ヒーローズ

第1章 碧之宮臥の幻想体験

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 
 なんでもない春の、なんでもない一日のこと。
 いつものように学校が終わって、いつものように家に帰ろうとしている時の話である。
 碧之宮臥(あおのくうが)はしかしこの日――世界を越えてしまうことになる。

 それは学校の帰りに、碧之がいつもは通らない道をなんとなく通りたくなって――というより、早く家に帰っても暇だったので――公園に立ち寄ったことから始まった。もしかしてそれが所謂運命というものの、小さな奇跡だったと言えるかもしれない。
 そこは平日、休日、昼夜問わず常に人がいない閑散とした公園。静かで落ちつくという理由で、ここは碧之の密かなお気に入り場所でもあるのだが――けれど今そこには一人の見知った少女の姿があった。
「あれは……煤ヶ崎(すすがさき)さん?」
 物寂しい公園で、颯爽と長い黒髪をたなびかせ悠然と佇む少女。煤ヶ崎煤利(すすがさきすすり)。クラスメイトの女子なのだが、碧之は彼女が誰かと話しているシーンを見かけた事がなく、そして笑っているところも見たことがなかった。彼女はいつも教室の隅で本ばかり読んでいる、目立たぬ存在という印象だった。
 ていうか、目立たないという意味では碧之も同じだった。彼も友達の少ないアウトロー的立場である。
 そんなアウトロー同士が小さな公園で出会った――といっても、出会ったというよりはむしろ碧之が煤利を発見しただけ。どうやら煤利は碧之に気付いてない様子だ。いや、というより何やら変な様子。
「くっ……こんなところで……私にはやらなければいけないことがあるのに……」
 煤利は砂場の上を歩きながら、真剣な表情でぶつくさ独り言を呟いているみたいだ。はて、いったい彼女は何をしているのか。
 公園内には煤利の他には誰もいない。オレンジ色の夕暮れ時にさしかかった時刻。もうすぐ太陽が沈むとは言え、それでも人が一人もいないのはおかしいなと碧之は思う。
 普段だったらこのままスルーして帰る碧之。事実、煤利に気付かれない内に帰ろうかとも思っていたのだが、この少し不気味な空気の中、えらく深刻そうな様子で煤利が何をしているのか気になった碧之は公園の入り口で暫く動向を窺うことに決めた。
「う〜ん。こうしてみると探偵みたいで面白いな」
 内気な碧之だけれど、好奇心は人一倍にあった。いや、むしろ何の取り柄もなくてくすぶっているような碧之だからこそ、好奇心が人一倍あった。碧之は何かが欲しかった。無為に過ごすこの青春を変えたかった。謳歌したかった。夢中になれる生き甲斐が欲しかった。その為のきっかけが欲しかった。だから――碧之は煤利を見つめる。
「しかしよく見てみれば煤ヶ崎さんって……結構美人だよなぁ」
 学校では地味で目立つような事がないから分からなかったが、煤ヶ崎煤利はなかなかのルックス……いや、なかなかどころではない。見れば見るほどに綺麗さが加速するような美しさを備えている。
 そうして改めて見れば、長く伸ばされた黒髪も艶と滑らかさを備えたサラサラしたシルクのようなものに見えるし、地味な黒縁眼鏡だって知的さを感じさせ、その奥の瞳に注目してみたくなるし、実際瞳に注目してみると、くりくりぱっちりした瞳とその上に被さるような長いまつげ。体が細く華奢なのも逆に彼女の特徴をよく表しているように思える。しかも胸だってよく見ればそれなりの大きさを持っていて、発育途中ながらも決して小さくはない部類に入っている。
 う〜ん、これはもしやクラスの中でもかなりレベル高い女の子なんじゃないのか〜? と碧之が思い始めた時であった。
「ところで……碧之宮臥君――さっきからそこで何をしているの?」
 見つかってしまった。いつの間にか煤ヶ崎煤利は碧之の方に顔を向けていて、無感動な鋭い視線を向けていた。
「げえっ、す、煤ヶ崎さん。き、奇遇だ、ね……えと……」
 実は君を見ていたんだ〜、などとはもちろん言えない。まあ実際、これ以上ないくらい犯罪レベルと言えるほどに凝視していたし、特に胸辺りを一生懸命観察していたのだし。だからこそ碧之は煤利の視線に気付かなかったのだけど。
