女はすべて俺の敵!

第4章 愛と戦いの果てに

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

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 目の前に佇む丑耳遙架は一言で表すならば――とても綺麗だった。
 服装はなんとも秋らしかった。秋らしいとはなんとも漠然としすぎているが、なにしろそう感じたのだ。白いシャツの上からピンク色のセーターを着込み、赤を基調としたプリーツスカート。そして白と黒の縞模様のストッキングに黒いブーツを履いた格好。
 髪も普段とは少し違う印象だった。手入れが行き届いているだろう薄茶色の髪が、いつもよりもウェーブがかかっていて――これは縦ロールというものなのだろう――ほんわかしている丑耳らしさを強調する髪型だと思った。
 これは、なんと言うか……素直に可愛らしいと思ってしまった。というか、俺なんて普段とあまり変わらないぞ。シャツにジーパン姿。なんだかすごい敗北感を感じた。
 でも……そういえば私服姿の丑耳を見るのは――エプロン姿以外では――これが初めてだった。
 俺が茫然と丑耳を見つめていると、丑耳は恥ずかしそうに急いで俺の傍まで小走りで駆け寄ってきた。
「え、えへへ……ど、どうかな燎池くん」
 俺の前まで来ると丑耳はその場でゆっくり一回転した。大きな胸がぽよんと揺れた。
「え? ど、どうって……」
 俺は緊張して言葉に詰まった。
「むぅ……私、今日ははりきってお洒落してきたんだよっ。感想はないのっ?」
 ぷくぅと頬を膨らませて顔をしかませる丑耳。
 そんな綺麗な顔で、しかも上目遣いで見つめられたらやばいって。これは先制攻撃か?
「え、あ、ああ……その、まあ、綺麗だって言われれば……うん。綺麗……似合ってる、ぞ」
 て、照れくさい……。というか、何故か丑耳の方まで照れくさそうに下を向いている。
「あ……う、うん。ありがとう燎池くん……。その、燎池くんもなんだか今日は格好いいよっ」
 な、なんだよこの応酬はっ。頭から湯気が上がりそうだよっ!
「え……えと、あ……ありがとぅ」
 なんだか変な空気になっちゃったよ。なに、このモジモジしてる感じ。この初々しい感じはなに!? と、俺の頭が沸騰しそうになっていると、丑耳がこの妙な空気を打ち破ってくれた。
「えと、じゃ、じゃあ……歩こっか、燎池くんっ」
「……え? あ、そ、そうだな……行こうか丑耳っ」
 ふ、ふう。助かった。開始早々早くもピンチに見舞われてしまった。いかんいかん。もっと冷静にいかないとな。ここは歩きながらこれからのプランをじっくり練ろうではないか。
 と、俺が頭を冷やしていたら、何を思ったか、隣を歩く丑耳がいきなり俺の腕に自分の腕を絡めてきて――ってっ、なっ、なにぃ! こ、これは俗に言う腕組みという奴ではないかぁあああああああああ!!?
「うおっ、おいっ、な、何をするのだ丑耳遙架よっ。公共の場でこ、こんな破廉恥なああっ」
 いきなり畳みかけてきよる……この女、侮れん! 
「まぁまぁ、いいのいいのっ。今日はデートなんだからっ。無礼講無礼講ぉ〜」
 丑耳は幼さの残る顔で笑って俺の腕を引っかけたまま歩き始めた。なんだかとってもいい香りが漂ってくるぞ。あと無礼講の使い時を間違えている気がするぞ。
「くううっ……し、仕方ないッ。ならばいいだろうッ! その勝負受けて立つ!」
 俺も覚悟を決めることにした。丑耳は「やったぁ」と言って俺の腕に顔をうずめる。おい、そこまでは許してないぞ。やめんかこらッ。
 で、なんやかんやしながらしばらく俺達は歩いた。今まであまり知らなかったが、ここは結構広い公園のようだ。これから何をするとかどこに行くのとかは考えていない。ただ俺達は並んで歩いている。そういえばデートといってもどうすればいいのだろう。そんな事を考えていたら横から丑耳が話しかけた。
「ねえ、燎池くん」
 密着しているためか、まるで俺の耳元に息を吹きかけるような、囁くような声だった。
「な、なんだ?」
 少しドキリとして、俺は丑耳の顔から目を逸らして返答する。大きな噴水が視界に入った。
「そろそろ聞かせて欲しいなって思って……昨日の返事を」
 丑耳の声は震えている。
 ……とうとうこの時がきたか。昨日の答え――それは。
 俺は腕から丑耳を離して相対する。丑耳の顔を見つめてゆっくりと口を開いた。
