ヒーローズ

第3章 つかの間の日常と飛翔

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

1

 
 久しぶりに現実世界に戻った碧之。と言っても1週間以上フォルス・ステージにいた碧之だが、現実ではあれから数時間しか経っていなかった。
 結局公園で煤利と別れた後、家に戻って少しも経たない内に朝になって、結果一睡もすることなく碧之は学校に行く羽目になった。
「よう、碧之……って、お前なんだか疲れた顔してるけど大丈夫かぁ? 寝不足? 昨日もそんな顔してたじゃないか」
 碧之が教室に入って席に着くと、前から贄冶刀烏夜がいつものように声をかける。
「ああ、オレ……じゃなくて僕、ゲームに夢中になっちゃっててさ」
 碧之は長い間フォルス・ステージにいたため、今度は現実世界でのキャラがぶれ始めている。変な違和感を感じていた。だけどそれももう終わりだ。あの虚構の世界には関わりたくなかった。
「ふぅん。そんなに面白いゲームなのか? だったら今度貸してくれよ。なんてゲームなんだ?」
 よく通る爽やかな声で話す贄冶。
 今日はやたらと食いつくなぁと思いながら、碧之は上手くはぐらかすように答える。
「多人数参加型のネットゲームだよ。モンスターを狩るんだ」
 上手い例えだなぁと自分で言っておいて思った碧之。
「ふぅん。そっか……」
 と一言言って、話は終わりとばかりに贄冶は再び前を向いた。
 その背中を見て不意に碧之はある事を思い出した。昨日贄冶が言っていた都市伝説。
「あ、そうだ。贄冶君……」
「うん、なんだ?」
 珍しい碧之からの呼び掛けに、少し不思議そうな顔をして振り返った贄冶。
「そういえば昨日、贄冶君言ってたよね。最近この街で行方不明者が相次いでるって」
 碧之はその言葉に何か引っかかりを感じていた。そして今、もしかしてこれはフォルス・ステージと関係があるかもしれないと思っていた。フォルス・ステージから離れたいとは思っていたが、それでも呪縛からはなかなか逃れられないのか。
「ああ、そういえばそんな事も言ったよな〜」
 贄冶は中空に視線を漂わせて頷く。
「それっていつぐらいから始まったか分かるかな? あとどれ位の規模なのかとか」
 もしかして、行方不明者というのは現実世界に戻れなくなったプレイヤーなのかもしれないと、多少強引な仮説を立てた碧之。虚構世界の謎を解き明かしたかった。
「う〜ん、そうだな……前々からあったみたいなんだけど、特に目立ってきたのが4月に入ってからくらいだな。丁度、新学期のシーズン辺り。規模っていうと……この学校付近が多いみたいだ。生徒も何人か消えている。で、それがどうしたんだ?」
「いや、何でもないけど気になってさ……分かったよ。ありがとう」
 今年度から学校近辺で。もしかすると、フォルス・ステージはこの学校を中心に広がっているというのだろうか。そうだ、例えば煤ヶ崎煤利。彼女はどうやってフォルス・ステージを知ったのだ。以前聞いたときはカウンセラーと言っていたが……まさかこの学校の専属カウンセラー、心根酔~が……。いや、だけど早合点はいけない。
 とりあえず煤利に話を聞こう、と碧之は思考を巡らして教室の隅の方にチラリと目を向ける。眼鏡をかけた大人しい文学少女、煤ヶ崎煤利。彼女はいつものように外界を遮断し、読書に没頭していた。
 フォルス・ステージには関わりたくなかったけど、あの世界に行きたくはなかったけど――とりあえず話を聞こうと碧之は思った。
 話しかけるのは放課後を待っても良かった。以前、碧之は煤利から学校内では話しかけるなと言われていた。だが、ああやって一人で本を読んでいる姿を見ていると、碧之にはどうしても彼女を放っておく事ができなかった。どうしても学校で話したかった。

「煤ヶ崎さん」
 だから昼休みになって、碧之は勇気を出して煤利に話しかけた。
「……なに?」
