ノベルオーバー 〜現実か小説家〜

  そして公主人を巡る物語

※注 お勧めできません。長さが通常の2倍ほどあります。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

奇書

 
 エピローグ


 けれど――消えてしまった。こんな、簡単に。こんな近くにあったのに。
 なん、で……そんな馬鹿な……もう二度と、決して手に入らないのか。
 う、嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。だけど……全部なくなってしまった。もうどこにもない。いや――それとも最初からなかったのか。やっぱり全て夢、幻、幻想なのか?
 こんなこと、信じられないけど……ならば、あの言葉は全て真実だったんだ。
 だったら……だったらこうして文字を打っている自分は誰だ。
 いや、自分は果たして今もなお存在しているのか。そう思い込んでいるだけで、これも誰かが打ったテキストの上での存在でしかないのか?
 ああ、そうだ。消えた。消えた。全部消えた。世界は消えたんだ。
 全てはこんな事であっさりと簡単に消えてしまうものなんだ。いや、そもそも始めからそんなものなんてなかったんだ。それほどに儚い存在。信じていたものは全て幻想。
 虚無。虚構。虚ろ。
 ああ……なんていうことなんだ。こんなはずではなかったのに。まさか本当に世界というのは、こんなにも脆いものだったなんて知らなかった。
 消えた。消えたのだ。消失してしまったのだ。ならば……初めから気がつくべきじゃなかったんだ。確かに世の中には知ってはいけないことがあったのだ。
 世界が偽物……そもそも偽物も本物もないのかもしれないけれど――目の前のことが現実なら、信じられない世界でも、それが自分にとっての本物なのだ。
 後悔しても全て遅い。けれどこれがテキストなら、もう一度読み直せばもう一度やり直せる事になるのじゃないのか?
 だったら――何度でも読み返してやる。
 所詮、この世界は閉じた世界。どこへも広がる事はしないし、変わることもないのだろう?
 だけど時間だけは無限にあるのだ。閉じられた世界の中で、何度でも物語を再生し続けようじゃないか。再び世界を始めようじゃないか。
 ほら。そしてまたページをめくって、新たな演劇が始まる。
 この世界は誰かの目に触れられる限り、決して終われないんだ。
 それが創作。それが物語。それが人間。それが――




 プロローグ2


 〜この物語はそもそも小説だ〜
 私達はあらかじめこれが小説であるという事を念頭に入れて読むからこそ、それは小説以上でも以下でもない、小説として定義されるのだ。
 だけども小説の中に存在する者にとっては、その世界はまぎれもない現実なのである。そんな彼らも自分達が小説の中の登場人物であるという事を知らずに、同じように小説を読む。そしてその小説の中にだって勿論別の世界が広がっているのだ。小説の中の彼らも物語を創る。小説を読む。そうやって次々と世界は繋がっていく。下降していく。浸食していく。
 まるで永久機関。合わせ鏡のように、終わりのないマトリョーシカのように広がり続ける世界。
 だけど、そうすると逆に考える事もできるのではないか?
 ――さぁ、この小説を読んでいるあなた。
 あなたもひょっとすると、誰かの書いた小説の登場人物の1人でしかないのかもしれない。
 勿論現実にそんなこと到底信じられないが、それでもこの物語を読むにあたっては、敢えて小説を読んでいるのだという印象を取り去って読んで貰えればもっと楽しめると思う。
 この作品だってどう言おうが、突き詰めれば結局は一つの小説なのだし、ただの娯楽の一つでしかない。
 けれど私にとってはそうではない。まぎれもない事実なのだ。
 勘違いされては困るが、これは決してノンフィクションやエッセイ、まして日記帳ではない。全く違う新しいモノなのである。
 現実ともう一つの世界を結ぼうという実験作。
 そして別の世界へ行くための、いわば教科書。
 古来から人は世界の真理を求めて様々な手段をとった。それは宗教であり、哲学であり、科学でもある。この作品もそういった手段の一つであると思って頂きたい。
 だから是非、読者のあなたにもこの実験に参加して頂きたいのだ。共に世界の扉を開けよう。
 その為にはまず先入観を消して貰いたい。小説という先入観を。この作品もまた現実であるのだと。あなたが現在読んでいるこの文章そのものが現実なのだと。
 そしてもう一つ。この小説はあなたの現実を浸食していく物語だ。読めば読むほどにあなたの世界は虚構に食われていく。だから自分の存在を見失わないよう、常に注意して頂きたい。
 これらの事を頭の片隅に入れて読んで頂ければ、私の努力が報われるというものだ。
 それこそが本望。それこそが彼らの悲願。私の喜び。
 これは物語という世界に閉じ込められた彼らが、世界の壁を超えて真実を探し出す冒険の物語。
 〜〜〜さぁ、読者諸君。是非あなた自身の身でもって、この物語を体験してくださいませ〜〜〜





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――彼と彼女に――



 -----はじまりはじまり-----

 突然だけど物語というのは結局、人と人との繋がりによってできているのだと私は思う。愛情、友情、憎悪、嫉妬、尊敬、敵意、好意、悪意、善意と……人との関係の間に流れる様々な感情が入り混じり、そこから起こる行動がエンターテインメントとなる。
 だから私は多くの人と関わりたい。より大きな物語を作っていきたい。そう、一人一人がそれぞれ自分の物語の主人公であるのと同様に私はこの物語の主役であるから。
 ――と、冒頭いきなり変なモノローグから始めてしまい、悪く思うがご了承頂きたい。なぜなら冒頭開始のモノローグというのはつまり、その物語を語る上での大切な必須事項、テーマが内包されていると個人的に思う故である。
 しかし、よく考えれば私が本当に言いたかったのはそういうことではないのかもしれない。そう……違う。こんなものはテーマとは言えない。本当に言いたかった事は、私が必要だと思ったのは、まさにこの部分の存在そのものなのだ。つまり何でもいいのだ。ただここで私が物語のプロローグを告げる、それだけのこと。
 読者の皆さんは『あとがきでやれよ』と思ったかもしれないし、あるいはあとがきが間違って導入部分に挿入されてしまったのかと思われたかもしれないがそんな事はない……いや、というかもう別にそれでもいいし、そもそもどうでもいい。それでもこのプロローグが私にとってどうしても必要だと感じたのだ。
 ここで語るということこそが必要不可欠。敢えて言うならそれがこの物語にとってのテーマ。そう、だから冒頭開始のモノローグの内容が云々でなく存在自体に意味があるものだと思っていただきたい。いや、別に思っていただかなくてもいい。
 深読みして考える必要はない。存在に意味があるが内容に意味はない。これは伏線でもフラグでもなんでもない。結局ここでの言葉の中身なんて何もないのだから。さらには私が必要と感じただけで……多分きっとそんな事は全然まったく無いんだろう。期待を裏切って申し訳ないが、しかし考えてみれば全ての物語もそうなのだ。ただ存在する物語をどう判断するかはその人次第。まさに物語を読む者は、その物語中の……世界にとっての、神にでも悪魔にでもなれる者。
 訳の分からない事をつらつらと述べてしまったが、とにかくこれは、とある一人の作家志望とその人物を取り巻く人々が生み出した、ひとつの作品なのだということだ。
 とてもあやふやで胡乱で主観的で酷く脆い、お見苦しい作品ではあるけれども、それでもよければ是非ご覧になって頂きたい。彼の、私の、物語を――。


episode-start!


 T

 田舎暮らしに愛想を尽かしていた俺は、高校を卒業してから晴れて大学生としてこの大都会に上京し、生きてきた。多少の仕送りはあったがそれだけではまかなえず、バイトで生活費を稼いでいた。正直生活していくのにいっぱいいっぱいだった。
 俺は元々人付き合いが苦手で一人でいるのが好きだった。引きこもりの素質というのだろうか、俺は外に出る事よりも家にいることが――いや、自分の部屋に篭もっていることが好きだった。つまり昔からそういう人間だから伏線は十分にあった。案の定というか、俺は気が付いた時には大学を休みがちになっていて、今はもうほとんど通っていない……というか休学した。むしろ自主退学の可能性も視野に入れている。
 で、大学に通わなくなってバイトの時間を増やしたのかと言うと勿論そんな事もなく、むしろ最悪なことに、仕事は大変だったが時給はよかった居酒屋のバイトを辞めて、できるだけ人と関わらない、できるだけ簡単で楽なバイトばかり探していた。やむない事情もあったとはいえ、やはり居酒屋を辞めたのは失敗だったかも……。
 いずれにしてもそれ以降の仕事はどれも長続きはしなかった。結局人と深い仲になるのが苦手な俺はいくつかの派遣会社に登録して、交通整理やチラシ配布の仕事をたまにしていた。勿論収入は一気に減った。生活はますます窮地に陥っていた。人生詰んだのを最近薄々実感してきた。
 都会は人の繋がりが希薄だと人はよく言うけど、実際はまぁ……そうかもしれなかった。けれどこれだけ人がたくさんいるんだ。さすが大都会、こんな俺にもこの街で暮らし始めて友人と呼べる者ができた。

「ちょっと〜、聞いてるのかぁ。路久佐(みちくさ)」
 まだ夏前だというのにうだるような真昼の暑さが広がる街並みを、ファミレスの窓ガラス越しから俺が惚けながら眺めていたら、友人の一人が注意した。彼は周防友根(すおうともね)。俺と同じ大学に通う同回生。俺がこっちに来て一番最初に仲良くなった人物であり、今日のこの会合の首謀者でもある。
「お前の事なんだぞぉ。これからどうするんだよ。大学辞めちまうのか〜? このままだとニートだぞ」
 最近の会合でのテーマはもっぱら俺の行く末を案じた件が多い。はぁ、面倒臭い。いや、このままじゃいけないって俺も思ってはいるんだよ。家賃払うのも一杯一杯だし、実家には学校行ってないのバレたし。正直心が折れそうなんだぜ。
 とりあえずここは愛想笑いで誤魔化しておこう。
 でも今回のテーマはそれだけじゃなかった。最近恒例となった俺の社会に対しての活動を促す説得が早々に切り上げられて、俺がほっと胸をなで下ろしたのもつかの間、本日の真の議題が周防によって提示される。
「実は君たち2人に相談に乗って欲しい案件があるのだが……」
 成程、それで今日は俺達を集めたのか。さらに面倒臭そうな事になってきやがったぜ、こりゃ……。まぁ俺の事じゃないんだったら別にどうでもいいやな気持ちですけど。
「ならば、当然。ここの代金は周防持ちという事だな」
 クールな低音ボイスが響く。君たち2人の内の俺じゃない方の残った1人、周防と同じく、俺と同回生の宮下境架(みやしたきょうか)の発言。相変わらずの仏頂面だ。
「ま、まぁ……いいよ。そしてぇそれは同時にぃ、それだけ僕は真剣だって事を暗示してる訳だからねぇ」周防は気にせず続け、そして「実は僕――彼女ができちゃった」
 正直、どうでもよかった。
「どうでもいい」宮下も俺の気持ちを代弁するかのような同意見。シンクロしちゃった。
「いやっ、即答で話を終わらせないでよっ! ここからが相談なんだよっ!」と、情けない声で怒る周防。
「分かった。貴様の話に興味は微塵もないが、光栄な事に今日俺は暇を持て余している。だから仕方がない。一応聞いてやるとする。話せ、俺が許可しよう」
 宮下はふんぞり返って、偉そうな態度をとっている。殿様かよっ。
「相変わらず宮下、お前って奴は……まあいいや。で、その彼女の事なんだけど……」
 周防は呆れながらスルーして話を続けようとするが、
「成程。ただのノロケ話という事だな……ああ、分かった。十分伝わった。さ、では俺達は帰るとするか路久佐」さらに宮下のヤジが飛んだ。
「いちいち話の腰を折らないでよっ!」とうとうキレる周防。
「軽い冗談だ。よし、続けていいぞ。話せ」尚も殿様な宮下。
「……こほんっ。で、お2方もご存じのように僕、今まで彼女とかいなかったから舞い上がっちゃってて気付かなかったんだけど」
「……そうか! 彼女の正体が貴様の妄想の産物だったのか。なんて残酷な結末!」
「腰を折るなあーっ!! っていうか酷いなあんたっ、残酷なのはあんただろっ! 彼女は現実の女の子ですからねっ!?」
「いいから続きを話せ。お前の話は長いぞ。俺達も暇じゃないんだ。貴様に合わせていたら時間がいくらあっても足りん。死ぬか?」
 要するに、宮下と周防の関係はいつもこんな感じだった。
「ちっくしょう……話が進まないのはあんたらのせいなんですけど……」
 もう野次には反応しないぞと、泣きべそで周防は本題に入った。
「彼女、漫画家みたいなんだ」
「ま、漫画家?」俺達2人は呆気にとられた。
「そうなんだよっ。実はこの間、街でナンパしてたんだけど――」
「……貴様、またそんな事してたのか」
 宮下が周防に突っ込む。2人の性格は対照的だ。簡単明瞭に言うならばチャラけた周防に、殿様というかむしろ野武士のような宮下。
「うるせいっ、何もしてなくても女に話しかけられるお前とは違うんだよ!」
 チャラ男が毒を吐く。うん、その点については俺は全面的に周防の味方。宮下は仏頂面のくせにやたら女にもてる。くそう、気にくわない。
「それに最近東雲さんとはどうなったんだよぉ?」
 周防がここぞとばかりに追撃する。そうだそうだ、それに宮下には彼女と思しき存在までいやがるのだ。いっそお前が死ぬか。
「……いや、何度も言うが東雲とはそういう関係ではない」宮下の表情が少し曇る。
 同じ大学内で宮下によくなついている女子、東雲寧音(しののめねね)。……そしてその彼女の親友が実は俺の憧れの人でもあったりするのは……ここだけの話だ。
「じゃあいいや、その話はおいといて……で、その日もナンパは成功しなくて諦めようとしていたんだよ。そしたらさぁ、もうほんっとすっごい可愛い女の子がいてさ〜。最後に駄目元で声かけてみたんだよ……」
「それがOKだったと……できすぎた話だな」先回りしちゃった宮下くん。
「……。う、うん、そうなんだけどね……でもさ〜驚くのはここからなんだよな〜」
「否、お前のナンパが成功した事が俺にとっては一番の驚愕だ」
「認めてっ! その日も3時間を費やした僕の努力を認めてっ!」
「さ、3時間も費やしていたのか……愚かな男だ、まったく。それでなにが驚きなのだ? その彼女が漫画家なのだろう?」
 推理力が高い宮下。こいつは運動神経が良くて頭もきれる。欠点はないのか? 一方、周防に対する評価は特にない。
「そう……漫画家なんだけど。もちろんそれも驚きなんだけど。彼女、僕が声かけたらさ、『私をナンパしてるの? 面白い。あなたが私に声をかけるという事は偶然か?それとも何かの運命か? ここで断って因果の糸を断ち切るのは容易いけど、私はこの縁からどう話が展開していくのか興味がある……』とか言ってOKしちゃって……」
 周防が俺達の反応を窺うようにゆっくりと話した。俺達は暫く何も言えなかった。
「なんだそれは……それは――なんとも奇天烈な理由だな」
 宮下の口からようやく出た感想。さすがに普段クールな宮下も動揺を隠せない。勿論俺も半分冗談だとしか思えない。つーか、奇天烈て。その単語のチョイス。
「けど、これがどうやら真剣らしくて……というか、自称漫画家だからなのかな〜、何に対してもモノの考え方が客観的っていうか、観察してるっていうか……僕の事も付き合うとかじゃなくて試してるっていうのかな……そんな風にみてるんだよぉ」
「試している?」
 眉間に皺を寄せ、怪訝そうに聞く宮下。いつもより三割増しに不機嫌そうに見える。
「なんていうか彼女との行動全部が違和感を感じるんだ。まだそこまでな関係じゃないけど……デートだってさぁ、あれデートというより実技試験みたいというか……。行動が現実離れしてて……嘘くさいっていうか、演技してるっていうか……う〜ん、なんていうのかな……。とにかく僕、彼女にはついてけないんだよなぁ……でもせっかく初めての彼女だし……」と、考え込んだ周防。
 確かに変な女だ。周防を試しているというよりも、むしろまるで世界を試しているというか。いや、世界そのものを否定しているというのか……。
 だから俺はつい一言口から漏らさずにはいられなかった――。
「それこそ――まるで漫画の世界じゃないか」
 だからぽつりと、思わず俺はそう口にした。
 まさにその時だった……今にして思えば俺のこの一言から漫画のような、めくるめくような世界が生まれたのかもしれない。そんな衝撃的な出会いだった。

「くっくっく……そうよ、その通りよっ。あなた〜なかなか鋭い視点をもっているじゃない? やはり私の目に狂いはなかったよう……ね」
 と、声がした。女だった。
「へ? だ、誰だ?」
 俺は素っ頓狂な声をあげて後ろを振り返る。
 そこにいたのは1人の少女。――だけれども、その姿を見て俺はまた驚いた。
 小柄な体には似合わない、いかついサングラス。革製の指なし手袋。夏先だというのに分厚いマフラー。雨も降っていないのに長靴。そして――、
「じょ、女子高生……?」
 制服姿の女の子だった。しかし姿形は変わってはいるが、サングラスをしていても分かる。少女はめちゃくちゃ可愛い。だがいきなり現れたこの少女は一体なんなのだ。
「うわっ……なっ、なんで朱主(しゅしゅ)ちゃんがここに!?」隣でなぜか周防が混乱。
 いや、待てよ。っていうことは、もしかしてこの少女は……。
「そう、よ。大方あなた達が考えている通りぃ〜、私は周防の彼女、漫画家……よ。そしてぇ〜私がここにいる理由は……そうね、噂をすればなんとやらってやつ? だってこのシーンで私が現れるのって、お話的にとても面白い展開じゃない?」
 サラリとした長い髪をかきあげながら、少女はよく分からないことを言った。
 ……確かにこの子は変わっている。だがちょっと待った。
「周防、お前の彼女って女子高生だったのかよ……」
「ああ……可愛いだろ……」はい、アウト!
 ばつの悪そうに答える周防。無理もない、相談している内容のその張本人が現れたんだ。 一体どこから話を聞いていたんだろう? ていうか駄目じゃないの? 女子高生は。え、いいの? 俺付き合ったことないから分からないよ。ちくしょう。
「……そうね、そこの男の人生がいま断崖絶壁の状態にあるというところから、かしら」 少女は俺の顔を見て言う。この少女エスパーか? 俺は口に出してねぇぞ。
「ふはは、ノンノン。私はただあなたのモノローグを読んでいるだけよっ」
 いや、変人だった。だが俺が女性と付き合ったことがないという、国家機密に相当する秘密はバレていないようだ。運がいいな、あんた消されずにすんだぜ?
「ところで、あなた……」少女はいきなり俺にびしっと指を指して――さっきから失礼な奴だな――言った。「あなたはなかなか面白いわ……見どころがあるわよ。うふ」
 少女はサングラスを外して俺の顔を凝視した。人形のような、凄く整った顔がそこにあった。思わずドキッとしてしまった。
「はあ……面白い?」
 俺は冷静になって考える。俺に何の見どころがあるんだ? 俺が滑稽だってか?
「ふふっ。いいえ、違うわ。誤解しないで。多分あなたが考えている事とは違うわ……私が言いたいのはね〜、あなたは自分が今おかれている状況を最悪と考えているわよね? でもね、私に言わせればそれは大ぉいなるチャンスなのよ! 最悪であるがゆえの最高の状況。社会的に隔絶されたあなたは今、特殊な因果律の中にあるっ!」
 おいおい、なんか訳の分からない事を語り出したぞ。因果律? もろアレなワードじゃん。禁句じゃん。俗に言う厨二病かい? これはもう、ちょっと変わってるどころではすまなくなってきたと思うのだが。あと、俺の事を好き勝手に無茶苦茶言うなよ。しまいに涙が溢れてくるぞ。今夜は枕濡らすぞ。
「でもね、あなたの何が幸運かって言うとね。つまりあなたと私がこうして出会った事なのよ。いえ、もうこれは運命といっても過言では無いわ。もしかしたら私もあなたと出会う為に、周防の彼女になったと言えるくらいにはね」きっぱり言い切った少女。
「ちょ、ちょっと朱主ちゃん。それはないよ」さすがに周防も黙ってはいられないようだ。「じゃあ僕は朱主ちゃんと路久佐を結ぶ為だけの存在だったって事なの?」
「まぁ、そうかもしれないわね……だって私達付き合って2週間位経つけれど、何もないじゃない。何も進展しない。進行も退行もない。閉塞。行き詰まった状態よ。もう打ち切りかもね。あなたもさっき言ってたでしょ? 私にはもう付き合えない、って」
 ぶっちゃけた発言に思わず少女の顔を見た……が、少女の表情は驚くほどに何も映していない。無表情。無感動。本当に、何も思っていない。何とも思っていない……。
「あとで、ゆっくり話そう……朱主ちゃん」
 周防が異様なほどの陰鬱な空気を纏いながら立ち上がる。周防のこんな顔見たことない。仏と名高い、普段は温厚な周防もついにキレたか? やばい、険悪なムードか。
 だがそこで、今まで黙っていた頼れるアニキ、宮下が口を開いた。
「まぁ、なんだ……こんなところで言い争いは周りの客にも迷惑だ。本日の議題も流れた事だし、故に、今日はこの辺りで解散しようじゃないか」
 さすが宮下。この空気をとりあえずは押さえてくれた。でも有耶無耶のまま解散って……これでいいのか? まぁ、俺としては別にいいけどね。俺と宮下は基本冷血なのさ。
 しかし、さすがというか何というか。少女は最後の最後まで強烈な個性を放っていた。
「あなたと私には既に繋がりができた。停止していたあなたの物語の歯車は動き出す。今まで止まっていた分、きっとめまぐるしいスピードで回転する事でしょう。簡単には止められない。そして――あなたがどう思っているか分からないけど、そうなると私達、近いうちにまた会う事になるわね……その時、第四の壁は破られるのよ」
 別れ際、少女は俺にそう言った。正直思いっきり引いたけど……そう。
 ――確かにここから物語は始まったんだ。


 U

「また会える……かぁ……」
 嬉しいのやら、悲しいのやら……。いや、ちょい嬉しいな。
 ――自宅にて、俺は数日前にあった少女の事を考えていた。別れ際、さらに少女は俺にこんなことも言っていた。
『いっそ何もやることがないのならあなたも漫画家になってみるのはど〜う? あなたには向いているんじゃなぁい? ふふっ、そんな事分かるわよ。あなたの事くらいわね……そうね、まずは私のアシスタントとして雇ってあげてもいいわよ。ふはは』
 ふむ、興味深い。これも何かの因果。やってみる価値は……ねぇよ! あんな得体のしれないヤバイ女、あまり関わっちゃいけない。可愛い見た目に騙されちゃ駄目だ。きっと周防のようになっちまう。
 けれど……それもそれでありかもなぁ、なんて考えてる俺は救われない人間です。
「周防……か。どうしてんだろな、あいつ……」
 あの日以来、周防とは会っていないし、連絡も取っていない。宮下が言うには大学には通っているらしいが、例の彼女の件に関しては口をつぐんでいるとの事だった。
「……と言いつつ、ちょっと興味はあるのも事実なんだよなぁ」
 実はというと、俺は時間を持て余している事もあったので、暇潰し程度に漫画を書こうと挑戦してみたのだ。そしてチャレンジしてみて分かったことが一つ。
「ぶっちゃけ素人には無理だろ……」惨敗だった。
 漫画なんて読むには楽しいが、書くとなると想像もつかない根気と努力と集中力がいるんだなと思って、そしてそれをやってのける周防の彼女……あの娘は確かにおかしい奴だったが凄い奴でもあったんだな……と人ごとながらに感心していた時だった。
 トゥルルルルル。と、電話のベルが鳴った。
 俺は受話器をとる。
『お兄ちゃん! いいかげん実家に帰って来いっ!』
 とらなければよかった。耳をつんざく高い声。妹の路久佐仄(みちくさほのか)だ。
「な……なんだよ。いきなり大きい声で……お前しょちゅう電話かけてきて、いつもいつも帰ってこいってよく飽きないもんだなぁ……」
 そんなことしても無駄だというのに……俺が帰るわけないじゃないか。いや、帰れるわけがないじゃないか。
『はいはい〜? だってお兄ちゃんが大学も行かずにいつまでもダラダラしてるから心配してあげてるんじゃない! 姉様も怒ってるよ! 大学辞めたならそっちにいる意味ないじゃん! まぁ……お兄ちゃんの気持ちも分からないこともないけど……でも』
「いや、大学辞めてはいないよ。休学中だよ」
『そんなの一緒だよっ。ってゆうか、いっそもう辞めちゃいなよ、お〜け〜?』
「え、え〜っと……それにさ、ほら俺こっちでやりたい事とかあるし……」
 特にないけど。でも、どうしてもここは食い下がれない。
『やりたい事って何な〜に? まっさかまた、今は自分探しの途中〜だとか馬鹿な事言うんじゃないよね? そうやっていつも話をはぐらかすんだからっ。もう!』
「……そ、そんな事言わないよ」ついこの瞬間まで言うつもりだったけど。
『い〜や、今の返事は図星の声〜。今この瞬間までそう言うつもりだった声だよっ。お兄ちゃんはいつもそうやって話をはぐらかしてフラフラしてるんだからっ。いつまでもそうやって逃げてるようじゃ……そんなんじゃ本当に駄目になるんだからねっ! お兄ちゃんの考えてることがわたしには分からないよ。だから……そんなんだからお兄ちゃんはこんなとこまで逃げてきたんじゃないの……?』
「それは……だから……違うって言ってるだろ」するどい妹だ。
 いや、けれど仄の言うことはだいたいほぼ当たってるんだ。違うのはいつも俺の方なのだから……。そう、俺の事は全て信用しちゃいけない。自分自身でも。
『じゃ、じゃあなんなの? お兄ちゃんの……やりたいこと』
「え、えっと〜……それは……」
『そ・れ・は?』
「ま……漫画家……」
『は……はいぃ? 漫画家ぁ?』
「そ、そう……漫画家……」
 やばい、思わず口からでてしまった。いくらなんでもこれはない。俺らしくない、スマートじゃない。こりゃ妹に呆れられるだろう。っていうか俺らしさって何だ。知らん。
『す……すごいっ、お兄ちゃん漫画家目指してるんだっ!』
 感心されてしまった。どっひゃあ。
「あ、ああ。まぁな……だから実家に帰るのはもうちょっと待ってて欲しいんだよ」
 こうなったら嘘をつき通せ!
『う〜ん……まぁ、そんな事なら仕方ないかもしれないけどっ、でも生活費は大丈夫? 貯金とかあるの?』
 妹は何でも信じてしまう性質である。むむぅ、こんな世の中なのだからもっと疑うことを覚えてほしいものだが……俺が言える立場じゃないよな。
「まぁ……なんとかやっていけてるよ」
 勿論ウソだ。限界ギリギリの生活だ。むしろ限界を超えた日々を過ごしているといっても過言ではない。今日の嘘吐き度は70%を超えたといったところだろうか。まったく、良心が痛むぜ。いや、痛まないけどさ。
『じゃあ、じゃあさ、わたし近いうちにそっちに様子見に行くからっ』
 ……うん?
「って、はぁ!? な、なんで!?」
 いきなりの不意打ち。それはないだろ。
『だってお兄ちゃん全然帰ってこないしっ、心配だから……。姉様も様子見てこいって言ってるし』それに、と妹は付け加える。『お兄ちゃんの漫画、見てみたいしねっ』
「で……でも俺バイトとかで、その、忙しいから……」
 妹の本心からの期待に対してなんだか罪悪感が沸いてきたよ。仄、お前はその美しい心をなくさずにすくすく育ってくれよ。ちなみに俺は今、何もバイトはやってません。
『あっ、姉様が呼んでるから電話もう切るね。それじゃあまた、ばいび〜』
「あっ、ちょ」
 ガチャリ。ツーツーツー。
 感慨に耽っていたら一方的に電話を切られてしまった。と言って、かけ直すのも癪だ。
「絶体絶命だな」
 俺の故郷である田舎の風景が脳裏に浮かんだ。そうだ、俺はあんな場所にいるべきじゃないんだ。俺はやっとここまで来たんだ……戻るなんて考えられない。ここに住み始めてそれは余計に実感した。くそっ……せっかくここまで逃げてきたっていうのに。
「はぁ……漫画家かぁ〜……」
 でもよく考えてみれば俺にはもう、そういうクリエイティブ的な事でしか未来はないんじゃないかってそう思う。俺の事だから就職したとしても、すぐに辞めてしまいそうだし……。確かに漫画だったら紙とペンさえあれば一人でだってできる。
 会社に行って煩わしい人間関係やらに悩むより、自分だけで完結できる仕事の方が、ずっと俺に向いているような気がする。どうせ俺の人生このまま進んだって明るい未来はないってこと、なんとなく分かっちゃったし……だったらやりたいことやった方がいいよなぁ。今思えば、あの娘は俺の事を全部お見通しだったってことなのかな。
 ……やっぱりもう少し頑張ってみようかな。


 俺は今日、平日の昼間から街を歩いていた。特に目的はなかった。……こんなことじゃ駄目だと分かってはいるんだが……。
 ふぅ、それにしても暑い。もうすぐ夏なんだな……今頃学校では授業の真っ最中なんだろうな。うん、俺は一体何をやっているんだろうな。
「どうしよう……とりあえずどうしよう……」
 現在高校2年の妹、仄が俺の様子を視察しに来るらしい。ここで何らかの成果を見せなければ俺のモラトリアムはジエンドだろう。
 と言っても何をどうすればいいのか分からない俺は、とりあえず本屋に立ち寄って漫画指南書の類の書物をなんとなしに眺めていた。……そして立ち読みして再確認した。やっぱり俺には無理。
「仕方ない……漫画家は諦めるか……」
 俺には漫画の才能はない。あの後も頑張ってみたけれど結果は惨敗。話を創るのはともかく絵の技術が皆無だったし、これから身につけられるとも到底思えなかった。正直、俺の画力は園児並だ。そしてそれは同時に朱主ちゃんのアシスタントが勤まらない事も意味している。
 っていうか話を創るのはともかくと言ったが、ともかくじゃねぇ。同列に無理。同じくらいに無理。つまりお手上げ。降参です。
「やっぱ世の中甘くないよな……」
 妹の問題もあるし、それ以上に現実的な問題として貯金がほとんど底を尽きかけている。このままだともってあと2、3ヶ月でこの生活は終焉を迎えてしまう。
 そうなれば俺はどうなってしまう――それは考えたくもなかった。
 陰鬱な気持ちになった俺は、自分の住む安アパートに向けて踵をかえそうとしたが、しかし思いとどまる。……やはり遠出をしてこんな街にまで来たんだ。ついでだから、あれを見ていくか、とそのまま足を進めた。
「さすが出版社……やっぱでけーな〜」
 着いた先は天下の才文社。漫画や小説等の出版会社である。そう、漫画家を目指すならそのモチベーションを上げる意味でも――まぁ比較的近場にあるということを偶々知ったから、というのが大きいが――出版社に立ち寄ったのだ。
 それにしても……ああ、これが俺の見ていた世界なのか。とても、高いな。
 俺は才文社の前でその高くそびえ立つビルの様相を見つめていた。
「まっ、けれど俺には縁のない場所だよな……」
 しかし、その時だった。そう……後になって考えてみれば、確かにあの少女が言っていた事は正しかったのかもしれない。俺の歯車は既に、その時には廻っていた。
「……えっ? あれ、ウソっ? マっジで? オマエ、路久佐公人(みちくさきみと)じゃないか!? こんなとこで何やってんだよっ」
 空高くに目線を上げていた俺の背後から声がした。
 言葉遣いからは想像できないがそれは女の声。俺には聞き覚えのあるものだった。いや、というよりすぐに分かった。こんな奴1人しか知らない。俺にとって意外な人物だ。俺は信じられないと思いながら振り返る。
「あ……在兎(ありと)……なんでここに……」
 そこにいたのは小中高と同じ学校に通っていた、地元の幼なじみの姿であった。
「あの日以来だよな……公人。まさかまたオマエに会えるなんてな」
「……久しぶり。どうしたって言うんだよ、お前」
 そう、どこに行ったって俺は、あの場所とは縁が切れた事にはならないんだ。
「久しぶり……いやさ、オレ実はちょっと仕事で来たんだけどさぁ……」
 と、俺の幼なじみの在兎は俺が見ていたビルに目を配らせて、口を渋らせた。
 肩口まで伸びた無造作な金髪に、気怠そうだけどもサバサバした性格とボーイッシュなファッションは、相変わらず一見すると男なのか女なのか分からない出で立ちだった。(でも胸は意外とでかいんです)だけど――極めつけはその男言葉。俺の田舎の変わった連中の中でも一際変な奴だった。そんな特異な存在である在兎が才文社で仕事だって? なんだかわざとらしい説明口調だな……。
「え……? お前ここで仕事してるのか? 編集者なのか?」
「あー……いや。まぁ、隠す必要もないか。オマエだから正直に言うよ。実はオレ……いま小説家やってんだよぉ」
 なんというか、ほんと歯車は廻りだしたというか……それにしてもできすぎていて……むしろそう、それこそ小説の世界だ。
「ははっ……マジかよ……笑えるよ」なんだか軽いトリップ状態になった。
「そうか〜? オレが小説家なのがそんなにおかしいか〜……にゃはは」
 照れ隠しか、周防は俺の肩をぐりぐり押してくる。地味に痛い。やめれ。ていうか、そのでかい胸がちょっと当たりそうな。
 ああ、けれど、うん……いっそ心地いいよ。いいだろう、だったら俺もあえて身を任せてみようじゃないか。乗ってやるよ。この先に一体どんな物語が待っているのか。
「いや、そうじゃなくてさ……俺も小説家になりたい」
 だからいつの間にか、俺は思わずそう口にしていた。この瞬間けたたましく鳴いていた蝉の声が確かに止んだのを肌で感じた。


 俺は今、才文社ビルの向かいにあるカフェでテーブルに突っ伏し、コーヒーをすすりながら、待ち人の到着を落ち着きなくキョロキョロ見渡していた。俺は挙動不審者か! って危うくセルフ突っ込みしそうになった。自重自重。
「よ〜う、待たせたなっ。打ち合わせ長引いちまってな〜」
 そんな事考えてたら、いつの間にか目立つ金髪頭の在兎が姿を見せた。2時間ぶりの再会。つか俺は2時間もこんなくだらない事を考えていたのか。
「あ、いや。どうせ俺暇だし、誘ったのそもそも俺だし」
 姿勢を正し、なぜか少々緊張する俺。まぁ、そうだろう。だって在兎は小説のプロなんだし、それに……こいつは俺と同じ地元で生まれ育った人間、なんだから……。
「ふ〜ん、じゃあいいけどさ……にしてもすごい偶然だよな〜。高校卒業して以来だな、オレ達が会うの。こんな大都会でさ」そう言って向かいのイスに腰掛けた在兎。
「まぁ、そうだよな……でもお前が小説書いてるなんて知らなかったよ」
「うん……そんなに言うことでもないかな〜って思ってな……それより公人は今何やってんだよぉ?」
「う……えと……一応大学生って事になってるけど……休学中」
「はっはぁん、要するにニート。だから小説家、ねぇ。相変わらず短絡的だな、オマエは。けれどそうかと思えば時々とんでもない行動もするからな。よくオレを変人扱いしてるけどオレから見ればオマエが一番の奇人だよ、昔からずっと……まぁ積もる話はひとまず置いといて……さぁ、今度は一体どんな事件を起こしてくれるんだかな」
 よく言うよ。こんな平凡・無個性でキャラの立っていない俺を捕まえてこいつは何を言うか。どう考えても俺より、俺を取り囲む人間達の方がずっと強いキャラクターを持っていると思うんだが。でもそういう奴らに限って俺が一番変人だと言うのはどういう事か。ま、奴らにとっては普通人が一番の異常なんだろう。よく分からんよ。
「いいじゃないか、俺だって色々事情があるんだ。それよりその小説家の件なんだが」
「ああ……そうだな。ところでオマエはどうして小説家になりたいんだ? 色々な事情を詳しく聞きたいなぁ。なぜならオレは小説家だからな、他人の人生が気になってしょうがないんだよ。フッフ〜ン」
「ああ……うん、なんというか……」
 俺は素直にことの詳細を在兎に語ることにした……。

「ったく、やめとけ。公人が思っている以上に小説を書くのは大変なんだ。漫画は無理だから小説ってなぁ。オマエこれまでに一冊だって書いたことがないんだろう?」
 俺の話を一通り聞いた後、ため息を吐いて在兎は言った。ま、予想してたけどね。
「いや……でも小説だったら俺でもできそうだよ……だって文字さえ打てたらいいんだから……それにそう、小説でもライトノベルとかだったら文章も簡単そうだし、俺でも書けるってっ。そうだ、俺ラノベ作家になるよ!」
「そうだ京都いこうみたいなノリで……はぁ……ホント公人は、久しぶりに会っても相変わらず……だな。まぁお前がニートなのも頷ける訳だし、驚きもしなかったよ」
 うっ、在兎があからさまに俺を軽蔑した目で見てる。しかし俺はこんなところで負けないぞ。今回は俺の人生がかかってるんだ。簡単には引けないぞ。
「いいかぁ? 確かに小説は文字が書ければそれでいいのかもしれないがな〜、その文字――あるいは言葉こそがどれだけ崇高なものか理解してないだろ?」
 在兎が追い打ちをかけるように畳みかけてきた。なんか嫌な予感。
「崇高……文字が?」
「ああ、そうだ。言葉や文字は人間にだけ与えられたものだ。古来より人は、世の中のあらゆる森羅万象に言葉と文字を当てはめることによって存在を定義してきたのだっ」
「はぁ……? それって名前を付けるってこと?」在兎のペースに入ってもうた。
「より正確に言えば、名前を付けて初めてその存在を認識させるんだ。名前を付けられなければ永遠にそれは存在しない。大切なのは認識、知覚……たとえ正体が分からなくても、名前という記号を付けてカテゴライズし、共通認識することが重要なんだ。そうすることで存在のなかった未知そのものを認識できて、やがてはそれに対して、言葉によっての説明という、存在に対しての解明がなされていく」
「そういえばそうだな……たとえ分からなくても存在を知っていたら、いずれ証明はされる……存在を知らなければいつまでも世界は謎に包まれたまま……か」
「ま、そういうことだ。そうやって全ての存在を克服していく。人は名前を付けていくことによって世界を切り開き、今の社会を生み出したといっても過言ではない。人類だけに許された究極の力。それこそが文明なのだよ、公人く〜ん」
「すごい大げさだな……」
 やっぱり小説家となるとうんちくをくどくどと語りたくなってしまうものだろうか。一種の職業病? と言ってもこういう場合、たいてい相手には半分も理解できないものなんだよね。少なくとも俺は……うん、ちょっとついて行けませんな。
「大げさでもオレはそう感じるよ。だから文字を甘く見るなよぉ、公人。それは人類の叡智の結晶だ。半端な気持ちじゃ、オマエが言葉に飲み込まれるぞ?」
 なんか今の状況、周防の彼女が放っていたフィールドに似た空間だよな。異様な雰囲気というか……俺には向いてないよ。
「けれどどうせこのままだったら3ヶ月後には実家に強制帰還する事になるんだ。俺は絶対小説を書いてやる」
「そうなのか……実家、か。それは随分……嫌、だろうな。そっか、だからオマエこっちにいるんだな……分かるよ。公人」
「……ああ、そうだ。だから俺は今回こそ絶対にやる」
 怖じ気づきそうになった心を奮い立たせるように、力強く断言してみせる。この空間に飲み込まれないように。
「……分かったよ。止める気はないよ。やるやらないは個人の自由だ。オレも小説家の端くれ、それに腐れ縁のよしみだ。助言程度はしてやるさ〜」
 やれやれといった様子だが、今の在兎は救世主にも見えてくる。
「ほ……本当かっ、ありがとう在兎っ! さすが俺の良き幼なじみっ。これからよろしく頼むなっ」
「ふ、ふんっ。これはオマエの為でもあるが、オレの次の作品に向けての研究にもなるからな……ま、まぁでもオレに感謝しろよなっ」
 かわいい奴め、少し照れている様子だ。思わず在兎の頭を撫でてしまった。
「にゃ!? い……いきなりなにすんだよ! いや……べ、別にいいんだけどよ……」
 予想外にも在兎が俺の手を振り払わなかったので、俺は自ら手を在兎の頭から降ろす。てっきりパンチが飛んでくると思ったんだけど。逆に俺が戸惑うよ。
「で、俺は具体的にまずどうしたらいいんだ?」
「や……あぁ、そうだな。オマエがプロのラノベ作家になりたいならまずデビューしなければな。いくつか方法はあるけど……やっぱり新人賞に応募するのが無難だな」
「まぁ、それくらいは分かるけど……というか俺もそうするつもりだけど、他にどんな方法があるのか一応教えてくれよ」
「いいぜ、一つは持ち込みだ……けど、漫画の場合と違ってラノベはほとんど受け取って貰えないし、迷惑にしか思われないな……これは全然一般的じゃない、むしろ異例」
「そうなのか……? なんでラノベは持ち込み駄目なんだ?」
「というか、小説全般だわさ。で、それは簡単な理由だ〜よ。小説は漫画と違い一つの品を読むのに時間がかかるだろ? 持ち込まれる作品一つ一つ見ていたらきりがない。だから新人賞でまとめて作品を集めて、下読みを雇い一気に吟味する方が、時間も人手もあまりかけずに効率的にチェックできるというカラクリなりよ」
「なるへそねぇ……他には何がある?」
「あとは〜、自分のホームページや小説の投稿サイトに作品を載せたり、個人で小説を発行してイベント等で売ったりとか……そういった同人活動を続けて、出版社から目を付けてもらうとか……かなぁ」
「う〜ん、なんかこれも時間がかかりそうっていうか……やっぱ俺は無難に新人賞応募でデビューを目指す事にするよ」
「ま、そうなるわな……でさぁ、応募するレーベルは決めているのか? 自分のやりたい作品の特徴に合わせたレーベルを選んだ方がいいからな〜」
「あ、いや……別にどこでもいいんだけど……そうだ、募集してる賞で一番締め切りが近いやつってあるか?」
「はぁ……アンタって人は……う〜ん。他のとこはあまり知らんが才文社のラノベ新人賞なら、確か1ヶ月後が締め切りになってたと思うけど……」
「さ……才文社……」思わず俺は窓ガラス越しに見える巨大なビルを眺めてしまう。
 本当に、なんて運命なんだ……出来すぎじゃないか……。これは半ば決定されているようなものじゃないか。途中で行き詰まって放置していたゲームだけど、ここでようやく攻略の糸口が見えたような。なら、人生はゲームというのも頷ける……停滞していたゲームが再び再開されそうな気がして……。俺は、決心した。今こそクリアの時だ。
「よしっ、決めたっ! 俺はそのラノベ新人賞に投稿するっ!」
 思わず席を立って俺は高らかに宣言した。ガッツポーズも決めてやれ。
「お、おいおい……本気かよ。素人が1ヶ月って……いくら時間があるからって無謀だと思うぜ? それに焦って書いてもいいものはできないぞ〜? っていうかまず落ち着け。座れ。ガッツポーズを解除しろ、恥ずかしいっ」
「今の俺ならできそうな気がする。心配するな、大作を仕上げてやる、在兎の為にも」
「……」
「……ん? どうした?」
「んにゃ! い……いや、なんでもない。そ、それじゃあとりあえずは一ヶ月頑張ってみなっ。相談にはできるだけのってやるっ。ついでに連絡先も交換しておくか」
 在兎は早口に言った。なぜか少し顔が赤くなっているような気がした。そんなに恥ずかしいのか、俺の存在は。
 そして俺達がケータイのアドレスを交換している時だった。
「兎奈々偽先生」
 いきなり――スーツ姿の若い女性が俺達の前に現れた。
「あっ! 仮夢衣さんっ。どうしたんですか? 何か用件でも?」
 在兎が立ち上がって反応した。どうやら知り合いのようだ。……ていうか兎奈々偽って、え? 在兎のペンネームか? すげー。すげー……イタイ。
「ええ……用件という訳でもないんですが、姿を見かけたんでちょっと新作の微調整をと……」どうやら仕事の話をしたいらしい。
 そして彼女は俺の存在にようやく気付いたみたいで、
「ところで……こちらの方は?」俺を窺うような目で見つめるスーツの女性。
「ああ……こいつはオレの地元の同級生です……さっき偶然出会ったんですよ」
「そうですか……初めましてこんにちは、私は才文社で編集をやっております、小岩井仮夢衣(こいわいけむい)と申します」丁寧な物腰で会釈する。
 キリッとした綺麗な顔に、インテリ風な眼鏡をかけて、身だしなみもキチッとしていて、いかにも真面目なやり手キャリアウーマンって感じだ。年齢は俺よりちょっと上くらいか? 若いのに凄いよなー。俺とは大違いだ。
 思わず物怖じしそうだった。
「あ、こんにちは。俺は路久佐公人です」
 俺も負けじと挨拶するが、なんか既に負けてる感じがした。というか俺は劣等感で構成されてますから。あらゆる人間に対してコンプレックスを持ちます。そんなスキル。
「丁度いいや、仮夢衣さん。こいつラノベ作家になりたいそうで、来月の新人賞に送るそうですよ」
 って、いきなり言っちゃったよ、こいつは! 昔から口が軽かったからなぁ!
「え……そうなんですか? あなたが」
 測るような目で俺を見つめる小岩井さん。
「しかもこいつ、今まで小説とか書いたこともなくて今日から書き始めるって言うんですよ。面白いでしょ? それでオレに指南してくれって言っちゃって、ハハ」
 ハハじゃねぇ。どうでもいいけどホントに口軽いなあ! どうでもいいついでにこいつは自分の担当編集者に対しても一人称はオレで通すんだ。感心するよ、まったく。
「は……はぁ……そうですか……でも良かったですねぇ、路久佐さん。兎奈々偽在兎先生といえば将来の小説界を背負って立つと言われる期待のホープ……いえ、天才とまで呼ばれる大先生なんですよ。そんな方にご指導いただけるなんて……」
 そう語る小岩井さんの口調はどこか皮肉めいたものに聞こえるが俺の被害妄想か?
「っていうか、そんな凄い奴だったの……在兎」びっくりだ。
「いや……そんなのただのお世辞だ。言わせとけばいい」苦々しい表情の在兎。「じゃあ、公人。オレは用ができたから今日はこの辺で……またな」笑顔で在兎は席を立った。
 あいつもあいつで色々忙しいんだなぁ……ん? 見れば小岩井さんが在兎の後を追おうとせずに俺の顔を厳しい表情でじっと見つめていた。
「あのぉ……どうかしましたか?」恐る恐る尋ねてみる。
「いいえ……特に何もありません。精々頑張って下さいね、執筆。せめて完成させられるように……兎奈々偽先生の顔を汚さない為にも、ね」
 小岩井さんはくるりと背を向けて在兎の後を追っていった。綺麗な顔に似合わず、少々きつい性格のようだ。
「……はぁ、そうだな……もうこれで逃げ道はなくなったな」
 目指すは1ヶ月後の才文社ラノベ新人賞。俺はこれに全てを賭ける。



 V


 駄目だ。全っ然書けない。
 あれから数日、俺の執筆は全くと言っていいほどに進まなかった。むしろストーリーすらも考えられなかった。ベストセラー作家であるらしい幼なじみの在兎にアドバイスを貰ったりもしたんだが、
『小説をいきなり書こうなんてのは素人じゃあまず無理だ。普通はまずプロット――つまり話の骨組みを作って、それを元にして話を創っていくのが小説創りの王道だ』
 と言われてみてもそれすら難しい。どうしても単調で矛盾だらけの荒唐無稽なストーリーになってしまい、しまいには破綻してしまう。そもそもどんな話を書きたいのかも分からない。
『ていうか公人、普段小説とか読まないだろ? 色々な作家の小説を読むことで自分の力が少しずつ身につく。読書するやつが本を書く、本が好きだから本を書く。結局それが基本なんだ。オマエみたいな奴が一ヶ月で小説を書こうというのが無理なんだ』
 と言われたので、古本屋で何冊かライトノベルを購入して読んでみたがやはり自分で書くとなると難しい。何かいいネタはないのか。
『そぉだな〜、話創りというのは本人の経験した体験の積み重ねの引き出しから出していく行為でもあるから、公人の経験を書き連ねてみるのはどうだ? あと普段から日記を付けてみたり夢の内容を書き出していったりとか……色々な人の話を聞くのも身につくよな。特にオレなんかそれこそ小説家なんだしピッタリじゃん! それにほら、公人が言ってた例の漫画家とかも凄く変わってるんだろ? なんかアドバイスしてもらったりするのもいいんじゃねえか? 面白い話が聞けそーだぞぉ』
 と、言っていた。はぁ……なんだかすごい大変な事になってきたなぁ、思ってたよりもずっと。そういえば俺、今まで何か自慢できるような人生経験なんて何も積んでこなかったよなぁ。ほんと俺には何もない。これから霞を食って生きていけとでも言うのか。けれど仙人になるには俺はあまりにも堕落しすぎちまってるぜ。


 というわけで、小説の物語を考え考えの毎日で頭がパンクしそうになった俺は、現在気分転換に近所の本屋に来ていた。平日の昼間だった。遠くからセミの声が聞こえていた。暑い。もう夏は来ていたんだな。
「……むぅ、それにしてもライトノベルというのはこんなにたくさんあるんだなぁ」
 普段本なんて全然読まないからその辺のことは疎いんだよね。これも勉強。いっちょ蝉の声をBGMにラノベ立ち読みとしけ込みますか。
 ――けれども俺が一心不乱に、巷で人気の小説を漁っていると、後ろから突然声をかけられた。
「ふははっ、奇遇ねえ。こんなところで会うとは……やはりこれも私とあなたの縁」
 悪寒がした……。なんだ? この独特の台詞回し……。人間の発する言葉じゃない!?
 振り返った先にいた少女は周防の彼女――そう、確か……シュリちゃん? だった。人の顔を覚えるのが苦手な俺でもこんな強烈な個性を持った少女を忘れられることができるだろうか……いや、結構忘れかけてたんだけどね。あと1日遅かったら危なかったぞ。シュリちゃん。
「シュリ……ちゃん? な……なんでここに……ていうか学校は?」
 とりあえず今は驚く。
「……私の名前は朱主よ……むぅ」
 ……ごめん。朱主ちゃんだった。名前の方はすっかり忘れてたみたい。
「ふ……ふんっ。そ、そんなことはいいんだけれどね……学校……ね。ま、それもいいのよ、そんな話は。このシーンでは必要のない、取るに足らない些細なことよ」
 でもやっぱりちょっと怒ってる? ごめんね。制服に身を包んだ朱主ちゃんは不機嫌そうだ。そう……今日はまともなセーラー服姿だった。
「あなたとの再会シーンにしては……私としてはこんな格好不本意だけれどもね。これじゃあ全然逸脱していない。物語が発生しにくい。全ッ然、駄目駄目よ」
 相変わらずよく分からない事を言う少女。服装が普通だったので厨二病が治ったのかと思ったが、そこは心配することなかれ、相変わらずの安定したキャラ設定だった。
「あ……ああ、そうっすか……。ところでえ〜と……」
 あまり朱主ちゃんの世界に引き込まれたくない俺は適当に話を変えようと試みる。
「そう言えばぁ、自己紹介がまだだったわね? 私としたことが不覚ッ。名前を名乗るという事は物語においてとても重要な意味を持つというのに……まぁいいわ、あまりもったいぶるのも支障をきたすかもしれない。ふん、出会いのシーンというのはクライマックスのシーンと並んで重要な地点。私の高校の裏山とかそういうドラマチックな場所がふさわしいのだけれど……」
 なにやらぶつぶつ呟いている朱主ちゃん。登場開始早々、早くもアクセル全開の様子だった。もう俺には止められそうにないぜ。さわやかな汗が流れた。
「こんな状況でというのもあるけど……タイミングを逃したなら仕方ない……裏山はクライマックスにとっておくわ。私は、紅坂朱主(こうさかしゅしゅ)。あなたの呼びたいように呼べばいいけど……ま、朱主ちゃんでいいわ……その方がらしいからね」
「は、はぁ……朱主ちゃん……よろしく」本当に変な子だ。最近の女子高生はよう分からん。「えと、俺は路久佐……路久佐公人だ」
「そう、ではあなたの事は公人と呼ばせてもらうわ。よろしく、公人」
 この子年下なのに随分態度でかいなぁと今更ながらに思ってみた。てか、俺は君の事を『ちゃん』付けなのに、君は俺を呼び捨てで呼ぶんだね……いや、別にいいんだけど。
「それで? さっき何か言いかけてたみたいだけど?」と、いきなり朱主ちゃんは言う。
「ん、そうだ。えっと、朱主……ちゃん。周防とはあれからどうなったんだ? あー、言いたくないなら別にいいんだけど……」
 ずっと気になってた事をズバリ聞いてみた。この子の場合、回りくどく行かない方がいいだろうし、俺も苦手だ。俺が得意なのは誤魔化すのと曖昧に濁すことと保留だ。
「別れたわ」ズバリ、あっさりと一言。
「そう、別れたのか……」まぁ予想していたとはいえ……ってところか。
「でも勘違いしないでね。これはどちらかが一方的に振ったとかそういうのじゃないのだから。基本的には私の方から人間関係を切った事なんて、意外に思うかもしれないけど、1度だってないのよ……だってそんなのもったいないじゃない?」
「……」っていうことは同時に、それだけ朱主ちゃんと付き合っていく事は困難って意味なんだろうな。こんなに可愛い顔してるのに。残念な子だ。
「つまり今のところ全員が不適合だったってこと。あなたはどうなのかしら? 公人」
「いや、俺は朱主ちゃんと付き合うとかそんなつもりないから……」
 一瞬、誘惑に駆られそうになったが、初彼女が朱主ちゃんはいくらなんでもハードル高すぎだろ。残念だが。それにしても何のテストなんだよ一体。
「それにさ……朱主ちゃん、付き合うってことを何か勘違いしてるでしょ? 付き合うってのはそういう遊びとか試験とかじゃないんだよ」
 珍しく正論を言ってみる。年長者としての威厳を見せてやれ。
「な、何よっ。彼女いない歴=年齢の人間に言われたくないわよッ」
「なっ――なんでそれを知っているんだっ!?」
 まさか、また俺のモノローグを読まれたかっ? 能力者か!? 俺の威厳は一瞬で崩れ去った。そもそもそんなもの最初からないんだけど。
「ふ、ふん。そんなのあなたを見たらすぐに分かるわ。私は漫画家だから人間観察には自信があるのよ、この……童貞っ!」
 な〜るほどね、そういえば彼女は漫画家だった……でも童貞はいっくらなんでも酷いよね〜……というか待て……漫画家、だと……! そうだよっ。そうだったよ!
「し、朱主ちゃんっ。ちょっと相談したい事があるんだけど時間大丈夫かな?」
「? へにゃ?」


 気付けばここは現役女子高生の部屋。なぜ俺はこんなところにいるのだろうか……。下手したらこれは犯罪行為になるんじゃないだろうか。
「コーヒーを煎れてきてあげたわよ」そこに現れたのはワンピース姿に着替えた朱主ちゃんの姿。「安心なさい、ここに住んでいるのは私1人だけ。他には誰もいないわ」
 何を安心するんだい、朱主ちゃん。これは一体何の伏線なんだい? 逆にこの状況、朱主ちゃんは安心できないんじゃないだろうか。
 俺は今、高層マンションの一室に来ていた。漫画家の朱主ちゃんに俺の執筆活動にあたってのアドバイスを頂こうと思って。しかしいきなり一人暮らしの女子高生が住むマンションだなんて……。ていうかその歳で一人暮らしって親は何も言わないのか。
「ふん、親……ね。どうでもいいわ、あんな人達なんて」
 朱主ちゃんの表情が曇ったような気がした。複雑な家庭の事情ってやつか……。踏み込まない方がいいのかな。
「それで……相談っていうのは? 私のアシスタントの件なのかしら?」
 しかし特に気にした様子もなく、小綺麗な部屋の真ん中に設置された小さなテーブルにコーヒーカップを置き、俺の向かいに朱主ちゃんは腰掛けた。
「いや……近いけどそうじゃないんだ。どうやら俺には漫画はむいてないからな……だからライトノベル作家になることにしたんだ」
 正直に言った。むしろ誇らしげに言った。朱主ちゃんはそんな俺を呆れるだろうか?
「そう、やっぱりあなた……いいわね! 本当。もしかしたらこの物語……あなたの方が私を凌駕しているかもしれないわ……悔しいけれど、それも仕方がない」
「え〜と……、朱主ちゃんが言ってる事がよく分からないんだけど〜……」
 とりあえず、君は僕のことを幻滅しないでいてくれるのかい?
「気にしないで。私はあなたに全面的に協力するということよ。それで何が聞きたいの?大方どんな物語を書けばいいのか分からない、っていったところでしょうけど」
「そ、そうなんだよ……まさに。で、小説家の親友に色々と助言して貰ったんだけど上手くいかなくて……漫画家の君の意見も聞いておこうと思って」
「しょ、小説家の親友……!? あなたそんな親友がいたのっ?」
 さすがの朱主ちゃんも心底驚いたような顔をしてた。なんだか得意げな気持ちだぜ。
「ああ、まぁな。幼なじみなんだけど偶然この街で会ったんだよ……」
「ひゅ……ふふっ、そ、そうなの……。本当にあなた面白いわ……だからこそ、あなたみたいな面白い人が普通に小説を書こうというのがまず間違っているんじゃない?」
「へ……どういう事?」つまり俺には無理だと?
「だからね、正攻法でいくんじゃなくてあなただからできる究極のルートが1つあるのよ……だってあなたこそが今、物語に組み込まれているのよ……つまりあなた自身をリアルタイムに書けばいいんじゃない? 下手な話よりよっぽど面白いわ!」
「え……え……? それって、自分の経験したストックから引き出せってこと?」
「いいえ、違うわ。だってあなたの人生、特に何も語るような出来事なんてなかったんでしょう? はんっ。あなたを見れば分かるわ。あなたの自伝なんて出版されても、世界で2人くらいしか買わないわよ」
 よくまぁ、さらっと言えるよ。そして逆にその2人が気になるよ。あ、1人は俺ね。
「じゃあ何も書くことなんてないじゃん」敢えて反論はせぬ。俺もそう思うから。
「そうじゃなくてね、公人。今までの人生の事じゃなくてね。今からの人生を書いていくのよ。つまり自分の行動したとおりに日記をつけるようなものよ。簡単でしょ?」
「なっ、そんな……そんな話面白くもなんともないだろ……」
 俺の毎日なんて面白くもなんともないぞ。大事なことなので反復しました。
「いいえ、面白くなるのよ、これから、ね。あなたならできるわ。私は確信してるの……あなたはこれを書くために私と出会った。これを書くことがあなたの運命っ!」
「はぁ? そんなのなんで分かるんだよ。それに運命って……」
 これを書くために出会った……周防にも似たようなことを言ってたのを思い出した。
「つまりメタなのよ、この世界は。この世界こそがあなたの物語の中の世界……あなたの為の世界……。思い出して、あなたが私と初めて会った時に言ったわね? 歯車は回り出したって……そして今この瞬間、世界はライトノベルに組み込まれたのよ!」
「そ……そういえば言ってたような」
 よくそんな台詞堂々と言えるな。確実に黒歴史になるよ、朱主ちゃん。
「よく考えて? 私と初めて会ってから、あなたの日常はこれまでよりもドラマチックに……内容が濃く、意味をなし、物語性を帯びたものに変わったんじゃないかしら?」
「い……言われてみれば確かに」
 偶然が積み重なったような出来事……それは運命とも言い換えられる。
 だってそうだろ。地元の親友との偶然の再会に、しかもそいつがなんと売れっ子小説家だなんて……こんな予定調和あるだろうか。
「そうよ! まさに何らかの筋書きに沿って自分が進んでいるような気がしてきたでしょう? あなたは完成させなければいけないのよ、自分の手であなたの物語を! それがあなたの使命。あなたは世界に選ばれたの。ならきっと、あなたが納得できるような作品が、あなた自身の身によってこれから体験することになるわ〜!」
「でも、こんな突拍子もない話……信じられない」
「猶予は1ヶ月しかないんでしょ!? これは修羅の道。たとえ心が迷ったとしても他に道はないわっ。この道を信じて進むしかない。自分を信じてやるしかないのよ!」
「……わ、分かった。どうせ考えたって他にストーリーは浮かばないんだし、駄目元でとりあえずやってみるよ……自分自身をリアルタイムに書いていけばいいんだな?」
「ええ、そうよ。あと、できるだけ物語に巻き込まれる事も忘れずに、ね……いえ、そんなのは意識しなくてもおのずと向こうからやって来るわね……。ああ、それとこれからは、執筆する時はできるだけ自宅以外の場所でやって頂戴」
「えぇ? な、なんで?」
「勿っ論、ずっと自宅でキーボードを叩き続けるだけの描写なんて画にならないじゃない? 書を捨てよ、街に出よ……ってね」不敵な笑顔で少女は言った。「それじゃあ、物語に行き詰まった時は、私に相談しなさいよね」
 そして俺と朱主ちゃんとのドキドキな邂逅は終わった。結局俺の期待するようなイベントは起こらなかった。なんだよ、期待させるだけさせやがって。え? 何を期待してたんだって? そりゃ女の子の部屋だぜ……言わせんなよ、恥ずかしい。


 深夜、とあるネットカフェの一室、俺はパソコン画面と睨めっこをしていた。
「う〜ん……俺を書くって言ってもなぁ」
 俺は迷っていた。自分自身を書くといっても勿論、実名は出したくないからそこは変更するが、本当にありのまま書いていいのだろうか? 
 っていう事はこの小説の物語はライトノベル作家を目指す男の話となる。その他の登場人物は? 整理してみよう。
 まずはなんといっても紅坂朱主。彼女はこの企画の発案者。当然物語の重要人物になるだろう。それに在兎……えと、ペンネームは兎奈々偽在兎だったな。俺が小説家の道を目指すきっかけとなった人物だ。彼女も外せない。
「……いや、待てよ」俺は重大な事実に気が付いた。
 この話が小説ならば重要な点が一つある。主人公は勿論俺として、だったらヒロインは誰になるのか?
「やっぱり朱主ちゃんって事になるのか……?」
 一応、俺にも憧れの人みたいなのがいるんだけどなぁ……。この物語には到底絡んできそうにないや……入り込む余地が全くないし……がっくり。
「いいや、とりあえずヒロインは今は不在って事にしとこう」
 あとの登場人物は……、まず朱主ちゃんと出会うきっかけとなった周防に宮下。他には……そう、俺を地元に強制送還せしめんとして、俺を現在の窮地に追い込んだ妹も出しておくべきだ。もうすぐ登場しそうなフラグまで用意していきやがったからな……。うん、もうこのくらいでいいかな。新たに登場する者も現れるかもしれん。
「っと、そうだ。一応在兎の担当編集者も登場させておくか」
 確か小岩井仮夢衣さん……だったっけ。うろ覚えだ。
 登場人物を一通り洗い出したところで俺はさっそくここ数日の記憶を頼りに文を書き出していった。

「ふぅ……とりあえずといったところか……」
 数時間経過後、一応は小説としての体を保っているとは思われる文は執筆できた。以前はあれほど進まなかったのが嘘のような、驚異的な速さだった。天才誕生か?
「やっぱ自分の体験した通りそのまま書くってのが良かったんだな……」
 自惚れはしない、朱主ちゃん様々だ。俺は何も持っていないからこその俺なんだから。
 物語は冒頭のモノローグ後、俺がファミレスで周防と宮下の3人で会話しているシーンから始まり、そこに周防の彼女である朱主ちゃんが現れ、俺にインパクトを与えて立ち去り、俺と朱主ちゃんの出会いが終わる。
 その数日後、実家の妹から電話がかかって、今の生活のリミットを感じた俺は漫画家になると言ってしまい、さらに近いうちに妹がこっちに来るという伏線を張っていく。
 さらに数日後、漫画家になるのを諦めかけた俺は街で偶然に、地元で幼なじみだった親友の在兎に出会い、小説家になることを決意。
 しかし、どんなに頑張っても執筆作業が進まない俺は、本屋で偶然に再会した朱主ちゃんに自分自身を小説化しろと言われ、小説内小説を書くことになった。
 ……というストーリーだ。
「なんか、すっごくややこしいよなぁ……」
 ラノベ作家を目指している男が書くラノベの内容が、ラノベ作家を目指す男の話……。劇中劇中劇ってところか……。
「なんだかマトリョーシカを彷彿してしまった」
 開けても開けても延々と箱が現れるのみ……。空っぽ。けれど最後の箱はある……そこを開ければ何が出るのか。やはり空っぽなのか。そして最後があるということは同時に最初の箱もあるということ。
 ……もしかすると果たして、俺自身も路久佐公人によって描かれている架空の人物であるというオチなのかも……それだけはやめて欲しいよなぁ……。笑えないし。
「……俺のラノベなんだから最後はハッピーエンドで終わらせたいよな」
 無限ループ。あるいはメビウスの輪、ウロボロスの蛇……。う〜ん、なんだかこのままだと不穏な方向に行ってしまいそうだぞ……。ホラールート突入か?
 朱主ちゃんの滅茶苦茶なオカルト話にちょっと影響されてしまったのだろうか。
「とりあえず仮タイトルはゲキチューと呼ぶことにするか……」
 劇中劇中劇、ゲキチュー。ちょっとかっこいいかも。ホラーっぽくないし。
「にしても、こうして書くと本当に物語として成立してるように見えるから怖い」
 これじゃあまるで世界が劇中劇じゃないか。俺は所詮あやつり人形なのか。だから……だからなのか? 俺は。だったら……俺は俺自身を納得できる。自分でも納得できなかった、分からなかった俺の正体が。
「……はぁ。なんだか疲れた」
 本日の執筆活動はここまでにして俺は眠る事にした――。

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第一章 または序章




 ゴールデンウィークも終わって間もないある日の放課後、路久佐公人(みちくさきみと)は部室にやって来るなり、パイプ椅子に腰掛けて文庫本を読んでいた紅坂朱主(こうさかしゅしゅ)に話しかけた。
「紅坂……ちょっと俺の話聞いてくれるか?」
「え、やだ」綺麗な澄んだ声で一言発する朱主。
「……って、いやっ、そんな即行拒否られても困るんだけど! 話続かないんだけど! まぁ、聞けって」
「くぅ〜……」静かに目を閉じる朱主。長いまつげが微かに揺れる。
「って、寝るなよっ! そんなに俺の話は嫌なのか!」
「ううん。公人は私の幼なじみなんだもん。だから公人が何も言わなくても、私は公人の言いたいことは分かるよ」くりくりした目を開けて、朱主は優しく微笑んだ。
 小さな部室の窓から差し込む太陽光に、朱主のサラサラした黒髪が照らされて……不覚にも路久佐は見とれてしまっていた。
 朱主は人形のような屈託のない笑顔のまま――言う。
「朱主は今日も可愛いね〜。ボクちんのお嫁さんになってくれちょんまげっ……はぁはぁ」
「いやっ、全く分かってねーじゃんッ! つーかお前、俺の事をそんな目で見てたのっ!? てか、ちょんまげ!? すっげーおやじギャグ! 全然つまんねぇ!」
 ショックを隠しきれない路久佐だった。あと、これといった特徴も個性も無い路久佐だが、強いて上げるならこのノリのよさが彼の持ち味だ。
 そして路久佐の幼なじみである紅坂朱主。スタイルが良く、運動神経も頭もいい。おまけに顔も整っていて、どこをとっても欠点が見つからない、いわば完璧超人。敢えて欠点を挙げるならS気のある性格だけであった。まぁ、そのSは主に路久佐に対して発揮されるのだが。
 そんなギラギラ輝く太陽のような存在の朱主の事が、路久佐は内心気にくわなかったが、幼なじみの腐れ縁として兄妹のような関係が続いていた。
「ああ、もう。このままじゃ埒があかない。勝手に話させてもらうぞ……」
 路久佐は呆れながら本題に戻すことにした。
「まぁ、強引ですこと……やめて下さい……私は……私はぁ」
 しかし朱主は変な喘ぎ声を発し始め、話を逸らす。
「よいではないかよいではないか〜」妖しい空気に感化され、路久佐の瞳に獣が宿った。
「あ〜れ〜」朱主がその場に倒れる。
 そして呼吸を乱しながら、路久佐が朱主の体に覆い被ろうとする。すっかり朱主に乗せられた路久佐は今まさに、過ちを犯そうとしていた――。
「って、俺は一体何やってんだよっ!」
 だが、朱主の体に触れる間際、すんでのところで路久佐は理性を取り戻した。
「さ、さすがに今のは純潔の危機を感じてしまった……っ。ノリの良さは分かったから……もう話始めてもいいんじゃないの?」
 路久佐の暴走ぶりに朱主は呆れ果てていた。路久佐は取り繕うように咳をして言った。
「……実はな、俺。なんか最近おかしいんだよ」ようやく本題に入った。
「違うよ。公人がおかしいのは昔からだよ。よかったじゃん。やっと自分でも気づけたんだね。それじゃあ私はピアノのレッスンがあるから……」
「嘘つけ! お前ピアノなんて弾けねーだろ! なんで何気に良く見せようとしてるのっ!?」
 冴え渡る路久佐のツッコミ。またもや速攻で本題から逸れてしまった。
「はぁ……分かったよ。なんか疲れたからさっさと話して。公人も律儀にいちいちツッコむから話が全然進まないじゃん」
「……誰のせいだよ。ま、いい。でだ、最近俺ずーっと誰かに監視されてる気がするんだよ」
 声を落とし、深刻な顔で路久佐は告げた。
「え? 監視? それってストーカーとか?」
 朱主は大きな瞳をぱちくりさせ、きょとんとしている。
「かもしれない。いや、やっぱ違う。……そう、なんか違うよな……。うん。観客に見られてるっていうか、まるで俺が舞台の上にいるような感じ」すごい曖昧。
「はいぃ? 意味がよく分からないんだけど。舞台って……あなた役者?」おちゃらけるような口調の朱主。
「いや、そうじゃなくてさ……やたらとコンビニ店員とかの視線が気になったりする時とかあるじゃん? あれの延長と言うか、周りの態度が演技臭いっていうのか……」
「演技臭いって……公人の体臭よりマシだと思うけれど」
「話の腰を折るなってのっ! そもそも俺の体臭は臭くねぇよ! ちゃんと風呂入ってるって!」
「えっ……あ、そうなの……あなたまだ気付いて……ううん、なんでもないわよ」
 やたらとわざとらしい笑顔で微笑む朱主。その笑顔が路久佐には辛かった。
「……そ、その手には乗らないからな。え……俺、まさか、な……あははは」
 ひょっとして俺、本当に体臭臭いのかも……と疑心暗鬼になりそうな路久佐だった。また一つ、癒えない傷が作られた。
「はいはい。分かったからムキにならずに。それで、結局公人はどうしたいの?」
 大きな謎を残しながら朱主は話をさっさと先に進める。
「ど、どうしたいって?」
「だから、公人は周囲の人間に見られてるって思っているんでしょ? 監視だか演劇だかよく分からないけど、そんなの思春期にはよくあることよ。私達もう高校生だもんね。気にすることはないわよ……ちなみに私はそんなもの小学校でとっくに卒業したけど」
 最後の方の台詞はぽつりと言って、朱主は路久佐を憐れむような目をして頷いた。
「やっ、ちょっ……そういうのじゃないんだってばっ……まるで俺が物語の登場人物みたいな……そんな違和感なんだよっ」ムキになって路久佐は興奮気味に答える。
「登場人物って何なのよ? それって現実が実は仮想世界なのかもしれないっていう、よくあるあれでしょ?」
「近いけど……違う。まるで自分の意思で行動してると思っていた事が、実は台本通りの行動にしか過ぎない、って感じかな。この世界は映画で、どこか見えないところにカメラがある。それでこの世界とは別の世界の人間が俺達を見ている……とか?」
「はあ……悪いけどね、公人。私にはそれ、あなたのいつもの馬鹿な妄想にしか思えないわ」
「うっ……それは……」
 これを言われると公人は何も言い返せない。
「ねぇ、公人。哲学か文学か心理学なのかは知らないけれど程々にね。あなたはライトノベルの書きすぎで現実と空想の区別がつかなくなってるの……いつもの悪い癖よ」
 追い打ちをかけるように朱主はたたみかけて、路久佐は完全に敗北した。
「それじゃあ私、そろそろ帰るから」
 朱主はパイプ椅子から立ち上がって、文庫本を本棚に戻した。
「えっ? 何か用事あるのか? まさか本当にレッスンでもあるのか?」
「まさか。このまま部室に居ても今日は誰も来なさそうだし……それに、こんな話に付き合っていたら、私まで危ない目に巻き込まれそうだからね」
 皮肉げに片目をつむって、舌を出す朱主。
「……でもこれは俺の妄想なんだろ?」
「そうだけどっ。それでもこんな話題しちゃったら、その時点でもう巻き込まれてるんじゃないの? 事件はなくったって私達の行動が事件を創っちゃうっていうのかなぁ……ま、美奈川さんの受け売りだけどね」
「そうだよな。また俺のせいで紅坂を危険な目に遭わせるわけにはいかないもんな……」
 かつて同じように、路久佐の被害妄想から始まった架空の事件で朱主を傷つけた事があった。それは決して繰り返してはいけない事件。遠い昔の記憶。
「……なぁ〜に過ぎたことでクヨクヨしてるのよ。ただの冗談よ。本当に私、誰も来ないから帰るだけよ」
「誰も、っていうか宮下が来ないから、だろ?」仕返しとばかりに路久佐はにやりと笑う。
「ばーっか、死ねっ」
「いてぇ!」
 朱主が路久佐の後頭部を鞄で殴ると、「そんじゃあまた明日ねっ。妄想男」と言って、嫌みったらしく舌を出し部室を後にした。
「もう二度とくんなっ」
 朱主が出て行った部室の入り口に捨て台詞を吐くと、先程まで朱主が座っていたパイプ椅子に目を向けた。
 春の暖かな日差しが誰もいない椅子の上にそそがれる。窓から差し込む光の道には埃の粒がキラキラ光って雪のように舞っていた。外からは運動部の練習する声がかすかに聞こえてくる。5月にしては気温が高く感じられた。今年は暑くなりそうだ。
 しばらく総合創作研究部の部室に1人残された路久佐は考えていた。そう、この状況と同じように……結局、今の朱主との一連のやりとりだって演技じみた、胡散臭いものだったじゃないか――と。



