女はすべて俺の敵!

第3章 レディ・バグの失墜

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

1

 
 丑耳遙架との勝負、俺は圧倒的に不利な状況にあった。
 ……いや、むしろもう勝負なんてどうでもよくなっていた。もしかしてレディ・バグなんていうアイデンティティーこそが俺の人生の足枷になっているのかもしれないと、そう思える位に俺は絶体絶命の状況に立たされていた。
 俺は何故こうまでして女を敵対視しているのだろうか。そうだ、色々と理屈を並べ立てて女を嫌いになっていたが、そもそもはあの出来事が原因なのだ――。
 もう遙か昔の事のように思える……俺の初恋と失恋。
 小学校の終わりに、俺はずっと好きだった女の子に告白した。その時に俺は振られて、あまつさえ辛辣な言葉を掛けられて、俺の心はズタズタに傷ついた。そう、あれが俺の原初体験。
 そして丑耳遙架も男に対して敵対心を持っていた。丑耳のその感情の根源は父親の裏切り。俺みたいな、誰でも経験するようなことで挫折して捻くれているのとは違う。完全なトラウマ。
 所詮、俺がやってきたことは子供の遊びに過ぎないのか。屁理屈を並べ言い訳をして女性から逃げているだけなのか? またあんな思いをするのが嫌なだけでやっているだけなのか? 俺は……女が怖かったのか? でも俺は丑耳遙架のことが。丑耳のことが? 分からない……俺は、自分の中の全てが壊れてしまった。
 あの後――丑耳家前で丑耳の身の上話を聞いた後――丑耳ととりとめのない会話だけをして俺は家に帰ったのだった。
 だけどその日はパソコンの電源を入れる事も、リンネの戯言に付き合う事もなかった。


 翌日、学校。
 俺は授業をぼけ〜っと聞き流しながら無為に午前の時間を過ごして、そして昼休みになった時だった。
「あ、あのっ、燎池くんっ。おはよっ」
 相も変わらず今日も丑耳遙架が俺の元にやって来た。
 けれど教室にいる連中は誰も俺達に注目しない。もうみんな飽きたのだ。流行なんてそんなものだ。だから丑耳が俺の事を燎池くんと呼んでいても誰も気にする者はいなかった。
 だけど俺は違った。丑耳の顔を見るなり昨日の出来事が思い起こされて頭が真っ白になった。
「う、あ……丑耳か……その、おはよう」
 いつもなら冷たく突き放すところなのだが、緊張してなかなか上手く話せない。
 目を逸らすと、隣の席に座る碑文夜見史が女々しい顔で俺の方を見ていた。いつもと様子が違う俺の態度に違和感を覚えたのだろうか。だが、勝負に手出しはしないとの約束を此先美来に誓わされていたので、夜見史は黙ったまま教室を去った。パンでも買いに行ったのだろう。
「あのぅ……燎池くん。あの……」
 もじもじと指を合わせながら丑耳が照れくさそうに言う。
「な……なんだ。何か用か?」
 俺は昨日の夕食を頂いた礼の一つも言えずに、辛辣な言葉を吐いてしまった。
「うん……あの、もしよかったら私と一緒にお昼食べないかな、って……」
 それでも丑耳は笑顔を絶やさずに優しく語りかける。
 俺とこいつの戦いが始まってからというもの、この誘いはほとんど毎日受け続けていた。そして俺はその全てを断り続けていた。でも今日の俺は違った。丑耳から昼食の誘いを受けた俺は鼓動が早まるのを感じ、息が苦しくなった。俺は――。
「ふ、ふん。貴様も毎日毎日飽きもせずによく来れるな。見ていて哀れに思うよ……はんっ、いいだろうッ! そんなに俺と昼食を共にしたいのなら……まあ、一度くらいは貴様の誘いに敢えて乗ってやろうではないか。昨日の礼もあるしな……ふんっ」
 なるべく丑耳の顔を見ないようにしてずばっと言った。言ってしまった。周りの様子を見てみる。うむむ……俺の言葉に教室にいた何人かが驚いてこちらに注意を向けている。そんなに俺の言葉が意外だったらしい。まあ、自分でも驚きだけど。
 だけど、一番驚いた顔をしていたのは俺を昼食に誘った丑耳遙架で……チラリと見た丑耳遙架の顔は本当に喜んでいる顔だった。
「ほ、ほんと? ほんとにいいの……燎池くん。わ……私、わたし……」
 目元には涙を浮かべて幸せそうに微笑んでいる。俺に抱きついてきそうな勢いだ。でもそれは困る。
「わ、分かった。分かったから。ほら、さっさと行くぞ。どこで食べるんだ」
 だから俺は丑耳を急かした。
「う、うん……ご、ごめん。私、嬉しかったから。ほんとに嬉しかったから……だから。えへへ……ごめんね」
 丑耳は目元をぬぐってにこっと笑顔で答えた。
 なんだかギャラリーも増えてきてこれ以上目立つのもなんなので、俺達は野次馬をかいくぐり学校の屋上へと移動した。