 読んでいた本から顔を上げて、煤利は無愛想に碧之を睨みつけた。教室の中は生徒達がはしゃいでいて、2人の事は誰も気にしていない。2人はまるで教室から取り残されたようだった。
「いや、一緒にお昼でも食べようかな〜って思ってさ……ほら、煤ヶ崎さんに色々聞きたいこともあるから」
 碧之は購買で買ってきたパンと牛乳を煤利に見せてはにかんだ。
「……私は結構。一人で食べる」
 反応は予想通りのものだった。煤利はうっとおしそうに眼鏡の奥で目を細めている。
「そう言わずにさ」
 だけど今日は簡単に引き下がるつもりがない碧之。
「前にも言ったでしょう? 学校で私に話しかけないで。私には私のルールがあるの」
 しかし煤利の意思も固かった。
「そ、そんなルール勝手に作ってそれに縛られていったい何があるっていうんだよ……そんなのきっと後悔するって」
 碧之はさらに押す。
「碧之君には分からないわ。だから私の事は放っておいて」
 と、話を打ち切り、碧之の事を無視するように煤利は机の上の教科書をしまい始めた。煤利は碧之と会話もしたくないらしい。矢張りフォルス・ステージでないと煤利とはまともに話せないのか。意味が……分からない。
 碧之はなんだか無性に辛くなった。そしてこのまま煤利を放っておいたら、彼女が遠くに行ってしまうような気がした。だから。
「そ、そんなの分からないっ。そんなんじゃ分かるわけないよっ。な……なんで煤ヶ崎さんはそうやって何でも拒絶しようとするんだよ! だって、煤ヶ崎さんはもっと……」
 碧之は思わず大声を上げた。教室が一瞬静まりかえり、2人に注目の目が向けられる。
「ちょ、ちょっと碧之君……みんなが見てる」
「だからなんだよっ! いったい煤ヶ崎さんは何に怯えているんだよ! 何に引け目を感じてるんだよ! 僕には分からない! だって煤ヶ崎さんあの時に言ったじゃないかっ」
 君は私のパートナーだって。ずっと一人で戦ってきた私の仲間だって。
 碧之はフォルス・ステージに関してはできるだけ遠ざかりたかったのだが、煤ヶ崎煤利に関しては違った。何故なのかは碧之にもはっきりとは分からない。
 教室内の人々は2人の関係性について何やら勝手な想像をし、勝手に盛り上がっている。
 煤利は困惑した目で碧之や教室を見回していたが、やがて諦めたような声で言った。
「……わ、分かったわ。碧之君……でもここじゃなんだから場所を変えましょう」
 そう言って煤利は慌てながら教室を出た。碧之もその後を追った。
 どうやら碧之の泣き落としは、とりあえずのところ成功したようだった。

 辿り着いたのは校舎の屋上。碧之が煤利とここに訪れるのは2回目だった。
「で、一体何の用なの碧之君。あれほど必死だったのは、どうしても今話さなければいけない緊急の話があるから?」
 柔らかい風が吹く屋上で、煤利は落下防止柵の方まで歩いてそこからグラウンドを見渡している。長い黒髪がたなびいていた。
「いや、そういう事じゃないよ……ただ君と話したくて。どうしても学校じゃ駄目なのか? 僕と話すの……いや、誰かと話すのが」
 ゲームの中でなら楽しそうに話す事もできるし生き生きしているのに、なぜ学校ではそれを禁止にしなきゃいけないのか碧之には分からない。
「……わけが分からない。そんな事の為にわざわざ私を。フォルス・ステージの強さの秘訣は現実世界との乖離なのよ。現実世界とフォルス・ステージが離れれば離れるほど私達は強くなるの。だから私は現実であなたと馴れ合うつもりはない。誰かと馴れ合うつもりはない。世界をあまり混同させないでくれる?」
「……」
 その理屈こそが碧之には分からなかった。
「用はそれだけ? だったら私はもう帰らせてもらうわ」
 棘のある声で言うと、煤利は柵から手を離し校舎の中へと引き返そうとした。
「あっ、ま、待ってくれっ」
 碧之は反射的に煤利の手を取った。
「……なによ?」