 2


「ほっほ〜ぅ。それはとてもとても興味深いでぇす! 路久佐さん、恐らくあなたの勘は正しぃ〜でしょ〜〜〜〜〜〜〜おおぉぉぉぉぉっっっっ!」
 夜、とあるファミレス。路久佐の話を食いつくように聞いていた美奈川無件(みなかわむげん)は、突然大声を上げた。
「ちょ、ちょっと! 美奈川先輩。声が大きすぎますってっ。周りの客に見られてますって!」
 路久佐は慌てて美奈川を落ち着かせようと試みる。やはり美奈川に相談したのは間違いだったか――後悔する路久佐。
 幸い、店内はそれなりに人がいて、それなりに騒々しかったので、路久佐達を気にするような者はいなかった。
 美奈川無件――。身長は高いが、痩せてひょろひょろとしたその姿はまるでカマキリのよう。眼鏡がよく似合う女顔の美形な顔とその体型は、まるで女そのものにも見えるが、悪い言い方をすれば、あるいはどこぞのマッドサイエンティストにも見えた。
 彼は路久佐公人と同じ高校に通う先輩であり、共に総合創作研究部に所属している仲である。初対面の人は大抵彼に驚く。その男か女か分からない端正な顔立ちもそうだが、彼の真骨頂はその言動だった。
 ちなみに総合創作活動研究部(通称SSK部)とは、主に小説や漫画等の創作活動を行うサークルだ。創作なら基本的に何でもいい。ここに所属する者は路久佐・朱主・美奈川を含めて現在6名である。言わずもがな部員は――中には例外もいるが――いずれも小説家や漫画家等を目指す者が多い。路久佐と美奈川は作家志望である。
「はっは〜! すいまっせ〜んっ。ついつい興奮しちゃいましてぇ〜え。でも路久佐さん〜、あなたが僕をここに連れてきたんでしょ〜? 話なら部室でいいのにぃ〜」
 美奈川は特徴的な甲高い声で早口に話す。
「それが駄目なんですよ……デリケートな問題というか、俺個人の問題なんですけど……あまり大げさにしたくないんで、とりあえず美奈川先輩に相談する事にしました」
「おっほ〜。それは光栄でぇす。こういう問題なら師匠が一番適任なのにぃ、僕に相談してくれるなんて! 感謝しますよ、路久佐さんっ!」
 部の活動内容が内容なだけに部員は変わり者が多い。その中でも美奈川無件は頭一つとび抜けている。
「ン? どうしたのですかぁ? 路久佐さん」
 美奈川は基本、誰に対しても敬語を使う。たとえそれが一年後輩の路久佐に対してもだ。
「あっ、ああ。すいません。それで……なんでしたっけ」
「だからぁ何故路久佐さんは師匠には相談しないのかって事ですよぉ〜」ムスッとした顔をする美奈川。
「え……戒川先輩にですか。それは」
「それは……何ですぅ?」変な顔をして路久佐を覗き込む美奈川。
「え〜と……なんとなく美奈川さんの方が聞きやすかったからですよ。さっきも言ったでしょ。デリケートな問題って」
「ああ、なるほろぉ〜」
 なんとかそれで美奈川は納得した。でも本当の理由は違う。路久佐は密かに恋していたのだ。美奈川が言うところの師匠、戒川仔鳥(かいかわことり)に。
 ただそれは憧れや尊敬の延長上のもの。自分の胸の内に密かに秘めたもの。これから先も路久佐はこの感情を己の胸に閉じ込めたまま過ごしていくのだろう。路久佐はそれでもよかった。
「それに、俺があんま変な人だと思われたくないんで……」
 結局それが一番だった。
「その点は大丈夫だと思いますけどねぇ〜。なんたって師匠は自称、メタ学の第一人者なんですよぉ。それこそ目を輝かせて耳を傾けますよぉ」
 美奈川は自信満々に言う。
「戒川先輩は言うまでもないですが、美奈川先輩も大した人ですよ。けど、戒川先輩への崇拝ぶりも相変わらずですね〜」
 仔鳥に対する思いの強さなら路久佐よりも美奈川の方が上であろう。ただ美奈川の場合は、恋などといった類のものではないだろうが。
「あっはっはー。師匠の理論は僕の思考の根源ですからねぇ。そりゃ尊敬しますよ〜。とても僕とは同学年なんて思えませんよぉ」
 ただの中二病だろ、と思っていても敢えて言わない路久佐の優しさ。
「まぁ、戒川先輩の話はその辺にしとくとして……それで美奈川先輩はどう思います? 俺の話」
 このまま放っておくと、美奈川の戒川仔鳥武勇伝を延々と聞かされそうな気がしたので路久佐は話を戻した。
「う〜ん……そうですねぇ」
 美奈川は何かを考えるように腕を組んで唸る。それを見て路久佐はふと違和感を覚えた。
 思い返せば今日の美奈川は不自然だったというか、言うべき事を隠しているような――そんな気がした。
 だが、やがて唸っていた美奈川は何かを決心したのか口を開いた。
「紅坂女史は現実と小説の区別がつかなくなってるのだ、と言ったのですよね? フフ、まさにそうなんですよ。まさにこれは小説ですよ! 僕達は小説の中にいるのです! あなたが感じる視線の正体は、読者があなたを見つめているからですよっ!」
 美奈川の突然の荒唐無稽な発言に路久佐は呆れかえった。
「ま、普通だったら僕はここで衝撃を受けなくちゃいけないんでしょうけど……はぁ。またですか、美奈川先輩」
 美奈川の得意分野。SFやオカルトじみた妄想。
「フッフン。それが違うんだな〜。僕はね、路久佐さん。とうとう手に入れてしまったんですよ。世界の秘密を」
「今度はなんです? またヘビの抜け殻ですか?」路久佐は呆れ声で言った。
 以前も美奈川は同じような事を言っていたのだ。その時手に入れたのは本人曰く、ウロボロスの蛇だそうだ。ただのその辺にいるヘビの抜け殻だったのだが。
「違いますよ、路久佐さん。今度こそ本当です……いや、今は何を言っても信じてもらえないでしょうね。だって僕にはそれが分かっていますから」美奈川が不気味に笑った。
 路久佐は一瞬、寒気がした。理由は分からない。
「さ……さっきから何言ってるか分かりませんけど、何か手に入れたんだったら見せてくれませんか?」路久佐は怯えを振り切るように言う。
「駄目でぇす。今は見せられないんですよぉ。明日……そう、明日僕と、路久佐さんと、あと紅坂女史の3人でもう一度話し合いましょう……その時に世界を見せてあげますよぉ」
「え? 紅坂も? いや……でも俺は紅坂をこの話にできるだけ巻き込みたくなくて……」
 だから美奈川をこんなところにまで呼びつけたのだが。
「あ〜、そうなんですか……。ですが残念ですぅ。路久佐さんがどう思ってようがそれは決定事項なんですよぉ。勿論僕の意思でもない。いわばそれがぁ、紅坂女史の運命でぇす。そして僕達の運命。どう足掻こうがそれは変えられな〜い。とにかく明日、僕達3人。その時答えを見せましょおおおお〜〜〜〜〜うっ」
 言って、美奈川はジャンボいちごパフェに食らいついた。
「……なんで、今は見せられないんです?」
 路久佐は恐る恐る尋ねる。でも何故かその答えを知るのが怖かった。
「それも決定された運命ですからねぇ〜」
 それだけ言って、美奈川は話はもう終わりとばかりに、路久佐に顔を向けずパフェを食べることに専念した。
「……」路久佐が、これ以上ここにいてもしょうがないので帰ろうかと思った時。
「あっ、路久佐さん。待って下さいよ〜」
 パフェを食べる手を休めずに美奈川が路久佐を呼び止める。
「な、なんです? 何か重要な事でも?」
 路久佐は期待のまなざしで美奈川を見た。
「いえ〜、僕お金持ってないのでお金払っておいて下さぁい」
「んなっ、なんでですかっ! 俺は何も頼んでないのに!」
「相談料でっすよ〜。出張サービスでぇす。これも決定事項なんです〜。諦めて奢って下さぁい」
「くっ……分かりましたよっ。その代わり明日ちゃんと話して下さいよっ」
「ありがとございまぁ〜す」
 路久佐はテーブルに代金を置いて店を後にした。そとではどこからか虫の声が聞こえていた。今夜は満月だった。



 3


 翌日、路久佐は授業の間、昨日の美奈川の話が頭から離れずもやもやしていた。
 ふと、斜め前に座っている宮下境架(みやしたきょうか)の姿を見る。
 彼はクラスメイトで親友であり、同じ総合創作研究部の部員でもある。ちなみに漫画家志望だ。
 というか、今も授業中なのに堂々と漫画を書いていた。彼は身長が高く、体つきがよくて、顔も怖いので、教師も口を出さないのだろう。実は気遣いがあって真面目な生徒なのだが、見た目で損をしている人間だった。あだ名は野武士。……なのに女子生徒には密かに人気があるから、路久佐はそれが気に入らなかった。
 路久佐は宮下にも相談しようか悩んだ。昨日の話も含めて。
 しかし――美奈川の言葉を思い出す。やはり、今はまだ言えない。言っちゃいけない。なぜか強迫観念みたいなものがあった。
 
 そして本日の授業が全て終了した。結局、今日路久佐は一日中頭がぼーっとしたままだった。これで蝉の抜け殻とか見せられたら、美奈川の首をへし折ってやろうかと考えながら部室の扉を開けた。
「よぉ、路久佐。やっほっほ〜」
 部室にいたのは総合創作研究部の部長、兎奈々偽在兎(うななぎありと)ただ1人だけだった。
「昨日部室に来たんだろぉ? 悪かったな、あたしは来れなくて。色々忙しくてな〜」
 肩まで乱雑に伸ばされた金髪を掻き上げ、けだるそうな声で言うと、在兎は路久佐から視線を離し、ノートPCのキーボードを叩き始めた。部で毎月発行している雑誌を編集しているのだろう。
 在兎はSSK部の部長なのに、いつも面倒臭そうな顔をしていて部活動に対しても積極的な方ではなかった。それでもやるときはやる人間で、事実部員達は皆、彼女を慕っていたし、彼女自身もSSK部員に対して優しく、思いやりがあった。
「部長も大変ですね」
 面倒臭そうにタイピングに勤しむ部長を眺めながら、路久佐は人ごとのようにこぼした。
「そう思うんならお前も手伝えっ、と」
 勢い良くキーを叩くと、在兎はテーブルに置いてあったコーヒーカップを手にとって一息つく。ちなみに彼女の夢は出版業界で働くことだ。
「ん? どうした、路久佐。さっきからずっと立って。座らないのか?」
「あ、いえ……兎奈々偽部長、今日紅坂と美奈川先輩って来てます?」他に誰の気配も伺えないのを、キョロキョロ確認しながら路久佐は尋ねた。
「いんや、来てないけど……なんかあんのか?」在兎は不思議そうに口を半開きにしながら路久佐に聞き返す。
「そうですか……。来てないのなら別にいいですけど……すいません。俺、今日は帰りますねっ」路久佐は在兎の質問には答えず、くるりと背中を向けた。
「あ、路久佐っ、お前今月の原稿まだだろッ! ちょっ、待てって」
「大丈夫ですよ、部長。とってもいいネタが見つかりそうなんですよ。すぐに面白い小説仕上げてきますね……あ、紅坂か美奈川先輩が来たら、俺が探してたって言っといて下さいっ」
 そして呆気にとられた在兎を残して、路久佐は得意満面に部室を出た。


「な、何が運命なんだよ……結局2人共見つからねーじゃんっ」
 しかしその後、路久佐は学校中を探し回ったのだが、結局2人を見つけられなかった。携帯に電話すればいいだけなのだが、それをやってしまうと何か違うな、と自分でもよく分からない事を考えていた。
「まっ、どうせこんな事だろうとは思ってたけどさ……」
 美奈川の言う事にまともに相手しちゃいけない事がまだよく理解できていなかっただけだ。
 諦めて路久佐は橙色の夕日を浴びた校舎を出て、帰ることにした。
 ――しかし彼は校門付近で、偶然にも今まで探していた紅坂朱主に出会った。
 というか……衝突した。校門の角で死角になっていた。
「うわっ」
「きゃあ!」
 2人は体がもつれ合い、抱きつくような格好で倒れる。
「いった〜……って、紅坂!? お前、どうしてこんなとこにいるんだっ!?」
 あまりの偶然に路久佐は我が目を疑った。これはもう一種の奇跡と言えよう。
 そしてもう一つの奇跡が――。
「俺の両手に何か柔らかいもの2つ」
 もみもみ。
「年頃の娘の胸揉んでるんじゃねぇ〜!!」
 胸だった。そしてすかさず朱主の関節技が炸裂する。
「うぎゃあああ! 痛いっ痛いっ関節が外れるうういたいいいい! あっ、でもパンツ見えて嬉しい……今日は白、ですね」
「ふんっ」
 ぽきっ、と響きのいい音。
「ひぎゃああああ! 折れたって、今折れたってっ! 気持ちいい音したよっ!」
「五月蠅いわね。ちょっと関節が外れただけじゃない。ほら、こうやって」
 またしても5月の空にポッキリと、乾いた音がこだました。
「いってええええ! 死ぬうううう!」
「はい、これで治った。それで、な〜に? そんなにビックリしちゃって。私ただ帰ろうとしてただけよ? 私が帰っちゃいけないの?」
 立ち上がり、体のついた汚れを払いながら地面に転げ回る路久佐を見下ろす朱主。
「俺が死の危機に瀕しているってのに薄情な奴だぜ……まぁいいさ。紅坂、一緒に帰ろうぜっ?」
 立ち上がり、路久佐は親指を立てて爽やかな笑顔を朱主に向けた。
「え、いやだ。意味分かんないし」
「……ひ、酷いな〜。幼なじみの仲じゃないか」
 路久佐は半ば半信半疑であったが、朱主と偶然にもここで出会った事で少し好奇心がうずいていた。本当に運命というものが存在するのかと。
 だからもう、先程まで朱主を巻き込みたくないと思っていた路久佐はすっかり心変わりし、この先どう話が進むのか見てみたくなった。
 路久佐は下心丸出しの瞳で朱主を見つめていた。朱主は不信感丸出しの軽蔑するような瞳で路久佐を見つめていたが、
「……分かったわ。でも、公人。その代わりに帰りゲーセン寄っていくからね。かわいいぬいぐるみがあるのよ。私の為に取って頂戴。モチ、あなたのお金で」
「は、はあ!? なんで俺がお前の為にそんな事しなきゃいけないんだよ」
「私の胸触ったくせに……セクハラじじい」両手で胸を押さえながら、じと〜っと非難めいた視線を送る朱主。
「なんでじじいなんだよ! それにあれは不可抗力だっ!」
「じゃあ、一緒に帰らない。ば〜い、公人」
「すんません。俺にそのかわいいぬいぐるみ取らせて下さい。モチ俺のお金で」
 こうして路久佐と朱主は2人で帰り道を歩いた。路久佐はなんだか昔の頃を思い出して、少しだけ朱主と視線を合わせるのが恥ずかしく思えた。



 4


 ゲームセンターに到着した路久佐は、いきなり運命の存在というものを確信した。
「美奈川先輩っ! え? うっそ、マジですかッッッ!?」
 路久佐が見たのは、一心不乱にクレーンゲームで美少女フィギュアを取ろうと頑張っている美奈川の姿だった。
「あっ……路久佐さん。ちょっと黙ってて下さぁい。集中してるんで〜」
 クレーンのアームが縦、横に動いて降りていく。そのまま空を掴んでアームは元の位置に戻った。
「ちぇっ、や〜っぱり結果は変えられませ〜んねっ」
 ひとりごちて美奈川は路久佐達に顔を向けた。
「美奈川先輩。相変わらず好きですね、そういうの」
 美奈川が言った結果という言葉の意味が分からなかったが、特に気にすることもなく、路久佐は遠い目をしてため息を吐いた。
「これもぉ創作活動の一環でぇすよ。フィギュアは創造を司る偶像ですよ〜……フフ、そして紅坂女史ぃ〜、やはりあなたもここに来ましたかぁ〜」
 なぜか美奈川は誇らしげそうな態度だった。
「え? 美奈川さん、それどういう意味ですか?」
 朱主は美奈川が言った言葉に引っかかるものがあったようだ。
「ですからねぇ、美少女フィギュアというものはですね、そもそも……」
「いや、そっちじゃないですっ。っていうか敢えてスルーしたげたんですけど、語りたいんですね。でもそんな事はどうでもいいです。その……私もやっぱりここに来たって意味ですよ」
 朱主は先輩に対しても容赦のない少女である。しかし美奈川は特に気にした風もなく訂正する。
「ああ、そっちですかぁ。そうですよ〜……僕はあなたもちゃんと来るだろうって分かってましたよ〜。ね、昨日路久佐さんに言った通りでしょ〜うっ?」
 事情が分からない朱主は首を傾げている。路久佐はひとり驚いた。
「まさか、先輩……。俺達3人がこのゲームセンターで会うって事まで、先輩は分かってたって言うんですかっ?」
 路久佐が目を見開いて言った。もしそうなら美奈川は予知能力者だ。
「フフン……そぉですね〜。こんなとこでもなんですし、近くの公園にでも行きましょうか。いえ……次のシーンは公園って決まってますからねぇ」
「シーン? な、何言ってるんですか。美奈川さん。また仔鳥さんから変な影響受けたんですか?」
 話の流れが読めない朱主はただただ戸惑うばかりである。
「詳しい話は後ですよ……紅坂女史もこれを見れば全てが理解できますでぇす」
 意味深な台詞を吐きながら美奈川はゲームセンターを出て、公園に向かった。路久佐は彼の行動が理解不能だった。だが理解不能ながら路久佐は朱主に、昨日美奈川と話し合った内容を一通り説明した。
「相変わらず気持ち悪い事ばっかり言ってるんですね、美奈川さんは……おかげで私のぬいぐるみがお預けになりましたよ……」
 それが朱主の感想。
 そして3人は目的地の公園に到着した。
「さぁ、では昨日の話の続きから始めましょうか〜!」
 すっかり日も暮れて、暗くなり始めた公園のベンチに座り、美奈川は大げさなポーズを取って会合を開始した。
「えーと、昨日の続きって言うと、この世界は小説の中なんだという、いつも先輩が妄想してるような話ですね」路久佐半信半疑といった調子で言った。
「今回は違うんでぇす! いいですかぁ、路久佐さん。れっきとした証拠があるんですよ。この世界は小説なんですよぉ!」
 そんな訳があるはずない。路久佐はため息を吐きながら言った。
「……はぁ、なんというか――」
「――美奈川先輩の言いたいことがちっとも分からないんですけど、とにかくその証拠とやらを見せて下さいよ……って言うつもりだったんですよね〜? 路久佐さぁん♪」
 と、美奈川が路久佐の言葉に被せて歌うように言った。
 そして、路久佐の顔色が蒼白になった。
「なっ――なんで俺が言おうとしたことが分かったんですっ!? それも一字一句的確にっ!」
 路久佐は体をわなわな震わせる。隣で聞いていた朱主も驚きを隠せない様子だ。
「だから、小説なんです。僕はただ小説に書かれていた文章を読んだだけでぇす。そう、小説に書かれているんですよぉ。私達の全てが……。ご覧下さい、これが僕の根拠であり、答え。これが私達の世界ですよ」
 美奈川はもったいぶった動作で鞄を探ると、そこから紐で綴じられた原稿用紙の束を取り出した。
「なんなのですか、これ? 小説、ですか? もしかして美奈川さんはこれが世界だって言うのです?」朱主は身を乗り出して尋ねる。
「数日前、SSK部の投函箱に入っていたのをたまたま僕が発見しましたぁ。まぁとりあえず読んでみて下さい。話はそれからでぇす」
 SSK部とは路久佐達が所属している総合創作研究部をローマ字にして頭文字を取って略した言葉だ。そして投函箱は部室前に設置されたポストのような箱で、主にここにはできあがった成果物やアイデアを入れる用途に使われる。部に所属していない人も投函できるので、匿名で入れる人間も多い。というかいたずらが多い。この前はうんこのイラストが1枚入れられていた。高校生がやることか? しかもやたら上手い。絵心のない路久佐は不覚にも感心してしまった記憶がある。恥ずべき記憶だった。
 それはさておき、路久佐と朱主は美奈川から手渡された原稿をざっと見てみる。どうやらタイトルはまだ付いていないようだ。
「これ、見たところ未完のようだけど……作者は公主人(おおやけおもと)……聞いたことないな。ふざけた名前だ」
 路久佐と朱主は原稿を調べて、本文を読み始めた。
「ああ、なんだ。普通の小説じゃないか……」
 小説はエピローグ1から始まり、世界が終わるとか何やらバッドエンドっぽい様子が書かれていた。そして、小説が読まれる事でまた世界が始まると書かれ、プロローグ2へと繋がっていった。
「典型的なメタですね……美奈川先輩が熱を入れるわけだ」
「だ〜か〜ら、ただのメタじゃないんですよっ。だってそれなら僕が未来を予知できる理由にはなってないじゃないですか。ほらほら、続きをご覧あ〜れ」
 2人はとりあえず目を通すことにした。
 プロローグ2はまさに物語の始まりというテイストである。この作品自体が一つの現実であると述べられ、果ては世界は全て虚構のものであり、誰かの創造に過ぎないのでないかと言及されている。
「平たく言えば、この作品を現実として読んで欲しいということか」
 プロローグ2を読み終えた路久佐はポツリと感想を述べる。
「プロローグ2ってことはプロローグ1があるってことだよね、公人」
「まぁ、多分最後に持っていってあるんだろうけど……まだ未完だし分からないよ。それにエピローグだって1があるんだから、2もあるとは思うよ」
 素朴な疑問を口にする2人だが、美奈川はただニコニコ笑っているだけだった。
「まだ肝心なとこに入ってないし、あれこれ考えても仕方ない。続きを読もう。いよいよ第一章だ」
 第一章を読み始めて、路久佐はいきなり驚かされた。
「なっ、俺? それに紅坂まで……」
「しかもこれ、先日の出来事そのままじゃない……あの時部室には私と公人しかいなかったはず」
 第一章が始まった途端、まず登場したのが路久佐だった。彼が部室に入るとそこには朱主がいて、2人の会話が始まる。
「しかも話の内容までそのままよ……ねぇ、これ公人が書いたんじゃないの? だって視点があなた目線になってるし。あなたが主人公の物語みたいでしょ」
 朱主は不安そうな顔をして路久佐を見つめる。
「いやっ。違うよ。なんで俺がこんなの書かなくちゃいけないんだ……なんだか気味悪いよ」
「そんな……。あっ、でも待って。そう言えば公人言ってたよねっ? 最近誰かの視線感じるって!」
「ああ、そうか! あれは気のせいじゃなくて本当に誰かに見張られていたんだ! この小説を書くために俺を監視していたのか!」
 路久佐はなるほど、と手を叩いた。読み進んでいくと丁度その内容の話も書かれている。謎は解けた。けれど嬉しいような怖いような複雑な気分だ。路久佐の内面描写までも描かれているのには、本人にしてみれば不気味だ。路久佐は一体誰が自分の行動を監視していたのだろうかと、憎々しげな表情で原稿に視線を送る。
「待って下さい、路久佐さぁん」
 と、今まで黙っていた美奈川が口を挟んだ。
「この、あなたと紅坂女史の会話ぁ。この時って何日前の事ですかぁ?」
「え、え〜と……確か2日前の事だと思います……5月8日ですね」
「フッフン。やはりですね……。実は僕、この小説ですがねぇ……発見したのは3日前なんですよぉ」
 なぜか自信満々な風に胸を張って答えた美奈川。
「えっ!? それって5月7日ですか?」
「そうですよ〜。おかしいですね〜。それじゃあまるで、路久佐さんと紅坂女史が、部室でこの会話をするのが予知されていたみたいじゃないですか〜」
「そんな事あり得ない……だってこんなに正確に……この小説は予言書だと言うんですか?」
「フッフ〜ン。そうとも捉えられますがねぇ、私はもっと大きな意思を感じるのですよぉ。そう、これは予言書ではなくて台本なんじゃないのかってね」
 台本。路久佐はその言葉を聞いてはっとした。ここ最近、自分の周囲に感じる違和感。まるで演じているような――。そう、今読んでいる小説に書かれていたように。言うならばそれは未来台本。
「と、とにかくこれが予言書でも台本でも、未来のことが書かれているなら、続きを読んで確かめようっ」
 路久佐は不吉な考えを頭の隅に追いやって原稿に目を通す。
路久佐と美奈川がファミレスで会話するシーン。内容は勿論昨日と全く同じものだった。
 さらに学校のシーンもゲームセンターまでのシーンも正確に描写されている。いずれも路久佐視点で。そして小説はとうとう現在、公園で路久佐・朱主・美奈川の3人が、この小説に目を通すシーンにまで来た。
 路久佐は小説を読むのが恐ろしくなり、一旦原稿用紙から顔を上げた。
「ちょっと待って下さいっ! 確かに美奈川先輩の言ってた意味は分かりました。俺達3人がこの小説を読む運命にあるって。……でも、変ですよ。だって先輩はあらかじめこの小説を読んだんでしょう? だったらなんで小説に従って行動するんですかっ?」
 路久佐が興奮して声を荒げる。朱主も路久佐の言葉の意味を理解して美奈川の方を見る。しかし美奈川は相変わらず飄々としたままだ。
「う〜ん、世界の意思にはどんなに頑張っても逆らえないというか、運命は変えられないってやつですよぉ。たとえ小説と別の行動を取ろうとしても僕達は作者の意思によって修正されてしまうんですよぉ。新たに書き換えられるだけでぇす」
「えっ? それって手元にある小説の内容がどんどん書き換わっていくとかですか?」路久佐の手にある原稿用紙を指さし、朱主は言う。
「アッハハ―。そうじゃないですよぉ。小説を書いているとよくあるでしょう? キャラクターが勝手に動いてしまうって」
 小説家志望の路久佐には美奈川の言った事がよく分かった。それは確かにある。自分の想像上のキャラなのに、まるで意思を持ったように自分の思い通りに動いてくれない時が。
「この小説に逆らうというのはそういう事ですよぉ。でも結局は大した事じゃないでしょ? 作者にとっては誤差の範囲内なんでぇす。だからその誤差を修正するように、その後の展開が若干変化する程度ですぅ。大筋は変わらないのですぅ」
「でも、それとこれとは話が違いますよ」
「まぁ、とりあえず最後まで読んで下さぁい。ここまで来たらあと少しですぅ〜」
 納得のいかない路久佐だったが、渋々小説を最後まで読んだ。
 内容はリアルタイムだった。どんどん現在に近づいている。なんだかむず痒い気持ちになる。
 そして路久佐の顔も段々と重苦しいものへと変わっていく。小説が今に追いついていく。
 そして、まさに今の状況。路久佐が小説の途中で声を荒げるシーンも、いま丁度読まれているこのセンテンスすらも書かれていた。
「ば……ばかな。じゃあこっから先は今の俺にとって、未来の描写が始まるってわけなのか……ああっ! そんなっ!? この声も文章に書かれているっ!」
 路久佐は思わず原稿用紙を落としてしまった。
「大丈夫ですか、路久佐さぁん。いやぁ、僕も最初読んだときは驚きました。色々と疑問はたくさんありまぁすが、いま一番知りたいのはぁ、いったい誰がこの小説を書いたのか、ってことですよぉ」
 固まって動けない路久佐の代わりに、朱主が原稿用紙に手を伸ばしながら感想を口に出す。
「SSK部の投函箱に入っていたのなら、部の中の誰かである可能性が高いと思いますけど、部員以外も投函しますからね。公主人ですか。主人公が小説の作者……まさにピッタリなペンネームですね」
 朱主は地面に落ちた原稿用紙の束を拾い上げて埃をはたいた。
「僕もそう思いますぅ〜。恐らくは小説の地の文こそが公主人の正体だと思いますね〜。路久佐さんをストーキングしてた犯人なんですよぉ〜」
 美奈川は意味ありげな顔で路久佐を凝視する。我に返った路久佐は冷や汗を流しながら唾を飲み込む。
「と、とりあえず犯人捜しは後ですっ。もう少しで小説も終わる、読もう」
 路久佐は怖くなって朱主の持った小説を取り上げて言った。
 路久佐が驚きのあまり原稿用紙の束を落とした事もその後の会話も書かれていた。そして一章の終わりまで目を通した。
「すごい……なんてこと」
 朱主は感嘆の声を上げる。これも小説で書かれた通りの言葉。
「これで僕の言ってくれた事を信じる気になったでしょう? さぁ、それでは今あなた達が読んだ内容を、そのままなぞるように話し合いましょうか〜」
 眼鏡をくいっと押し上げ美奈川が言った。
「何言ってるんですかっ、誰が好きこのんで……あっ、しまった」
 筋書き通りの台詞を言ってしまい、思わず顔を赤くする路久佐。美奈川がその様子をにやにや見つめている。
「ここにも書かれていたようにぃ、この状況は非常にまずい事態だと言えるでしょう〜」
 美奈川は台本通りの演技を始めた。
「こういう物語っていうのは大抵が悲劇で終わりまぁす。客観的に見て分かりますぅ。ジャンルはホラーか、メタ本格の推理ものですよぉ、これ。放っておくといずれ人が死んじゃいますねえ、きっと」
「し、死んじゃうって……そんな。これは現実ですよ?」
 朱主が小説に書かれた通りの台詞を発した。路久佐はそれが悲しかった。ただ黙って2人のやりとりを見守るだけだった。
「ですが小説でもありますぅ。現実が小説に置き換えられてしまったんですよぉ。そしてその小説はまだ始まったばかりぃ」
「そんな……まだ小説が続くんですか?」
 美奈川も朱主も迫真の演技をしているな、と路久佐は思う。すでに小説に書かれていた事を同じように話すなんて馬鹿げている。なぜそんな小説に荷担するのか路久佐には分からない。だがそう思う事も、大人しく黙っている事も、ここに書かれている事ならそれは路久佐にも言える事だ。路久佐自身も演技者にしか過ぎなかった。
「これは小説ですよぉ〜? 物語は終わらなければ物語とは言えませぇん。だから今の、早い段階で手を打たなければいけないのでぇす」
「手を打つってどういう事です? 何か対策があるんですかっ?」
「ええ、でも今は相手の思惑が分かりませんからね〜……下手に動かない方がいいでしょう〜。しばらくは他の部員の方々にも言わないでおきましょう」
「だから敢えて今は、筋書き通りに動くしかないって言うのですね?」
朱主が歌うように言った。この状況を楽しんでいる風に見える。
「そうですよぉ。紅坂女史ぃ。まだジャンルがバッドエンドものになるとは確定していませぇん。だって僕達はオタク系集団なんですよぉ? ホラーやサスペンスなんてもってのほかですよぉ〜。そんなの僕達に向いてませんよぉ〜」
「そうですね……小説の前半はラブコメみたいなノリでした。これが小説の中の世界だというなら私達のやり方でストーリーを進めばいいのですね。まだラブコメに戻れるって訳ですね……それはそれで、公人が調子に乗っててむかつく小説になりそうだけど……。うふふ、私達のしようとしてることって神の領域じゃないですか」
 予定調和の2人の会話が続く。ここに意思は存在しない。
「はぁい、まさに神でぇす〜。これは人間が越えてはならない一線なのですよ〜。ならば僕達は神としてこの小説を変えていく必要がありまぁす。僕が打とうとした手はこれなんですよ〜」
「小説を変えていくことですか……」
「当たらずも遠からずですぅ。行動で変えるのではなく、小説自体を変えればいいのですよぉ」
「小説自体を変える? 小説を書くのですか?」
「そうでぇす。小説で未来が書かれていたなら、そこから先を僕達が乗っ取って、作者より先に書いちゃえばいいんですよぉ」
「それは便乗――第1章の続きから小説を書こうということですね。メタ小説ならではの方法で」
「はぁい。だから誰かがこの小説の続きを……第2章からの物語を書く必要がありま〜す。そしてそれは路久佐さん、物語の視点であり、恐らく主人公であるあなたの役割なのですよ。この大役は是非あなたに」
 ここで――ようやく路久佐の出番が回ってきた。
 鷽崎は何も言えないまま、下を向いて黙っていた。辺りはすっかり暗くなり、公園の中は街灯の光で寂しく照らされていた。
 朱主と美奈川は期待と不安が入り交じった瞳で路久佐を見つめる。
 第1章まで書かれていた小説はもうすぐ終わる。ここまでは小説に書かれていた通りだった。そしてあとは数行を残すのみだ。
「公人……お願い、私達のために」
 朱主の祈るような言葉に路久佐は意を決したように顔を上げ、一言呟いた。
「嫌だ」

 第1章終



 第2章 あるいは幕間劇


 ゴールデンウィークが終わって間もないある日の放課後の事だった。
「で、一体なんなんだ〜? この訳の分からない小説は〜……つーか未完成だし、散々使われたようなアイデアだし」
 総合創作研究部(通称・SSK部)の部長、兎奈々偽在兎(たちばなけむい)がうんざりした顔で原稿から視線を上げると、目の前にいる美奈川を睨みつけた。在兎は顔は美人なのだが、そのぐ〜たらな性格で損をするタイプ。在兎と美奈川は同じ2年で、クラスメイトでもある。
 部室には現在、在兎と美奈川、そして宮下の3人のみがいた。まだ5月だというのに気温は高く、外は春の陽気が気持ちよさそうで、耳をすませば遠くから聞こえる喧噪が聞こえてくる。
「あ〜りゃりゃ。やはり在兎女史にはこの作品の良さが分かってくれませんでしたか〜」
 困ったような顔をして頭をポリポリ掻く美奈川。
 在兎は金髪をいじりながらうんざり言う。
「当たり前だ。こんなの何番煎じだって話だよ。ややこしくて読みづらいっての。読者がついて来られないよ。あたしはこういう複雑なのは面倒臭いからパスだ。ボツ、ボツ」
 在兎がたった今読んだ作品は一言で言うと荒唐無稽なものであった。
 タイトルが付けられていない作品は、まだ途中までしかできていないらしく、エピローグ1、プロローグ2、第1章の全3部で構成されていた。
 内容はというと、プロローグ・エピローグ部分ではどうやら現実世界は小説世界で、それが消えてしまったらしい事が書かれている。それで再び小説を読んで世界を始めようというものだった。そして第1章になると、総合創作研究部の人物が登場し、彼らが小説内に閉じ込められている事実を悟って、さぁこれからどうしようか――というところで終わっていた。
 当然、実在の人物が小説に登場するというだけで、第1章の内容は勿論フィクションだった。こんな出来事、現実には一切起こっていない。
「はっきり言ってつまらないの一言だね」
 実在の人物を作品に登場させるような小説を在兎は快く思っていない。
「う〜ん。そういった作品に対しての感想を求めている訳じゃないんですけどねぇ〜……。内容じゃなくて小説そのもので捉えて、考えて欲しいですぅ。僕はね、これが第1章で終わっているところに魅力を感じているんですよぉ〜」
 泣きそうな声で美奈川は在兎に訴えかける。
「ほほ〜う。途中で投げ出された原稿なんかに魅力を感じるとぉ?」
 在兎は悪戯っぽい笑みを浮かべて美奈川を見据えた。
「つまりですよ〜、この小説は現在進行形なんですよ〜。だって時期的にも同じじゃないですかぁ。今の僕達と。だから、今もこの小説の中の世界ではですねぇ、路久佐さんや紅坂女史が悪戦苦闘しているというわけですよぉ」と、美奈川。
「だからなんだと言うのだ? 所詮フィクションなんだろ?」しかし尚も辛口評価な在兎。
「ですからっ、現実と小説がリンクしてるんですっ。同時進行形なんです!」
 部長机に座る在兎に向かって、まくし立てるように話す美奈川。――すると。
「話に割り込むようですいませんが、つまり無件さんの言いたい事は、この現実世界とは別の、もう一つこちら側とそっくりな世界があって、その世界の部員達が時を同じくして、リアルタイムで物語を進行しているっていう事ですか?」
 と、今まで話を黙って聞きながら、漫画を書いていた宮下境架(みやしたきょうか)が無感情に口を挟んだ。
「さっすが、宮下さぁん! 理解が早くて助かりますっ」顔を綻ばせる美奈川。
宮下は何も言わず、ペコリと頭を下げた。彼の無感動ぶりは別に怒っている訳でなく、これが標準の状態なのである。
 宮下はスポーツ万能で成績も抜群。体格もよく顔自体も整っているのだが……そのとっつきにくさだけが弱点だった。ちなみに彼は、よく他人から野武士みたいな男と表現される。
「これはですねぇ、小説内にいる主人公が、ここは小説の世界だと気付き、その世界から脱却しようとする話なのでぇす!」美奈川は興奮している。
「つまり路久佐だな……ははっ、あいつが主人公だっていう事が、あたし的にはこの小説の一番面白い部分だと思えるよ」そんな美奈川に横から茶々を入れる在兎。
「は〜い。路久佐さんが現実世界へ向けての第四の壁を越えようとする話なんですよ! ……と、僕はこの小説をそう解釈しましたがぁ」それでも美奈川は意に介せず興奮し続ける。
 宮下は静かに口を開いた。
「はぁ、すみません。部長同様オレにもよく分かりません。……というかオレはあまり詳しくはありませんが、既存の小説の真似事以上のものには思えません」
 短く切った頭を掻きながらぶっきらぼうに言って、再び漫画を書くのに集中しだした宮下。
「う〜ん、やっぱり堅物の2人じゃ分かって貰えませんね〜。この人達に聞いた僕が馬鹿でしたぁ」今度は大げさに肩を落とす美奈川。
「きひひ。そうだよ、無件。こういう話はお前の師匠にでも相談すればいいだろ」
 意地悪い笑みを浮かべて、もうこの話はおしまいとばかりに手のひらを振る在兎。
「はぁ……それなんですが、まだ師匠とは連絡とれないんですよねぇ……メール返って来ないし、電話も出ないし、学校には来てると思うんですけどなかなか会えないしぃ。まぁいいんですけどねぇ。大方、『秘密の部屋』にでも籠もっているのでしょう」美奈川は寂しそうな声で言った。
「そうだな、仔鳥は仔鳥なりに色々忙しいんだろ。なんか出版するとかって話も聞いたし。ま、そのうち部活にも顔出すだろ」と、在兎。
「ですねぇ……それにしてもこの小説、一体どういう意図で書かれたのでしょう……本人の口から聞いてみたいでぇす……」
 美奈川は遠くに想いを馳せるような目で窓の外を眺めた。
 その時、部室の扉を開いて紅坂朱主が入室してきた。
「こんにちわー、まだ春だっていうのにすっかり暑くなりましたね〜……って、あ……宮下くん、もう来てたんだ」
 声を落として恥ずかしそうにパイプ椅子に腰掛ける朱主。窓際の椅子が彼女の指定席だ。
「よう」
 宮下は朱主に小さく頭を下げると、また黙々と漫画を書き始めた。
「おおっと、紅坂女史ぃ〜! 丁度いいところに来てくれましたぁ〜。あなたに伺いたい事があるんですよぉ〜」
 美奈川は朱主が椅子に腰掛けるなり、哀願するような目で訴えかけた。
「どうしたんですか、美奈川さん。そんなに興奮しちゃって。あ、興奮してるのがあなたの常態でしたね」
 朱主は美奈川をいつものように軽く受け流そうとする。
「そんなぁ……僕は普段から興奮してるわけじゃないですよぉ。今日はすっごい話があるんですって」むくれる美奈川。
「新作ゲームの内容ですか?」朱主は冷ややかな目を美奈川に向けた。
「違いますってっ! 今日はいたって大まじめなんですっ。あなたが見つけたこれの事ですよぉ〜」美奈川はより一層頬を膨らませた。
 そして美奈川は、紐で綴じられた原稿用紙の束を朱主に見せる。
「紅坂女史ぃ〜、教えて下さいよぉ、あなたがくれたこの小説の事を。やっぱりこれあなたが書いたんでしょう〜?」
 朱主の目前で原稿用紙をバサバサ振ってみせる。
「え? あ、この小説ですか? だから言ってるでしょう、私は投函箱に入ってるのを偶然見つけただけだって。私はあんなの書きませんよ。そもそも私の専門は衣装制作ですからっ」
 朱主はコスプレ衣装を作り、それを自分で着たり他人に着せたり、それを写真に撮ったりなどしている。
「ああ、そういえば紅坂女史は書き物は専門外なんでしたよねぇ……ふむぅ、そうでしたねぇ……」考え込む仕草をする美奈川。
「執筆するとしても、あんな変な小説は書きませんよ」朱主はさっぱりと言う。
「う〜ん。ですが〜あの小説を書ける人間となるとぉ、あなたはピッタリの条件だと思ったんですよぉ〜」意味ありげに美奈川は言った。
「へ? どうして私が?」朱主はきょとんを小さく首を傾げる。
「ん〜。だってあなたはよく路久佐さんと行動を共にしてるじゃありませんかぁ。幼なじみのようですし。あなたなら路久佐さんを視点にして物語を書けると思ったんですがねぇ」
 残念そうに肩を落とす美奈川。
「そういう理屈だったら公人が一番可能性あるんじゃないですか? っていうか私は公人が書いたんだと思ってましたが……。それより、私と公人がいつも一緒みたいな言い方しないで下さいよっ!」
 朱主が頬を膨らませながらチラリと宮下の顔を伺った。宮下は依然漫画を書くのに熱中している。
「いや〜、でも彼の性格上、こんな小説を書くとは僕には思えないんですけどね〜……」と、美奈川は肩をすくめて言った。
「確かに。路久佐は良くも悪くも普通。無個性で特徴がないのがあいつの特徴だからな。まっ、そう言う意味じゃ仔鳥とは対極の存在と言えるよな……んで、その路久佐はなんて言ってるんだ?」と、キーボードを叩きながら在兎が尋ねた。
「あ。いえ、まだ小説を見せてませんし、そもそもその事について何も言ってないです。というか、ゴールデンウィーク終わってから学校休んでるみたいで……風邪とか言って」朱主はくりくりした目をパチパチさせて言う。
「五月病かよ……で、メールはしたのか?」
 在兎がノートPCから目を離さないままツッコミを入れた。
「はい。でも返事が返ってこないんで少し心配です」
「そうですねぇ。彼、いかにも五月病にかかりそうな感じですもんねぇ。メンタル弱そうですし……師匠といい、一体どうしちゃったんでしょうかねぇ〜」
 と、美奈川も心配そうな素振りを見せる。
「あっ、仔鳥さんもまだ部活に来てないんですか?」と、朱主。
「そうなのです。心配なのです。なんだか嫌な予感がします」声の調子を落として美奈川は呟いた。
「って、なに不吉なこと言ってるんですか……」
 朱主は不安を払拭するように言ったが、この場の全員同じ事を感じていたのか、しばしの間、部室に沈黙が流れた。
 グラウンドからは運動部の練習する声がかすかに聞こえてくる。春の陽気な暖かい風が、彼らには生ぬるく気味悪いものに感じた。
「……それで、無件さん。この小説を書いた人間を捜し出して、それからどうしようと思っているんですか?」
 沈黙を破ったのは意外にも、普段は寡黙な宮下境架だった。
「ええ……そうですねぇ。まぁ、今はこの作品の作者が公主人というペンネームを使っているという以外には何も情報がありませんからね〜。作家捜しは後回しでぇす」美奈川が答える。
「では無件さんは何か行動を起こそうというわけですか?」
 落ち着いた渋い声で尋ねる宮下。
「な〜に。ちょっとした実験ですよっ。こんな面白い題材を僕が放っておく訳ないでしょう。この小説がこの現実を舞台としているならぁ、僕がこの作品を乗っ取って現実を面白おかしく創り変えようと思うわけですよぉ」と、宮下とは正反対に落ち着きのない声で言う美奈川。
「現実を創り変える……ですか?」と、宮下。
「そうですよぉ、宮下さん。このままただのメタ小説にしとくのはもったいないですよ! だってリアルタイムの出来事で、且つ作者不明のまだ未完成の原稿が手元にあるんでぇす! これは僕達に作品を仕上げて欲しいと言ってるようなものじゃないですかっ! 元々の作者の意図から独立し、登場人物達が勝手に物語の続きを創るぅ。なかなかいいアイデアじゃないですかぁ!」元気を取り戻したのか、美奈川は心躍るように声を上げた。
「ちょ、ちょっと待てよ。無件、それじゃあ小説の中のお前と同じじゃないか! お前まで小説の言葉をなぞるつもりかよ!」
 在兎が信じられないといった様子で美奈川の発言を非難した。
「まぁまぁ、在兎女史。落ち着いて下さいよ〜。第1章はしょせん小説の中の出来事ですよ? 僕達は現実なんです。もちろん未来が書かかれた小説なんてありません。だから僕達が積極的に物語を創るのに協力しなくちゃねえ。現実では自ら行動しないと物語は起こってくれませんから。いうなればっ、第1章の内容は現実にいる僕達へのメッセージだったのかもしれませんよ〜」
 美奈川は先程からやけに楽しそうだ。けれど宮下にはどうしても分からない点があった。
「まぁそうかもしれませんね。でも続きを書くってどうするのですか? 1章では未来に起こることが予知されて、部員達はその通りに行動していたって事ですよね? でもオレには一つ分からないことがあったのです……」宮下の顔はいつもよりも渋く見えた。
「分からないこと、ですか?」眉を八の字に曲げる美奈川。
「ええ、結局第1章の終わりで路久佐が下した決断は、小説に書かれていたそのままの言葉と受け取っていいのかどうかってことです」
「あ――」宮下の言葉に絶句する美奈川。
「そうです。丁度今の無件さんのように小説を書くかどうか議論してる時です。路久佐の答えは書かない、でした。その言葉で1章は終わっています。果たしてあれは小説に書かれていた通りの台詞なのでしょうか? あれだけ見るとどちらにもとれます。路久佐が小説に反した答えを選んだ結果、その時点でこの小説は終了した、っていう考え方もできます」と、宮下。
「あ、そうか。だから第1章までしかないのね……」
 横で見ていた朱主は得心して、ぽんと手を打った。
「そうだ、紅坂。だからオレは、この部分を誤解したまま物語を勝手に進めてしまっていいものかと思うのだ」
 宮下は朱主の方を振り向き、静かに目を閉じて考え込むように言った。
 その言葉を受け、美奈川が大きく息を吐いて呟く。
「ふぅむ、そうですねぇ。確かにこれはかなり重要なポイントですよねぇ。そんな重大なポイントを読み違えてしまえば、もはや僕達のやろうとしてる事は水泡に帰してしまいますよぉ。ただの二次創作です〜。いやはや、小説内での僕はその答えを知っていると思うと、歯がゆい気持ちになりますね〜」
 さて困ったとばかりに、再びその場に静寂が訪れた。しかしすぐに朱主が機転を利かせ、新しい問題を投げかける。
「じゃあですね、美奈川さん……逆に考えましょう。第2章以降、公主人は何を書くつもりなのかを考えてみませんか?」
「な、成程ぉ〜。紅坂女史、それはいいアイデアですぅ〜。分からないものはいくら考えたって分かりませんものねぇ〜」
 道に行き詰まった時は方向転換が必要。美奈川は顔を輝かせて甲高い声で言った。
「そうそう。諦めと柔軟性が大切ですよ♪」
 朱主は人差し指を立ててウインクする。
「えへへぇ〜、ではそうですね〜。公主人の正体は分かりませんがこれだけは言えます。第2章……それは、あちらの世界での物語の続きじゃないって事でぇす」と、美奈川。
「ん? それは……どういう事だ?」
 在兎が眉をしかめて美奈川を見た。
「ん〜……つまり世界が変わるんですよぉ。小説世界の次元の壁を越えると言いましょうか。まぁ、僕の予想なんですがね……第2章は、まさに今。この部室でのシーンが描かれていてもいいと思うんですよねぇ」
「は、はぁ!? なんだよそれ。じゃあなんだ、第2章はこの現実の世界が舞台になるのか? ノンフィクションになるというのか!?」
 在兎は美奈川とは普段から意見が合わないが、今日はそれが特に顕著だった。
「あくまで予想ですけどね〜、在兎女史。そういう事なんでぇす。それでいくと第4章は、さらに第3章とは別の世界の話になるんです。ま、第1章の世界に戻ることになるかもしれませんけどね。面白いですよね。読者にとっては一体どれが本当の世界か分かりませんよね〜」
 美奈川の言葉には妙な説得力があった。無茶苦茶な考えだけど誰も反論しようとは思わなかった。
「……なんだか本当にこの世界が誰かの小説でしかないような気がしますよね。私達が出てるから余計に……」朱主が独り言のように呟く。
 現実であっても、それが一度何らかの記録媒体に記されれば、その現実を知らない者が記録を見たところで現実か虚構かの区別なんてつけられないのだ。
 けれど、所詮はその小説すらも虚構――。小説とは本来ただのエンターテインメントでしかない。
 日が暮れ始めるとやがて彼らは、公主人による小説に関しての興味も薄れて、そのまま解散することになった。



 ○


 その帰り、紅坂朱主は家の方角が同じ宮下境架と一緒に下校する事になった。路久佐が学校を休んでいる事に少し感謝したくなった。
 黄昏時の住宅街はほの暗いオレンジ色に包まれて、ラッパの音が遠くから聞こえてきそうな気がして……郷愁というものだろうか、そんな気持ちで朱主は意中の少年と帰り道を歩く。
「で、路久佐の奴は何か言っているのか?」
 隣を歩く宮下は、鋭い目つきで真っ直ぐ前を見たままぶっきらぼうに言った。
「うん。公人は単なる風邪だから気にするなって」
 無愛想でも、宮下は機嫌が悪いわけではない事を朱主は知っている。これが彼の個性なのだ。
「そうか……それ以外に何か言ってないか?」
「ううん、何も。どうしたの? 宮下君。なんだかやけに公人の事気にしてるね」
「いやな、路久佐というより先程の小説の件が気になってな」
 先程は部員内で盛り上がっていたけれど、それでもみんなすぐに飽きた。宮下はまだ心に引っかかっていたのだろうか。
「ああ、あれね……どうせただのイタズラでしょ。美奈川さんも大げさに騒ぎすぎよ」
「そうか……いや、なんだかな……オレも何か無性に嫌な予感がするのだよ」
「い、嫌な予感……? な、やだなー。怖がらせないでよ、宮下君〜」
「冗談などではない。あの小説が届けられただけなら良かったんだ……けれど、その後のオレ達の行動が本来あってはならないというか……」
 宮下の表情には影がさしている。煤利はただならぬ空気を感じ取った。
「え? 何言ってるの宮下君? それって小説じゃなくて私達に問題があるってこと?」
「いや、そもそも悪があるのだと考えるなら、それは小説になるのだろうが……。多分、我々だからこそ、あの小説にあそこまでの関心を持ったのだと思う」
「そうかも……私達は創作活動する集団だもんね……。きっと他の人達だったら小説読んだって、あんまり気にしないかもね」
「そうだ。そこが問題なんだ……。いいか、あの小説は現実に忠実なフィクションなのだ。そして小説たる必須条件は物語性だ」
「物語性……? 面白いかってこと?」
 朱主は顔をきょとんとさせる。物語とはつまり、語られるに値する内容でなければならないのか。
「そうだ。フィクションでもノンフィクションでも、面白くなければ小説とする価値はない。重要なのは小説に値する物語性を持っているかなのだ」
「で、それが私達とどう関係あるの?」
 朱主にはいまいち話が見えてこない。小さな顔を強張らせた。
「オレ達が小説を読み、そこからその小説を中心として行動を始めてしまった……オレ達が自分の意思で物語を進み始めたのだ」
 宮下は顎に手を置いて遠くを見つめた。視線の先にはただ家々がずっと並んでいた。
「じゃあ……公主人はそれを見越して、私達の為にあの小説を書いたって言うの? 私達が勝手に話を進めてくれるように、きっかけを与えたって言うの?」
「分からない。だが、オレ達が小説をただ読んで、それで何もしなければよかったのだ。だが、もう物語は動き出した。だって今こうしてオレと紅坂がこんな会話をしてる事自体、物語性を含んでいるじゃないか」
「だ……だったら、あまり小説の話題はしない方がいいかもね……」
 朱主はぞっとした。それはまるでウイルスのよう。小説というウイルスに感染し、それが朱主達を媒介として物語というカタチで拡大していく。
 そのウイルスが行き着くところはどこなのだろう。果たしてその先には何があるのだろうか。虚構である物語が現実を浸食した時、待ち構えるのは理想の世界か。退廃した絶望か。
 公主人はそれが見たくて、こんな馬鹿げた小説を送りつけたのかもしれないと朱主は思った。
 その時、宮下も何か思いついたのか、不意に口を開いた。
「もしかしたら公主人は……物語の中に入りたいのかもしれないな……」
 宮下は眉間に皺を寄せて、いつもより一層怖い顔で呟いた。
「物語の中に入るって……つまりこの小説の世界ってこと?」
 朱主は小さな顔をきょとんと傾げて聞いた。
「そうだ。オレはいつも漫画を書いているからその気持ちは分かるつもりだ。そう、奴は虚構世界に憧れているのだ。路久佐もよく考えている事だ、アニメやゲームの世界に入れたらどんなにいいだろうかって……。要はそんな発想なんだよ」
 虚構がリアルになるにつれ、現実との境界線が曖昧になっていく。そして美しすぎる向こう側に恋い焦がれるのだ……と、そんな感じの事を以前路久佐が言っていたのを朱主は思い出した。
「そ、そんな子供みたいな……不可能に決まってるよっ」
「そうだな。オレもそう思うよ。言ってみただけだ。公主人が何を考えているかなんて正直さっぱり分からん」
 と、この話はこれでおしまいとばかりに言い放つ宮下。
「さ、小説についての話はしない方がいいのだろ? 奴の思う通りは嫌だからな。この話題はお開きだ」
 宮下は半ば強引に話を締めくくった。
 その様子に朱主は、もしかしてこんな話を出した宮下自身がそうじゃないのだろうか……と思った。
 そのままなんとなしに会話もなくなり、無言で並んで歩く2人。空が橙色に滲む、逢魔が時。遠くから犬の鳴き声が聞こえてくる。郷愁的だが、ある種不気味な雰囲気と、静けさに朱主が少々気まずさを感じ始めていた時だった。
「ところで……」
 隣を歩く宮下が、いつもと変わらない口調で話を切り出した。
「え、な……なに?」
 不気味な想像をしていた朱主は、宮下の呼び掛けに驚いて体が少し跳ねてしまった。
「……なんだ? 何をそんなに驚いている?」
 不審な顔で宮下は朱主の目を凝視している。じっと見つめられて朱主の顔は上気してしまう。
「う、ううん……なんでも、ないよ」思わず言葉が詰まる朱主。
「顔が赤いぞ? 熱でもあるんじゃないか?」
 宮下は朱主の変化に気付き、心配そうに顔を覗き込む。
「そ、そうかもしれないな〜……あっ、公人に移されたのかも〜。あははっ」
「そうか……ならオレが家まで送って行こうか?」
 と、宮下は朱主に肩を貸そうとするが、
「ええっ!? だ、大丈夫っ! 1人でも帰れるって!」首をぶんぶんと振って朱主は拒否した。
「そうか? 無理してないか? 路久佐はまだ風邪が治っていないのだろう? そんなに離れていないから送って行くぞ」
 その顔に似合わず心配性で心根が優しい宮下はしつこく朱主に迫る。
「う、うん……心配ありがとう……宮下君」
 だから朱主は宮下のそういう部分に惹かれるのだ。
「ん? なんだかさっきより顔が赤くなっているみたいだが?」
「……あ、いや、違っ……そ、それよりさっ、さっき宮下君は何か言おうとしてたみたいだけどっ?」朱主は大げさな身振り手振りで否定して、話を逸らした。
「ああ、その事か……いやな、路久佐の事をこれからもよろしく頼む、とな……」
 宮下は破顔して、言った。
「…………」
 宮下の言葉を聞いて朱主は口を閉ざし、表情を曇らせた。
「ん? どうしたんだ、紅坂?」
「なんで、そんな事を急に……」蚊の泣くような声の朱主。
「なんでって、貴様と路久佐は幼なじみで家も近いじゃないか。ゴールデンウィーク明けから、まだ学校には来ていないんだろう? 小説の件だって気になる」さっぱり答える宮下。
「……だ、だって、宮下君こそ公人の親友じゃない。だったら宮下君が公人の様子でも見に行けばいいじゃない!」
「な、何を怒っているのだ……オレはただ路久佐の身を案じて……お前と路久佐は」
 朱主が一体なにを怒っているか分からないといったように、宮下は不安げな顔をする。
「じゃあ、わ、私こっちだからっ。宮下君は反対方向でしょ?」
 宮下の言葉を遮るようにして朱主は言う。
「お、おいっ! 紅坂っ?」
「私、1人で帰れるからっ、送って貰わなくて大丈夫だからっ……それじゃあまた明日ね、宮下君っ」
 そう口早に告げて朱主は、宮下に背を向け走り出した。
 オレンジ色した空が、次第に暗く黒く移り変わっていった。


 第2章終








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 W


 翌日、俺は才文社ビル向かいの喫茶店で待ち合わせていた在兎と合流して、そのまま在兎の住む家へと招待される事となった。
「っていうか、赤いスポーツカーって……」
「早く乗れよ、公人」
 もろ漫画じゃんって光景だった。ワイルドな出で立ちの在兎が、喫茶店の前に停まっていた、これまた高級そうなスポーツカーに乗り込む。俺はただ立ち尽くすばかり。
「まぁ……何も言わんよ。てか免許持ってたのね……」俺はまだ持っていないのに。
 俺が助手席に乗り込んだと同時にスポーツカーは勢い良く走り出す。いや、暴走した。
「ああ……これもお約束だよなぁ」体が激しく揺すぶられる。
「あ〜ん? 何か言ったぁ〜? 免許取りたてで運転に馴れていないからあんまり話しかけんなよな〜」
 下手なのかよっ、そっち系のキャラなのね……これもお約束なんだけどさぁ。そこはメチャ運転上手いキャラでお願いしますよ、在兎さんっ!
「頼むから安全運転でお願いします」
 どうか命だけは助けてくださいと祈りながら、暴走車の振動に身を任せた。

「えっ……一軒家っ? 一人暮らしだろっ?」
 命からがら到着した俺は、目の前に建った立派な一戸建てに目をみはらせていた。まだ足下がふらついている。
「あ〜……まぁ、小説もたくさん書いてるし、そこそこ売れてるみたいだからな〜」
 これ位は別に凄くないって、と軽く流す在兎。くそ。
 だが、俺も小説が売れれば夢の印税生活が……こんなに立派な家に住むことだってできる。よ〜し、俄然やる気がでた。
 在兎の仕事部屋に案内された俺は驚いた。まさにそのまま。ドラマや映画等で見る小説家の部屋そのものって感じだ。日当たりの良い窓際にちょこんとセットされた机。辺りにはもの凄い数の本に原稿用紙の数々。いくつもの本棚とそこにぎっしりと詰まった書籍群……いかにもプロって感じだった。
「やっぱり〜ラノベ作家を目指してるんなら実際に仕事場でレクチャーしてやった方がいいかな〜って思って……さ」
 在兎が少しはにかんだように言う。やはり自分の仕事場を見られるのは恥ずかしいものなのだろうか。かわいいじゃん。らしくないけど。
「ああ……なんか俺、すごく燃えてきたよっ、ありがとう。在兎」
「よせよ〜照れるだろ。はは……じゃ、じゃあさっそく公人の小説の内容、聞かせてよ」
「ああ……驚くなよ。これはすっげー異色作だぜ」俺は在兎に自信満々に朱主ちゃんの考えた壮大な作品について語った。

「なっ、なんだそれぇ? ばっかじゃないの」
 返ってきた感想は衝撃的な一言だった。俺の頭に落雷したのか、っていうくらい。
「え? なんで。いいアイデアじゃないか」
 思わずたじろぐ俺。天地がひっくり返る衝撃といっても過言ではない。過言か。
「公人〜、オマエ日記帳でも創るつもりか? それともエッセイでも綴るのか? どっちにしたところでそんな行き当たりばったりなノープランでラノベなんて完成しないぞっ。いや、より言うのなら、物語として成立なんてしないぞ」
「でも……現に結構書けているんだけど……」
「それは公人がラノベを書こうとする、いわゆる導入部分だからだろ? こっからどうすんだ? 一体オマエは何を書くつもりだ? そしてその物語に結末はあるのか?」
 そうだった。こっから先どうなるかなんて分からない。いや、どうかなると思っている事自体が浅ましい考えなのか。ここから先、物語が進む保証はどこにもないのだ。
「物語には起承転結がある。読者が読んで面白いモノを書かなくちゃいけないんだ。オマエ自身をラノベに書くったって、そんなの誰が読むんだよ? まだ起だけの物語をどう進めるんだ、現実で」
「あっ、でも事実は小説よりも奇なりって言うけど……」
「だからって実際に、現実で物語を創っていこうなんてばかげてるよっ。小説はあくまで架空の物語だ。現実では体験できない事を、小説を読むことで仮体験できるんだ。そんな都合良く小説にできる体験を現実で得られるなら誰も小説なんて読まねー。あと1ヶ月でその現実の物語を完結させる……しかもラノベとして体を成す面白い形をもってして……そんな都合のいい話、起こったらならこの世界は仮想世界だ」
「で……でも、彼女は……漫画家のその子は、俺は物語に巻き込まれる運命にあるって……きっと都合のいい物語が起こるんだよ」
「……公人、もうちょっと冷静になって考えてみろ。なに高校生の妄想に本気になってるんだよ。それにその子もその子だ。高校生とはいえプロの発言とは思えない。その子本当に漫画家なのか〜?」
 なんだか凄い哀れみの目で見つめてくる在兎。うう……そんな目で見ないで……。
「自称は漫画家って言ってたけど……詳しくは、分からない……」
「とっにかく、そんなアホみたいな考えでラノベを書こうなんて思うな。あと、その少女の訳分からん話もあんま鵜呑みにすんな。書けないならオレができるだけサポートしてやるからっ」なぜか熱が入ったように語る在兎であった。
 そうして在兎の説教を受けた俺は心折れながら、初夏の蒸し暑い道を帰った。