「俺は昨日――聞いたんだ」
「……え?」
 俺がいったい何を言ってるのか分からないといった顔で丑耳は首を傾げる。まるで置いてけぼりにされた子犬のような顔だった。しかし、俺は続ける。
「昨日お前がバイトに行っている間に家に行ったのだ。そこでお前の母親と会った。そして聞いた……お前の、父親についてな」
 俺が昨日丑耳母から聞いた話。託された願い。
「な……そ、そんな。なんで」
 丑耳は絶句している。みるみる顔色が青くなっていった。口元がわなわな震えている。それでも構わない。
「母親は言っていた……彼は悪くないのだと」
 俺は静かに話し続けた。噴水の音がここまで聞こえてくる。遠くの方から雲が姿を現した。
 丑耳は呼吸を乱しながら弁論を開始した。
「ち、違う。だってあの人は私達を捨てて他の女の人と駆け落ちしちゃったのよ! そのせいで私達家族は――」
「違うんだよ。それはお前の嘘だよ、丑耳遙架――」
 そう。丑耳が話した事情には嘘が混じっていた。丑耳の父親が家を出て行ったのは事実だが、浮気をしたわけではなかった。
「な、なんでそんな事、燎池くんが……燎池くんが私の何を知ってるっていうのよ……っ」
 丑耳は泣き出しそうな顔で俺を見つめている。噴水の水しぶきが俺達の方にまで飛んでくる。
 分かるさ、丑耳遙架。だって俺達は――。
「……離婚、だったんだ。両親の愛は冷え切っていたんだ。分かっているんだろう?」
 昨日、雨の中で丑耳の母親から聞いた真実。始めは些細なすれ違いだった。だけど、そんな些細なすれ違いが次第に大きくなって、やがて後戻りできなくなった……と言った。よくある話だったのだ。これは。
「ち、違う。それは、ちがう」
 丑耳は頭を振って強く否定する。
 そしてお前はまた自分を騙そうとするのか。自分に都合のいい理由に溺れようとするのか。だけど、俺はお前をそこから引っ張り出す。
「違わないさ。お前はどうしても父親を憎みたかったんだろう? お前は家族が離ればなれにならなければならない理由が、敵が欲しかったんだ。そこで自分の前から姿を消した父親を憎むことにしたんだよ。でも――本当の敵は愛という、目に見えない物だったんだ」
 さんさんと照りつけていた太陽が雲に隠れた。
「……」
 丑耳は涙を目に浮かべて俺を見つめ続ける。もはや言葉も返そうとしない。
「けれどそうなると、父親だけを憎むなんてできないはずだ。きっとお前は母親も心のどこかで憎んでいたはずだ。そして愛そのものを憎んでいたはずだ。何故あんな嘘を……」
 俺の言葉に、今にも泣き出しそうな顔だった丑耳が自嘲気味に微笑んだ。
「だって……しょうがないじゃない。そう思い込むことで私はこの現実を納得する事ができるんだよっ。お父さんが裏切ったって事にしないと、残された私達まで離ればなれになってしまうかもしれない! そうする事で私の平穏が保たれるのよ!」
 それが丑耳の本音か。それが弱さであり、彼女の闇の本質なんだろう。丑耳は……泣いているのか。肩を上下にしゃくり上げている。
「だが、お前は母親も父親も憎んでいた。そして愛という感情を憎んだ。愛が信用できなくなった。だからお前は男性殺しという、愛を踏みにじるような行動をとるようになった。奇しくもそれが、自分の母親の仕事と被るような形になってしまったがな……」
「それは……違うよ。お母さんと一緒だからこそ――だよ。私がお母さんがやってることと同じ事をして、それで自分を傷つけたかったのかも……それともお母さんの罪を引き受けたかったのかな……その辺り、よく分からないんだけど……私はお母さんと同じ事をあえてしたの。そうすることで私の心は和らいだの」
 とうとう丑耳遙架は認めた。これが男性殺しとしての要因、初期衝動。
「だけど……気付かないのか? 丑耳遙架。お前よりもな……お前の弟や妹の方が偉いんだ。あの子達はお前と違って現実から逃げていない。歪んでいない。家族の問題にちゃんと向き合っているんだ」
 現実と向き合う者と現実から逃避する者。俺があの子達を見て感じた違和感は、きっとそれなんだろう。いつまでも逃げ続けていたって駄目なんだと、丑耳母は言っていた。
「そ、そんな事言ったって……あの子達はまだ小さいから分かっていないのよっ。私の方がずっと長くお父さんと一緒に過ごしたんだよ? 突然いなくなっちゃうなんて、そんなのおかしいよっ! あんなにみんな仲良くやってたのに!」
