体。だけど煤利は、前よりも少しだけ少女の印象が変わったような気がした。それは碧之の気のせいだろうか。
「それじゃあ学校まで一緒に行きましょう、碧之君」
 ふぁさりと背中を向けて煤利は歩き出し、碧之は後に続いた。
 ――そう、今日はウロボロスとの熾烈な戦いが終わって、碧之達が現実世界に帰還した翌日のことであった。
「――ねえ、碧之君。聞いてるの?」
 気が付けば煤利が碧之に話しかけていた。思わず碧之の体はびくりと跳ね上がる。全然聞いてなかった。
「え、えーと……なんだっけ?」
 苦笑いしながら碧之は尋ねる。
 その様子を見て、煤利は呆れるようなため息を吐いて言った。なんだか今日の煤利はやたらと上機嫌な様子みたいだ。いつもの煤利だったらきっと一緒に登校するなんて事しないはずなのに。
「だから……学校終わったら今日もやるのかって聞いてるのよ」
「やるって……何を?」
 ぼけっと答える碧之に、煤利はぷくっとむくれて、
「私達の間でやることと言ったらアレに決まってるじゃないっ」
 やれやれと言いながら煤利は碧之を追い越して坂道を登っていった。やはりいつもと様子が違う。心境の変化でもあったのだろうか。煤利の眼鏡のレンズがキラリと太陽の光を反射した。
 そんな煤利の姿に一瞬見とれながら、碧之はああその事かと苦笑して答える。
「いや、さすがに今日は遠慮しておこうかなぁと……」
 昨日あれだけの死闘を繰り広げたばかりなのだ。正直、碧之は当分フォルス・ステージには関わりたくなかった。
「……そ、そう」と、碧之の返事を何故か悲しそうな顔をして聞いた煤利は、それでもすぐに笑顔を作って言う。
「ふ〜ん。ま、そうよね。そんなに世界ばっか救ってたんじゃ救世主さまの安売りセールになっちゃうものねっ」
 煤利は上半身を前に傾けて、ウインクしながら碧之に視線を寄こした。
「……え? なにが?」
 ぼ〜っとしていた碧之は立ち止まり、煤利の顔を見つめて聞き返した。連日連夜の寝不足で頭が目覚めていなかったため、煤利の話をあまり聞いていなかったのだ。でも煤利が何かすごく恥ずかしい台詞を言ったような気はした。
「……え、なにがって……いや」
 そして、煤利もそのままの姿勢で立ち止まった。
 珍しく言葉に詰まっているみたいだった。そして碧之に見つめられている内に、煤利の顔が次第に赤くなっていった。
「ん……どうしたの、煤ヶ崎さん?」
 碧之は自分の顔を見つめながら硬直する煤利を不思議に思った。奇妙な間。
「…………え、ど、どうしたって……いや、なんでもないけど……」
 煤利の反応はか細い。顔は真っ赤で、目が泳いでいた。
「「……」」
 2人の間に、変な空気が流れた。
 そして暫くの沈黙が続き、耐えられないといった感じに煤利が、
「そっ、そうだ、碧之君っ」と話を切り出した。
「なに?」と言って、碧之は再び歩き出す。
 ようやく時が動き出した。けれど、なんだかさっきまで珍しく上機嫌だった煤利がまた不機嫌になったような気がした。女の子の気持ちはよく分からないと碧之は思った。
 そんな煤利はため息を吐きながら碧之を追いかけ横を歩く。
「女王様からの伝言があるのよ……ありがとうクウガさん。あなたはやっぱり救世主でした。あたくし達は間違ってました――みたいなこと言ってた」
 抑揚のない棒読みのような声で煤利はすらりと言った。まだ少し顔は赤かった。
 碧之はその様子を見て、なんだか胸に暖かいものを感じた。
「それは……随分といい加減な伝言だな」
 碧之は小さく笑う。
 そう……フォルス・ステージは滅びなかった。かなり危険な状態になって、世界はほとんどが崩壊したと言っていい……だが、それでもまだ消えていないのだ。
「あとはね……カロン国も滅茶苦茶になってしまったけれど、また再び一から出直そうと思います。今度は救世主さまや魔術師などに頼らず、あたくし達カロンの手で――だって」
「そ、そうか……」
 結局碧之は、自分が遠い昔にカロン国を救った救世主なのかどうか分からず仕舞いだった。だけどそんな事は些末な問題だ。分からない事は分からないままでも問題ないのだ。謎はゆっくり解いていく方が面白いし、それがエンターテインメントなのだ。
 そしてカロン女王――。彼女はこれから大変だろう。森の近くにあったカロン国は完全に崩壊してしまったのだ。多くの民が窮地に陥ってしまった。
 だけどそれでもまだ世界は続いている。まだ人々は滅んでいない。やり直せるのだ。
 無責任な言い方かもしれないけど――きっと大丈夫だと、碧之は何となく思った。