 煤利は手を掴まれながら顔だけで碧之の方を振り返る。眼鏡の奥の澄んだ黒目が碧之を糾弾しているように見えた。だけど碧之は怯まない。必死で話題をひねり出す。
「話がある。その……フォルス・ステージについて……」
 本当はもっと別の事を話したかった。趣味や好きな食べ物。どこに住んでいるのかとか。だけど、2人の共通の話題はそのことしかない。2人を結ぶものはそれだけなのだ。
 でも碧之は信じていた。初めてフォルス・ステージに行った時、煤利が言った言葉を。自分は煤利にとって初めての仲間なのだ。だから――。
「だから言っているでしょう。その話は学校で無闇にしないでって。誰かに聞かれたらどうするの」
 珍しく、煤利の言葉には感情がこもっていた。あくまで煤利は碧之を遠ざけようとしている。現実世界では碧之と煤利は無関係の他人でしかないのか。いや、違う。
「大丈夫だ……来ないよ、誰も。だから聞いていい? 煤ヶ崎さん、君は誰からフォルス・ステージについて聞いたんだ? もしかしてそれは学校の中にいる誰かなの? どうして君はこのゲームにのめり込んでるんだ? 君が学校で他人と関わろうとしないのもそれに関係あるの?」
 煤利を引き留めるため、早口で一気に話す碧之。
 煤利は碧之を睨みつけて吐き捨てるように告げた。
「あなたには――関係ないわ」
 そしていつの間にか、煤利は碧之に掴まれていた手を強く握り返していた。依然、碧之から目を離さない。その目には敵意があった。
 それでも碧之は引かなかった。掴んだ手をさらに強く握る。
「……カウンセラーに教えてもらったんだろう?」
 以前煤利が漏らした言葉。結局聞きそびれていたが碧之が気になっていた言葉だ。
「ふん、まあ……そうなるわね」
 眼鏡を押さえながら煤利は言葉を濁す。触れたくない話題なのだ。それが証拠に前回同じ事を尋ねた時だって話題を逸らそうとしていた。
 ならばこれ以上追求する必要はないと碧之は思った。碧之にはカウンセラーに関して心当たりのある人物がいたのだから。
 それに碧之は、本当はこんな話をしたかったわけではない。フォルス・ステージなんてどうでもよかった。碧之は煤利と親しくなりたかっただけなのだ。もっと普通の高校生らしい会話がしたかったのだ。それはもしかしたら自分勝手な同情かもしれないが。煤利の姿を自分に重ねているだけなのかもしれないが。あるいはもしかするとそれは……。
「碧之くん、どうしたの? さっきから黙って――」
 煤利がそう口を開いた時だった――背後から屋上への扉を開く音が聞こえた。
「え……? だっ、誰か来たっ……宮臥っ、来なさいっ」
 その音に煤利はとっさに反応して、碧之の手を掴んだまま物陰の方へと走り出した。
「う、うわっ……ちょ、煤ヶ崎さんっ」
 無理矢理腕を引っ張られる碧之はなすがままに連れ去られ――2人は体を押し合うように密着して、壁と建物の間の狭い隙間に隠れた。
「おや? いま何か声が聞こえた気がするんだが……?」
「……何も聞こえませんが……先生の気のせいでしょ。それより壊れているというフェンスを調べましょう」
 入り口の方から教師の声が聞こえてきた。どうやら壊れた転落防止用の柵の様子を見に来たようだ。碧之は息を呑んだ。屋上は本来立ち入り禁止なので見つかったら面倒な事になりそうだった。しばらくはここでやり過ごすしかなさそうだ。
「……ちょっと碧之君……少し離れられないのかしら」
 碧之の体に密着している煤利が小声で囁く。暖かい吐息が碧之の耳をかすむ。
「あ、あふぅ……って、煤ヶ崎さん、息を吹きかけないでよ」
 つい変な声を出してしまう碧之。
 そして碧之の囁きに対して、煤利まで恍惚とした顔をして妖艶な声を出した。
「あ……ん……って、あなたこそ息吹きかけないでよ……ていうか離れなさいよっ」
 煤利は碧之の体をぐいぐい押す。
「って、駄目だよっ。これが限界なんだからっ。これ以上出たら見つかっちゃうっ」