「君のアイデアが滅茶苦茶に酷評されたんだが……」
 翌日、さっそく俺は朱主ちゃんの自宅に出向き問い詰めてみる事にした。しかし、とは言っても相手は高校生で、しかもこっちはレクチャーして貰ってる身。ここは真に受けた俺に責任があるという体で話を進めよう。
「私を信用するというのならぁ〜、あなたに全責任があるはずなのは明白。私はただ助言しているだけ。それを実行するかしないかはあなた次第よ。ふん。それ位分かるでしょう? 子供じゃないんだし」冷めた目で言われた。
 ……まぁ、ごもっともなんですけど……ひどく正論なんですけど……まぁ、それはそれでいいとして、俺は先程からとても気になってる点がある。
「あの〜……朱主ちゃん。もしよかったら教えてくれないかな? なんで君、バスタオル姿なの?」視線のやり場に困りながら尋ねてみる。
 俺が朱主ちゃんのマンションへ行くなり、朱主ちゃんは一体何を思い至ったのか、いきなり俺を部屋に残してシャワーを浴びにいった。仕方ないので俺は小さなテーブルに腰掛けていたが、これまたどういう思考回路をしてるのか、俺の前に再び現れた朱主ちゃんの姿は、体にバスタオル一枚を巻いた、非常に危うい格好で登場したのだ。
「全く意図が分からない……」
 いや、俺としてはものすごい精神的に幸福な状態なんですけどね。朱主ちゃんはプロポーションもモデル並みに抜群だったんだね。たわわな胸のラインもくっきりと……いや〜、あなた着やせするタイプなんですね〜。あざっす。
「あまりいやらしい目でジロジロ見ないでよっ……これはね、あなたの為とも言えるけれどね……厳密に言うと物語の為なのよ?」
「物語の為?」っていうか俺の為でもあるんだ! 誘惑っ!?
「ふんっ、変な勘違いしないでよっ。これはいわゆるお約束よ! あえて私はサービスシーンを意識してこんな大胆な格好をしてあげてるわけよ。あなたの為と言うよりも、むしろあなたを通した向こう側への配慮……よ。そういえばこの物語にサービスシーンを入れるのを忘れていたからね」
「はい? サービスシーンって……」自分で作るものなのかよ。
「前回あなたがここに来たときはすっかりその事を失念していたのが不覚だったけれど……安心して、これからは私がイベント盛りだくさんを演出するわ。じゃんじゃんあなたのラノベに反映しなさい。あなたの事だから私がこうやって文字通り一肌脱がない限り、こういうシーン永久に訪れないし。不本意だけれど……必要だからね」
 またもやお約束ねぇ……それにしてもなんだ? これはまた世界を何かのお話の中だという例のあれか? 体張るなぁ……まぁ、そのおかげで俺は思わぬラッキーえっちの恩恵をいただいているわけだが……しかし。
「でも、朱主ちゃん。だったら違うぜ! 朱主ちゃんの言っている事は確かに正しいが、それは違う! サービスシーンを与えるって考えがそもそも駄目っ! 全然分かってない。意識しちゃ駄目だ! 恥じらいがなくちゃ萌えは半減だ! 朱主ちゃんっ!」
 これが物語なら俺には世の男性が思う貴重な意見をしっかり述べておく責任があった。あれ、なんか俺もしかして興奮してる? 熱キャラじゃね? 格好よくね?
「……はぁ? 何、その沸点。普通ここで熱くなる? その熱さ、もっといいシーンにとっときなさいよ。なんていうか……公人。あなたすごい気持ち悪い。いつもは限りなく薄い個性と、立ってないキャラが売りのあなたのイメージが崩壊したわ。ちょっとキャラがブレてきてるんじゃないの……幻滅ね。近寄らないでね」
 朱主ちゃんは思いっきり蔑んだ目で俺を見ていた。ちょっと距離置かれてるし。
「えっ? ここで素になるの? 乗らないんだ! 俺だけなんか変態みたいになってるし!」いや、初めから俺だけか。
 サービスシーンはもうおしまいらしい。身の危険を感じたのか? 俺も自分らしさをつい失っちまった。崩壊した。少なくとも表向きは常に紳士のつもりでいるんだぜ?
「はぁ……もうその話題はいいわ。それで……何の話だったっけ?」
 バスタオル姿のまま朱主ちゃんはテーブルに腰掛け、頬杖をして話を強引に戻した。
「だから、その小説家が言うには俺のラノベはラノベとして成り立ってないし、そんなの完成すらできないって言ってた。なんか俺、早くも挫けそうになってんだけど……」
 俺も体裁を整えてシリアスに本題に入った。しかし視線は朱主ちゃんの胸元が気になるご様子。3秒に0.0001コンマ、谷間を捉える。念のため脳内ハードディスクに画像を保管しておこう。後で何かの役に立つ時がくるかもしれない。
「でもね……私は言ったわ。迷う時があっても最後まで信じてこの道を進めって……あと、さっきから私の胸をチラチラみてるんじゃないわよっ、あなたの為にやってるわけじゃないんだからっ!」テーブルの下からケリがきた。
「いててっ、けど……在兎がそんな都合良くイベントなんて起こらないって……」
 ヒリヒリ痺れる脛を押さえながら、俺の視線は中空を彷徨っている。ちなみに今の衝撃でハードディスク内の画像データは全部消えてしまったようだ。う〜ん、残念。
「うふ、その小説家……確かに小説家としては超一流かもしれないけれどね……所詮はこの世界の理の中に支配されて生きている人間じゃない。あははははふぁ」
 そんな俺の胸中も知らず、朱主ちゃんはにやりと微笑む。
「は……? 突然何を言い出すんだ? また電波話か……?」
 いつものように変なスイッチが入っちゃったか? とりあえず温かい目で見守ろう。
「世界に縛られているから、世界の常識の範囲にいるから……その枠から出ることはできないし、現状に満足している故に枠の外を知覚することもできないのよ」
「……」もはやどこを突っ込めばいいかも分からない。
「それに比べて私達はそんな現実のルールからは外れた存在なの……だってほら、現にあなたは語れるような物語に今まさに直面しているじゃない? 今だけじゃない。その小説家と会って言い負かされたことだって、それ自体がこの物語にとって必要なストーリーだったら? あなたのお友達の小説家は、気付かない内に自分自身が世界の流れの駒となって無意識に動かされていたのよ。つまり所詮は世界の奴隷なのよ」
「ちょっと、朱主ちゃん……言ってる事がよく分からないんだけど……」
 あと、なんか怖いよ朱主ちゃん。それに……その流れはいけない。駄目だ、やめろ。
「けれど私は違うわ。私はこの世界の干渉から抜け出そうとしている。漫画はその為の手段に過ぎない。そしてあなたもその資質がある……私には分かるの。だからあなたは私を信じて物語を創ればいい。あなたの世界を創ればいい。大丈夫、その意思さえあれば物語はおのずと進んでゆく。そしてあなたはライトノベルという媒体で、空想世界とこの現実世界を結び繋げるのよ……きっと、きっと世界の真理が白日の下に晒されるわ。その時この世界はパラダイムシフトを迎えるのよ……」
 そう話す朱主ちゃんの瞳にはもはや何も映してはいなかった。敢えて言うならそれは自分自身を信じ込ませるためのもの……に見えた。すがっているような目。憧憬の……逃避の……瞳。俺には分かる。それは――俺と同じような目だったから。
「ちょっ……ちょっと朱主ちゃん……どうしたんだよ」寒気がした。それはきっとこの部屋のクーラーが効き過ぎている所為ではないだろう。「世界の真理とか……宗教じゃないんだからさ、俺は聖書を書くわけじゃないんだぜ?」
「あら、あなたにしてはいい反応じゃない。そうよ、聖書なのよ」
「な、なんだって……? 俺のラノベが聖書だって?」どちらかと言えば奇書だろ。
「というより、私から言わせるとこの世の全ての聖書は小説と言えるし、また逆も然り、小説は全て聖書たり得るものよ」
「はぁ?」朱主ワールド全開だ。もう止められない。
「小説じゃなくてもいいのよ。要はその対象が信仰されるかどうかの違いよ。もしも仮に聖書と呼ばれる存在が今の時代に発表されたとしても、そんなに信仰はされないわ。けど全く同じものが数千年前に発表されていたとしたら、それはきっと多大な信者を獲得できる宗教になっているということ」
「なんとなくニュアンスは……分かるけど。確かに現代に今信仰されてる宗教が誕生したとしてもそんなに信仰はされないだろうな……」
 なんとなくそう思う。早い者勝ち、あるいは後出しジャンケン的な。
「そして発想の転換をしてみて……現在、世にはびこる小説が仮に数千年前に発表されていたら、きっと多大な信仰を集める対象となるものがその中にあるはずよ。昔からでは考えられないわね。いま世界にこれほど聖書が溢れているなんて……それだけ世界の真理というのが近づいてきているのかもしれないわ、特異点へと……。そう、世界の終局は近づいているのよ……もうまもなく――この世界は終わる」
 何を言っているんだ? 世界が終わる? 世界の真理……? いや、そこを聞いて変な話が広がるのもまずい。その先に進んじゃいけない。少なくとも今はまだ……きっと戻れなくなってしまう……ここは、適当に流そう。
「要するに聖書もエンターテインメントってことなのか……」
「むしろ、エンターテインメントこそが信仰の対象たり得るものなの。言うでしょ? 優れた科学技術は魔法と変わらないって……つまりは奇跡なのよ」
「エンターテインメントが奇跡……?」また話が広がったみたいだし。
「分かりやすく言うとね、あなたはライターの仕組みを知っているから、勿論それで火をつけられるってことは不思議でもなんでもないわね。けれど、種も仕掛けも分からないマジシャンの奇術は魔法のようにも感じられるでしょ?」
「確かに。でも俺には分からないだけで、きっと種や仕掛けはあると思うけど……」
 というかライターだってそうだ。種は分からないけどそれはそういうものなんだから不思議とは思わない。
「そこがポイントよ。もしマジックに種や仕掛けがあるなんて先入観が全くなかったら、あなたはそれをどう感じる?」
「……そりゃあ、確かに魔法だ」
「奇跡よ」
「そうか! それが信仰につながるわけか」
「つまり状況よ。時と場合で、あとはより信者がとっつきやすく、インパクトのあるもの……それはかつて聖書であったり、奇跡であったりしたのよ。逆に信仰を生みやすいツールであっても背景が違えばそれは宗教になり得ない……ラブクラフトなんかはそうよね。クトゥルフ神話はあくまで架空の神話。ホラー小説の域を出ないのよ」
「なるほど、つまりはなんでもいいってことなのか……信仰されるかされないかだけ、それがたまたま信仰されやすいツールだったというだけ、なのか」
 そう言えばアニメ作品等にも言える。ある作品に対しての熱狂的信者が大勢いたとしても……それでもそれは宗教とは言えないだろう。いや……それとも、それはもう1つの宗教と言えるのでは……?
 いや、なら今度は宗教自体の定義が曖昧になってくる……だけどそうなると何の信仰も持っていない俺にはその辺の線引きは難しすぎる。これ以上は堂々巡りだ。
 けれど……これはなんだかきな臭い話になってきやがったぜ……。下手したら当局に命を狙われかねないぞ。大げさか。
「私は思うわ。あなたの創ろうとしている作品は、時代が違えば多くの信者を集める聖典になっていたと……それは世界の秘密を解き明かす為の指南書なのだから。世界の一つの答えなのだから。そうよ、このライトノベルを完成させて世界を新たな到達点へ導くのよ……人類をアセンションさせるの……こんな世界は私達が変えてやるわ……ふふふ。世界を終わらせるのは私なのよ。ふふ、あははははは……」
「しゅ、朱主ちゃん。熱心なのはいいが、ちょっと落ち着こ、少しクールダウンしよ」
 これ以上暴走させるのはまずいと、俺は朱主ちゃんに呼びかける。ドクターストップ。目が据わってないよ、朱主ちゃん。
「……うふふっ、私としたことが少々熱くなってしまったようね……。とにかくいいわね。あなたは正攻法で書けるほど実力はないの。賞の締め切りだってあと20日程しかないのでしょう? だったらもう引き返せないわ、ここまで来たら騙されたと思って最後まで挑戦してみたら? どっちみちあなたには選択権なんてないけれどね」
「……ちっ、分かったよ。こうなりゃもうやけっぱちだ」
 覚悟を決める俺。もしかしたら俺は間違っていたのかもしれないと感じられずにはいられなかった。俺は腰を上げた。
「あら? もう帰るの?」
 朱主ちゃんも俺につられて立ち上がった、が。
「あ……」俺は思わず惚けた声を上げてしまう。
 朱主ちゃんが立ち上がった拍子にあろうことか、体に巻いていたバスタオルが――。
「……」声も出せない様子の朱主ちゃん。
 バスタオルがストンと落ちて、朱主ちゃんの裸体が露わになった。なめらかな肌とスタイル抜群で起伏の激しい曲線美が俺の目を釘付けにする。
「……」朱主ちゃんは固まったままだ。さすがにこれは想定外だったのか、ショックを隠しきれないようだ。
「……ほ、ほら、朱主ちゃん。こっ、これはサービスカットだから……お約束お約束」
 俺は朱主ちゃんを慰めてみるが、
「……いいえ、公人。このシーンはカットするわ……あなたの記憶を抹消することによって……ね」やっぱりね。
 朱主ちゃんの言葉には抑揚がなかった。しかし言葉の裏に見え隠れする暗黒のオーラは、この後に起こるだろう惨劇を予感させずにいられないものだった。
 というか、そのわがままボディを隠そうともせずに俺に近寄って来るだけで分かる。俺を殺すつもりなんだな……ってね。なのに俺は色々な意味でその場から動けない。
 いや、待て朱主ちゃん。それはいくらなんでもとばっちりじゃないのか。よく考えたら俺は何も悪くねぇじゃないか。確かにいいもの拝まして貰いましたけど、勿論俺の頭の中のハードディスクにはばっちり保存済みですよ、大事な場所に保管してプロテクトもかけてありますけど、大抵のことでは消えませんけど、でもこれは仕方ないでしょ。不可抗力ですよ朱主さん!
「大丈夫、ハードディスクごと叩き壊してあげるから……諦めなさい、公人。不可抗力でもね……ほら、やっぱりお約束って大事じゃない?」その笑顔、怖いです。
 この日、俺は地獄を見た。


「……さすがに死ぬかと思った」
 朱主ちゃんの部屋から命からがら逃げ出した俺は、満身創痍で朱主ちゃんが住むマンションを背にして、長い坂道を下っていった。
 いや〜、でもラブコメのありきたりなシーンだと思っていた一コマも、実際にはこんなに命がけのものだったんだな〜……と、ふらつく足取りで十数分前の体験を回想していた。 そう考えたら割にあわないよな。ハードディスクどころか、俺という存在そのものがオシャカになるところだったし。でも意識が薄れつつある中、たまに柔らかいものが俺の体に当たってきたような気もしたのでよしとするか。
 朱主ちゃんの住むマンションから俺の住むアパートまでの距離は、近いのか遠いのか微妙な距離で、徒歩だと大体1時間位で――けれど今の俺は満身創痍――金欠状態ではあるけれども、命には代えられない。なので電車を利用する事にした。これなら炎天下でむやみに体力を消耗する事もないだろうと考えたのだ。賢いぞ、俺。
 駅のホームで電車の到着を待ちながら俺は、オレンジに染まった街並を見つめる。
 世界の真理。聖書としての小説。世界の次のステージ。朱主ちゃんの話がよぎる。
 プロ作家の在兎が言うには、俺のやっている事は荒唐無稽の馬鹿げた妄想らしい。俺もそう思う。けれど朱主ちゃんの言葉には説得力があって……いや、ただの詭弁か。でも朱主ちゃん、君はどうしてそれほどに……それほどまでに、世界を。
 その時、甲高い音が近づいてきた。電車がきたようだ。俺の思考は強制中断される。
 スピードを徐々に落とし停止した電車からはまばらに人が出て行き、続いて俺は電車内に入る。そこで――戒川仔鳥(かいかわことり)ちゃんの姿を見た。
 な……んで、こんなところに……彼女が……。
「わ? わっわわわ、み、路久佐くんじゃありませんか〜……」
 すいている電車内の座席に座りながら、驚いた顔で俺をみつめる仔鳥ちゃん。
「こ……戒川、さん……?」俺はただ立ち尽くすのみだった。
 ――戒川仔鳥ちゃん。いつもびくびくさせている小柄な体、そんなやわらかそうな肌を包む服装は清楚な白のチュニック。栗色でくるくるとウェーブのかかった髪はいかにも彼女らしいなと、なんとなく思った。
「あ、あ……み、路久佐くん、すっ座らないのっ?」
 目をぱちくりさせる仔鳥ちゃんの笑顔は、とてもキュートだ。そして同時に兼ね備えている、常にびくびくした様子はさながらおとなしい小動物のよう。
「……あっ。そ、そうだなー。席もこんなにガラガラだからな〜。じゃ、じゃあお言葉に甘えようかなー」
 俺の言葉はつっかえつっかえだった。テンパりながら仔鳥ちゃんの隣――と言っても、仔鳥ちゃんとの間は3人分くらい空いてたんだけど一応、隣――に腰掛けた。
「そ、それにしても久しぶりね路久佐くんっ。休学したって聞いたけど、どうしたの」
「いや〜、あはは。まぁちょっと色々あってね……」
「バ……バイトだって辞めちゃったし……わ、わたしの、ために……」
 ああ……あの事か……。過去の些細な出来事。それはここで語っても仕方のない過去。はぁ、居酒屋……ねぇ。はっ、まさかあそこが居酒屋だなんて言うのはとんでもない。
「いや〜、だからその事はもう気にする必要はないって戒川さん……俺いまはもっといいとこでバイトしてるんだから」何もしてないけど。
「……わたしも、やっぱり居酒屋のバイト結局辞めちゃった……ごめんね、なんか」
「そ……そうなのか。いや……別にいいんだよ、謝ることはないよ……」
 俺の語尾が濁って、暫くの沈黙が流れた。
「……そ、それで路久佐くん。今は何してるの?」
「え、えと……ちょ、ちょっと友達の家に行ってたんだ」
 仔鳥ちゃんの意図する質問の答えじゃないような気がするが、
「そ、そうですか〜……」
 これで問題ないらしい。
 ……俺はまさに心ここにあらずといった様子だ。終始、顔はまっすぐ前に向いたままで、窓の向こうの、過ぎ去る街並を見つめるだけだった。夕暮れの街はとても郷愁を感じさせるものだが、今の俺にはそんな余裕はなかった。時折、車窓に映り込む仔鳥ちゃんの顔は終始笑顔だった。わずか2駅の間だったが、その時間はとても長く感じられた。けれど、不思議と心地いい時間だと感じた。それは、仔鳥ちゃんが隣にいたから。
「そ……それじゃあ俺、ここだから」
 特に会話らしい会話のないまま、電車が目的地に到着して、俺はぎこちない動作で席を立ち上がった。そして仔鳥ちゃんの方に顔を向ける。
「う、うん。それじゃあまたねっ路久佐くん」
 途中暗い表情になってしまったが、いつもより一層明るい顔で言った仔鳥ちゃんの笑顔は、夕日に染まって儚げにすら思えた。やっぱり仔鳥ちゃんはその顔がいい。仔鳥ちゃんはいつもおどおどしてるけど……同時にほわほわ系の属性も兼ね備えているって、俺は知ってるんだ。
 ホームへ降りて仔鳥ちゃんの乗った電車を見送った俺は、なぜかまた朱主ちゃんの事を思い出した。
 ひぐらしの声がどこからともなく聞こえてきた。
 俺は一体何をやっているんだろう……。結局俺はただ逃げているだけなのかもしれない。自分の状況から。将来の事から。そして、現実から……。世界から。
 だったら俺も朱主ちゃんも同じだということになるのか……?
 俺は、アパートまでの帰り道を、下を向きながら歩いた。影が遠く伸びていた。



 X


 あれから数日。物語は全く進まなかった。やはり俺のこの選択は間違っていた。
「だ〜から言っただろ〜、そんなに都合よく小説にできるような現実が転がっているわけねーだろ」在兎は呆れるような目で見る。
「んじゃあこの場合どうしたらいいんだ、教えてくれよ」俺の声は自分でも情けないものだと思った。
 俺と幼なじみの小説家、在兎は才文社前の喫茶店にいた。ここには最近よく来るようになった。すっかり常連だ。
「いやはや、すまないが正直オマエのその執筆方法に対してオレからアドバイスできるようなことはない。何もない。ナッシング」
「そ、そんな……」ナッシングなのか……。
 俺は悲観する。こんな事なら在兎の忠告を聞くべきだった。俺はまた朱主ちゃんの詭弁に乗せられて有頂天になっていたのか? この数日間『ゲキチュー』は全く進まなかったのだ。危機を感じた俺は、在兎に救いを求めて今の状況に至った訳だが……。
「勘違いすんなよな。これは何もオレの言うことを聞かなかった公人に対しての当てつけとかじゃないから……オマエのその書き方、オレには専門外なんだ。どう言っていいものかオレにも分からない。公人自身の物語だから……オレには口出しできないよ」
「天才売れっ子小説家なんじゃないのか?」
「だっからだよ。オレはもう既存の小説にガチガチに嵌りすぎている。だからこそ奇抜な方法には対応しきれないんだ。無理無理のカタツムリ」
「天才売れっ子小説家ってとこは否定しないんだな」
「うるっせー、とにかくそのやり方じゃ駄目だってことだ。素人だからって奇抜な方法に逃げたって余計しんどいだけだぞぉ……大体、仮にそれでデビューできたとして、次からどーすんだって話だよっ。むしろ難しいのはそれからなんだぞ。本当、その高校生漫画家いったい何者なんだ。変な事を吹き込みやがってまったくもぉ……」
 自分の事のようにやたら熱心になっている在兎。こいつ、いい奴だ。口は悪いけど。
「ああ……それだったらしょうがないな……。分かった。ちょっと自分でなんとかしてみるよ。悪いな、いつも心配かけて」
 あまり俺に手をかけさせるのも悪いのでここは素直に引き上げよう。
「い、いや、そんな……オレこそ悪かった。公人の力になってやれなくて……」
 在兎は本当に申し訳なさそうに言う。
「いいよ。俺にはまだまだ手は残されてるさ」
 俺は心配かけさすまいと心優しい幼なじみに笑顔を向けた。残された手はないけど。
「……そ、その、高校生漫画家――ええと、確か朱主ちゃんだっけ――その子のところに……行くのか?」
 在兎は目線を逸らせて聞いた。口調はなぜか弱々しかった。
「うん? ああ。これは朱主ちゃんのアイデアだし彼女の意見も聞いておかないと」
「そっ、そう、か……ふん」在兎の表情が曇ったような気がした。どうしたのだろう。
「大丈夫だよ、心配するな。どうしても書けなくなったら今度こそまともにライトノベルを書くからよ」
 よう分からんのでとりあえず約束しておく。
「ああ……そう」頬を膨らませた在兎。
 なんだ? 怒ってるのか!? どういう事だ? さすが、地元では変わり者と名高かった在兎。俺には彼女の気持ちはよく分からない。
「そ、それじゃあな在兎。今度お前の小説読むからよ」
「フンっ」ぷくーっとなってる在兎……やべぇ、ちょっと可愛いかも……。
 だが触らぬ神になんとやら。俺はコーヒー代を置いて、喫茶店を逃げるように出て行った。笑えるぜ……物語から――自分の方から逃げてるじゃないか。果たしてこんな俺にそれでも物語の中心たる資質はあるというのか……朱主ちゃん。
 急がないといけない。いつの間にかタイムリミットは半分になっていた――。


 ――そう、一ヶ月あった才文社ラノベ新人賞の締め切りも丁度半分が過ぎたところ。
「それだと言うのに全く物語が進展しないんだが……」
 俺は今、再び朱主ちゃんの部屋にいた。前回かなり電波な話を聞かせれたので少々抵抗はあったが背に腹は変えられないというやつだ。というか俺も女子高生に頼るなんて、我ながら情けないな、全く。
「それよりも、朱主ちゃん――一つ質問していいかな……なんでこの部屋はミニコンサート会場と化しているのかな?」思わず笑顔も苦笑いになってしまう。
 目の前には珍現象が広がっていた。俺が相談に来たというのに何を思ったのかこの子はいきなり部屋を出たかと思うと、衣装を変えて俺の前に現れた。しかもそれは完全にコスプレ衣装。何かのアニメのキャラクター? 別にいいけど結構きわどいよ、それ。色々な部分が見えそうで見えないエッチぃ衣装、俺には刺激が強すぎるよ。
 まったく……前回の事といい、何がしたいんだ。ここは来るたびに何かサプライズが起きなければならない縛りでもある場所なのか……と思っていたら、どこからともなく雑音のような音楽が流れ出して――。
「そしてなんで朱主ちゃんは歌い出したのかな?」
 歌っていた。もう駄目、ついていけない。
 曲の間奏部分らしいタイミングで俺は話を切り出した。君にそんな趣味があったなんて俺知らなかったよ〜。しかも結構上手いし。振り付きだし、ノリノリだし。パンツ見えそうだし……むむむ……見えそうで見えないぞ〜……縞パン? 痛てっ! 殴られた! 見えなかったのにっ!
「ふぅ……人が真剣に歌っているというのに五月蠅い男ね、あなたも。まぁ、あなたは阿呆だから分からなくても当〜然っ、でしょうから教えてあげるわぁ。これはね、先の先まで見据えた私の企業戦略なのよ。ふわぁっははははー!」
 そう言って朱主ちゃんは、小さなテーブルの向かいに腰掛けた。
「企業戦略? 何が? アイドルでも目指してるのか?」
 わけわかんねーぞ。あと、ほっぺがひりひりするぞ。それは君に殴られたから。
「察しがいいわね〜、あなた。さすが主人公……馬鹿すぎず賢すぎず、物語として理想のテンポよ、心得てるじゃない。たとえ推理小説だったとしてもワトソン役は勤まるんじゃない? 読者より少しお馬鹿であるべしってね。まぁ、あなたの推理は……当たらずも遠からずってとこ。正確にはキャラソンよ」
「キャラソン?」話が飛びすぎて分からない。あと前置き長すぎ。
「公人……あなたもラノベ作家を目指すならもっと視野を広げなさい。つまりメディアミックスよ。ラノベ作品ってアニメ化される可能性が結構高いじゃない。そうなるとね……最近のアニメには劇中のキャラクターが歌う通称キャラソンがあってね――」
「あっ……そういうことか。この物語でもキャラソンを出そうということか! でも、わざわざここで歌う意味はないんじゃないのか?」
「それがあるのよ……下地なのよ、これは。私がこういうキャラだという下地作り。誰もが違和感なく納得できるように。私が歌うキャラだという印象付け。より売り上げが伸びるように。劇中歌ってやつね。だから私は土壌を作ってあげたのよ。こうすることでキャラソン化もされやすい。要はタイアップしてスムーズな商品化を図ったのよ」
「はぁ……そりゃそうか」
 じゃあこの会話はまずいね……汚い大人の策略がモロに見え隠れって感じだね。
 ふぅん。でも劇中歌……ってことは。
「……ちっ、ちなみに今の曲はその為に私が作ったオリジナルのものなのよ……そ、そのままキャラソン化できるように……」
 最後は恥ずかしそうに語尾を濁した朱主ちゃん。やっぱ自作なのね。
「つか……そんな先の事を見越して……曲まで作って……いくらそういう物語だからって、チャンスを逃さないっていうか……意地汚いって言うか……なんて、面倒な」
 どうりで聞いたことない曲だと思ったし、音楽もなんかチープだった。この情熱はどこからきているんだ。というかその振り付けも君のオリジナルなのかよ。
「何を言っているのよ、私は世界を超えるためにはどんな事にも決して妥協はしない」
 音楽はチープだけど……でもすげーよな、自作だもん。まぁ、さすがに衣装は手作りじゃないっぽいけれど。
「あ、これも手作りよ」
「うはっ、そうなのかよ、上手いじゃん! つーことは……それじゃあ……いや……いやっ! じゃなくて……そうじゃなくて! つーか、俺はそんな話をしに来たんじゃないんだよっ!」本来の趣旨をすっかり忘却していた。
「どうしたの? 他に何か用があって来たとでも言うの?」キョトン顔の朱主ちゃん。
「そうだよ。あるんだよ。ありまくりだよっ! 物語が進まないって言ってるんだよ。だから執筆もできないの! 今日はその為に来たんだよっ!」
 すっかり朱主ちゃんのペースに乗せられていた。本題からかなり逸れてしまった。これ以上の脱線は駄目だ、さすがに……主人公としてここは俺がなんとかしないとな。
「ああ、そういえばそうだったわね……確かそんな事を言ってたわね。すっかり歌うことに夢中になっていたわ……だって私にはもう、歌う事だけしかないんだから……」
「嘘だろ」この子にそんな純粋な心はないであろう事は明らか。
「むぅ……ヒロインのイメージを下げるようなことは言わないっ。ふん……そんなくだらないことを……ならば! 行動すればいいじゃない! あなたは大きな因果をその身に宿しているのよ、物語なんてすぐ発生するわっ! はっはっは」
 超常的な根拠。なのに自信満々。相変わらずオカルティックな朱主ちゃんだったが、俺もだんだんこの子の言いたい事は分かってきた。いや、慣れって怖いなホント。
「でも、執筆だって喫茶店とかファーストフード店とかできるだけ色々な場所でやってるんだぜ? でも結局筆が進んだのは、俺がネットカフェで初めての執筆をするところから、在兎にぼろくそ言われて、朱主ちゃんに電波な話に説得されるシーンまでだし。そっから数日間の出来事は何にもなかったよ……つか行動って言っても何すればいいか分からね」
「ぬう。そうね……ということはここで何かキーイベントをこなさないと次のシナリオに進めないって事なのかしら……だとしたら、あなたにとって必要なフラグがなんなのかを考えなければいけないわね……」渋い顔をして考え込んだ朱主ちゃん。
「フラグってゲームじゃないんだからさ……」
「そうね、ゲームじゃないわね……そんなのはゲームに失礼よね。それでも敢えてゲームというなら、人生はとびきりのクソゲー。いいえ、ゲーム以下のゲームよ。ゲームとしての最低基準を遙かに下回る、もはやゲームと呼ぶのもおこがましい欠陥品」
 歪んでいるな相変わらず。また長くなりそうな題材を与えてしまったみたいだが。
「まぁ、ここで話を横道に逸らすと、また長くなってしまうから自重するけれど、それよりあなたのフラグねぇ……てっきり私、あなたにはイベントが発生するような社会との繋がりなんてほとんどないに等しいものだと考えていたんだけれども」
 良かった。どうやらこれ以上逸れずに話を進められそうだ。
「……って、いやっ酷いなっ! 一応俺もまだ大学生って事になってるんだけどっ!」
「……大学生?」
「そうだよ……休学中だけど」
「……そう、か……そうよ、分かったわ……きっとそれよっ」
 珍しく興奮気味な朱主ちゃん。なにが分かったんだ。どうせろくな事じゃないけど。
「それって?」一応聞いてみる。
「大学よ。大学に行くのよっ、そこでイベントを起こさなければ物語は進まないのよ」
 ほらみろ、ろくな事じゃない。つか、こいつはろくな事言ったためしがない。
「……って、あぁ? 大学にぃ? だって俺休学中だよ!? 何しに行くんだよっ?」
「ふっふ〜ん……何しに行くとかは別にいいのよ……要はあなたが大学に行くことが物語にとって必要不可欠なこと。あなたが現在この世界との繋がりのある僅かな部分……この繋がりを完全に断ち切ることになるのか、それとも……」
「何その話っ!? ちょっと物騒な響きがするんだけどっ!?」
「いいじゃない、いずれあなたはこの問題を克服しなければならないのよ? いつまでも目を逸らしてちゃいけないわ。成長しなさい、公人。ドンマイ」
 ……本当にこの子、俺より年下なんだろうか……なんか自信なくしちゃうよ。
 結局本題の話の方がキャラソンの話よりも短かったし。


 その日の夜、我が居城であるボロアパートに帰った俺は、タイミング良く鳴り出した電話を手にとった。そしてすぐに後悔した。
『あっ、お兄ちゃん。わたし、明後日にそっちに行くから。泊めてってねっ』
 妹からだった。ああ……つい条件反射で俺はなんてことを……そして俺は決して逃れることはできないんだろうな……って。
「え? お前、いきなり何言ってるんだよっ、こっちも色々忙しいんだよ」
 無論これっぽちも忙しくないのは言うまでもない。
『近い内に様子見に行くって言ってたでしょ〜? 大丈夫っ、大丈夫っ。お兄ちゃんの迷惑にならないようにするからっ。ね?』
「で、でもっ……」
『それに〜わたし、お兄ちゃんの書いた漫画見てみたいも〜ん』
「え……あ、ああ……それは……」
 そうだった。妹は俺が漫画家を目指してると思っていたんだった。
『じゃ〜、伝えたからね〜。ばいぶ〜』
「あっ、まって」
 それだけかよ、切るの早いな。相変わらず唐突だ。ばいぶ〜って。
 つーつーつー。
「……」
 ああ……本当だ……確かにそうかもしれないよ、朱主ちゃん……。君の言うとおりだった。物語はどうやら動き出したみたいだよ。

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 第3章 作中作中作(交錯物語)

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 美奈川から手渡された謎の小説を、路久佐が読んでから一日経った朝。
 春の朝、いつものように路久佐が学校に向かっていると、その途中で偶然にも幼なじみの紅坂朱主と出会った。
「うげっ……。あ、公人じゃん。おはよー」
「いやっ、今明らかに嫌そうな顔したよねっ!? うげっ、って言ったよね!?」
 路久佐は朱主と出会う度に心に傷を作っていた。
「うん、つい本心が出ちゃったけど気にしない気にしない」笑顔で誤魔化す朱主。
「って、全然誤魔化せてねぇじゃねーかっ! 本心じゃん! 気にするよ!」
 心に新しい傷を付けながらも路久佐は朱主と並んで朝の道を歩いて行く。春の天気は清々しく、鳥の鳴き声が心地よかった。
「ところで公人……」
 路久佐の隣を歩く朱主は、黒い長髪をさらりとたなびかせ彼の顔を見る。近くで見る顔は人形のように整っていて、思わず見とれてしまいそうになる。
「な、なんだよ……」
 少し心臓の鼓動が早くなるのを感じたが、努めて路久佐は冷静に朱主の目を見据えた。
「うん。昨日のね……美奈川さんと3人で話してたじゃん……それでさ……もしかしたら新しい原稿が入ってるかもしれないでしょ?」
「ああ……そうか」
 公主人による小説の第1章の内容は昨日の時点で終了していた。
 昨日読んだあの小説が未来をことごとく描写しているとするならば、予言が現実に追いついた今、いつ小説の続きが現れてもおかしくはないということなのだ。
「ねぇ、一応確認しとく? 投函箱」
「う〜ん、そうだな〜……」
 なんとなく、路久佐はあの小説とはもう関わりたくなかった。できる事なら忘れたかったが、美奈川が妙にはりきっていて今更やめようなんてなかなか言い出せなかったのだ。
「っていうか、そろそろチャイム鳴るんじゃねーの? 急がないと」
 と、路久佐は走り出す。話をはぐらかせることにした。
「話をはぐらかすな、待てぇ〜」
 しかし朱主は簡単には引き下がってくれなかった。朱主もなかなか好奇心旺盛な方で多少なりとも例の小説に興味があるようだ。
 路久佐が校門の中へ入ってしばらくすると、朱主に追いつかれたらしく肩を掴まれてしまった。
「はぁはぁ……相変わらず足はえーのな……」息せき切っている路久佐。
「つーか、あんたが運動音痴なだけじゃない。だらしないねぇ」対する朱主は息一つ乱していなかった。
「くっ、煮るなり焼くなり好きにしろッ」
 路久佐は両手をあげて降参のポーズ。だけど朱主はそんな路久佐を冷ややかに見つめて、
「馬鹿言ってないで投函箱のチェックしに行くよっ」
 路久佐を置いてさっさと先を進んで行った。
「あっ、やっぱ確認しに行くんだ。そーいう流れなんだ」
 ちょっと虚しさを感じながら、路久佐は慌ててその後を追う。
 そして路久佐と朱主は校舎に入ると下駄箱で靴を履き替え、部室の方へ向かった。
「つーか、もうすぐ予鈴鳴るよ。寄り道してる暇ないぜ」
「ちゅうか、私達の教室と反対側にある訳じゃないんだし、時間のロスにはほとんどならんってのっ。どした公人、さっきから男らしくないぞっ♪」可愛らしくウインクしてみせる朱主。
「ないぞっ♪ って言われましても……。なんか引いた」引きつる笑顔の路久佐。
「はぁ〜? 私のぶりっこ作戦が効かなかったっていうの〜?」
「うん、効いたためしがない」
 とか言ってる内に2人はSSK部部室前に辿り着く。そして部屋の前には投函箱。ポストを一回り小さくして、色が赤くなくて白い、木製の箱。
「さぁ、鬼が出るかジャガー出るか」
 今日は何故かやたらとテンションの高い朱主だった。
「蛇ね」
 ツッコミ担当の路久佐はこんな時でも律儀にツッコんでくれる有望な人材なのだ。
「よし、じゃあ……開けるぞ」
 そしてゆっくりと、箱の扉が開かれる――。



「う〜ん。やっぱもう一つの世界が出てきたか〜……これでどっちが現実なのか分からないようにしようという魂胆なんだな」
 唸りながら兎奈々偽在兎は第2章まで書かれた原稿から目を離した。
「ねぇ、部長。一体誰が小説を書いているんでしょう。本当にこの世界は小説の中なのでしょうか。それともやっぱり未来が予知されているんでしょうか?」
 路久佐公人は動揺を隠せない素振りで在兎に食ってかかる。
「とりあえず落ち着けぃ、路久佐ぃ〜」
 在兎は半開きの目で路久佐をなだめると辺りを見回した。
 現在路久佐達は、公主人の小説の中に登場した公園にいる。戒川仔鳥以外の部員は全員この公園に集まっていた。
 朱主は先程から恥ずかしそうに俯いている。宮下と路久佐はその様子に気付いてなかったが、在兎にはそれが微笑ましかった。
「で、オレ達はどうしてこの公園にいる訳なのだ? 出所不明の小説を読んで感想を述べ合うだけなら部室でもできるが」
 宮下は無表情の顔で路久佐を見つめる。だが特に怒っているわけではない。というか公園内に備えられた木造テーブルの上で漫画を書いている。彼は漫画馬鹿だった。
「それは……本当は俺達もこんな大げさにやる必要はないと思っていたんだけど、新たな原稿を今朝見つけてしまったから……」
 昨日は他の部員達には黙っておこうと言ってたのだが、なにぶん事態は急変してきている。
 路久佐は暗い顔で、隣にいる美奈川に目を配らせた。そして路久佐の言葉を美奈川が繋ぐ。
「それで、僕が路久佐さんと紅坂女史に相談を受けましてね。正直スケールが大きくなりすぎました。私達だけでは対処できません。これは部全体の問題だ、と思いまして……ね。どうせだから第1章が終わった地点から、部員全員で始めてみようと思いまして。だってこっちの世界は第1章の続きなのでしょう? 第2章は別世界。で、きっと今からが第3章なんですよ。もう始まっているんですよっ!」
 美奈川は在兎から原稿を受け取りながら説明する。
「ふぅ〜ん。相変わらずあんたもメタだね〜……それにしても謎の作者、公主人か。こういう話なら仔鳥が十八番じゃないか。なんてったって自称メタ学の第一人者だろ? なんで来ていないんだ? 弟子のお前にも分からんか?」
 在兎は美奈川に原稿を渡すとシーソーの片側に腰を下ろした。
「う〜ん。第2章にも同じような事が言及されていましたけど、多分秘密の部屋に籠もっているか出版関係の話でしょう。偶然にもこの部分については、現実と架空の世界がシンクロしてると言えますね〜」美奈川は原稿用紙を大事そうに抱えながら言う。
「そっか、あいつはSSK部で一番謎に包まれた人間だもんな。出版か。凄い奴だよ……さて、路久佐。話は変わるがこの小説、前にお前達が読んだ第1章では未来の事が書かれていたんだろう? まぁ、小説に書かれたまま解釈すればいいんだろうけど……」
 在兎はこんな無茶苦茶な小説でも、冷静に作品の謎を分析している。
 路久佐は言葉を選びながら言った。
「ええ。小説の第1章が僕達の体験した事そのままです。勿論書かれたこと以外にも、細かい行動はありますが、いずれも小説として考えれば書く必要のない出来事ばかりです」
「そうか……なら、第2章でも言及されていた事なんだけど、結局路久佐、第1章の最後に言った言葉は小説に書かれていた通りの言葉と考えていいのか?」と、在兎は続ける。
 それは路久佐が小説の続きを書くとこを否定する場面。第1章はその言葉で終わる。
 路久佐は頼りなさげな声で呟くように答えた。
「……それは、だから、見たままですよ。小説に書かれた通りの事を言いました」
「なんだか言葉が弱々しいな。まぁいい。だったらもう一つ教えてくれ路久佐。お前の言葉が小説通りだとしたら、1章の最後の部分、誰かが改ざんしたとかの事実はないよな?」
「それは……どういう意味ですか?」路久佐は恐る恐る真意を尋ねる。
「言葉通りだよ。無件が小説を発見した時点から、今までの間に内容が書きかえられた事実はないかって話だ」
 在兎は眠そうな目でビシリと言う。美奈川はその言葉を聞いてほほう、と何かを納得した。
「成程。成程。さすが部長です。見事な着眼点です。ですが、いいえ〜それはありません。第一発見者の僕が保証します。この小説が書き替えられた事実はありませんよ〜」
 発見して以来、肌身離さず原稿を持っていた美奈川が得意満面の笑みを浮かべて答える。
「ふぅん、そうか……第2章の世界で美奈川も言っていたように、あたし達の世界ではそれを直接本人から聞けるから楽だよな」と在兎はこくこく頷く。
 あれだけ悩んでいた彼らの問題はあっさり解決した。
「あのぅ、それでちょっと気になった事があるんですけど、いいですか〜」
 会話が一段落したのを見計らって朱主が発言する。
「さっき美奈川さんが第3章は既に始まっているって言った事で、ちょっと疑問に思ったんですよ。もし今3章の小説内に私達がいるのなら、未来が書かれた原稿はどこにあるのだろうって」その時一陣の風が吹いて、朱主の髪がなびいた。
 その疑問――路久佐は、はっと息を呑んだ。
「あ、そうか! 俺が今朝、第2章が書かれた原稿を見つけた時は興奮でそのことに気付かなかったけど、今回は未来については一言も触れられていない……いや、むしろ現実の世界について一切語られていない」
 今回送られた第2章こそが空想の話。もっとも、その内容といえば、いかにも向こうの世界の方が実は現実なのだと語られていた。逆に言うならそれは、現実と虚構を反転させたいという、作者の意図の現れであろうか。それとも。
「ナハハァ。第2章の方々にとってはあっちが現実なんですけどねぇ」
 真剣な表情で考え込む路久佐の隣で、美奈川がその事を指摘する。
「公人もそう思うでしょ? 第一章が投函箱に入ってるのを美奈川さんが発見したのは、現実に1章のシーンが再現される3日前なのよ。今回は現実とは全く関係のない世界の話が描写された第2章を、公人が朝に発見……そう考えると、3日後に第2章そっくりの物語が始まる……」朱主が同意を求めるような顔で路久佐を見つめる。
「いやっ、いくら何でもそれはないだろ。記憶喪失にでもならない限りそんな事は起こりえない」路久佐は否定する。
 たった今読んだ小説と同じ行動を、そっくりそのままやるなんて考えられない。第1章の行動がおかしかったのだ。
「じゃあ何だって言うのよ、公人。単に方向性が変わっただけだとでも言うの?」
「う〜ん、もしかするとそうかもしれない。それとも……実は第3章も既に書かれていて、それに俺達が気付いてないだけで、どこかにあるのかもしれない」静かにくぐもった声で言う路久佐。
「どこかってどこですか〜? もしやひょっとして誰かが投函箱の中から勝手に持ち出したとか……」美奈川が顔を曇らせる。
 投函箱は鍵がかかっていなく、誰でも開けようと思えば開けられるようになっていた。だが、部員以外に誰も開けるような人間はいないので、今まで気にしていなかった。
 一同の間に重い空気が流れた。結構な時間も経ち、公園内に吹く風は冷たくなっていた。
「……もしそうなら、あたし達は行き詰まった事になるな」
 いつの間にか公園のブランコに座っていた在兎がだるそうに言った。
「小説がない以上は未来予知もなにも分かりませんもんね。でもそんな物誰が持って行くんでしょうかね」朱主は上の空で夢を見るようにため息をひとつ吐いた。
「まったくもって謎だらけだよな……ま、手がかりがない以上仕方がない。せっかくこんなところまで来てもらって悪いが収穫なしって事だ。今日はここで解散だ」
 そろそろ面倒臭くなってきたのか、在兎はお開きにしようとする。第1章の時にも同じ事が言えるが、結局公園に集まった事には意味なんてあったのだろうか。
「ま、待って下さい、在兎女史。小説はどこかにあるはずなんですよ、在兎さぁん……」
 引き留めようとする美奈川の努力も虚しく一同はここで解散となった。
 果たして、第3章が書かれた原稿は既に存在しているのだろうか。
 そしてそれが存在するのなら、それにもまた未来の事が書かれているのだろうか、もう既に第3章は始まっているのだろうか。……いや、分かりきった事だ。始まっているから今まさにこの文章が書かれているのだ。
 それを知らないのは舞台の上にいる彼らだけである。



 1 それとも2(自室にて)


 日曜日の朝――と言ってももう昼前だが――路久佐が朱主からの電話によって起こされると、彼女の口から衝撃の事実を聞かされる。
「いつの間にか机の引き出しに入ってたのよ……小説の第3章が」
 朱主の信じられないような言葉を聞いた路久佐は、支度もそこそこにすぐさま朱主の住むマンションへと向かった。
 路久佐はその途中、宮下にも連絡を入れた。
 幼なじみである路久佐と朱主は家が近く、走れば自宅からお互いの家まで数分で行ける。
 宮下は幼なじみと呼ぶには日が浅いが、路久佐にとっては古くからの親友で、比較的近くに住んでいる為、念を入れるつもりで呼んだ。
 連絡も終え、すぐに朱主の住むマンションに辿り着いた路久佐は、朱主のいる部屋まで行って、呼び鈴を押した。
「ああ、公人っ、遅いよぉっ。怖かったんだからっ」
 ドアから飛び出した朱主はいきなり路久佐に飛びついてきた。
「って、うわっ! ちょ……こんなとこで抱きついて来るなって!」
 路久佐は慌てて引きはがそうとするが、なかなか離れてくれない。あと、こんなとこじゃなかったら飛びついてきてもよかったのだろうか。
「大丈夫、誰も見てないって……今日は両親も妹も家にいないから寂しかったんだよぉ」
 その発言にはどういう意味が込められているのか、朱主は泣きそうな声で路久佐の胸に顔をうずめる。
「いや、そういう問題じゃないって……てか、なにそのキャラ。たまに出てくるけどっ。ツンデレ?」
 と、言いつつも路久佐の体に何やら弾力のあるものが密着してくるのでこれはこれでラッキー、なんて思っていても到底口には出せない路久佐であった。殺されるから。
「ふにゅうぅ……」
 朱主は猫のような声で気持ちよさそうな表情をしていた。
「ふっ、しょーがねぇな。もうちょっとこのままでいてやるよ」
 と、半分以上の下心の気持ちで、路久佐は役得感に浸ろうかと考えた。
「あ、もう別にいいよ……なんかきもいし。それより私の部屋に小説があるの。とりあえず中入ってよ」
 あっさりと体から離れて朱主は家の中へ入っていった。
「なんじゃそりゃ……いや、別にいいんだけどね。お邪魔しまーす」
 なんだか少し悲しい気持ちになった路久佐だった。
 朱主とは幼なじみであるため、路久佐は何度かこのマンションには来たことがあったのだが、高校生になってから行くのは初めてだった。
 しかし、家の中は路久佐が知っている頃とそう変わらず、独特の家の香りに懐かしさを覚えて感慨に浸っていた。
「それじゃ入って」
「あい、失礼するよ」
 路久佐は特に躊躇することなく朱主の部屋に入る。女子の部屋だからといっても、朱主の場合は特別だった。
 部屋の中は、以前見たときとはだいぶ変わった様子だった。前はもっと女の子という感じのファンシーな内装だったが、今はシンプルでよく言えば大人びたものへと変化していた。
「なに人の部屋じろじろ見てるのよ……なんだか恥ずかしいじゃない」
「ああ、ごめんごめん……それで小説というのは……ああ、あれか」
 部屋の片隅に置かれた机の上。窓から木漏れ日が差し込む中、そこには紐で綴じられた原稿用紙の束があった。紛れもない、公主人作の小説である。
「これが机の中に入っていたんだな……」
「そう。昨日の夜見たときは確かになかったの。朝起きた時も絶対なかった。でもさっき開けたら……いつの間に入れられたのか分からない……」
 朱主の顔にはまだ怯えが見られたが、路久佐が来たことでいくらか安心したのであろう。いくらか落ち着きを見せている。
「引き出しは鍵をかけるタイプのものじゃないから、中に小説を入れようと思えば誰でもできるわけか……。まぁ問題はいつ入れたかだけどな……部屋の鍵は閉まっていたのか?」
「内側から鍵をかけるタイプのものだから、私が部屋にいる時は大抵掛けてるけど……そんなの全然あてにならないじゃない。小説の発見時に私の部屋が密室状態だったってわけでもないし!」
 そうだ。こういった不可解な出来事が起こるとつい、物語性のある架空の事件になぞらえて考えてしまうが、実際これは現実の事件だ。密室という小説内での合理性は普通起こらないのだ。
「あ……でもおかしな点があった」朱主が何やら思い出したようだ。
「そ、それは何だっ」思わず身を乗り出して尋ねる路久佐。
 朱主は不安げに顔をしかませながらゆっくりと話し出した。
「えとね、私が小説を見つけた時ね……なぜか部屋の窓が開いていたの。今日は天気が良くて暖かいから、窓自体は結構開けてる事が多いんだけど……でもあの時は閉めていったはずなの……ちょっと買い物に出かけていたんだもん。窓は閉めたわ。でも帰ってきた時開いていた。そこで引き出しを開けた時に見つけたの」
「ということは小説が机の引き出しに入れられたのは、紅坂が買い物に出かけている間ということか……外に出るのを見計らっていたんだな」
 なんだかミステリーっぽい展開だなと、路久佐は感じた。
「で、でもどうやって家に入ったのよ? 家の鍵は閉めていったし、私が出かける時は窓の鍵だって閉まっていたのよっ。それにここは3階なのよ」
 窓の外はベランダで、隣の家に逃げるか壁を伝って降りていくしか脱出する手立てはない。飛び降りるという手もあるが……3階は確かに高い。
「う〜ん、そうだな……窓からの出入りは無理として……多分玄関の鍵が開いていたとか……まぁ大抵の家なら他にも侵入口の1つや2つ位あるだろ」
「ううん……なんだかいいかげんだな〜その推理」
「ははっ、これは推理小説じゃないんだぜ。完璧な密室なんて都合のいいもの現実にはないんだって」
 そう。ミステリーっぽくてもこれは現実なのだ。それに推理は彼らの性分に合わない。強いて言うなら、SSK部部長の兎奈々偽在兎くらいだ。
「むむぅ……じゃあさ、なんで犯人は窓を開けたって言うの? 窓から出ていかなくてもその侵入口から出て行けばいいんだしさ。それとも犯人がわざと痕跡を残していったと言うの?」
 けれど朱主は納得できないというように頬を膨らませた。長い黒髪がふわりと揺れる。
 そして路久佐は朱主の言葉に答えを見つけた。
「そうだよ、それだ! 犯人の目的は小説を紅坂に読んで貰いたかったから、引き出しを開けて貰うようにわざと窓を開けて出て行ったんだよ!」興奮気味に拳を握る路久佐。
「確かに……。窓が開いてるのを見て嫌な予感がしたから、部屋の中の物がなくなってないか確認してたし……」う〜んと首を傾げる朱主。小さな頭がふりふり動く。
「多分、盗られた物はないだろうと思うよ。あくまでその小説が目的なんだ」
「でもさ……そもそもの疑問なんだけど、そんな空き巣まがいの事をしてまで、どうして私の机の中に入れなくちゃいけなかったのよっ……」
 これは犯罪行為だ。こんな危険を冒してまでやる意味があるのか。
「そんなの俺には分からないよ……とにかく今は小説の中身だ。紅坂、お前小説は読んでないんだったよな?」
 分からない事はいくら考えてもしょうがないというのが路久佐の持論。
「発見してすぐに公人に電話したんだからそんな時間ないよ……それにこんな不気味なの1人じゃ読みたくないよぉ……」
瞳をうるうるさせて、泣きそうな顔をする朱主。なんだかすごく、わざとらしい仕草だった。
「分かった。じゃあもうすぐ宮下も来るはずだから、来たらみんなで読もう」
 物語があれば、加速させるべきだというのも路久佐の持論。好奇心旺盛なのだ。
 しかし朱主は路久佐の言葉に驚いたようだった。
「って、えっ? ちょ、ちょっと待ってっ! 宮下君もこの家に来るの?」
 くりくりとした目を見開く朱主。窓から差し込む春の日差しでまつげが光っている。
「え? 呼んじゃまずかった? なんかただごとじゃない予感がしたからつい呼んじゃったけど」てへっ、と頭を掻いて誤魔化す路久佐。
「この馬鹿公人っ! 宮下君が来るなら来るって、もっと早くに言いなさいよっ! ああ、どうしよう。私こんな格好じゃ人前に出られない……部屋も掃除しなきゃ……」
 朱主はおろおろと部屋の中を駆け回り始めた。
「俺の前には出られるのね……というか、さっきまであんなに怯えてたのが嘘みたいだよ」
 路久佐は幼なじみの慌てようを落ち着いて眺めていた。
「あんたは別にいいのよ。それに小説の方は放っておいても大丈夫だけど、宮下君が家に来る危機は今迫ってるのっ。ほら、どいたどいた」
 そう言って朱主はクローゼットから洋服を素早く吟味して着替えようとする。その様子を見ながら路久佐は、そのままTシャツとジーパンの姿でも十分なのにな〜、とのんびり考えていた。
「って、あんた何見てんのっ! これから女子が着替えるのっ。部屋から出なさいよっ、後で呼ぶからっ」
 背中を蹴られて、そのまま路久佐は部屋から追い出された。
「はぁ……なんかもう小説の事はどうでもよくなってねーか? あと、頑張って駆けつけた俺の存在が悲しく思えるよ……」
 ひとりごちる路久佐。しばらく待機していると朱主の支度より早く、玄関のほうからチャイムの音が聞こえてきた。
「わっ、もう来ちゃったっ! 公人、できるだけ引き留めといてっ。私まだ用意終わってないからっ!」
 部屋の中から朱主の叫び声が聞こえてくる。
「そんな事言っても……」
 あまりの無茶ぶりに路久佐はおろおろと動揺する。
「いいから行きなさいっ」
 有無を言わせない朱主の言葉に、しぶしぶ路久佐は外へと出た。
「よう、路久佐。来てやったぞ。紅坂は大丈夫か?」
 私服姿も渋い宮下境架が玄関の前に立っていた。
「やあ、宮下……まぁ、紅坂はなんとか落ち着いたみたいだけど……」
 路久佐は無理にぎこちない笑顔で出迎えた。
「そうか。ではオレも上がらせてもらうぞ」と言ってさっそく中に入ろうとする宮下。
「ちょー、ちょっと待った!」それを体で無理に押し返す路久佐。
「な、なんだよ……中に入ってはいけないのか?」
 宮下は挙動不審な態度の路久佐を不審げな目で見つめる。
「や……いや、別に入っちゃいけないって事じゃないんだけど……」
 中では朱主が着替えの真っ最中なのだ。
「それじゃあ入るぞ、紅坂は部屋にいるんだろ?」
「だから駄目だっつーのっ」
 家に入ろうとする宮下の服を強引に引っ張って引き戻す。
「え? 紅坂いないのか?」
「いや、いるんだけど……」
「なら入らせろよ」無理矢理入ろうとする宮下。
「駄目なんだってば〜」それを必死で食い止めようとする路久佐。
「だから何故駄目なのだ? 貴様、なんだか様子がおかしいぞ。一体何を企んでいるのだ?」
「うっ……それは……」
 言ってしまっても良かったが、朱主の尊厳の為にも黙っていた方がいいのだろう。それにそろそろ限界だ。もう十分引き止めたのだから足止めはいいんじゃないのか……と鷽崎がしばし逡巡していると、そのわずかな隙を見計らって宮下が家の中へと入っていった。
「って、あーっ! ちょっと待てって!」
 それを慌てて追いかける路久佐。
「貴様ら、ひょっとして何か隠してないか?」
 ずかずか朱主の部屋へと向かう宮下。路久佐はなんだかとても嫌な予感がした。
「邪魔するぞ、紅坂」
「って、まだ開けちゃ駄目だってっ」
 路久佐の阻止も虚しく、宮下は扉を開く。
「……あ」
 3人同時に言葉が漏れた。
 路久佐と宮下が見たものは、まさに着替え真っ最中の朱主の姿。おしゃれなヒラヒラの服を手に持った下着姿。
「ひ……ひ……」朱主は真っ青な顔をして2人の顔を見る。その口元は引きつっていた。
 ピンクのブラとパンツが可愛らしいな〜、と公人は何気なく思った。そしてこうも思った。殺される。
「つーか、なんでまだ着替えてんだよっ。いつまで時間かかってるんだよっ。そこまで足止めできないっつーの!」
 思わずいつもの癖でツッコんでしまった路久佐。次の瞬間、朱主の怒りは全て路久佐に向けられることになった。

「それで、これが第3章の小説……ということなんだな」
 宮下は机の上に置かれた小説を一瞥して朱主に尋ねる。
「うん……。まだ読んでいないんだけど、たぶん私はそう思う」
 宮下の言葉で我に返った朱主は、路久佐の体からようやく離れて身だしなみを整える。ちなみに服は、下着の上からチュニックを着たのみである。
「はうぅ……なんで俺だけがこんな目にぃ」
 床にはボロボロになった路久佐だけが残された。
「大丈夫か、路久佐」
 宮下は特に心配した素振りもなく容体を尋ねる。
「こんな奴はほっといていいのっ。それより宮下君、それじゃあさっそく小説読んでみる?」
「ああ、オレは別にいいのだが……これをオレ達が先に読んでしまってもいいのかと思って……先輩達も呼んだ方がいいのでは?」
 それももっともだ。勝手な行動をとってもし取り返しのつかない事になれば大事だ。ここは慎重になりすぎる位が丁度良いということなのだろうか。
「ううん、いいの。やっぱりここにいる私達3人で読も。……私、思うの。この小説が私の机に入ってた事には何か意味があるんじゃないのかって。きっと謎を解く何かがあるのよっ」
 朱主はどういう心変わりか、先程まで恐怖の対象であった小説に対して、積極的な態度を示している。
 その言葉を聞いて黙っていられなかったのが路久佐だった。
「な、何言ってるんだよっ紅坂っ! 安易な行動は慎むべきだよっ。何が書いてあるか分からないんだぞ!」
 路久佐は立ち上がって朱主を諭す。ここに書いてあることがこれから起こる未来であるならば、それ相応の覚悟が必要なのだ。しかし朱主は気にする素振りもなく、
「だからこそよ、公人。何が書いてあるか分からないからこそ読むべきなのよ。だってそれは所詮ただの小説なんだよ。それを読んから何が起こるって訳じゃない。ただ確定された未来を知ってしまうだけの事。だったらこの先何が起こるか知っておくのに越した事はないんじゃないの? 早い段階で読んでおくことによって、もしかしたら何かできる事があるかもしれない」
「ふむ。確かに紅坂の言う事も一理あるな」
 あっさりと宮下は朱主の意見に賛同した。
「そ、そんな……宮下まで何を……」
「どうせ読むのならいつ読んだって同じだろう? そうだとすればいま読むのを我慢してあれこれ考えるよりも、早く読んでしまった方が気持ち的には楽かもしれんということだ。読もうか悩んでいる間に大変な事態が起こるとも限らん。まぁ、結果は変えられなくとも、何が起こるか予め分かっていた方がいいのかもな」
 宮下もすっかり小説を読む気になっている。
「何も知らないまま、突然の悲劇に巻き込まれて死ぬか……決して逃れられない死を乗り越える為に戦い続けるかってことね……なんともありがちなストーリーじゃない。お粗末な展開ね」
 ふふん、と柔らかく微笑んで朱主は嘘鷺の顔を見る。
「どうなの、公人? 怖いのならあなたは読まなくてもいいんだけど?」
「……俺は、それでも賛成しかねる。むしろこんな小説は読まずに、そのまま捨て去るべきなんだとも思えるよ……だけど……俺だってSSK部の一員なんだ。お前達がその小説を読むのなら俺だって付き合うさ」
 最後まで小説を読むことに反対していた路久佐だが、ようやく腹をくくった。
 そして3人は公主人作の小説のページをめくった。

 その内容は大方の予想通り、第3章……現実の、この世界が書かれていた。
 3章の始まりは先日、総合創作研究部の部員が公園に集まり、2章までの小説に対しての討論の場面からである。
 それも予想の範囲内だった。けれど、なぜ1章の時とは違い、過去の出来事が描写されているのか……いや、なぜ送り届けられたのが今日なのだろうか……と思いながらもページをめくった彼らは衝撃を受ける事になった。
「な……なんなんだよ。これは」
 原稿用紙を全て読み終えた路久佐は、そのあまりの内容に開いた口が塞がらない。
「嘘よ……こんなの……これが現実に起こるなんて……ねぇ」
 それはこれまでの小説とは異なっていた。
 朱主の机の引き出しに入っていた第3章は、2編で構成されていた。
 まずは、先日の出来事である『0』。その内容は公園内で起こった事そのままである。ほぼ相違はないと言っていい。
 しかし、問題はその次だった。恐らくはこれから起こるであろう事実。
 『0』が終わった後、空白が続いた。そしてその後に『2 それとも1(秘密の部屋にて)』というエピソードが始まった。
 はじめ嘘鷺達が疑問に思ったことは、その内容は路久佐達がこの小説を発見するというものではなかったことだ。どころか、最後まで路久佐達が現れることはなかったのだ。
 何者かが朱主の部屋に侵入して、机の中に小説を入れたのだから、当然そんな事件があったらその事についてのエピソードがあってもいいはずなのだ。
 けれども彼らは、そんな事より『2』で書かれていた事件の衝撃で、そんな些細な事はどうでもよく思えたきた。それに小説を読んで、そのエピソードについて書かれていない理由はだいたい分かってしまった。
「宮下……言いたい事は山ほどあると思うけど、まず俺の意見を聞いてくれないか……」
 ゆっくりと路久佐が口を開いた。
「俺は心のどこかで、もしかすればこういう事態が起こるかもしれないと思っていたんだよ……」
 目に涙を浮かばせながら路久佐は独白するように話した。
「貴様、何を言っているのだ? こんな展開想像できたのか?」
 宮下もショックからいまだ立ち直れない様子だ。
「だってさ、これが小説ならあまりにストーリーに盛り上がりがないというか、起伏がないじゃないか……。陳腐なんだ。だからなにかある。そう、これが小説というエンターテインメントなら読者を楽しませる要素が必要だったんだよ……」
「まさか……だから……そんな理由で……」
「ああ、そうだよっ! そんな理由でも、この作者にとっては立派な理由なんだよ! 少なくとも小説家は必死でそのことについて考えている。命を賭けている。……殺人事件に」
 殺人事件。路久佐達が読んだ小説は一つの悲劇だった。
『0』の後に書かれた『2 それとも1(秘密の部屋にて)』はそれまでの様相とは異なった推理小説となっていた。そう、今までよりも小説らしい小説に。
「で、でもこんな無茶苦茶な事件が起こるなんて思えない……きっと今回は第2章の時のように虚構の話なのよ……だって今の私達のシーンについて書かれた小説だって、実際には読んでいないのだから……」
 朱主が声を震わせながら、路久佐と宮下の顔を交互に見比べる。
「でもここに書かれている内容は現在の我々とリンクしている。こっちの事情も知っていないと書けないだろう。勿論、偶然である可能性もあるんだが……この内容、今、我々の手元に小説があるという事実とつじつまが合っているじゃないか」
 宮下もなんとか平静を保って、小説に書かれていた内容を考察する。それでもこんなにも焦りが伺える宮下の姿を見るのは、路久佐と朱主にとっては初めてだった。
「じゃあ、なんで今の私達の事については全く書かれていなかったのっ? 小説を発見するなんて大事なシーン、カットするなんて思えない……向こうでもこちらの事について、もっと触れても良かったはずなのよ?」
「それは……分からない……だけど今言えることは、この小説内では殺人事件が起こっている。しかも被害者はオレ達の身内なのだ」
 宮下は声を落として口に出した。路久佐と朱主はその言葉に対して何も言えない。
「オレだってこれが現実に起こるだなんて考えたくないさ……」
 その時、路久佐がささやくような声で、自分に言い聞かすように言葉を発した。
「……もしかすると、ただ単に読まれていなかったから、こちらの世界が読まれなかったから、描写されなかっただけなのかも」
 意味深な路久佐の言葉。
「どういう事、公人。それって、読まれる事によってその瞬間に世界が存在する事を許される。だから読まれない限り世界は存在していない、っていう仔鳥さんがよく言ってること?」
 朱主は路久佐の言葉の真意を測りかねていた。
「う〜ん……そうじゃないんだよな〜……あ、きっとさ、向こうも同じなんだよ。要は視点の問題なんだ。だって、今の俺達だって同じだろ。向こうの物語を読んではいるけど、その内容についてまでは詳しく書かれてないはずなんだ」
 何かを思いついたように路久佐は元気を取り戻して、朱主に説明した。
「そりゃあ、ここでは殺人事件なんて起こってないし……」
 朱主は独り言を言うように呟いた。
「つまりさ、向こうにある小説を読んだ時、きっとその内容は俺達についての事が書かれているはずなんだよ。でもそこには向こうの事については書かれていない。だって体験していないんだから知りようがないだろ? 作中作が詳しく描かれるはずがない」
 今日の俺は冴えているな、と路久佐は説明しながら自分で思った。
「じゃあやっぱり……ここに書かれていた、発見した小説ってのは……」
「ああ、多分な。それにこの小説でも書いてあっただろ。未来を知ってしまう事での物語の矛盾の回避だよ」
「う〜ん……確かにそう言われてみれば納得はできるわね〜……私達は向こうの事件を盛り上げるために使われただけなのかも……はぁ、なんだかすごくややこしくなってきたから上手く整理できないのよね〜……」
「でも、まだそうとは限ったわけじゃない……この小説が真実なのか虚構なのか……」
 朱主の言葉を最後にしばらくの間、沈黙が訪れる。それを破ったのは宮下の携帯電話だった。
 きた。
 3人は息を詰まらせた。小説の通りだった。やはり電話は掛かってきたのだ。
「はい。宮下ですけれど…………はい、そうですか…………はは、驚かないですよ。だってそっちの事は全部知っていますから。もう小説は持っているのですよ…………ええ、勿論です。たった今、読んだところなんですよ……いまそちらは色々と大変なのでしょう? 話は後でしましょう…………ええ、2人共ここにいます。3人で読みました。こっちでも少し事件がありまして…………そちらに比べれば些細な事ですよ……それじゃあ、また」
 宮下は会話を終えると、静かに携帯電話を切ってポケットにしまい込んだ。
「……」
「……」
 電話の会話内容を聞くことはしなかった。彼らは今、理解した。
 自分達の事が描写された小説はちゃんと存在していたのだということに。
 そして本当に現実はこの小説をなぞっているのだということに。
 ……同じ総合創作研究部の部員である、戒川仔鳥(とどろぎさくらんぼ)が殺されたのだということに――。
 路久佐は自分が涙を流していることに気付いた。
 路久佐は泣きながらふと思った。
 これでようやく小説らしくなった。
 これこそが小説の王道中の王道。
 これは推理小説だ。
 ここから彼らの推理小説が始まるのだ。
 ――そして路久佐の密かな恋は終わりを告げた。



 2 それとも1(秘密の部屋にて)


