女はすべて俺の敵!

第4章 愛と戦いの果てに

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

3

 
 秋の大型連休が終わって俺は久々に学校に行った。あの勝負の日から初めての登校だ。
 そう。俺と丑耳遙架の決着は着いた。勝敗は着かなかったが、全てが終わったのだ。
「よ〜う。しけた面してどうしたんだい、我らの英雄よ〜」
 隣の席から女々しいにやけ面をして碑文夜見史がちょっかいをかけてきた。誰がしけた面をしているというのだ。いや、確かにしけた面か。俺は人生2度目の失恋をしたようなものなのだからな。
「……というか、英雄? 俺が?」
 最近ではもはや誰も俺達の勝負なんて気に掛けていなかったのに、なにを今更……。
「当たり前だろ〜。だってお前はあの男性殺し、丑耳遙架を破ったんだよ? 丑耳さんが堕とせなかった男はお前が初めてだ。お前のおかげで2組は丑耳さんの呪縛から解放されたんだよ」
 夜見史はきれいな顔を軽薄に歪め、身振り手振りを加えながら大げさに語る。
「な……なぜその事実を知っているのだ? 俺と丑耳の決着を」
 あの日の俺は誰にも話した覚えはない。もしやあの2組の暴漢達が……。
「あれ? 聞いてなかった? 丑耳さんが友達やら複数の人にメールで伝えたみたいなんだ。自分はこの勝負に負けたってね」
 メールで伝えた? それはどういう意味なんだ? なぜ丑耳はそんな事を。
「へ、へえ……そうか……」
 できるだけ平静を装って、俺は気の抜けた返事をする。
「にしてもお前、よく丑耳さんを振ることができたよな〜。まさかお前にそこまでの意思があったなんてな〜。僕だったら絶対無理だよ〜。てか僕が丑耳さん狙っちゃおうかなぁ」
 夜見史は気にする様子もなく続けた。そ……そうか、もう周知の事実なのか。
「ふん、当たり前だ。俺が女に心奪われることなどあり得ない現象なのだよ……」
「すっげーヤバそうだったくせによく言うよ。最近のお前、恋する男子の目だったもん」
「ぬ……! 何をぬかすか、夜見史ぃ。あ、あれは俺の作戦の一部だ、馬鹿者めっ」
 だけど結局俺は負けていたのだ。一度だって勝っていない。俺は丑耳遙架に翻弄されっぱなしだった。
「はっはー、照れてやんの〜」
 俺の気持ちも知らないで夜見史は茶化してくる。ふふん、恋を知らぬ貴様には生涯分からぬだろう。貴様に丑耳遙架は1万年早いわ。
「ふ、そんなことより夜見史ぃ〜。その丑耳遙架の方はどんな様子なのだ?」
 名目上、俺に負けた事になった丑耳遙架。だけど本当は丑耳の勝ちなのだ。俺の心は確かに彼女に落とされていた。そして実質的に言えばむしろ、フラレたのは俺だ。俺が俺を振ったのだ。丑耳を救うために。その事を、この状況を、彼女はどう思っているのだろうか。
「いや〜、それがさぁ、今日休んでるみたいでね、2組の教室行ったんだけどいないんだよ」
「な……なにぃ?」
 休んでいる、だと?