 碧之は煤利に対抗するように体を押し返す。
「あ、あんっ。だから、それはっ……んっ、駄目だって……ふぅっ」
 喘ぎながらささやかな抵抗をする煤利。
 まるで押しくらまんじゅうのように、お互いの体をぶつけ合う2人だった。
 すると2人の声が大きかったのだろうか、教師達に反応があった。
「あれ? やっぱり何か聞こえないか?」
「うん? またですか……?」
 碧之と煤利が攻防している音が教師達に聞こえたようだ。
 その瞬間、2人は始めよりも更に密着して――というよりほぼ抱き合うような格好をして――息を止めた。
「「…………」」
 緊張状態にあるからだろうか、煤利の鼓動が早く脈打つのを碧之は体で感じた。きっと煤利も碧之の鼓動を感じているのだろう。そう思うと、なんだかとても恥ずかしくなって、気分が高揚した。自然と息も荒くなった。気付けば、煤利の息も荒くなっていた。
「「……はぁ……はぁっ……ぁ」」
 2人の体は密着し、1つになっている。体温も呼吸も心拍数も、同調している。
 しばらく2人は1つになったまま、ほんの少しの時間だけど、長い時間を過ごした。
 やがて――。
「……やっぱり何も聞こえないじゃないですか。先生の気のせいですよ」
「ぬ〜う。そうか……まぁいい。さっさと終わらせよう」
 どうやら教師達の注意は2人から逸れたようだった。
 2人は胸をなで下ろした。というか、なで下ろそうにも2人の胸はお互いの胸に押しつけられていたのだが。
 それに気付いて碧之が顔を下に向けると、煤利は恥ずかしそうに顔を赤くして、泣きそうな瞳で碧之の顔を見つめていた。そして……彼女はまるですがりつくようにして碧之の体を抱きしめていた。未だその呼吸は乱れている。
 しばらくして華奢な少女は喘ぐように、気を紛らわせるようにして言った。
「それで、どうするの……今日は、行くの?」
 ギリギリ碧之に届くくらいの小さな声だった。碧之はほんのりと煤利の生暖かい吐息を感じた。
 フォルス・ステージ。放浪生活を余儀なくされたハードな日々。そう。こんな状況でも2人が話すのはこの話題についてしかない。煤利との唯一の共通点。だけど碧之にとってあの世界での日々はトラウマとなっていた。
「ごめん。しばらくは行きたくない……」
 だから碧之は、煤利から視線を外して申し訳なさそうに言った。勿論ストレィの事は気にはなったが、当分あの世界には戻れそうになかった。
「ふ〜ん……そう。やっぱりそう言うと思ったわ。あんな事があったんじゃね」
 煤利は囁くような声で言った。いつものような無機質さはない、穏やかな声だった。
「ごめん」
 無性に申し訳なくなった碧之はもう一度謝る。
「……いいのよ、あれは完全に私の責任だから。帰り方も知らない初心者のあなたを置き去りにしてしまった私に非があるの。だから今更だけど謝らせて……ごめんなさい、碧之君……ううん、宮臥」
 煤利は物寂しそうな声で言うと、恥ずかしそうに碧之の体に顔をうずめた。そして煤利が学校で碧之の事をその名で呼ぶのは初めてだった。
 そう考えると碧之はなんとなく照れくさくなって、嬉しくなった。
 しばらくすると教師達の声が遠くから聞こえて、やがて屋上の扉が開閉する音がして辺りに静寂が訪れた。
「そ、そろそろ外に出ても大丈夫そうだよな……」
「そ、そうね……っんん」
 碧之と煤利は強引に隙間から体を押し出して――派手に転んだ。
「うわあっ!」
「きゃあっ!」
 転んだ拍子でコンクリートの上に転がって、またも抱き合うような格好になった2人。碧之はなんだか笑いたくなってきた。けれどなんとか我慢する。
 だが意外な事に――煤利も同じ気持ちだったのか、彼女は怒るどころか碧之よりも先に吹き出していた。
「ぷっ。ぷふふふふっ」
 それを見て碧之は少し驚く。とても珍しい光景だった。
 煤利がこの世界で笑っている姿。
 しかしそれでもなんとか必死で堪えようとしていた、そんな煤利の笑い。