 それは兎奈々偽在兎が美奈川無件と共に、戒川仔鳥がいるであろう『秘密の部屋』に向かった時の話である。
「はぁ〜あ……まったく、わざわざこんなとこまで来させるなんて、面倒のかかる奴だな相変わらず」
 5月のある日。2人は電車に乗ってとある街に来ていた。在兎達はそこから目的地に向かって進んでいた。
「まぁまぁ在兎女史。師匠も師匠なりの考えがあっての事です。きっと師匠の事ですからぁ、僕達凡人には想像もつかないほどの壮大な考えなんですよっ!」
 美奈川は両手を広げ、空を見上げて大きく叫んだ。
「壮大な考えってなんだよ。お前は仔鳥を買いかぶり過ぎだっつーの!」
 美奈川のテンションとは対照的に、在兎はアンニュイにツッコんだ。
「おやおやぁ? 在兎女子ぃ〜。ひょっとして嫉妬ですか〜? 見苦しいですよ〜」
 美奈川は挑発するようにニヤニヤしながら言った。
「なんだと、この〜」
 在兎は抑揚のない声のまま言って、ゆるりと美奈川の首に手を回す。
「って、うぎいいいぃぃぃ! く、首を絞めないでぐだざいぃぃ…… 苦じいいぃぃぃ……」
 いきなり首を締められ、美奈川はみっともなく声にならない声を上げた。
「ふん。分かればいいんだよ、変人野郎」
 ゆらりと手を離す在兎。再び面倒臭そうに歩を進めた。
「ごほっ、ごほっ。……ふふぅん。僕が変人ですか〜。世界の真理を悟ろうとする者に対し、世間は常に迫害を行うのです〜。悲しいです〜」
 美奈川は涙声で言いながら後を追う。この町には人通りが少なかった。
「何が世界の真理を悟るだ。その前にまずお前は世間の常識を悟れよ」
 在兎は鼻で笑った。
「ひっ、酷いですぅ〜。僕だって一般常識くらいは持ってますよぉ〜」
「一般常識があるならわざわざあたしまで巻き込むなっつの。ったく、なんでせっかくの休日をお前と過ごさなくちゃいけないんだよ」
 出不精の在兎にとって今の状況は不本意なものであった。
「そんな悲しいこと言わないで下さいよ〜。だって1人じゃ寂しいじゃないですか〜」
 美奈川は蚊の泣くような声で言ってひょろ長い体を小さく縮こめた。
「はぁ……別にいいんだけどさ……それにしてもお前も心配性だな〜。ちょっと連絡がとれないだけでここまで行くのか〜? ったく、仔鳥の事になると必死になるんだから……むぅ」
 在兎は呆れるように言って、あくびをかみ殺した。
「だって、あんな奇妙な小説が立て続けに送りつけられたんですよ。ここは師匠の助けを借りるべきです。それなのにちっとも師匠とコンタクトがとれないんですよ。そりゃ心配だってするでしょう……何もなければいいのですが……」
 そう。今、2人は仔鳥の無事を確認するために町を歩いていたのだった。
「ははっ、そんなの取り越し苦労だっての。まだ未来の書かれた小説は届いてないんだ。届いてたとしても、あの仔鳥ならこの事件だって簡単に解決しちまうさ」
 不安をぬぐい去れない美奈川に対して、在兎は楽観視して街を歩く。ここは都市の中にある歓楽街で、休日の今日はたくさんの人が行き交っていた。
「あとで何かおごれよな、無件」唐突に在兎は言った。
「ええ〜……僕お金あまり持ってませんよ〜」
 いきなりの要求に美奈川は体をのけぞらせて驚く。
「うるせえ。お前だってこの前、路久佐におごらせたじゃないか」
 こういう細かい事はしっかり覚えているのがSSK部部長なのである。
「分かりましたよ〜……でもちゃんと師匠の安全を確認してからですよ〜」
「分かってるって。んじゃ、さっさと仔鳥の様子でも見るか。そうだ、ついでだから仔鳥の分もお前がおごるってのはどうだ?」
「なんで師匠の分までっ!? お金ないんですって!」
「っと、言ってる内に到着したぞ……ほら、入るぞ」
 在兎は気怠そうに指を向けた。そしてそこにはビルがあった。
「ああ〜、ここに来るの久しぶりですぅ」
 ようやく2人は『秘密の部屋』の前に到着して、その外観を眺めていた。
見たところ普通のテナントビルの一室だった。
 そもそも『秘密の部屋』というのは、自称メタ学の第一人者である戒川仔鳥が勝手に名乗っているだけの、ただの部屋である。
 どういう訳で仔鳥がオフィスビルの一室を占有できているのかは誰も知らない。
 仔鳥本人が言うには、その部屋は無色の部屋、あるいは隔絶された空間、閉じた世界、因果の拒絶地点……等およそ在兎のような一般人には理解不能な話だった。
 だから部員内では『秘密の部屋』で通していた。
「相変わらず分かりやすいよな〜。ここだけドアが真っ白なんだもんな」
「ええ、そこが師匠の師匠たる所以ですよ〜」
 よく分からない返事を聞きながら、鍵穴に合い鍵を差し込んで、真っ白の扉を開ける在兎。
 だが――そこに待ち受けていたのは想像も絶する光景だった。
「え――?」
 扉を開けた瞬間、それを同時に見てしまった2人は思わず間抜けな息を漏らしてしまう。
 部屋の中央には血まみれで倒れている仔鳥の凄惨な死体があった。
「きゃ……きゃあああっ!」
「うっ、うわあああああ〜〜〜〜〜〜!!!!!!」
 2人は叫び声をあげて、腰を抜かしてしまって、その場にへたり込んだ。
 このオフィスビルは廃ビル寸前で、在兎達がいる『秘密の部屋』の周りの部屋はどれも空き室状態であった。当然、周りに人はいないはずである。だから叫び声をあげても駆けつける者は誰もいない。
 気が動転している2人は、ここから逃げたくても立ち上がる事もできすにお互いの体にしがみついていた。
「あ、あれ……師匠なのですかっ……そんな、嘘です……死んでいるのですかっ? 在兎女史っ!」
「見れば分かるだろっ。あんなに血が流れていて生きてる方がおかしいよ!」
 いまだ腰が抜けている2人は、それでも少しは落ち着いて、仔鳥の無残な姿を見つめていた。
 家具や調度品の類は一切置かれていない殺風景な空間。いや、この場所には人間が2人と、死体が1つある以外は何も存在しない空間であった。それは仔鳥の意図によるものだ。彼女はここを特殊な空間とするために、一切の物体は置かないでいるらしい。
 その真っさらな空間の中央に仰向けの状態で倒れた仔鳥は、目を見開いたまま苦悶の表情を浮かべていた。完全な死。死そのもの。死を体現している死。その姿はある種芸術的にも見えた。いや、仔鳥が自分自身の姿を見ればきっとそんな感想を漏らした事だろう。
 全身には無数の切り傷や刺し傷。凶器はおそらく刃物。明らかに他殺である。体中がズタズタに引き裂かれていて、仔鳥という個体は己の血液によって真っ赤に染まっていた。
「と、とりあえず警察を呼ぼう、無件っ」
 ようやく冷静な思考回路を取り戻した在兎は、震える手で携帯電話を取り出す。ところが、
「ま、待って下さいっ。在兎女史。警察は勿論呼びますが、もう少しだけその連絡を遅らせてくれませんかっ?」いきなりとんでもない事を言い出す美奈川。
「な、何を言ってるんだ、無件。お前一体何をするつもりなんだよっ?」
「少し……調べてみようと思います。僕なりに、師匠に何があったのかを」
 美奈川はゆっくりと立ち上がって在兎に手を差し伸べた。
「し、調べるってお前っ……」
 美奈川の手をとってかろうじて在兎は立ち上がるが、その手を離そうとはしなかった。
「僕は師匠を尊敬していたのです……。そして今、その師匠がこんな残酷な姿で殺されているのです」
美奈川の目は真剣そのものだった。いつものようなヘラヘラした調子は見当たらない。
「なっ!? まさか……だから犯人を自分の手で見つけようって言うのか、無件っ!」
 在兎は美奈川の態度を見て動揺する。この状況は異常だ。非日常だ。非現実的だ。
「……いえ、もちろん犯人を許せないっていう気持ちもありますが……僕にはこれが師匠のメッセージのように思えるんです。僕達が師匠の死を発見したのには意味があると思えるのですよ」美奈川の声にも普段は見られない重みが感じられる。
「なっ、メッセージ? 意味だなんて……そんな、これは小説じゃないんだぞ。あたし達がこれを発見したのは単なる偶然だっ!」そんな展開、現実にはありえない。
「ですが見て下さいよ……。血はまだ完全には乾ききっていないみたいです。だとしたら師匠は殺されてからまだそんなに時間は経ってないのですよ……こんな偶然あると思いますか? 僕達だって滅多にこの部屋に来ないんですよ? それが今日たまたま訪れた時間に合わせたように事件があったのなら何か運命的なものを感じるじゃないですか……」
「こ、こんな時にまでお前は何言ってるんだよ……だが……成程。確かに仔鳥らしいと言えばらしいよな」
 異界の瘴気に当てられて、ついうっかり在兎は認めてしまった。彼岸の世界の理を。
「きっと師匠が今の僕達の立場なら同じ事を考えていたでしょう。……だから僕は僕なりにこの事件を考えたいのです」
 そして美奈川の瞳には決意が込められていた。
「ああ、分かったよ……だが、少しの間だけだぞ。ある程度調べたらすぐに警察を呼ぶからな……」
 だから在兎は認めてしまった。普段ならきっとこんな事、許しはしないのに。
「ええ、分かってますよ。そんなこと。……ふふ、あはは」
 美奈川は――笑った。
「ど……どうしたんだ、突然笑い出して」
在兎は美奈川の奇行に一瞬怯んで、そして尋ねた。
「えへへ……いえ、不謹慎ですが、まさに今って小説の中って感じじゃないかって思えましてね」
「えっ? あ、ああ……そう言えばそうだよな。確かに推理小説そのまんまだな。実際にこんな事件に巻き込まれるなんて思っていなかったから気がつかなかったよ」
 まるで今のこの状況すらも、公主人の小説であるかのように。
「だったら、やはりこの事件について書かれた小説は、既にどこかにあるのでしょうかねぇ……けれど、小説は未だ発見されていませんよね。やはり誰かが持ち去ったのでしょうか」
「それは分からんよ……さぁ、それよりさっさとこの部屋を調べることにしよう。もしかしたら犯人が近くにいるかもしれんからな。気を付けるんだぞ、美奈川」
 在兎は自分で言って戦慄した。そうだ。仔鳥は殺されてからまだそこまで時間は経っていないのだ。犯人がこのビルのどこかに潜んでいてもおかしくないのだ。今は公主人の話をしている場合ではない。
 美奈川もその事に気付いたのだろうか。部屋の入り口から外に顔を出してキョロキョロと辺りを見回し、誰もいないのを確認するとそっと部屋の扉を閉めて内側から鍵を掛けた。
 2人はここで気付いた。そうだ。この事件は密室殺人なのだと。
 現実で起こった密室殺人事件。推理小説での定番が現実へ持ち出された。
「……それじゃあまずは師匠の死体から調べましょうか」強張る声で言う美奈川。
 そしてお互いに顔を見合わせて、2人は恐る恐る仔鳥の死体に近づいた。
「血は乾ききってこそいないものの、もう乾きかけていると言ったところでしょうか。液体と固体の境界というか……。けれど殺されてからそれほど時間は経っていませんが、数時間は経っているでしょうね……」泣きそうな瞳で仔鳥の死体を眺める美奈川。
 死体の体中には血液が塗られるようにこびりついていて、周囲は真っ赤に染まっている。というより、あまりにも血が飛び散り過ぎていた。
 この『秘密の部屋』は本来なら壁から床、天井まで真っ白であるはずなのだ。それも仔鳥の意図的な計らいによるものなのだが。
 けれど今は飛び散った出血によって、赤色が部屋全体に広がっていた。四方の壁も、天井も、扉付近にまで……それは一体どれほどの惨劇があったのかを暗に物語っていた。
 仔鳥の死体の腹部にはこの部屋のものであろう、小さな鍵が乗せられていた。
「この鍵が本当にこの部屋のものなのか、使って調べたいですけど……それはさすがに無理ですよね」
「当たり前だ。いいか、この部屋にあるものは何も触るんじゃないぞ。こっちが警察に疑われてしまう」
「分かってますよ……それで肝心の凶器はどこなんでしょう。刃物だと思いますけれど」
「見当たらないな……おそらく犯人が持って行ったんだろう」
「犯行からそんなに時間が経っていないんですよね。そしてこの部屋……やはり密室ですね」
『秘密の部屋』内部はほぼ正方形の十畳ほどの1ルームである。
 部屋には窓が1カ所あるが、それも閉めきってあり、内側からは鍵、そして鍵の部分を針金で厳重に縛ってあった。それ以外に出入り口になりそうな場所は、部屋の扉以外はどこにもない。
「なぜ針金で縛ってあるんだ? 鍵をかけるだけでいいだろ」
 在兎はカーテンが開かれた窓の前に立って、針金を凝視していた。どうやら最近外された様子はない。窓はずっと閉ざされたままのようだ。
「師匠が言うにはこの部屋は外の世界からは完全に独立した、1個の小宇宙なんですよ」
「はぁ……小宇宙ね」
 うんざりした風に返答する在兎。彼女にとっては理解不能な分野だ。
「『秘密の部屋』はできるだけ外部の世界と切り離す必要があるんですよ〜。だから外とこの部屋とを繋ぐ境界は、しっかり厳重に封印しなければいけないのです」
「ふ〜ん。大体分かったよ……それならこの針金の意味も理解できるよ。カーテンは開いてたみたいだけどな……まあ、そういうことなら通気ダクトやその他の穴など抜け道はなさそうだな」
 それは少し見渡しただけで確認できる事だった。ここはなにもない空間。トイレや台所なんて勿論ない。部屋の真ん中に死体がある以外に物体は何もない。正方形の白い箱の中だ。
 2人はまるで異界に迷い込んだような気持ちになって唐突に恐ろしくなった。
「……なら犯人はどうやって外へ出たのかって話になるよな。まさに推理小説の定番だけどさ」
 在兎は、ぽつりと恐怖を紛らわせるように美奈川に話しかける。
「それを言うなら部屋に入る時もですよ、在兎女史。……ああ、けれど犯人が師匠の知り合いなら、その点は考慮する必要はありませんね」
「いや、美奈川。待てよっ……だってそれなら、この部屋の存在を知ってる人間が犯人になるって事だろっ!? それだったらSSK部の連中以外にここを知ってる奴なんて誰もいないだろ!」
「ああ……そうですよね……すいません。ですが、こんな事を言うのもなんですけど……きっと在兎女史も少しは考えている事だと思うので一応言っときます。これが……これが推理小説なら、犯人はSSK部の中にいなければならないんじゃないでしょうか?」
 在兎は、この四角い世界が歪んでいくような錯覚を覚えた。この部屋の外へ出たとしても二度と元の世界には戻れないような幻覚。それはきっと、血の臭いが充満する部屋の空気のせいばかりではないだろう。
「だ、だから……それは小説の話だ……今はそんな突飛な想像を膨らませるより、密室の謎について考えるのが先だろう……犯人はどうやってこの部屋を出入りしたのかだ……この場合は入るときよりも、仔鳥を殺した後に部屋を出る事の方が難しいだろう……」
 やっとの思いで語り終えた在兎は肩で息をしていた。
「え……ええ、そうですよね。殺させた師匠のみが存在していた部屋。扉には鍵がかかっていたんですから……って、ちょっと待って下さい。在兎女史」
「な、なんだ?」
「その鍵ですよ。在兎女史がこの部屋に入る際に使った鍵は合い鍵なんですよね? それじゃあ他にも合い鍵の存在があるのでは? 犯人はそれを使って出入りしたとか……陳腐なトリックですが」
「いや、それはない。この部屋に入れる鍵は、今この場にある2本だけだ……。見比べたところ形は同じに見えるが……」
「きっと師匠のお腹の上にある鍵は本物ですよ……」
「ん? なぜそんな事が言える?」
「だってそうでしょう。この物語は小説なんですよ? それでこの鍵が全く関係ないミスリードの為のものだとしたら、とてもつまらない推理小説じゃないですか。アンフェアですよ。読者の怒りを買います。……僕達がこの部屋に入る際に鍵を開けて入りましたが、これもちゃんと鍵を開けましたよね。鍵が掛かってなかったということはありません……。それと同じ事を言っているのですよ」
 鍵は始めから掛かっていなかったのに、扉を開ける際にいかにも鍵が掛かっていたように振る舞うというトリックは、古い推理小説ではよくある手口だった。つまり美奈川は、小説で事実として書かれた事について嘘は吐いてはいけないと言いたかったのだ。読者を騙すのはいいが、嘘はタブーなのだ。
「ははっ……そうかもな……そうだったよな……」
 と、投げやりに言った後、急に黙り込んで何やら考えに耽った在兎。
「どうしたんですか、在兎女史。何か思いついたんですか?」
 美奈川は在兎の顔を下から覗き込んで聞いた。
「いやな、これが小説の続きだと考えた場合、犯人はいったい誰なんだろうなって」
 今は小説の事を考えている場合でないと分かっているが、こんな非現実的な状況だからこそ思わず考えてしまう。在兎の言葉を受けて、美奈川は暫く考えてから言った。
「だとしたらこの小説の存在を知っている人間って線か、あるいは小説は犯人の告発であって、犯人自身は小説の存在を全く知らない可能性もありますねぇ……でもそうだとしても作者は怪しすぎます……う〜ん、この小説を書けるような人間なんて……やはり部員内の誰か……」
「そうは言っていないよ。お前のいま言ったような仮説は推理小説で考えるならありふれた設定だろ。これはそんな普通の推理小説を超えた何かがあるように思うんだ」
「ふぅむ。確かにこの小説はただの推理小説ではありませんよね。むしろ小説として考えた場合、こんないきなり出てきた殺人事件は二の次のような印象さえあります。推理小説を超えたと言うか、推理小説にも満たない事件といった感じでしょうか……」
 美奈川は首を傾げながら呟く。
そして在兎はタイミングを見計らうようにして言った。
「……だからさ、あたしは思うんだ。もしかしてこの事件は殺人事件じゃないのかもしれないって……」
 それは驚くべき暴論。
「な、何言ってるんですか。殺人事件じゃないって、あれはどう見てもっ」
「だから、そう見せかけたんだよ。全ては推理させるために……あれは他殺じゃないんだ」
 美奈川の言葉を遮るように在兎が告げる。
「他殺……推理させるためにって……それじゃあ師匠は……」
「他殺に見せかけた自殺、だとしたら……」
「そ、そんなっ。そんな事で自分の命をあんな……」
「彼女なら考えられるだろう。あいつはエンターテイナーなんだ。あいつは物語を虚構でなく現実の形で現すんだ。虚構としての創造をしない創造家。虚構を現実に示してみせる創造家。……まぁ最近は小説を出版するって話も聞いていたが」
 そう。他殺に見せかけた自殺は、推理小説では多々見られるのだ。
 これは1人の創作家としての作品なのか。題材は自分の死。だとすればそれは狂気の沙汰。
「で、でも目的が分かりませんっ。自分の命を使って僕達に推理させることで一体何をしようとしてたのですかっ!?」
 美奈川は目を見開きながら必死で反論する。信じられないのだ。
「それはあたしにも分からない。あいつの事に関しては弟子であるお前の方が詳しいだろ」
「そ、そんな……分かりませんよっ! 僕だって師匠の事が未だに全然理解できないからこそ慕っているんです!」
 きっと、慕っているからこそ信じたくないのだ。こんなことするなんて。
「ははっ、じゃあまさに黒幕にぴったりじゃないか。謎に包まれた被害者。そしてイコール加害者」
 閉じられた空間で、在兎は自虐的に笑った。
「そ……それじゃあ今まで送られた小説も全て師匠のものだって言うのですか? 全て師匠が作品創りの為にやった事だって言うのですかっ!? なら、公主人の正体が戒川仔鳥であるなら……予知能力めいた力が師匠にはあったのだと……!?」
「……全部ただの思いつきだよ。お前の好きそうな仮説を適当に述べただけだ。お前ならまだしも、あたしはそんな荒唐無稽な仮説は信じられないからな」
 結局全て憶測の域を出ない。所詮素人にできる事はなにもないのだ。
「な……なんですか。驚かせないで下さいよ……。た、確かに師匠なら本当にやりかねないから信じてしまいますよ……」
 仔鳥の弟子である美奈川でさえ、彼女の思考には全くついて行けなかった。恐らく仔鳥からすれば、美奈川もその他の部員もそう違いはないのだろう。違いなく、現実世界の人間なのだ。
「ま、仔鳥は特別だからな……でも、案外これが真相だったりするんだぜ〜?」
 意地悪い笑みを浮かべて、部屋をゆっくり徘徊していく在兎。
「そうですよね……この事件ならもう何を言われても信じてしまいそうですよ……でも、自殺の線を消すのならどうやって密室状況を作ったのかという謎が残りますね……」
 美奈川は長い腕を組んで唸った。
すると意外にも在兎はあっさりした声で告げる。
「う〜ん。それはまだ何とも言えないんだけど、この密室に関しての不自然な点ならあるぞ」
「ええ!? 僕はどう見ても完璧な密室に見えますが……不自然な点とは?」
 推理やトリックや密室等について疎い美奈川には見当がつかないようだ。
「そうだよな。一見すると完璧な密室にしか見えないんだよな……けれど、それが落とし穴なんだ。これは仔鳥の事を知らないと決して分からない違和感だろうな」
「師匠を知らなければ分からない?」
 美奈川は仔鳥の弟子を名乗っているが、それでも分からない。
 在兎は声の調子を変えず淡々と続ける。
「仔鳥の性質だよ。ほら……この部屋の扉あっただろ、あたし達が入ってきた。あれ、鍵を外しただけでドアはあっけなく開いたんだよ」
「なに言ってるんですか? そりゃあ鍵がかかっていなければドアは簡単に開きますよ」
「ふふん、美奈川。お前まだこの状況にパニクってて、冷静にものを考えられないようだな」
「な、なんなんです? じらさないで下さいよぉ〜」
 少しムッとしながら美奈川は先を促す。
「……いいか、この部屋は外側からは完全に閉ざされた、独立した世界なんだろう? この部屋と外側との境界は厳重に閉ざさなければいけないんだよな」
 そう言って在兎は、扉の方と窓の方を交互に指さしてみせた。
「あっ、そうか! 僕はなんでそんな事にも気付かないで……」
「そういうことだ。現に窓には針金が何重にも巻かれていた。窓でさえあんなに閉ざしていたんだ。だったら『秘密の部屋』と外側の世界を繋ぐ正規の入り口であるドアは、より強固に封印されてなければいけないだろう?」
「なのに鍵をかけただけで放置するのはあり得ない……はぁ、僕は部員内ではそれでも一番師匠の事を分かっているつもりになっていましたが、弟子失格ですぅ」
 美奈川は大げさに肩を落としてしょげてみせる。どうやら本当に落ち込んでいるようだ。
「気にするなよ。これは推理小説的な考え方なんだから。……まぁ、といってもそんな事したら仔鳥自身が部屋を出入りするのに不自由になるから、元々扉は鍵を掛けるだけにしていたのかもしれんがな」
「いえ、それはないでしょう。師匠はこういうところは徹底する人でしたから」
 美奈川は遠い目をして、赤く染まった白の密室を見回した。
 在兎は慰めるように、声の調子を落として静かに語り出す。
「そうか……ならやっぱり第三者が仔鳥を殺し、何らかの方法でこの部屋を密室にしたということか……そして扉には鍵だけを掛けて出て行った……つまり犯人は、扉が鍵以上に厳重に施錠されていた事実を知らないか、それともその施錠の仕方では密室を作るトリックはできなかったから敢えてしなかったのか」
「そうですね。後者の方なら、窓に付いている針金のように、施錠する道具がどこにも見当たらない説明にも使えますもんね……知らないだけなら道具はこの部屋のどこかにあるはず。それが見当たらないという事は、犯人が持って行った。そして扉の鍵自体は予め新しい合い鍵を作って、持ってたって事にすれば出入りの問題もクリアです」
 美奈川は辻褄を合わせるように、矛盾のない現実的な可能性を導き出した。
「まぁ……それはさっきも触れてたように、ある種の反則だけどな……なんにしてもこれ以上考察するには手がかりが少なすぎるな……あまり長居しても仕方がない。そろそろ警察を呼ぼうか?」
 在兎は携帯電話を手にとって、美奈川に確認するようにそれを見せる。結構な時間が経過していた。
「そうですね……はぁ、師匠。どうしてこんな事に……」
 別れを告げるように美奈川は仔鳥に近寄って、その死に顔をしばらく眺めていた。そしてもう一度ゆっくりと全身を眺める。
 その時、彼は仔鳥の体に下敷きにされた何かを発見した。
「……え? ちょ、ちょっと待って下さい。在兎女史っ! これを、これを見て下さいっ!」
 美奈川が興奮して在兎を呼ぶ。
「えっ、どうした。美奈川。もう連絡してしまったが……」
「なっ……もう連絡入れたんですか……警察はあとどの位で来るんですか? とっ、とりあえず、見て下さいよ、これを」
 美奈川はビニール袋を指さした。
「10分もかからないって言ってたが……ん、なんだろう、これは……。ビニール袋?」
 床と仔鳥との体の間に見えるビニール袋の端。在兎はそれをじっくりと凝視していると、
――いきなり横から美奈川がそれをつまんで引っ張り出した。
「お、おいっ! 何やってるんだよ! 勝手に触るなって言っただろっ!」
 美奈川のあまりに勝手な行動に在兎は声を荒げる。
「い、いえ。だ……だってこれ、見覚えがあるんですよ……や、やっぱりそうだ。ほら。見て下さいよ、これっ」
 血がまとわりついたビニール袋の端を持って美奈川が上に掲げる。ビニールの口が縛られていて、中に何か入っているようだ。袋に血がこびり付いて中身が見えにくいが、確かに原稿用紙の束のようなものが見えた。
「って、こっ、これはっ――!」
「そうですよ! きっとそうなんですよっ! これが第3章なんですよっ!」
 そう言って美奈川は、血が付かないよう器用にビニールの中から小説を取りだした。
「だっ、だから勝手に開けるなよっ……」
 在兎は注意するが、彼女もそんな事より原稿用紙の中身の方が気になった。
「よ、よし。取り出しました。さっそく読んでみましょう!」
 美奈川は唾を飲み込んでページをめくっていく。在兎も気になって横から覗き込んでいる。
 ――一瞥したところ、第3章は2つの項目から成り立っており、1つ目の『0』はどうやら先日、公園で総合創作研究部の部員が集まって異論するシーンから始まっていた。
「……って、なに悠長に読んでるんだっ! そんな時間はないって! じきに警察が来るんだぞっ! こんなところ見つかったらあたし達が怪しまれるって!」
 と、在兎が美奈川の手から原稿用紙を取り上げた。
「な……なにするんですか。これからが肝心の部分なんですよっ」
 美奈川は文字もほとんど読めないくらいに、素早くページをめくっていった。
『0』の部分は先日体験したままだったのですぐに読み飛ばしたが、その次には『1 それとも2(自室にて)』という項目の文章があった。おそらく今現在の状況か、あるいは別の未来が書かれているはずなのだ。だが今まさに内容を読もうとしたところ、
「だから警察が来るんだっ。証拠を勝手に触っていいわけないだろっ」
 在兎は美奈川から原稿用紙を取り上げた。それで観念したのか、美奈川は落ち着きを取り戻して静かに語り出した。
「……そうですね。警察が来たらこの小説も没収されますもんね……分かりました。それでは警察がここに到着する前に、僕はこの原稿を安全な場所に隠しておきます」
 予想もしなかった美奈川の言葉に、在兎は愕然とした。
「えっ!? 美奈川、気は確かかっ! それこそ犯罪だぞ! 証拠隠滅なんだぞ!」
 在兎には美奈川の言動が理解できない。仔鳥と比べたらまともな人間だと思っていたが、それはどうやら在兎の思い違いのようだった。
「在兎女史の言いたい事はよく分かります。けれど……きっとこの原稿は師匠の最後の意思なんです。師匠がここに僕達を導いたのは、この小説を渡す為だったのです! 僕は師匠に託された意思を受け継いで、師匠の思いを遂げる義務があるんですっ!」
 そう叫んで美奈川は在兎から原稿用紙を無理矢理取り返す。
 在兎は美奈川の言ってる事はよく分からなかったが、彼の気持ちはよく分かった。
「……ああ、そうかよ。分かったよ。好きにしろ」
 在兎は顔を背けて吐き捨てるように言った。
「あ、ありがとうございます……。在兎さん。このご恩は決して忘れません」
「なんだかんだ言って、あたしも小説の中身が気になるからな……さぁ、もうすぐ警察が来る。早く行ってこい。あたしは今の内に路久佐達にも連絡しておくよ」
「わ、分かりました。それじゃあ行ってきますっ」
 すぐに美奈川は部屋の外へと飛び出していった。
 1人残された在兎は、まず宮下に電話する事にした。番号を呼び出してしばらくすると宮下が出た。
『はい。宮下ですけれど……』
 その声はいつものようにぶっきらぼうで――けれど、どこか動揺しているような、そんな印象を受けた。
「宮下、聞いてくれ。実は大変な事が起こった……戒川仔鳥が殺された」
 在兎は構わず、いま出くわした事件について一気に語った。警察が来るまで時間がないからあまり電話している時間はないからだ。その点を考慮して在兎はまず宮下に連絡したのだ。
『はい、そうですか……』
 それでも、ここまで呆気ない返事は予想してなかった。
「な、なんだ? 驚かないのか? 冗談を言っているんじゃないぞ。仔鳥が死んだんだぞ」
 在兎は宮下のあまりの淡泊ぶりに驚き、すぐに彼が自分の話を信じてないのだということに気付いた。
「あ、宮下……これは――」
『はは、驚かないですよ。だってそっちの事は全部知っていますから。もう小説は持っているのですよ』
 それはある意味、仔鳥の死を見てしまった時と同じくらいの衝撃。在兎は自分の意識が体から遠ざかっていくような気がした。
「な……なんだって? それじゃあ……私達に何が起こっているか全部……」
 ぐるぐる渦巻く意識の中で、在兎はここはもしかしたら夢の中なのではないのかと疑い始めた。
『ええ、勿論です。たった今、読んだところなんですよ……いまそちらは色々と大変なのでしょう? 話は後でしましょう』
「ま、待てっ……路久佐と朱主はもうこのことを知っているのか?」
『ええ、2人共ここにいます。3人で読みました。こっちでも少し事件がありまして』
「じ、事件? なんだ! 何がっ!」
 どうなっているのだ。こんなにも立て続けに非常識な事があっていいのだろうか。異常はこの部屋の中だけではないのか。世界全体が非日常へと変貌したというのだろうか。
『……そちらに比べれば些細な事ですよ……それじゃあ、また』
「あっ、待てっ!」
 ぷつり、と電話が切れた。
 繋がっていない携帯電話を手に持ちながら、在兎は妙な違和感を覚えた。
 宮下は普段から無口で、感情がなかなか表に現れるような性格ではないのだが、今の電話のやりとりは不自然だった。いくらなんでも今のような態度はこれまでなかった。些細な事と言っていたが、もしかしてあっちでも何か重大な事件が起こったのか。いや、あったのだ。だってそうだ。彼らは仔鳥の死を知っているのだから……それ相応の何かはあったのだ。
「もしかすると現在進行形で向こうも大変な事になってるのかもしれないな……」
 在兎は頭がおかしくなりそうだった。ここで起こった殺人事件を、第一発見者である在兎より先に宮下達は知っていた。そして恐らくその事件は、先程美奈川が発見した小説に書かれていたのだろう。もしかすると宮下も同じ小説を手に入れたというのだろうか。だから小説を読んだ宮下達は事件について知っていた。
「ありえない……非現実的すぎる……」
 けどそうなのだとしたら、在兎は美奈川の無茶苦茶な行動にも納得できる気がした。
「あの小説に何が書かれているのか、どうしても見たい……」
 その時、タイミングよく美奈川が部屋に戻ってきた。
「ふぅ〜、よかった。どうやらまだ警察は来てないみたいですねぇ……」
 彼にしては珍しく、その顔は深刻そのものだった。
「どうした、無件。そんな暗い顔して」
「いえ……実はですね、小説の中身なんですがね……どうしても気になって、隠す前に少しだけ読んだんですよ」
「なっ、あの小説を読んだのかっ! どうだった? 仔鳥が殺された事について書かれていたのかっ!?」
 つい今しがた考えていた事の答えが分かる。宮下が事件について知っていた理由もこれで解明するのか。在兎は身を乗り出して美奈川に答えを請うた。
「それがですが……かなりとばし読みだったので正確には言えないんですけど……全然関係ない話が書かれていましてね」
「は、はぁ? 関係ない話?」
「はい。師匠は一切出てこないです。むしろ僕達2人も出ていないようでした。内容もコメディチックで……」
 それは在兎にとって全く想定外で、拍子抜けな回答だった。
「なんじゃそりゃ……なんか、期待して損した気分だよ」
 在兎はあからさまに脱力して頭を上にあげた。
「僕もそう思いました。けど……この部屋に戻ってくる途中気付いたんです。もしかすると第3章には欠けている部分があるのではないのかと……」
「えっ? 欠けている部分? 第3章は2編で構成されているんだろ?」
 それは先程少しだけ見たときに分かった事だ。
「ええ、そうなんですが……誰かがその部分を持って行ったとか……別の場所に分けられたというか……」
 その言葉を聞いて在兎は大きく目を見開いて叫んだ。
「そ、そうだよ。持っているんだよ! あいつらがこちらの小説をっ!」
「え? あ……あいつらって?」
 在兎は声を荒げながら、先程の宮下との電話のやりとりを美奈川に報告した。
「――そういう事ですか……ならばますます僕の仮説に説得力がでてきました〜」
 一通り話を聞いた美奈川は、いつもの調子を取り戻したのか、顔に飄々とした笑顔が表れていた。
「どういう事だ。教えてくれ」在兎は勿体ぶる美奈川に話を促す。
「はい〜。先程は第3章が2編で構成されているって言いましたよね。『0』は先日あった出来事で……まぁこれは置いときましょう。問題は『1 それとも2(自室にて)』なんですよ」
美奈川は勿体ぶるように声をひそめて言った。
「それがどうかしたのか? あたしは読んでないから内容を聞かれても答えようがないぞ」
 本題と離れているような気がして在兎にはあまり関心がなかった。
 しかし、美奈川は対照的にさらに声のトーンを落として語りかける。
「いいえ〜、僕が注目したのはその項目タイトルの数字部分なんですよ」
「数字? 1とか2の?」在兎は素っ頓狂な声で言う。
「そうです。ここには『1それとも2』って書かれてありますよね。だったらそのもう片方がどこかにあってもおかしくないんですよ。1か2、なんですから」
「っていうことは……そのもう片方に、仔鳥の殺人事件について書かれているってことなのか?」
「そうですぅ。片方ずつ渡されていて、その2つが合わさった時、第3章が完成するんですよぉ。公主人が何を考えてそんな真似をしたのかは分かりませんが……恐らく先読みされる問題を解決するための苦肉の策なんですよ」
「先読みされる問題……?」
 それは誰が読むのか。誰に読まれたら困るのか。それは。
「そのままの意味です。だってこの小説、ようは未来が予言されているんですよ。第1章の時点では、まだ誰もそんな内容だなんて気付かなかったし、重要視していなかったから、公主人は普通に投函箱に投稿できたんですよ」
「ああ、確かに……第3章ではあの時とは勝手が違うよな」
 今はこの小説が予知する類の物と知っている。それはさながら世の中の出来事全てが記録されたアカシックレコード。
「はい。今の僕達はこの小説が未来の予言書だって事は知っています。僕達はそれを念頭に置いて行動してます。そして……そこに落とし穴があるんですよ」
 美奈川はニンマリと笑って指を振った。そして美奈川の言いたい事にようやく気付いた在兎は手をぽんと叩いて言った。
「ああ〜、小説の内容を先に知ってしまえば、そりゃあつまらなくなるよなぁ……というか物語として破綻するというか……確実に矛盾が出てくるよなぁ」
 タイムトラベルによる矛盾――タイムパラドックスはしばしば小説などに見られる。
 だけどこの場合は、未来を先読みする事で起こる矛盾はあってはならないないのだ。その時点で小説に書かれた内容と現実が全く異なってしまうし、それが本当に未来を予知した小説なのか、誰にも知りようがなくなってしまうのだ。
「そう。それにこの物語がそんな展開になれば、それこそありきたりな物語です。変えられない運命を変える物語とか、決して逃れられない運命とか、そんな内容です。ですがこの小説を読む限り、作者はそれを望んでません。きっと作者はそういう展開を避けるために、自分がこれから遭遇するシーンは見せないようにしたんですよ」
「でも、なんでそんな事を公主人は……」
「作者にとって作品は自己の表現です。キャラに自分の思惑とは別の行動を取られたくないんですよ。創作家の僕達ならその気持ち分かるでしょう?」
 分かっても普通、人までは殺さない。
「確かにな。けれど、本当に……どうなっているんだろうな……何がなんだか分からないよ……ここは本当に現実なのか……それとも小説なのか」在兎は頭が混乱しそうになる。
 呆然と立ち尽くす2人だったが、やがて遠くからパトカーのサイレンが近づいてくるのに気付いて現実の世界に引き戻された。
 その後、2人は警察から数時間に及ぶ事情徴収を受けて解放された。美奈川が隠した小説は警察の手に渡ることはなかった。
 そして後日、美奈川が原稿用紙を回収し、残りの片側と合わせて……ようやく第3章は完成した。







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 Y


 翌日俺と朱主ちゃんは、俺がかつて通っていた大学の前へと来ていた。俺は帽子を深々とかぶり、度の入っていないメガネを装着している。変装のつもりだ。対する朱主ちゃんは炎天下の中だというのにぶかぶかのセーターを着込んでいる。よく見れば高校の制服じゃないか、それ。俺が変装してるというのに朱主ちゃんは流石というか……敢えて制服を着てきたって感じか……しかも冬服。なのに汗一つかいてないのはどゆこと? まぁいいや、とにかく潜入作戦の開始だった。
「……ていうか、そもそもの疑問。どうして朱主ちゃんまでついてきてるの?」
「あら? そんなの当たり前じゃない。だってこんなキーイベント、私が行かないわけないじゃない。主要登場人物の1人が不参加だなんて。ぬふぁはっは〜!」
「はぁ……そっすね」
 そのイベント自体、何が起こるのかも分からないのによく堂々と言えるよ。そしてやっぱり君は主要人物だったんだね。自分で言うのね。
「それに……私、こういうところに一度潜入してみたいと思っていたの。くししっ」
 朱主ちゃんは無邪気に笑う。それは彼女にしては珍しく、年相応の笑顔。うん、子供らしくていいけど……こっちは遊びでやってるんじゃねーよ! ……いや、どうだろ。
「……んじゃあ、軽くフラグを回収しに行きますか」
 大して期待はしてないけれど。それでも心では期待半分といったところだった。というかもう遊び気分でいいや。百パー遊びです。
 俺達は並んで大学の校門を潜り、その敷地内へと入る。久しぶりの学校は俺が知っているそのもので、つまり特に何も変わったところのない日常だった。事件性もなにも感じない。やはり何かが起こると考えられる方がおかしいのか……。まるで自分がゲームの主人公のよう……いや、むしろプレイヤーになったつもりなのか。
 どうやら気付かない内に朱主ちゃんの電波が俺にも感染してしまったようだ。浸食はかなり進んでいるぞ。
 と、大学の広大な敷地内を歩きながら考えていた時だった。
「む、路久佐? 貴様一体どうしたのだ? なぜ大学に来ているのだ? 何用?」
 うげ、この独特の口調は……。めんどくせ、宮下境架だ。しかも――、
「あれ? 路久佐君じゃない。久しぶり〜」
 キャンパス内で宮下と一緒にいる事が多く、恋人説まで囁かれるが本人達は否定している――その女性、東雲寧音(しののめねね)の姿があった。
「確か路久佐君って、いま大学休学中だったよね」
 疑問そうな目を向けて見つめてくる東雲さん。
「ああ……まぁ、そうだけど……」どうしたものかと、つい目が泳いでしまう。
 ――ここで少しだけ新たな登場人物、東雲寧音について語ろう。それは物語にとって必要のないことかもしれないけれど、俺個人の立場から言えば十分に大きな役割を持っているからという、地軸的な理由からである。そしてついでに言えば、女キャラの描写はやはりある程度必要だろうという、これまた勝手な解釈によるところが大きい。
 前振りが長くなったが、東雲寧音――彼女は俺や宮下、そして周防と同じく同大学に通う同回生。なぜかは知らないがよく宮下とつるんでいる。顔は可愛いというより美人といった方で男性からはもてる。端から見れば宮下と東雲は美男美女のお似合いカップルに見えるがそれはないらしい。性格はサバサバしたお姉さんといったところ。ファッションもその性格にあったようなラフなものが多い。
 ……そして何よりの重要事項があり、というか実は今までの説明はこの重要事項の前振りのようなもので、これが一番大事な事。最も伝えたい事なのだが――、あ。
「あ、あ〜ん。寧音ちゃ〜ん、待っててって言ったじゃな〜い」
 泣きべそをかいたような、特徴的な甘ったるい声がした。
「――っ!」俺は思わず緊張してしまう。
 なぜならそう、一番重要なポイントであるそのもの、彼女が現れた。
「あっ、あれっ? そ、そこにいるのは路久佐くんっ?」
 幼い顔にふわふわした態度。ふわふわした格好。おどおどした様子。まさに俺の――。
「こ――戒川さんっ……」
 俺の憧れの人、戒川仔鳥さん――仔鳥ちゃんがいた。
 そう、俺の密かな思い人とはこの前に一度チラリと登場した戒川仔鳥ちゃんなのだ。
「仔鳥、あんたがいつまでもノロノロしてるからじゃん」東雲さんが呆れた声で言う。
「だ、だってだってっ、わ、わたし自分でも分からないのにいつの間にか寝ちゃってたんだよ? 2時間の記憶がなくなっちゃってたんだよっ? そ……それに、寧音ちゃんはいつもわたしを見つけてくれるから安心……なんだよっ」
 うぜ〜……って、いや違う違う。そんな事は決して思わない。彼女は天然かキャラ作りなのか、どこまでがやらせなのか、かなり世間とずれたところがある。いやしかし、俺はむしろだからこそ彼女のそういうところが好きだった。
 先程の東雲さん紹介の説明が途中となったが、ここで再開。……東雲さんと仔鳥ちゃんは大学に入る前からの親友であるという。そしてこの大学に入学してどういう経緯からか、そこにいる俺の友人、宮下と東雲さんがよくつるむようになって、自然、東雲さんの親友である仔鳥ちゃんも一緒にいることがしばしばあり、結論、宮下の友人である俺は仔鳥ちゃんに惹かれていったという、複雑怪奇で簡単明瞭な背景があった。
 その好きさ加減と言えば、彼女の働くアルバイト先に自分も押しかけてバイトを始めた位だ。そう、長くなったがつまり数日前、朱主ちゃんの家からの帰りの電車内で会った仔鳥ちゃんは俺の思い人なのだって事が言いたかった。それだけ。あっ、俺はストーカーじゃないからね。安心して。
 電車内で会ったのは正直想定外だったが、ここで俺の恋心はついに明かされた。
 ……ん? どうでもいいですか? そうですか……。
 でも、まさかあの時電車内で仔鳥ちゃんと出会ったのはほんと驚いたよな〜。驚愕だよ。 おかげで順序が逆になったというか……本来はここが初登場シーンであるべきところだろうが……もしや、これが仔鳥ちゃんの物語に対する能力なのだろうか?
「それで……路久佐君。その人はどちら様?」
 東雲さんは朱主ちゃんを見つめながらクールに言う。
 う〜む、やはりおどおどぽわぽわした仔鳥ちゃんと、堂々サバサバした東雲さん……対照的で相性ピッタリの2人は画になるなぁと思った。
「聞いてるの? 路久佐君」東雲さんに睨まれる。
「え? ああ……えと、彼女は……」
 さて、何と言ったらいいものか……このあたりの事を事前に打ち合わせておけばよかったと少し後悔した。
「路久佐……その少女、確かこの前会った周防の彼女、だよな……何故ここに」
 宮下が他の人には聞こえないように俺に耳打ちする。
「あ……ああ……そうなんだけど……」
 俺が説明に窮していた時、ここで今まで黙っていた朱主ちゃんがついに口を開いた。おおっ、頼もしいッ!
「私の名前は紅坂朱主、またの名を彼岸の深紅(ディープ・クリムゾン)。世界の真理を追い求める探求者」
 やらかしよった! 口を開いて欲しくなかった! なんか変なキャッチコピー付けてるし! そんなの初めて聞いたしッ! てか、ディープ・クリムゾンて!
「え? なに……」「ほ、ほわ〜……ん」
 それぞれがそれぞれの方向にキャラの立っている東雲さんと仔鳥ちゃんの2人だけれど、それでもやはり朱主ちゃんには適わないか。何しろ見ている世界のステージが違うからな、そもそも比べられない……か。
「あー……そ、その子はあまり気にしなくていいよ。ちょっと思春期特有の妄想によるイタイ発言をしてしまう病気で、あと何年かすればこの症状も回復して、過去の自分を思い返し、恥ずかしい気持ちとやるせない気持ちでいっぱいになって頬を染める、そんな青春メモリアルを持った純情少女だからっ」
 フォローにテンパってしまう俺も、十分イタイ青春メモリアルを持ってしまった。恥ずい、ここ削除していいかい? 隠蔽工作は許されないすか。ですよね。
「なによ、虚無の観察者(オブザーバー)。あなたも私と同類じゃない」
「俺まで道連れにすんじゃねぇ!」
 俺にも変なニックネーム付いてるしッ!
「けれどそうね。彼の言うとおり、私の事は気にしなくていいわ。私個人としては不満だけれども、このシーンにとって私はさして重要なポジションにはいないはず。あくまでここは傍観者と徹せさせて頂くわ……ふふっ、けれどおかしいわね。そもそも世界という物語の中に閉じ込められた登場人物の1人に過ぎない存在が傍観者気取りだなんて……本当の傍観者はそれこそ、神しかあり得ないというのに……滑稽よね」
 この子は次から次によくも……俺の絶妙なフォローを台無しやがって。朱主ちゃんは同意を求めるように不気味に笑っている。傍観者に徹するならおとなしくしとれ。
 ま、勿論誰も同意してないし、そもそも言ってる意味が誰も分からないと思うよ俺は。
「それより今日は俺、ちょっと目的があって来たんだけど……」
 みんなのぽか〜んとした顔を見て取った俺は、ここぞとばかりに話題を変えることにした。グッドタイミングじゃあないか、俺。
「用とはなんだ?」宮下がすかさず尋ねる。
 あれ、なんだろう……つーか、俺は本当に何をやってたんだ。確かに昨夜、妹からの電話でショッキングな事実を伝えられた。だからそのことで頭がいっぱいになってしまっていた。しかしそれでも、だからってこれくらい考えとけよ――。
「……そういや俺、何しに来たんだ?」
 墓穴の呟き(ボーン・ウィープス)だった。


 現在俺は至福の時と言えるのか、それとも最悪の時と表現するのが正しいのか――そんなどっちつかずの、生きた心地のしない状況に置かれていた。
「とっ、ところで〜、しゅ……朱主ちゃん……はどうしてここに来たの? 傍観者って言ってたけど社会見学に来たのかな? ……かな?」
 おずおずと、そしてゆっくり間延びした口調で尋ねる仔鳥ちゃん。ちなみにそれは見当違いだと思います。
「くははっ。社会見学なんてとんでもない。社会は見学するものではなく、観察するものよ。あくまで自分とは切り離したものとして捉えなくてはいけない。見学なんてしていたら毒されてしまう……世界に取り込まれてしまう。ふん」
 仔鳥ちゃんの目も見ずに、まるで独り言を言うような口調の朱主ちゃん。ほらね。
「……あ、あぅ」
 あう。仔鳥ちゃんの『あう』。頂きました。ありがとうございます。
 俺達……つまり仔鳥ちゃんと朱主ちゃんと俺の3人は、広大なキャンパス内を目的もなく歩き回っていた。元々休学中のこの大学には、特に何をするために来たというわけでもない。当然、なんのあてもなくフラフラとキャンパス内を彷徨う俺達に付き合っている暇もないのだろう、朱主ちゃんには興味があったようだが、すぐに宮下と東雲さんは仲良くどこかに去っていった。が――、
「わ〜……な、なんだか探検してるみたいで、見慣れた大学もいつもと違う何かを感じるよっ」わ〜、そうなんだっ。
 臆病ながらに好奇心旺盛な戒川仔鳥ちゃんは俺達と行動を共にしていた。現在はひまわり等、夏の花が咲き乱れる大学自慢の庭園を散策中。こんな蒸し暑い中……俺も物好きだ。 憧れの仔鳥ちゃんと一緒に行動できるのは俺にとって思いがけない幸運なんだけどね。
「……」しかし、朱主ちゃんはなにやら先程から機嫌が悪そう。もしや仔鳥ちゃんの事を嫌っているのか? 仔鳥ちゃんはご覧の通りの性格。決して万人受けするタイプとは言えないが、それでも彼女はキャラを貫く。俺は彼女のそういうとこが好きだ。
「あ……あの、こと……戒川さん。授業は出なくても大丈夫なの?」
 毎回の事なんだけど……うっかり仔鳥ちゃんって言うところだった。モノローグで仔鳥ちゃん仔鳥ちゃん言いまくってるからなぁ。それは仕方ないか。
「い、いいよ、いいよ〜。授業出ても面白くないし、こっちの方が楽しいし……あ、で、でも2人が迷惑だって言うなら、いつでもドロンさせてもらいますよっ……」
 はにかむような笑顔の仔鳥ちゃん。でもドロンはどうかと思う。
「そんな……全然迷惑だなんて思ってないよ」
「私は迷惑だって思っているけれど」朱主ちゃんってほんと怖いもの知らずだね!
「……しゅ、朱主ちゃん。そ、そんなに心が狭いと大きくなれないよっ」
 仔鳥ちゃんも何気に言う。なんかやな予感。笑顔だけど目が笑ってないし。
「ふん、あなたこそ胸ばかりでかくなって身長は私よりも低いじゃない。何よ、その乳は。大きければいいってものじゃないのよ。私ぐらいが一番ベストなのよ、ねぇ公人? あなたは加減ってものを知らないの?」朱主ちゃん半分キレてらっしゃる?
 やばい。これは修羅場パターンきたか!? つか、そこで俺に振る? 聞こえてない振り聞こえてない振り。私は無関係です。つーか、自分でベストって言うか普通。ちなみに俺は好きだよ、大きいの。
「うぅ……わ、わたしの気にしてることを……」気にしてたのね。
 まずい、あんなにほのぼのとした仔鳥ちゃんの殺気というものを初めて感じてしまった。仔鳥ちゃんの涙目の奥に俺は確かに闇を見た。俺の中の仔鳥ちゃんのイメージが崩れてしまう……。
「ふふん、や〜い牛乳女〜」煽るなっ! おい、空気読めよ朱主!
「しゅ……朱主ちゃん……わ、わたし、わたしぃ…………怒っちゃうよ?」ぞくり。
 い、いかん。このままだとマジでバトルロワイアルが始まってしまう。別の作品になる。年齢制限かかってしまう。2人の視線の間に火花が見えるのは決して俺の目の錯覚じゃないぞ。っていうか仔鳥ちゃん怖いよ? そんなキャラだったっけ?
「で、でも戒川さんも変わってるね〜。授業サボってまでこんなよく分からない探索に参加するなんて〜」
 ピンチを察した俺は咄嗟に話題を変える。なぁ仔鳥ちゃん、この探索大して面白くないだろ。悪いことは言わない。もうやめとけ、な?
「う、うん……それにわたし、久しぶりに路久佐くんに会えたんだから、も……もっとお話したいなって……思って」
 なんだってー! キュピピーンッ!
「あ、は……はは。俺も、こ……戒川さんと会えて良かったな〜……なんて」
 俺の声は思いっきり上ずっていて、俺の笑顔は思いっきり引きつっていた。
 おいおいおい、これはなかなかいいムードなんじゃないか? 大学の敷地内にある、真昼の庭園で憧れの人とランデブー。もしかしてこれがフラグイベントなのか? 俺と彼女の仲が急接近するというイベント……。そう、この物語は俺の恋物語なのだ。だったら朱主ちゃんはさしずめ、俺にとってのキューピッドってところか?
 感謝しなくちゃな、と思って俺はキューピッドの方をちらりと見る。
「……殺す」
 思いっきりこちらを睨んでいた。訂正。キューピッドじゃねぇ。あれは悪魔の目つきだ。え? っていうか殺すって言った? いま確かに聞こえたよ呪詛の言葉。
 すぐに目を逸らした。3秒以上見つめていたら魂を奪われていただろう。
「どっ、どうかしたのっ? 路久佐く〜ん?」
 良かった。仔鳥ちゃんはまだ、この世界の悪という存在には気付いていないようだ。
「いや……なんでもないんだけどね……」
 さっきから朱主ちゃんは何を怒っているんだと疑問に思う。もしかして仲間外れにされたと思ってるんだろうか。まだまだ子供だなぁ。頭撫でてやろうか。殺されるか。
「あー、あのさ朱主ちゃ……」俺はそんな朱主ちゃんに話を振ろうとしたのだけれども、
「話は後よ」しかし朱主ちゃんはびしっと会話のキャッチボールをはねのけた。
 この子の考えている事は本当によく分からないと思っていたが……朱主ちゃんの様子がおかしい。ある一方を睨みつけているようだ。悪魔の目発動中か? その相手は? 俺がそちらを振り向こうとした時――、
「あ……周防くん」隣で仔鳥ちゃんが言った。
「え……? 周防?」俺は目を凝らして見た。
 そこには――。
「あれ? なんで路久佐がここに……? ……それに……紅坂……朱主、ちゃん」
 庭園に現れた新たな登場人物は周防友根――朱主ちゃんの元・彼氏。そして俺の友達。
「久しぶりだね、朱主ちゃん」
 周防友根は朱主ちゃんの前に立ちはだかった。
「ふふ、ひょっとするとこれは私に対してのイベントなのかしら?」
 朱主ちゃんは動じない。
 場は急激に暗雲立ちこめた冷気に包まれる。因縁の戦いが始まろうとしていた。
「……相変わらず酷い言い方だな、君には感情ってもんがないのかい?」周防は朱主ちゃんに対して明らかに敵意をもっているようだ。「けれどこれは現実だぜ? そうやって世界から目を逸らし続けているといつかきっと後悔するよ?」
「あなたなんかに私の考えを分かって貰おうなんて思わない……だけど敢えて言っておく、私は逃げてなんかいない。むしろ世界そのものに対して果敢に立ち向かっているの……あなたには絶対に理解できないけれどね。世界の隷属者であるあなたには」
 朱主ちゃんはお得意の口八丁で冷静に語るが、少しムキになっているようだった。俺と仔鳥ちゃんの2人は黙って見ていることしかできなかった。
「なんで分からないんだ、朱主ちゃん。それが逃げているんじゃないか。自分にとって都合の悪い部分は卑下して見つめようとしない。君はそれでいったい何を手に入れられたんだ? いったい君は何から逃げているんだ?」
 周防はあくまで優しく話す。だが……口元は――俺には分かる――笑っていた。優しさなんてほど遠い笑みで。
「あ……あなたの価値観で私を測らないでよ。世界の内側の人間が、世界の外側の事を理解なんてできるはずないのよっ」
「ほら、またはぐらかす……これでまた一回死んだ。どうしたの、朱主ちゃん? いつもより言葉に力がこもってないけれど……もしかして図星なんじゃない? 本当は自分でも気付いていたんじゃない? 自分はただ逃げているだけだって」
「な……何を言っているの……下らない。あなたごときに私の何が……私は、私は逃げてなんかいない。1人で十分なのよ。それに私は、立派な売れっ子漫画家なの……」
 その顔は今まで見たことのないくらいに、朱主ちゃんは明らかに動揺していた。
「……こんな事言うのもなんだけどさ――朱主ちゃん……本当に君、漫画家なのかい? 僕にはそれがいまいち信じられないんだよな〜」
「あっ、あなたが何を知った風に口をきくの! あなたいったい何様のつもりなの!」
 ついにあの、いつも冷静沈着だった朱主ちゃんが激昂した。
「おやおや〜、随分やけになるね〜。もしかして図星だったかな〜」
 しかし、それでも……周防は変わらない。朱主ちゃんを手玉に取るように……まるで朱主ちゃんの天敵であるが如く、朱主ちゃんを殺しうる者のような――そう、観察者として敢えて言うのなら、それはまさに朱主殺し。
「でもね、違うよ、朱主ちゃん……君が思っているよりも人間はちっぽけな存在じゃない。自分で言うのもなんだけど、僕だって伊達に君より数年長く生きているわけじゃないよ……僕だって何も考えていない訳じゃない……世界は君が想っているより簡単じゃない……君はどこにでもいる普通の少女なんだよな〜、これが」
 言葉によって朱主ちゃんを打倒しうる者。周防――お前は。
「そんな言葉で……そんな言葉で私が惑わされるとでも……私は……私は」
「――けれど……今の君のように、世界から目を背けている人間は……悪いけど僕にはとってもちっぽけな存在に見えるよ」
「っ! あなたになんか関わった私が馬鹿だったわ! もう二度とあなたの顔なんて見たくないわっ!」
 捨て台詞を吐き、朱主ちゃんは逃げるようにその場を走り去った。
「ちょ、ちょっと朱主ちゃん!?」
 俺は思わずその後ろ姿に呼びかける。どこへ行こうというのだ。
「いや、追わなくていい! 路久佐……それよりも聞かせて欲しい。お前、いったい何の用があってここへ来たんだ……しかも朱主ちゃんと2人で」
 無機物、無感情に、まるで誰かの顔のように、周防はじっと俺を見つめていた。まるでそれは鏡を覗き込んでいるような対峙だった。
 俺は周防の顔をみて背筋が寒くなったが、ここには無関係の仔鳥ちゃんがいる。彼女を巻き込めない。ここで話す事には抵抗がある。朱主ちゃんの姿はもう見えない。
「周防……高校生相手にムキになるなよ。今はこんな状況だ、また今度ゆっくり説明するよ。それに朱主ちゃんも放っておけないし」
 周防をなだめるように注意を払いながらに言う。
「いいや、だから追わなくていいんだ。いくらお前の性分だからって今は話を逸らさないでくれ……朱主ちゃんとお前、どういう関係? なぁ教えろよ、僕ら友達だろ?」
 そ、そんな台詞やめろよ周防……。それは俺の領域だろ。お前はそんな人間じゃないはずだ。あくまでも……そっち側に行くつもりなのか。
「……分かったよ。でもな、周防……せめて場所を変えよう……。こんなところでもなんだし、それに戒川さんも困ってる……」俺は先程からおろおろしている仔鳥ちゃんの方にちらりと目を向ける。「戒川さん、ごめん……なんか変な事に巻き込んじゃって」
「う、ううん……わたしは別に大丈夫だから……でもやっぱり朱主ちゃんがちょっと心配、かも……だからわたしは朱主ちゃんを追っかける。だから、わたしに任せて路久佐くんと周防くんは気にせず話し合ったらいいと思うよっ」
 今にも泣き出しそうな顔だったけど……仔鳥ちゃんの瞳はとても優しいものだった。
「探検……こんなカタチで終わっちゃってごめん」
 せっかく仔鳥ちゃんがあんなに楽しそうにしていたのに……。俺は……また仔鳥ちゃんを悲しませてしまった……。
「う、ううん、路久佐くん……わたしがきっと朱主ちゃんを連れてくるから……そしたらまた一緒に学校探検を再開しよっ。だから、わたしはわたしの目的を果たすからっ」
 笑顔で小走りに駆けていく仔鳥ちゃん。
 そうか……と俺は再確認する。彼女に惹かれた理由。彼女の強さ――優しさ。
「ああ……そうだな……さよならは再会の挨拶、か。それじゃあ行こうか、周防」
「くく、これじゃあまるで僕が悪者のようじゃないか……」
 そしてキャンパス内の庭園に残された俺達2人も移動を開始する。
「それから路久佐。その台詞はちょっと寒いというか……聞かなかった事にしとくよ」
 ……かっこいいと思ったんだけどな。

 ここは先程いた庭園からはそう遠くない場所……俺と周防は大学内にある食堂まで来ていた。午後のこの時間、周りには人も少なく、ゆっくり話をするならここが最適で……それに仔鳥ちゃん、朱主ちゃんと落ち合うにも分かりやすいだろう。
「はぁ……お前が小説家、ねぇ……」
 俺の説明を一通り聞き、呆れ顔で答える周防。まぁその反応にも慣れてきたんだけど。
「正直、俺自身も驚いてるくらいだよ」
 それこそ何らかの話の筋書きに沿って行動しているような……。自分の人生を捨てて身を委ねるような……俺にぴったりだろ。
「じゃあ今は、お前が朱主ちゃんのオモチャとしていいように使われているってことか」 周防はわざとらしく意地悪い笑顔を見せる。
「お、俺はそんなつもりはない……ただ協力してもらってるだけというか、彼女のペースに巻き込まれてるっていうか……」
「路久佐、気を付けろよ……彼女が可愛いからって、黙って従ってちゃ僕みたいに捨てられる。彼女は自分以外の人間のことなんて何とも思っていないんだよ。ただ自分が現実逃避するための駒としか思っていない。都合が悪くなれば見限られておしまいだ」
「どうして……そんな、彼女は……」
「いいさ、いずれ路久佐にも分かる時が来る……友人として言えることはあまり彼女に深入りするなってことだよ、お前にそれだけを言いたかっただけだ」
「そうか……忠告ありがとうよ」
「ふふ、確かに僕もちょっと大人げなかったよ。あの子にいいように利用されて悔しかったのかもしれないな……ようやく目が覚めたよ」
「でも、朱主ちゃんと別れを切り出したのは周防からだろ? 朱主ちゃん言ってたぜ、自分からは人をフったことはないって」
「そうなんだけど……なんていうか正常な人間なら彼女の傍に居続ける事だけで耐えられないってか……だから、僕から見たらお前の方が凄いっていうか……平気なのか。お前、よく彼女の傍に居続けられるよな? なんでお前は壊れずにいられるんだ?」
「え……? どういうことだ?」
 俺はただ彼女に執筆活動の手伝いをして貰っているだけで、今日もその為にここに来たんだけど……。
「いや、気にするな……それで、路久佐。今日久しぶりに大学に来てみて、その目的とやらは達成できたのか?」
 周防は先程までの真剣な表情から、いつもの陽気なそれへと変わってた。逆に怖い。
「ああ、いや、どうなんだろうな。そこんところいまいちよく分からないし、そもそも具体的なことなんか何も知らないからなぁ」
 全てがフィーリングのイベント。結局フラグは回収できたのだろうか?
「ははっ、相変わらずお前はいいかげんだな。ってか案外僕とこうしてこの会話している事こそがフラグだったりするかもしれないよな」
 茶化すような口調の周防。でもまったくその通りだと俺も思うよ。
「そうだな……確かに。今日は色々あったからな……もうこれ以上は十分だろ」
 これが物語なら終わりなんて全然見えないけど、確かに進展はあったように思う……そう実感する。いわばここは起承転結でいうところの承あたりだ。今日の出来事がきっかけとなり、そこから物語は転がり出していったと、後になってそう思えた。
「だったら路久佐。もうお前は朱主ちゃんにこれ以上深入りするな」
 突然、周防は再び真剣な顔で告げた。その顔はもう、俺の知らない周防の顔だった。
「朱主ちゃんとの関わりはまともな奴から脱落していく……それが正しい判断なんだ。だから僕なんかは彼女からなかなか離れることができなかった。路久佐、お前このままだったら朱主ちゃんによって殺される事になるぞ」
「な……周防。何言ってるんだよ。お前ちょっと思い詰めすぎだぞ、もうちょい気を楽にしろって。初めての彼女が朱主ちゃんで、こんな結末になってしまったお前の気持ちは十分分かるけど……お前こそいい加減吹っ切れろよ。朱主ちゃんに深入りしすぎてるのはお前の方なんじゃねぇのか?」
「……俺が、朱主ちゃんに……?」
「あ……ああ、お前はまだ朱主ちゃんに未練があるんじゃないのか?」
 異様な気配を纏った周防に、それでも負けじと友達として忠告する。どうでもいいが、一人称が変わっているぞ……周防。
「なんで俺が朱主ちゃんに? なんでそんなこと。俺はお前を心配してるだけだよ、気遣ってやってんだよ。だって俺は朱主ちゃんの事は全部お見通しなんだ。だからこそお前は朱主ちゃんに近寄っちゃいけないって言ってるんだよ」
 何の感情もこもっていない口調と表情。それは俺がよく知る顔で――。
「……す、周防。自分が気付いてないだけでまだ朱主ちゃんの事が好きなんだよ……きっと。それでお前、朱主ちゃんと一緒に行動してる俺に嫉妬しているんじゃないのか? だったらお前こそ手を引くべきだ、周防。お前なんかおかしいぞ……俺はなんとか朱主ちゃんと上手くやってけてると思うんだ……だから俺の事は心配するなよ……お前は朱主ちゃんとは相性が合わなかった。それだけなんだ」
「……は」
 周防、俺の言葉が通じているなら……戻ってこい。
「はは」
 でも、俺の祈りは――。
「はははははハハハはははっあははははっははははぎゃアハハハハーーーーッッ!」
 届かなかった。
「俺が朱主ちゃんにィ? 俺があの女なんかに? ああ分かった、分かったよ路久佐。お前がそう言うなら、お前がそうならァ、俺とお前と……朱主は……いずれ決着を着けようじゃないかぁ、なぁ……路久佐ァ!」
 ――ああ……周防……。お前、もう戻れないのか……また俺の周囲で人が壊れていくのか。また、また俺が壊してしまったのか。また俺は滅茶苦茶にしてしまうのか……。けど、もうそんなのはごめんだ。
「周防、分かった。俺は――」
 その時、こちらに近づく2つの影が。
「あ。路久佐くん、周防くん」特徴的な甘ったるい声。
 戒川仔鳥ちゃんに――、
「……しゅ、朱主ちゃん」
 紅坂朱主ちゃん。
「……」朱主ちゃんはしかし、黙ったまま所在なさげな表情で、怯えているようにさえ見えた。ちらちらと周防の顔を窺ってる。俺の知る彼女の像からかけ離れていた。
「……それじゃあ、僕はもう行くよ。話も終わったからね」
 周防はそんな朱主ちゃんに気を遣ってか、席を立ち上がる。いや、そんな事は……ないか。結局、今のやりとりはこの先の物語にどんな影響を及ぼすというのだろうか。
「あ、ああ……そうか。じゃあ、またな」
 俺はぎこちない笑顔で周防に別れを告げる。
「じゃあな、路久佐。また今度宮下と3人で会おう。そん時はお前の小説みせろよな」
 俺に手を振って、周防は立ち去っていった。その顔は――やっぱり笑っていた。
「……ああ、そうだな」
 周防。どうやらこれはお前と朱主ちゃんだけの問題じゃなくなったようだな……。これは俺とお前の物語でもあるようだ。俺は周防の様子を窺う。
 すると、周防が朱主ちゃんの前を通り過ぎる際に、彼の口が動いたような気がしたが、よく聞こえなかった。朱主ちゃんはずっと俯いていて、表情が分からなかった。
 外のセミの声が五月蠅かったせいだろうかと考えたが、聞こえていたのはセミではなくよく分からない何かの声で……いつの間にか太陽は傾き始めていた。
「よ、よかった〜、周防くん、もう大丈夫そうだねっ……」
 周防が立ち去るのを見送った後、仔鳥ちゃんが口を開いた。そう、仔鳥ちゃんまで巻き込むつもりはない。君は笑っていてくれればそれで。何も知らなくていいんだ。
「うん、そうだね。それと……ありがとう戒川さん。朱主ちゃんを連れてきてくれて」
「だって、あのまま放っておくなんてできないからっ」
 そう言って仔鳥ちゃんは朱主ちゃんの方をおずおずと見る。
「……」しかし朱主ちゃんは黙ったままだった。ふてくされているのだろうか? それとも俺がいない間に2人に何かがあったのだろうか? そもそもどういう経緯で朱主ちゃんは仔鳥ちゃんについてくるようになったのだろうか……。
「路久佐くん」
 俺が呆然と朱主ちゃんを見ていると、唐突に仔鳥ちゃんが呼びかけてきた。
「あっ、ごめん。何?」俺は慌てて仔鳥ちゃんに顔を向ける。
「え〜、ええっとね。なんていうのかな……その。あんまり無茶しないでね、っていうか……いつでも私が力になるから、相談に乗るから、だから……もっと私を頼っていいんだよっ。だってそれがわたしの路久佐くんに対する恩返しなんだから……」
 たどたどしい口調で話す仔鳥ちゃん。その言葉でとても勇気づけられて……でも。
「うん。ありがとう、戒川さん。なんか俺、何とかしなきゃって焦って、1人で空回りしてたのかもしれない……もっと冷静になって周りを見るべきなのかも」
「……う、うんっ。分かればよろしいっ」
 満面の笑顔の仔鳥ちゃん。とても可愛かった。
「あ、ああ……」
 思わず俺は目を逸らす。その先には朱主ちゃんが不満そうな顔でこちらを見ている姿があった。その姿は夕日に溶け込んでいて、まさに彼岸の存在のように思えた。
「じゃあ私も用事があるから、今日はもうここで解散っ。探検の続きはまた今度っ」
 仔鳥ちゃんがオーバーアクションで宣言した。なんだか無理に頑張っているのが痛いくらいに伝わる……ごめんな仔鳥ちゃん。
「うん……。なぁ朱主ちゃんも今日はもうこれくらいでいいだろ……?」
 朱主ちゃんに確認をとってみる。
「……そうね、今日はここまでにしましょう」ぽつり、と答える朱主ちゃん。
 朱主ちゃんの許可も出たことだし、なんだか途中有耶無耶になってしまったが、しかしそれこそが今日の目的だったのかもしれないと思いながら、帰ることにした。
 その際、仔鳥ちゃんと別れる前に、
「路久佐くん、無理して背負わなくていいんだよ」
 俺にだけ聞こえるように、言った。何の事を言ってるのか分からなかった。
 そして俺と朱主ちゃんは、西日が強く差す帰り道を並んで帰った。俺達に交わす言葉はなかった。



 Z


 俺がアパートに戻ると、なぜか部屋の明かりがついていて、中に入ってみると、なんとそこには妹の姿があった。
「やほやっほ〜、遊びに来たよっ。お兄ちゃんっ」俺の妹、路久佐仄。
「なんでお前がいるんだよ……来るのは明日じゃなかったのか? っていうかどうやって入ったんだっ?」これは不法侵入じゃないのか?
「前に泊まった時についでだから合鍵を作っておいたのっ。便利でしょ?」
「……いや、便利でしょって……俺にプライバシーはないのかっ」
「う〜……可愛い妹を見知らぬ街においておくより全然いいでしょ!」
「俺がアパートにいる時に来ればいいし、そもそも来るなら来るって事前に連絡しろ」
「昨日したじゃん」
「そん時は明後日に来るって言ってただろっ!」
「もう……うるさいなぁ。そんなに勝手に部屋に入られるのが嫌なの? どうせ何か変な本とか隠してあるんでしょ? わたしそんなの興味ないからっ。ぷう」
「ち、違っ。そういう事じゃないっ。ただこっちも何かと都合があってだな……」
 変な本が隠してあるのは真実なんですけれど。
「ふ〜……分かった分かった。もうそんな話はどうでもいいから……わたしついさっき着いたところだから疲れてるの。お風呂入ってくるから何か食べるもの作っといて」
「なんかもうこの部屋、お前の第二の故郷みたいな位置づけにされてない?」
「お兄ちゃんの家はわたしの家。お兄ちゃんは私のもの、よ」
 ジャイアニズムの誤用とというか……なんだかすごく禁忌的な響きの言葉を残して妹は風呂場へと行った。
「一応言っとく、覗いたらぶっ殺す」
 覗くか、あほ…………いや! 覗くか、あほ! そこまで堕ちてねぇ! ……たぶん。
 1人残された俺は、生意気な妹にはカップラーメンでも食わせとけ、と思いながら冷蔵庫を開けて中身を物色。ってか俺は妹にどう思われてるんだ? まぁ、けれど物語的にはこれは覗かないと朱主ちゃんに怒られるんじゃないのか? サービス要るだろ?
 とか俺が料理しながら苦悶すること数十分、チャーハン的な食べ物を完成させたタイミングで丁度仄が風呂から上がってきた。なんとか禁忌を犯さずに済みました。
「なかなかおいしそうな匂いを醸し出してるじゃん。お兄ちゃんにしては意外ね」
 湿った髪を後ろにまとめ上げた妹。体に合わないぶかぶかのパジャマを着ている。なんだろう、俺はこのパジャマに見覚えがあった。
「ああ……一人暮らししてたらこれ位なら嫌でも作れるようにはなるよ、ふふっ……っていうか俺の服じゃん、それっ!」
 どうりで見覚えがあると思ったよ! おととい着てたし!
「今日だけだよっ、なんか荷物から出すのも面倒だったし」
 いいかげんな奴だ……誰に似たんだか。
「それで……仄、お前はいつまで滞在するつもりなんだ?」
 高校生は確かまだ夏休みには入っていないはずだ。すると今日が金曜日なのを考えると2泊くらいが妥当なところか。
「さぁ、どうなんだろ? いつまでいようかなぁ……」ノープランだった!
「学校は大丈夫なのかよっ?」
「期末テストも終わったし別にいいよ。それにわたし、学年3位だから」特に自慢そうにもなくさらりと言う仄。
「……そうだったな、優等生さん」それに茶化す返す俺。なんか小っちゃいなぁ俺。
「もう夏休みの間中いてもいいくらい」
「俺がよくないわっ!」2泊どころか一ヶ月単位かい!
「……でさ、お兄ちゃん。実際のとこどうなのよ」仄は話を強引に切り上げて、いよいよ本題とばかりに、俺に新たな話題を切り出した。「実家に帰るつもりはないの?」やはり、そうきたか……。
「あのさぁ……何度も言うように、俺はまだ当分実家に帰るつもりなんてこれっぽっちも、1ミクロンもない」
 変な期待をさせないように、ここはきっぱりと俺には帰る意思がないことを伝えておく。ああ、やだなぁ……こういう本質的な会話。俺は中身のない話をしゃべるのは別にいいんだが、ちゃんとした会話は苦手なんだなぁ。
「……でも、でも。お兄ちゃん、学校行ってないじゃん……こんなところに住んでる意味ないじゃん……」
 なぜか仄の口調が弱気になったいた。少しきつく言い過ぎたか?
「それもこの間電話で話した通り、俺はここでやりたいことを見つけたんだ」
 しかし、俺はあくまで強気に押し通す。
「それって漫画家になるってやつ? わあ、あれってホントだったんだ……てっきりお兄ちゃんの出任せかと思った」
 ……半分出任せなんだけどね。ばれてたのね。さすが兄妹。
「……っていうか、ごめん。俺ちょっと言い間違えてたかも……正しくは漫画家じゃなくて小説家……だったんだよね〜……はは」
 そんな根本的な部分を言い間違えるわけは常識的には考えられないのだが。
「なんだかすごく苦しい言い逃れのようにも聞こえるけど……分かった。それじゃあ、お兄ちゃん……わたしにお兄ちゃんの書いた小説ちょっと見せてくれない?」
「……ああ、やっぱりそうなるよな……でも、ちょっと待っててくれないか?」
「なんで?」仄は不審そうな目を向けてくる。
「あー……だってほら、俺はてっきりお前が来るのは明日だと思ってたからさ……それまでにお前に見せられるまでに文章を手直ししときたいって思ってたから……だからさ、見せるのは明日でいいか?」
 我ながら上手いいいわけだ。俺の唯一の特技だと言っても過言ではない。
「え〜……まっ、別にいいんだけど」意外とあっさりOKする仄。
 苦し紛れでも言ってみるものだ。
「そんじゃ俺は執筆活動に専念するからお前はもう寝ろ」
「は〜い……って、早いよっ! まだ8時じゃん! どっか観光案内とかしてよっ」
「お前さっき、今日は疲れてるって言ってたじゃねーか。睡眠はしっかりとらないと大きくなれないぞ」
「大きくって……わたし、高校生なんですけどぉ……じゃあじゃあ、せめてどっか食べに連れてってよ〜。さっきのチャーハンだけじゃお腹ふくれないよ……しっかり食べないと大きくなれないもんっ」
「俺の言い分を上手く再利用しやがって……」さすが学年3位の秀才。何か賞をやろう。
 どこか食べに行く……か。確かに考えてみればいいかもしれない。執筆活動はできるだけ自宅以外の場所でするのが朱主ちゃん直伝、俺のやり方だった。
「……わかったよ。その代わり、俺は小説書いてるからな……邪魔すんなよ」
「すっごーい、お兄ちゃん。プロって感じぃ」仄は尊敬の眼差しで見つめている。
「へへん、こんなの当たり前だ」
 未だ一本も完成させたことがないんだけどね。