「風邪かなぁ」
 と、困ったような顔を俺に向ける夜見史。
 もしかしてショックで学校を休んでいるのだろうか。だったら、お見舞いとか行った方が……いいや、駄目だ。俺が行けばまたややこしいことになってしまう。だけど責任は俺にあるんだしな〜、とか俺が悩んでいた時だった。ドタバタと俺達の元に足音が近づいてきた。
「大変、ちょっとアンタ達っ!」
 ショートの三つ編みを揺らしながら大声を上げて慌ただしく登場したのは、俺の幼なじみである此先美来。大きな胸がたわわと揺れていた。
「どうしたと言うのだ? また中二力アップに磨きをかけてるのか? まったく、お前はいつもいつもせわしない奴だ」
 常に余裕で威風堂々とたしなむ俺を少しは見習って欲しいものだ。
「なに落ち着いてんのよっ。それどころじゃないのっ! いい? よく聞きなさいよ……」
 珍しくノってこない美来。それほどただならない事態だというのか。そして美来は一呼吸置いて――眼鏡のレンズを光らせながら、言った。
「実は……丑耳遙架が、転校したの」
 刹那の間。俺の世界が――静止した。
「てっ、転校っ!?」
 そ、そんな馬鹿な。丑耳遙架が転校だと!? それはどういう意味だ。それは何の冗談だ。目眩がする。頭痛がする。正常な思考ができない。教えてくれ、美来。どうなっているのだ。嘘だろ。ドッキリなんだろ。なあ。
「…………」
 けれど、美来の言葉を否定したいのに……言葉が、言葉が出ない……っ。
「お、おい、燎池っ、お前丑耳さんから何か聞いてるだろっ。どういう事なんだっ?」
 俺が口をぱくぱく開けて放心していると、夜見史が俺の肩を掴んで問い詰めてきた。
「そんな……俺は知らない。何も知らない」
 やっとの思いで口から出た言葉は情けないものだった。俺は丑耳からそんな話、なにも聞いていない。一番驚いているのは誰でもない、俺なんだ。
「燎池……アンタ本当に何も知らないの?」
 美来は眼鏡を押し上げて、悲しそうな瞳を覗かせながら尋ねた。

 後で分かった事だが、丑耳遙架は急な用で転校することになったのだという。
 どうやら両親の都合なのだそうだ。
 両親……か。
 俺にはあの勝負の後、丑耳遙架に何があったのかは分からない。だけど、きっと彼女の中で何かが変わって、そして彼女達は新しく生まれ変わることになったのだろう。きっといい方向に向かっていったのだろう。
 俺はそう信じたい。

 丑耳遙架が転校したという事実が周知になり、その日は一部でちょっとした騒ぎになった。
 俺は2組と3組の一部の人間達から祭り上げられた。
 あんなに散々勝手な事を言っていたくせに、掌を返して俺を英雄視した。
 ちなみに2組と言えばだが、デートの日に襲ってきた5人組の暴漢達……なんと彼らが俺に先日の非礼を謝ってきたのだ。
 なんでもあの後、リンネに相当酷い目に遭わされたらしいのだが、詳細を誰一人語ろうとはしなかった。こ、怖すぎるぞリンネよ。
 恋は盲目というもので周りが見えていなかったのだと彼らは言っていた。まったく、調子のいい話だ。俺は彼らを許すことにした。レディ・バグは寛大なのだ。
 色々と忙しかったけれど、それでも俺は丑耳遙架の事が頭から離れなかった。俺はその日、一日中放心状態で、学校での時間は過ぎていった。
 もちろん昼休み、俺と一緒に屋上で昼食を食べようと誘う甘ったるい声を聞くこともなく空虚に時間は流れる。
 そして気が付けば授業が終わり、帰宅する段階になって……それでも俺は、いつまでも教室に残っていた。
 誰かを待っていた。毎日のように俺の元に来てくれた誰かを、毎日のように一緒に帰ってくれた誰かを、ずっと待ち続けていた。
 次第に教室から一人、また一人と去っていき、俺一人だけが残される。
 そして一人だけになってようやく気付いた。俺はかけがえないものを無くしたのだというとこに。
「……ぅっ」
 胸の奥から何かがこみ上げてくる。
 駄目だ、このままここにいては駄目だ。いつまでもここにいれば俺は駄目になってしまう。
 俺は何かから逃げるように教室から立ち去った。走って、走って、学校を出た。
 そして帰り道を一人で走った。いつも一緒に歩いた道を俺一人で。
 俺は走りながら気が付いた。