 だから碧之も、つられてしまった。
「はっ、あははっ……ははははッ! なんだよ、その笑い方っ。はははははっ」
 碧之は煤利を見て、耐えきれずに笑ってしまった。
「う、うるふぁいっ。ふ、ふひゅゆゆゆ……」
 煤利も必死で堪えようとして、ますます変な笑い方になる。完全にツボにはまっているようだった。
 しばらく2人は起き上がるのも忘れて、地面に寝転びながらお互いの笑い顔を見つめ合うようにして――笑いあった。
 そしてひとしきり笑いあった後、煤利が口を開いた。
「ニライカナイ」
 ぽつりと放ったその声は、とげとげしさのない、穏やかなものだった。
「え?」
 聞き覚えのない言葉に碧之は、隣で仰向けに寝転んでいる煤利の方に顔を向ける。すると煤利が空を仰ぎながら説明し始めた。
「ニライカナイ――田舎に住んでるおばあちゃんが言ってたの。死んだ人の魂が向かう別の世界を指す言葉だって。そこは異界で理想郷。いわば天国のような場所なの」
「そうなんだ……それって、まるでフォルス・ステージのようだ」
「……ふっ。まさか。理想郷なんてものは誰かの一存で決められる事じゃないわ。幸せと不幸は常に差し引き0になるように天秤に掛けられているのよ。本当に誰もが幸せしかない世界があるなら……そここそが理想郷。もしかしたら正真正銘、本物の世界なのかもしれないわ」
「僕達の世界もまた偽物の劇場……なのかな。でも僕はこの現実と思い込んでる偽物が僕にとっての本物なんだ。だから僕は一つの世界で充分だ」
 現実が偽物ならば、そのニライカナイこそが全ての真理があるという本当の世界なのかもしれない。だから多くの者がその見果てぬ夢に思いを寄せるのかもしれない。
「ま、しばらくはゆっくり休むといいわ……それに呪符も残り1枚しかないのだから使いどころを考えなくちゃね。確実に帰還できる手段も得たいから」
 儚く笑ってようやく立ち上がった煤利は、取り繕うように言うと地面に寝転がる碧之に手を差し出した。
 碧之は煤利の手につかまって立ち上がる。
「うん、そうだな……」
 碧之は煤利の手をつかんだまま破顔した。
 できるならもうフォルス・ステージと関わりたくないと思っていたけれど、そうなったらもう煤利と今のように話せなくなるような気がして――碧之は曖昧に頷いた。
 そして碧之は感じ取った。煤利はもしかしてこの現実世界にニライカナイを求めているんじゃないだろうかと。煤利がそんな話をしたのはきっとそういう気持ちがどこかにあるからだろうと思ったし、何よりこの時の煤利の顔はとても綺麗だと――碧之は思った。
「――ありがとう」
 そして碧之は自然とそんな言葉が口からこぼれていた。
「え? ありがとうって、なにが……」
 煤利はきょとんと首を傾げて碧之の目を覗き込む。
「さっき煤ヶ崎さんが僕を名前を呼んでくれただろ……だから」
 それはまるでフォルス・ステージの2人の関係のようだから。
 2人がこの現実の世界でも特別な関係になれそうな気がしたから。
 そう。碧之が初めてフォルス・ステージに行った時、煤利が言った言葉……私の、初めての――。
「なっ、あれはその……ふ、ふん、つい口が滑ってしまったのよ。そ、それじゃあさようなら碧之君っ」
 煤利は照れるように碧之の手を振り払って、急ぎ足で校舎の中へと走っていった。
「そ、それからっ。これからは学校内で私に話しかけないで頂戴ねっ。今度こそ約束だからね。いいわねっ! 破ったら殺すわよ!」
 屋上の扉から顔を覗かせてそう言うと、すぐに頭を引っ込めて、階段を駆け下りる音が聞こえた。
 もしかしたらフォルス・ステージがなくても、僕達はそれでいいのかもしれない。これからはそれでも上手くやって行けるかもしれない――碧之はふとそんな事を思った。


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