 2人は話している内にやがて学校に着いた。学校内ではフォルス・ステージの事は話さないのが彼らの決まり事。
「それじゃあね、碧之君」
「うん」
 2人は靴を履き替えるためそれぞれの下駄箱へと向かった。
 朝日が下駄箱を照らす中、碧之が靴を履き替えている時に、ふと脳裏に何とも言えないわだかまりを感じた。
 だから碧之は、教室に向かう前にカウンセリング室へ立ち寄ってみることにした。
 しかし――、
「…………」
 カウンセリング室を開けた碧之は絶句する。
 カウンセリング室があった教室は空き部屋になっていて、中に入るとその部屋は物置として使われていた。太陽を遮るように閉じられたカーテン、その隙間から漏れる光によって浮かび上がる埃の粒。まるで長い間誰も使用していないかのような様相だった。
「あなたは本当にロマンチストで謎の多い人ですね……」
 碧之はしばらく部屋の真ん中で茫然と立ち尽くした後、背を向けて部屋を後にした。
「……さようなら、心根先生」
 
 碧之が自分の教室に入って席に着くと、前に座っていた贄冶が振り向いて口元を歪めて微笑んだ。それは普段誰にでも親切でみんなから好かれる彼らしくない、まるで狂犬のような笑みだった。
 特に会話はなかった。だけど碧之も同じように微笑み返した。彼らはもう、単なるクラスメイトを超えた関係なのだ。
 しばらくするとチャイムが鳴って、朝のホームルームが始まった。
 今日のホームルームはいつもと様子が違った。担任が教室に入ってきたまではいいが、その時に担任が妙にかしこまって言った。
「え〜、長らく学校を休んでいた弦々呂弓美(つづろゆみ)さんですが、病気が無事治ったとのことで今日からまた学校に復帰することになりました〜」
 碧之はいつも空席になっていた机を見た。そういえばこの学校に入学して以来ずっと休んでいる生徒が一人いたのだ。噂によると神隠しにあったという事なのだが――。
 そこまで考え――碧之はハッとして教室の入り口を振り返った。
 行方不明者、神隠し、フォルス・ステージ。碧之は息を呑む。
 そしてガラリ、と扉を開て現れたのは一人の少女。肩口まで伸びた栗色の髪と、小柄だけどたいへん大きな胸の持ち主。
「み、みなさん、ど……どうかわたしと仲良くして下さいっ〜」
 まるで謝罪するかのようにペコリとおじぎする少女。甘く、幼さを残した声だった。
 それは碧之が知っている彼女とは全然違う様相だったけど――でも、だから碧之は確信する。これで弓を背負っていたら、きっと彼女は自分の事を俺って言うのだろうって。
 ふと、教壇に立つ彼女が碧之の方に視線を向けたような気がした。そして何やら意味ありげに微笑んだような気もした。碧之はきまりが悪くなって目を逸らす。
 暫く視線を下に向けていた碧之だったが、その視線をなんとなく煤利の方に向けてみた。すると煤利はなぜか不機嫌そうな顔をして、碧之の方をじっと睨んでいた。
 思わず動揺してしまう碧之。彼女が何に対して怒っているのか分からない。
 一方、碧之の視線に気付いた煤利は、ゆっくり口を開け彼に何かを伝えようとした。
 碧之には聞こえなかったけれど、けれども――はっきりと分かった。
『放課後いくからね』
 なんとも我が侭な相棒を持ってしまったものだ。
 ああ、これから先も大変になりそうだなと、碧之は思った。
 碧之の冒険はまだまだ続くのだ。だって人生はゲームなのだし、ゲームは世界なのだ。そして彼の人生はこれからも続いていく。
 ふと窓から空を眺めると、小鳥が空を飛んでいるのが見えた。
 きっと今日は、校舎の屋上で食べる絶好のお弁当日和なんだろうなと思った。
 その時碧之は、自分がこの学校生活を楽しんでいる事に初めて気付いた。今までの彼にはあり得ない事だった。それはどうしてだろうか。答えは簡単だ。
 煤利の存在が自分の世界を素晴らしいものにシフトしてくれた。
 だから碧之は煤利の手作り弁当が、今から楽しみでしょうがない。今朝から何も食べていないのでとても待ち遠しく思ってた。
 碧之は空に浮かぶ雲を見ながら、ふとこの世界の生き甲斐を見つけたような気がした。世界の答えは全てあの空に浮かんでいそうで、見果てぬ先にあるニライカナイなんてものは、実はどこにでもあるような気がして……。
 それはどこまでも続く、青く広い5月の空の出来事だった。 

   ――END

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