 丑耳は叫ぶ。優しくて朗らかなイメージの丑耳。童顔で小柄で大人しいイメージだった丑耳。でも、彼女は記号じゃない。彼女だって一人の人間なのだ。
「丑耳……もう自分を誤魔化して、偽って生活するのはよせ。自分を傷つけるような真似はよせ。お前の気持ちは分かる。だけど子供じゃないんだ。お前ももう分かっているんだろう、両親の事情を。たとえ2人に愛がなくなったとしても、愛が死んだわけじゃない。確かに愛は不確かでおぼろげなものだ。人の心は変わりやすい。だけど愛は誰もが持っていて、決して手放すことはできないんだ!」
 今までずっと偽り続けてきたモノをひっくり返すのは勇気がいることだ。理解してるのに納得しようとしない。だから丑耳はいびつになっていったのだ。愛が傷だらけになるのだ。
 丑耳はがっくりと肩を落とした。だけど俺は言葉を続ける。
「お前の母親から聞いたんだ。近々再婚したいって……。そしてこの連休中に新しい父を家族に紹介すると。だから、お前は俺に答えを迫ったのだろう? 男と向き合うのが怖いから。母親と向き合うのが怖いから。また愛に裏切られるのが怖いから。だからその前に俺の元に逃げたかったんだ。ますます歪んだんだ。でも……それでは駄目なんだ、きっと」
 そう。丑耳の母親は新しい愛を見つけたのだ。だけど、娘の事があって彼女はなかなか再婚に踏み込む事ができないでいるのだ。
「ふふ、そうなの……そこまで聞いたんだ。あははっ……で? それがなんで駄目なの? いいじゃない。それで。お母さんなんてもう関係ない。結婚したければすればいいじゃない。だから私も今のままでいいのよ、別に」
 丑耳のその声は、開き直ったような平坦な声だった。感情のこもらない声。下を向いているため丑耳の顔は見えない。俺は悪寒を感じた。
「い……いいって、何がいいのだ。何も解決しないじゃないか。そんな事やっていたらいずれ自分の身を滅ぼすことになるぞっ」
 丑耳は何を考えているのだ。もしかして怒らせてしまったのか? 試合放棄なのか? 
 俺が不安になっていると、丑耳は顔を上げて――いつものように、俺に笑顔を向けた。
「いいのよ。だって私はもう救われてるのよっ。家庭のことなんてもうどうでもいいのっ。もう私はお父さんなんて、お母さんなんて、新しいお父さんなんてどうでもいいの。永遠不変の愛ならここにある。私は……燎池くんさえいればいいの。だから燎池くん……」
 丑耳の瞳にはもはや何も映し出してはいない。違うんだ、丑耳……。それは間違っているんだ。一番選んではいけない方法なんだ。
「丑耳……いや、遙架――」
 俺は初めて丑耳遙架を下の名前で呼んだ。
 名前を呼ばれて、丑耳は嬉しそうにはにかんでいた。希望に満ちあふれた目を向けた。雲間から太陽が現れて、眩しい午後の日差しが周囲を照らす。
「りょ、燎池くん……」
 そして丑耳は俺の方へと足を一歩踏み出した。そう、丑耳が唯一必要としている俺の元へと。だけど、俺の答えは――。
「俺達は付き合えない……俺は、お前を振る」
 刹那――時が止まった。
 丑耳の踏み出しかけた足も止まる。
 これが俺の答えだ。これが俺達の戦いの結末だ。
「そ、そんな……それってやっぱり燎池くんが勝負に負けたくないから? だったらいいよっ、私、勝負なんてどうでもいいからっ、負けでいいからっ、だから燎池くんっ」
 丑耳は叫びながら俺の元に駆け寄って手をとった。そしてすがるような目で懇願する。
 けれども俺の意思は変わらない。だって俺は丑耳のことが――。
「遙架……俺は――」
 しかし、俺が口を開いた――その時だった。
「よ〜う、お2人さん。ラブラブだなぁ」
 男の声がした。俺達は驚いてとっさに振り返った。
「な、なんだ貴様ら?」
 そこには数人の男達がいた。年齢は俺達と同じくらいだ。へらへら笑っている。
「あなた達はクラスの……」
 丑耳は呟いた。そういえば何か見覚えがあるような気がしたんだが、確かこいつらは丑耳のクラスメイト……2組の連中だ。
「幸せそうな顔しやがって。俺達はな〜……丑耳遙架に心を弄ばれた哀れな被害者なんだよぉ」
 男達は表情を歪め、恨みがましく俺達を睨みつける。そうか。2組の男子生徒ということは、つまりこの者達も丑耳遙架に心奪われた者達なのだということか。
「それで、貴様ら……いったい俺達に何の用だと言うのか?」
 どうせろくでもない事だろう。俺達の勝負に水を差すなど身の程知らず共め。