「はいっ、燎池くん。た〜んと食べてねっ」
 俺達以外誰もいない屋上。隅の方でピクニックシートを広げ、3段重ねの弁当箱を一段ずつ横に並べて丑耳は俺に箸を手渡した。
 ようやく夏も過ぎ去ったというような、暑くもなければ寒くもない、暖かい風が吹いていた。
 俺は渋々と箸を受け取りため息を吐いた。
 まさに丑耳にとっては悲願の状況だろう。そして俺の敗北だ。
「あ、ああ……それじゃあ遠慮なくいただこうか……けれど、それにしては量が多いな? お前、いつも一人でこんなに食べているのか?」
 お弁当3段。軽く2人分はある。最近の女子はこんなに食べるのか。
「そっ、そんなにいっぱい食べられないよっ。燎池くんが食べてくれるかもしれないから、いつも多めに作ってきてるだけなのっ」
 ぶんぶんと顔を横に振って丑耳は否定する。初秋の太陽が丑耳の色素の薄い髪を照らしていて、まるで光合成するかのように太陽の光を吸収しているようだった。なんだか穏やかな気分だった。……って、待て。いつもだと?
「ちょっと待てよ、丑耳。俺は今までお前の昼食を食べなかったんだぞ? それなのにお前はずっと作ってきたのか、2人分も?」
 俺の問いに、丑耳は照れくさそうにウェーブがかった髪をいじって答える。
「う、うん……で、でも残った分はお家に帰った後に食べてるからいいのっ。ほら燎池くん、そんなこと気にしないでいいから食べて食べてっ」
 なんとも健気な女だ……丑耳遙架。
 丑耳は俺の手から箸を取り、その箸で弁当箱の一つからだし巻き卵をつかみ取った。そして、
「ほら、燎池くん。あ〜ん、して」
 だし巻き卵を俺の口元に差し出した。
「わっ、ええっ? や……自分で食べれるって……」
 いきなり何をし出すかと思えばこんなこと……すごく恥ずかしい。お約束と言えばお約束だけど……これじゃあまるで恋人そのものじゃないか。
「ほ〜ら、燎池くんっ。早く食べないとお昼休み終わっちゃうよ〜」
 有無を言わせない丑耳。意外と強引な部分もあるようだ。いや、俺にアタックし続けるのは強引以外の何者でもないか。
「わ、分かった分かった。食べるよ、食べればいいんだろう」
 ここは大人しく従うことに越したことはない。これが大人の対応なのだよ。ふっふっふ。
 俺はだし巻き卵をあ〜んしてパクリ、と一口で食べる。もぐもぐ……む、これは……。
「ど、どう……? おいしい? 燎池くん……」
 不安そうにペチパチまばたきして俺の感想を待つ丑耳。
「……う、これは……うまい」
 悔しいけど、とてもおいしかった。昨日も思ったが、丑耳には料理の才能があるらしい。
「よ、よかったぁ〜……燎池くんにおいしいって言って貰えて……頑張って作った甲斐があったよぉ〜」
 丑耳は安堵のため息を吐いて、胸をなで下ろした。そうか……丑耳はこのお弁当を俺に食べて貰う為に早起きして作ってたのだよな……しかも食べてもらえるか分からないのにずっと。それに……よく見れば丑耳の指には絆創膏がいくつも貼られていた。
「ねえ、どうしたの? 燎池くん。ぼ〜っとしちゃって」
 気が付けば、丑耳が小首を傾げて下から俺の顔を覗き込んでいた。
「え? あ、いや……ちょっと」
「ほらほらぁ、いっぱいあるから食べて」
 さらに丑耳はミートボールを箸でつまんで俺に食べさせようとしている。
「ああ……それじゃあ遠慮なくいただこう。って、いやっ、でも自分で食べるからッ!」
 仕方なくミートボールだけ丑耳に食べさせてもらうと、俺は弁当箱を奪い取ってそのままがっついた。
 平和な時間が流れる。俺達は秋の日だまりの中お弁当を2人で食べた。グラウンドの方からはサッカーか何かで盛り上がる男子生徒の声がかすかに聞こえる。
「そういえばさ、燎池くん……」
 タコさんウインナーを食べながら、丑耳はしずしずと口を開いた。
「ん? なんだ? 丑耳」
「あの……その、今の丑耳っていうの……。えとね、燎池くんには私のこと遙架って、下の名前で呼んで欲しいな〜、って思っちゃってたりぃ……」
 俺の持った箸から唐揚げがぽとりと落ちた。思っちゃってたりって……ちょっとドキッとしてしまったではないか。反則だろ。
「ななななななんでそんな事を俺俺俺がしなければななならないのだだだ」
 OK、落ち着け俺。まだ慌てるような時じゃない。一回深呼吸だ。
「だってその方が、なんか恋人みたいかなぁ〜……って」
「ふぉ……ふぉいびちょーーーーーーーっっっ!!?」
 う、うわおおおお! こ、これはなんて強力な攻撃ッ! 思わず、「うん、いいよ〜」って言いかけたよ! ろれつが機能してなくて助かった。そしてしっかり気を保て、支倉燎池!
「ふ、ふんっ! いい気になるなよ、丑耳よ。貴様をそんな風に呼ぶ筋合いなど俺にはない」
 意思の力で俺は丑耳の誘惑を退けた。まるでそれは釈迦の如き精神力。
「あ……あうぅ……残念ん〜」
 丑耳はがっくりと大げさなアクションで肩を落とした。
 だけど――その仕草がおかしくて、そして緊張が抜けたのとで、俺は思わず笑ってしまった。
「ふふっ」