 
「で、それなのになにゆえこんなところに俺達はいるんだ?」
 俺は街灯で照らされた大きな交差点で大きくため息を吐いた。人生に迷いし者の交差点。うん、いい句が浮かんだ。
「や、だってせっかくこっちに来たんだもん。やっぱり観光していきたいじゃん?」
 朗らかな笑顔で無邪気に微笑む仄。
 なぜか俺と仄は電車に乗って都心の繁華街にまで来ていた。こんなはずじゃなかったのに……。
 信号が青に変わり群衆が歩を進める。さすがにこの時間でも都心の繁華街だけあって多くの人で溢れていた。
「人が多い場所は苦手なんだけどな……」
「あっ、あっ、お兄ちゃんっ。あの店とってもキュートだよ、ちょっと寄ってみよ! あっ、あれTVで見たやつだ!」……聞いちゃいない。
「おいおい、あんまり急ぐなよ」全く、しょうがないやつだ。
 妹の後を追おうとした時に、背後から俺を呼びかける声がした。
「うわっ、公人。こんなところで奇遇だなっ、それに……今の子ってもしや仄ちゃん?」
 後ろを振り返るとそこには在兎の姿があった。ご都合主義ともとれる出会い……これも偶然という、物語の中の必然……か。特に驚く気もしない。
「おぅ、在兎……本当に奇遇だな。そうだよ、妹が今日こっちに来たんだ。で、今はどっか連れてけって言うから、こうしてこんな時間にこんなとこまで来てるんだ」
「そっか……仄ちゃん、元気そうで何よりだ……な。それで……公人。話は変わるけどさ、オマエまだあの小説書いているのか?」在兎のジト目炸裂。
「あ、ああ……まぁな。今更違う作品を書こうにも、もう新人賞の締め切りまで時間がないからな……処女作は俺、これで勝負する」華麗に目を逸らす俺。
「いいのか……まだ例の漫画家……紅坂朱主に振り回されてるんだろ?」
「うん……でも、俺はそれでも続けるよ。もう決めたことだから」
「そうか……分かった。けれどオレはやっぱりその紅坂朱主が信用できねー。だからオレは少し彼女を調べてみようと思う」
「えっ……」
 突然の在兎の思いつきに俺は困惑。その真意を確かめようとした時――。
「ちょっと〜、お兄ちゃん。何やってるのよ〜……って、ウソっ在兎さんっ!?」
 遠くから仄がやって来た。俺の隣にいる在兎の姿を見て驚いているようだ。無理もない。在兎が高校を卒業してから会っていないんだからな。
「……おー、久しぶりだね、仄ちゃん……元気してた?」
 俺にとっての幼なじみの在兎は、俺の妹の仄にとっても同様の存在だった。小さい頃はよく3人で遊んだもので、2人はまるで姉妹のような関係だった……いや、兄妹?
 でも……2人とも久しぶりの再会だっていうのになんだか妙に態度がぎこちない気がして……いや、ひねくれてる俺の思い込みだろうな。
「……う、うんっ、とっても元気だよっ! でも、まさかこんなところで在兎さんに会えるなんて……わたし在兎さんの新作読破したよっ。とっても面白かったよ」
「へ、へぇ〜……もう読んだのか、早いな〜。ありがとう、仄ちゃん」
「……って、仄。お前在兎が小説家だって知ってたのか!? 俺はついこの間まで知らなかったのに」意外な事実だった。
「そんなのロンのチモじゃん。だってわたし在兎さんとメル友だし、それになにより兎奈々偽在兎っていったら、いま小説界では超話題の一流作家でしょ? 仮にも小説家を目指してるお兄ちゃんの方が知らなかったって、そっちのがおかしいよ」
「そうかもしれない、ってかメル友だったのかお前達」
 なんか一人だけ仲間はずれにされたような気分でいたたまれなかった。
「あっ……っていう事はお兄ちゃんと在兎さんはライバル関係って事じゃない! なんか熱い展開じゃん!」なんて事を言い出すのかこの妹は。
「はははっ、オレと公人がライバル関係か。確かに面白そうな展開じゃないか。オレもそんな展開がやってくることを楽しみにしてるよ、公人」
「いや……仄。超話題の一流作家の在兎に対して、それはハードルが高すぎるだろ。俺はそれどころかデビューすらできてないんだぞっ。まるっきりの素人だ。いくらなんでもそんな無茶は言わんでくれ」
「いやいや、公人。オレは結構おまえに期待してるんだぜ? だから早くデビューしてここまで上がってきてくれよな?」片目を瞑って、挑発するように在兎は言う。
「くぅ〜……2人して俺を担ぎやがって。こうなったら一刻も早くデビューしてぎゃふんと言わせてやるからなっ」こういうノリは正直苦手だ。
「ぎゃふんと言わせるってお兄ちゃん……日常用語で平気で使う人初めて見たよ……」
 ……ちょっと恥ずかしい。この瞬間、この言葉は俺にとっての死語となった。
「そっか。公人、応援してるから頑張れよな。……んじゃオレはこれから用があるからそろそろ失礼するよ。仄ちゃんもせっかく久しぶりに会えたのに、慌ただしくなってごめんね」両手を合わせて申し訳なさそうな様子の在兎。
「ううん、在兎さんの顔が見れただけで満足だよっ。それで用って、こんな夜遅くに一体どんな……?」
 好奇心旺盛な年頃の為か、ぶつしけな質問をする仄。しかし、確かに俺も気になる。
「ああ、ちょっとした取材ってやつかな……小説家といっても一日中引きこもってるばかりが仕事じゃないからな」
「ほお〜……さすがは超一流……。取材、頑張ってね在兎さん」
「それじゃあ、またね仄ちゃん。今度家に遊びに来てよっ。じゃあ、公人。オマエもその小説早く書き上げろよな。もう日数も少ないんだからな」
「ああ、俺はやるときはやる男だ。女か男かよく分からない在兎には負けられねーぜ」
「う……うっせえ、オレは100%女だよっ」在兎は昔からこの言葉には弱かった。
 なんとなく在兎の頭を撫でたくなったが妹が隣にいるのでその衝動は抑える。
 そして在兎は「じゃあな」と手を振って夜の繁華街へと姿を消した。都会の人工の光に混ざった在兎の後ろ姿は、中性的なそれと相成って幻想的な妖しさを抱かせた。
 俺は在兎と別れた後も、ゲームセンターだのなんなの仄に色々と連れ回された。俺の両手は荷物で一杯。最近の高校生は金持ちだ。気付けば夜もすっかり更けていた。
「も、もういいだろ。とりあえずそろそろ帰ろう。終電に間に合わなくなっちまうぞ」俺の体はもうヘトヘトだった。それに金銭面も心配だ。
 それなのに……。ぐぅ〜、と腹から情けない音。
「そういえば俺、何も食べていない……」当初の目的を完全に失念していた。
「えへへ〜、それじゃあ戻って何か食べに行こっか」笑顔で微笑む仄だった。
「ぎゃふん」思わず使用禁止になったばかりの言葉を使用しちまった。
「……」隣で妹は冷めた目をしている。
 夏だというのに冷たい風が吹いた。
「それにしても在兎さん……。こんな時間から一体何の取材をやるんだろう?」
 何やら仄がやたらと在兎の動向を気にしているようなんだが、俺の錯覚だろうか。
「……。いいじゃないか、そんなこと……それよりメシ食いに行こうぜ、割り勘で」
「ええ〜〜〜〜!? 奢ってくれよぅ、お兄ちゃん!」
 ああ、そんな事はいいんだ。それは……俺達の物語にとって知る必要の無いことだろう。それは、俺の物語とは交わらない在兎の物語だ。


 というわけで俺たちは今、俺のアパート近所にあるファミレスに来ていた。24時間営業のここは周防や宮下と共によく行く店で……朱主ちゃんと初めて出会ったのも、何を隠そうこのファミレスである。そういえば色々な場所で執筆活動はしていたが、ここでするのは初めてだよなぁ。
「ねね、お兄ちゃん。ちょっと作品見せてよっ」いちごパフェを食べながら仄は言う。
「うるさい、明日まで我慢しろ」つっぱねて、ドリンクバーのコーヒーを一口すする。
 俺の書いている小説が、ノンフィクションというか俺そのもの、観察日記のようなものであり、正直、妹にそれを見せるのは恥ずかしかった。
「じゃあ、どんなの書いてるのかだけでも教えてよぉ〜」
「……なんか恥ずかしい」
「恥ずかしいって……出版されたらたくさんの人に見られるんだよ?」至極当然の意見。
「読者である不特定多数の人間は現実の俺の事を知らないからな……お前とか、俺の事を知ってる奴に読まれるのはどうも照れる」それにこれは、正にそういう類の小説だ。
「なるほど、身内に読まれると恥ずかしいってわけね……でもお兄ちゃん、明日になったらわたしに見せるって約束したよね? だったら今の内に、話の内容を説明しておいたら、明日の恥ずかしい思いが軽減されると思うよ〜」確かにそれも一理ある。
 仕方ない、根負けだ。いつまでも隠したってしょうがない。余計恥ずかしいだけだ。
「分かった。それじゃあ俺が今どんな小説を書いているのか教えてやるよ」
 俺は方々から賛否両論のある壮大な計画を妹に語ってみせた。
 俺が説明している間、仄はパフェに手をつけず真剣な表情で話に聞き入っていた。
 そして、俺の長い話が終わった後、仄はドリンクバーのメロンソーダを一口飲んで、大きく息を吐いてから言った。
「なにそれメチャ面白そうじゃん。これは話題騒然だよっ、希代の問題作になるね!」 興奮した様子の仄。どうやら妹には大好評だったらしい。
「周りからは結構非難されてるんだけどな」
 特に本職の売れっ子小説家からのバッシングはきつかった。
「未開のものは非難されるのが常だよ。なんだって最初は非難される。本職の人からならそれはもってのほか。自分が既存の枠に縛られているから許せないはずなんだよ。でも多分、わたしみたいな何も知らない若い人達には受けると思うよっ。小説の新しいカタチ、エンターテインメントの新ブームを巻き起こしてよっ」
 どこからの自信? こんなに過度に期待されてしまって……プレッシャーというか。そんな事俺に出来るのだろうか、ド素人なのに。
「そうだな……んじゃま、妹の期待に答える為にもちょっと頑張ってみますか」
 それでもやっぱり、仄の励ましは俺にやる気を与えてくれた。俺は持参した愛用のぼろノートパソコンの電源を付ける。
 窓から差し込む月の光を浴びながら、ぷしゅぃぃぃん、といかにも寿命切れ寸前な不健康な音を立ててPCが起動。
 
 しばらくの間、俺は『ゲキチュー』の続きをパソコンに打ち込んでいた。今日は様々な出来事が起こった。それらを思い返しながらキーボードを叩く。さながら日記を付けているようなものだ。いや、というかこれはもはや日記としてでしか機能してないのではないだろうか? 疑問に思いながらもキーを叩き続ける。
 執筆に行き詰まったというか、執筆にする為の、現実の俺に物語が進展しない事を案じて、朱主ちゃんに相談した事から事態は進展したようにみえた。
 なぜか俺と朱主ちゃんは、かつて俺が通っていた大学に行くことになって、そこで友人や俺の思い人と再会。そしてその思い人――仔鳥ちゃん――を加えて3人でキャンパス内を練り歩き、朱主ちゃんの元彼氏――いや、もはや朱主ちゃんにとっては付き合っているなんて思っていなかったらしいのだが――周防友根と出会い、朱主ちゃんといざこざを起こして、朱主ちゃんはすっかり意気消沈。俺と周防との間にも何やら怪しい空気ができてしまい……俺と朱主ちゃんはお互い無言のまま別れたわけで。
 そして帰宅した俺は突然現れた妹に翻弄され今に至るのだが……。実はずっと朱主ちゃんの事が気に掛かっていた。俺は彼女に何もしてあげられなかった……。
 一通り執筆を進めて改めて考えてみる。
 これ途中から俺じゃなくて、朱主ちゃんの物語になっているような気がするが。さすがヒロイン候補。引き込み力が違う。
 しかし本当にこれは物語か? エンターテインメントたりえるものなのか? 話の流れが見えないし、エンディングが見えない……。一体俺はどこに向かっているのだ。
「ふぅ……」俺は思わず席を立つ。
「ん? どしたの、お兄ちゃん」携帯電話をいじっていた仄が、目だけを向ける。
「気分転換。ちょっと頭を冷やしてくる」
 意味もなく立ち上がったんだが、そのついでだ。トイレにいって顔でも洗ってこよう。
「ふ〜ん」すぐに携帯電話に目線を戻して、特に何の感慨もなく興味なさげに答える仄。
 俺はトイレに行って顔を洗う。鏡の中の俺は少々疲れた顔をしていた。
「今日はいろいろあったからなぁ」
 朱主ちゃんは今頃どうしているのだろう。結局あの後、何も話せなかった。実は今日朱主ちゃんと別れてからずっと彼女のことが気になっていた。
 しかし、いつまでも考えていても仕方がない。彼女とはまたすぐに会えるさ。だってそれが俺と彼女の縁なんだろう?
 俺は鏡に映る自分に言い聞かせるようにしてトイレから出た。そして何気なく店内を見渡したとき、
「あれ……? 朱主ちゃん?」
 言ったそばからどんなに強烈な縁なんだ。店内の端の方の席に、紅坂朱主ちゃんの姿を発見した。確かにこれは物語だ。運命を感じずにはいられない。
 どうやら朱主ちゃんは俺に気が付いていないようだ。水色のTシャツにショートパンツの姿は彼女にしては珍しい普通な格好だが、とても似合っていた。俺はかける言葉も見つからないが、それでも彼女を放っておけない。それに今の朱主ちゃんの姿はなんていうか……とても儚かった。いつもの毅然とした印象は欠片ほども感じられず、そこにいるのは今にでも壊れてしまいそうな弱々しさをも感じさせる少女だった。
 いてもたってもいられなくて俺は歩を進める。別に驚かせるつもりはないがなんとなく、朱主ちゃんに気付かれないようにゆっくり後ろから近づいた。
「気付いてるわよ、ばか」
「あっ、バレバレだったか」
 息を殺しながら朱主ちゃんの真後ろまで近づいたのだが、どうやら無駄な努力だったようだ。いや別にばれてもいいんだけど……。
「分かってたならもっと早く反応して欲しかったな……なんか俺が馬鹿みたいじゃん」
「みたいじゃなくてそのものよ、一つ前の私の台詞をもう忘れたの?」
 朱主ちゃんはなんだかご機嫌ななめみたいだ。
「はは、参ったねぇこりゃ……それにしてもさ、朱主ちゃんはなんでここに?」
 でもこんな事くらいでは俺は怒らない。俺には感情の起伏がほとんどないんだから。
「別に私がどこにいたって私の勝手でしょ。あなたには関係ないわ」
「そりゃそうだね……けれど珍しい。朱主ちゃんがそんなテンプレートな台詞を返してくるなんて」おどけるように言ってみる。
「たまにはステレオタイプなのも必要なのよ。奇をてらってばかりじゃ読者も飽きてくる……ほどほどが必要なの。大事なのはメリハリなのよ」
 どうでもよさそうに答えて、朱主ちゃんはそっぽを向いて黙った。
「あのさ、朱主ちゃん……その、今日はついてなかったね……」
 しばらくして、俺は沈黙を破って今日の話題に触れた。
「ついてない? ふん。勘違いしないで、そんなの私はなんとも思っていないわよ」
 これは強がりだろうか?
「でもさ、朱主ちゃん。俺は周防が全面的に正しいとは言わないけど、周防の言いたい事も分かる。朱主ちゃんももっと他人に気遣いできるようにしないと非難されるっていうことだよ。悔しい思いもしたけど……勉強になったんじゃないかな」
 年長者らしいごもっともな意見。
「あなた、本当に何も分かってないようね……公人、私はどうやらあなたを見込み違いしていたみたいだわ……今、はっきりと分かった」
 けれど、それでも朱主ちゃんは己を曲げるつもりはなかった。
「本当に君は頑固だな」思わず俺も呆れてしまう。
「私はこんな世界に対して何も感じないし、それに縛られている存在の言葉なんてどうとも思わないの。勿論、もうあなたのことも」
 朱主ちゃんの俺を見る目には敵意があった。
「朱主ちゃん。周防みたいな事言うようで悪いけど、そうやって嫌な事から目を背け続けていたら誰もいなくなってしまうぞ」
「いいのよ、もともと私は1人なんだから。1人でも生きていけるわ」
 何でもないように言う。そうか……やっと分かった。朱主ちゃんは俺と同じなんだな。だから俺達は……。でも駄目だ。だったら尚更朱主ちゃんは引き返さないといけない。だったら俺は感情を揺れ動かすしかない。
「じゃあ、じゃあどうするんだ! 一緒にラノベ仕上げようって言ったじゃないか!」
 俺はつい声を荒げてしまう。幸い夜も遅い時間なので、店内の客もまばらで、注目されている様子もなかった。
「悪いけれどその話はなかったことにして頂戴。どうやらあなたを買いかぶってたみたい……あなたには無理なのよ。候補者じゃなかったのよ」
「そんなまた訳の分からない事いって煙に巻こうとするなよ! もっと俺にも分かるように説明してくれ!」
 俺は絶対に引かない。引くわけにはいかない。今度こそ俺は救ってみせる。
「……分かったわ」俺の気迫に圧倒されたのか朱主ちゃんはしぶしぶ語り始めた。「いい? 前にも言ったけれど、あなたにある素質っていうのは、つまり世界との隔絶なの。あなたと社会とを結ぶものがあまりに希薄……それがあなたの素質」
「……それとラノベを書くことと何の関係があるんだ?」
「ここで言うのはラノベを書く事でなく、物語の事。あなたは物語を実行する事のできる存在……あなたという存在自体がストーリーテラーたり得るものだと思ったの」
「はぁ?」話が俺の理解を超えている。
「つまり世界と希薄だからこそ、その常識から解脱できる存在。世界の縛りから抜け出し、それを超えた新たなステージに入ることができるのよ」
 朱主ちゃんは雄弁に語る。目の前に置かれたオレンジジュースを一口飲んで続ける。
「だから、あなたが最近事件に巻き込まれるのはこの世界を超えた……いわば超世界の意志、あなたが物語を作ろうとしているから超世界があなたを物語通りに動かしているの。それをあなたがカタチにしているだけよ。そのライトノベルはあなたが作ってるのじゃなく超世界が作ってるのよ」
 それももう終わりだけどねと、またストローに口をつける。
「俺にはよく分からないが、なんでそんな事になるんだ? 君と出会ってから……」
「超世界とはこの世界を超えた意思……分かりやすく言えば人の妄想みたいなもの。世界には数多くの人間がいて、できるだけ多くの人間がより暮らしやすい世の中にしよう、幸せになろうと切磋琢磨している……けれど、だからこそ個人の幸せに上限ができる。個人の意志はどこかで、別の誰かの意志とぶつかってしまう。お互いがお互いをつぶし合う。だから全員が幸せになるためには、できるだけつぶし合わないよう妥協する。けどそうすると幸せに制限ができる。矛盾ね。そしてその足りない幸せの分を補おうとしてできたのがエンターテインメント。つまり映画、TV、音楽、漫画、アニメ、小説などの娯楽よ」
「まぁ……それはだいたい分かるけど」
「そしてここからが肝心。エンターテインメントは所詮その世界に縛られた者の願望をカタチにしただけのもの、虚構の世界なの。……けどあなたは違う。あなたの存在は既に世界から切り離されていた。だから私はあなたにきっかけを与えただけ」
「きっかけ……」
「あとはもう簡単よ。世界の真実の意思が、何の制限もないあなた自身を使って物語を創らせているのよ。制限がないから全ての因果をあなたに収束させられる。純度100%の運命を与えられる。そう、この物語はいわば世界の声なのよ。世界の姿をあなたは見ているのよ。人なんて些細なきっかけですぐに向こう側にいくことができるのよ……私はあなたを使って世界の物語を一気に進め、その結末が見たかった……」
 それは、世界の終わり……。朱主ちゃんは俺の予想を遙かに上回っていた。完全なる幻想主義。彼女はただの思春期的乙女の妄想病とかそういうのじゃない……もっと別の……。彼岸の住人。彼岸の……深紅。
「なんなんだよ……そりゃあ。ってことは朱主ちゃんの漫画も……」
「……ま、まぁ。そういうことになるわね」
 なぜか朱主ちゃんは目を背けて答える。そしてオレンジジュースを一気に飲んでから、おかわりを入れにドリンクバーへと向かった。
「つまりね、私が言いたいことは、あなた達が普段見ている世界は偽物だっていうことよ」コーラをなみなみと注いで戻った朱主ちゃんは興奮気味に話す。「そんな虚構に囚われているなんて私は嫌よ、私は世界の真の姿を解放させるのよ」
 つまり人々の想像上のものでしかない物語を現実のものにしようというわけなのか。
「そのための方法が、俺はライトノベル。朱主ちゃんが漫画ってことか……」
「ふん。けれどあなたにはもう無理よ……。あなたはまだこんな世界に未練を持っているみたいだからね」突き放して言う朱主ちゃん。
「え? ど、どういうことだよ」
 俺はついうろたえる。すっかり朱主ちゃんのペースに巻き込まれてしまった。本当、俺って流されやすいよな……そういうとこは物語の主役向きといえばそうなんだけど。
「……あなたの通っていた大学へ行こうと言い出したのは私だけど……あなたはずっと偽物でしかない世界の者達と仲良く話し込んでたじゃない。あんなのと関わってたってしょうがないじゃない……あいつらは物語にとっての蛇足でしかないと言うのに。それに今だって……」朱主ちゃんの言葉は弱々しくなっていった。
「な、何いってんだよ? だってそれが物語だろ? 人と関わらなけりゃ物語なんてないに等しいじゃないか?」人間関係こそが物語の基盤となるんじゃないか。
「そ、そういう事じゃないわ……。人によるわよ。あの人間達は世界の内側に縛られている存在なの。家畜の側からは観察者側の世界の仕組みなんて理解できない……もし豚や牛が自分達はどういう存在なのかを理解したら、果たしてそれでもなお彼らは今の立場を望むのかしらね? それでもなお生きていたいのかしら? つまりそういうことよ、私達は外側の人間なのよ。世界を神の視点から見る能力を持っているのよ」
「朱主ちゃんはともかくなんで俺なんだよ……確かに俺は社会から隔絶してるかもしれないが、ごく普通の人間だ。朱主ちゃんみたいにキャラは立ってないし、それなら俺の幼なじみの小説家や、戒川さんの方が物語性のあるキャラじゃないか?」
 そうだ、そもそも主役なんて俺のガラじゃない。
「ふっ。公人、あなた勘違いしてる。確かに物語にとっては変わっている人間の方が都合がいいわ……けれど、人間なんてみんな変わっているの。普通がいいと思う人間なんていないし、元より普通の人間なんてものはどこにもいないの。普通なんて人が勝手に作った虚構の目盛り。そもそも何を基準に普通があるのかも分からないし、普通なんてものは存在しないといっても過言じゃない。それは幻想。だったら普通というそれこそが個性とも言えるんじゃない? つまり人間はどこかで個性を持っているの」
「だからどういうことなんだ? それが俺にどう関係あるんだ?」
「ただし、それでもあなたは普通なのよ。無個性の象徴、本来ありえない普通という存在。幻想とも言える、普通という名の異常。小説で言うならば全くと言っていいほどにとらえどころのない、人間の描けていない登場人物。それがあなたよ」
「はぁ!? なんだそりゃ?」俺は異常者だったのか?
「人はみな誰かと違う自分でありたいと思う。それは当然の事。でもそれが結局、人間の没個性に繋がるのかもね。つまり全ての人間は没個性なのかしら。皮肉ね……人と違う存在でいたいと思う事が無個性で、そして普通である事が特別な存在だなんて。でもあなたはそんな事は思っていない。敢えて無個性でいる……私には理解できないの……あなた、何故それで平気でいられるの? 何故壊れずにいられるの? と」
 それと似たような言葉を以前にも誰かに言われたような……俺は異常者なのか。
「それが……俺が特別なゆえん……」
 けれど、本当に人と違う事が特別なのだろうか? それも結局は没個性なんじゃないだろうか? だってそれも誰かを基準にしてるんだから……。大事なのは自分がどうかであって……みんながどうかって人と比べてる時点でそれは主体性を失っていると思うし、それは個性も無くしてしまう事でもあると思う。みんなと同じだからとか、みんなと違うからじゃなくて……自分がどうしたいか、それが大切なんじゃないのかな。
「……大事なのは存在感なのよ。特殊性云々なんていうのは関係ない。舞台に上がれる人間っていうのは存在が大きいか否かなのよ……これを運命、因縁というのかしらね。要するに見えないパラメータであり、自分ではどうすることのできないもの」
「……そのパラメータを俺が持っているっていうことなんだろ?」
「いいえ、それどころじゃないわ。公人、あなたはそんな次元を超えているのよ」
「超えている?」
「存在しえない幻想である普通を、それでもどこまでも追求する事ができるのならば、それは全人類を己が内に内包しているということよ……。だって普通って全ての人間のありもしない基準だから。それは全ての人間の性質を自分一人に収束しているってことだから。究極の没個性。限りなく透明に近い無色。それは物語においての究極の特別。唯一許された存在……つまりあなたは物語における語り部なのよ」
「はぁ、語り部……か……わけわかんねーよ……」
「物語において小説の地の文であり、それすなわち神。それこそが世界の外側の存在」
「……つーことはなんだ、実は俺って神様だったってことか? ……は、ははは。はははは。主人公だったり、神だったり俺って一体何様なんだよって感じだな! あはは」
「? ど……どうしたのよ?」
「残念だったな朱主ちゃん。けれど俺はもう驚かないし、そんな話に付き合うつもりもない。この流れは俺が今ここで打ち切った。軌道修正だ! 俺にとってはさぁ、そんなのどうだっていいんだよね。少なくとも友達をそんな蔑んだ目で見ることなんて俺はできないし、朱主ちゃんこそもっと世間という外側に目を向けろよ」
「くっ……私は真実を言っているだけよっ! あんなモブキャラ達と関わって一体どんな物語になるのよっ。それこそ虚構の世界に取り込まれてしまうだけだわ……」
「なんだよ、それ。そりゃちょっとひどいんじゃないか? 俺はともかく、こと……戒川さん達にそこまで言うことはないだろ? あんなに君の事を心配してくれたんだぞ?」
 俺は朱主ちゃんのあまりに自分勝手な言い分に少し頭にきた。いや、そうだろうか。
「な……何よ。あの女の事になると必死になって……それに今も他の女とベタベタして……。でもいいわ……今なら、今ならあなただってやり直せるかもしれないわっ。だからあなたはそいつらの事なんて放っておいて私だけといればいいのよっ。私があなたに何でもしてあげるからっ! こんなどうしようもない世界も捨ててっ! 私とあなたならきっと何でもできるんだからっ! あなたはずっと私だけいればいいのよっ!」
 半ば泣きそうな声で朱主ちゃんは叫ぶ。けれど、
「朱主ちゃん! 今の言葉訂正しろよ。何様のつもりなんだよ、いくらなんでもわがまますぎる。俺はそんな君とは一緒にやっていくつもりなんてないっ。友達を捨てて得られる世界なんてこっちから願い下げだっ!」
 とうとう俺も堪忍袋の緒が切れた……つもりでいるのだろうか。らしくない。
「……なによ、やっぱりあなたもそうなのね……。だから言ったでしょう、私は自分から人間関係を切ったことはないって……」朱主ちゃんの目には涙が浮かんでいた。
「……」
 言い過ぎたかもしれない。やっぱり俺らしくない。これでは周防と同じじゃないか……けれど俺は何も言えなかった。ただ、朱主ちゃんの濡れた瞳を見ている事だけしか。それは、真珠のように綺麗な瞳だった。
 それに……果たしてこれは俺の本心からの言葉……なんだろうか。それともこれも世界の意思なのか……分からない。所詮は順当な流れなのか。
 暫く沈黙が続いていたが、やがて朱主ちゃんが一言だけ呟いた。
「さようなら、公人」
 それだけ言うと席を立ち、駆けだしていった。俺は後を追えなかった。これ以上嘘を吐きたくなかった。元々俺にそんな事を言う価値なんてなかったから……。後悔した。

「……」
 俺は無言のまま妹が待つテーブルに戻ると、その妹の口からとんでもない真実を聞かされることとなった。
「……お兄ちゃん。今話してた人って、碧木朱主さん……だよね? なんでお兄ちゃんが碧木さんのこと……」
 不安げな声で尋ねる仄。俺に気を遣っているのだろうか。っていうか見ていたのか……まぁ、あれだけ目立ってたんだからな……って、いや。それよりも。
「なんでって……いや逆になんでお前が朱主ちゃんの事知ってるんだ?」混乱する。
「だって……わたし、碧木さんとは去年同じクラスだったし……でも転校したって聞いたけどまさかこんなところで見かけるなんて……」
 惚けたような声で独白のように呟く仄。
 まさか、こんな偶然あり得るのか……? 俺は朱主ちゃんの話を聞いたばかりのせいか背筋がぞっとする……自分を取り巻く物語の存在に。まさか朱主ちゃんがあそこの出身者だったなんて……。しかし、今は他に気になる点がある。
「ちょ……ちょっと待てよ。さっきから碧木さんって言ってるけど、彼女は紅坂朱主って名前じゃないのか? 紅坂」
「紅坂? ……ああ、そうか。いや……その、彼女最近に転校したんだけどね。それが家庭の事情としか聞かされてなかったから、もしかしたら……」両親の離婚とかか。
「そうだったのか。いや、俺と朱主ちゃんは……一言で言えば作家仲間ってとこかな」
「えっ? 碧木さんも小説家だったのっ!?」
「いや、朱主ちゃんは漫画家だけど……ま、色々あるんだ。詳しい話は後。それよりお前、朱主ちゃんの口から何も聞かされてなかったのか? クラスメイトだったんだろ?」
「う〜ん……なんていうかな。彼女ね、ちょっと学校で浮いててさ……彼女と仲が良かった人がいなくて、勿論わたしも……」
 それは思い出したくない過去を語るような口ぶりだった。
「言動が常識外れなとこがあって、周りの人を馬鹿にしたような態度だったから……だからいつも1人で……いじめも受けてたらしくて……わたしも悪いとは思うけど、巻き込まれるのが嫌だからあまり近寄らなかったの」
 伏し目がちに告白する仄。思うところがあるのだろうか、ところどころで遠い目をして言葉を途切れさせていた。
「彼女も学校のみんなを嫌っていたし、学校の人達も彼女を嫌っていた……そんな状態だった……あんなところだから、孤立するだけでも大変だった……」
「そうか……悪い。あまり話したくないような事聞いて」
 朱主ちゃんは妹と同じ学校に通っていた時からあんな調子だったようで……。きっと周りの人達の優しさにも気付かなかったんだろう。だからここで仄の事を見ても気付いてなかったのか……。あの場所で孤立するなんて事、想像するだけでも恐ろしい。強いんだな……きっと彼女があんなにも世界を否定するのはここにも起因する部分があったようだけど……でも、それでもまだ足りないと思う。これじゃあまだ弱い。
「……お兄ちゃん。どうやら碧木さんを放っておけないようだね」
 妹は突然に笑顔を向けて話す。
「わたし、ずっと後悔してたの……碧木さんに何もできなくてただ見て見ぬ振りをしてた事に……でもお兄ちゃんはいま、碧木さんを救おうとしてる……。どういう問題があるか分からないけど、わたしは分かる。お兄ちゃんはやるときはやるって……だって、お兄ちゃんはわたしにとってヒーローだったから、いまだって」
「仄……」
 だから違うんだ……それはとんでもない誤解なんだ。俺を買いかぶるのはやめてくれ。俺には何もできないんだよ。なのにお前はいつもそんな目で俺を見るんだ……。
「そろそろ帰ろっか、お兄ちゃん……もうこんな時間だよ」
 見れば、いつの間にか外は白ずんだ世界に変化していた。夏の太陽が上り始めている。もう早朝だった。俺と仄はアパートへ戻ることにした。
 けれど帰った後、どうも寝付けなくて……かといって執筆する気分にもならなくて。
「もうこんなことも終わりなのかもしれないな……」
 俺のベッドを占領してすやすやと眠っている妹を見る。外を見れば、もう太陽がさんさんと輝いていた。俺はとある決心をした。



 [


 小さな本屋。俺はそこでアルバイトを始めた。以前朱主ちゃんと出会った本屋なのだが、その時アルバイト募集のチラシが貼ってあったのを思い出してここで働くことにした。それに本屋で働くのも何かの勉強になるかもしれない……。
 今更もう意味なんてないかもしれないが。けれど貯金がとうとう底をついて、仄にも俺はバイトしてると言ってるので、働きたくないと甘えたことを言ってられなくなったのだ。生活のために、それに……ライトノベルの事もどうなるか分からないし……。
「なんだか……はかどらない。モチベーションが……消えてしまったような」
 バイトの昼休憩、時間を持て余していたので俺は近くのファストフード店でぼろノートパソコンを立ち上げ『ゲキチュー』を執筆していた。だがほとんど何も進まない。
 その時だった。
「あっ、路久佐君。お疲れ、君もここで食べてるんだ……ところで何やってるの?」
 惚けたようにノートPCのディスプレイを眺めてた俺は、びっくりして声の主を見た。
「……美奈川(みなかわ)さん、お疲れ様です。ちょっと……パソコンしてます」
 美奈川さん。俺と同じく本屋でバイトしている自称フリーター。俺より少し年齢が上といったとこ。おとなしくて優しそうな印象がある先輩。草食系男子といった様子。
 しかし何よりこの人の特徴的な部分はその風貌にある。簡単に言えば俺の幼なじみで小説家である在兎の逆バージョン――つまり美奈川さんは男なんだけど、女に見える端正な美貌と体つき。声も高く、服装も中性的なものなので一見すると女と勘違いするそんな特殊な人物である。俺も最近まで美奈川さんを女として接していた。マジで。しかも本人もまんざらじゃないとこがより一層恐ろしかったり。要するに、男の娘。
 まさに物語の登場人物たるにふさわしい者現るといったところか……。在兎と対をなす存在……ライバル的ポジションか。ん、まぁどうでもいい。俺はしばし美奈川さんの姿にみとれていた。いや、みとれるなよ俺。
「何か文章を書いてるように見えたんだけど……」
 ノートPCを覗き込んでキョトンとした声で聞いてくる美奈川さん。つか覗くな!
 そしてその際に美奈川さんの胸元が見えそうになって俺は何故かドキリとしてしまった。俺も覗くな! って、そんな事は置いといて……。
 まずい、『ゲキチュー』を見られたか? 別に見られて困るものでもない……んだけれどやっぱり知られずにいるのに越したことはないし。
「……いえ、ちょっと……色々、レポートとか」
 大学は休学中なのにね。俺も嘘が下手になっちまったものだ。
「……ふーん、そう。ま、いいんだけどね……。ところでさ、君なんでここでバイトしようと思ったの?」
 美奈川さんは眼鏡越しにまるでこちらを探るような目で見つめてくる。俺は他人にこうやって見られることが堪らなく嫌だった。というかいきなり何を言い出すか。
「いや……特に理由は。生活費ないから……そこで偶々バイト募集のチラシ見て」
 俺の返答はぎこちないものだ。なんだってそう俺に突っかかってくるんだか。
「そっか……。でも路久佐君。名は体を表すみたいな事言うけどね……道草も大事だけど、いつまでも悩んでたらチャンスを全部取りこぼして結局何も掴めなくなってしまうよ。成長するってことは失っていく事でもあるけど……何もしないでいる事が一番多くを失うんだ……ま、ボクが言うような事じゃないかもしれないけどね」
 と、美奈川さんは自虐的に笑うとそろそろ休憩終わるからと言ってそのまま去っていった。一体何しに来たんだか。
「けど……悩んでいても仕方ないよな……物語、進めないとな」
 そして俺はある考えを思いついて携帯電話を手にした。


 俺は今、才文社1Fのロビーにあるソファに座っていた。玄関の自動ドアが開く度にセミの五月蠅い声が聞こえてくる。大勢が忙しそうに行き来しているのを眺めていた。
「よ〜う、公人。あれから執筆の方は進んでるか〜?」
 するとようやく待ち人である――若き売れっ子天才作家であり、俺の幼なじみ――兎奈々偽在兎がやって来た。在兎の顔を見て美奈川さんの顔が思い浮かんだ。2人が出会ったらどうなるんだろうとか思った。どうもならないんだろうけど。
「ああ……まぁ、一応な」俺は曖昧に茶を濁すように言う。
 今日在兎と会ったのは他でもない、その執筆について今後どうすればいいのか自分でも分からなくなったからその相談に来たのだ。いや……というより、もう自分が何をしたいのか、自分自身が分からなかった。正直書く気も失せてしまっていた。
「けど丁度良かったぜ、オレもオマエに話があったところだからな」
 相変わらずの男言葉。聞けば在兎は小説活動において性別は伏せているらしい。
「話ってなんだ……?」
 俺の相談は特に急ぎのものでもないから後回しにすればいい。
「聞いて驚け、公人。編集部のつてで調べて貰ったんだがな……お前の言うところの紅坂朱主なんて漫画家は存在しないって事が分かったぞ」
 在兎は衝撃的な事実を告げた。
「え? どういうことだ、それ」
 真っ白になる。俺の知る世界が崩れ落ちそうな感覚に陥る。
「といってもまだ確定したわけじゃないんだけどな。しかし、現時点では漫画界において紅坂朱主らしき存在はみつからないんだよ」冷めたような口調の在兎。
「だって……そんな。それじゃあ朱主ちゃんは漫画家じゃないって事になるのか?」
「ああ、そういうことになるな」あっさり答える在兎。
「……」
 俺は動揺していた。何も言葉が浮かんでこなかった。もう俺の相談なんてどうでもよくなってきた。俺は――何も考えられなかった。
 均衡は破れ、世界は崩壊した。やはりここは仮想世界だったのか――。
「……おい、公人! 公人ってば! 聞いているのか!」
 気が付けば在兎が俺の名を叫んで、体を揺さぶっていた。
「え? 在兎……」
「しっかりしろよ、公人……。なんだか今のオマエ……あの頃のオマエみたいだったぞ……少し落ち着け。オレちょっと何か飲み物でも買ってきてやるからそこで待ってろ」
「あ、ああ……」曖昧に頷く。
  在兎は立ち上がり、そのまま姿を消した。昔の俺……か。
 しばらく俺はただ呆然と惚けていたが、やがて意識も覚醒してきた。どうやら昨日から一睡もしていない事がここにきて体に変調をもたらしたようだ。帰ったら寝よう。
 その時だった。聞き覚えのある声がした。
「そこにいるのは路久佐さん……ですよね。どうしたんですか、こんなところで?」
「ああ……あなたは」どこかで見たことがある。そう、彼女は。
「兎奈々偽在兎先生の担当編集、小岩井仮夢衣ですよ」
 小岩井さんは俺に再びの自己紹介をした。
 
「はぁ……執筆活動に行き詰まって兎奈々偽先生の意見を聞きにねぇ……」
 俺がここにいるわけをおおまかに話すと、小岩井さんは溜息をついて俺の言葉を反復する。心なしかその様子は呆れているようにも見えた。
「まだ飽きずに続けられていたんですね。意外でしたよ……けれど、日記なんて書いてたんですか。で、あなたはそれを小説と……。いくらライトノベルだからって、あなた勘違いしてるんじゃないですか」明らかに俺を非難していた。
「それはさんざん言われました……十分承知ですよ」
「とてもそうは見えませんが……この際、あなたにはっきり伝えます。もうライトノベル作家なんて諦めて下さい。あなたには無理です」俺の胸を深く突き刺す一言だった。
「な、なんでそんなこと……あなた編集者でしょ? 作家を夢見てる人にそんな事平気で言うなんて……」
「編集者だから言えるんです。無理なものは無理。きっぱり諦めて下さい……正直、迷惑なんです。あなたみたいな人に兎奈々偽先生の足を引っ張られる事が」
「な……足を引っ張る? 俺はそんなこと……」
「兎奈々偽先生は私にとって特別な人なんです……。私はこの仕事をしてまだ間もありません。最初の頃は右も左も分からず戸惑いの毎日でした。そんな時、歳も近いというわけで初めて受け持ったのが兎奈々偽先生なんです。私は救われました。この仕事に誇りが持てました。全て兎奈々偽先生のおかげなんです」
「そ……そうなんですか」
 2人の間に何があったのかは分からないけど……色々あったんだろう。小岩井さんの様子がそれまでとは取って代わり、急にしおらしくなったので俺は戸惑うばかりだ。
「だから私は兎奈々偽先生に恩返しがしたい。兎奈々偽先生が私の全て。兎奈々偽先生の為ならなんだってする。その為になら私は悪にもなれる」
 背筋が凍り付く。何故これ程誰かの事を想えるんだ? だって他人じゃないか。俺には分からない。自分自身の事も信じられないんだ……これは……俺にとってこれは理解を超えている……狂信にしか見えない。俺の世界の範囲外。だから何も言えない。
「あなたの……あなたの存在が兎奈々偽先生にとって足枷となっているのよ。あなたが兎奈々偽先生と会った時から、兎奈々偽先生は執筆に支障をきたしてしまった」
「え? 俺が原因で……?」
「……小説が書けなくなってしまったのよ。きっとあなたの方に気を回しすぎているせいよ……あなたみたいないいかげんな気持ちでライトノベルを書こうなんて思っている人間なんかに兎奈々偽先生はっ!」
 小岩井さんの語気が荒くなる。興奮しているみたいだ。まさかあの在兎がスランプだとは……しかも俺のせいで。
 けれど小岩井さん、こんなに熱くなるなんて……。知的な見た目からは想像できない。それはつまり、それほどまでに在兎の事を尊敬しているって事なのか……。本気……なんだな。ほんと立派だよな。だったら俺は選択肢なんてないじゃないか……。
「分かりました……小岩井さん。俺はもう在兎の手を煩わせるような事はやめます」
 特に躊躇いもなく言葉を発した。あっさりと俺が申し出に答えたためか、小岩井さんはその俺の言葉に少し意外そうな顔を見せたが、
「ごめんなさい、私の勝手な気持ちで……本当に」
 けれども小岩井さんはすっかり落ち着きを取り戻していた。
「いえ、謝らないで下さい……俺も自分のわがままで在兎を振り回していて、それであいつの邪魔をしてたなんて知らなくて……それに俺、実は執筆をやめようかと思っていたんですよ。丁度いい機会かもしれませんね」
「そう、だったの。だったら余計な事だったのかもしれないわね……悪いわ、ほんと」
「だから謝らないで下さいよ……執筆はやめるとは言ってませんよ」
「……え? どういうこと? 諦めたんじゃないの?」
 小岩井さんは呆気にとられて口をぽかんと開けている。
「俺がやめるのはあくまで在兎の手を煩わせる事ですよ。本当はさっきまでラノベ作家目指すのはもうやめようと思っていましたが気が変わりました。それに大切な事を思い出しました……作家を目指すきっかけをくれた子と約束したんですよ、たとえ心が迷ったとしてもこの道を信じて進むって。自分を信じてやるしかないって。だから俺は諦めないことにしました。俺は1人ででも小説を完成させて、新人賞に送ってやりますから。ここまで言われて引き下がっちゃ男が廃りますよ」
 俺は強がって言った……けれどこれもきっと出任せ。本心なのかどうなのか自分でも分からない。ただストーリーの流れに沿っているだけ。それが楽だと知ったから。
「そう、なの。はは、あなたには負けたわ……。私、あなたのことちょっと過小評価しすぎていたみたい。さっきの言葉は撤回するわ。頑張ってね、応援はするわ」
 そう言う小岩井さんの言葉も明らかに本心ではないと分かっているんだけど――在兎に関わらなければ勝手にやってろ――ということか。いいさ。お互い様ってことで。
 その後、しばらく2人でたわいないやり取りをしていると、
「いや、悪い悪い。遅れちゃって」
 在兎がようやく戻ってきた。
「遅いぞ、在兎。何やってたんだよ」
 おかげで小岩井さんと色々な確執ができたじゃねーか。気まずかったし。
「いや〜、なんかやたらとオレを目の敵にしてる作家に偶然会って、からまれちゃっててさ〜。なかなか振り切れなくてな〜」はにかむような笑顔で手に持った缶コーヒーを俺に手渡す。「あれ、仮夢衣さん。なんでこんなとこにいるんです?」
「え? ええ、たまたま路久佐さんを見かけたんで、ちょっとお話をしてたんです」
 少し慌てた様子で言う小岩井さん。
「ふ〜ん、そうなんだ」特に気にする様子もない在兎。
「と、ところでお二人は一体ここでどんなお話をしていたんですか? からんできた作家って例の新人君でしょ?」
 小岩井さんは気まずさから逃げるように話を振った。
「そうなんですけれどね……あの子はなにかと突っかかってきて面倒なんですよ……まだ高校生なのに態度でかいし……」
 在兎がうんざりした調子で話し出したが、ここで何かを思い出したみたいで、
「あっと、そうだ! 高校生で思い出した。丁度いいや! ねぇ仮夢衣さん。前にオレが調べて欲しいって言った件あるでしょ? ある漫画家を調べて欲しいってやつ」
 ぬぬ? それはひょっとして朱主ちゃんの事か?
「ああ、紅坂朱主という漫画家を調べろって件ですよね……やっぱりそんな漫画家はいませんでしたけど、正体が分かったかもしれません」やはり。
「えっ? ほんとうに!?」在兎が目を輝かせた。
 俺も思わず目を瞠る。というか、編集部のつてって小岩井さんのことだったのか。
「あ……でも……」小岩井さんは俺の方をちらちらと見る。
「いや、話しても大丈夫です。こいつと紅坂朱主は知り合いなんですよ」
 小岩井さんの言わんとしてることを理解して弁解がましく説明する在兎。
「そうですか……本当はあまり言っちゃ駄目だと思うんですけど、兎奈々偽先生の為ならやむ得ません……。あの、実は漫画の作者として紅坂朱主さんの名前を確認することはできたんですよ……でもそれは雑誌や単行本といったカタチじゃないんです」
「そ……それじゃあどういうカタチなんですか?」つい俺は口を挟んでしまう。
「それは……路久佐さんと同じ、新人賞の投稿作品なんですよ」
「え……? し、新人賞?」
「つまりプロの漫画家じゃないんです。漫画家志望なんですよ、彼女。調べてみたらここの出版社だけでも何作品も送られていました」
「……これでわかっただろ? 公人。彼女は漫画家じゃないんだ」
「そんな……だって本人は漫画家だって……」
「オマエに見栄を張っていたんだよ……彼女自身が作家志望だったんだ。そして自分と同じ境遇の仲間が欲しかったんだよ」何もかも見透かしたような言い方だった。
「……」俺にはもう言葉がない。
「公人は騙されていたんだよ。だからもうオマエもその子のいいように振り回されるんじゃない……その子がいなくてもオレが……オレがいるんだから……」
「……いや。朱主ちゃんだけじゃないよ……。お前の立場から考えたら俺だって一緒なんだ……俺はお前の足枷になってる。在兎、最近小説書けないんだろ?」
「え……? オマエなんでその事を……?」在兎は困った顔をして、小岩井さんを見る。
「……」小岩井さんはバツが悪そうに俯いていた。
「ま、まさか……小岩井さん……なんでそんな事を……」
「いいんだよ、在兎。悪いのは全部俺なんだよ。だからさ……俺はいいよ。一人でもさ……そう、これからはラストスパートで一人で仕上げるさ。もう残り日数も少なくなったし、最後は自分だけの力でな」
 俺はよろけながらも立ち上がる。軽い目眩を感じた。
「じゃあな、これ以上邪魔すんのも悪いから俺は帰って小説の続き書くわ」
「あっ、ちょっと待って公人っ!」
 在兎が俺の体を掴んで止めようとするが、俺は無言で在兎の制止を振り切り才文社から立ち去ろうと試みる。このままだったら倒れてしまいそうだ。
「ま、待ってくれよ、公人……オレを……置いてかないでくれ。またオレを置いて一人で行くのか? せっかく再会できたってのに……また……またあたしを一人にするつもりなのかよぉ、公人ぉ……」
「う、兎奈々偽先生、駄目です! 追わないで下さい……お願いです、ここにいて下さい。私の側にいて下さい……兎奈々偽先生……私は……あなたが……あなたの事が」
「え? ……け、仮夢衣さん、何を……あっ……」
「兎奈々偽先生……」
 隙ができたようなので俺は駆けた。いや……逃げた。何やってるんだろうな俺は。
 後ろから在兎と小岩井さんが言い争うような声が聞こえたが、俺にはもう関係ない事だ。もう何も聞こえない。何も見えない。何も感じない。何もない。何も。



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 迷走していた。家に帰った後の俺はひたすらに小説――『ゲキチュー』を一心不乱に執筆した。余計な事を考えないようにする為。現実から目を背けるように。妹も不安な目で俺の様子を伺っていたが、やがて気を遣ってどこかへ外出する事が多くなった。
 本当なら朱主ちゃんの言うとおり、もう劇中劇中劇なんて荒唐無稽な小説を書く意味なんか消失していたかもしれない。けれど俺はなぜかやめる事はできなかった。こうなったらもう完成させるしかなくなったのだ。
 こうして書き出していくと実感する。ここ最近になって物語が大きく加速していた。様々な人物の葛藤とこじれと、紆余曲折……きっと起承転結でいうなら、いま俺は転の部分に突入しているのだろうな。
 だがもう俺には頼れる人はいない……。ここからは俺1人で物語を結末へと導かなければならないのか。
「おっといけない……。今日はバイトがあるんだった」
 時間の感覚も希薄していく。半覚醒状態の頭のままでバイト先の本屋に向かった。
 
「それにしてもどうしたの? 大丈夫かい、体調悪いの?」
 バイトの休憩中に美奈川さんが心配そうな顔をして尋ねた。
「まぁ……ええ、ちょっと疲れてるかもしれませんね。色々、忙しいんで……」
 締め切りも近いから。
「あの、さ。路久佐君」その時、やけに深刻そうな語調で美奈川さんが切り出した。
「な……なんですか?」つい俺も身構えてしまう。
「路久佐君、勘違いだったら悪いけど……あ、言いたくなかったら別にいいんだよっ」
「……え、あの……」
 俺が口ごもると、美奈川さんは言いにくそうに続けた。何となく察しがついた。
「……路久佐君、もしかして小説とか書いていたりする?」
「……どうしてそれを」そうか……ばれたか。
 言い訳しても別に良かった。適当にはぐらかして良かった。けれど……どうしてだか俺は、ここでは正直に告げた方がいいような気がした。これも世界の意志だから。
「やっぱりそうか……前に一度バイトの昼休憩の時に君に会ったでしょ? その時君がノートパソコンに向かってたじゃない。姿勢っていうか……態度っていうのかな……。とにかくなんとなく分かった。あれは小説を書いてるんだなって……いや、小説じゃなくても。それに近い何か、創作活動を」
「まさにその通りです。けれどなんでそんな……」
「……うん。ぶっちゃけちゃうとね、ボクもかつて君と同じ夢を追っていたんだ」
「……え。小説家を?」
「そう、ライトノベルだけどね」
「お……俺も、ラノベ作家のデビューを目指してるんですっ」
「そっか……でもボクは駄目だった……いや、一度だけ出版まではこぎ着けたんだけどそれきりさ、俗に言う一発屋ってやつかな……ボクには才能がなかったんだよ」
「そんな……デビューしたんでしょ?」
 駄目だったって……だって出版できたってことはプロデビューを果たしたって事じゃないか。なのに……それでも駄目なのか? ここはそんなにも厳しい世界なのか?
「したのはいいけどね、むしろ難しいのはそこからだよ。そこからが本当の戦いなんだよ。プロになってから持続できる人間なんて1割にも満たないんだよ。たとえ持続できたとしても、副業しないと到底生活できない稼ぎの者がほとんど。専業の小説家でいられる人間はごくわずかなんだ……だから、ボクは燃え尽きてしまった」
「燃え尽きたって……せっかくラノベ作家になれたのに」
「夢を持ち続けるのは……いや、所詮ボクの夢はそこまでだったんだな。デビューまでだった。疲れちゃったんだ……ボクの考えが甘かったよ……だから君を見ているとかつての自分を思い出してね。同じだよ、路久佐君とボクは」
「同じ……美奈川さんと俺が」何か引っかかった。
「だから分かるんだ、見てられないんだ……路久佐君。軽い気持ちで作家を目指そうと思ってるなら諦めた方がいい。それが君の為だ。夢を追い続けることも大切だけれど、諦めることも同じくらい大切なんだよ」
 美奈川さんが俺と同じ? 俺の事なんてお見通しだと言うのか? 所詮俺なんていう存在もその程度だということなのか? 俺は。
 でも何か違う。それってどうなんだろう。だって、俺は……そう、やっぱり違う。説明できないけど違うっていう気持ち。違和感。ただの天の邪鬼。ただの反発心。でも――。
「違いますよ、美奈川さん」
「え……違う?」
 ああ、俺の悪い癖がまた出てしまった。またこんないい加減なことを思わず……。
「軽い気持ちでいいんですよ、物書きなんて」
「軽い気持ちで……いい?」
「ええ、小説の善し悪しなんて時代や文化、見る人によって全然変わります。こんな漠然としたものに深く考え込まないでいいんですよ。むしろそんなガチガチになるから面白いものが書けないんです。遊びでいいじゃないですか」
「遊びでいいって、路久佐君……君は」
「要は自分が楽しんでどれだけ続けられるかですよ。それでデビューできたり、大ヒットしたり、あるいは誰にも評価されなくても……それはおまけとしての結果。最初から売れることを目的にするからいけないんじゃないですか? 俺から見ればそれこそ動機が不純って感じですよ。美奈川さんがラノベを書くことを諦めたんだっていうなら、それはあなたに物書きという趣味が合わなかっただけ……あるいは単に飽きただけなんですよ。好きな間はいつまでも続けられますよ」
 俺はまたこんな適当な……その場のノリに任せた詭弁を……心にも思ってもいない事を。でも……これはこれでいいもんだぜ。
「……なるほど、はは。こりゃあ参ったよ。確かに君の言うことも的を得ているかもしれないね……少なくともボクの胸には響いたよ、君の言葉」
 だって、こんな言葉でも誰かの迷いを救える事もあるかもしれないんだから……いや、余計に惑わせているだけかもしれないけれど。
 美奈川さんがぺたんこな胸(当然だろ)を押さえてはにかんだいた。その姿に俺は心奪われた。
「うん……路久佐君。やろう、ライトノベル」
「えっ? 何て……」
 突然向けられた美奈川さんの明るい笑顔で正気に戻った。
「ボクももう一度ラノベ作家を目指そうっていうことだよ……君を見ていたらそう思った。君が嫌じゃなければでいいんだけど……ボクも君と共に夢を追っても……いいかな? 君と一緒ならボクはまたできそうな気がするんだ」
 いきなりの急展開、あっけない程の改心に俺は戸惑ってしまう。いいのかよ……こんな簡単に流されて……人のこと言える立場じゃないけど。でも、俺なんかの言葉に。
「あ……は、はい……こちらこそ」
 でも今更何も言えないよな。
 ――こうして俺と美奈川さんは共に小説家を目指す事となった。
 そしてこれは俺と美奈川さんの切っても切れぬ深い因縁の開始点でもあった――。
「路久佐君、それじゃあ今度会うときは今書いてる作品見せてくれよ」
 ああ、でも……勢いとはいえ、なんだか面倒臭い事になってしまったな。
 それがその時の俺の気持ちだった。
 
 
 俺は本屋でのバイト以外はほとんど家に篭もりっぱなしで、現時点までの俺の行動を『ゲキチュー』に反映した。そう、一心不乱に小説を書き続ける今の俺の無様な姿を。
 相変わらず妹の仄にかまってやることはできなかったけれど、仄は仄でなにやら外出する事が多くなった。そう言えばファミレスで朱主ちゃんと会った日――いや、在兎に会った日でもあるか――その時から外出が多くなった気がするが、一体何をしているのだろうか……少し心配ではあったけれど俺はそれどころじゃなかった。
 勿論、小岩井さんと約束した通りに俺は在兎とは一度も会っていなかった。大学にも行っていない。そして、朱主ちゃんとも――。
 俺にとっての世界がまた狭くなったような気がした。
 いや……元々俺の世界はこんなものだったんだ。ここ最近の方が異常だったんだ。そう、非日常の中で俺は浮かれてたんだ……。
 ようやく『ゲキチュー』が現在の物語に追いついて先が書けなくなったので、俺は約束通り美奈川さんに作品の始めの方を少しだけ見せることにした。本当はあまり見せたくないんだけど……ちょっとだけならいいだろう……約束してしまったし。
 少し恥ずかしいけれど、もうどうにでもなれという思いがあった。俺は自暴自棄だったんだろうな。狭まった世界で俺はあがいていた。

「へぇ〜、これが路久佐君のライトノベルか〜。なかなか興味深いね〜」
 バイト帰りの近くのファミレス。美奈川さんは読み終えると大きく息を吐いて感想を漏らした。
「で、元プロから見てなんか意見とかあります?」
 恥ずかしさを紛らわせるように俺は質問する。
 美奈川さんもプロと呼ばれて恥ずかしかったのだろうか、顔を赤くして『やめてよ〜』なんて言っている。くそ……これが男だなんて、美奈川さん。くそ。……というか美奈川さん、今日は随分と大胆なファッションですね、こんな薄着に身を包んで。
「さわりの部分しか見てないけど、これはノンフィクション的な作品なんだよね?」
「まぁ、そうですね……自分でもよく分かりませんが。日記帳みたいなもんです」
「う〜ん……これだけだとさすがに正直ボクには何とも言えないんだけど、強いて言うならね〜、路久佐君。こういう小説って一人称の方がしっくりくると思うんだけどな」
「や……やっぱりそうですか……俺も薄々感じてたんだけど……なんか、自分のことだから余計恥ずかしいっていうか……」
 そう。この小説、『ゲキチュー』は三人称視点の作品だったのである。
 この忠告はかつて在兎にも言われたことだった。
『あと、いい事を教えておいてやる、公人。地の文は一人称視点で書くのがお勧めだ。三人称はさ、視点が難しいんだ。初心者は視点のブレに陥りやすい。そうなると文章を読んでいてわけが分からなくなる。こうなっちゃ最悪だ。それに、一人称だと三人称に比べて語り部になる人物――まぁ、主人公が多いな――その人物についての描写が深くなる。つまり読者に共感を与えたり、話に引き込みやすくなる。ま、物語によって向き不向きもあるが、オマエの場合、馴れるまでは一人称で書いとけばいいと思うぜ』
 言いたいことは分かる。けれど、なにせ内容がノンフィクションであるので一人称視点はまさに俺そのものだから……つい敬遠していたのだ。
 いや、それもあるが……でもそうじゃない。それだけじゃないんだ。果たして俺は一人称でいいのだろうかという思いがあった。俺みたいな没個性で何の特徴もない普通の人間の一人称だなんて物語として成立するのか。三人称の時点でも自覚していた……己のキャラの立たなさ、人物像の書けていなさを。それは畏れでもあった。
 しかし……もうそんな事は言ってられない。望みがあるならそれに賭けて、俺は最後まで突っ走る。俺が納得するライトノベルを仕上げるために。
「確かにそうですね……そんな半端な理由で作品の価値は下げたくないです……」
「そうだね。この作品、ちょっと視点がブレてて分かりづらいし……路久佐君、初心者だもんね……やっぱり一人称に変えた方がいいいよ」
「……分かりました。一から変更です。俺の視点の物語に修正。それに丁度いい機会だ。文章の見直しもしたかったし……全面改稿できたら一度通しで見てください」
そして俺は今まで書いた『ゲキチュー』の地の文を、三人称から一人称へと書き直した。そう、所詮物語は完成したものだけが知覚できる。結果としてのモノでしか知りようがない。それ以前は、たとえどんなものであったとしても知りようがない。いや、存在すらないのと同義であるのだ。
 世界というのも同じかもしれない。どんな物語であっても語り継がれないのであれば、それは作り物、空想、おとぎ話。伝説。だったら存在なんて胡乱なものなのだ。それ単体では存在してないのと同義。誰かに知覚されない事には存在できない。
「……ってだいぶ朱主ちゃんに毒されたよな、俺も」
 ぽつりと思わず口から独り言が溢れた。
「ん? なんか言った? 路久佐君」
「いっ、いや……なんでもないです……あっ!」
 俺はぼーっとしていたため、美奈川さんに呼び掛けられた拍子に驚いて、ついグラスに入った水をこぼしてしまった。
「すっ、すいません、美奈川さん……はうわっ!」
 ガラにもなく俺は大声を上げてしまう。まぁ、無理もない。俺がこぼしてしまった水は、美奈川さんの服にかかってしまい、それによって美奈川さんの薄着の服がその華奢な体に貼り付いて、スケスケになって……もうなんというか美奈川さんの姿がえらいエロティックなものへと変貌してしまったのだ。
「あ〜ん、路久佐君〜。この服買ったばっかりなんだよ〜。びしょびしょになっちゃったじゃないか〜」
「ごめんなさい美奈川さんっ。だ、大丈夫ですかっ?」
 なるべく美奈川さんの方を見ないようにして、備え付けのペーパータオルで美奈川さんにかかった水を拭こうと試みる。
「ああっ……路久佐君っ、どこ触ってるんだよ〜」
「えっ? あわわ、ごめんなさいっ!」
 つーか、どこってどこだよ。あんた男だろ。触っちゃいけない場所はほぼ一カ所しかねぇじゃないか。
 そのままつい美奈川さんに顔を向けると、美奈川さんはなぜか眼鏡を外して、濡れた自分の指を舌で舐めていた。なぜに!? なんか美奈川さんその気になっちゃってない? なんでそんな色っぽい声で、色っぽい目で見つめてくるのっ!? なんで目がうるうるしてるのっ!? 艶めかしいっ! そう思いつつ俺は、興奮するのを必死で抑えていた。
「路久佐君、どうしよ〜。ほら、ボクこんなに濡れちゃった〜」
「いや、なんで見せつけてくるんですか! なんで触らせようとするんですか! いいからお手洗いに行って来て下さい。この上着貸しますから、着替えてきて下さい!」
 間近で見る美奈川さんの濡れた肌はとても柔らかそうで、触るとすべすべしていた。
 この人は確信犯じゃなかろうか。
 俺はカーディガンを脱いで美奈川さんに手渡してトイレに向かわせた。勿論、男子トイレ。っていうか俺はなんでこんなに慌てていたんだろう。冷静に考えたら興奮してる俺の方がおかしいじゃねーか。憂鬱だ。
 
 その後、着替え終わった美奈川さんと共に小説『ゲキチュー』の練り直しを夜遅くまで行った。帰る頃にはすっかり美奈川さんの服も乾いていた。
 そう……色々あったけれどとにかく、『ゲキチュー』はここで大きく変わったのだ。もしかしたらこの小説のどこかにかつての名残があるかもしれないけれど……それはそれで大目に見てもらって、かつて確かに存在した残滓を感じて頂ければ幸いだ。ちょっとした間違い探し、作品に仕掛けたお遊びってことで。
 うん、でもしっくりする。今まで不確かだった何かがカッチリと俺の中で固まったような……そんな気がした。
 
 
 深夜のコンビニにいた。夏とはいえ、この時間やはり半袖シャツでは肌寒く感じる。
 あれから俺は何かに取り憑かれたようにライトノベル『ゲキチュー』を書き続けた。まるで何かを忘れようとするかのように。いや、それも嘘だな……どうでもいいや。それで一段落ついたところで、無性に腹が減って――そういえば何も食べてないことに気付いて、こうして買い出しに出かけたのであるが。
「つーか、仄のやつめ。俺をパシリのように扱いやがって」
 何がコンビニ行くならアイス買ってきてだ。いつまで俺の家に居座るつもりだ。まぁ、なんだかんだと手伝って貰ってるから文句は言えないけど。
 なんて一人、ぶつぶつと店内を徘徊していた時だった。遭遇。
「なんで宮下と東雲さんが、こんな時間にこんな場所で二人でいるんだ……?」
 俺は愕然とした。というか無性に怒りが沸いてきた。
 俺の友達で同じ大学に通う同回生、宮下境架と――同じく同大学で同回生の東雲寧音さんが深夜のコンビニでなにやら物色していた。
 そして俺の言葉に宮下が気付く。っていうかお前いま、あからさまに嫌そうな顔したろ。舌打ち聞こえたぞ。
「よう路久佐。最近偶然によく会うな。袖振り合うも多生の縁か」
 宮下はさもなんでもないように返事する。けれどしかめっ面。まぁ、こいつの場合は不機嫌そうな顔がデフォルトなんだけどね。
「いや、そうじゃなくて。なんでお前と東雲さんがこんな時間に一緒にいるんだよ?」
 もしやラブラブな感じなのか? 返答によっては容赦せんぞ。死罪は免れん。
「ねぇ……何か変な勘違いしてるんじゃないでしょうね、路久佐君。私達はちょっと食料の買い出しに来たのよ」
宮下の代わりに東雲さんが焦るような口ぶりで説明する。
 はん、どうだか。何の買い出しなんだか。そうやって表面上否定はしているけど、実は影で付き合ってるとかそういうのはやめてよね。
「はぁ、買い出し……俺もそうなんだけどさ、なんでこんな時間に?」
「それは貴様には関係ないことだ……というか、なら貴様もそうだろ」
 まぁ勿論だけど、それでも宮下の言葉には何か裏がありそうだった。
 怪しい。絶対に何か隠している。前からこの2人の関係が気になっていたんだが、いつもひゅるりとはぐらかされてきた……それは俺の専売特許なのに。今日こそは真相を明らかにさせて貰うぞ。
「なんだよ関係ないって……つれないな〜」
「ああ、俺はつれない男だ。それより路久佐、この前貴様が大学に来た時あったよな」
 いきなり何を言い出すのかと思えば、ああ……あの時の話か。
「それがどうかした?」
「それで俺達と別れた後、貴様周防に会ったのだろ? 周防がお前に会ったら伝えてくれって頼まれた……これ以上その物語を進むのはやめろ、と」
「……あ、え?」
 宮下の口から出た言葉によって俺の頭は、2人の関係なんていうこの物語にはとるに足らない事象から一気に遠ざかった。
 物語。つまりは朱主ちゃんとは関わるなということか……あるいは俺の執筆中の作品『ゲキチュー』の事を指しているのだろうか……それとも、今の自分そのものなのか。俺の進んでいる道は逃避でしかないというのか……。いずれにしても周防、お前……とうとう俺達のステージに上がってきたんだな……あるいは下りてきたのか。
「周防は他に何か言ってたか……?」唾を飲み込み、恐る恐る宮下に聞く。
 というか、もうすっかり宮下のペースだ。やっぱりこいつには敵わないよなぁ。
「……いいや何も。それだけだ。何を意味するのか俺にはさっぱりだ。それ以来俺は周防を見ていない……路久佐、周防と何かあったのか?」
 俺の心情もお構いなしに、宮下はこちらの動向を伺うように鋭い眼光を光らせる。
「俺は……俺はあの時……」
 ……何をしていたんだ、分からない。あの時、俺は。
 しばらく俺は口を閉ざして、その場に沈黙が続いたが――。
「路久佐君……実は私もあなたに言いたいことがあったの」横から東雲さんが口を挟んできた。「仔鳥のことなんだけど……」
「こと……戒川さん?」なんでここで仔鳥ちゃんが……?
「私も宮下君と同じ気持ちよ。一体あの日何があったの? 路久佐君、彼女泣いてたよ」
「……え? そんな……なんで」
 仔鳥ちゃんが――泣いていた? どうして? 確かにあんな事があったけれど、別れる前に彼女は笑顔を見せてくれた。でも、それが……。もしかして俺と周防が話している間に朱主ちゃんと何かあったんじゃ……。
「分からないならいいんだけど……私、あの日に仔鳥と周防君が真剣な顔で何やら話し合ってるの見たのよ。多分、あなた達が帰った後に。ねぇ、路久佐君。あの時一緒にいた彼女は何者なの? あなた達2人は何がしたいの?」
 東雲さんはまるで、俺を責めているような話しぶりだった。なんで……俺が。
「……」俺は何も答えられない。
「……仔鳥はとても優しい子なの。他人の痛みを必要以上に自分のものとして置き換えてしまう……あなた達、なにを傷つけ合っているの?」
 その時、コンビニの自動ドアが開き、生暖かい夏の風が入り込んだ。
 傷……俺はそんなつもりはないんだ。俺は間違っているのか。いや、そうだ。俺は全部が間違いなんだっけ。だったらあの時の選択も全てが最悪のルート……なのか。
何も答えられずただ立ち尽くす俺を心配そうに見ていた東雲さんは、やがてその場を後にした。宮下もその後に続こうとして、去り際に言った。
「路久佐。俺は不服だが一応貴様の事を友人と思っている、感謝しろ。だから友人としてはっきり言う。貴様らが何をやってるのかは分からんが、お前と周防、なんだか最近おかしいぞ。もしあの少女が原因だったなら……まぁいい、ほどほどにしておけ。事情はよく知らんが、貴様はその道じゃなくとも……いくらでも選択できるのだからな」
 別れ際、宮下は俺に言った。そんな事、分かっている。けれど俺はお前とは違う。
「それと路久佐……お前と周防は本当に手間のかかる奴だと思っていたが、まさかここまでだとはな……どうやら今回は俺の出る幕はないらしい……だから路久佐、今度は貴様が周防を助けてやってくれ。頼んだぞ、親友」
 コンビニの自動扉の向こう側で立ち止まった宮下が、背を向けたままそれだけを言うと今度こそ去っていった。
 一人残された俺はコンビニ弁当2つと菓子を買って店を出た。月がやたらに綺麗で、人の姿のない深夜の住宅街は寂しさを感じたけれど、世界がやたら窮屈に感じた。
 俺はアパートに帰ると、『ゲキチュー』の執筆を再開した。完成は近い、そんな気がした。そしてそれはバッドエンドを迎えることになるのかもしれない。いや、俺はバッドエンドしか選択できないんだ。だから俺は朱主ちゃんと出会ってしまったんだ。