 というかクラスメイトとは言え、まさか煤利が碧之の顔どころか、フルネームまで覚えているなんて予想外のことだった。まあ、それはお互い様の事なんだけれど。
 苦笑いしながら言葉の続かない碧之に、煤利は静かに追い打ちをかけた。
「碧之君。奇遇と言うより、君……ずっと私を見張っていたじゃない」
 ばれてたし。
「へっ!? うっそ! ぼっ僕、君を見てたんだ!? いや〜、き、気付かなかったな……そ、それは――」
 もう答えが滅茶苦茶。まあ、仕方ない。ただでさえ碧之はクラスの女子とまともに会話なんてできないのだ。しかも同じ高校に入学して早ひと月、その間一度も会話したことない人間と話すなんてかなりハードル高いんじゃないのかい、とか碧之の頭でそんな言い訳が高速で脳内を駆け巡る。そして碧之の頭で閃いた、たった一つの冴えた回答。
「き、き……君の方こそこんなところで何をやってるんだよっ!!」
 うまい言い訳の思いつかない碧之が思わず使ってしまった秘技、逆切れ。とことん滅茶苦茶。だが煤利はそんな滅茶苦茶男に対して努めて冷静だった。
「私はそうね……世界を救っていたのよ……」
「せぇ、世界を……?」
 普段話すところを見ない人物なんだけど煤利は意外と冗談が言える人間なのか? と、少しの間あっけにとられていた碧之だったが、その時気付いた。
 よく見れば、煤ヶ崎煤利。彼女はどことなく憔悴しているように見える。肩で息をしているというか、やたら疲れた顔をしているというか。
「煤ヶ崎さん……もしかして体調悪かったりする? なんか疲れてそうなんだけど」
 こんな公園で疲れるようなことをしていたのかなと疑問に思いながら碧之は尋ねた。
「ふん。碧之宮臥君……君もなかなか鋭い。そう、私は疲れているの……だからもう帰って。私には関わらないで」
 煤利のとげのある言い方。そうだ――これが彼女がクラスで孤立するゆえん。毒舌。悪態。他人を突き放そうとする態度――それが彼女の最大の欠点であり弱点であり短所。
 学校にいるときなら、碧之は大人しく煤利の言葉に従いこの場から立ち去っていただろう。なのに今はこのまま引き下がろうなどとは露ほども感じない碧之。まるで今ここに自分がいることは必然で、ここで何かが見つかるような気がして。だから碧之は訊いた。
「でも、なんで疲れてるの?」
 言い寄る。問い詰める。この不思議な気持ちは好奇心の他にも何かある。けれど今の碧之には分からなかった。とにかくここで謎を解消したかった。
「それは……」
 そして煤利はまた言いよどんだ。碧之は確信する――彼女は何かを隠しているのだ。
 だから何も持たない碧之は、煤ヶ崎煤利にますます興味を持った。
「それはなに?」
 持たざる者、碧之宮臥はぐいぐい煤利に接近する。さあ、その秘密はなんだ――。
「ここでラジオ体操してたから」
「そっ、そうか、ラジオ体操――って、いや、絶対それ嘘だろ! なんで今ラジオ体操!? 学校終わった後にやるものなのっ!? 一日の後半部分に突入しちゃってるよっ!!」
 思わず碧之のツッコミが炸裂する。もっとマシな嘘があるだろうと碧之は呆れた。
 煤利は綺麗な顔をしかめてから、舌打ちして言った。
「……それじゃあさようなら碧之宮臥君。早く行かないと塾に遅れるわよ」
 ある意味やけくそ気味に言った煤利を見て、キャラが壊れたのかなと呆気にとられながら碧之は重大なことに気が付いた。そう、塾の時間だ。
「あ。ほ、ほんとだ……そろそろ塾が始まる時間だよ……ってえ、僕塾行ってねーよ! 勝手に変な設定付け足すなよッ!」
 ノリツッコミを入れながら碧之は考える。にしてもこの状況、なんとも不思議だなぁと。自然と会話が弾んでいるのだ。お互い学校では友達が少なく口数も少ない者同士なのだけど、だからこそなのか、案外煤利とは気が合うのかもしれない……。
「碧之君、塾行ってないの? だったら今なら入会料1万円引きよ、早く行ってきたら」
 煤利は尚も碧之を塾に行かせたがっているようだ。
「えっ? そうなの? じゃあちょっと……って行かねーよッ! 話をすり替えるな!」
 碧之に学力が必要なのは確かだったので入塾しに行きそうになったが、そこはなんとか話を戻した。危うく騙されそうだったが、あくまでも碧之は追求の手を緩めないのだ。