「あっ燎池くん、なんで笑うのよぉ。もう。私は結構ショックなんだよっ」
 ぷっぷすぷー、と童顔の少女は頬を膨らませ肩を怒らせた。
「ふふ……いや、すまんすまん。だけどこれは勝負だからな。今はまだお前は敵なんだ。お前は丑耳でいいのだ。もしくはウシチチ」
「う、ウシって……そ、それはヤだよっ! わ、私じつは結構気にしているんだからねっ……。そうだ……じゃあねぇ、勝負が終わったら……ううん。私が勝って燎池くんの彼女になったらね、燎池くんは私のことを遙架って呼んでねっ」
 怒ったと思ったら丑耳はすぐに嬉しそうな顔になって笑った。コロコロとよく表情が変わる奴だ。
「あ、ああ。まぁ、その条件ならいいだろう。約束しようっ。なぜならお前が俺に勝てるはずないのだからな。ふははははっ」
 ふと俺は――もしかしたら、この約束が果たされる事になるかもしれないなんて弱気なことを脳裏に浮かべた。そして次の瞬間、丑耳が手を差し出してきた。小指を突き立てている。
「はいっ、じゃあ指きりしよっ」
 ぐいっと俺の顔の前に手を突き出してくる丑耳。指に貼られた絆創膏がやけに目に付いた。
「ゆ、指きりぃ?」
 なんだそりゃ〜な展開に俺は顔をしかめる。
「だって約束だもんっ。私の事を遙架って呼ぶのっ……今すぐ」
「いや、今すぐって! お前が勝負に勝った時じゃなかったっけ!?」
 約束の内容が微妙に改ざんされているぞ。
「う〜ん。上手く誤魔化せると思ったんだけど……じゃあいいや。いつか呼んでもらうから、とにかく指きりするのっ! なんでもいいからとにかく燎池くんと指きりしたいのっ」
 俺に指きりさせようと強引に迫る丑耳。俺の顔にぐいぐい丑耳の指が当たってるんだけど。
 こいつもなかなか変わった奴だな……そして意外と黒い。ま、指きりくらいいいか。
「ああ、いいぞ。指きりくらいなら何度だってしてやるよ。レディ・バグの支倉燎池はこの程度の事では揺るがないのだよッ」
「やったっ。言ってることよく分かんないけど、はい、じゃあ手出してっ」
 そして俺達は、ゆ〜びき〜りげ〜んまん、という具合に約束を交わして――そうしている内にいつの間にか昼休みの残り時間が残り少なくなったので、俺達は慌てて手作り弁当を2人で平らげ、それぞれの教室に戻った。
 教室に戻ると、なんだかクラスの連中からの視線を一身に受けたような気がしたのだが気のせいだろうか。
 首を傾げながら机に座ると、隣の席の夜見史がしゃしゃり出てきた。
「ふん、なんだか楽しんでたみたいじゃないか」
 憎々しげな目をして俺の体を肘でついてくる。ちょっと痛いし。強いし。
「てか、夜見史ッ、き、貴様なにを言って……」
「さっきまでどこ行ってたんだよ? 僕、お前と一緒に昼飯食いたかったんだぜ?」
 も、もしかしてバレてるうううッッ!? 
「ああ……まあ、口は災いの元というからな。色々と内密にしといてくれ」
 冷や汗をかきながら冷静に振る舞おうと心がける俺。
「内密にって……別にいいけどさ。でも美来の奴がはりきってるからなぁ」
「あいつめ……まだ熱心に俺達の取材をしているのか」
 次の学内新聞の記事にするつもりだ。いくら廃部寸前だからといってなりふり構わん奴だな。
「まぁな、でもさ燎池……実際のとこどうなんだよ? お前、なんか今日ちょっと様子おかしいぞ? 昨日なんかあったのか?」
 昨日のこと。俺は丑耳遙架の家まで彼女を送って、そして……。
「いや、なんでもないさ……ただ、さすがに毎日毎日つきまとわれて疲れているだけだ……今日のだってただの気まぐれだよ、夜見史」
 はぐらかせる様に俺が言うと、夜見史はやけに真剣な声で頷いて、言った。
「そっか。……なあ、燎池」
「うん? どうした改まって」
 これまでのにやけ面から、彼にしては珍しく急にかしこまった顔をする夜見史。こうしてみるとモテそうな部類に入る美男子だと思うのだがなぁ。もったいない。そして夜見史は――。
「――いっそ丑耳さんと付き合ってもいいんじゃねーのか?」
 と、いきなりとんでもないことを言い出した女顔の我が親友。
「な、なっ、夜見史ぃっ。貴様何を言ってるのだ! 俺が丑耳と付き合うなんて……」
 俺を裏切るつもりだというのか、夜見史よ! この俺が女とだなんて……ッ!
「勝負なんてどうでもいいんだろ? そしてお前がやってるレディ・バグもさ、結局それの延長なんだぜ。くだらない事なんだよ。だったらさ、あとはお前の本心がどう思っているかじゃないのか? 自分に素直になれよ……燎池。もう克服する時じゃないのか?」
 夜見史の顔はいつものように冗談ばかり言ってる時のものとは明らかに違った。この顔は俺が最初で最後の失恋をした時に見せたものによく似ていた。
「俺は……別に……」
 俺は返答に窮する。
「ま、お前もそろそろこのキャラから卒業する時が来たのかもしれないってことさ」
 夜見史はまるで死刑宣告を下すように、俺の肩に手を置いた。
 その時、タイミングよく5時間目開始のチャイムが鳴って、夜見史はそのまま黙って授業の準備を始めた。俺は……決してキャラでやってるわけじゃない。