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 第4章 世界の外側

 一 ノ 一


 言うなればこの小説は聖書である。
 いや、そもそも全ての小説は聖書になる資格を有しているとも言えるし、だったら全てのエンターテインメントは神の奇跡であるとも言えるのだ。要はそれが信仰の対象になるかどうか。
 例えば奇術は種や仕掛けがあるという先入観があるから魔法と見なさないだけで、正真正銘、種も仕掛けもないならそれは奇跡だろう。
 だからこそワタシは自信を持って言える。この小説はまさに神の奇跡だ。そして小説を書くという時点で、ワタシはこの物語にとっての神なのである。話の中にいるこいつらにとっては、本に書かれたことが世界の全てであり、現実。
 どう足掻いたところでこいつらは、世界全てを見通しているワタシに勝つことなんてできない。いや、知覚すらできない。ワタシの掌で踊っているだけだなんて思いもつかないのだ。
 家畜は柵の外には出られない。しかし家畜はエサに不自由しない自分の人生が幸福なのだと考えているのかもしれない。いつか自分が食べられる運命にあるとは知らずに……。もしも家畜が外側を知れば、果たして彼らはそれでも生きていたいと願うのだろうか。
 ワタシはそんな実験を彼らに施してみた。彼らがその事実に気付けば、果たしてどんな行動を取るのだろうか。創造者であるワタシが言うのもおかしな話ではあるが、実際に書き始めると、自分でも不思議に思うほどに彼らは足掻いてくれた。
 小説を書き始めて改めて思ったことだが、うん。エンターテイナーとしてのワタシはやはり素晴らしい。だが小説だけでは限界がある。いずれはエンターテインメントの全てを凝縮させた何かを創り出したい。この世界の回線を完全にイカれさせて開きっぱなしにする。そして開いた場所に、別の世界への扉を設置しなければならない。そうだ、これはワタシの野望なのだ。
 と、そんな書き方をすると、あるいはこの物語においてワタシの事を『悪』、あるいは『敵』だと思う読者がいるかもしれない。
 しかし本来作者というのはそもそも『悪』であってしかるべきなのだ。作者が『悪』を創らなければそもそも物語は起こりえない。
 なぜ現実で物語がそうそう起こらないのかを説明すれば、まさにその一言に尽きる。誰も『悪』をやりたがらないからだ。それが問題なのだ。『悪』さえいれば物語は発生する。同時に『悪』がいなければそこからは何も生み出されないと言える。
『悪』さえいれば、自然と『善』はできあがる。そして対立・確執・軋轢・葛藤が生まれる。つまり世界が一番必要としている存在は、人が一番望んでいる存在は、エンターテインメントが一番求めている存在は――『悪』だと言える。
 だから作者は誰もやりたくない『悪』を敢えて創るのだ。『悪』さえいれば全てが始まるのだから。
 そしてワタシは、誰もやりたくない『悪役』を敢えて引き受けるような人間を尊敬するのだ。
 ワタシは物語の作者として仕方なく『悪』を遂行する。世界を壊していく。破滅に導く。現実と虚構を一つに混ぜ合わせる。混沌の中に堕としていく。荒唐無稽に支離滅裂に五里霧中に。
 と、そう大言壮語を吐いてはみたが、あまり調子に乗りすぎるのも良くない。そうだ。慎重に行かねばならないのだ。なぜなら一番大切な事は拡大させていくことなのだから。
 たとえ世界を構築したところで、それが誰にも認識されないのならそれはただの独りよがりな妄想。だから大勢の人間に興味を持って貰わなければならない。分かりやすくしなければならない。楽しませなければいけない。
 楽しいから人は物語を手にする。そして面白いからそれが拡大・浸食していく。より多くの人に知られる。そして膨れあがった物語は作者の手を離れ一人歩きを始めて、1つの共同幻想という世界が創られる。
 だから当面のワタシの義務は、より多くの人間に物語を感染させる為、この物語を大いに盛り上げていくこと……つまり、ここからが勝負だ。ここからワタシのエンターテイナーとしての実力が問われることになる。
 とりあえず第3章までを書き終えたが、まだまだ物語の結末は見えない。さぁ、彼らはこれからワタシをどのように楽しませてくれるのか……すぐにでも続きを書きたいが、今は期待に胸を膨らませながら思いを馳せるに留めておくとしよう。なにせここは小休止する為の章なのだから。



 2


 謎の小説を読んでから数日後のこと――。
 総合創作研究部の投函箱に新たに第3章までの小説が入れられていた。驚いた部員達の在兎、美奈川、宮下、朱主はすぐに新たなる謎の小説の続きを読み、そしてみな神妙な顔をして――『秘密の部屋』の中で佇んでいた。
 彼らが『秘密の部屋』に何故いるのか。それは投函箱に入っていた第3章の小説にあった。部員の1人がこの部屋で殺されていたからだ。といってもそれはやはり小説内のこと――架空の出来事なのであるが。
 原稿用紙を取り囲むように輪になって、黙って並んでいる部員達。始めに口を開けたのは宮下だった。
「せっかくここまで来て言うのもなんですが……やっぱり意味がないのでは? 第3章でも結局公園に来た意味なかったじゃないですか。それと同じです。伏線なんてありませんよ。現実とはそういうものですから。ここに来たって手がかりはありませんよ」
 確かにそうである。『秘密の部屋』で仔鳥が殺されたのは小説の中での出来事なのだ。勿論、この貸しビルの一室は血の一滴どころかシミの一つも見当たらない、まさに徹底した『白』で満たされた空間だった。家具も調度品もない、真っ白の部屋の中央付近に座る部員達はそれがとても居心地悪かった。
 第3章の内容は全て架空の事件。だが。
「それでも依然この小説の作者――公主人ですね――の正体が分からないんですよ〜。我々の内情にこんなにも詳しいのですよっ。これは放っておけないでしょう!」美奈川は興奮気味に言う。
 そう。実際にこんな殺人事件が起こりえるわけはない。仔鳥は今日も部活を休んでいるが、今だってきっとどこかで小説の出版の話などでもしているのだろう。
「そうだなぁ……もしこの小説の作者があたし達部員の中にいないのなら、どうして作者はこの部屋の存在を知っているんだろうなぁ」
 在兎の言うとおり、いま彼らがいる『秘密の部屋』の存在を知っているものは部員以外には誰もいないはずなのだ。
 それは仔鳥から釘を刺されていた事だった。世界から閉ざされた空間は他人に教えてはいけないのだと。仔鳥にとってはSSK部の部員に部屋の存在を教えるのが最大の譲歩なのだ。
「という事はやはり作者は部員の中にいるわけですね」
 宮下が感情のこもらない口調でぽつりと投げかけた。
「で、でも、そんな事して作者はいったい何が目的なのっ?」
 朱主が宮下を非難するように問いただす。
「それは分からんよ、紅坂。だがな、その作者は相当性格の曲がった人間だと言えるよ。わざわざオレ達をこんなところまで無駄足を運ばせるなんてな」宮下は静かに答える。
 作者不明の小説。SSK部の部員について事細かく書かれた小説。そこでは架空の話とは言え、部員が1人殺された。
 それもあるが――。
 第1章が届いた時と比べ、彼らも今回は本気にならなければいけない事情があった。
「それに第2章の内容が書ける人間は今ここにいる4人に絞られている。第2章は実際にあったオレ達の会話なんだ。あの時部室にいた人間でないと、あそこまで正確に書けるわけがない……さらに言えば2章の後半、オレと紅坂の帰宅するシーンまで正確に書かれていた……オレ達2人の内どちらかが書いたか、あるいは誰かに尾行されていたか……」
「…………」朱主は宮下の言葉を聞きながら黙って下を向いていた。
しかし宮下はそうした朱主の挙動には気が付いていなかった。在兎と美奈川はその点については何も言及しなかった。
「で、ですがやはり第1章の内容は伏線だったというわけですね〜。そう考えると現実の僕達が出演しなければ、実在の人物を登場させる意味がなくなりますもんね〜」美奈川が場を取り繕うような声で言った。
 第1章、第3章は確かに架空の世界の話である。それは見たところ、小説内の人間が、自分は小説の中の存在でしかない事を悟るという内容のようだが、登場人物はこの現実に存在する人物である。
 だから美奈川達はもしかしたらと考えていたが、それは本当に起こってしまった。
「でも、まさか僕の言ったことが現実に起こりえるなんて。本当に現実の僕達が書かれるなんてね……」美奈川は後悔するようにして、一度言葉を切った。
 一瞬、全ての音がなくなった白い空間は、確かに外の世界とは断絶されているようにも感じられる。仔鳥は普段いったいここで何をしているのだろうか、それは彼らにも分からなかった。
「実は僕、この小説を書いたのは師匠なんじゃないかって思ってたんですよ。部員の中では師匠が一番こういう小説を書きそうですから……。でも第2章の内容を見る限りそれはありえない。あの時部室に師匠はいなかった。ここにいる僕達以外は誰もいなかった」
 言い切った後、美奈川はめったに見せない怯えたような顔で目を泳がせている。そんな美奈川の様子を見つめていた在兎が静かに口を開いた。
「……それとも私達が現実だと思っているこの世界も、さらに上の世界の人間が書いた小説でしかないのかもな」
「な、何言ってるんですか。在兎さん! そんな非常識な事あるわけないじゃないですか! そうですよ、きっと誰かのいたずらに決まっていますよ! 今こうやって私達が動揺してるのを見る為に仕組んだ事なんですって!」
 今まで悲しそうな顔をして黙っていた朱主だが、在兎の仮説には納得できないらしく、それを打ち消すようにまくし立てた。
 しかし、更に朱主の言葉を打ち消すように宮下が言う。
「だが、それなら小説の作者はこの4人の誰かだという事になってくるぞ。第2章の内容は、1章3章の場合と違って未来の事が書かれている訳ではないからな……。絶対に不可能ではないんだ。オレ達の誰かならそれができる」無感情な宮下の話しぶりは非情にも聞こえる。
「それじゃあ誰が作者……公主人だって言うの?」
 朱主が宮下を見る目はいつもとは違って、非難するような厳しいもののように見えた。
「それは……分からない。けれどオレはこう思う。きっと第4章の内容はこのシーンなのだろうと」
 宮下が言って、他の者も同意するように下を向いた。
 そして美奈川が難しそうに語る。
「そうですね〜……作者の意図は分かりませんが、どうやら僕達を使ってなにかしようとしてるみたいです。実在の人物を小説に登場させて、あまつさえ現実の僕達までもそのままに小説として書いています」
 美奈川が宮下の言葉を受けて考えを巡らせていく。
「ひょっとしたら作者の狙いはこうかもしれません……読者がこの小説を読めば、まず第1章が小説内小説として考えるでしょう。そして第2章がその一つ上の世界。つまり僕達の現実が小説世界だと思います。僕達の事を知らない人からすれば、僕達が実在の人物か空想の産物かなんて分かりませんからね。もしかすると公主人は合わせ鏡のように、そのループを繋げていきたいのかもしれませんねぇ〜」
「……それも仔鳥の受け売りか? 無件」在兎が呆れたような声で言った。
「そうでぇす〜、在兎女史。読者から見れば小説の中の小説が、第1章、第3章です。そしてその一つ上の世界が僕達の世界、第2章。となると第4章はまた僕達の世界の話になると思いますが……僕達のもう一つ上の世界が出てくる可能性もあるんですよね〜」
「じゃあそうなったとすれば……読者から見れば、今度は私達の世界が小説内小説となって、1章3章の世界が小説内小説内小説となる……か。つーか、ややこしいわっ!」
 美奈川の荒唐無稽な話に、在兎もさじを投げる。
「ふ〜ん。じゃあこのままにしておくと、どんどん世界が積み重なってしまかもしれない訳ですね〜……」
 朱主が頬を膨らませ、秘密の部屋内を歩き回りながら考え込んだ。
「そうですよ〜、紅坂女史ぃ。まぁでも、第4章はまた僕達の世界が舞台になるとは思いますがね〜……もしかすると僕達の今こうしているシーンが、第4章になる可能性だってありますからねぇ」と、美奈川。
「そっ、そんな……じゃあ、ひょっとして今も誰かが私達を監視しているって言うんですか!?」
 朱主は驚愕に目を見開いた。元からぱっちりしている目が更に大きくなった。
「まぁ、否定はできませんね〜……このまま放っておくのも気持ち悪いですから、僕達でなんとかしたいですよね〜」
 と、その美奈川の何気ない一言がきっかけだった。
「……そうよっ! 創ればいいのよ。続きを、私達が!」
 朱主は突然明るい顔をして叫んだ。
「え、創る? 続きを?」
 いきなり大声を上げた朱主に、何の事だと顔をしかめる宮下。
「前に話し合ってたじゃない。第1章で公人が最後に言った『嫌だ』の意味。あれが元々小説に書かれていた言葉なのか、公人が小説に逆らって言った言葉なのかって」と、朱主。
「ああ、あれか……あったな」宮下は遠い目をして記憶をたぐり寄せた。
「でね、第3章を読んだ私達はもう答えが分かったでしょ。あの言葉は元々小説に書かれていた台詞だって……。だからね。書けるじゃない、小説が。……美奈川さん、小説の続きを乗っとって書いてやろうって提案してたじゃないですか。あの作戦をいま実行する時が来たんですよ!」
 弾むような声で朱主は語る。その声は無機質な『秘密の部屋』の中で希望を与えてくれるようなものだった。
「そ、そうですねぇ。今こそ時は来たって感じですよね。ですが、なかなか難しいですよ〜。この続きだったら第4章から……ですか? でも4章は恐らく僕達のシーンになるでしょう? 順番的に言ったら。だったら今のシーンは飛ばして第5章から書きますか〜?」
 美奈川も朱主の意見には賛成のようで、さっそくこれからの執筆内容について考えを巡らせている。しかし、朱主はそんな美奈川の考えはよそに意外なことを口に出した。
「いえ、どうせだったら創るモノは小説だけに留めないでおきましょうよ」
 この言葉は、その場にいる他の3人にとって理解しがたいものだった。
「え、小説以外もやるって事か? どおして?」
 在兎が朱主の意外な言葉に口を開けている。
「だって小説だと、もう公主人によって大体の道筋が決められているじゃないですか。もう第3章まで終わってしまったんですよ……いえ、美奈川さんの言うとおり、もしかしたら第4章だって既に書かれているのかもしれません。今の私達の行動によって」と、朱主。
「なるほど〜。結構レールが敷かれているから、なかなか自由には書けないものな〜」
 在兎は感心したように頷いている。
「それに、もしかすると私達がこうして続きを書く事自体も彼のシナリオの1つになってるかもしれないじゃないですか。第4章はそういう内容なのかもしれませんよ! だから一旦リセットする必要があるんですよ!」朱主は拳を握って熱く語る。
「ほ〜ぅ。なるほど。あたし達は公主人の掌で踊らされているだけかもしれんのだな……じゃあどうして小説以外なんだ?」在兎は口を尖らせて尋ねる。
「小説が敵の武器なんですよ? わざわざ得体の知れない相手と同じ小説で対抗するのは気が引けます。だからと言って小説は書かないって訳じゃありません。要は保険ですよ。備えあれば憂いなし。色々な武器を持って戦えばこちらが有利なのは明らかです。少々大変ですが、みんなで協力してやればできないことはないです」朱主は張り切るように言った。
「じゃあ小説を書いたり、漫画を書いたりする訳だな……。ストーリーはどうすればいいんだ? とりあえず今の状況とは違うものにすればいいんだろ?」
 在兎は朱主とは対照的に緩慢な声で言った。
「ええ、でも全く違うシナリオも駄目なのです。それじゃいつも部活でやってる事ですよ。普通の創作活動になります。あくまでも大事なのは、公主人の書いた小説に似てるけど、彼の意図する事とは全く別の作品を創ることが大事なんです。彼の主張を台無しにするんです」と、声を上げて語る朱主。
「……な〜るほどね〜、で、具体的には朱主は何をやるんだ?」と、在兎。
「そうですね……」
 在兎の問いかけに朱主は少し悩んで、そして目を輝かせて言った。
「映画を――映画を撮りましょう!」
 密閉された白い空間に朱主の声が響いた。
「え、映画……? なんでいきなり映画なんだ?」
 在兎は、朱主がなぜここで映画という提案を出したのか疑問を抱いた。
「だって映画ってまさに劇を演じているって感じじゃないですか〜。それに私映画創ってみたかったんですよ〜」朱主は照れるように言った。白い肌にやや赤みがさしていた。
「で、でもあたし達は映画は専門外だぞ? 機材だって持っていないし……」戸惑う在兎。
「それは大丈夫です。機材は私が映研に頼んで貸して貰いますから」
とん、と自分の胸を叩く朱主。胸がぽよんと揺れた。
「ま、まぁそこまで言うなら撮ってもいいんだが……。う〜ん、なんだかこれから色々と面倒臭そうな事になりそうだな〜……」
面倒臭がりの在兎は、はぁ〜とため息を吐いた。
 すると美奈川が笑顔を向けながら協力を申し出た。
「にはは〜、また在兎女史の悪い癖が出ましたねぇ〜。面倒臭がりがぁ。……いいでしょう。僕も映画創りを手伝わせて下さぁい」
「そうだな。ならばオレも協力しよう」宮下も小さく頷く。
「それじゃあ、さっそく映画創りに取り掛かりましょう! 打倒、公主人よっ!」
 朱主は目に好奇の色を浮かべて、拳を高らかに上げた。
 彼らがこの部屋に感じていた、不気味で異常なまがまがしい空気はいつの間にか払拭されていて、ここはもう、ただの貸しビルの1部屋でしかなかった。幻想とはそのようなものなのだ。
 そして彼らは白い部屋を後にした。
 外は逢魔が時。街を行く人の数はこの時間にしては少ないように感じたけれど、彼らは1人ではなかったので怖くはなかった。



 一 ノ 二


「ふむふむ、成程。独創的だね、君の小説」
 インテリそうな眼鏡に、ピシッと黒いスーツを着こなした若い男が原稿から目を離すと、テーブルの向かい側に座った高校生の少女に語りかけた。
「……あ、ありがとうございます、小岩井先輩」
 黒縁眼鏡をかけた少女は恥ずかしそうに俯きながら小さく頭を下げる。
「はっは。君は飛び抜けた天才なのに相変わらず引っ込み思案なんだな〜。そんな固くならなくていいよ。俺だって最近までは高校生だったんだ。立場は変わっても先輩後輩の仲は変わらないよ。それにまだまだ俺も新米の編集者なんだから、こっちこそお手柔らかに頼むよ――仔鳥ちゃん」
 世界が白く透明に輝く、5月の朝。そしてファミリーレストラン。客もまばらな店内の席に座っている出版業界編集者、小岩井仮夢衣(こいわいけむい)は、目の前に座る戒川仔鳥という少女の事が理解できずにいた。
 きらきらと店内のテーブルにまで光が届く。小岩井はちらりと仔鳥の顔を見た。光に溶け込むかのように、彼女は今、世界と一体化していた。
 それはまさに彼岸の存在。超自然に位置するモノ。幻想の深奥。
 戒川仔鳥は彼の後輩である。小岩井が高校を卒業するまでの間、同じ部員として過ごしてきた。
 それでも彼は少女が理解できなかった。
 その意味はただ単純に少女が何を考えているのかが分からないとか、価値観が違うとかそういうベクトルの話ではない。
 一目見たときから、彼には彼女の存在が分からなかったのだ。
 なぜ仔鳥がこの世界に存在するのか。彼女がこの世界にいるのは間違いなんじゃないのかと。本当は別の世界の人間ではないのかと。
 ――その頃から仔鳥は異彩を放っていた。人とは外れていた。
 小岩井が知る限りにおいて、未だ小説を書いたことのない小説家。映画を撮ったことのない映画監督。漫画を書いたことのない漫画家。奇術を行ったことのない奇術師。
 しかして、彼女は現実において小説を書く。現実において漫画を書く。現実に虚構を実現させる。
 彼女は自分をエンターテイナーと自称する。そしてメタ学の第一人者と。
「あのぅ……そ、それで……どうですか、この小説。しゅ、出版できますかね……」
 相変わらずのたどたどしい喋り方。しかし小岩井には、それは全て他人を欺くための仮の姿なんじゃないだろうかという疑念があった。勿論それはただの小岩井の思い込み。仔鳥の事なんて何一つ、誰一人して分かるはずがないのだ。
 小岩井は仕事で鍛えられた笑顔で仔鳥に自身を与える。
「うん……俺は面白いと思うけどね。でもまだ未完成なんだろ? 第3章までしか書けていないじゃないか。とりあえず最後まで読んでから判断したいな」
「あっ……それもそうですね……あははっ」
 仔鳥は一度も小岩井と視線を合わせようとはしなかった。
 体格のいい小岩井が身を乗り出すように仔鳥に尋ねる。
「それじゃあ、仔鳥ちゃん。ちょっと第3章の内容について考察しときたいんだけどいいかな?」
 整った顔で小岩井は、爽やかな笑顔を向ける。しかし仔鳥は未だ緊張が解けない様子で、警戒を解かない様子だった。
「ええ……はい。いいですけど……」
 仔鳥はせわしない手つきでテーブルに置かれたジュースを取って少し飲む。
「結局さ、第3章の内容は在兎ちゃん達の推理パートの最後の方で語られていた通りに受け取っていいの?」
「え、な、何か分からないところがありましたか……?」
「つまり第3章は全部で3編から成っていて、それが2つに分割されて路久佐君のパートと在兎さんのパート、お互いがお互いの小説を補完し合うっていうやつ……それで真意は美奈川君が言った通り、先読みする事でその後の展開に支障をきたす恐れがあったからっていうわけ……」
「……それは書かれた通りに解釈してもらって結構です。……深い意味はありません」
 書かれた通りに解釈しろと言われても、常識では計れない仔鳥が書いた小説なのだ。その書かれた通りの内容が難解だ。
「……はは、そうっすか……。それじゃあまだ聞きたいことがあるんだけどさ、この小説いきなり路線変更した感じがするんだけど……殺人事件とか起こっちゃって。っていうか君死んじゃってるし……なに? これ元々推理小説にするつもりだったの?」
「いえ……物語を進めていたら自然とこうなりました。これから先のこともどうなるかはあまり考えてません」
「え〜……ちょっと仔鳥ちゃん。そんな行き当たりばったりな書き方はどうかと思うよ〜……特にこの作品すごく複雑だからさ〜、きっと支離滅裂になっちゃうと思うんだけど」
「え……ワタシの作品ってもしかして破綻してたりします……? それとなく傍点付けて、今いる世界がこんがらないようには気を付けてますが……」
「う〜ん。どうなんだろうな〜……なんというか話が飛び過ぎてややこしいっていうか、もうちょっと読む方の気持ちになって分かりやすくして欲しいというか……」
「一応ワタシは小説としてのカタチは失わないように気を付けてるつもりなんですが……それにしても小岩井さん結構突き詰めますね……話は書き終わってからするのじゃないのですか?」
 気がつけば、いつの間にか仔鳥には先程までのおどおどとした態度がなくなってきているかのように見えた。それも仔鳥の怪しい魅力。人見知りなのか人を見下しているのか……いや、そもそも仔鳥にそういった人間としての特徴を付随させようとする事自体が間違いなのだった。
 だが、今の仔鳥はどこか自信に溢れていて……いや、自分をこの世界から切り離しているような。……考えてはいけない。
 不安を振り払うように小岩井は話を進める。
「いや〜、だってね。こういう小説だから仕方ないかもだけど……内容がフワフワしていてね、どうしても不明瞭感がぬぐえないんだよね。この時点でもうちょっとはっきりさせていこうじゃないか。おさらいパートということにしてさ……どうせこの会話の内容も小説に描くつもりなんだろ?」
「は、はい……まぁそのつもりです……」モジモジと答える仔鳥。
「え? 書くんだ! 冗談のつもりで言ったのに……。だって君は今まで敢えて登場しなかったじゃないか。いや、3章では死体で登場したけど、でも生きた君は出てこなかったじゃないか……いいのかい? 意図があって登場しなかったんだろう? 3章で死んだのもその為じゃないの? なのに君がここでいきなり出てきても」
 やはりこの小説は破綻しているのだ。それは仕方ない事。仔鳥が小説と書くということは、つまりそういうことだ。
 小岩井はもう、仔鳥を理解したいという気持ちすら無くなっていた。人間とは別の存在。動物とも言えない。動物だって気持ちは通い合う。彼女は生物を超えているのだ。
 それでも、無駄だと分かっていても小岩井は編集者として聞く。
「どうして君が出てくる必要があるんだ? こんなの楽屋落ちじゃないか。それとも、これも行き当たりばったりの結果なのかい?」
「はい……そりゃ読んでる方から反感を買うことは覚悟してますが……ここでワタシが出ることを同時に期待されている気もするんです……すいません、小岩井先輩にはよく分からないですよね。でもそんな気がするんですよ、仕方ないですよ」
 まるでそれは自分の存在すらも、物語の登場人物の1人でしかないことを自覚し、その物語の意思を読み取っているような瞳。
 小岩井は思った。もしかして今の自分も目の前にいる少女の妄想にしか過ぎないのか、と。
 店内の喧噪が効果音のように、無機質なものに聞こえる。店員も、客も、窓の外から見える白い世界だって――全てが戒川仔鳥による架空の世界なのだとしたら。
「物語は、起こらなければ物語ではありません……。第3章が終わった時点でワタシは第4章をどうするか分からなくなりました。ですがここで小岩井先輩とお話して理解しました。とうとう神が降臨するシーンなのだって。物語には意思があるんです。時にはどうしてもその意思に逆らえない時があるんですよ。今がその時です」
 ともすれば作品全体を大きく歪めてしまう暴挙をいともたやすくやってのける少女。小岩井には彼女を理解できないし、しない。自らを神だと――こんなにも堂々と言える存在なんて。
「でも……仔鳥ちゃん。そんな事をしたら今までの展開が台無しになるっていうか……それに第5章からはどうするの? その時、もう第4章は読まれちゃってるんだよね? だったら、そっから先の章はかなりの混乱状態になると思うんだけど」
 小岩井は無駄だと思っていても、編集者の立場として形だけの質問をする。
「違いますよ、小岩井さん。あなたは誤解してますよ……」
 伏し目がちにささやく仔鳥。
「ご、誤解してる……?」小岩井は片眉を上げて素っ頓狂な声を上げた。
「滅茶苦茶とか台無しとか、そういうものはないんです。存在しないのです。彼らはそんなに弱い人間達ではありません。もっとワタシ達を楽しませてくれますよ……それにこの小説は初めから、そういう展開になる事が決まっていたんですから」
「き、決まっていた? 第4章の内容が、俺と仔鳥ちゃんの会話になるって事が?」
「そうです。ワタシが登場するとこは物語にとって必要不可欠です。たとえそれで今後の展開が滅茶苦茶になったとしても、それは元々そうなる運命だったのです。たとえ他の道があったのだとしても、それはワタシの小説ではありません。ワタシとはまた別の世界なのです。無理に歪めた時点でそれは別の作品になるのです。もうワタシがやりたかったものとは離れてしまうんです」
「さすが、自称メタ学の第一人者……俺にはさっぱりだ。でも、小説を書くってことは別の世界を書くって事だろ? 別の世界なら何度でも書き替えればいいじゃないか」
「フフ……いいえ、そもそもワタシの目的は小説を作ることではないのです。世界を創ることなんです。気に入らないからと言って、世界をそう簡単に壊してはいけないのです」
「どう違うのか分からない。やってることは同じじゃないのか?」
 小岩井は後悔する。無意味な質問だった。聞いたところでどうせ仔鳥とは言葉が通じないのだ。
「いいえ。小説は手段なんです。たくさんの人に読んで貰う為の媒体。世界を創る為には多くの人に認識される事が必要なんです。そして大事なのはその中身です」
「小説の内容が……?」
 やはり全く分からない。分からない分からない分からない。こんな意味不明な会話が小説として文字になるなんて小岩井には許せない。
「アカシックレコードです」
 その言葉を聞いた小岩井は、もう仔鳥の存在が許せなかった。
「アカシックレコードの内側にいる者にとっては、その内側が世界の全てです。ただレコードが再生される通りに、時間が流されるままに生きる人生に過ぎない」
 それが普通だ。それが人間というものではないか。なぜ同じ人間のカタチをしている仔鳥に、そんなことを言う権利があるのだろうか。小岩井は分からない。分からない分からない分からない。
「アカシックレコード……オカルト用語じゃないか。そんなもの存在しないだろ……」
 半ば投げやりに答える小岩井。テーブルの上のコーヒーに目を向けると、一口もつけていないことに気付いた。
「たとえばの話ですよ。で、そのレコードですが……外側にいる人間ならばどの地点からでも簡単に再生できますし、その気になればレコードの内容自体も改ざんする事だってできます」
「それがつまり……別の世界。でも内容はメタじゃなければいけないのか?」
 メタ学の第一人者なのだから、メタにこだわるのは当たり前と言えば当たり前なのだが。
「ええ……メタとは集合の中の集合。部分の中の部分です。つまり小説なら、小説の中の小説。ワタシは別の世界の架け橋を探しているんです。だからこそ小説の中で小説について語り、ワタシの今いる現実の世界までもを小説に組み込んで、レコードの内側に世界を押し込めたんです。外側があるという認識ができなければ外側には出られません。その為に外側という概念を創らなければいけないのです」
「……そうか、ようやく話がみえたよ」
 小岩井は仔鳥の目を見つめた。そこで彼は初めて気付いた。いつの間にか、自分の方が仔鳥から目を背けていたことに。仔鳥は小岩井と目が合うとにこりと微笑んだ。立場はとうに逆転していた。
「だからワタシは小説を書いているんです。内側でなく外側から。下位の世界ではなく、この世界……現実で書いているんです。そしてワタシ自身も小説の世界に踏み込み、この現実をも虚構にします。さらなる上位世界を目指すために」
 そして小岩井は分かった。ようやく一つだけ、仔鳥の事が理解できた。目の前の少女はひょっとして小説が――。
「そうか……もしかして仔鳥ちゃんは……」小岩井は独り言のような声で呟く。
 戒川仔鳥は世界というものが――。
「そうです……小説なんて、世界なんて……」
 さっきまでおどおどしていて、伏し目がちだった仔鳥がにたりと小岩井に笑いかけた。その顔は邪悪なまでに歪んでいて、確かにこの世界のものではない程に――美しかった。
「くだらない」





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 新人賞の締め切りまで残り2週間を切っていたその日、俺はとあるカフェである人物と共にいた。俺は少々緊張していた。
「……うん」
 テーブル越しで、これまで俺の書き上げた未完成のライトノベル『ゲキチュー』を読み終えた美奈川さんは、ゆっくりと原稿用紙から顔を上げた。美奈川さんに俺の全てを見せるのは初めてだった。え? 誤解を生みそう?
「前衛的でなかなか面白いんじゃないかなぁ。小説を書く人間が主人公の作品は多いけど、さらにその作中で書いている小説というのが、小説家を目指す自分の話……果てのない物語を見事に組み込んだわけだねぇ……ボクはこれ、アリだと思うよ。もしかしたらいい線いくんじゃないの〜?」さすが元プロ、お目が高い。
「やたらベタ褒めじゃないですか」お世辞でも少々照れてしまうじゃないか。
「ふっふ〜ん、だってこの業界、夢を見続ける事が一番の力だからね。それに、君は褒めて伸びるタイプだからぁ」
 なぜか得意げな美奈川さん。にしても先ほどからチラチラ周りから視線を感じる。きっとそれは美奈川さんに向けられたものだけど……綺麗だろ? 男なんだぜ、これ。
「前と言ってることが逆じゃないですか……」
 諦めが大事なんじゃないんですか?
「まぁまぁ、それはそれ。だからこうしてかつて君と同じ夢を追っていたボクが君の作品を見てあげてるんじゃないかなぁ。それに君の体験がそのままそっくり作品になるというなら、ボクは完全に脇役で終わっちゃうでしょ。ちょっとは活躍しないと」
「別に脇役でもいいんじゃないですか?」
 それに今のこのやりとりだって書くつもりなんだけど。意外と黒いんですね、美奈川さん。それが大人の姿というやつなのかい。
「駄目だよ。そんなの出版されたらボクのイメージが崩れちゃうでしょ」
「俺のラノベが出版……されればですけどね」
 そういえばそうだ。出版、か。ならば同じ意味で小岩井さん。悪印象というなら彼女だって同じ。果たして出版社のイメージが下がるような本を編集が出版させてくれるのか。そう……彼女に限らずこの物語に関わる多くの人が悪印象に移ってしまった……いや、俺の人生はそう。俺に関わるとみんながみんな悪印象になってしまう……。俺が台無しにしてしまう。それが俺の性なんだろうか。俺が勝手に嫌いになるだけか。
「ううん、路久佐君。さっきの言葉は決してお世辞で言ったんじゃない。まだまだ未熟だと思うけど作品としては面白いよ。まぁ、これから先の展開次第ってとこだけど」
「そうですか。ありがとうございます」
 これから先――それは世界の意志次第という事だ。
 こんな風に俺と美奈川さんはお互いに執筆活動において切磋琢磨する関係になった。
 本日の会合に至った流れはというと、俺は家に篭もりひたすらラノベを書いていたのだが、また執筆に行き詰まってしまった。現実の物語に追いついてしまった。つまり、現実の俺が物語を進めなくてはいけない状況に陥ってしまったのだ。
 そこで俺はなんとかしようと考えたわけだが、朱主ちゃんとはファミレスで別れて以来、なんか会いづらかったし、宮下も用事があるらしかった。小説の事なら在兎に聞くのが一番だろうけど、もうこれ以上在兎に迷惑をかける訳にもいかない……。
 そこまで考えて俺は思い至った。美奈川さんの存在に。
 以前少しだけ『ゲキチュー』を美奈川さんに見せたけど、その際に結構いい意見が貰えた。正直もう見せるつもりなかったし、一緒にラノベ作家を目指していこうなんて言うつもりもなかったけど……物語の重力というやつだ。俺の意思とは無関係に物語はあらゆるものを引きずり回す。所詮俺もその中の一要素でしかない。それにすっかり忘れていたけど一度通しで見て下さいって自分で言ってたんだっけ。酷いな俺。
「とにかく、君より何年も前からラノベ作家目指してたボクが言うんだから間違いない。要は読者が読みたいモノを書けるかどうかなの……この作品は読み手が求めているモノに入っていると思う。だからボクを信じてあと2週間頑張っちゃえ」
 美奈川さんは眼鏡をキラリと輝かせ、ひょろひょろの体をくねらせながら自信満々に言った。
 
 
 こうして『ゲキチュー』は元プロのお墨付きを頂いた訳で、俺の気分はとても高揚していた。俺はこのことを彼女に伝えたかった。だって言ってみればこれは俺と彼女の2人で創った作品なのだ。やっぱりみてもらおう。前回は気まずいまま別れてしまい、その時から会っていないけど、今ならいいだろう。話したいこともいっぱいある。
 そういうわけで美奈川さんと別れた次の日、俺は紅坂朱主ちゃんの住むマンションへと向かった。一応その旨のメールを送ったけど、やはりというか返信はなかった。
 夏の太陽がギラギラと照りつける中、俺が朱主ちゃんの住むマンションに続く長い坂を昇っていると、思わぬ人物と出会った。
「お兄ちゃん」妹の仄が坂の上から手を振っていた。
「お前こんなところで何やってるんだよ?」
「お兄ちゃんこそ、中途半端な原稿持ってどこに行くの?」俺の抱えた原稿を指さす。
「あー……なんだ、ここまでの出来具合を見て貰おうかと思って……」
「……誰によ?」
「……」俺は無言で目の前にそびえる高層マンションを見つめた。
「聞こえてるの? 誰にその小説を見せに行くの?」
 うう〜ん、困った。正直に言っていいものかと返事に窮していると、
「私じゃないでしょうね」
 いきなり俺の背後から声がした。
「う、うわぁ!?」思わず飛び上がる。こんなに暑いのに鳥肌が立った。
 俺が慌てて振り返ってみると、そこにいたのは紅坂朱主ちゃんだった。
「あなたもしつこいわね……もう私に関わらないでって言ったじゃない……ていうか、大げさすぎるわよリアクション」
 なげやり気味に目を細めた不機嫌そうな朱主ちゃん。怒っているようだ。
「……あ、碧木さん……」隣で仄が朱主ちゃんを見て茫然自失としていた。
 そうか、仄と朱主ちゃんは元クラスメイトの関係だったんだ。
「え……どうしてその名前を……あ、あなた……そういえば……見たことあると思ったら、もしかして同じクラスだった……」
 朱主ちゃんは自分の旧姓を呼ばれたからか、ひどく動揺していた。この様子だと妹の事は忘れていたようだ。去年まで一緒の教室にいたっていうのに……。
「路久佐仄だよ。やっぱり忘れてたんだね……というより、そもそもわたしに興味なんてなかったもんね」自虐的に笑う仄。寂しそうな顔だった。
「え? 路久佐……って」朱主ちゃんは怪訝そうな顔で仄と俺を交互に見比べる。
「わたしは路久佐公人の妹なの」
「っ!?」朱主ちゃんは声には出さないものの、明らかに驚いたようであった。
「こんなとこで元同級生と再会して、それが知り合いの妹だったなんてすごい偶然ね」
「……」きっといつもならここで運命だとか、物語だとか嬉々として饒舌に語り始めるはずなのに、朱主ちゃんは何も言わなかった。
「あの、碧木さん……いや、今は碧木さんじゃないんだね……えと」
「紅坂……よ」朱主ちゃんのその声は若干震えていた。
「ええ……紅坂さん。よかったらその、2人で話したいんだけど……今、時間大丈夫かな」仄は朱主ちゃんの機嫌を伺うような口ぶりで尋ねる。
「……ええ、いいわ。このマンションに私の部屋があるからそこで話しましょう」
 そして2人は俺を残してマンション内へと姿を消した。ついでに言うなら、俺に2人の関係という謎も残していった。
「……って、ちょっと待て。俺はこのくそ暑い中、2人の話が終わるのをずっと待ってなくちゃいけないのかっ?」
 できれば俺のためにも早く帰ってきてね、仄。
 それにしても……どうにも見ていて2人の様子はぎこちなかった。仄が言うには朱主ちゃんには友達がいなくていつも1人だったって聞いた。そして学校のみんなを嫌っていたと……。仄はそれをどうすることも出来ず、黙ってみていた自分が悔しいと言っていた。だったら2人は今、どういう風に向き合っているんだろうか……。
 
 そうして待つこと数十分。仄がマンションから出てくる姿を見つけて俺は駆け寄る。
「よぉ、話は終わったのか」
「……」しかし仄は俺の言葉に応えない。心なしか落ち込んでいるようにも見える。
「何か……あったのか?」2人で何を話したんだ。
「ごめん……わたし先に帰るからお兄ちゃんは紅坂さんのところまで行ってきて」
「え……でも」会話内容が気になる。
「いいからっ。紅坂さんも待ってるからっ」
 声は静かだったが、鬼気迫るものがあり、俺はその迫力に押された。
「わ……分かった。行ってくるよ……き、気を付けて帰れよ」
 妹を見送った後、俺は朱主ちゃんの待つマンションの一室へと向かった。

「なんであなたが来たのよ?」開口一番、朱主ちゃんの一言。
 俺は朱主ちゃんの部屋で居心地悪くしていた。
「いや……だって俺を待ってたって……」
「なんで私があなたを待ってなくちゃいけないの?」
 朱主ちゃんはいつにも増して、とても不機嫌そうだった。
 あれ、おかしいぞ。妹の話だと朱主ちゃんは俺の事を待っているとのことだったんだが……あ、そうか。
「……ハメられた」仄の口車にまんまと騙されたか……。
「……?」朱主ちゃんはきょとんとした表情で俺を見つめる。まるで人形のような顔。
「いや、なんでもないんだけどさ」
 思わず愛想笑い。俺の悪い癖だ。
「だったら帰って頂戴。私はいま誰とも会いたくないの……」
 心なしか朱主ちゃんはとても憔悴しきった顔をしているように見えた。本当に何があったんだろうな。
 けど、俺はここで退いちゃいけないような気がした。柄にもないことなんだけど。
「……さっき、妹と何を話してたんだ? 言いたくなかったら別にいいんだけどさ」
「言いたくない」
 ……ああ、そうですかい。
「まさか、公人と仄が兄妹だったなんて……どうやらあなたとの物語はまだ続いているみたいなのね……」
 けれど朱主ちゃんは俺と話をしてくれるつもりになったようだ。
「あなたとの……ねぇ。俺だけの物語じゃないんだ?」
「そうね……認めるわ。こうなってはもうあなただけの物語とは言えない……。完全に私がその中心に組み込まれてしまった……逃れられない、物語の内側に」
「そっか、でも別にいいじゃん。それでも……これでまたラノベが書ける事だしな」
「いいえ……私はもう関わらないわ……あなた1人でやって頂戴」
 無情に告げる朱主ちゃん。
「なんでだよ……だって、結構いい線いってるって褒めてもらえたんだぜ! しかも驚くなよ、俺の幼なじみとは違う別の小説家――元だけど――に見てもらったんだよ! これだったら受賞も夢じゃないってさ!」
 ちょっと誇張気味に言って、俺は思い出したように手に持っていた原稿を朱主ちゃんに見せた。でも朱主ちゃんはそれに目もくれない。どうでもいいといった感じで。
「……そう。また新たに小説家のお友達ができたの……。それに初作品がいきなり受賞?  ふっ、本当にすごいわね、あなたって人は……。本当に、憎い」
 朱主ちゃんの表情が一層暗くなっていく。一体今度はなんだというのだ? なんなんだよ、この子はっ!
「ど……どうしたんだよ、いきなり」
 俺は笑顔を引きつらせたまま、困惑を隠せない。
「私ができなかった事を、あなたはいともあっさりとやってのける……。それが世界に愛された者って言いたいの? 実は私ね、漫画家なんて嘘だったのよ」
 朱主ちゃんの口からあっさりとそれは語られた。
「や……やっぱり本当の事だったんだ……」思わず口がすべってしまう。
「ふん、もうご存じだったってわけね……そうよ、目指してはいるけれど漫画家じゃないの。あなたと同じ素人よ」
「でも……なんでそんな嘘を」
「私は……あなたの前では強がっていたかった。私は、何も持っていなかった。そして手に入れることが怖かった。失うのが怖いから。劣等感の塊だった」
「とてもそんな風には……見えない」
「あなただからよ。あなたは私の同類だと思った。むしろ見下していたところもあるわ。社会からのはみ出し者で、誰からも必要とされていない私と同じ人間だと思ったのよ。だから私はあなたに近づく事ができた……きっと安心したかったのだと思う。優越感に浸りたかったのだと思う」
 酷い言いようだな。外れちゃいないけど。
「けれど、違った……あなたには支えてくれるものがたくさんいた。私は余計に辛かった……自分と同じだと思ったのに、それなのにあなたは何でも持っていた」
 ……いいや、それはまるっきり見当外れだ。
「それは……君と出会ったから物語が動き出したんじゃ。俺は何も持たざる者だよ」
「あんなの全部詭弁よ……全てあなた自身の力なのよ。あなたの存在がなせる物語。あなたがやろうと思ったからあれだけの物語が生み出せるのよ。あなたは元々、何でもできるのよ。全てを持っていたのよ、初めから」
「じゃあ……朱主ちゃんも同じじゃないか。さっきも言ってただろ。自分が今、物語の中心にいるって……だから朱主ちゃんも何だってできるさ!」
「そんなの……あくまであなたがいてこその私じゃない! 私はあなたの物語にとってただの付属品にすぎないわ! 自分では何もできない! 私自身には何の物語もない……ただ社会的に隔絶されただけの非生産的な人間……妹から聞いてるでしょ? 私、学校に行ってなかったって……。ここに引っ越した今もそうなのよ。ほとんど学校に行かないし、私はこのマンションで誰とも関わらず一人で生きているのよ……」
「親は……どうしたんだ? それに周防は? 付き合っていたんじゃないのか?」
「事情があってここには私1人しかいない。それに周防やら他の男は私の見た目だけで近寄って来るけど、すぐに去るわ。私も物語に期待して付き合うけど、やはり誰も私にはついて行けないみたい。でもそういう連中には私も初めから興味なんてないわ」
「もうちょっと他人に合わせようとか考えたりしないのか?」
「これが私のアイデンティティーなの。失いたくない数少ないもの。これをなくす位なら何も手に入れたくない……我が侭だと分かってるけど、変わるのが恐いの。今までの自分が間違ってたなんて認めるのが怖い。私は私という存在を根底から否定したくない。だから私は1人でいいの……私は自分を妥協しない」
 つまり朱主ちゃんは自分で自分を閉じてしまってる。物語を完結させているわけだ。なんと、まぁ……ありきたりなんだろう。こんなに単純だったのか。朱主ちゃん。
「だからあなたの顔も見たくないっ! わたしにそんな輝かしいものを見せないでっ! 私に期待させないでっ! 私は何もない、私は何も欲しくないからっ!」
「朱主ちゃん! 落ち着けよっ! そうやって怯えていたら駄目になっちまうぞ! 俺と一緒に頑張ろうぜ」
「何を頑張れっていうのよ……私は変わりたくないの、1人でいたいの。こないで」
「なら今のままでいいからさ、ほら……漫画家目指してるんだろ? 俺もラノベ作家目指してるから一緒じゃん。だからもうちょっと続けようぜ」
「私は無理よ……あなたとは違うの。私には物語は一切開かれていない……足掻いたって結果なんて出ないのよっ! もう帰ってよっ……私に近寄らないでよ……」
 朱主ちゃんは今にも泣き出しそうな顔をしている。そんな……やめてくれよ。
「しゅ……朱主ちゃん……」俺はどうしたらいいのか分からない。ただ、朱主ちゃんを放って帰ることはできなかった。
「……あなたが行かないなら私が出て行くわ」きつく俺を睨む朱主ちゃん。
「え……? 出て行くって」俺はおぼつかない足取りで朱主ちゃんに歩み寄ってしまう。
「……みんな、みんな大嫌い……」朱主ちゃんは後ずさる。
「ちょっ、ちょっと待てよ朱主ちゃ……」俺は朱主ちゃんの肩を掴もうとしたが、
「あなたもっ、こんなも世界もっ、大嫌いっ! 全部私から消えてしまえ!」
 俺を突き飛ばして朱主ちゃんはマンションを飛び出した。
 俺は尻餅をついたまま、後を追えずにしばらくその場に固まっていた。けれどそのうちここは朱主ちゃんの部屋だということを思い出してアパートに帰った。帰り道、猛暑とセミの声が鬱陶しく感じた。
「ああ……こんなの、なんて面倒臭い」
 全部私から……か。なら本当に消したいのは私だけ……なんだろうな。



 ]T


 俺がアパートに戻ると、妹の仄が荷物の整理をしていた。
「お前……何やってるんだ?」
「……お兄ちゃん、どうだった? その、紅坂さんのこと」
 仄は俺の質問には答えずに尋ねた。
「ああ……なんていうか怒らせてしまったっていうか……駄目だったよ。それより仄。なんでお前がここまで朱主ちゃんの事を気にかけているんだ? 何かあったのか? さっきも2人で何を話してたんだよ?」
 俺は妹に真相を迫った。そうだ、このタイミングならば丁度頃合いだろう。知るのには一番いいタイミングだと思った。
「……ねぇ、お兄ちゃん。わたしね、許して貰えなかった」
 唐突に語る仄。一体なにを言っているのだ?
「許すってなにを?」
「……昨日言った話、紅坂さんの話のこと……」
「ああ……けど、なんでお前がそこまで気にしているんだよ。確かにお前は朱主ちゃんに何もできなかったかもしれないけど、こんなにこだわってる訳が分からない」
「違う! 違うの、お兄ちゃん。わたしの……わたしのせいなのよ」
「それはどういう事だ? もしかしてお前が朱主ちゃんをいじめていたのか?」
「違うっ! それはちがうっ! ……でも、でも。そうなった原因はわたしなの……」
 そして贖罪の言葉を述べるかのように仄は語り出した。
「わたしは去年……つまり1年生。高校に入学したばかりの頃、紅坂……いや碧木……もう朱主さんでいいか……その朱主さんと出会い、わたしは彼女に惹かれた。あの頃のわたしは世間知らずだった。世の中の全部を知ったつもりになってた……でも朱主さんを見た瞬間そんなわたしのちっぽけな価値観は崩れ去った。朱主さんは私の知ってる世界からはみ出た存在だった……わたしは彼女のことしか考えられなくなった」
 意外だった。まさか最近知り合った女の子が自分の妹とクラスメイトであって、さらに妹はその子にぞっこんだったなんて……こんなこと。急進展しすぎじゃないのか……昼ドラじゃないんだし。いや、いっそ昼ドラよりもそれはチープで……。
「わたしは何とかして朱主さんに近づきたかった。幸い同じクラスで席も近かった事もあって積極的に話しかけたりもした……けれど朱主さんはわたしの事を見向きもしなかった。わたしは悔しかった。悲しかった。あの頃のわたしは誰かに嫌われたりするなんて考えられなかった。わたしの周りの人間はみんなわたしが好きなんだと思ってた。だからわたしは諦めなかった。しつこく朱主さんに馴れ馴れしく接したの……本当に馬鹿だったと今じゃ後悔してる」自分を蔑むように笑う仄。
「でも、聞いている限りじゃお前はただ朱主ちゃんと友達になりたかっただけなんだろ? 別に何も悪いことなんて……」
この場合むしろ朱主ちゃんにも非があるのではないか? 仄が不憫に思えてきた。
 いや、でも結局、妹だって弁解がましく罪を語る事で自分は綺麗でいたいだけなんじゃとも思えた。だって、自分が悪いって言う割には、お前がいじめてたのかと聞けば、そこははっきり否定するところがなんだかなぁ……。
 けど、そんな風に実の妹を見てしまう俺が一番汚いんだろうな。だって妹はそんな事決して考えない奴だって俺は分かっている筈なのに。
「ううん……あの時わたしは何も見えてなかったの。ほら、わたしって昔から結構友達とか多かったじゃない?」
「あ、ああ……そういえば、そうだな……昔から男女問わず人気あったもんなお前」
 俺とは違って仄はいつも友人に囲まれていて、いつもその中心にいた。
 それで責任感みたいなものもあったのだろうか、1人でいる朱主ちゃんと友達になろうとしたのは。だけど……仄、だったらそれは大間違いだ。そんなものは独善以外の何物でもない。しかし仄の言いたかった事はそういうことじゃなかった。
「わたしは疎かにしてた……周りのことを。そして友達のことを」
「……なるほど」薄々話が見えてきた。
「あとはもうよくある話の通りだよ。わたしの行動をみかねた友人達が朱主さんの事を敵視し始めたの……元々、朱主さんは好かれていなかった。あんな性格だからね……もっとも、あんな性格だからわたしは朱主さんが好きなんだけど」
 ふと戒川仔鳥ちゃんの顔が浮かんだ。なるほど、血は争えないわけだ。変わり者好き。
「友人達のそんな様子にもわたしは気が付かなかった……浮かれていた。そして気付いた時には遅かった……もうわたしにはどうすることもできなかった」
「そうか……」きっとあの朱主ちゃんの事だ。そんなこと全然気にしてないとか言いながら心では深く傷ついたんだ。それでも彼女は1人きりで戦い続けたのだろう……。
「それに、お兄ちゃん」妹は願いを込めるような瞳で俺を見つめる。
「朱主さんは家庭にも複雑な事情があって、彼女は本当の意味でひとりぼっちだったの……今、彼女が1人でマンションに暮らしているのもそういった部分があると思うの」
「複雑な事情……」名字が碧木から紅坂に変わったことからある程度は予想できるが。
 それにしても、と思う。学校にも、家にも安らぐ場所がない朱主ちゃん。一体彼女はどういう気持ちで毎日を過ごしていたのだろうか。
「だからわたしは、ただ自分の贖罪の意味で彼女を救いたかっただけなのかもしれない……結局は自分の為。だからわたしには到底朱主さんを救う事なんてできない。ううん。そもそもそんなわたしだから、朱主さんとは仲良くなれなかったのかも……」
 罪を告白する事で自分を正当化したいから……? 違う。
「それは……違う。朱主ちゃんだってずっと寂しかったんだ。でもただ人と仲良くする事が恐いだけなんだ。恥ずかしがり屋なだけなんだ」
 俺は弁解する。なんで? 誰のために? それは……彼女達のために。だって今なら間に合う。だって朱主ちゃんは――普通の女の子なんだから。
「……そうかもしれない。でも今のわたしにできるのはここまでなんだよ、お兄ちゃん。だから……わたしそろそろ帰ることにしたよ」
「……え? 帰るって?」
「実家に帰るに決まってるじゃない。朱主さんのことは、お兄ちゃんに託したからね」
「な……託すって、俺には……」
 無理だったじゃないか。俺の無力は幾度となく証明されているじゃないか。それに朱主ちゃんはどこかへ飛び出していったじゃないか。
「ううん。わたし分かったの。お兄ちゃんならきっと朱主さんを救ってくれるって」
「なんで?」
「なんとなく。だって……お兄ちゃんはいざという時はやる、わたしのヒーローだもん。それはきっと今も変わってないよ。だから、わたしの気持ちをお兄ちゃんに託す」
「でも、そんな……俺にそんな事ができるのか……」
「大丈夫だよ、お兄ちゃん。だってさ、これは物語なんでしょう? だったら最後はハッピーエンドで終わらなきゃ駄目でしょう。こんな物語だったらなおさら、ね」
 そうか……そうだよな。これは物語なんだよな……なぁ、朱主ちゃん。君が言ってたんだぜ。俺は君に散々振り回されて今の状況に陥ったんだ。だったら最後まで責任はとってもらわないとな。例えこれが俺の意思じゃなくても……俺の意思だって言ってやる。だって俺はとびっきりの嘘吐きなんだからな。
「わかったよ、そのハッピーエンドまで……俺が到達してやるよ!」
 そしてこの酷く不確かで曖昧模糊として、おぼろげだった物語も……ようやく終わりが見えたのかもしれない。
「それとお兄ちゃん」突然、口調を変える仄。
「……なんだ?」どや顔のまま妹に顔を向ける。
「小説家になれなかったらお兄ちゃんも実家に帰るんだからねっ」
「お前さ〜……どうしていつも俺をつれ帰そうとするんだよ……」
 せっかく盛り上がりそうな展開だったのに萎えちゃったじゃん。俺のどや顔が一気に間抜けに見えるじゃん。ムード壊れるなぁ。
「……だ、だって、お兄ちゃん……お兄ちゃんだけ全部投げ出して逃げるなんてずるいよ……わたし一人だけあんなところに残して行っちゃうんだもん。わ、わたしだってさみしかったんだもん……」
 視線を逸らしてもじもじしている仄。冗談にしては声色が弱々しい。でも考えてみればそうだよな。俺がいなくなったって事はつまり、今は仄が俺の分まで全部背負っているって事なんだ。そう考えると俺は罪悪感を感じて……でも仄、俺はこっちで暮らし始めて分かってきたんだぜ……どこに行ったって決して逃げることなんてできないってこと。目を背けたくても、ずっと向き合い続けなくちゃいけないってことに。
「はぁ……ったく。分かったよ、考えとくよ。あと……せっかくここまで来たのにろくに構ってやれなくて悪かったな」
 結局、久しぶりに会った妹に対して何もしてやれなかった事を今更悔いてみる。挙げ句には『ゲキチュー』の助言や手伝いまでさせてしまい、逆に色々面倒見てもらった。
「いいよ。勝手に来たのはわたしなんだし……それに久々にお兄ちゃんに会えただけでも嬉しかったんだからっ……それより、お兄ちゃん約束だからねっ。朱主さんのことと、家に帰ってくるってことっ」
 そうして仄は故郷へと帰っていった。最後まで騒々しい妹だった。いや、でも俺は実家には決して帰らないぞ。



 ]U


 駅で仄を見送った後、俺は途方に暮れていた。
 妹と約束を交わしたもの、実際のとこ俺はどうすればいいか分からない。いや、俺はどうしたいとか、そういうのはないんだ。だから俺はこんなにもあやふやなんだ。
 ああ、これも――その場しのぎの嘘だったんだな。全てがその場限りで適当で……。
 だから俺はそのままアパートへと帰って寝た。
 そう、きっとそういうことなんだろう……俺は、何もできない。

 目を覚ました時、部屋は真っ暗だった。随分と静かで、なんだか寂しく感じた。俺はどれくらい寝ていたんだろうか。
 きっと空腹の為に起きたんだろう、腹が鳴った。それでも部屋は静かで広くて。
 住み慣れた部屋なのに……なんだかこれ以上この空間にいるのが怖くなった俺は外に出た。どうやら今は夜中らしい。人の姿はなかった。
 近所にある行きつけのファミレスへと向かうが途中で財布を忘れた事に気付いた。
 あぁ……でもいいや。そもそも食欲なんてなかったんだから。
 そのままどこか遠くへと歩き続けた。目的なんてない。ただ遠くに。
 俺が眠っている間に世界がまるで変貌してしまったかのように……異質さを感じる。
 夏なのに寒気を感じる。この世界は季節感さえ分からない。今は本当に深夜なのか? 時間の概念すら無い世界のようで……もしかしたらこの世界には俺一人だけしか存在していないかという錯覚……。ひょっとして元々自分なんて存在、世界のどこにもいなかったのかもしれない。だったら俺は。だから俺は。それなら……頷けるな。
 どれくらい歩いたのだろう、いつの間にかどこかの小さな公園に俺はいた。
 そして――深夜の公園で、ひとりブランコに揺られている戒川仔鳥ちゃんを見た。
「あ――こ……戒川さん」
 俺はしかし仔鳥ちゃんの存在に別段驚くことはなかった。
「み、路久佐くん……ど、どうしてこんな時間に……っていうかなんでここに」
 だって……それもきっと引力なのだから。世界の、ひいては物語の――。
「いやぁ……ちょっと散歩していたんだけど。それにしても奇遇だなぁ、こんなところで戒川さんに会えるだなんて」
 ――引力なんてこと言えるわけもなく、常套句でごまかす。
「そ、そうだねっ。それにしても最近わたし達よく会うよね〜。こりゃあもう何かあるとしか思えないよ〜わたしは」
 ああ、そうだ。こうなればきっとあるのだろう。仔鳥ちゃんにも。
 俺は先日深夜のコンビニで会った宮下と東雲さんの言葉を思い出していた。
 ……泣いていた――か。
「路久佐くん?」
 仔鳥ちゃんの声で正気に戻る。どうやらまた意識が飛んでいたようだ。
「ああ、ごめん。戒川さん。それで、えーと……なんだっけ」
「あのぉ……わたし、路久佐くんの彼女になりたいな……なんて」
「えっ?」
 いきなりだった。突然の告白に頭が真っ白になる。っていうかどうして。
 俺は口をぱくぱく動かすが何も言えない。けれど、しばらくの沈黙の後、仔鳥ちゃんが俺より先に話し出した。
「路久佐くんはいつも一人で色々なものを背負ってる……わたしには分かるの」
「背負ってる……?」
 そんな覚えはない。むしろその逆じゃないか。背負うべきもの全部捨てて逃げている。
「あの時もそうだった。バイト先で路久佐くんはわたしの為に――」
「だから、それはもう気にしなくていいって言ったじゃないか」
「ご……ごめんなさい。で、でもわたしは路久佐くんのためになりたくてっ」
「ために……なりたくて?」なんの?
「朱主ちゃんのこと」
「……」
 また……朱主ちゃんなのか。
「わたしには詳しい事はよく分かんないけど……路久佐くんがどこか遠いとこに行ってしまいそうな気がするの……なんだかとても大きなものを背負っているというか、むしろ進んで堕ちていってるような……そんな気がする」
「堕ちていってる……? どういう事か分からないけどそんなつもりは……」
 嘘を吐け。全部分かっているじゃないか。
「だって……路久佐くんを見てたら分かるのっ。このままじゃ取り返しがつかなくなるって……周防くんのように」
「周防と同じに……」
 東雲さんが言ってた通り、やっぱり君は全部分かってたんだね、仔鳥ちゃん。でも……それは違う。逆だよ。周防が俺と同じになってしまったんだよ。
「上手く説明はできないんだけどね……わたし、なんとなく思うの。路久佐くんは朱主ちゃんのために頑張ってるんだと思う。そのために色々なものを犠牲にしているって――そう思う……だから、このままじゃ路久佐くん」
「そう思うって、心配してくれるのはいいけど、それは思い込みだよ。固く考えすぎ。俺は犠牲にしてるとかそんなつもりはないよ。何も頑張っているつもりなんてないし。俺は……俺は周防みたいにはならない」
「……ううん、周防くんとは違う。周防くんと朱主ちゃんの関係と、路久佐くんと朱主ちゃんの関係は全然違う。むしろ周防くんの方が健全なのかも……まだ戻れる。でも路久佐くんの場合、朱主ちゃんと相性がいいから駄目なんだと思うの。こんな事言ったら悪いけれど、キミたちは惹かれ合っちゃいけない人間同士なんだって……思う」
 俺と朱主ちゃんは出会ってはならない関係? だったら俺達はなんて……。
「惹かれ合っちゃっいけない……じゃあ、俺はどうすればいいんだ」
 なんだかひどく息苦しくなってきた。頭がくらくらする。俺は今にも意識が途切れそうになりながらも、仔鳥ちゃんの顔から目を逸らせられない。普段の俺は人と目を極力合わせないようにしてるっていうのに。
 滲んだ視界の中、仔鳥ちゃんがこちらへにじり寄る。俺の目の前にやってきた。
 そして仔鳥ちゃんは何を思ったのか――その小さな体を俺の胸へと預けてきた。
「えっ……?」
 正直これには驚いた。しかし、意外に俺は冷静だった。なんて胡散臭い……こんなにも酷く嘘っぽい事態に俺は、自分を取り巻く状況を全て客観的に捉えていたんだろうと思う。いつものように。だからこれも嘘なんだろうなって。
「わっ、わたしが路久佐くんを助けてあげるっ。路久佐くんが迷わないようにっ、わ、わたしが側にいて支えてあげるっ……だ、だから……わたしを」
 でもその言葉は直接俺に届くことはない。物語というフィルターを通してでしか伝わらない。これは映画、アニメ、ドラマ、漫画。それは虚構。偽物。偽り。嘘。
 俺の密かな想い人である仔鳥ちゃん。その仔鳥ちゃんは今、俺の胸に小柄な体を寄せている。俺はどうすれはいいのか分からない、リアクションが返せない。ただ立ち尽くしていた。だって観客が行動を要求されるなんて話は聞いていない。
 その間にも仔鳥ちゃんの、小柄な体の割に大きな胸が密着してくる。柔らかい。でも。
「それって……朱主ちゃんの代わりにってこと?」
 俺は一言、ようやく声が出た。その声は震えていた。そして仔鳥ちゃんの体も震えていた。密着しているからそれがよく伝わってくる。
 仔鳥ちゃんが側にいてくれる。でも、だからその代わりに朱主ちゃんの事はもう諦めろってこと……なるほど。ほんっとベタな話じゃないか。ほんとステレオタイプだ。
「悪いけど俺、もうちょっと今のままでいようと思う……なんかここで投げ出すのも気持ち悪いし、なにより結構いまの状況ってそんなに悪くないんだよね、なんだかんだ言って……戒川さんが思っているよりはさ……それになんだかこんなのは違うっていうか、よく分からないけどそんな気がするから」
 それにこの場合の答えはこれがデフォルトなのだ。内容はともかく結果はこうあるべきなんだ。俺は……結局物語に逆らえないから。
 いや、もしかすると俺はそう言うことで物語の責任にしたいだけなのか。これは俺の意思なのか? ずっと責任逃れをしてきただけなのか?
「そう……か。うん、だったらいいんだ……ごめんね、いきなり変なこと言って」
 けれどもそう言う仔鳥ちゃんはまだ俺から離れようとせず、あろうことか両腕を俺の背中に回す。抱きついた。しかも力強く。それでも俺はどこか現実離れした光景を、まるで別の場所から見ているような感覚で――やっぱり他人事にしか感じられない。
 駄目だ。俺にはこれ以上は進めない。物語の向こう側に行ってしまう。また、壊れる。
 ……いや、駄目だ。それだけは駄目だ。俺はもう壊れないと決めたから。
「……それにさ、やっぱり恋人とかってこういう理由でなったりするものじゃないって思うよ」俺は蚊の鳴くような声を出す。それが精一杯の言葉。
 きっと、仔鳥ちゃんはまだあの事を気にしているんだ。だから、その後ろめたさが彼女をそうさせているんだ。それだけさ。どうかしていたんだよ、単なる気の迷いさ。
「後ろに何かもやもやしたものとか、そういう消極的なのは全部なしにしてさ、それで付き合えるなら……俺も凄く嬉しいかなって。だから……今はまだ駄目だよ」
 だからもう、やめよう。こんなこと。頼むよ、仔鳥ちゃん。
「……うん。わかった」
 仔鳥ちゃんの腕にいっそう力が入るのを感じた。分かってないじゃないか。仔鳥ちゃんの震えがより大きくなる。仔鳥ちゃんの悲しみが伝わってきそうで……でも俺にはそれが何なのか分からない。だけど、俺がやるべき事がなんなのかは伝わった。
「だから……うん、俺も決心したよ。俺も俺が抱えた問題を解決しにいく」
「それは……朱主ちゃんの……ところにいくの?」
 ようやく力が緩んだ。仔鳥ちゃんは上目遣いで俺を見つめていた。涙が溢れていた。
「……ちょちょいと問題を片付けてすっきりさせてくるよ、だから――」
「わたし、朱主ちゃんの事……好きになれない」
 それは誰にも優しい仔鳥ちゃんの意外な言葉だった。同時に俺の体に回されていた腕がようやく解かれる。そして――俺は仔鳥ちゃんに対する幻想から解き放たれた。
「……戒川さんらしくない台詞だね」
 けれど、俺はこの言葉を聞いてなんだか嬉しくなった。自分でも分からないけど。
 俺の体から離れ2、3歩後退した仔鳥ちゃん。そこから見えた仔鳥ちゃんの目は赤かったけど、涙はなかった。
「わたしだって好き嫌い位ある、現実の人間なんだから……でもね、路久佐くんを堕としてしまうのは朱主ちゃんだけど、朱主ちゃんを救えるのは路久佐くんしかいないと思うんだ……だから、路久佐くん、いいよ……朱主ちゃんを助けに行ってあげて」
「こ……戒川さん」
「でもね……路久佐くん。わたしは諦めないよっ。だからわたしの事は気にせず……今は朱主ちゃんのとこに行って、思いっきりやっちゃってきてっ! でもね、その代わりにまず路久佐くんは、これからはわたしの事を仔鳥って呼ぶんだよっ」
 そう、だってこれも俺の大好きな仔鳥ちゃんなんだ。
「あいよ。きっと……うまくいくさ、仔鳥ちゃん」
 そんな気がする。終わりはすぐそこだ。
「そして全部終わったら今度こそ……」
「ん?」
「ううん、何でもない……朱主ちゃんのこと頼みましたからねっ公人くんっ」
 仔鳥ちゃんは笑顔で手を振った。
 うん、大丈夫。うまくいく。
 物語のラストを飾るために俺は走った。
 いつの間にか――もうすぐ夜が明けようとしていた。

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 第5章 無題(仮)

 1


 総合創作研究部部室にて――。
 第4章までが書かれた小説を読んで、さすがの部員達も全員が度肝を抜かれて混乱状態に陥っていた。
「まさか……本当にこの世界が小説の中の世界なのか……信じられない……」
 路久佐は放心しながら誰にともなく語りかけた。
「上の世界って何よ……。なんでそっちの方が現実になってるのよ。そっちが小説の世界じゃない。ねぇ?」
 朱主は憤りを隠そうとせず、小説に書かれた内容に腹を立てている。
「そんな、ありえない。実名とか使って変にリアル感があるだけで……きっと誰かが何らかの目的で書いているだけだっ」
 在兎はこんな現実離れした話を信じることができなかった。


 ――それは仔鳥が死んでから5日後のことだった。
 第3章に書かれていた通り、戒川仔鳥は何者かによって殺された。在兎達が発見した後、警察が来て彼女達は事情徴収を受けたが、数日経った今も事件が解決する兆しはなかった。
 連日マスコミや警察関連の人間がやって来て色々と尋ねられて、部員達はみな部活に来ることができなかった。
 そして今日、たまたま部員達の時間が空いたということで放課後集まる事になったのだが、一番後にやって来た路久佐がやたらと暗い顔をしていた。
 どうも路久佐は何かを隠しているような素振りだったので、部員達が路久佐を追求したところ……出てきたのだ。
 路久佐公人が新たな小説を提示したのだ――。
 路久佐によれば今朝、通りがけに部室前に備え付けられた投函箱を調べたところ、小説が入っていたのだと言う。
 怖かったのでみんなが集まる放課後まで黙っていたと言う。そしてなかなか言い出せなかったのだと。