「なぁに。実はさぁ、支倉燎池が丑耳に負けたって話を小耳に挟んでよ〜……じゃあ俺達の傷つけられた心はどうするんだって話になるよな〜。だったらもうさ〜、俺達が直接倒すしかないって考えになっちゃってさ〜。とにかくこの女には制裁が必要なんだよッ!!」
「ひ……ひぃっ」
 丑耳が怯えて俺の腕に再び抱きついた。まずい。この連中、怒りを露わにしている。この男達は丑耳遙架に弄ばれた恨みを晴らしたかったのだ。そこでその役目を今回俺が担う事になったわけだが、こいつらは俺が負けたと思い込んでいる。
「ま、待て……貴様ら。まずは落ち着け。ここは一つ話し合おうじゃないか。俺はまだ勝負に負けたわけじゃない」
 あまり刺激しないほうがいい。まずは誤解を解くことが先決だ。相手の出方を見て――、
「うるせえ! お前もお前だ、支倉ァ! 負けてない負けていないって言ってても傍から見たらお前ら普通にカップルなんだよ! 俺達はそこも気に入らねえ! なんで俺達の事は付き合ってすぐに捨てるくせに、支倉とだけはこんな長く付き合ってるんだって事だっ!」
 今にも襲わんという勢いだ。なんだよこれ……こんなのただの逆恨みではないか。結局それって俺が丑耳と付き合うことを妬んでいるだけだろうが。俺は震えを隠して虚勢を張る。
「では貴様らは俺達をどうするつもりだ? まさか暴力に訴えるつもりではあるまいな?」
 この現代社会において暴力による解決なんて野蛮な真似、さすがの此奴らも考えないだろう。
「ああ、そうさせてもらうつもりだぜ? 少しでも俺達の痛みを分かって貰うために、少〜しばかし痛い目に合ってもらって貰おうか」
 男達は指をポキポキとならしながら笑っていた。お、俺の考えが甘かった……。駄目だこいつら、もはや暴徒と化している。今にも襲いかからん勢いだっ。洒落にならないぞっ。
「りょ、燎池くん……」
 丑耳は俺の腕に抱きつきながら体をガタガタと震わせている。俺はどうすればいいのだ。だって俺はただ巻き込まれているだけだろう。これは元々丑耳の問題だ。俺は関係ないのだ。そう、だって俺はそもそも女の敵なんだし……いや、もうレディ・バグでもないのだ。
 俺は――じゃあなんなんだ。そうだよ……俺も結局丑耳と同じだったんだ。
 だから、俺は――。
「遙架……少し離れていてくれないか」
 俺はなるべく丑耳を不安がらせないように笑顔を浮かべて、その小さな頭を撫でた。敵は……5人か。
 ははっ。そうだ。最初から答えは決まっていたじゃないか。これは俺の物語なんだ。避けられない戦いなんだよ。
「で、でも燎池くんっ……」
 丑耳の顔は強張っていて涙を流していた。ぎゅっと俺の服の袖を掴んで離そうとしなかった。
「ふん。心配するな、丑耳遙架よ。少々この不届き者達に灸を据えてやろうと思ってな。久々に俺のチカラを解放する時が来たようだ。ふわ〜っはっはっはッ! さあ、離れていろ丑耳遙架。ここにいれば貴様も俺のチカラに巻き込まれてしまうぞっ」
 俺は丑耳の体を優しく引き離した。余裕に笑ってさえしてやる。だが内心すごく怖かった。勿論俺はケンカなんか今まで1度だってしたことがない。
 けれど、それでも戦うのは俺が丑耳に教えてやりたかったから。どうしても丑耳を救わねばならなかったからだ。
 そう。だって俺は女殺しのレディ・バグなんだ。団長から除名処分を受けたが、称号を剥奪されたが――そんな事は関係ないッ。今だけは名乗らせて下さい、力を分けて下さい、団長!
 これは俺の生き様なのだ。俺は女と戦い、女に打ち勝つ。だから今、こんなところでこんな奴らに構っている暇はないのだ。俺は女専門のプロフェッショナルなのだ。だから――。
「ふはははははーーーッッ! 貴様らッ! この俺を怒らせるなんて愚かにも程があるっ! なぜ貴様らが丑耳に捨てられたかだって? そんなもの当然だッ! そもそも貴様らみたいな卑怯者が女にモテるわけないだろうがッ! くははははッ……いいだろうッ。それでも分からないと言うならば、レディ・バグの俺自らが貴様ら雑魚の相手をしてやろうではないかッ!」
 こんな奴らに手こずっていられない。こんな奴らに構ってやる時間も体力もない。
「は……支倉ァアアアアアアアアア!!!!!!!!!」
 怒りにまかせて叫ぶ悪漢。
 そうさ、こんな無駄な戦いすぐに終わらせて、丑耳に言うのだ。さようならを。
 レディ・バグ――支倉燎池の完全復活だッ!