 そして――授業も全て終わって放課後になった。
 俺が帰る支度をしていると性懲りもなく丑耳遙架がやってきた。俺が帰ってしまわない内に急いで来たのだろう。なんか鞄とか息とか色々乱れていた。けなげだ。
「りょ、燎池くん〜、このあと私バイトあるんだけど、良かったら途中まで一緒に帰らないっ?」
 丑耳はそんな影の努力を露骨に現すことなく、笑顔で俺を誘う。なぜか俺にはその好意を断ることができなかった。
「まったく、しょうがない奴だなお前は……まあ俺もどうせこれから帰るところだったしな。だが……いいか。途中までだぞ? それでもいいなら付き合ってやらんでもない。だが勘違いするなよ? あくまでこれは俺の作戦だ。俺は貴様の罠にかかる振りをしてだな……」
「や、やったぁ! ありがとう、燎池くんっ!」
 俺の話なんて聞いちゃいない。昼間の時同様、俺のOKに顔を輝かせる丑耳。そしてこれまた同様、俺の答えに驚くクラスの面々。
「それじゃあ……いこっか、燎池くんっ」
 帰り支度もままならぬ内に俺の腕を引っ張って丑耳は急かす。
 その時、秋の風が丑耳のウェーブがかった薄茶色の髪を揺らした。
 腕を引かれながら俺は思う。もう俺は……駄目なのかもしれない。
 いや、それとも俺は……救われるのかもしれない。俺は丑耳に惹かれていく。俺はレディ・バグという呪いから解放されていく。
 それはもしかしたら、いい事なのかもしれなかった。


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