 涙が溢れていたのだ。俺は、いつの間にか泣いていた。そしてその事に気付いてしまって、更に涙が止めどなくこぼれた。もう駄目だ。そう……俺は気が付いてしまったんだ。
「お、俺は――お前が好きだったんだぁ……俺はお前にとっくに負けてたんだよぉ……最初っから最後まで、ずっとお前の事が好きだったんだ……遙架ぁあああ……」
 涙を流すなんてかっこ悪いこと、俺の性には合わない。そんな陳腐な感情表現、俺には似合わない。――そう思っていた。なのに、なのに、涙は流れ続ける。嗚咽が止まらない。
 こんな顔、誰にも見せられない。せめて、せめて声だけは上げまいと思っていた。みっともなく泣き叫ぶ真似だけはしまいと思っていた。
 だけど、それも限界だった。俺はその場所に来てしまって、その場所を見て、俺の中の何かが弾けた。
「ううっ、はぐっ……うわああぁぁぁぁああああああぁぁぁ!!!!!!!」
 俺の前には公園があった。先日丑耳遙架と最終決戦した公園。最初で最後のデートをした遊歩道。暴漢達と戦った噴水広場。丑耳遙架と決別した湖の見える林の中。
『ありがとう、燎池くん』
 丑耳から聞いた最後の言葉がふと脳裏によぎった。そうだ、これで……これでよかったんだ。俺は正しかったんだ。なのに、なのにこんなにも涙が止まらない。



 ひとしきり泣いた後、俺はしずしずと自宅に帰った。すっかり日は暮れていた。丑耳遙架と出会った頃と比べ、随分早く日が傾くようになった。
 家に帰るや否や、妹の為巳がきょとんとした顔で、夕食の用意ができている旨を伝えたが、俺にはそんな気力はなかった。一言いらないとだけ伝えてすぐに自室に閉じこもる。
「おかえりなさい、燎池」
 部屋には13、14歳くらいの白髪美少女がいた。一人になりたい時に限っていつもいる。十二支リンネ。
「ふん……俺はお前に構っている暇はないんだ」
 なるべく素っ気ない態度を意識して、机の上に鞄を置き椅子に座る。
「あら、どうしたんですか燎池。今日はノリが悪いですね」
「貴様に対してノリを良くしたって仕方がない。お前はゲームでもしてろ」
「ゲームもう飽きちゃいました」
「じゃあ寝てろ」
 これ以上リンネの相手をしたくなかったので、俺はパソコンの電源を入れる。
 リンネは俺を素っ気ないと言うが、そういうこいつこそ今日はやたらと絡んでくる気がした。いや、いつもと同じか。こいつの事は分からん。
 ノートパソコンが機械音を上げて立ち上がった。そういえば、俺がレディバグ団を脱退してからはパソコンの電源を入れるのはこれが初めてだった。
 俺は……そう。心はレディ・バグなんだ。だから、自然と俺はあの場所へと訪れていた。
『あ、あの……みなさん』
 恐る恐る訪れた場所。俺が追放されたエデン。『男革命・レディバグ団』。もうここに俺の居場所はないのだけれど。称号は剥奪されたのだけど――。
『お帰り、同士よ』
 しかし俺にかけられた言葉は想像の範囲外のものだった。俺を追い出したはずの団長は、優しく俺を迎え入れた。そして――。
『あ〜、お久しぶりっス。ライチさ〜んっ』
 俺より少し前に脱退したはずの、ノンケくんがいた。
『え……まさか……ノンケくんっ! 君は女に堕とされたはず……』
『えっへへ。別れちゃったんスよ〜。これでまたオレもレディバグ団員として復活ス』
 なんとも軽いノリで答えるノンケ君。こ、ここはそんな場所じゃないぞっ。
『だ、だって、俺達はもう女に堕とされたんだぞ! もう俺達はここにいる資格なんてないはずなんだよ! ねえ、そうでしょう? 団長!』
 自分だって戻ってきているくせに何を言っているのだろう。だけど俺が言うことは正しい。ここはそんなに簡単に抜けたり戻ったりできるような場所じゃないんだ。
『――ライチ君。いいのだよ。そんなに固く考える必要はないんだ。俺だってノンケ君と同じだし、君とだって同じなんだ。人間なんてそんなものなんだし、それでいいんだ。要は自分自身がどうしたいのかだよ。結局は……自分が決めることなのだよ。現にノンケ君や君はこうして戻って来た。それだけだ』
 団長が言った。俺は霞む視界の中、モニターを凝視する。
『で、でも団長……』
 団長は俺達とは違う。団長の闇は俺が考えているより深いのだ。