「――いくぞっ、貴様らッ!」
 俺は拳を握って男達を睨みつける。男達は怒りに顔を歪ませながらも、俺を迎えうつための構えを取って佇んでいる。余裕でいられるのも今の内だ、雑魚共おおおおッ!
「うおらあああああああああ!!」
 俺は一番近くにいる男に向かって飛び込んだ。そして――顔面を殴りつけた。
「ぐはおっ……」
 よし。先制攻撃が効いた。殴った右腕が想像以上に痛むが、ダメージは充分に与えられたようだ。男は頬を抑えながらよろけている。ここですかさず残りの敵も――。
「ってぇ――? うがああっ!」
 瞬間、腹部にものすごい衝撃を受けた。ボディブローを喰らってしまったようだ。
「調子に乗ってんじゃねぇよ、支倉ぁああああ!」
 一人の男が叫んで、俺の顔を殴った。俺は地面に倒れた。い、痛い。痛い。痛いっ。だ、駄目だ。勝てない。やっぱ無理だ。何も考えられない。視界がゆらゆら揺れてるっ。
「燎池くん! 燎池くんっ! やめてっ……もうやめてよみんな!」
 丑耳の声が遠く聞こえる。俺の身を心配している。だから、だから、だから――俺は、立ち上がった。足元がおぼつかないが……そんな些細なこと今はどうでもよいッ!
「ひゅ〜……支倉ぁ、お前まだやるつもりなのかよ? 5人相手に勝てると思ってるのか?」
 思うわけないだろう。だったら手加減して欲しいものだが……そんな事もどうでもいい。
「燎池くん……ど、どうして立ち上がるの……そんな姿で……駄目だよ燎池くんっ」
 そんな姿って……今の俺、そんなに無様なのかよ。ああ、でも自分でも思うよ、こんな真似全然俺らしくないって。だけど今の俺には戦うしかないんだ。俺は丑耳を置いて決して逃げたりはしない。ほんと、こんなの全然俺らしくないよ。
「く、くっそおおおおおーーーーーーおおおお!!!!」
 咆吼を上げて俺は拳を振り回した。俺に眠る力、呪われた血の力、異能の力、なんでもいい、こいつらを倒す力だッ! 俺に降り注げ、奇跡の力よおおおッッッッッ!!!!!
「――ぅぅぅぉおおおおあああああアアアアアアっ!」
 右腕の全てを集約し、渾身の力を込めた俺の究極の暴力。
 しかし――ブンッ、とそれはあっさりと躱されてしまった。
「なァ!?」
 そして、カウンターで膝蹴りを受けた。
「げ、げはぁっ……」
 俺は倒れそうになる――が、気力で体勢を立て直す。呼吸を乱しながらかすれそうになる意識を奮い立たせて俺は敵と向かい合う。敵達はニヤニヤと気味悪く笑っていた。
「りょ、燎池くんもうやめてっ! ど、どうしてこんな……私ならいいのっ。燎池くんがこんなことする必要はないのっ。これは私の問題なのっ。燎池くんは関係――」
「関係あるッッ!!」
 丑耳の言葉を遮り、俺は力の限りの声で叫んだ。丑耳は困惑した目で、俺の真意を測りかねた顔をしている。分からないか? だったら言ってやろうッ!
「ふははははははッ! 何を血迷った事をぬかしているのだ、丑耳遙架よッ! これは俺と貴様の勝負なんだぞ? それに水を差すような真似をする此奴らは俺達にとっての共通の敵なのだッ! だったら丑耳遙架よ、今は一時休戦だ! この不届き者は俺が排除してやる! その後に勝負の続きをするのだッ! だから貴様はただ黙って見ていればよい!」
「で、でも燎池くん。すごいボロボロじゃない……もうこんなのヤダよ……」
 確かに。というか勝てる気がしない。立っているのも精一杯だ。しかし。
「ふふん、丑耳遙架よ。俺の姿をよく見ておけ。たとえ負けると分かっている戦いでも立ち向かわなければならない時がある。だが貴様はどうなんだ? 辛い現実から目を逸らして自分を偽っている貴様には俺の姿がどう見える? 分からないだろう。だったらよくその目に焼き付けるがよい! この俺の理解不能で滑稽な姿をッ!!」
 俺は俺の為に戦っているのだ。俺が俺を好きでいられるために。
 命を燃やせ! 魂を震わせろッ!! 闘志を轟かせろッッ!!!
「りょ……燎池くんっっ!」
 丑耳。お前はそこで見ていてくれればいい。これが俺のレディ・バグとしての生き様だ!