「ていうか……そうやって誤魔化そうたって無駄だよ! さあ言ってよ、煤ヶ崎さん。君はさっきまで……世界を救っていたの?」
 勿論碧之は煤利の言う事を信じていない。だけど……その言葉を信じてみたいのも確かだった。
 だから碧之は、半信半疑のままに言った。
「――だったらそれ……僕にも手伝わせて欲しいんだけど、さ」
 その一言が、碧之宮臥の世界を変えること事になるなんて信じられなかったけど――碧之が信じたかった事なのだ。
 そして碧之のその一言で、煤利は――普段被っている仮面を脱いだ。
「……そう、なの。ふ……ふふ」
「ん? な、なに?」
 煤利の突然の態度の変化に驚く碧之。そして煤利は、
「ふふ。ふふふふ……面白い。まるであなたはかつての私。あなたは昔の私と同じような好奇心を有しているのね……もしかしてあなたなら……うふふふ」
「え? ど、どうしたの、煤ヶ崎さん……」
 突如、わけの分からないことを言いながら声を出して笑う少女。碧之は煤利が笑うところを初めて見た。これは少々異様な光景だ。もしや壊れてしまったのかと、碧之はちょっと怖くなって帰りたくなった。
「そうね……いいわ。こうなっては仕方ない。あなたにも運命があるというのなら、私はそれに反逆したりはしない……さあ、ならば碧之宮臥! 共に世界の先へと行こうではないかッ!」
 煤ヶ崎煤利は完全に変貌していた。
「……えっ?」
 変な空気が流れる。煤ヶ崎煤利は急性の中二病にかかったのか?
「……だから、碧之宮臥。私と共に世界を救う戦いを始めようというのだッ!」
 学校ではいつも本を読んでいる、大人しい文学少女のイメージのあった煤ヶ崎煤利。碧之の中で煤利に対してのゲシュタルト崩壊が起こった。
「た、戦いって誰と戦うの……? って言うかさっぱり話が見えてこないんですが……」
 あと、なんでちょっと怒鳴ってるの? なんで興奮してるの? なんで偉そうなの? どん! という効果音が似合いそうな感じになってるのはどういうこと? と、色々疑問はあるけれど、ついつい敬語になってしまう程に碧之は困り果ててしまった。
「フン。分かったわ、何事においても説明は必要。あまり冒頭からごちゃごちゃ説明しても読者が付いていけなくなるから私のポリシーじゃないんだけれど、旅立つ前に何も予備知識無しというのも碧之君には可哀相だから最低限の事は言っておいてあげる。でも長くならないように地の文で済ませるからね」
「読者っ!? 地の文っ!? なにこれ、小説? この世界小説なのっ? 僕もしかしてライトノベルの主人公になっちゃった!?」
「ふふふ……なかなか鋭いじゃない、碧之君。そうよ、私が言いたい事とは要約すればそういうこと。私達はこれから非日常の世界に行くのよ。あなたは主人公になるの。でもね碧之君、今はとりあえず黙っていて私の説明を聞いてくれるかしら?」
 有無を言わせない煤利の態度。いつの間にか腕を組んで威風堂々と佇んでいる。
「え、あ……はい」
 つい大人しくなってしまう碧之。それよりなんでさっきから煤ヶ崎さんの性格きつくなってるの? ツンデレだったの? と思ったけれど、そんな素朴な疑問はひとまず置いといて、とりあえず説明を一通り聞くことにした。
「いい、碧之君。長くなるけどちゃんと真面目に聞くのよ……」と、煤利の解説が始まった。
 そして、煤利が説明したことを要約するとこうである。
 ――碧之が住むこの現実世界以外にも世界がある、と煤利はまずとんでもない事実を告げた。
 そして更に驚く事に、煤利はその別の世界に行くことができるのだ。その世界に行って『モンスター』と戦っているらしい。
 煤利はその世界の事を『フォルス・ステージ』と呼んでいる。
『フォルス・ステージ』はこの世界に対しての下位世界、代替世界なのだという。
 つまり簡単に言えば『フォルス・ステージ』とは、現実世界においての漫画やアニメやゲームにあたる世界なのだ。つまり架空のエンターテインメント世界。現実の人間が創った創造の世界。脳内世界。夢世界。仮想世界。だから――偽物の劇場なのだ。
 だけどしかし、これはあくまで煤利の憶測に過ぎないので、それが正しいのかは分からないが、とりあえずはそういう風に思っておいていいと言う。