『勘違いするなよ、ライチ君。俺は君達を許すと言っているんじゃないのだ。むしろその逆さ……。この前はあんなにみっともない部分を見せてしまったのに、それでも君はここに帰ってきてくれた。こんな俺でも必要としてくれる、俺は礼が言いたいのだ……心の友に』
『団長……お、俺は何があっても団長を見損なったりなんてしませんよっ! 俺はこの団の団長としてあなたを尊敬してるんです! 今までの事なんて関係ないです!』
『こんな俺を団長と認めてくれてありがとう。そうさ……ここは戦いの為の場であるのと同時に、安らぎの場でもあるのだ。君達が己をレディバグ団の一員だと感じるのならば、俺達はいつだって君たちを暖かく迎えるさ。だから君はここに戻って来たのだろう? さぁ、これからも共に戦おうではないか。俺は君達の力が必要なんだ』
 それに俺の人生はお前達といる今が一番輝いているんだ、と団長は言った。
 俺はモニター越しで涙を流していた。
『だ、団長ーーーーーーーっ』
 耐えきれなくなって俺は叫ぶ。ネット上で、そしてこの現実で。団長が目の前にいたならば思わず抱きついていただろう。ネットでよかった。
 なんだか俺は少しだけ気分が晴れやかになった。肩の荷が下りたような気がした。そういう事ですか、団長。ならば……俺はもう一度やり直そうじゃないか。だって俺は胸を張って言える。支倉燎池はレディバグ団の一員なのだと――。
 その後、これまでのグダグダした我々の活動を取り戻すように、俺達は熱く男の友情を深め合った。
 そしてしばらくしてから俺達は別れて、俺はパソコンの電源を切った。
 しかし、現実に戻った瞬間。何故だかとたんに虚しくなった。悲しみが押し寄せてきた。
「…………」
 また俺は元の状態に戻ろうとしている。また以前の状況に逃げようとしている。丑耳遙架と過ごした日々は何だったのだろうか。俺は果たして――これでいいのだろうか。
 いや……先程はあんな事を言っていたけれど、そもそも俺は本当に戻ることができるのだろうか。俺は今までと同じようにレディ・バグを実行していけるのだろうか、また何の躊躇いもなく続けて行くことができるのだろうか。
 もしかすると、もう俺は……どっちつかずの中途半端な存在でしかないのだろうか。
「はぁ〜あ……」
 思わずため息が出てしまった。
「どうしたんです、ため息なんか吐いちゃって」
「むぅ?」
 気が付けば、横からリンネがにこにこしながら覗き込んでいた。俺のパソコンライフを観察していたようだ。俺は泣いてるところを見られないように、椅子から立ち上がって急いで涙を拭いた。
「なんだよ、覗くなよ。ここは男の楽園なのだぞ」
 ぶっきらぼうに俺は返事する。俺にはプライベートな時間というものが許されないのか。
「ねえ、燎池」
 俺の言葉を無視してリンネは甘えるような声で語りかける。それはまるで、丑耳遙架を彷彿とさせる声だった。
「な、なんだよ……」
「ちょっと2人で散歩でもしませんか?」
「散歩? なんで俺がお前と散歩なんて……」
「いいから行きましょうよ、ほらっ」
 リンネは有無を言わせぬ勢いで俺の手を掴むと、妹に見つからないように家の外へと出た。
 俺達は終始無言だった。ただ俺はリンネに手を引っ張られて夜の町を歩いて行く。奇しくもその道は、初めて俺とリンネが出会った日に歩いたルートを逆に辿る道だった。
 だから、行き着く場所はもちろんここだった。
「こんなところまで連れてきてどうするつもりだ? リンネよ」
 夜の公園に辿り着いた俺とリンネ。少しの間に数々の思い出が創られた場所。秋の夜風が少し肌寒い。リンネと出会った頃はもっと暖かかったけれど……季節はすっかり変わった。
「……」
 暫くの沈黙の後、リンネは何も言わずに俺にゆっくりと近づいて来た。街灯だけで辺りは暗いのでその表情は分かりづらい。闇に溶け込んだ一匹の黒猫が俺達の前を横切った。
 なおも俺にどんどん近づくリンネ。俺は心拍数が上昇するのを感じてリンネから目を逸らそうとした――だが、リンネは両手で俺の頭を押さえてガッチリ固定する。
「なっ、何をするリンネよっ」
 俺の視線の先にはリンネの顔。顔と顔の距離はわずか数十センチ。鼓動は否応なく高まる。顔が熱くなるのを感じる。リンネは囁くように、吐息を吐くように、優しく言った。