「いっくぞぉぉぉおおおおおああああああッ! これが俺のおおおおおおおおお……」
 俺は最後の力を拳に込める。この命と引き替えに敵を倒す! 俺は敵へと踏み込――
「やっほ、燎池」
 何の前触れもなく、いきなりだった。俺の目の前によく見知った少女が現れた。
「……へ?」
 俺はその場に踏みとどまって、思わず素っ頓狂な声を上げる。
 周囲の空気は一気に弛緩した。そして俺は思いがけない登場人物に声を掛けた。
「なっ、お前……! な、なぜこんなところにっ……り、リンネッ!」
 ――十二支リンネ。白の長髪に赤い瞳。白いワンピース姿の12、13歳くらいの少女。そして、自称この世ならざる者。
「心配だから様子を見に来ましたぁ。なんだか大変な事になってますねぇ。でも燎池ぃ。今、あなたから溢れ出ている感情値がもの凄い事になってますよぉ〜。見て下さいよっ。メーターが振り切れんばかりのデータ量ですぅ」
 ほらほらと言って、リンネは腕に巻いた時計みたいな物を俺に見せてニコニコ微笑んでいる。時計を見ても何が凄いのか全然分からなかった。
 丑耳も、5人の暴徒達も、そして勿論俺も、みんな呆気にとられている。
 しかし俺はリンネの保護者として、呆気にとられながらも問いただした。
「お、おいリンネよ……お前今の状況を分かっているのか? 今はお前が出るような幕じゃないのかと思うのだが……」
 言っちゃ悪いが足手まといだ。しかしリンネは場違い笑みで俺の話を聞くと、信じられないような事を言い出した。
「だから私が来たんじゃないですか。今は絶体絶命のピンチなんですよねぇ……分かっていますよぉ。だから燎池達は別のところに移動するといいです。ここは私に任せて下さいな」
 にこりと微笑するリンネ。いや、ちょっと待て。任せろだって? 相手は男子高校生5人だぞ。さすがにリンネ一人ではヤバイだろ。任せられないだろ。
「だ、だがリンネよ……お前には少し荷が重すぎるのではないかと思うのだが」
 俺一人でも歯が立たなかったのだ。こんな少女一人残していけるわけがない。
「うふふっ、燎池。私を誰だと思っているのですか? 私はこの世界の常識を大きく逸脱した概念なんですよぉ?」
 リンネはいつものように微笑を浮かべながら、歌うように言った。
「そうだけど……でも」
 そもそもお前が言っている内容自体が半信半疑なんだが。
「あははー。信じてもらえないわけですかぁ。燎池は優しいですねぇ。分かりました、それでは大丈夫だという証拠を見せましょうか……。では大変お手数ですが……そこの男性諸君、かかって来て下さい。私の実力を燎池に納得して貰う為の道具となってくれませんか?」
 リンネは酷薄な笑みをたたえて暴徒に語りかけた。まずい。これ完全に挑発じゃないか。
「な、なんだと……ふ、ふざけやがって、このガキぃ……」
 怒ってらっしゃるし。拳を握ってるし。まんまと乗せられてるよ。そして――やばいッ。暴漢の一人がリンネに殴りかかったっ!
「え――?」
 と思った次の瞬間――その男が地面に横たわっていた。しかも気を失っているみたいだ。
 その場にいる全員が目をみはった。何も、見えなかった。何が……起こったんだ?