 じゃあ、そもそも何故その異世界で『モンスター』と戦わなければいけないのかと碧之が聞いたところ、煤利は『分からない』と答えた。

「って――分からずに戦ってるのかよ!」
 説明を遮ってついツッコんでしまった碧之。
 しかし煤利は顔色ひとつ変えない。むしろ話を途中で中断させられて少々不機嫌な様子。ぷくぅと頬を膨らませている。普段の学校生活を見る限りにおいてなかなか想像し得ない表情だった。というか学校では表情に乏しい煤利だが、こんなにも表情豊かに話す姿を見て、碧之は内心嬉しく思っていた。何故嬉しいのか分からないけど。
 すると煤利はまたもや表情を変えて、今度は眉間に皺を寄せ言った。
「分からずに戦っちゃいけないのかしら? だってエンターテインメント世界なのよ? これはゲームなの。ならバトルは切っても切り離せない要素なんじゃない? あなたはRPGをプレイするのにモンスターと戦わないといけない理由をわざわざ考えているの?」
「そ、そう言われてみれば……。ま、まあ一応分かった。とにかく一種のゲームみたいなものなんだね。けれど教えてよ煤ヶ崎さん。君はこのゲームをどうやって知ったの? そしてどうして僕に教えてくれたの?」
 いまいち世界観が分からないが、とにかく剣と魔法のファンタジーみたいなものという事で納得して、碧之は尋ねた。
「私が知ったのは丁度あなたと同じような状況でよ。そしてあなたに教えた理由。それはただの偶然と言いたいところだけど――あなたが『別の世界』を望んだから。あなたの好奇心がここに導いたから、といったところかしら。そうでなければそもそも『結界』を越えてまでこの場所に来ることはできなかったはずだもの」
 いちいち煤利の説明は分かりづらいものだった。碧之は話半分に先を進める。
「それは……あくまで僕の方から来たってこと……」
 確かに望んではいた。だからそれは――必然、なのか?
「ま、けれど私にとっても好都合だったのよ。予想外にクリアするのに手こずっていたから……あなたを当てにはしてないけれど、私の盾くらいにはなってくれそうだし……」
「盾!? なんか物騒な響きなんだけどっ!? っていうか、普通にバトルとか言っちゃってるけど危なくないの、それっ!? 命のやりとりなんじゃ――」
 なにせ『モンスター』と戦うのだ。
「ま、命のやりとりはやりとりなんだけれど……安心して。たとえ向こうの世界で死んだとしても、それはあくまで『向こうの世界での死』。死ねば向こうでの記憶を全て失って、こっちの世界に戻って来る事になる。つまり、今から行ってもし向こうで死んだとしても、この公園には自動的に戻ってこられるの」
「なるほど……って、ちょっと待って! 今から行くとか公園とか言ってるけど、なに? まさかこの場所から行けるのっ?」
 碧之は素早く周囲を見回した。勿論ここはどこにでもあるような普通の公園だ。
「勘がいいわね。そうよ、簡単に言えばゲームにあるような時空の扉的なものかしら。そういうものを創って向こうに行くの。っていうか実際に見た方がいいわね」
 そう言って、煤利は砂場から出て、今まで自分が立っていた砂場の中央辺りに手をかざした。そして、何か紙切れみたいなものが宙に舞った。
 すると――。
「う、うわっ? なんだ、こりゃあ!?」
 碧之はびっくりして尻餅をついてしまう。無理もない。砂場の中央には時空の扉が現れたのだから。
「私はこれを『扉』と呼んでいる……そのままだけどね。さあ、百聞は一見に如かず。さっきも言ったでしょ? あまり長く説明するのも嫌いなの。あなたにその気があるのなら、くぐってみない? 冒険の扉を」
 煤利は人形のような顔で不敵に笑い、碧之を見据える。彼女の背中越しにはキラキラと光る全長2メートル弱のだ円形の空気の歪み――扉があった。
「僕は……僕は……」
 碧之は逡巡した。だけど、確かに煤利の言うとおり、答えは始めから決まっていた。碧之は一歩踏み出した。
「分かった。僕も行かせてくれ……君の世界に」
「ふふふっ……ようこそ、ワンダーランドに」


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