「燎池……これからも続けて下さい、レディ・バグを。ラブコメを。恋愛ゲームを」
 しばしの静寂。俺は突然言ったリンネの言葉の意味を考える。
「へ? な……なに言ってるんだ、やぶからぼうに。冗談はよせ……」
 俺は口元を引きつらせながら闇に光るリンネの瞳を覗き込む。
 違う……これは……リンネの赤い瞳は真剣そのものだ。
「今回の出来事で私の想像以上の感情をあなたから得ることができました。私の見込み通りです。あなたには特別な力がある。だからこれはあなたの運命なんです。あなたは修羅の道をこれからも歩まねばならない。それがあなたの物語」
 リンネの声は妙に妖艶だった。まるで俺を深淵まで堕としていくかのような。とにかく、俺は怖かった。
「はっ……こ、これが物語なのか。まさかこんなつまらない物語だったとはな。期待はずれにもほどがあるぞ、リンネよ」
 リンネに頭を掴まれたまま、俺は強がって言ってみせた。リンネは――笑った。
「うふふ……うふふふ。そうですか、物足りませんか、燎池。まだまだですよ。こんなのは序章に過ぎません。さぁ、もっとも深く、もっと大きなうねりを。感情の爆発を! これは世界そのもの。人間賛歌っ。さぁ燎池、私と共に世界の果てを見届けましょう!」
 駄目だ……いつものようにリンネに変なスイッチが入ったみたいだ。電波モード全開である。だけど……もしかして、リンネは俺を励まそうとしているのか? もしかして、こいつはこいつなりに俺の事を心配しているのかもしれない。でも――。
「だけど……何もないじゃないか、得るものなんて。幸福なんて」
 だから俺はつい本音が出てしまった。弱音を見せてしまった。死にかけた街灯の明かりが遠くで明滅を繰り返していた。
 そうなんだ。違うんだよリンネ。俺が言おうとしたのはそういう事じゃないのだ。俺が言ってるのは虚しさだ。悲しみだ。深く大きく物語を進めたとして……リンネよ、その先にはいったい何があるというのだ。俺達がしていることは何なのだ?
 見れば、俺の言葉が意外だったのかリンネは悲しそうに表情を曇らせているように見えた。そういえばこんな顔のリンネは珍しい。普段はニコニコと笑ってばかりいるから。でも、俺は言わなくちゃいけない。こんな機会だからこそ言っておかなくちゃいけない。
「俺が、貴様が言う物語に翻弄されて……それで何が待っているのだ。俺は何の為に……」
 こんな結末しかないのなら、物語なんて始めからいらなかったのだ。本当に……契約なんて解消してもいいのかもしれない。もう俺はやめてもいいのかもしれない。
 リンネは静かに顔を俯けた。そう。ここで俺達の関係も、終わらせるべきなのかもしれない。
「リンネ。俺は――」
 と、俺が口を開いたその刹那――リンネが俺の体を抱きしめた。
「え? なっ、なにをッ……」
 俺が言葉を発しようとするのをリンネが静かに、けれど力強く遮る。
「それでも――私がついています」
 リンネは俺の体を抱きながら耳元でそっと囁く。それは丑耳との別れのシーンを彷彿とさせた。いや……というより、これは全く同じ状況じゃないか。
「お、お前は……」
 俺よりもずっと身長の低いリンネが、精一杯背伸びをして俺の肩に手を回してしがみついている。前屈みになってなすがままの俺は狼狽えることしかできない。
「レディ・バグを名乗る限り、あなたは永遠に一人なんです。永遠に孤独。永遠に孤高。それがこの物語の性質なのだから、あなたは誰とも一緒になれることはないのです。だけど……安心して。あなたは私のマスターです。あなたの傍には私がずっといる。永遠に……」
 いつもなら感情のない声のはずだった。いつもならその言葉に俺は恐ろしさを感じた。だけど俺の耳元で囁く今のリンネは……ただの一人の少女で、俺にとっての共犯者だった。
 俺は絞り出すようにかすれ声を上げる。
「だ、だから……なんだと言うのだ……」
 俺の声は震えている。けれどこれは恐ろしさや不気味さからくるものではない。俺はひょっとしてこの少女が――。
「燎池……」
 少女は俺に抱きついたまま、頭を少し離した。俺の顔の目前に、リンネの常識離れした美しい顔がある。その顔に付いている宝石みたいな瞳が閉じられた。ああ、あの時と同じだ。