「な、何者なんだ……この女……」
 男達は戸惑いを隠せない様子。リンネは先程までと変わらない体勢で優雅に佇んでいる。
「これで分かりましたかぁ、燎池。私の役目は裏方なのです。本当は観測者がこんな事するのは駄目なんですけど……今回だけですよ? さあ、主役のあなたはこんな場所からさっさと離れてクライマックスをきれいに締めくくって下さいな」
 リンネはいつものように笑顔を俺に向けて、ぴらぴらと手のひらを振っている。
 ……はは、俺は何を心配していたのだろうか。そうだよ、いつだって俺はこいつには敵わなかったじゃないか。
「ふっ、そうだったな……分かった。くれぐれも穏便に頼むぞ、リンネよ」
 下手したら相手の存在ごと抹消しかねんからな、この女は。まったく……つくづく恐ろしいやつだよ。
「では、安心して心置きなくデートを楽しんで下さい。燎池、丑耳さん」
 リンネはペコリとお辞儀をして男達に向き直った。
「さぁて、人の恋路を邪魔する者は馬に…………なんとかって言いますが、まぁ皆さん。ほんのちょ〜っぴり痛い目に遭ってみても罰は当たらないでしょうっ」
 きっと今のリンネの顔はニコニコと不気味な笑顔を浮かべているんだろう。あと、知らないなら無理にことわざを使うなよ……まったく、しょうがない奴だ。
 俺はクスリと笑みをこぼして、丑耳の手を引きその場を走り去った。
 その瞬間、後ろから男達の怒声が聞こえたが、すぐに止まった。
 俺は一度も振り返ることなく、丑耳と手を取り合って走った。


「はぁっ、はあっ……だ、大丈夫か、遙架」
 俺達は公園の中を駆けずり回って、今は園内の端にある林の中で休んでいた。肩で息をして呼吸を整える。
「はぁ……はぁ……う、ううん。私のっ、事より……燎池くん、ケガだいじょうぶっ?」
 丑耳も息を乱している。せっかく綺麗に整えた髪型も若干崩れかかっていた。けれど息を乱し、髪を乱し、さらには服装を乱している丑耳のあられもない姿。滲んだ汗が服に張り付き、官能的なものがある。うん、これはこれで悪くないかも……って、いやいや何を考えているのだ俺はっ。理性が飛びそうになってしまったぞ。
「そ、それにしてもとんでもなく疲れた。どうして俺がこんな目に遭わなきゃいけないのだ」
 変な考えを振り払うように俺は悪態を吐く。あいつらの所為で今までの流れがすっかり台無しになってしまった。
「ごめんね、燎池くん……私のせいで」
 済まなさそうに肩を落とす丑耳。
「いや、お前を責めているわけではないよ、遙架。悪いのは奴らだ。どんな理由であれ、こんな卑劣な手段を使うような人間は許されるものではないからな、うむ」
 木にもたれながら俺はうんうんと一人頷く。
 ふと見れば、林の向こうには大きな湖があった。水上でカップルがボートを漕ぐ姿が目に入る。俺は何気なくその光景をぼ〜っと見ていたら――俺の体に、とすんと軽い衝撃が訪れた。
「燎池くん……」
 丑耳が俺の体に抱きついていた。
「えっ……? な、何を……ッ」
 俺は絶叫をあげそうになったが、丑耳がそれより早く語り出す。
「……ありがとう、燎池くん。でもこれからは絶対大丈夫。だって、もう私、燎池くん以外の男の人は好きにならないし、感心だって持たない。私はず〜っと、燎池くんだけだから……だから。ねえ、燎池くん……私達だけが本当の愛を知っているの。私とあなたならきっと永遠に変わらない愛を築きあげることができる……。お母さんみたいにはならない。お父さんみたいにはならない。ずっと変わらない2人だけの世界に行こう……燎池くん」
 丑耳が顔を俺に向ける。そしてゆっくりと目を閉じた。
 まるでこのままずっと離さないと言わんばかりに、強く俺の体をきつく抱きしめる丑耳遙架。大きな胸が俺の体に密着する。汗で額に張り付く髪。スベスベしていそうな、とても綺麗な白い肌。薄ピンク色の唇。そして――目には涙。
 すぐ目の前には無防備な丑耳遙架がいた。
 彼女の気持ちに応えれば、2人のハッピーエンドが訪れる。けれど俺が勝ちにこだわって彼女の気持ちに応えなければ、2人共が幸せを手放すことになる。きっと丑耳は悲しむ。俺は、どうすればいいのだ。俺は――。
 俺は、彼女を救ってやりたい。
 だから俺はゆっくりと丑耳遙架の顔に自分の顔を近づけて――そして、耳元で囁いた。
「丑耳遙架よ。さっきも言っただろう……俺は、お前の好意に答えられないと」
 これが俺の答え。かつてレディバグ団のエースだった俺の役目。
「あ……な、なんで」
 俺の言葉を聞いて、丑耳遙架は驚いたように目を大きく開けた。そして俺にしがみついているその体が、次第に小刻みに震え出した。俺の体はそれをダイレクトに感じる。
「な、なんで。燎池くん……私を、私達の愛を裏切るの……? 私の両親みたいに……」
 丑耳が言葉にならない言葉を発する。それはほとんど嗚咽だった。
 丑耳の体と大木に挟まれながら、静かに言う。
「違う。裏切りじゃない……簡単なことだ。俺とお前は相容れないんだよ……」