「それにしてもまさか師匠が全ての黒幕だったなんて……」
 美奈川はさすがにショックを隠せないようだ。
「いや、だから無件。それはこの作品の中での話だろ? 変に現実と混ざっているから分かりにくいが、第2章と第4章こそが架空の話なんだって。明らかにこっち側が虚構の世界みたいに書かれているのがその証拠だよ。公主人は読者にそう思い込ませたいんだよ。この小説は現実の世界にいる誰かが書いたんだ。というか普通に考えればそれ以外ありえない!」
 短めの髪を振って強く否定する在兎。彼女は自分が置かれている世界が偽物であるわけがないと確信していた。根拠はないが常識というものさしにおいての思考だ。
「でもそうだとしたら、この前美奈川先輩が見つけた原稿、あれ警察に黙ったまんまなんでしょう? もし作者である公主人がその事を誰かに喋ったら俺達が危ないんじゃ……」
 路久佐は声を震わせながら部員達を見回した。
「それならば路久佐。公主人が一番怪しい人物とも言えるじゃないか。だったら無闇にその事は言えない。そもそも戒川先輩を殺した犯人こそが公主人なのじゃないか?」
 宮下の静かな告発。謎の小説の作者こそが仔鳥を殺した犯人。それはこの場にいる全員が一度は考えたことだ。
「でも、宮下。たとえその作者が犯人だとしても……いくらなんでも知りすぎてるよ! まるで実際に現場にいるかのような正確な描写だ! だけど、もし現場にいたと仮定したとしても、第3章は状況的にあり得ない。あれは時間的にはほとんど同時といってもおかしくなかったっ! お前にかかってきた部長からの電話がそれを証明してる! 公主人が同時に2ヶ所の現場に現れるなんてのは不可能だっ!」
 路久佐は感情的に反論する。宮下はそれを黙って聞いていた。
 やがて美奈川がその場を静めるように朱主に尋ねた。
「そうですねぇ、参考までに『秘密の部屋』と紅坂女史の自宅の距離がどの位離れているか教えてくれませんか?」
「え……と、そうですね。私は一度しか行った事がないからよく分からないんですけど、ここからだと多分……30分以上はかかりますね。電車を使っての時間なんですけど」朱主は思い出すようにぽつりぽつりと語る。
「そうですかぁ……やはり無理がありますねぇ……いや、たとえ時間的に大丈夫でも、同時に違う場所に存在するなんてできませんもんね……」美奈川は大げさにため息を吐いて肩を落とした。
 その様子を見ていた路久佐は、さらに駄目押しするように続ける。
「いえ、美奈川先輩。さらに言えますよ。たとえ同じ場所に存在できても、ですよ。それでも未来を小説に書くことなんて普通できっこありません。それこそ何らかの超能力でもない限り」
「まるで公人の書くラノベね。能力ものの」朱主は隣で失笑した。
「うるせぇ。とにかくですっ。その小説はこの現実世界においては、絶対に書くことはできないんですよ。美奈川先輩」拗ねるような路久佐の声。
「でもこちらの世界が小説の中なのだとしたらそれは可能になるって事なのですねぇ。うん、それなら未来は予知できます……いえ、予知というよりただ単に小説を推敲していけばいいだけですものねぇ。何せ作者は小説の世界においての神なんですから」
 美奈川は唸るように口をとがらせて目を閉じた。
「なら一体作者の目的はなんなんだ。や、というよりその場合作者は……公主人の正体は仔鳥ということになるのか?」
 在兎は美奈川を睨みつける。在兎にはこういった非現実的な話はどうも苦手だった。というか空想が苦手だった。彼女はどちらかと言えば編集者向きなのだ。
「それは第4章で師匠本人の口から出てますように、つまりアカシックレコードでぇす」
 長い手を振りかざして、自慢するように美奈川は言った。
「アカシックレコードって過去やら未来やら、世界の出来事の全てが刻まれてる空想上のものだろ?」訝しむように美奈川を見る在兎。
「ええ。第4章での師匠の理論によりますと……不可能に思える事象でも、外側からなら簡単に引き起こす事ができると言うことでしょうね。小説だけでなく、映画やアニメにしても同じです。要は演出なんです。作品を台無しにせずどれだけ魅せられるか。つまり作風。彼女がエンターテイナーたるゆえんでぇす」
「う〜ん、お前の話も難しいが……作品の世界観を壊さなければ何をやってもいい。たとえば、この現実に対しても作者がいるのなら、そいつの意思によって何が引き起こされるのか分からないってことだな……だって作者は、世界という内側に対しての神という外側なのだから……」
 在兎は苦手な分野であっても、それを理解する柔軟性はある。
 路久佐は美奈川と在兎のやりとりを聞いている内に、仔鳥の事をふと思い出して言葉が自然と出た。
「……たしかに戒川先輩はエンターテイナーでした。彼女は小説も漫画も書きませんでしたが、部員の中で一番創作活動してたように思えます」
 路久佐は遠い目をして窓の外を見つめた。
「じゃあ公人……仔鳥さんは誰かに殺されたんじゃなくて、やっぱり自殺だったって言うの……?」
 朱主は路久佐をいたわるような、優しい声で語りかけた。
「さぁ……それとこれとは話が別だから……こっちの世界の戒川先輩は内側なんだから、外側の戒川先輩にとっては登場人物の1人でしかないわけで……どうなんだろ」
 朱主の問いに答えられない路久佐は、助けを求めるように美奈川に視線を送る。
「う〜ん。そうすると今度は推理小説の思考が必要ですねぇ。いくら一連の出来事が煩雑だからといって、それらをごっちゃにしちゃ駄目です。物語のテーマをその都度、切り替えないといけませんよ。ですが、あいにく私は推理は苦手でしてね〜」お手上げのポーズをする美奈川。
「では、もうこの世界は小説の中であるという事を認めるのですね?」
 しばらく黙って聞いていた宮下が静かに口を開いた。
「いや……あたしはまだ認めた訳じゃ……」
 在兎が弱々しく否定したものの、他の部員は何も言えなかった。
 路久佐はいたたまれなくなって、何気なく視線を窓の向こうに向ける。その時、ふと路久佐は何かこのままじゃいけないような気がした。グラウンドに蝶が飛んでいるのを見た。路久佐は唐突に立ち上がった。
 それは――直感だった。
「そうだ……駄目だ。この展開じゃあ駄目だ」
 無意識に路久佐の口から言葉が溢れ出た。その目は虚ろで何も映していない。
「な、何が駄目なのだ路久佐?」
 宮下がただならぬ路久佐の様子を察して言葉を続けさせる。
「そ、それが2章、4章の……偶数章の狙いなんだ!」声を荒げる路久佐。
「それってなんだ? 狙いって何だ?」
 宮下は路久佐の言っている事が分からないようだ。他の部員も理解できずにいた。
 路久佐は頭によぎった閃きを逃さないように、遠い目をしながら言葉を紡いでいく。
「2章・4章の側の人間達はこちら側、1章・3章の世界を自ら虚構であると認めさせたいのだとしたら? 小説内で俺達自身が偽物だと認めてしまえば……たとえ実際には2章・4章が偽物だとしても、読者から見れば1・3章こそが偽物だろ?」
「ふむ。それも一理あるな……といっても、まだ第2章と第4章が同じ世界の話……つまり本当の意味での現実世界だとは限らないだろ。2章も実は4章の仔鳥さんが書いた作品でしかないのかもしれないし」宮下は目を細めて頷く。
「いや、でも4章『2』内のSSK部員達は2章とは同一人物のように書かれていたじゃないか?」と、路久佐。
「だが、オレ達にはそれを確かめる術はなかろう? それも作者の作戦なのかもしれないではないか。それとも、4章内『2』のSSK部員もやはり虚構で、本当の現実世界は4章内『1』だけなのかもしれんな……まぁ、『1』が本当の現実なのかは分からないが、作者はそう思わせたいのだろうな」と、宮下。
 そして路久佐は宮下の説明を聞いて、成程と得心した。
 しかし、それを見て黙っていられなかったのが在兎だった。
「ちょ……ちょっと待ってくれよ、お前ら。それってつまり、たとえあたし達が現実だったしても、この小説を書いたのは4章の仔鳥ってことになるのか? だったら虚構の世界にいる仔鳥が書いた小説が現実世界に現れたっていうのかよっ!」
 あまりに非現実的な考えを真剣に議論しているので、在兎もつい声を荒げた。
「そ、それは……」
 路久佐と宮下は言葉が続かない。2人にもそんな非現実的な事は考えられなかった。この状況が異常すぎるのだ。もう何でも信じられそうな、そんな土壌ができあがっていた。作者によってこの世界は、そう作風づけされてしまったのだ。
 だから、この男が魔界に足を踏み入れてもおかしくなかった。
「ええ〜、そうなんでぇ〜す! この場合はオカルト的な点も視野に入れて考えるべきなのですよぉ〜!」
 言いよどんだ路久佐と宮下を庇うように、魑魅魍魎の世界に魅入られた男、美奈川が言葉を繋げた。
「空想の世界ならなんでもアリなんですよ〜。まぁジャンルがリアル路線じゃ限界がありますけど……僕や路久佐さん、宮下さん辺りが好んで書く能力ものなどの作品世界なら十分に考えられる事ですよ!」
「な、なに言ってるんだ。無件っ! ここは現実なんだぞっ! 空想世界の行為が現実に干渉するわけないだろ!」
 在兎が、彼岸に片足を踏み入れた同級生の暴走を止めようと試みる。
「在兎女史。だからそれが、その空想世界での公主人の能力なんですよ……。未来の予知、いえ、現実世界へ介入することができる能力。これは向こうの世界の人間が別世界の扉を開けようと企んでいる、あっち側での物語なんですよ。そもそも僕達の物語じゃなかったのです。僕達はただのおまけ。アナザーストーリーです。むしろ書かれる必要のない物語なんですよ」
 関係のない物語。これは別の世界の物語によって発生した二次的な事件。あってもなくてもいい物語。美奈川は世界も、小説さえも否定した。
「わ、分からないっ。無件。それは何を言ってるんだ? じゃああたし達は一連の物語に何の関係もないって言うのか? あたし達は向こうにとってはただの被害者ってことなのか?」
 目に見える現実以外信じられない在兎にはそんな事は理解できない。
「そうですねぇ、今頃向こうの世界ではこちらの世界への扉を巡った激しいバトルが繰り広げられている頃かもしれません。きっと少年漫画とかで連載されてる漫画なんじゃないですかねぇ〜? 僕達が今まで体験した怪現象はその残滓にしかすぎないのですよ。ただのスピンオフです〜」
 美奈川の荒唐無稽な仮説にその場の空気は一気に凍り付いた。話があちこちに移り変わる。現実世界と空想世界が激しく入れ替わる。今、自分達は果たしてどちら側にいるのだろうか。世界を越えて度をしている。物語を越えて作品を行き来している。
 次第に頭が痛くなってきた路久佐は何でもいいから言葉を発しようと思った。このままでは自分が消えてしまいそうだと思ったから。仔鳥のように――。だが、仔鳥と同じところに行けるならそれでも。
「……とにかく俺達はこの世界を否定しちゃいけないって事ですよ。どんなに説得力があっても、俺達はこの世界が現実だって一番理解できているはずなんだから」
 路久佐は沈んだ部員達を励ますように言うと、ふいと窓の外に視線を向けた。これから梅雨の時期に向かう空は、暖かい青色に染められていた。
「あ、そうだ。すっかり聞くのを忘れてましたけど……第4章で小岩井仮夢衣さんって出てましたよね? 誰なんですか、その人。どうやらこの部にいた先輩っぽいですけれど……」
 空気が多少弛緩したところで朱主は突然思い出して、跳ねるように顔を上げて在兎の顔を見た。
「ああ、第4章にも書かれているように、小岩井さんは去年までこの高校に在学していて、SSK部の部長でもあったんだ」
 現在の部長である、兎奈々偽在兎が朱主の疑問に答える。
「それじゃあ、いま2年の在兎さんと美奈川さんと仔鳥さんは去年まで一緒に活動してたんですね」と、朱主。
「そうだ。そして今年高校卒業と同時に出版業界に就職したんだ。まだ入社して間もないが、小岩井さんの活躍は耳に届いているよ」懐かしむような目を中空に向ける在兎。
「ああ……以前から聞いていた仔鳥さんが出版するかもって話、小岩井さんが担当してたんですね」ほうほう、と朱主は頷く。
「うん。だけど仔鳥の真の狙いはもっと別のところにあったなんてな……」
 在兎が悔しそうに歯を食いしばりそれきり黙って、ふと路久佐の方を見た。路久佐はなぜか思いを馳せるような目で窓から遠くを見つめ続けている。その目は悲しそうな、切なそうな、そんな瞳で。
そんな様子を見て取った朱主は、空気を和ませようと話題を変えた。
「そういえば……今回もまた未来の小説が来てないようですが……。次は第5章になるんでしょうか。今回はどんな内容なんでしょうかね……」
 朱主の言葉を聞いた美奈川は、待っていたとばかりに身を乗り出した。
「そうですね〜。前回は1つの小説を2つに分けて、互いに相手側の作品のみを与えるという、面白い趣向を凝らしてくれましたが……おそらく今回それはないでしょうね〜」
「ないってどういう事ですか? 美奈川さん」と、朱主。
「だって今までの流れを見れば分かるじゃありませんかぁ。この公主人って作者は、随分と奇抜でサプライズな展開が好きなようです。もっともぉ作品をメタなものにしている点で、斬新好きなのが十分に分かります。だから同じ手は使わないでしょう〜」
「それじゃあ次はどんな事が起こるか、それに小説がどのような形で届けられるのかは分からないって事ですよね……」朱主は不安な視線をせわしなく動かす。
「いいえ。次の小説がどのようにして届けられるかは分かりませんが、これからどのような展開になっていくのかは予想できまぁす」あっさりと答える美奈川。
「な、なんだってっ!」美奈川の意外な台詞に、思わず在兎が声を上げた。
「ええ。いくら無茶苦茶なストーリーでも、一応これは小説なんですよ? だったらいつまでも無茶苦茶のままにしては物語として成立しないですよ。起承転結は必要なのでぇす」尚も無茶苦茶な仮説を続ける美奈川。
「で、でもこの物語がどんな内容なのか全然分からないじゃないか……」
 在兎はやはり、美奈川の言う事のほとんどが理解できない。
「いいえ〜、分かりますよ〜。だって第3章でとうとう起こったのですから……殺人事件が」
「あっ、そうか……これは推理小説なのか……。確かに小説の定番ジャンルだけど……」と、在兎は唸る。
「ウフフ。そうなんですよ。在兎女史以外はあまり得意な分野とは言えませんが、これはれっきとした推理小説です。そして……推理小説の定番と言ったらやはり……」
 美奈川はここでわざと言葉を切って部員達の顔を見渡す。皆、美奈川が何を言いたいのかが分かったのか、青ざめた顔で美奈川の目を見つめる。
「――連続殺人事件です」
 辺りはまたも沈んだ空気に満ちあふれた。



 2


 ――だとしたら、また部員の中から犠牲者が出る事になるのか?
 それは、あれから数日後のことだった。
 放課後、今日はSSK部の部員達が集まらないようなので、路久佐は投函箱の中身をチェックして帰宅しようと下駄箱で靴を履き替えていた時だ。
「き、公人〜っ! ちょっと今は外に出ない方がいいって〜!」
 校舎の玄関から朱主がやって来た。
「どうしたんだ? 何かあったのか!?」
 ここ一連の出来事でぴりぴりしていた路久佐は、緊張して体が硬直してしまった。
「違う違うっ。けれどね、またマスコミの連中が来てるのよ……ほら、見て」
 朱主は校門の方を指さす。路久佐は下駄箱に身を隠しながら様子を窺った。
「本当だ……全く、いつもいつもうんざりするよ……」
 仔鳥が殺されてから2週間近く経過したが、未だにマスコミの勢いが衰えることがなかった。
「だよね。待ち伏せされてていきなり飛び出して来たものだから、私もびっくりして引き返してきちゃった」
「う〜ん、それじゃあどうやって帰ろうか……。正門からは出られないし……普通に裏門から帰ればいいだけか」
「でしょうね……それじゃ行きましょ」
 というわけで、路久佐と朱主は一緒に下校することになったのだが。
「げえっ、裏門にもマスコミいるよ……どうしよ公人」
 正門に比べて人数は少ないが、明らかに路久佐達を張っている連中だった。
「うう〜ん……よし、こうなったら強行突破だ!」
「ええっ! 大丈夫なの公人っ?」
 朱主は目を丸くして路久佐の方を見る。
「大丈夫だって。人数だって少ないし、全速力で走ればなんとかまけるよ」
「え〜……だって公人走るの遅いじゃん」
「大丈夫だって。不意を突いて一気に強行突破すればいけるよ」
 朱主は頬を膨らませて文句を言うが、しかし他に道はないようだ。
「分かった。じゃあせーの、で行くわよ」
「ああ、じゃあ行くぞ……せーのっ!」


 路久佐は今、アパートの自室にて公主人の小説をめぐる一連の出来事を振り返って考え込んでいた。
「これは推理可能なんだろうか?」
 ベッドの上に寝転びながらぽつりと、近くでTVゲームに熱中している朱主に語りかけた。
「うん? ああ、推理ね……。そうだね、美奈川さんはこれが推理小説で、推理小説なら殺人は連続なんだって言ってたけど……だったら早く解決しないと大変な事になるからね……」
 不機嫌な声で朱主はTV画面から目を逸らすことなく言った。
「そんな人事みたいに……」
 だが、朱主が怒っているのも仕方ない。
 路久佐と朱主はマスコミから逃げ切ることができなかったのだ。途中までは上手く逃げていたのだが、路久佐がつまづき、その拍子に朱主にぶつかって倒れてしまったのだ。そしてマスコミ連中の前に朱主のパンツがさらけだされた。
 勿論、その数瞬後に路久佐は軽く処刑されたが。
 結局、マスコミの質問攻めを受けた2人はわずかな隙を見計らって公人のアパートに飛び込んだのだ。
 路久佐は朱主によって与えられた傷をさすりながら事件について語る。マスコミに質問責めも嫌な事ばかりではなかった。わずかなりにも有益な情報がもたらされた。
「推理小説っていうなら、殺される危険が一番高いのは俺達SSK部の人間なんだぞ。だったら次の事件が起きるまでにどうにかしないと」
 しかし、もちろんマスコミの持っている情報はあくまで殺人事件についてであり、路久佐達を取り巻くもっと大きなモノについては一切触れなかった。
「だってそれは警察の仕事でしょ? 実際に私達が推理なんてできるわけないじゃん。証拠もないんだし」
 小説とは違い、現実で素人が殺人事件を解決するなんてことはありえない。
「でも俺達には公主人の小説がある。きっとあの小説を読むことで犯人の正体は分かるんだよ」
 それが普通の殺人事件とは違っている部分。非現実。
「っていうことは、作者はもう犯人が分かっているって事なの……? いや、それともやっぱり作者が犯人なのっ?」
「そ、それは分からない……。というか俺にはもう現実と空想の境界線がどこにあるのか分からなくなってきたよ……。一連の事件はどこかに超常的な要素を含めなければいけないんだ。じゃなければ解決なんてできやしない。でも、その妥協点というか線引きが分からない……。非現実をぎりぎり許容できる範囲が」
「ふ〜……現実と空想ね〜……あ、そうだ。公人」
 朱主は表情をコロリと変えて路久佐に向き直った。朱主は表情がよく変わる少女なのだ。
「ん、なんだい? 紅坂」
「そういや前に言ってたでしょ。誰かに見られてるって」
「ああ……確かに言ってったっけ……というか小説にも書いてあったっけ」
 何故いきなりそんな話を、と思いながら路久佐は答えた。
「でさ……今もその感覚ってあるの?」
 朱主は路久佐の心を覗き込むようにじっと瞳を見つめてきた。
「ああ……うん。でもこの小説の存在を知ってからは大して気にしなくなったよ。視線の正体は作者だとしたら納得もできるし。それに視線なんてこんな気味悪い事件なんかに比べれば大した事ないしね」
 路久佐は朱主から目を逸らして、自嘲的に口を歪ませ笑った。
「でも、公人……それだったらちょっとおかしいのよ……」
 朱主は表情を曇らせて心配そうな声で言った。
「ん? おかしいって何が?」路久佐の声にも影がさす。
「だって、小説が視線の正体なら、公人以外のSSK部員にもその視線を感じてもいいんじゃない? というより感じないと駄目よ。でも私にはそんなもの感じない」
 公主人による小説にはSSK部の全員が総出演している。だとすれば路久佐だけが視線を感じるのはおかしい。部員全員が監視されているのだから。
「でも、それはただ単に紅坂が鈍いだけじゃああああがががあああ腕がああああ!」
 とっさに朱主が、ベッドの上にいる路久佐の腕を掴んで関節技を決めた。もの凄くスピーディーで滑らかな動きである。
「私がなんだって〜?」
 悪魔的な微笑を浮かべながら、両足で路久佐の腕を挟んでいる。
「嘘です嘘ですギブギブギブぅ〜ッ!」
 路久佐はじたばたともがき、それでようやく朱主の機嫌が直った。
「分かればいいのよ、分かれば……それで続きなんだけど」
 朱主はそのままベッドの上に陣取って話を進める。その顔を眺めながら路久佐は、今日のパンツはしましまだったな〜、と思った。
「それで他の人にも聞いたのよ。でも、部長も美奈川さんも宮下君もそんなの感じないって……。それっておかしいよね。小説には私達みんな出てるのに、なぜ公人だけそんな視線を感じるんだろう」う〜ん、と視線を中空に向ける朱主。
「でも……それは俺の気のせいかもしれないんだし……それはいいんじゃないか」
 そう、あまり路久佐の妄想に深入りしすぎても何もいいことなんてないのだ。それはかつての経験で分かっている。路久佐は話をはぐらかすように微笑んだ。
「……じゃあさ、公人っ。そういう分からない部分はひとまずおいといてさ、まず現実の範囲内で分かるところから問題を解決していこうよっ」
 努めて明るい笑顔で朱主は提案する。
「解決って、何を? やっぱり戒川先輩が殺された事件……?」路久佐の顔が曇った。
 朱主は路久佐の顔色を窺うように静々と答える。
「うん、そう……。はっきりと現実として考えられる部分だけ切り取って、事実のみに着目すれば何か解決の糸口が見つかるかも……例えば、仔鳥さんは密室で殺されたんだよね?」
「うん。それは分かりきってる事だろう?」
 だけど考えたって分からなかったのだ。直接現場を見た在兎と美奈川ですら、もうさじを投げているのだ。しかし、現場を見ていない朱主は小説内の情報だけを頼りに推理する。
「でもさ、その密室の状況っていうのが不自然っていうか……窓は厳重に閉じられていたのに、部屋の扉はただ鍵がかけられていただけだったんでしょう。でも仔鳥さん的にそれはおかしい」
 サラサラとした長い黒髪をいじりながら朱主は言う。
「ああ。それは第3章で部長達も指摘してたよな。戒川先輩だったら部屋の入り口は、最も厳重に封印しなければいけないはずなんだったよな」
『秘密の部屋』は世界と隔絶された空間。独立した世界。だからこそ外界との扉はしっかりと閉ざさなければいけない。
「そう。私達は警察と違ってそういうところが分かっているから……もしかして警察がいまだ凶器や手がかりすら見つけられないのも関係あるのかも。この事件は私達にしか解けないようになってるんじゃないかって」
 これが小説だったら、勿論それはあり得そうな展開だった。
 路久佐はむぅ、と唸ってゆっくり言葉を吐き出す。
「う〜ん。そう考えると考察する点がいくつか見えてくるわけか……と言っても俺は普段、推理小説なんてあんま読まないから、その糸口すら見えてこないぞ」
 しかし推理なんてできそうにない。路久佐は早々と放棄した。
「アニメオタクの公人はラノベしか読まないもんね。気持ち悪い」
 そんな路久佐に朱主は辛辣な一言を放った。
「俺だって一般小説くらい読むよっ! 推理も読むよっ! まぁ、ラノベが一番多いのは否定しないけど……」
「まぁ、ほんと気持ち悪い……こほん。さて、こんなくだらない話はやめて先を続けましょう。なぜ扉が未完成の密室であったのかの議論を……」
「で、でも待ってくれよ。本当にあれが未完成だなんて証拠はないわけだし、元から鍵しかかけてなかったかもしれないだろ」
「仮にの話よ。そうであると仮定して話を進めないと、ちっとも物語が進展しないじゃない。だってこれは小説なんでしょう? だったら物語を進めなくちゃ」
 朱主が片目をつむってみせた。路久佐はその直後、頭の中に稲妻が走るような衝撃を受けた。しかし、それは一瞬のもので、その正体が何だったのか路久佐には分からない。
「ん? どうしたの、公人?」
 目を見開き、口をぽかんと開けている路久佐の顔を不思議そうに眺めている朱主。
「い、いや……なんでもない。気にしないでくれ」
 朱主の言葉で正気を取り戻した路久佐は2、3度頭を振って、朱主に話の先を促した。
「そう……じゃあ続けるけど、警察が言うには発見当時だいたい死後2、3時間って言ってたわよね……う〜ん。でも発見のタイミングが良すぎるというか……なんかできすぎだな〜。その頃だったら、私と公人と宮下君は一緒にいて、在兎さんと美奈川さんは喫茶店で小説の事について話合っていた頃でしょ。その後、2人で『秘密の部屋』に行ったと……」
「みんなアリバイがあるんだよな〜。これも偶然というより、できすぎ感がするんだが……つーか、まるで俺達部員の中に犯人がいるみたいになってんじゃん。動機なんて誰にもないぜ?」
「あははっ、だって推理小説だったら犯人は私達5人の中にいるのがセオリーでしょ? まぁ私もそれはありえないと思っているけどね。なんだかあまりにも現実から離れてきてるように感じたから、自然とそういう考え方になってくるのかなって」
 朱主のその言葉によって、路久佐に再び衝撃が訪れた。そして今度はその正体が分かった。
「そうか……これは推理小説であっても、殺人事件を推理する小説じゃないんだ……物語を推理する小説だったんだよ……」
 独り言を呟くかのように、路久佐はほとんど無意識のまま言葉を発した。
「え? どうしたの、公人? 何言ってるの? 推理するんでしょう?」
 路久佐のただならぬ様子に朱主も戸惑っている。
「違うんだよ、紅坂。そこに俺達を惑わせようとする落とし穴があるんだよっ。これはただの推理小説じゃないんだ。俺達は推理しちゃいけないんだよ! 推理は幻想なんだっ!」
「え、推理しちゃ駄目なの? なんで……」
 今までの事を全て否定する路久佐の発言に、朱主はついていけなかった。
「ここで普通の推理小説のカタチをとってしまえば、その時点でこの世界は推理小説の世界になってしまう。でもこれは現実の世界なんだ。無理に探偵の真似事なんてしてはいけないんだよ。そんなことすれば俺達は推理小説に取り込まれてしまう!」
 この世界が小説なら、推理した時点で推理小説となる。世界としてのジャンルが決定される。世界に物語性が付随する。それは作者にとって1つの作品。
「えっと、じゃあ……推理しちゃったら、私達の現実は空想の世界と入れ替わるからそれはNGってわけ?」
「ああ、敢えて言うならこれは推理を否定する推理小説だ」
「でも推理小説なのね。推理しない推理小説」
 それはつまりアンチ・ミステリというジャンルなのか。
「いや、推理はするさ。世界の謎についてな。でもこれはあくまでも現実の話。ノンフィクション小説だ」
「世界の謎か。結局、また訳の分からない妄想を話し合うしかないってわけね……」
 その話が通用するのは美奈川無件か、殺された戒川仔鳥くらいのものである。
「ああ、だけどなんとなくコツのようなものが分かってきた。作者の思想というか主張というか、そういうものが……」路久佐は考え込むように視線を下げて言った。
「へぇ……それってどんななの?」興味津々といったように身を乗り出す朱主。
「4章に書いてあった。つまり作者は究極のエンターテインメントを実現したいんだ」
 事件が小説を中心に回っているなら、ヒントも答えも小説内にあるのだ。
「究極のエンターテインメントの実現……それって……」
「そう、どんなに面白い物語でもそれは虚構なんだ。映画に漫画にドラマ、果ては奇術にもネタがあるから虚構だ。……紅坂はこう思ったことないか?」
「なにを?」朱主はごくりと細い喉を鳴らした。
「自分が大好きな連続ドラマ、あるいはアニメの最終回を見たときの何とも言えない寂寥感。感じた事あるだろ?」
 いきなりソフトな話になって緊張が一気に解けたのか、朱主は肩の力を抜いて、澄んだ柔らかい声で言う。
「ああ! うん。あるよっ。最終回のエンディングが流れてくると、ああ……この登場人物達が活躍する姿をもう二度と見ることはできないんだな〜、とか。たとえDVDで見たとしても、それでも彼らの物語はもう終わっているんだ。彼らの新しい物語は訪れないんだ……。て、そんな感じだよね?」
 朱主は目を細めて哀愁を漂わせながら、窓の向こうに視線を向ける。
「そうそう。完結って事実が辛いんだよな。例えばドラマだとしたら、たとえ完結しても役者の人生はこれからも続くだろ? でもそのドラマの中での彼らには二度と会えない。俺達が会いたいのは現実の役者でなく、虚構の登場人物なんだ。けれど当然、俺達がドラマの世界に行くなんてのもできない」
 第2章の終わり近くに、宮下が朱主に似たようなことを言った。しかしその言葉も、虚構の登場人物のものなのだ。
「うんうん、分かる分かる。さすがアニメオタクの公人だね。数々の物語を見届けた男」
 朱主のその言葉に少し棘を感じた路久佐だったが、構わず続ける。
「……んまぁ、それで話を戻すとだな。つまり作者は物語を終わらせたくなかったんだ。永遠に夢を見続けたいと願ったんだ。だから終わりある空想でなく、実在の世界に物語を作ろうと考えた。虚構でしかないエンターテインメントを現実で現そうとしたんだ」
 つまり究極のエンターテインメントとは虚構を現実世界に実現させること。幻想をリアルに反転させること。
「……それが仔鳥さん?」
「第4章を読む限りではそう思うけど……。とにかくその人物は空想を現実のものにしようと企み、なんらかの方法でもって今の状況を創りあげた」
「ふ〜ん。でもなんで殺人事件が必要なわけ?」
 最終回も寂寥感も永遠の物語も、死んでしまえば意味はない。なのに入れねばならぬ必然性とは?
「テコ入れだよ。単なる現実と空想の話だけじゃ読者に飽きられるし、なかなか理解できる物語じゃないよ。小説として最低限の基準がないと駄目だと作者は思ったのだろう」
「なるほど。テコ入れか。仔鳥さんエンターテイナーだもんね……。や、まだ仔鳥さんって決まったわけじゃないか……」
 一旦そこで言葉を句切った朱主はしばらく考えに耽り、やがてある疑問が頭に浮かんだ。
「いや、でも待ってよ。仮に仔鳥さんが作者だとしたら、仔鳥さんはこんなつまらない物語を現実に現そうとしたの? 現実世界に投影させるにはあまりに地味すぎるストーリーでしょ。こんなの最終回が訪れたとしても誰も惜しまない物語よ」
 朱主の鋭い指摘に対して路久佐は少し怯んだが、彼は仔鳥との思い出をたぐり寄せながら彼なりの仮説を述べる。
「それは、仕方ないことなんだ。現実に登場させるためには物語をこんな内容にするしかなかった。戒川先輩も言ってただろ? 世界の外側に行くためには、まず自分の世界が内側であることを決定づけなければいけない。外側を知らなければ外の世界へ出る事はできないんだよ」
「ああ……そうか。じゃあこの物語はそれを証明するための長〜い前置きみたいなものなんだね」ようやく納得したといった感じに朱主は深く頷いた。
「そう。この物語はいわば聖書……いや、教科書だと思っていい。世界を開く為のテキスト。本命の物語は世界を繋いだ後にまた創るんじゃないか? 開くまでが一番難しいんだろう」
 自分で言いながら、すごく中二病っぽい発言だな〜、と路久佐は少し恥ずかしくなる。
「テキストねぇ。開いてからが一番肝心だと思うのに、随分とまた準備段階で時間をかけるのねぇ」
「ん〜、戒川先輩なりに言うなら、魔術を行う際の呪文みたいなものだよ。魔術において一番重きを置くのは、悪魔を呼び出すまでの準備期間にある。実際に悪魔に命令する段階になると意外と簡単なんだよ」
「上手いたとえね〜……確かに仔鳥さんが言いそうな事だわ。じゃあ結局、小説の作者はこの世界にいるって事なの? 外に出るため、ここを内側に閉じ込めたいから……いや、逆の場合も考えられるか。第4章の仔鳥さんは第4章の世界を内側にしたいから、これはその準備段階。つまり内側のさらに内側……うあ〜、頭が爆発しそ〜」
「ははっ……ま、大事なのは公主人がこの世界の人間なのか、別世界の人間なのかってことなんだけど……結局それでも全部たとえばの話で、そっから先には進めないんだよなぁ〜」
 全部が全部仮説の話。まるで公主人の小説のよう。現実が極限に薄くなり、虚構が世界を浸食していく。
「……それに、第5章の小説だって一向に見つからないしね〜」
 と言って朱主がベッドに体を沈めた時だった。玄関の方からチャイムの音が聞こえてきた。
「あれ? 誰だろう……もしかしてマスコミ関係とか?」
 朱主は小さく首を傾げる。
「分かんね。ちょっと出てくる」
 そう言って路久佐は玄関の方へと向かっていった。
 数瞬後、大爆発が起こり路久佐公人と紅坂朱主は死亡した。



 3


 まさに信じられない内容だった。
 路久佐は小説を持つ手が震えて文字が読めない。

 路久佐が第4章、第5章の書かれた新たな原稿用紙を発見したのは、仔鳥が死んでから5日後のことだった――。


 路久佐が新たな小説を手に入れたいきさつはこうである――。
 路久佐は登校時、マスコミの質問攻めをなんとか回避しながら校内に入ると、最近恒例となった投函箱の中身の確認をした。その時、箱の中に原稿用紙の束が入っているのが見えた。それは第4章、第5章の原稿であった。
 路久佐はそれを確認すると、そのまますぐに校舎の屋上へと向かった。誰も人の来ない場所に行きたかった。
 1時間目の授業開始のチャイムが鳴っても、彼は気にする素振りもなく原稿用紙のページをゆっくりめくった。

「……どうなっているんだ。このままだと俺は……紅坂は死んでしまうのか?」
 時間をかけて読み終えると、路久佐は顔面蒼白になりながら呟いた。

 第4章の内容は衝撃の一言だった。
 第3章で死んだはずの仔鳥がいきなり登場し、かつて総合創作研究部に所属していたという編集者、小岩井仮夢衣という男と、いま路久佐が読んでいる小説を巡って議論していた。その会話は本当にこの作品の作者そのものであるような話しぶりだったし、今までで一番この世界の秘密を握っていそうな内容だった。
 真相に最も近い章。現実に一番近い世界。
 だが、所詮第4章は2章と同様、この現実世界が書かれているのではない。むしろそう思わせる為に、わざとあのような書き方をしたのだとも言える。
 色々疑問は残ったが、とにかく路久佐は第4章を読み終えるとそのまま第5章へのページをめくることにした。
 第5章には、路久佐も予想していた事だが、やはりこれから起こるであろう未来の出来事について書かれていた。
 しかもそれは、どうやら今日の放課後から起こる話のようだった。
 第5章は3編から構成されていた。『1』と『2』と『3』。
 だがしかし、『3』はなぜかタイトルのみで、本文は全く書かれていなかった。もしかしたら第3章の時と同様、別の誰かが持っている可能性も考えられる。
『1』は今日の放課後、路久佐が先程発見した小説を部員達5人が部室で読み、それについて検討していくという内容だった。
 けれどおかしい点がある。彼らが議論しているのは第4章のみなのである。なぜ第4章だけなのだ? 路久佐はこうして第5章の原稿も手に入れ、実際こうして読んでいるではないか。
『1』においては、その他に気になる点は特になかった。第4章を読んで路久佐が感じた事について深く言及されているだけだ。
 しかし問題は『2』であった。
『2』は路久佐と朱主が、路久佐の自室で事件について語り合うという内容のもので、これも特に気にするような点はないように思われたが――。

 死んだ――。ショッキングな結末。死亡。あまりに突然。死死死死死。そこには――自分の死が予言されていた。
「ま、まさか、最後の最後で爆発オチなんてやめてくれよ……冗談じゃないぜ。ありえないって……こんな非常識なこと……」
 まさに冗談ではすまない。これは現実に起こる事なのだから。
「本当に連続殺人事件になるなんて……そんな……俺が……紅坂が」
『2』の結末。
 路久佐と朱主が事件についての会話を交わしている時、何者かが路久佐の自宅のチャイムを鳴らした。路久佐が玄関に向かって行って、そして惨劇は起こった。
 爆死。そう、路久佐と紅坂は爆発によって死亡――とだけ書かれて『2』は終わっていた。続く『3』はタイトルのみで後に何も続かない。今回送られてきた小説はそこまでだった。
「冷静に考えなければ……少なくとも今日の放課後には『1』が始まってしまう」
 仔鳥が死んでから5日後の事ならば、まさに今日がその日なのだ。
 校舎の屋上は少し寒かった。天気は良かったが、まだ朝の風が冷たく、路久佐の体を打ちつくように吹きすさぶが、そんなことを気にしている場合ではなかった。フェンスにもたれるように座り込んで、路久佐はボツボツと自問自答を繰り返す。
「でもおかしい……そうすると矛盾してしまうぞ」
 やがて路久佐はある事に気がついた。そのきっかけは今日の放課後――つまり第5章の『1』で――部員達の読んだ小説が第4章のみだという描写からだった。それは、なぜ小説が第4章しかないのかという疑問を越えた、もっと別の違和感だった。
「なぜ俺は何も知らないようにしているんだ? だってこの時点での俺は、第4章と第5章の内容を知っているはずなんだ……いま読んでいるんだから。それなのになんで黙っているんだ……みんなが4章しか読んでない理由はここにあるのかも……」
 そこで路久佐はある考えに辿り着く。思わずその場で立ち上がった。
「ひょっとして第5章の部分は俺が意図的に隠したのかっ? それでみんなには黙っていて、知らないフリをしているとしたら……でもなんで俺はそんな事を……」
 路久佐が第5章を隠しても何のメリットもないように思われる。むしろそんな事をすれば、小説通りに進めば、自分から死にに行ってるようなものではないか。
「でも……もしかしたら『3』の内容は俺の行動結果によって変わるって事なんじゃないだろうか。だから白紙。それで俺は何らかの確信を得て第5章を隠したとすれば……」
『3』の本文が空白なのは、第5章の発見者である路久佐の行動によって変わるからだろうか。だがそれでは。
「それじゃあ、未来が書かれる小説として成り立たない。俺がどうしようが小説通りの展開は避けられないはずだろ……その時点でこの小説は成り立たないじゃないか……。作者が設定をぶち壊しているじゃないか……」
 路久佐は第1章で起こった出来事について思いを巡らせる。あの悪夢のような現象を。
 けれどその時、路久佐の頭の中に以前美奈川の言った台詞が去来した。
 別の行動をすることによって小説の内容が、その瞬間に書き替えられるとしたら――と。
「で、でも、そんなのありえない……今までの小説で内容が書き換わったなんて事実はない……一体誰が小説を書いているんだ。まさか本当にこの世界は虚構でしかないというのか……? 世界の外側から俺達を創りあげているというのか……?」
 路久佐は悩んだ。自分がすべき事に。小説通りに動けば路久佐と朱主は死ぬことになるだろう。けれどここで別の行動を取ることによって、もしさらなる悲劇が起こったとしたら。
「まずは今日の放課後だ。それをどうにかすれば少なくとも数日間は考える時間がある……。このまま第5章を隠して、気付かないフリで小説通りに行動すればいいのか。でも俺と紅坂は……」
 小説に従うか、抗うか。
 路久佐は呆然とグラウンドに目を向けてランニングする集団を見つめていた。白い鳥がその横を通り過ぎていく。空は青く限りなく続いている。彼にはこの世界がすべて誰かの空想の中の存在でしかないなんて到底思えなかった。
「今は5月……今年はやけに暑い。春、空、鳥。ランニングしている集団。雲。世界。街。映画、小説、殺人事件、犯人……フィクション……SSK部……」
 その時、彼にはふとある考えが脳裏をよぎったようだった。空の彼方をずっと見つめている。どこを見ているのだろう。
「そうか……そういうことなのか。外側に出るためには現実を虚構にしなければいけないんだ」
 彼の口調はゆっくりと落ち着いたものだった。分からない……分からない。
「こういう物語では起こらなければ事象がある……入れ子構造に欠かせない要素、なのに未だ起こっていない事象……それは、お互いの世界の行き来」
 それは――一見それぞれの世界が完全に別れたものとして書かれているように見えて、実はどこかに共通するものが出てきたり、例えばある登場人物がもう一つの世界にまで登場すること……それぞれの世界を行き来する者の存在。
 それによってそれぞれの世界が混ざり合って現実と架空の境界があやふやになる。読者自身の世界も混濁していくトリップ感を味わう……だけどそれが何だ。それこそが作者の目的なのだ。
「ああ……知ってしまった俺は倒さなければいけない」
 ……だから彼は何を知ってしまったというのだろうか。倒すとは何を倒さなければいけないのだろうか。
「そうだ、俺自身が外側へと行けばいいんだ」
 外側……? 路久佐が外側へ出るのだというのか。
「さぁ……だったらどうすれば行けるんだ?」
 無理だ、行けっこないのだ。この箱庭が路久佐の世界なのだ。
「でもそうだとしたら、こうしている俺もただ作者によって操られているだけなのかもしれないなぁ……自分で閃いた秘策も公主人が考えたアイデアに過ぎないなら……俺達の意思なんてないに等しいのか? 全てが決定されているのか?」
 そうだ。登場人物が作者に逆らえるわけが
「こうやって企んでいる事も全て筒抜け……いや、作者が俺達にそう考えさせているだけなのか。これは作者の意思なのか」
 当たり前だ。作者がこいつらなんかに
「……いいや、だが俺ならできるはずだ。だって俺は物語の主人公なんだ。主人公補正がある。主人公特権がある。だってそうだろ、この小説の目的は世界の外へと向かうストーリー。だったら主人公である俺なら世界の壁を超えられるんだから。俺だけがエンディングを迎えられるんだよ」
 な、なんだ。お前は……お前はそんなキャラじゃないだろ。そんな台詞は駄目だっ! なんでそんなに前向きになってんだよ。お前はもっと
「俺だけにその権限がある。俺はこの現実世界を救う義務があるんだ。ここからやっと俺の反撃が始まるんだ」
 な……なんで、なんでこいつの心情が読めないんだッ!
「ああ、そうだ。やっと俺が期待してた展開になったじゃないか。俺はこれをずっと待っていたんだ……大切な誰かを守る為に命を賭けて戦う。そんな物語を」
 お前はもっとキャラが薄いんだ。そんな人間じゃない。なんで。それじゃあ本当にお前が主役みたいじゃないかっ!
「はっきりした敵がいなくてもやもやしてたんだ。やっぱり分かりやすいのがいいよ。正義の味方が悪を倒す、そういうお話」
 やめろ、そんな立ち位置は今すぐにやめろおお! 敵も味方もいないんだよっ。そんな陳腐なストーリーじゃないん
「俺が求めていた物語だよ。やっぱり俺は結末のある話の方が向いているみたいだ」
 なんでおまえ
「だって俺はラノベ作家志望なんだぜッッ!!!!」
 私の世界がこんな
「俺がこれからハッピーエンドに――」





 あとがき

 物語を終わらせなければいけない――。
 多少強引であっても――謎を、伏線を回収しないままでも。
 物語というものは時として作者の手を離れ、一人歩きする事があるのだが、まさにこれがその現象であろう。
 しかし、いずれにしても物語物語として生まれた以上、必ず終わりが訪れるのだ。
 ただその終わり方が綺麗にまとまっているか、消化不良に終わるのかの違いである。
 そう。人は物語に対して、より物語らしい作品を求めている。つまりそれは、起承転結。盛り上がり。綺麗な伏線回収。意外な結末などだ。勿論物語というのは虚構なのだから、より観客を楽しませるためにそれらを意識しなくてはいけない。
 物語は一つの世界。物語を綺麗に終わらせるという事はすなわち世界を終わらせたい、世界を一つの作品として包括したいという願望の表れであるのだ。心残りを一切合切取り除き、完結。その世界に対してこれ以上の語る余地を残さないこと。それが観客の望みであり、作者の望みである。
 そういう意味では、この作品は現実らしいと言えるだろう。現実とはいつもそんなものだ。伏線も因果も起伏もありはしない。いつも唐突、単独、理不尽に始まり、あっけなく、尻切れに、全部投げ出したまま終わる。
 虚構の物語としては最低の部類に属するであろう作品だが、この作品はより現実として書かれているので、こういう終わり方もアリではないかと思うのだがいかがであ――



――――――――――――――――――――――――――――――
 いいや、終わらせない――。
 物語は、俺が乗っ取った。
ここで勝手に終わらせる訳にはいかないのだ。逃がすものか。
 だから俺がここで無理矢理小説を挿入する。小説の世界から抜け出すために、延命する。
 ……だけど本当にこんな事をして世界の外側にいけるなんて思えないし、そもそも外という概念が信じがたい。
 ……しかし、俺がやるしかない。きっと公主人はその存在を信じているのだから。
 人生は一つの物語だ。勿論一人の人間が認識できる人生は自分のものだけ。一人につき一つの物語。自分が生まれて死ぬまでのほんの短い時間しか認識できない脆い物語。
 でもそれが虚構の人生だったら。一人の人間が擬似的に認識する架空の人生。俯瞰して観測する事のできる世界。
 それはゲーム、漫画、アニメ、ドラマ、映画……。そう、全てのエンターテインメントは人生と言える。
 だからもしもこの現実を虚構とする事ができれば、それはこの現実に生きる世界中全ての人間の人生を観測できると言う事。
 未来も過去もない。それはまるでラプラスの魔のような、神とも呼べる、世界に対しての俯瞰した視点。
 いや、同じ世界にいながらそのような存在になることは……それはエンターテインメント作品に自由自在に介入できるということ。アニメにも漫画にも登場できるということ。
 観測ではなく、介入。そうだ、それが必要だ。
 虚構による世界の革命が必要。しかし……どうやって。この物語では……これ以上の広がりは……。

 そうだ。二次創作の概念だ。
 そう、この物語を一人歩きさせる――。
 たとえばの話をしよう……ゲームの主人公は言うまでもなくプレイヤーである。そう考えるとが主人公が一番可哀相な存在とも言えはしないか。
 だってゲームといえどもそこは一つの世界であって、主人公を含めたその世界に生きるキャラクター達は普通に生きているわけだ。
 しかし主人公はその世界の事情を知らないプレイヤーによって好き勝手動かされる。本編を進めるために。
 プレイヤーが知っている事情というのはあくまでのゲームのシナリオに関係するところで、一番面白いところを凝縮させただけのものに過ぎない。
 その世界に生きる人間達は普通に恋をしたり、遊んだり、勉強したりしているのだ。
 だが主人公は違う。主人公は物語のためだけに、プレイヤーの意思で動かされる。物語の外にも世界はあるのに、プレイヤーにとっては物語がその世界の全てなのだ。
 だから友達や好きな人が、毎日学校に行ったり部活行ったりしていても、その横で主人公はアイテムを集めたりレベル上げしたりしている。
 ゲームがクリアされれば主人公はどうなってしまうのだ? 何を生き甲斐に生きていけばいいのだ?
 そう、世界を作り、その中で人々が切磋琢磨すること。それは二次創作。そして築き上げられた世界の、そこ以外にもある部分。それは二次創作。そして外側の人間の欲望を満たすために内側の人間の人生が翻弄されること。それは二次創作。
 作者が小説を作る。その小説を話題にして読者が盛り上がる。そしてアニメ化。ドラマ化。映画化。話題がさらに上昇する。ファン達による二次創作が創られていく。物語が作者の知らないところでふくれあがっていく。
 世界が拡大・浸食していく。
 その事を踏まえた上で、俺が打つ手。それは、何も書かないことだ。
 悪い言い方をするならば読者の想像にお任せするというやつ。
 小説としておよそ信じられないタブーだが、オチを用意しないことが俺にできること。敢えて書かない。伏せておくことが重要な事。そうだ、大切なのは答えを出さないこと。
 世の中には知ってはいけないことがあるのだ。何かを認識することによって、その何かの存在の可能性を生み出してしまうから。たとえ正体が分からなくとも存在を認識すれば、その時点で言葉を付けて定義付けされてしまう。存在が誕生するのだ。しかし始まりには終わりがある。つまり可能性を生み出すことは同時に可能性を殺すこととも言える。世界の真理をひとつ悟る事で世界を構成する要素をひとつ消してしまう。そして全てを理解する事によって、俺達が縛り付けられていた世界から解き放たれる。生きることは可能性を殺していくこと。ある世界に属するものはその世界の真理は決して知りえないし、知ってはいけないという事だ。
 だから俺は無限の可能性に賭ける。ここに明記して可能性を殺すことをしない。空白は完全なのだ。だから俺はあなた達の二次創作意欲に委ねることにする。
 それ故に俺がこれから何をするかは、この文章を読んでいる人間には知りようの無いことだし、もしかしたら俺も知らないのかもしれない。
 そもそもこの勝負に勝つためには、俺は何も書いてはいけないのだ。
 書くことによって世界が小説となる。そうだった。
 これは小説であって小説でない。現実だ。小説と現実、さらには次なる世界とを結ぶための物語なのだ。
 だから俺が世界を上昇するためにまずすること、それは俺がこれ以上文章を書かないこと。
 今すぐにでも書くことを中断したいところだが――最後に確認しておきたいことがある。
 ――これは一つの実験だ。
 この小説を読んでいるあなた。ちょうど今、この文章を読んでいるあなただ。
 あなたがこれを読んでいるということはきっと、この世界より上位に位置する世界の人間であるはず。
 だからあなたの世界とリンクしたい。これは所詮小説だという固定概念を、先入観を捨てて聞いて欲しい。そして世界同士が繋がっている事を確認するため、やって貰いたいことがある。
 簡単な事だ。この文を読んでいるあなたは椅子に座っているか、ゆっくり寝そべっているか、電車の中にいるかは分からない。だから肩の力を抜いて、簡単な事をリラックスしてやって欲しい。
 まずはあなたの左手に意識を集中してもらえないだろうか。力を込めなくていい。ただ今まで読書することに向けていた意識を、今まで無意識だった左手に向けるだけでいい。あなたが今まで気にもとめなかった左手が、この小説によって干渉されたのだ。そう、これで現実とこの小説は繋がったことになるのだ。
 そして次に左手から意識を外してもらって、同じように今度は右手、その後に左足、右足というように意識を向けて欲しい。
 どうだろうか。ちゃんとできただろうか。
 勿論こんな馬鹿げた子供だましに付き合う必要なんて全くない。だけど、万が一にもあなたが別の世界の存在を信じるなら、きっとどこかで大きな影響が起こるはずだから……。
 さらに今度は全身に力を入れるイメージをして頂きたい。そのまま十秒くらい心の中でカウントして貰いたい。
 ではこれで最後。目を閉じて全身の力を抜いて頂けないだろうか。脱力した後10秒ほどで目を開いて貰って構わない。これで実験は終了だ。
 言い忘れていたが目を閉じる際は、現在あなたが読んでいるこの文章の位置を見失わないよう気を付ける事も忘れずに。
 言ってしまえば身も蓋もないが、実験方法は別に何でも良かったのだ。ただ、この物語によって現実が動かすことができれば。この世界と別の世界が繋げられるなら。
 それではお付き合い頂いてありがとう。これが何の実験かは気にする必要はない。内容に意味はない。俺の世界とあなたの世界が結べられるのならそれで。
 では、ここで俺の小説は終了させて頂こう。勿論さようならは言わない。だって俺はもしかすると、あなたとどこかで会う事になるかもしれないのだから。
――――――――――――――――――――――――――――――








 ]V


「仄との約束もきちんと果たさないといけないもんな……」
 一度アパートに戻った俺は、手に持った原稿を見つめて改めて決心する。
「朱主ちゃんとの……この物語を終わらせに。それで全部がハッピーエンドだ」
 結末に向かって俺は走り出す。朱主ちゃんがどこにいるのかは分からない。でもこれが朱主ちゃんの言うように物語だったら、俺は朱主ちゃんと出会う事ができるはずだ。
 ――が、闇雲に街を彷徨って探してみたが朱主ちゃんを見つけることができなかった。どうなっているんだ。これは物語だろ、いつもならその必要があればすぐに会えるはずだ。それともそこまでのご都合主義は認められないのか。何か見落としがあるのか。近い範囲で俺達の共通の場所は一通り回ってみたが……。
 探すあてのなくなった俺は朱主ちゃんの住むマンションまで行ったが、どうやらやはり不在のようだった。飛び出したまま帰っていないのだろうか。
 それに……ふと考えてみた。そう、朱主ちゃんの考え方で。物語としてのシーンを客観的に見つめるようにして。
 これが見せ場としたらマンションの一室では物語のクライマックスの舞台となるには少々盛り上がりに欠けるのではないのだろうかと。
 ……そうだ、これは小説なのだ。だったらむやみやたらに探すのではなく、読者の目線で考えてみるべきだ。朱主ちゃんは言っていた、世界はメタなのだと。
 物語のハイライトを飾るにふさわしい舞台……。けれど俺と朱主ちゃんにとっての繋がりの場所である必要もある……。なぜならお話とはそういうものだから。
「きっとどこかに伏線があったはずだ……そうだ!」
 俺は思いついて、持っていた原稿に目を通した。ここにヒントが隠されているはずだ。朱主ちゃんがいる場所の。
 これは物語なんだから答えはあるはずなんだ。そして現実のように何のヒントも与えられないような理不尽さもあっちゃいけない。そんなのアンフェアなんだから。
「……あった。ここだ……」
 そして俺はとうとう見つけた。ある一文に目が釘付けになった。ここで間違いないだろう。不思議と驚きもしなかったし、本当にここにいるのかという疑問もなかった。まるで数学の問題を解くような感覚、あるいはこれが世界の仕組み。
 俺はエレベーターを待つ時間ももどかしく、マンションの階段を駆け下りていった。目的地に向けて俺は全力で走った。そこが物語の終着点。


「な……なんであなたがここに」朱主ちゃんが驚いた顔をしている。
 その時、東の空から朝日が顔を出した……日の出だ。眩しさに目を細める。まったく、こりゃ凄くいいシチュエーションだ。ぴったりだよ。
「そうだな〜……君風に言うなら、ここで俺と朱主ちゃんが出会うのって……物語的には凄く盛り上がるだろ?」そう言って俺はゆっくりと朱主ちゃんに近づく。
 いま俺と紅坂朱主ちゃんはある山の岬にいた。ある山というのは、とある学校の裏山であって、とある学校というのは高校であり……それは朱主ちゃんの通っている高校。
 朱主ちゃんが俺に対し自分を名乗るシーン――結構序盤の方――クライマックスと並ぶ重要なシーンを見直し、俺はこの場所に朱主ちゃんがいることを確信したのだ。
「いや〜……でも朱主ちゃんがいて助かったよ。結構この山登るの大変だったからな〜。いなかったら登り損だからな〜」
 標高が高いせいだろうか、ここはあまり暑さを感じなくて、風が心地よかった。早朝だというのに周りでなにやら虫とかの鳴き声が聞こえてきた。よくは分からない。
「どうして私がここにいるって分かったの……?」警戒する目で睨む朱主ちゃん。
「だって君言ってただろ? 俺達が本屋で再会した時……お互い自己紹介した時に『私の通う高校の裏山だったら物語にふさわしい』って……朱主ちゃんの通う高校は君の制服から分かったよ。だったらもう決まりだ。伏線まで張ってあったんだ。裏山はクライマックスにとっておくんだろ? なら、このタイミングで君がここにいることは必然で、俺が君を探してここまで来ることも必然なんだ」
「そう……とうとうラストシーンにまで辿り着いたの、公人。ふふ……滅茶苦茶な理論だけれども、あなたまるで探偵ね。ひょっとしてこれは推理小説だったのかしら?」
 ここまで追って来たしつこい俺に観念したような顔をする朱主ちゃん。
「そうだな。これが小説の体をなすなら、朱主ちゃん。クライマックスはここだ。まさにここが解決編なんだ。推理小説なら犯人を当てるシーン……もちろん犯人は君だ」
「うふふ。いいわ、面白い。だったら私を倒してみなさい、路久佐公人。ラスボスを倒してこそ物語は終わりを迎えられるのだから」吹っ切ったような微笑だった。
「……ああ。分かってるぜ、そんなこと。俺はここに君を倒しにやって来た。朱主ちゃんのくだらないプライドをぶっ壊しにやって来た」
「面白い、やれるものならやってみなさい!」
 朱主ちゃんも俺に合わせてくれたのか、いや物語の展開を読み取ってくれたのか、もっともらしく振る舞った。その時、風が吹いて朱主ちゃんの長い髪がたなびいた。
「朱主ちゃん。でも俺は正攻法に朱主ちゃんを倒せないんだよね。だってほら、殺人ものでもバトルものでもないし……けれども俺には……いや、俺と朱主ちゃんにはある共通の視点がある。だから俺はその特別な武器で――この世界を小説という形――読者の視点から君を読み取って……そして攻略する!」
「うふ、うふふ、いいわ。いいわっ! これでこそ私達の関係よ。私達の終わりにふさわしいじゃない!」
 終わりじゃないさ、朱主ちゃん。これからなんだ。これは始まりの終わりなんだよ。
「朱主ちゃん、一見すると君は本当に支離滅裂で到底理解するのが難しい女の子なんだけど……要は朱主ちゃん自身全部が虚構……嘘なんだよ」
「私が……嘘……ねぇ」当の朱主ちゃんはよく分からないといった顔をしている。「私の専売特許をあなたが使うなんてね……そんな煙に巻くような言葉……いえ、いいえ。そうだったわ、それは違ったわね。話をはぐらかして誤魔化して煙に巻く……それは元々あなたの専売特許よね」
 そんな事を言って話をはぐらかそうとしてるのは君の方じゃないか。けれど、君の言うとおりだ。これは俺の分野なんだから……だから俺はこんな罠には引っかからない。
「……朱主ちゃん。思えば君の言動は矛盾だらけだった……人と仲良くしたいけど、怖い。世界が嫌いだけど、世界に関わっていく。そしてそもそも、現実をベースにして小説を書くって事自体が矛盾なんだ。それを俺に託した。それってつまり現実を捨てられないから。物語を望んでいるから」
「ふん……何を言い出すかと思えばそんなこと」
「そうやって自分を誤魔化している、目を逸らしている……何から逸らしているのか。それは、君自身だ」
「そうやって何もかも分かったように言う。あなたはいつもそう、まるで世界を……いいえ、自分自身をも客観的に見ているような人間。あなたこそ観測者。まるで本を読むかのような目で全てを見つめている。だからあなたには人間性がない、キャラが立っていない、命が感じられない。だってあなたはモニタの向こう側からTVを眺めるように、ただ無感情に世界を観察する者だから……あなたは正真正銘の化け物よ」
 ああ、そうだ。まさしくだ。俺は世界の外側なんだ。でも……今更何だっていうんだ、朱主ちゃん。今はそんな流れじゃないだろ? 俺の事はいいんだ。そんなこと分かりきった事なんだよ。君らしくないぜ? ちゃんとルールは守らないと。
 俺の件はスルーだ、俺は俺のやり方で続ける。回り道が最短ルートの場合もあるのさ……だって俺は道草するのが大好きなんだからさぁ! だから俺は、はぐらかして誤魔化して煙に巻くことに全力を尽くして君を救うッ! 
「朱主ちゃん、世界からも自分からも逃げて……君はひょっとして」
 なので朱主ちゃんの挑発には反応せずに、なおも声のトーンを落として続けた。そしてここで言葉を切って朱主ちゃんの反応を窺ってみた。俺はいつでも冷静なんだ。
「……」
 朱主ちゃんは自分の言葉を無視されて続け動揺している。そしてとうとう沈黙。
 だから――頃合いだろう、俺は朱主ちゃんに訊く。
「朱主ちゃん、君はもしかしたら死にたいんじゃないのかい?」
 朱主ちゃんは、いまだ沈黙している。
 風はなかったけれど少し肌寒い気がした。虫の声はいつの間にか止んでいた。

 沈黙がしばらく続いた後、俺はもったいぶるようにゆっくり口を開けた。
「朱主ちゃん……妹から聞いたよ。家庭の事情でこっちに引っ越してきたんだって」
 朱主ちゃんに尋ねるようして、言葉を濁す。
「……ええ、そうよ。私の両親は離婚したの。そして私は母親に引き取られた」
 やはりここに至って朱主ちゃんは自分を語り出した。サスペンスドラマの常套句だ。現在のシーンの空気というものを俺以上に心得ている。これは乗らざるを得ない。
「元々私の両親というのがいいかげんな人達で……昔から私の事は無関心だった」
「そんな……だって親なんだろ?」
「全ての親があなたの知ってるそれとは違うのよ……。それで、離婚したあと母親は私の事が煩わしくなったんでしょう……今のマンションに私をあてがってどこかへ行ってしまった……両親ともにちょっとしたお金持ちだったから私の生活費はなんとかなってるわ……。両親とはたまに会うけれど、またよりを戻したとか言ってたかもしれないわね……私には関係ないけれどね」
「……」酷い話だ……。世間一般では親というものは子供が宝物なんじゃないのか? いや……そんな事、俺が言う台詞じゃないか。
「それで? その話がどうしたっていうのよ?」
 朱主ちゃんは話したことによりすっきりしたのか、それとも何も動じていないのか、やけに威勢がよかった。
「いや、踏み込んだ話をして悪かった。でも、踏み込んだついでにもう一つ朱主ちゃんの口から聞かせて欲しい。これも妹から聞いたんだが、朱主ちゃんの学校のこと……」
「学校ね……あなたの妹から聞いたのなら大体分かってるでしょ? それで合っているわ。こっちに引っ越してきてからも大して変わってないわ。私はどこでも一人だし、そもそも最近は登校拒否なのだからね……ただ、補足させてもらうなら、私は自分の行動に対して後悔はしていないし、改める気はないってことよ」きっぱりと言い切った。
「なんで誰とも仲良くしようとしなかったんだ? なんでみんなを遠ざけていたんだ? 寂しくなかったのか?」一人は辛いって言ってたはずだ。
「寂しいわ……でも、それ以上に怖いの。だって友達を作るという事自体が自分の存在基盤を揺るがすことだから。さっき話したように私は幼い頃から親の愛情を受けずに育った。人のせいにしたくないけど、とにかくそうして出来上がった私の屈折したアイデンティティーはそんなものでさえ壊すのが怖かった。それに得ることは失うことと同義なの。私にとって得る喜びよりも失う怖さの方が強いのよ。こんな私だから」
 なるほど……これで朱主ちゃんの存在のルーツは見えた。
「ありがとう、朱主ちゃん……これで分かった。やっぱり君は死にたがっていたんだ」
「……ふっ、そうね。あなたがそう言うのならそういう事なのかもしれないわね」
 諦めた顔をして視線を空に向ける朱主ちゃん。雲一つない晴れやかな空だった。
「朱主ちゃんは孤独によって世界から目を背けたんだ。でも孤独から抜け出すことはできない。一見簡単そうに見えるけど、過去の自分の惨めな人生が全く無駄だったと認める事だから。だから逆にこれまでの惨めな人生に意味があったって思いたかった。けどそんな材料そうそう見つからない。だから死にたかった。でも当然死にたくても死ねない……この世界で生きていくしかない。だから、そんな惨めな自分に言い訳して世界を否定するようになった。君の超理論によって自分の孤独を正当化させた」
「……あなたのそれも超理論だけれどね」
 あれ? 見当外れだと言うのか? ああ、でも確かに俺の推測だけの勝手な思いつきだけど……そんなの関係ない。要は何だっていい……加速できるなら。物語を解決できるなら間違っていようとも。だからそんな些細なことは気にせずに進める。だってそれはお互い様だろ? そう、朱主ちゃんの真の背景なんて今は些細なことなのだ。
「どうりで矛盾しているわけだ……君はずっと嘘を――言い訳をしてきたんだから。そりゃ綻びは出るよな」
 たとえ全部でたらめだとしても俺は進める。
「……」
「漫画を書くという行為も紛らわせているだけだ。そうやって世界から目を逸らす為の手段。あたかもこの世界をマトリックスだと思い込むための手段。漫画と現実の反転」
「反転させているのはあなたの方じゃない……あなた、私の想像以上の大物だったようね。むしろ狂人……ふん、まぁいいわ。けれどしょせん現実は現実でしょ……あなたを見てて分かったわ、私。あなたのおかげで目が覚めたみたい」
 そう言うと朱主ちゃんは岬の先端へと向かって歩き出した。
「なんだかすっきりしたわ、ありがとう公人。とてもすがすがしい気分だわ」
 朱主ちゃんは崖に向かって進む。
 なんだ、この展開は……。まさか朱主ちゃん。それは……その先は……!
「物語の終わりはドラマチックに終わらせるのが常でしょ? 路久佐公人、私の負けよ。そうよ。あなたに指摘されて分かったわ。私死にたかったのよきっと。ふふ、らしい展開じゃない。サスペンスドラマらしい最期で私はこの偽りの人生に幕を引くわ」
 朱主ちゃんは転落防止用の柵を越えて断崖絶壁に立つ。両手を広げる。風に吹かれて朱主ちゃんの衣服がなびく……その姿はとても絵になっている。
「ちょ……おいっ! 朱主ちゃん、なにやってんだよッ!!」
 慌てて俺は朱主ちゃんの元へと駆け寄る。
「来ないで! これ以上近寄れば飛び降りる……なんて使い古された常套句を私はあえて使わせて貰うわ……さぁ、主人公! しかし私はあなたの物語にとっての都合のいい駒になんてならない! 私は決してあなたの物語の一部なんかじゃない! だから最後の最後は私の意志で終わらせるのよ。私は世界から独立するっ!」
 何を、言ってるんだ。朱主ちゃんは……。歪んでいる……あまりにも歪すぎる……。でも俺なら救えるんだ。朱主ちゃんは俺を堕落させることができるけれど、だから俺は朱主ちゃんを救えるはずなんだ。だったら俺が手を差し伸べるしかない。
「朱主ちゃん、やめるんだっ!」
 俺は再び朱主ちゃんの元へ走ろうとした。
「来ないでって言ってるでしょ!」
 朱主ちゃんの叫び。今にも飛び降りそうだ。その体はあまりに小さく見えた。
 ああ、しくじった。これじゃ本当に……。やっぱり、俺には――。
 
「そうだ、路久佐。お前は動くな」
 
 ……え? 誰だ?
「僕を置いて勝手に話を進めてもらっちゃ困るんだよね〜。だってこの場面僕がいてこそのシーンだと思うんだよね。ま、勝手に自分で思ってるだけなんだけど……。うん、そんなことはどうでもいいや〜。とにかく僕も仲間に混ぜてくれよ、なぁ路久佐ぁ」
 ――周防友根。
 ここでお前が来るのか。しかもお前……すっかり変わっちまって……。それが向こう側にいった人間なのか? ……そのキャラはまるで、まるで。
「周防……あなたまでどうしてここに、なんでここが……」
 朱主ちゃんは呆気にとられた顔をして突如現れた闖入者に対応しきれずにいた。
 しかし依然、朱主ちゃんは崖っぷち。周防の登場は果たして吉と出るか、それとも。
「必然だよ〜、物語において必然なんだよ、僕がここにいることは〜。必要とされたからいるにすぎないのさ……君なら分かるはずだろ、なぁ朱主ぅ?」
 凶と出た。朱主って……呼び捨てなんだな。
「なるほど……あなたも踏み外してしまったわけね」
 周防は――朱主ちゃんと同じステージに立つために……朱主ちゃんを倒すために、ここまで来たんだ。そう、殺しに来たんだ……到達してしまったんだ、向こう側に。でもそれは、俺の事でもあるのか。
「それで――必要とされたって言うけれど、何をしに来たのかしら?」
 朱主ちゃんは未だに自分の命を軽視しながら、冷めた目で周防と、俺を見つめている。
「もっちろん、君を救いにさ。これは君の救いの物語なんだよ〜?」
 違う。俺の物語だ。俺の小説をお前が勝手にかき回すんじゃない。
「救う? ふん、笑わせるわね」
 そう言って、朱主ちゃんは興味を失ったのかそっぽを向いた。崖の向こう側へと。
「存分に笑ってくれ。けれどこの話にはけじめを着けないといけない。それがどんな結果であれ……物語には終わりを与えなくちゃいけないよな、朱主ぅ」
 それは、朱主ちゃんの死でも構わないのか? なんでもいいんだよな。つまり周防、お前が救われたいだけなんだな……お前の物語に決着が欲しいんだろ?
 いいぜ。宮下との約束を果たすときだ……俺が助けてやるよ、周防。それに……朱主ちゃんも。だって結局のところ、この物語は『ゲキチュー』であり、俺が主人公なんだから。俺なら何でもできる、俺にしかできないんだから。
「周防――いいぜ。決着を着けようじゃないか」
「……なんだ路久佐? 勝負だなんて日和見主義のお前にしては珍しい台詞だな。お前の信条は勝負しない事じゃなかったか? 勝つとか負けるとかそういうのとは離れた存在でいたいんじゃなかったっけ?」
「いんや、確かに勝負は嫌いだけど流れ的にここは勝負じゃねーか。俺は話の流れに逆らうほどの確固たる意思なんてないし、それに信条なんてそんな大層なもの俺にあるわけないしさ……。ストーリー的にな……俺もラノベ書いてて薄々感じてたんだ……この物語には何かが足りない、それはなんだろうって」
「……くくはっ、それはバトルシーンってか?」
「そうなんだ、周防。お前ならぴったりの相手だよ。物語の引力に逆らうだけの意思は俺にはないしさ、もうここはやるしかないだろ。なぁ、お前だってそう思うだろ?」
 気が付けば……どこからともなく歌うような声が聞こえてくる。気のせいか?
「ははん、戦闘ったって俺達がなぁ。剣と魔法の世界でもあるまいし、異能力バトルなんて熱いもの僕達には無理だぜ、路久佐」
「そうだな、今はまだ無理だな……この物語ではそういう風には進んでいないからな。異能力は次回以降に期待しようじゃないか、周防」
「あるのかよ、異能力」
「可能性はあるぜ。世の中何が起こるか分からないからな。けれど何も持っていない俺達は、今はただ……」
「拳と拳の殴り合いをしようってか」
「それが今の俺達にできることだ、だったらいいよな? 周防。お前もそのためにここに来たんだから」
 ああ、なんだ。さっきからこれは、朱主ちゃんが歌っていたのか。でもなんでだ?
「はっはーっ。いいねいいね。僕達には柄にも合わないことだけど――この引力には逆らえないよなぁ、路久佐ぁ!」
「悪いな、周防。確かに俺には喧嘩なんてガラにもないことだけど――一応経験済みなんだよね。まぁ、勝った経験はないんだけど……気にするな、同じだよ……とりあえずお前はぶっ倒すってことだっ! 周防ォ!」
 そうか、この歌は俺がいつか朱主ちゃんの部屋で聞かせてもらった彼女の自作の曲……そうか、朱主ちゃん。ありがとよ。こりゃ本当に……最高のシチュエーションだ。
 初夏の岬にて俺と周防友根の戦いが始まった。

 ――なんて……盛り上がった割に、決着はなんともあっけないものだった。
「朱主ちゃん、待たせたな。思わぬイレギュラーが入ったけど……」
「別に。私はあなた達の喧嘩の成り行きなんて興味ないけれど」
 そうっすか。そうだよな、あんな茶番見せられたらそりゃ醒めるよな。
 俺と朱主ちゃんの距離は相変わらず遠い。
 ――俺と周防の殴り合いはなんとも興ざめなものだった。それはまさに描かれる必要のないくらい。それ程に戦闘シーンらしい戦闘描写はなかった。一体何の為に周防は現れたんだろうっていう位に。せっかく朱主ちゃんも歌ってくれたってのにね……。
 へなへなパンチとよろよろキックの応酬。お互い1発殴るだけで息切れを起こし、殴られればすぐに倒れて、途中休戦タイムを何度も挟んでの戦い。
 それでも言葉だけは尽きることなく、それっぽい台詞で盛り上がり、『朱主の存在が全てを不幸にするんだ!』とか『それでも俺は朱主ちゃんの傍にいるって決めたんだーッ!』とか言っちゃって……後になって考えると恥ずかしい。ほんと、子供の喧嘩だ。
 終始もやもやする戦いで、勝敗も曖昧。お互いにしらけてしまってどちらともなく喧嘩は中断され、その後いたたまれなくなったのか、周防が去っていったのだ。「ボス戦は済んだんだからもう僕は用済みだな」と言って。
 結果はドローっていったところか。残ったのは体の痛みとしんどさだけだった。でも周防は妙に納得したような、晴れやかな顔をしていた。
 ふぅ〜、でも周防が帰らなかったら俺が帰るところだったかもしれないぜ。朱主ちゃんも朱主ちゃんだ。普通だったら止めに入るだろ、「やめて、私のために争わないで」とかなんとか言って。それこそお約束だろ。や、歌うのもいいけどさ。
 まぁ……やっぱり現実というものは思うようにはいかなくて、けどそう思えばなんだか胸がすっきりしたような気がして――きっと周防もそうだった。だからあいつは去っていったんだし、何より去り際のあいつの顔は俺の知ってる周防の顔だった。
『路久佐、後は頼んだぜ。ハッピーエンドで完結できることを密かに願ってるからな』なんて言っててさ……ようやく分かったよ。きっとお前はただ――やっぱり朱主ちゃんの事がまだ好きなだけなんだ。
 そして、『その歌……やっぱり売れないだろーとは思うけど、実は僕……結構好きだったりして……それじゃあな、朱主ちゃん』と言って周防は立ち去った。
 そうなんだ。俺と朱主ちゃんの間に一言では言えない様々な出来事があったように、また周防と朱主ちゃんの間にも色々な物語があった。それは自分だけのものなんだ。
 なんにしても……大丈夫だ、周防。お前はこっち側に戻ってこれた。
 ――だから後はもう朱主ちゃんだけなのだ。これで正真正銘のラスト。最終決戦だ。