「何を……するつもりだ、リンネ……」
「今の私には――これくらいしかできません」
 そう言っておもむろに、リンネの頭が俺に急接近する。そして接触。……というか。
「んっ――!?」
 これは――キス、だった。
「んっ、ぐっ……う」
 いきなりの事で驚いた。
 呼吸がままならない。唇になめらかな感触を感じる。そして何かいい香りがする。リンネは抱きついまま俺から唇を離さない。長い長い接吻だった。どのくらい経ったのだろうか。もしかしたらほんの少しの時間なのかもしれない。
「――ん、ぷはぁっ……」
 ようやくリンネが俺から唇を離した。名残惜しそうに白い残滓が糸を引いた。
 そして俺の体から、リンネはその小さな身を下ろした。
 俺は頭がぼうっとして、霞む視界の中でリンネをただ見つめる。
 リンネは微笑していて、そして心なしか少し顔を赤くしていて――そして、言った。
「愛なら、私があげます。だってあなたは私のマスターですから。私があげられるものなら全てあなたに捧げます。あなたが望むなら、私はなんだってします……私があなたの恋愛感情を引き出す装置になっても……あなたの彼女になってもいいです」
 リンネは感情を込めて言った。
 何でもないようにやった事だと思ったが、リンネの顔を見て気付いた。きっと彼女なりにそれは勇気を振り絞ってやった事なのだろうと。だってリンネのか細い体は震えていたのだから……。そこまでして彼女は。なんでこんな真似を。
「なぜ……なぜお前はこんなことをするのだ――リンネよ」
 俺とリンネが初めて出会った夜にも同じようなことを言った。少女の正体も、少女の真の目的も、その理由も――何も分からない。ずっと考えないようにしてきたけれど……結局、それが最大の謎だったのだ。それでも彼女は。
「それは……何も言えません」
 心なし寂しそうな顔をしてリンネは弱々しく言った。……ああ、俺だって素直に答えが返ってくるなんて思っていなかったさ。俺にはお前の事なんて何一つ分からない。だからそれでいいさ。
 俺はもう、十二支リンネの事が信用できなく――
「で、でも信じて下さい燎池ぃ……」
 その声で、俺の思考は中断した。驚いてリンネを凝視する。
 その時、俺は見た。リンネが涙を流して――いや、泣きじゃくっているのを。
「えっ?」
 俺は――リンネのその声に、その様子に――愕然とした。
 これは……いま、俺の目の前にいるのはリンネの本当の姿だった。
 ここに立っているリンネは、俺に今まで見せた事のない顔をしていて、俺に今まで聞かせたことのない声をしていて、まるでか弱い子供のようだった。
「り、リンネ……?」
 こんなに感情を高ぶらせているリンネを見るのは初めてだ。
 いや……違う。彼女は始めから変わってなどいない。俺が気付かなかっただけなのだ。俺が分かろうとしなかっただけだ。リンネだけでない。丑耳遙架だってそうだ。俺は彼女の事を分からない振りをしていただけだった。俺は女に怯えていたのだ。女を理解するのが怖かったのだ。女は正体不明の畏怖すべき生き物じゃない。間違っていたのは――俺の方なのだ。
 俺は余計なフィルターを全て消し去る。いま俺の目の前にいるのは、どこにでもいる、そう……ごく普通の女の子だ。見た目通りの少女そのものだ。
「わ、私は……私にはもう燎池しかいないんです……」
 まるで罪の告白をするようにぽつぽつと語り出した白髪の美少女。その目からは涙が洪水のように溢れていた。
「な、なんで……お前は……」
 俺は呆気にとられる。
 リンネがこんなにも動揺している。リンネ、お前はいったい……。
「燎池にとって私しかいないのと同様に……私にも燎池しかいないんです。こんな事やりたくないって思ってるかもしれません。こんな馬鹿げた遊びに付き合ってられないと思っているかもしれません……でも、燎池ぃ……私を、私を見捨てないで下さい……燎池ぃ」
 リンネは涙を止めどなく流しながら俺の胸に飛びこんできた。そしてまるで年相応の子供のように泣きじゃくる。そうだ。リンネと出会った時、彼女はこう言っていた。感情を得ることができなければ自分はこの世界にいられなくなると……。それは真実なのか?