 俺はあくまで冷淡に、突き放すように告げた。すると、俺に密着していた丑耳の体がゆっくり遠ざかって、そして丑耳は俺に相対して泣き顔で叫んだ。
「そ、それは私が男性殺しで、あなたがレディ・バグだからっ? ねえ、どうして駄目なの、燎池くんっ! 私ぜんぜん分からないよ、燎池くんっ!」
 丑耳遙架は涙で顔をくちゃくちゃにして俺に強く当たる。ここまで感情をぶつけてくる彼女の意外な姿に俺は多少怯んだが、それでもやめない。
「ふっ。俺はもうレディ・バグの称号は剥奪されたよ……ただ単に俺はお前を幸せにできないし、お前は俺を幸せにできない……それだけだ。お前はお前を幸せにしろ」
 俺にできる事は始めから何もなかったんだ。強いて言うなら……あとは俺から離れる事ができれば、丑耳はもう大丈夫なのだ。そう、大丈夫。お前は俺が認める強い女なんだ。
「だからわけが分からないっ! そんなの絶対嫌だよっ。それでも私は燎池くんの事を諦めないからっ。だって私は男性殺しなんだよッ。私はあなたを絶対落とすのーーっ」
 だが丑耳はどうしても諦めきれないようだ。本当に往生際の悪い奴だ。いや、違うか。そんなにも俺の事が好きなんだって事か……。俺だっていまいち分からない。何故俺と丑耳遙架が付き合ってはいけないのかなんて。
 でも――丑耳の兄弟を見ていたら、母親と話していたら、八百屋の主人と話していたら、2組の連中を見ていたら、そして短い間だったが丑耳遙架と付き合っていたから――なんとなく俺達は付き合っちゃいけないのだと思ったんだ。お前は幸せな愛に包まれていたんだよ。きっとこれが終わればお前はその愛を素直に受け止められる。きっと幸せを感じられる。
 そうだ、俺は誰よりもレディ・バグとしての俺を信じている。
 ふんっ……。だったらいいだろう。丑耳遙架よ。俺の……最終究極奥義を見せてやるよ。
「は……は、ははははははは……はぁ〜あ、ほんっと参っちゃうよなぁ〜。なぁんでまだ気が付かないかなぁ〜〜〜〜っっっ!?」
 俺は態度を急変させた。俺の知る限り最も軽薄に。最大限に最悪に。
「え……ど、どうしたの燎池……くん」
 俺の突然の変貌に、丑耳は涙を浮かべた顔のまま、ぽかんと口を開けている。
「もうさぁああ〜、いい加減飽きちゃったんだよねぇ。この遊びも」
「え?」
 呆気にとられたように丑耳は固まっている。理解が追いつかないようだ。
「この下らない遊びはさぁ、俺が敵対する女という下等生物のデータを収集したかった為なんだよ。対決にかこつけた実験ってやつなのだよ〜」
「どうして……だって私は燎池くんの事が……」
「はっはー、まさかアンタが本気で俺に惚れるなんて思ってなかったけど……まったく、俺は自分の実力が怖いよ。まっ、おかげでデータも集まったし、もうこれで君は用済みって事なんだよ、遙架ぁ〜あ」
 胸が痛い。息が苦しい。なんだかとても悲しくて辛い。だけどそれを表には決して出さない。だってお前が男性殺しであるのと同様に、俺は女殺しなのだ。
「これ以上お前とは付き合ってられないんだ。嫌なんだよ……いや、違う。遙架の事なんか何とも思ってないんだよ。だからこれ以上話したくないし、近づきたくない」
 吐き気がする。ぼんやりする視界の中で丑耳が寂しそうに立っているのが見えた。しかし丑耳遙架は、まっすぐ俺の目を見つめた。ああ、これは……何かを決意したんだ。
 凍り付いた顔だった丑耳遙架に表情が戻っていく。全身を震わせて――そして言った。
「燎池くん……やっと、やっと私の名前呼んでくれたね。私、とっても嬉しかったよ」
 丑耳遙架の瞳から涙が大量に溢れ出す。だけど、丑耳遙架のその顔は――笑顔だった。
 俺は、俺は俺は俺は俺は……レディ・バグとしてでなく、支倉燎池として告げる。
 俺の大好きな丑耳遙架に告白(さよなら)する。
「ふん……ついついうっかりと名前で呼んでしまったよ。毎日毎日名前で呼べって貴様はしつこかったからな……ただそれだけさ。お前の事なんて本当に……なんとも思っていないのだから。だからさっさと――消えてくれよ」
 耐えきれなくなって俺は思わず目を逸らした。
 しばらく痛いほどの沈黙が続き、そして俺の耳に届いた丑耳遙架の泣き声。
「――ありがとう、燎池くん」
 それが、最後だった。
 それだけを言って、丑耳遙架は涙を大量に流したまま、何も言わずに、嗚咽をあげながら、俺に背を向けて走り出した。
 そうだ……それでいい。走れ……走り続けるのだ。丑耳遙架よ。
 これが丑耳遙架に捧げる俺の最終究極奥義。エターナル遙か彼方(さようなら、遙架)。
 ふん……名前を呼んでくれてありがとう、か……。そんなのは当たり前のことだ。
「だって俺達は――親友だろう」
 遙架が去った後も俺はしばらく公園から出られなかった。涙を堪えるのに必死だったから。


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