 今までリンネを分かろうとしなかった自分が憎い。俺は――彼女を救いたかった。
「うっ、ああああ……りょ、燎池い〜〜〜〜っっ、ふええええんっっっっ。ううあああんっ」
 何も語ろうとしなかった十二支リンネ。そしてこの期に及んでまで肝心な事は語ろうとしないリンネ。それでもリンネは自分を信じてくれと言った。リンネには俺しかいないのだと言った。なら俺は? 簡単だ――俺は静かに応えた。
「ふふ……俺を誰だと思っているのだ、リンネよ」
「ふぇ……りょ、燎池?」
 俺の体を抱きしめながら、きょとんと顔を上げる少女。
 そうだな……分からなくても――今はそれでいいじゃないか。
「ふ、ふふふふふ……どぅわ〜っはっはっはっはっはっはっは〜〜〜〜ッッッッ!!!!!」
 ああ……なんたって俺は――俺は、レディ・バグの支倉燎池なのだッッ! レディ・バグは女専門の無慈悲な処刑人ッ。ああ、そうだッ!! そうだともッッッ! こんな小娘一人くらい部屋に置いていたって全ッ然ッ問題ないねっ! ふはははは、ふわ〜はっはっっはっっはっはああああっっっっっっっ!!!!!!
「誰が貴様を見捨てるだってぇ〜? 俺と貴様は既にレディ・バグの最重要の位置にいるのだ。この組織からそう易々と抜け出せると思うなよぉ? だから、リンネよ……お前はまだここに居てもいいのだ。お前の居場所は――ここだッ!」
 俺は口元をにやりとさせて、精一杯の笑顔でリンネの頭をぽんぽん撫でてやった。
 しばらくリンネはしゃくり上げながら、けれど気持ちよさそうに俺に身を委ね、やがて擦れた声で小さく呟いた。
「りょ、燎池……」
「ああ、俺は人類の反逆者、支倉燎池だ。そしてお前は俺の下僕だ」
「ふふっ。相変わらず意味分かんないです」
 リンネは小さく笑うと、ゆっくりと俺の体から離れて両手で涙を拭きながら言った。
「ありがとう……ありがとう、燎池っ」
 目を赤く腫らしているけど、もう涙は流れていなかった。強い女だよ、お前は。
 俺にはもう、リンネに対して何かを聞くような気持ちにはなれなかった。
 さっきまで肌寒かった夜風だけど、今は少し暖かく感じた。まるでリンネと出会った日の夜に戻ったみたいだった。
 はぁ〜……これでまた有耶無耶のままになってしまったか。さっきは流れであんな事言ってみたはいいが……果たして本当にこれでよかったのだろうか。
「ふう……これから先、どうしようかな」
 だから――自然と、俺の口からそんな言葉が出た。
 すると、いつの間にかすっかり元気を取り戻したのか、リンネはいつものような笑顔を俺に向けて嬉しそうに言った。
「そんなの聞くまでもありませんっ。燎池は女性の敵なんでしょう? だったら共に戦いましょう。私達の戦いは……まだ始まったばかりですよっ」
 リンネは拳を握って、わざとらしく小さな体に力を入れた。ガッツポーズしてるし。まだ俺を励ましているつもりなのだろうか。
 それでも俺は……意外にもなんだか気が抜けてしまった。なるほど、そうだったな。俺はレディ・バグなのだ。うん、やっぱりもう少しこいつと共犯関係を続けてやってもいいかもな。
「これからもよろしくお願いします。ご主人様っ」
 俺の返事も聞きもせずにリンネはペコリと頭を下げる。まったく、ほんと我が侭な奴だよ。
「そうだなリンネよ……俺のファーストキスを奪った代償は重いぞ。覚悟しておけよ?」
 今回の事件は全てこいつが発端なのかもしれない。そしてこの事件で俺の心は傷ついた。
 だけど――そのおかげで俺は丑耳遙架を好きになる事ができたのだ。
 そして、こいつがいるから俺はまた誰かを好きになれるかもしれないし、何よりリンネと過ごすこの新しい毎日が……まぁ、悪くもないなって最近思うようになってきたわけだ。
 だから、俺のラブコメはこれからも全て失恋で終わるし、俺が望んで終わらせていくのだ。それが俺の使命なのだ。
 だから、そう……俺とリンネの物語はまだ始まったばかりなわけで。
 ――これからも、孤独ではない俺の戦いは続くのだ。


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