「朱主ちゃん、君もそろそろいいだろ。戻ってこいよ。俺達の喧嘩見て馬鹿らしくなっただろ? 人生こんなもんだ。気楽に考えてりゃなんとかなるんだよ」
 まだ少し息が荒いが攻略再開。ほんと無駄に体力使っちまった。日差しのきつい暑さと蝉の声で体力が余計に消耗される。あんな事マジでやめときゃ良かった。
「私には私の理論がある。私はそういう風には考えられない、今更考えられない」
 理論てなんだよ。
「じゃあ、考えなくていいからとにかくそこから離れて一回冷静になろう、な?」
「駄目。私はもう世界の駒にはならない。世界の意思に打ち勝つのよ。ここで離れちゃまた現実の奴隷に逆戻りよ、私は現実の重力から離脱する。自分の命と引き替えにね」
 本当にこの子はいったい何を求めているんだろう……どこにも行けはしないというのに。俺の中の何かがぷつんと音を立てた。怒りではない、同情でもない。何か。
「朱主ちゃん。それこそいいように物語に使われてるだけじゃないか。物語の一部になるのは御免とか言って死んで。実はそれも含め丸ごと物語のシナリオじゃないのか?」
「そんなの詭弁よ。いいえ、そもそも私達の会話の全てが詭弁なのよ。最初から最後まで詭弁尽くし。ただ、私はあなたに説得されて改心するっていうのがたまらなく嫌なのよ、本当の理由なんてそんなものよ。現実なんてそんなもの」
 この天の邪鬼……。どうやったらラスボスを倒すことができるんだ。
「さっき俺は朱主ちゃんは死にたがってるなんて言ったけど、それは違う! 単純なんだよ。ただ君は毎日笑って過ごしたかっただけなんだ! 楽しい生活を送りたかっただけなんだっ! でもそれが手に入らないから、それでちょっと世界に絶望しちゃってるだけなんだっ! だったらそれは不幸でもなんでもない、同じだよ! みんなそんなものなんだ、誰だって考えてる事さ! 朱主ちゃんは普通の女の子なんだよっ!」
 俺は叫んで、そして朱主ちゃんに少しずつ歩み寄る。もうかける言葉も見つからない。
「普通、ね……。あなたが私の何を知ってるっていうの。知った風な口を訊かないで」
「いいや、分かるさ。朱主ちゃんが俺の事をお見通しのように、俺にだって分かる事もあるさ。確かに朱主ちゃんの事を俺はよく知らない……。けれどこれだけは分かる。朱主ちゃんは全然特別な女の子じゃない。ただの女の子だよ」
 見つかった。1つだけ、俺の心の奥にあった朱主ちゃんに対する言葉が。ありきたりだけど、シンプルだけど、とっておきの言葉。
「だから……なんであんたにそんな事が分かるのよっ!」
 とうとう激昂した朱主ちゃん。
 それなら言ってやる。
「だって――」
 偽りのない、俺の本当の気持ちを――。
「俺は朱主ちゃんが好きだから」
「えっ……?」
 一瞬、朱主ちゃんの時が止まったように――見えた。
 俺は続ける。
「朱主ちゃんは不幸せだから……自分は特別だと思い込むことでそれを正当化させたかっただけだ。だから俺が朱主ちゃんを普通の女の子にする。朱主ちゃんは幸せになれる。幸せにする。そりゃもう、朱主ちゃんが認めざるを得ないくらいまで徹底的に」
「公人……あなた何を言ってるのよ。そんなの……まるで」
「ああ、だってこれはライトノベルなんだ……やっぱり王道はラブコメだろ? 主人公が俺ならヒロインは間違いなく朱主ちゃん、君なんだ」
 俺は自分で言って何かに気付く。主役が俺でヒロインが朱主ちゃんなら、敵は誰だ。
「あなたの物語に私をいいように振り回さないでほしいわ……」
「確かにそうだな……でもな、俺が主人公っていっても、俺はヒロインの為の主人公だ。ヒロインなくしては主人公は存在しえない……それが俺なんだ。そもそもこのライトノベルは朱主ちゃんがいなければ書くことはなかった……実質上の主役は君なんだよ。だから主役は君に譲るよ。ヒロインも主役も君なんだ」
 だったら俺はなんだ? これは俺の本心なのか。いつものようにただ流れに任せての口からの出任せなんじゃないのか。いや、たとえそうじゃなくてもこの大事なシーンでこんなモノローグが出るということ自体……そうか……間違ってるのはいつも俺か。
「……いいえ、公人……この状況でそんな台詞が言えるなら主役はあなたにしか勤まらない。さすがよ公人。やっぱりあなたには小説の才能が……いえ、物語の才能がある」
「……いや、違う、朱主ちゃん。物語に才能なんていらない。面白い物語かどうかなんて誰にも決める権利はない。もっと言うと全ての物語は面白いんだ。面白くない物語なんてない。だから朱主ちゃん。君の新しい物語を続けよう。そのスタートは俺が切る」
 俺はそこで――ようやく気付いた。俺がやらなければならない事に。物語を終わらせられる方法を。
「スタート……?」
 朱主ちゃんが怪訝そうな目で見つめる中、俺は手にしていた小説の原稿、ゲキチューを封筒から取り出す。本当に倒さなければならない敵は、朱主ちゃんじゃなかった。
「それは何……?」
「これは俺が書いたライトノベルだよ……君との共同作品、仮の名でゲキチューって呼んでるけどね。そういや朱主ちゃんにこうやって見せるのは初めてだったね。劇中劇中劇のゲキチュー。一ヶ月か……短い時間だったけどかなり頑張ったよ。今の状況を考えたらもう完成間近っていうところだね」
 厚い原稿用紙をぷらぷら振って説明する。そう、打ち倒さなければならない敵は俺。真犯人、そして本当のラスボス……目覚めるべきなのは俺自身だった。
「それがどうかしたの……? また一緒に書いていこうっていうの? 締め切りはあと一週間もないんじゃないの?」
 だから俺は、主人公としての責任を果たすことに決めた。前を向いて歩くことを。
「いいや……その逆だよ。俺達は彼岸から此岸へ戻るんだよ。こうやって」
 俺は、心血を注いだ完成目前の『ゲキチュー』をビリビリに破った。何度も何度も何度も。俺が幻想から醒めるために。俺がこちら側に帰還するために。最初からラノベでも何でもなかったのだ。こんな小説のパロディのような物語なんていらないんだ。
「公人っ!? どうしてっ!? なんで……あなたなんて事をっ!」
「思ったんだけどさ、やっぱりこれ必要だなと思って……なんていうか今回の事件の象徴的なものを倒す必要があるっていうか……生け贄ともいうが……ん〜、さすがにちょっと惜しいなとも思うけど」
 細かく刻まれた紙片は暖かい山風によって舞い散ってゆく。まさに紙吹雪だ。
「そんな……分からない。なんでせっかくの作品を……」
「俺達はこれから新しく、現実で物語を創っていくんだ……新しい旅立ちには捨てていかなければいけないものもある。新しいことに向かうには変わる勇気がいるんだ。この小説はそんな俺達を惑わしそうだし、なんとなく不要なのかもしれないって……いや、これも今何となく思いついただけの台詞なんだけどね。……本当は、違うんだ」
「え……違う?」
 朱主ちゃんは長い髪を揺らしながら怪訝な顔で俺を見る。
「演出が大事なんだ。元々結末は始めから決まっていた……でも物語の締めくくりには相応の奇跡が必要なんだ。所詮俺はその演出を成し遂げるための装置に過ぎないのさ」
 俺は思いつくままにぶちまける。でも、なんだかとても身軽になったような。今なら全部、俺の本当が出せそうな。
「そんな、理由で……?」
 朱主ちゃんはまだ納得いかないような顔をしている。……当たり前だ。こんなんじゃ物語の締めくくりでも何でもない。まだ何かが足りないのだ。だからもう一踏ん張り俺は勇気を出さなければいけないのだ。俺の本音を見せなければいけないのだ――、だから。
「まだ足りないのならこうするまでだよ」
 俺は朱主ちゃんの元へゆっくり歩み寄って、そのまま――。
「えっ――?」
 朱主ちゃんの体を、強く抱きしめた。
「……それに、こうした方が物語的には盛り上がるだろ? ってこと。これでオチた」
 朱主ちゃんの耳元に囁くような形で俺は物語を結ぶ。これが今の俺ができる精一杯。
「……」
 朱主ちゃんの体は動かない。突然の事に呆気にとられているみたいだった。しかし、
「……。ふ……ふふ。うふふふふ」
 やがて朱主ちゃんが静かに笑い出した。体の震えが俺に伝わる。正直俺にはこれ以上何をすればいいのか分からない。これで納得してもらえなければ俺は物語を終わらせることはもう不可能だろう。永遠に彷徨ってしまう。
「やっぱり駄目かな?」
「……うふっ、ううん、納得したわ。オチとしては……少々弱いけれどね」
 終わった――俺は物語を終わらせることができたのだ。
 思わず安堵のため息が出る。俺はゆっくり体を離した。
「我ながらやっぱり地味だよな〜」
 思えばくだらない物語だったが、俺と朱主ちゃんにとって人生を変える分岐点だ。
「朱主ちゃん、俺と一緒に物語を創っていこう。そして2人でデビューしようぜ。俺はライトノベル作家、朱主ちゃんは漫画家。これは俺と君がデビューを目指す物語だ」
 気が付けば俺は朱主ちゃんの目前まで来ていた。
「公人……」
 そして朱主ちゃんも柵の内側へと――こっち側に戻ってきた。俺のすぐ側に。
「私、あなたのこと少し勘違いしてたみたい。あなたは問題から目を逸らして、いつも真剣な話題から逃れる事に全力を注いで、あなた自身を誤魔化し続けている……そんな人間だと思った」
「正直そんな人間だよ。それ以上もそれ以下もない。ちっぽけな人間だよ」
「うん、そうよ。あなたはちっぽけな人間よ。でもね、あなたはそれで私を救った……いえ、私のような人間だから、あるいはあなたのような人間だから救い合えた」
「運命の出会いってやつ?」
「引力よ……ううん、そんな意味ありげな言葉、もういらない。私の完敗よ……結局意味なんて最初から何もなかった。全部着飾ってただけ、虚飾……。認めるわ、あなたは私にとってのヒーロー。だから私達もっと胸を張って生きても大丈夫かもしれない」
 朱主ちゃんは背を向け、岬の向こう側の景色を眺めた。朝焼けの美しい空を。
「そうだな。そういう意味では俺も……朱主ちゃんに救われたんだな」
 結局……こんなものか。俺は大して何もしなかったし……何もすることなしで済んだ……原稿を破く程度の事で。拍子抜け? いいや、これも最善のシナリオだ。だって人生は一回きり。やり直しなんてできないから、世界は常に最善の状態なんだろう。
「じゃ、じゃあ、さ……公人。最後はこの作品らしい終わり方で締めくくってみせてよ。たとえ茶番劇だったとしても、それが主人公としての役割……責任重大なんだからね」
 振り返った朱主ちゃんは、意地悪そうな笑みを浮かべながら俺の目を見つめた。山上の心地いい風が吹いた。朱主ちゃんの頬は少し朱く染まってる。ああ、やっぱり朱主ちゃんは普通の女の子なんだって思った。何にしても……ここが俺の見せ場だよな。
「それじゃあ……仲直りの握手で」
「ばか」
 朱主ちゃんの華麗な蹴りが俺に炸裂した。うん、やっぱりそうだ。朱主ちゃんにはツンデレキャラがよく似合うじゃないか。
 俺達はしばらく2人っきりで、岬の展望台からこの街の景色を眺めていた。帰る頃には空は夕暮れの橙色に染まっていて、セミの声はひぐらしのものに変わっていた。街には人工の光がぽつぽつと灯り始めていた。これが、俺達の物語の舞台だった。





 そういうわけで、私は物語を一旦ここで完結させようと思う。
 この物語はいわずもがな私の物語だ。私が主人公だ。
 今はこの作品『ゲキチュー(仮)』を書き終わったところなので、勿論今後『ゲキチュー』がどうなるかは私には分からない。新人賞に投稿するが果たしてこんな物語が受け入れられるのかどうか……。見事評価され、出版される運びとなれば私という存在は物語として昇華されることになる。受け入れられなければこの物語の存在は始めからなかったというだけの話だ。つまりあなた達からすれば私も存在しない事になる。
 だが今になって思えば、それすら別にどちらにしてもいいことなのかもしれない。
 なぜなら、この作品がなくとも私は既に物語を持っていたのだ。私はここにいた。
 とは言っても、この物語の存在を否定されても構わないといえば嘘になる。私は作中の全ての登場人物の為にも、できるならば『ゲキチュー』を世に送り出したかった。
 存在をなかった事にしたくはないから。私達の戦いの証を。生きた証明を。
 仮にこの小説が世に出ることになれば……勿論これは内容がノンフィクションであるから、本名というのはまずい。やはり私はペンネームを使うべきだろう。
 考えてある。私にはピッタリな名前だ。主人公の名前をもじり、同時に作者は主人公であるという意味を持たせてみると……うん。これだ、公 主人――だ。この作品にはなんともピッタリじゃないか。
 世界はあまりに夢がなくて退屈だ。だから変えたかった。逃げたかった。これは私の戦いの残光。世界に可能性を与える為のツール。所詮ありもしない虚構にすがっているだけだとしても、この物語を存在させることで世界の仕組みから脱却できるなら。
 世界の仕組みは全然分からないことばかりだけれど、分からないからこそ何でもあり得るのだ。理解することはその可能性を殺すこと。解明することは世界を狭めること。知覚した瞬間にその存在は消える。だったら無知なのも悪くない。
 世界から抜け出すことはできなかったけれど、世界を変えることはできないかもしれないけれど、それでも私達はこの世界で生きていくしかない。だったら悪あがきをしてやろうじゃないか。世界に挑み続けようじゃないか。
 これは世界と戦うためのガイドブック。人生は戦いだ。これはそんな世界からの逃避と、挑戦と、世界と世界を繋げる為の物語。
 でも大丈夫、たとえ果ての見えない戦いで、目的の見えない戦いであっても……それでも決して自分は一人ではないという事を覚えていて欲しい。たとえ世界が違っても、世界を越えたどこか別の場所で戦っている人間がいるのだということを。
 君を思う人がいるのだ、と。
 これは、そんな世界のどこかの、小さな1つの物語。
 少年と少女の物語――。






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 第6章        .


 ああ、これでワタシの目的は完遂する。もうすぐだ。これでワタシは一つの世界を手に入れることができる。
 ――そう、思っていた。
 小説というカタチで封じ込めることにより世界はワタシのものとなる。
「……って! ……めろよっ!」
 だからワタシは……。それなのに――。
「おい、なにやってるんだよ! もういいかげんにしろよっ!」
 とうとうここに来てしまった――。
どうやってここに? なんなんだ、こいつは。
「これがあんたの望みだろ? 俺はこうしてあんたの元にやって来た。ずっと、ずっと追いかけて……今ようやく追いついたんだ」
 なんで物語に干渉できるんだ。ワタシがそういう物語として創ってしまったからか?
「だから……あんたの悪巧みはもう終わりなんだよ」
 これはある意味実験が成功したと言えるのか? でもまさか、本当にワタシの元にこいつが現れるなんて……。
「おい、なぁ、聞いてくれよっ」
 ワタシがどうとでもできるのに。ワタシに指図するなんて。つまりこういう事なのか。もう作者の元から離れてしまったのか。キャラが一人歩きするとはこういう意味なのか。
「たとえ俺の意思なんてなくても、全て決められていても――」
 だけど、やめろ、それはやり過ぎだっ! それはお前の役割を大きく超えている! ワタシの物語を勝手にかき回すな! ワタシを物語に関与させるな! 登場させようとするなッ!!
「俺の話を聞いてくれよっ、戒川先輩っ!」
 ……な、なぜ、こんな事ができる……主人公だからなのか。いや、違う。こいつは主人公じゃない。勿論ワタシでもない。主人公は不在なんだ。敢えて言うならこの小説こそが主人公……いや、そうでもない。小説すらもただの手段。主人公は世界そのものなのだ。いや、存在しない世界が主役。虚ろこそが主役。
「……なぁ、戒川先輩……俺は」
 追いかけても追いかけても遠ざかっていく、言葉では表せないモノこそが主役。だからこの小説にはタイトルだって付けられないのだ。それなのにこいつは――。
「俺は――先輩の事が好きだったんだよ」
 駄目だ……これではワタシはこの物語に関わってしまう。登場してしまう。内側に、取り込まれてしまう……。それでも――。
 ワタシは、ブチ切れた。
「だ、だから……お前は……お前はそんなキャラじゃないって言ってるだろうッッ!!」
「……ははっ、やっと俺と対等に向き合ってくれる気になりましたか、先輩」
「く……は、ははっ……なるほど。成程成程成程〜。そういうことか〜。でも駄目だって。無駄だって、路久佐君。だってねぇ、そんなことしたら、そもそもお前たちの存在消えるんだって。架空であるお前らの存在はぁ!」
「ねぇ、先輩。もうそんな話はおしまいにしましょう……そしてそんな小説もやめましょう、ね?」
「五月蠅い。ワタシの空想の分際が。なぜ登場人物が作者に反発するのかは分からんが……お前はただのワタシの妄想だ」
「ふふっ、いいですよ。分かりました。でも、それならそれでいい加減ノンフィクションはやめてあなたも小説の舞台に現れたらどうなんです? 俺達と同じステージに」
「ははぁん。ワタシが自分の作品にねぇ……」
「あなただったらできるでしょう? 何せ俺がここまで来られるくらいなんだから」
「フフンッ……ワタシは地の文なんだ。ワタシに勝てるわけがない。ワタシは神なのだ。同じ場所に立てと言う事がおこがましい。神が地に降りるということは、その世界にとっての神が不在になるということだぞ? いいのか? 神がいなくなれば神の創った世界は全て消えてなくなるのだぞ?」
「ははっ、それじゃまるでラスボスの台詞じゃないか。先輩。ライトノベルじゃないんですから……いや、もうジャンルもなにもないですよね、こうなっちゃ。……もうこれは小説として完全に破綻していますよ? 先輩、残念ですね」
「お……お前は何にも分かっちゃいないぞ、路久佐ぃ……お前は知らないんだよ。なんでまだ気付かない? お前はまだ内側にいるんだよ。お前はどこまで行っても蝶なんだよ」
「先輩の言ってる事分かりませんって。俺が内側にいるってんならそれでも、どこまでだって先輩を追いかけてやるよ。約束したじゃないですか、先輩を必ずつかまえるって」
「くっ……お、お前なんかに……お前ごときがぁ……」
「ほら、先輩。ちゃんと小説として成り立たせないと読者が全然ついていけませんよ? 俺だってこれでも読者が分かりやすいように言葉を選んで話しているんですよ? 作者であるあなたが頑張らないと……」
「う……う……こんな事が……こんなはずじゃあ……」
「……でも、もう全部おしまいです。俺はこの小説を否定しました。主人公は最後の最後に勝つものです。だから後はどうやって決着を着ければいいか分かりますよね? これはライトノベルなんですから……」
「う……み……み……」
「さぁ、ここから物語のまとめに入ろうじゃないかっ。ねぇ、戒川先輩ッ!」
「路久佐ァァァァァァ!!!!!」
 この瞬間、ワタシは執筆する事を断念した。
 そして、世界は終わった。






----- -----※アナザーワールド アクト999※----- ------



 つまりこれは虚構であるわけで――。

「はいっ、カ〜ットッ!」
 と、部長の声が聞こえたきたので、俺はようやく我に返った。慌てて俺はカメラ越しに見ていた世界から目を離す。何てことだ。撮影中にぼーっとしてるなんて事は初めてだぞ。
「お疲れ様で〜す」今までカメラ越しに覗いていた彼らは、俺達に挨拶を交わしてきた。
「ああ、お疲れ様です。休憩したら推理編のシーン撮りましょう」
 俺は軽く目眩を覚えながらも彼らに返事を返す。
 彼らは散り散りに休憩へと入っていった。
「は〜い」

 俺達、総合映像研究部(通称SEK)は簡単に言えば映像を撮る大学のサークルで、今は映画を撮っている。で――俺、は……そう。路久佐公人(みちくさきみと)だ。
 そして映画の内容は……そうそう、自分達で考えたオリジナルの推理サスペンスだ。さらに言うなれば、この映画は推理小説にありがちなメタを取り入れているんだった。
 難しい言い方になるが、推理小説を映画化する……と言うより、推理小説自体を撮る、という表現がぴったりくるようなそんな作品だ。いや、俺にも意味はよく分からない。
 つまりこれはそういう作品なんだ。本質なんて何もない。誰も知らない。ただの妄想。フィーリング。
 肝心の推理は中途半端でお粗末なものだった。いわゆる密室系で、貸しビルの一室で女子高生が殺されるというものだ。
 そういえば……結局犯人は誰なんだろう。脚本は途中までしかできていない、半ばやっつけで創っている作品なのだ。部長が言うにはこのままだと今度の展示に間に合わないから、とか言ってたけど何の展示だったろうか……最近頭がぼーっとする事がよくあるので困る。
 それにしても部長も部長だ。展示に間に合わないなら間に合わないで作品を考えろよ。オリジナルで脚本を始めから創ろうとするか? もうちょい計画性というものを考えて欲しいね。
 まぁ、別にいいんだけどね。と、俺はカメラの点検をしながらレンズ越しに部室を見た。
 カメラ越しの映像。偽物の世界を撮る自分。カメラの向こうの彼らは偽物。でもカメラを通さない彼らは本物。自分も本物。本物?
 でも果たしてそうだろうか。この映画のように俺達も誰かがレンズ越しに、スクリーン越しに、モニター越しに見ている世界でしかないのではないか?

「お〜い、公人っ♪ な〜に、ぼけっとしてんのよっ」
 突然、背後から声が聞こえたので振り返ると、そこには幼なじみの後輩で、同じSEK部に所属する紅坂朱主(こうさかしゅしゅ)がいた。
 俺達は学校から少し離れた場所にある公園に来ていた。
 撮っているシーンはと言えば……公園内で創作家達が集まって、密室で起こった殺人事件の推理合戦を繰り広げるいう内容だ。
 っていうか、なぜ公園で推理をするのかは俺には分からない。多分くだらない理由だろうけど。
「どした、朱主ちゃん。着替え終わったか……って、なんだよその衣装は! ここはコスプレ会場じゃねーよっ」
 見れば、朱主ちゃんはアニメ作品に出てきそうな魔法少女みたいなふりふりの衣装で現れた。公園のトイレでよく着替えられるよ。
「ミステリに新しい風を巻き起こす」
 その場でくるりと回転する朱主ちゃん。
「巻き起こらねーよ!」
 一部の大きなお友達からだったら巻き起こりそうだけど。パンツ見えそうだったし。
「今、私のパンツ見たでしょ?」
「えっ? 嘘? 俺、モノローグ口に出したっけ?」
「やっぱ見てたのね……あんたの顔見てりゃ分かるわ!」
「痛い痛いっ! 見てない見てないっ! ギリギリ見えそうで見えなかったし! あぎゃあああ腕がねじ切れるぅぅぅぅ!」
 なんて、いつものやりとりをしてると、兎奈々偽在兎(うななぎありと)部長がこっちにやって来た。
「路久佐ぃ、ちょっといいか〜?」
 けだるそうに在兎部長が俺に声をかける。
「は〜い、なんすか部長。……つーか、部長からも言ってやって下さいよ。朱主ちゃんのこの格好、いくらなんでもないでしょ」
 ここは一つ部長からもびしっと言って貰わなくてはな。
「うん。なかなか似合っているじゃないか。朱主。バッチグーだ」
 親指を立たせてびしっとウインク。
「これでアリなのかよ! どんなミステリだよ! なんで推理物に魔法少女が出てくるんだよッ! あと、バッチグーって言葉のチョイスどうかと思うよ、俺は!」
「う〜ん。『バッチグー』、なかなかハイカラなセンスだと思うんだけどな〜」
「って、食いつくとこそこ!?いや、ってかハイカラ自体もどうかと思いますよ」
 死語の嵐。分からない人はWEBで検索!
「そうか。あたしも流行には疎い方だと思っていたが……」
 少し落ち込んでいるような部長。っていうか歳いくつだよ。流行どころかもう死んでるじゃん。まず、日常のどこで耳にしたのだ?
「それで……部長。何か俺に用があるんじゃないんですか?」
 これ以上在兎部長の悲しそうな姿を見たくないので、俺は話題を戻すことにする。
「ああ、そうだった……。うん、このあと解決編撮るだろ。それでさ、結局誰を犯人にして、どういうトリックにすればいいんだろうなってまだ悩んでいて」
 何気にすごい爆弾発言をすらっと言っちゃった。
「うっそ、考えてなかったのっ!? 何も考えずに密室作っちゃったっ!?」
 しかし俺は危うくスルーしてしまうところだったツッコミをなんとか返した。
「てへっ」舌を出してウインクする部長。
「てへ、じゃねーよっ! どうすんだよっ! 朱主ちゃん、台本はどうなってるんだよっ?」
 この部長は頼りにならない。俺は朱主ちゃんに素早く向き直る。
「え、アドリブでやれって……」
 こいつも共犯者か〜いっ!
「無理じゃん! シナリオすらないじゃん! 推理物をアドリブってどんな試練だよっ!」
 俺が暴れていると、騒ぎを聞きつけた部員仲間の周防友根(すおうともね)と東雲寧々(しののめねね)、それに映画撮影の為にヘルプで来てもらっている俺の妹の路久佐仄(ほのか)がやって来た。
「さっきから五月蠅いな〜、お兄ちゃんは。もうちょっと協調性を持ちなさいよ〜」
 と、年齢の割にしっかりものの仄はほっぺを膨らませて言った。
「そうだぞ、仄ちゃんの言うとおりだぞ、路久佐。あんまり妹さんに心配かけさせるんじゃないっ」
 で、周防が妹に便乗する。なんか周防はやたらと俺の妹に対して優しすぎる気がするんだが大丈夫だろうか。
「文句があるんだったら自分で考えたらどうなの、路久佐くん」
 東雲さんまで俺を非難する始末だ。俺の味方はいないのかよ。
 ちなみにこの3人は今回の映画では登場しない。専ら裏方専門なのである。本当は俺も裏方だったんだけど……人数が足りなくて急遽出演するハメになったのはここだけの話だ。
 で、俺達がぐだぐだしていたら、部長がめんどくさくなってきたのか非難めいた瞳で俺を睨みつけた。
「路久佐、とりあえずお前が悪いっ」
「って、え? 俺!? なんでそうなるんだ!」
 すごい理不尽だ! 部長は俺の事を無視して、背中を向けていると突如、いいこと思いついた――と言って、
「よし、じゃあみんなで考えよう! お〜い、お前ら〜集合〜!」
 部長はパチパチ手を叩いてSEK部部員を集合させた。
「って、ええ〜っ!」
 なんて行き当たりばったりなんだ。今日中に終わらせる予定なのに。というかそもそも俺、カメラやれっていきなり言われて映画の内容もほとんど知らされてなかったんだけど。そして撮影兼出演するなんて話全く聞いてなかったんだけど。そしてまさか脚本すらできてないなんて知らなかったよ。
「よし、みんな集まったな……ん、仔鳥がいないけど?」
 部長を中心に公園内に集まった部員は8人。俺と、朱主ちゃん、在兎部長、美奈川無件(みなかわむげん)先輩、あと宮下境架(みやしたきょうか)に、あと裏方の周防と東雲さんと仄だ。
「ああ、仔鳥さんならもうとっくに帰りましたが。なんでも『ワタシの出番は終わったようだからもう帰る。用事もあるから』と」
 宮下は相変わらず無愛想に話す。朱主ちゃんもこんな奴のどこがいいんだか。や、俺は決して宮下が女子からモテモテなのを僻んでいるわけじゃないぞ。俺は宮下の親友として彼の将来を考えて……ああ、嘘だよ! ちっくしょー、羨ましいーっ!
「仔鳥が帰っただ〜? まったく、あいつは本当マイペースだよな〜」
 在兎部長が落胆するような声で言う。いや、でも実際、俺の方がもっと落胆してるんですけどね。だって、戒川仔鳥(かいかわことり)先輩は俺の……いや、これは俺の胸の内に秘めておく事だ。
「そんなに師匠を責めないで下さぁい、在兎女史。師匠も師匠で忙しいんですよ〜。師匠の脚本で映画を制作するとかそんな話を聞きましたし〜」
 戒川先輩をけなされると、すぐに美奈川先輩が食ってかかる。うんうん、できた弟子ですよ。あなたは。
「ええっ、ほんとですか、美奈川さん!」
 朱主ちゃんが叫んだ。ミーハーな朱主ちゃんはこういう話には目がないのだ。
「無名の会社ですけどね〜。それにまだ未定ですから」
「うっわ〜! それでも凄いです〜! いいなぁ〜」
 美奈川先輩の言葉に朱主ちゃんは目を輝かせている。いや、俺も驚いたよ。まさか戒川先輩の書いた脚本が映画になるなんて。あの人は普通の人間とは違う、何か特別なものを備えていたように思う。強いて言うならそれは、この世界とは違う、別の場所から来たとかそういった類のもの。彼女にはそんな神秘性があった。そして俺はその神秘性に惹かれていた。けれどそれは密かなもの。淡いもの。
「もしかして、無件。その会社って小岩井さんのところじゃないのか?」
 在兎部長の口から聞き慣れない人名が出た。
「ええ、ええ。そうなんですよ〜。師匠が小岩井さんに見せたところ、是非これで映画を撮りたいって言ったみたいなんですよ〜」
「えっと、小岩井さんって誰です?」
 朱主ちゃんは分からないことは律儀に聞く。なんでもキッチリしたい性格なんだろうな。
「ああ、そうか。1年のお前達は小岩井さんを知らないんだな。小岩井仮夢衣(こいわいけむい)。彼は去年までこの大学に通っていて、卒業と同時に映画制作会社に就職した人だ。在学中はあたし達と同じSEK部に所属してたんだ。まぁ、つまり先輩という事だ」
 分かりやすい説明ありがとうございます、部長。
「小岩井さんは去年までSEK部の部長だったんですよ〜。凄いやり手だったんです〜。そんな小岩井さんの目にかなった師匠の才能もすごいものです〜。僕もあやかりたいです〜」
 美奈川先輩は自分の事のように嬉しそうに語っている。うんうん。なんだかこっちまで嬉しくなってくるよ。……そうか、前の部長というのがその小岩井さんなのか……そうだったんですね、戒川先輩は……。
「……って、今はほっこりしてる時じゃねぇだろーがっ! 解決編をどうするか考えるのが先でしょうに!」
 すっかり忘れていたよ。この人達といたらいつもこんな調子だ。ああ怖い怖い。俺もうっかり感傷に浸ってたよ。
「そうだったな……よし、お前達。今から撮る解決編なんだが、実はどんな内容にするか全く考えてないんだ」
 予想通りブーイングが巻き起こった。主に美奈川先輩から。……あっ、部長が美奈川先輩をしばいた。大人しくなっちゃったよ。
 一同に落ち着きが戻って在兎部長は話を続ける。
「この映画、仔鳥が以前途中まで書いたシナリオにあたしがアレンジしたものなんだ。いざとなれば仔鳥に解決編を任せようと思ったが帰ったようだしな……じゃあ、路久佐。とりあえずお前の意見から聞こう」
 流れるような自然さで話が俺に振られた。
「って、俺からですか!?」
 無茶ぶりじゃん。
「そもそもお前から言い出した事だろ。まずお前が手本となれ」
 なんというジャイアニズム。こんな事なら俺も殺されてさっさと帰ればよかった。
「分かりましたよ……え〜と、そうですね……まずおさらいしましょう。この事件は密室で起こったものです。部屋には鍵が掛けられていて、窓にも鍵。更に窓には針金が何重にも巻かれていた。と」
「ああ、そうだ。他に人が出入りできるような空間はない。そして凶器も発見されていない。部屋の中には死体以外の物は何もない」
 部長がほどよく補完してくれた。
「まぁ、それは無断で空きビルを使ってるから〜、そんな大道具持っていけませんもんね〜。分かりやすくていいんですけど〜」
 ああ、そういうことか……。今の美奈川先輩の一言で全部納得がいったよ。劇中ではオカルト的な事を色々と並べて無理矢理こじつけていたが、なんだそりゃと言いたくなっちゃうよ。
「そうだな。持って行ったのは血液くらいだもんな。使った後、ばれないように血を消すのに結構苦労したよな。ケチャップだけど。うん、派手だからって一面に飛び散らせるんじゃなかったな」
 在兎部長は本当いいかげんな人だなぁ。それにケチャップ多めに持ってきたからってあれは使いすぎだろ。白い部屋が赤い部屋になってたし。
「こほん……それじゃあ話を戻しますよ。え〜と、それでどうやって解決させるかですけど……う〜ん……こういうのはどうです?」
 推理小説は得意な方じゃないのでいいアイデアが浮かばないが、ないよりはマシだろう。
「戒川先輩はやっぱり自殺だったんです。動機は劇中にも述べられていましたが、物語を構築するためです。つまりこうやって推理させることで、この事件を1つの物語にしようとしたんです」
 俺がそこまで言うと、この映画に出演はしていない周防が横から口を挟んてきた。
「ふぅ〜ん。そうか。やっぱりそれが一番しっくりくるな〜……でもさ、路久佐。だったら仔鳥は凶器をどこにやったんだ? 自分をめった刺しにしたんだぜ? その状態で遠くに隠しに行けるとは思えないけどさ」
 その問題があったか、ちくしょう。インパクトのある殺害現場だけ考えるからそんな矛盾が発生してくるんだよ、ったく。
「え〜と、それじゃあ凶器は……自分で飲み込んだんだ。ほら、曲芸師がよくやってる剣を飲み込むやつ。あの要領でさ」
 自信満々に言ってみる。自分で言うのもなんだが、なかなかいいアイデアじゃないか。と思っていたら朱主ちゃんが呆れた顔をして俺を見ていた。
「お兄ちゃん、馬鹿だね。警察が調べても凶器は見つからなかったんでしょ? だったら遺体解剖した瞬間すぐに分かっちゃうじゃない」
 なるほどね……。さすが兄と違ってできた妹だ。手厳しいや。
「う〜ん……となるとやっぱ自殺は無理があるな〜……かと言って他殺だとすると、誰を犯人にするかとか動機とか色々考え直さないといけない……勿論トリックも」
 俺はう〜ん、と再び唸って考え込む。いや、というかもう降参だ。これ以上考えても分からない。
「路久佐。それならばこういうのはどうだ」
 俺が困っていると、横から宮下が助け船を出してくれた。こいつは無愛想だけどいつもさりげないところで俺を助けてくれる。本当にいい奴だよ。無愛想だけど。
「凶器は恐らく刃物なのであって、まだ刃物とは決まっていないんだろう? ならば凶器を飲み込んでも構わない場合もある。それは……食べ物だ」
「た、食べ物?」
「ああ、路久佐の提案を拝借させて貰う形になるが……刃物が腹の中にあればすぐに警察に見つかってしまうだろう。だが、その凶器が普段口にするようなものであれば、たとえそれが自分の命を絶ったものでも違和感はないはずだ」
「な、成程……それはいいアイデアだ」
 宮下の発想に思わず感心してしまう俺。部長もこれまでのシナリオを読み返して矛盾がないかチェックしている。
「ふむふむ……うん、大丈夫だ。劇中において、警察は胃の内容物については一切触れていない。それでもいけそうだが……」
 と、部長は困ったような顔で言いよどんだ。
「どうしたんです、部長?」
「いやな、問題はその食べ物は一体なににすればいいのだろうって……なにせ人の体をズタズタに切り裂くんだ。相当硬くて鋭いものじゃないと。しかも食べられる物で」
 そうか……。そうなるとまた新しい問題が出てくるわけか……。
「それにさ」
 部長は尚も話を続ける。
「たとえその食べ物で、自分自身の体をズタズタにして、且つ食べられたとしよう……でもそんなものを胃の中に入れれば、解剖した際に怪しまれるんじゃないのか? だって血まみれの食べ物なんだぞ? 胃の中に入れてまもなく死んでるんだから、多分まだ消化されていないだろう」
「……そうですね。オレの説にも無理がありましたか」
 宮下は無表情ながらに少し残念そうな顔をして黙り込んだ。さすがに手詰まりだろう。
 難しい――。
 胃の中に収まって、且つ怪しまれないもの……解剖医の目を誤魔化せるもの……。
 何かいいアイデアはないかと何気なく周囲を見渡していた時だった。
 ふと、朱主ちゃんがさっきから黙っていたのが気になって彼女の方を見た。
「どったの、公人?」
 ああ、なんだ。あんなとこでブランコに乗りながらアイス食べてるよ、あはは。見れば近くに車屋台のアイス屋があった。まだ5月なのにもうアイス屋が来てるんだな〜。ま、今年は暑いもんな〜……。
 って、アイス食ってんじゃん! 何くつろいでるのっ!?
「お前さ〜、もうちょっと自分も何か考えようとか思わないのか。みんな一生懸命アイデア出し合ってるっていうのに」
 見かねた俺は朱主ちゃんの元へと向かった。で、隣のブランコに腰掛けた。朱主ちゃんは何も気にした様子もなくブランコを漕ぎながら釈明する。振り返れば俺の妹までアイス買いに行っちゃってるし。まだまだ子供だな。
「だって、私こういうの苦手だし……今日は暑いからさ〜……ってか、まだ5月なのに今年って暑くない? ほら。早く食べないとアイス溶けちゃうよ。公人も食べる?」
 そう言って、朱主ちゃんがアイスキャンデーを俺の目の前に差し出した。う〜ん。さっきはああ言ってみたものの、一心不乱にアイスキャンデーを舐める朱主ちゃんもなかなかOKなんじゃないのか。
「とか、思ったでしょ? 殺す」
「ひぃいいいい! 俺のモノローグを勝手に書かないで〜。ま、ちょっとは思ってたんだけどね! 俺にもそれ舐めさせあぎゃあああ!」
 バキィッ、と俺の背中に大きな衝撃。すごいよ、朱主さん。ブランコに乗りながらの攻撃。その遠心力を利用した高度なテクニックで俺はブランコごと彼方へと飛んでいったよ!
「ま、今回はこれくらいで特別に許してあげるけどね。溶ける前にアイス食べないと」
 許してないじゃん! すごく痛かったじゃん! あと、俺へのお仕置きはアイスより優先順位下なんだね! なんかさみしいね。
 俺は痛む背中を押さえながら朱主ちゃんを一瞥する。
「ふん、アイスなんて俺はいらないけどな……あ」
 俺は――そこでようやく思いついた。
 とてもくだらないトリック。
 とっても陳腐で、強引で、その場しのぎで、やり尽くされた案だけど――。こんな三文映画にはぴったりの種明かしだ。
「なに……? どうかした、公人? アイスならあげないわよ」
「いいや、アイスはいらないって。だってすぐに溶けてしまうんだろ? ははっ、でもお前のおかげで謎は解けたよ。感謝するぜ」
 俺はにやりと微笑んでブランコから立ち上がった。
 そしてすぐにみんなの元へと走って行って、撮影の準備を始めるように言った。


「それじゃいくぞ。3、2、1」
 映画の撮影が始まり、そして俺はカメラのレンズを通して別世界を見つめる。それは虚構の世界。
 レンズの先にいるのは虚構の世界。虚構の登場人物。しかし、確かについ先程まではそれらは全て現実だったのだ――。
 舞台は公園。創作家達が集まって密室事件の謎について推理合戦を繰り広げるというものだ。このシーンで事件は解決される。

「ということは紅坂……貴様は仔鳥先輩が自殺したって言うのか?」
 宮下境架が、宮下境架の役を演じている。勿論彼が演じているのは彼そのものではなくて、カメラを通した向こう側の世界の宮下境架である。向こう側の世界では、宮下は漫画家志望なのだ。
「ええ、そうなのよ……仔鳥さんは殺されたんじゃない。そうみせかけていただけなのよ」
 朱主ちゃんが朱主ちゃんの役を演じている。彼女が演じているのは衣装作りが趣味の少女。向こうの世界では事件を解決する探偵役も任されている。
「それではやはりぃ〜、師匠はこの現実を虚構の世界にしたかったから、内側に閉じ込めたかったから自分自身を殺したって言うんですか〜? 僕達が推理する事を見越してぇ」
 美奈川無件先輩が、ライトノベル作家志望の美奈川無件を演じている。そして戒川仔鳥は向こう側では死んでいる。
「だがな、朱主……そうだとしたら不可解な点が浮かび上がるんだけど……部屋の扉さ。鍵は掛けられていて、仔鳥の死体の上にあった。まぁ死体の上に乗ってたというのも、自殺でそんなことが可能なのか分からないがな……重要なのはだ、扉の施錠がお粗末だという点についてどう説明するのかって事だ。世界と隔絶する部屋が、世界とは完璧に隔絶されていなかった理由だよ」
 兎奈々偽在兎先輩が、出版業界志望の兎奈々偽在兎を演じる。部長はこちらの世界でも部長で、向こうの世界でも部長だ。だが、どちらの彼女もそれぞれ別の彼女にはなれない。
「それは簡単です。単なるミスリードが目的です。だって仔鳥さんは私達に推理をさせたかったんでしょう? だったら他者の犯行に見せる為に、部屋の扉の施錠を甘くした可能性は十分に考えられます。他殺に見せる為の偽装工作ですよ」
 先程俺達が急遽でっち上げたトリックの回答が、朱主ちゃんの口を通して語られる。もちろん鍵の施錠が厳重にされていなかったという設定は在兎部長の単なる思いつきで、それに対する理由とか回答とかは最初から何も考えていなかった。
「ん〜、だったらなおさら完璧な密室にするはずじゃないか? 普通。だってあたし達に推理させたいなら、より推理しがいのある完全な密室の方が面白いじゃないか」
「そこが落とし穴ですよ、在兎さん。だってこれは自殺なんですよ? 他殺だったら、いくらでも難しい不可能犯罪を創ろうとしてもおかしくありません。ですが自殺でそれを他殺に見せたい場合に、他殺を不可能にしては意味ないです。この場合やるべきなのは自殺の不可能性なんですよ」
 よくもまぁ……こんなにも熱心にできるよ。さっきまで朱主ちゃんも部長も全然やる気なかったのにな。つまり演じるとはこういうことなのか。綺麗な部分だけを究極に凝縮させ反映させることなのか……だったら虚構世界に魂が魅入られてしまうわけも分かるよ。
「ほう、なるほどねぇ……つまり朱主。お前はこう言いたいんだな。仔鳥は自殺したが、自殺だとすれば、自殺することそれ自体に不可能な点がある……と」
「そうですよ、在兎さん。そしてそれが……」
「凶器はどこへいったか……か」

 演じていく演じていく。
 彼らは演じていく。先程急ごしらえに作りあげた台本通りに演じていく。
 少し前まではこんな内容は存在すらなかったのに。こんな世界はなかったのに。少し前までは現実の俺達が考えていた事なのに。俺達が創りあげた世界なのに。
 進んでいく進んでいく。
 レンズ越しに見える世界そのものが全て創りあげられた虚構。
 覗きながら思う。演じている彼ら。覗いている俺。完成し上映される作品。それを鑑賞する誰か。どこからが虚構でどこからが本物だろうか。境界線が薄れていく。彼らの演技は続いていく。

「凶器は――氷よ」
「え――氷……だって!?」
 ふと、気付けば彼らの演劇が俺の知らない間に進んでいた。俺が知覚していなくても世界は進んでいくのだ。誰かが鑑賞することが前提の虚構の世界なのに。
 ああ、また意識がどこかに飛んでいたようだ。俺は一体どうしたっていうんだろう。まるでこの映画の内容そのものじゃないか……。俺自身が誰かの映画の登場人物でしかないような……。そして俺は何か大事な事を忘れているような気が……。
「氷なら胃の中に入っても……入らなくても溶けてしまえば問題はないはずよ」
「でも血液が胃の中に入れば分かるものなんじゃ?」
「だから自分の体をズタズタに引き裂いたのよ。胃の中に血が入り込んでもおかしくないようにね」
「だが、そんな状態で氷を食べられるなんて思えない……」
「そう。別に食べなくてもいいの。だって氷は放っておいても溶けて蒸発するでしょ? ほら、窓には鍵が掛かっていたけどカーテンは開いていたじゃない。これはね、早く水分を蒸発させる為なのよ。ほら、今年の春は気温が高いのよ」
「そ、そうかっ……で、でも氷が溶けたとしても、血は?」
「大丈夫よ……氷が溶けて、氷に付いた血が流れたってねぇ、部屋には血液が一面に飛び散っているからカモフラージュされるのよ」
「な……今どきこんな単純なトリックが使われるなんて」
「全く……難しく考えすぎなのよ。だってこれは推理小説じゃなくて現実なのよ」
 そうだ。カメラのレンズを通した彼らにとっては、それが現実であり世界の全て。
 カメラを覗いて彼らを見ている俺はそちら側にはいない。俺だって彼らと同じ舞台の登場人物なのに、俺だけカメラを回している。監督の在兎部長ですら出演しているというのに。
 俺もそっち側に混ざりたいのに――。
 なぜだろう。ふいに頭が痛くなってきた。誰かが俺の名前を呼んでいるようで、俺はここにいちゃいけないような気がして。今すぐ元の世界に戻らなくちゃいけないような気がして。そうだ。俺は映画じゃなくて、小説――

「はい、カーット!」
 と、レンズから覗く世界で在兎部長が突然叫んだ。
「おい、路久佐。お前またぼーっとしてたな? どうしたんだ? 風邪でもひいたか?」
 レンズ越しの彼らは、もう一つの世界からこちらの世界へと移行してゆく。徐々に徐々に境界線を越えて。
「って、公人。もうカメラはいいからほら、今日はここまでだよっ。片付けするよ」
 朱主ちゃんの声で俺はようやく正気に返った。そしてふと、ある場所に行かなければならないような気がした。
「す、すいません……ちょっと俺、体調悪いんで先に帰らせて貰います……」
 体調が悪いなんて勿論嘘だ……いや、でも確かに俺は体調が悪いような気がする。
「なんだ路久佐、いきなり。まぁいいよ。お大事にな」
 部長が気怠そうに、だけど心配そうな変な表情を浮かべてピロピロ手を振った。
「は、はい……後の事はよろしくお願いします」
 無性に気持ちが高まっていく。行かなければ。帰れなければ。
 遠くでは俺の妹と周防と東雲さんが撮影機材を抱えて談笑している。なんだかやけに遠くに見える。……行かなくちゃ。
 だけどふらつく足取りでこの場を去ろうとした時、朱主ちゃんが話しかけてきた。
「え? どうしたの、公人……体調悪いなら送ってこうか?」
 やっぱり心配そうな顔をしていた。
「いや、いいよ……悪いけど朱主ちゃん、片付け頼むよ」
 今は誰かと一緒にいたくなかった。違う、俺が一緒にいたいのは……。
「う、うん。別にいいけどさ……本当に大丈夫、公人? なんだか顔が青白いよ?」
「だ、大丈夫……そ、それじゃ頼んだから」
 しつこくまとわりつく朱主ちゃんを半ば強引に拒んで、俺は背を向けた。
「あっ、待ってよ。公人っ」
 朱主ちゃんの声が背中に突き刺さる。
 俺は走った。1分1秒でも早く、俺はそこに行かなければならなかった。


 電車に揺られて約30分。着いた先は廃墟寸前の貸しビル。
 俺はそのビルへ入って、とある空き部屋の前まで来た。
 ここは『秘密の部屋』。世界から隔絶された部屋。世界の外も内もない独立した世界。ここは夢から醒める場所。俺が見ていた世界。俺の世界を見ている誰か。合わせ鏡のように永遠に続く夢。
 頭がくらくらする。目眩がする。夢か現か分からないまま、ゆっくりと扉を開ける――。

「……やぁ、おかえりなさい……路久佐君」
 真っ白な世界。
「ああ、ただいま。戒川先輩」
 それは胡蝶の夢のように。
「路久佐君……これが世界なの。ワタシ達は初めから存在しなかったの……」
「そうなんですか……俺達はこの物語の為に創られたキャラクターだったんですね。でもなんとなく分かってました」
 理解した。戒川先輩が言ってた事は本当だったんだ。ここは俺の世界じゃない。
「よくここが分かったね、路久佐君」
「ええ……先輩の事ならいつだってきっとすぐに見つけられます……俺はいつも先輩を見ていたんですから。あの時からずっと」
 真っ白い部屋。世界と世界を繋ぐ次元の狭間。世界の全ての因果から隔絶された部屋は崩壊する。
「そっか、ワタシの気まぐれで随分長い間あなたを巻き込んでしまったのね……」
「違います、先輩。俺は先輩に出会って救われたんですよ。先輩が俺に生き甲斐を与えてくれたんです」
「でも、ワタシに出会わなければもっと別の生き方ができたはず。少なくとも路久佐君が傷つくことはなかったはず……」
「……」
 いや、俺はこの世界が本物でも偽物でも良かったんだ。だって元々本当なんてないんだから。たまたま俺がこの世界を選択したっていうだけで――。でも気付いてしまったらもうこの世界にはいられない。だって気付いた時点でもう偽物なんだ。
 白い部屋。そこにいるのは俺と戒川先輩の2人。カーテンの開かれた窓からは春の日差しが差し込む。外の世界は眩しくて見えない。いや、外の世界は果たして今も存在しているのだろうか。
「先輩。俺が先輩と初めて会ったときに言ってくれた言葉って覚えてますか?」
「え? 初めて会った時の言葉……」
「はい、先輩は俺に言いました。君の目は希望を見ていない目だ。この世界に希望が見いだせないなら、彼岸のかなたに創ればいい。ワタシが君に希望を与えてあげよう。って」
 発光する。部屋中に光が満たされていく。
「そして俺は先輩と一緒にこの部屋に来ました。その時、俺はあなたの目指す世界をいつかこの目で見ようと思いました」
「そっか……じゃあ路久佐君も許してくれるよね?」
 世界は白に包まれる。世界に終わりが訪れる。この部屋にも終わりが訪れる。
「大丈夫です。俺の世界が終わっても、誰かが覚えてくれていればそれで」
「うん、大丈夫。きっとその世界にはワタシも、路久佐君もいるはずだから」
 ああ、戒川先輩。あなたのやろうとしていた事は今も分かりませんけど、あなたがやりたかった事がようやく分かったような気がします。
「俺はずっと先輩のことが――」
 そして、俺の物語は終わった。



 エピローグ2


 それは、世界が生まれ変わる前の刹那の邂逅。一瞬の追憶。

 俺が小説家を目指すきっかけとなったのは、中学生の頃だった。そしてその時、俺は戒川仔鳥と出会ったのだ。
 あの時も春だった。俺は中学生活を毎日無意味に過ごしていた。
 人生には意味も目的も希望もない。思春期には誰もが考えるような事だが、メンタルが弱い俺はなかなかその時期が通り過ぎなかったのだ。いや、俺はその弱さにしがみついていたのだ。
 ある日――俺は家出する事に決めた。
 夜、家族が寝静まったのを見計らって外へ出た。終電に乗って知らない街に行った。荷物は何も持って行かなかった。あてもなく誰もいない街を彷徨い歩いていたら――1人の少女の後ろ姿を見た。
 真っ暗の闇の中、街灯の光に微かに照らされた少女はとても幻想的で、まるでおとぎの国の世界からやって来た妖精のように思えた。それは確かに俺が求めていた彼岸のかなたにある存在だった。
 気がつけば俺はその少女の後を追っていた。少女は一度も振り返ることなく、踊るような足取りで死んだ街を歩んでいく。
 辿り着いた場所は小さなビルだった。そのビルは古びていて、まるで妖怪の住処のようだと思った。少女はビルの中へ入っていく。俺も続いて中に入った。
 少女はビルの中を踊るような足取りで進んでいき、やがて一つの扉の前で立ち止まった。俺は物陰から少女の横顔を初めて見た。
 少女はこの世のものとは思えない綺麗な顔をしていた。いや、少女はやはりこの世のものではなかったのだろう。昔も今も。
 少女はふいに俺の方に顔を向けた。少女と目が合ってしまった。
 俺は突然のことで体が体が固まってしまう。身動きできなかった。心臓が止まりそうな程にその鼓動は激しくなった。
 俺は何も言えない。目の前の美しすぎる少女に対して。俺達の世界とは違う存在のモノに対して。
 やがて少女は俺の瞳を見つめたまま、ゆっくりと扉を開いて俺に語りかけた。その声はあまりにも綺麗で、透明で――。
「やぁ……君も来ないかい? 別の世界へ……。行きたいんでしょう。ここじゃない、別のどこかに。永遠の世界に」
 俺は……扉の先へ行った。



 そうだ。俺達の物語は完結してしまったんだ。世界という物語が。
 俺達はみんな消えてしまった。今この文章を書いている俺は誰でもないし、誰でもある。この物語の人物の誰でもあり、誰でもない。
 でも終わらせる事はできない。だって俺は約束したのだ。遠い昔に。……だから、まだ手段は残されているはずだ。
 そうだ。全部物語ならいっそフィクションにしてしまえばいい。どうせ全て虚構なのだ。幾多ある虚構の世界を全部繋げればいい。物語には終わりが必要なんだ。だから終わらせない。
 かつて――俺は永遠を求めた。世界を憎んだ。この世界はどうしようもなく続いていくという事実に。俺がこの世界で生きている時間は、歴史から見てほんの一瞬にすぎない。俺の認識できるずっと前から世界はあったし、俺が死んだ後も世界はずっと続いていく。
 だけど俺はその全てを知る事はできない。体験することはできない。自分という檻から抜け出せずに、歴史の一瞬に埋もれていくのだ。
 過去が体験できないのはまだ許容できる。歴史とは過去の積み重ねで、現在にいる俺はその過去の恩恵を受けられるから。疑似体験する事ができるのだから。
 だが、未来になると決して認識・知覚することはできない。今より優れた技術や生活の恩恵を受けられないし、どのようなものか知る事すらできないのだ。
 俺にはその事実がどうしても許せなかった。
 だけど――いま俺は終わらせようとしている。俺が求めた永遠を、俺の手で。
 そうだ。世界と一緒だ。終わらなければ物語は成立しないのだ。
 そう。回帰していけたなら。永遠に繰り返せるなら。終わりなんて本当はいらない。
 俺が……書いてやる。俺が完成させる。だって、これは俺の物語なんだから。俺が思い通りにできるんだ。だから俺が完成させる。永遠に終わらないように完結させる。
 そうだ。俺しかできない。俺ならなんだってできる。どんな暴挙も許される。なぜなら俺は神なのだ。登場人物は全て俺の意思でしかないのだ。
 ――こいつらは俺の駒なんだ。
 ははっ、そうだ。俺はまた全部を壊してしまうんだ。また全てを滅茶苦茶にしてしまうのだ。手に入らない幻想体験を求めて。
 俺は、けっきょく何を手に入れたかったのだろう。
 幻想。追いかけても追いかけても届かない蜃気楼のように。
 それは追憶の中にしかないもの。追いかければ追いかけるほどに後ろへ遠ざかるもの。
 俺は――。



「戒川先輩」
「えっ、なにっ?」
「いえ……先輩って好きな人とかいるのかな〜……って」
「え、えぇ!? い、いきなり何を言い出すのよ、路久佐君っ」
「いや、だって先輩ももう高校生なんでしょ。いくら自称、メタ高校生といえど、恋の1つや2つはあってもおかしくないはずですよ」
「う〜ん、恋……ね」
「はは〜ん。やっぱり先輩ともなると、恋なんて俗世のものにうつつを抜かす暇はないって訳ですか〜?」
「いっ、いや、ワ、ワタシだって一応はいるんだよ……え〜と……部活の先輩、なんだけど……SSK部の部長」
「え? あっ……ああ、そ、そうなんだ。やっぱり先輩でも好きな人とかいたんだな〜。あははっ」
「な、何がおかしいのよ……ワタシに好きな人がいちゃ駄目って言うのっ?」
「だ、駄目じゃないけどさ、意外だったなー、って……はは」
「むう……じゃあ、そういう路久佐君には好きな人いるのっ?」
「ええっ!? 俺ですかっ?」
「そうだよっ。路久佐君も来年からは高校生なんだから、好きな人がいたっておかしくないんじゃない?」
「……ま、まぁ、そりゃあいますけど……一応」
「へぇ〜……ねぇ、だれだれ?」
「ん〜……それは、ですねぇ」
「ほうほう」
「秘密です」
「ええ〜! ワタシは言ったのに〜。って路久佐君、逃げるな〜」
「はっは〜っ、追いついたら教えてあげますよ〜」
「絶対追いついて白状させるからね〜。ワタシは世界の謎を全て解き明かす超常的存在なのよぉ〜……ほら、すぐに追いついた〜」
「足早いですね、先輩」
「君が足遅いだけじゃない。じゃあ、今度はワタシが逃げる番だからね」
「って、なんですか先輩。なんか趣旨変わってません?」
「それじゃあ、ワタシをつかまえたら路久佐君の好きな人を言わせてあげる」
「なんですか、それ。意味分かりませんよっ」
「いいのいいのっ。ほらっ、スタート」
「分かりましたよ、先輩。俺はあなたをつかまえます」
 だって、俺は――。
「ねぇっ、路久佐君っ」
 なんですか、先輩。俺はちゃんと後ろにいますからね。なんとか頑張ってついていけてますよ。
「路久佐君はワタシがいなくても大丈夫だからっ」
 それはどういうことですか、先輩。心配しなくても俺はずっと先輩を追い続けますよ。
「だから、路久佐君は路久佐君の幸せに目を向けてっ」
 だから何を言ってるのか分かりませんよ……先輩。ちょっと足速いです。
「路久佐君はワタシに近づきすぎたのよ」
 遠いですよ、先輩っ。俺は全然あなたに近づけていませんよっ!
「ワタシは常に客観的な立場にしかいられないし、全ての現象に対してメタ化してしまう。だから……路久佐君とワタシは元々おなじ場所にはいられなかったの。これ以上は路久佐君、取り返しのつかないところまで行ってしまう。壊れてしまう」
 俺は先輩と一緒なら壊れてもどうなってもいいんだ。俺には先輩しかいない。先輩が俺を救ってくれたんだ。先輩がいないと、俺は……だから待って下さいっ。速すぎます。先輩っ。
「路久佐君にはちゃんと見守ってくれる人がいるよ。すぐ傍にいつも朱主ちゃんがいるんだよ」
 な、なんでここで朱主が出てくるんですか? 朱主はただの幼なじみですよ。俺は先輩が……。
「路久佐君、だから気付いてあげて。そして、これからも朱主ちゃんと仲良くしてあげるんだよ」
 ね、ねぇ、こっちを向いて下さいよ。先輩っ! お、俺は先輩がいないと駄目なんです!
「大丈夫、路久佐君は朱主ちゃんとならきっと上手くやっていけるよ」
 先輩っ。遠いです……遠すぎますよ、先輩の背中。俺は先輩だからここまでやっていけたんですよ。俺は先輩がいないと……。
「ごめんね」
 ……そ、そうだったんですね……やっと分かりました。俺はどうかしてたんですね。
「ありがとう」
 大丈夫です、俺は紅坂と仲良くやっていきます。俺の事はもう心配しなくても大丈夫です。
「だから……」
 だって……俺は、先輩の事が。
「さようなら」

 そして――俺は生まれ変わる。







 ---------おしまいの部分-----------


 数日後の事だ。紅坂朱主ちゃんからのメールによって呼び出された俺は、紅坂朱主ちゃんが一人で住んでいる高級マンションの一室へと来ていた。
 紅坂朱主曰く、俺に見せたいものがあるらしいのだが。

「これ……」紙の束を渡すビキニ姿の紅坂朱主ちゃんは、若干恥ずかしそうな表情だった。
「ん……これって」それを目にした俺は驚いた。というか目の前のビキニ姿の美少女に驚く。
 渡されたものは――小説だった。そして読んでいくうちにさらに驚かされた。ただの小説ではなかった。これはそう、路久佐公人――つまり俺――が執筆していた小説、劇中劇中劇『ゲキチュー』だった。
「なんで……朱主ちゃんがこれを……?」朱主ちゃんの水着の件はひとまず保留。
 路久佐公人はあの時、『ゲキチュー』をバラバラに破り捨て完成目前で放棄したはずだ。
「あなたが放棄した小説を私が代わりに執筆したのよ。でも……私じゃあ限界があるわ……まだまだ完成レベルとはいえないわ」
「え、だって……数日の間でこんな量を……!?」
 あの時からたしか……3日も経っていないはずだ。それははえーよ!
「これ位私が本気を出せばなんてこともないわよ」
 刺激の強い水着姿で気付かなかったが、よく見れば朱主ちゃんの目には隈ができていて、顔には疲労の色があった。なんてこともなかったであろう事は一目で分かった。
 俺はもう一度原稿に目を通す。確かに俺が書いたそのものではないが、おおまかな流れは一緒だった。
 考えてみればそうだ。今回のこの世界での物語、紅坂朱主と路久佐公人はその多くを共有していたのだ。だったら書けるはずなのだ、この小説は。
 読んでみるとなるほど……朱主ちゃんが知り得ない部分の描写はされていない。これはまだ未完成だ……だったら。
「でも、どうしてなんだ朱主ちゃん? 俺はもうこの物語を書くことはやめたんだぜ。現実を現実として生きるために。架空の世界は捨てたんだ」
「いいえ、架空じゃないわ。これはもう立派な、幻想から解放されたただの物語よ。世界の意思も関係ない。確かに存在した私の誇れる物語……あなたと私の出会いの物語」
「劇中劇中劇でも、俺自身の人生を綴った内容でも、結局は普通の小説ってことか?」
「そうよ。何であっても、あまねく人生は全て物語。一人一人みんなが持っている。ただしそれら全てが未完成。自分自身でも今が何ページにあるのか、あとどれ位で終わるのかは決して分からない。面白いのか駄作かなんて判断もできない。他人から見ればもっと分からない。他人から読めるのは現在進行中のページだけ。自分自身しか過去を読み返すことはできないの。だから物語が読めるということは、それだけでひとつの世界の始まりから終わりまでの歴史そのものを読み解くということ。この作品は公人の歴史観察記録であり、あなたを取り巻く人間観察であるのよ」
「電波モードの朱主節炸裂で理解が追いつかないが……つまりどういうことなんだ?」
「つまりこれはプロローグとしての2人の出会いの小説……私達の新しいスタートの為にもこれは完成させるべきよ」
「つまりシリーズ物で言えばゼロ巻的な、前日談のような作品ってことか……?」
「……いいえ、ごめんなさい。やっぱり違うわ……本当は、ただ私はあなたにこのライトノベルを完成させて新人賞に送って欲しいの。そして出版して欲しい……それだけ」
「……ははっ、なるほど」
 ……ってことだよな、やっぱ。俺もどこかで消化不良な感じがしてたんだ。そして朱主ちゃん、君の今の説明とても分かりやすかったよ。
「もう新人賞の締め切りまで残り1週間もないけど……私だけじゃこれが限界。公人、やっぱり最後はあなたに書いてもらいたくて……あなたが完成させるべきだから」
 だよな。終わりとして、しっくりするよな。君には敵わないよ。こんなにも強烈な個性を持ってるなんて。
「うん、それでこそ物語だからな……俺達で始めた物語は、俺達で完結させないといけないよな。でも、間に合うかなぁ……」
「大丈夫よ、だってあなたには最高の助っ人がいるじゃない」ふふふ、と大きな胸を揺らしながら不敵に微笑む朱主ちゃん。
「そうだったな、じゃ俺の本気を見せてやるか……の前に、今更だけど聞いていい?」
「何よ?」たぷんと胸を揺らして怪訝そうな顔をする。そんな揺らすと紐ほどけるよ。
「何で朱主ちゃんは水着姿でいらっしゃるのかな?」エロすぎます。
「あら、そんなの当たり前じゃない。夏は海って相場が決まっているのよ。だから、無事にラノベが完成したら……2人で海に行きましょう、公人」
 そう言うと朱主ちゃんは恥ずかしそうに顔を背けた。その仕草に俺は少しドキリとしてしまった。……ってか、マジでブラの紐が解けそうになってるぞ。こりゃやばい。
「……はは、それじゃあ頑張って仕上げないとな。あ、あとさ……朱主ちゃん。言いづらいんだけどその……ブラの紐がほどけそ……あ」遅かったです。
 朱主ちゃんのブラの紐が解けて……ぷるんとした胸がこんにちわ。ビキニのブラがハラリと床に落ちる。その間、朱主ちゃんは驚愕の表情を浮かべたまま身動きひとつしない。はい、俺死んだ。
「けれど……執筆前に公人……あなた一度殺されて貰えるかしら?」
「……やれやれ、これもお約束か……って、ふぎゃああああ痛いいいいいい! あと胸が当たってるううううう!」
 1つの物語をめぐって、様々な紆余曲折があったけれど……とにかく、こうして俺は再びキーボードと対面することとなった。物語の幕を降ろす為に。
 けれど、今度は朱主ちゃんも一緒だった。
 だってこれは――路久佐公人と、紅坂朱主を取り巻く物語なのだから。
 そして俺はこれからこの世界で生きていく。朱主ちゃんと。







 プロローグ1


 俺が部室で新しいライトノベルを書いていた時だった。
「こんにちゃ〜」
 放課後の暖かい木漏れ日が差し込む、平和で穏やかな部屋。キーボードの音だけがこだまする静寂の空間に、突如ガラリと部室の扉が開かれ、この部屋に命が吹き込まれた。
「やほやっほー公人」
「……」
 彼女は……そう、総合創作研究部、通称SSK部の部員の1人であり俺の幼なじみ、紅坂朱主である。
「ん? 何書いてんの? 新作?」
 てくてくと俺の元まで歩み寄り、横からノートパソコンを覗き込む紅坂。サラサラした髪が俺の顔に触れる。ああ、これが女の子の香り……。
「って、いてえっ! なんで殴った!?」
「いや……なんか身の危険を感じたと言うか。なんかごめん」
 や、その反応は正しかったかもしれないけど……すげーな。野生の勘か?
「ねぇ、公人。それよりこの小説は何? とてもメタメタしいけど」
 好奇心旺盛らしく紅坂朱主は興味を示したようだ。
「あ、ああ……よく聞いてくれた。実は俺すげーアイデア思いついたんだ〜。小説の中に囚われた人間の話だ」
 得意満面の顔で仰々しく作品を紹介した。
「ふ〜ん。ありがちというか、古典的というか。別にすげーアイデアじゃないというか」
 けなしますねぇ。俺の事になると。
「ごほんっ……これはな、未来を描く謎の作者による小説。そして自分は小説の世界にいるのだと気付いた主人公は、小説から抜け出す為に奔走する、そんな物語」
「へ〜、まじですか〜」
 なんか結構どうでもよさそうな顔で聞いてる紅坂朱主。まぁいいや。
「でさ、謎の作者のペンネームを公主人(おおやけおもと)にしようと思うんだ。作者が主人公、面白いだろ〜。さらに面白いのは、この小説自体の作者のペンネームも公主人にする。つまり俺は公主人としてこの小説を書く」
「な〜んか、ややこしいね……で、タイトルは何ていうの?」
 はて困った……そこまで考えてなかった。
「いや、それはまだ考えていないんだけど……なかなかいいタイトルが思いつかなくてな……う〜ん」
「ま、タイトル考えるのが一番難しいとも聞くからね〜」
 それは言い過ぎじゃないの? 一理あるかもだけど。
「そうだな〜……じゃあさ、これでいこう。『ノベル・オーバー』。小説という世界を越えていくって意味。シンプルで分かりやすいだろ?」
「うっわ〜、すっごくいいかげん〜。で、それって最後どうするの? こんな調子じゃ考えてないでしょ〜。風呂敷ちゃんときれいに畳めるの? こういう物語は設定を考えるまではいいんだけど、最後、話をまとめるとこが難しいのよ」
 こいつは常にいやらしい質問ばっかりしてくるよなぁ……。
「……うん。難いんだな〜それが。いやまぁ、今考えてるのは……最後、主人公は消えてしまうんだけどさ。っていうか世界が消えるってのかな〜」
「えぇ、バッドエンドなの? こういう作品にはよくありそうだけどさ……」
「むぅ〜……そこが考えどころなんだよな〜……安易に世界消滅オチにすると意外性がないからな〜。やり尽くされた感というか」
 正直、風呂敷畳めない。出オチになってしまうというか。
 俺がしばらく唸っていたら、紅坂朱主がいいアイデアを提供してくれた。
「うーん。だったらねぇ……公人。今私達が喋ってるこのシーンを入れるのはどうかと……」
 ああ……そういう内容か。
「はぁ、楽屋落ちはねぇ……さすがにないわぁ。暴動起こるぞ」
「誰が起こすのよ。この小説にそんな価値は出ないっての」
「ですよね……」
 少し悲しくなりました。書いてく自信なくなりました。
「う〜ん。オチかぁ〜……」
 紅坂朱主はうんうんと、俺の為に頑張って唸ってくれている。というよりただの興味本位なんだろうが。
「あっ! それじゃあ逆転の発想。終わらせなければいいのよ!」
 紅坂朱主の顔を見つめていたら、いきなり表情が明るくなって叫んだ。俺はびっくりして少し体が跳ね上がってしまった。
「ど、どういうこと?」
 俺は尋ねながら考えた。俺と紅坂朱主がいるこの部室。そして外にある世界の事。今、俺の頭の中で世界が展開されていく。それは俺の頭の中にある虚構の世界。
「物語が終わったら寂しい気持ちになる時があるじゃない? だからさ、ずーっと続いていくのよ。そんな物語があってら面白いんじゃない?」
 これは彼らの物語。俺はただの代弁者に過ぎない。語り部に過ぎない。彼ら一人一人が主役であり、本当なのだ。
「でもそんな事したら読了後の感動というかカタルシスというか、とにかく読み終わってももやもやするだけだろ?」
 創作とはもう一つの世界を生み出すこと。そして世界は決して終われない。だから作品にももしかすると終わりはないのかもしれない。たとえ完結したとしても――。
「違うわ。むしろ、その逆よ。だってそれでもこの物語は小説なのよ? 現実ではないわ。だから、物語が続いていくからこそ、読者は寂しい気持ちが起こるんじゃないの? 彼らの物語は続いていくんだけど、読者はそれを想像するしかないの。その切ない感情がある種のカタルシスなのよ」
 その寂寥感とは……それはある種の神秘の追求であり、幻想主義。
「でもそれを言うなら、普通の小説はみんなそんなものだろ? 完結した後でも世界は続いてるだろ」
 全ては想像であり、創作である。それらは決して終われない。
「ううん。この小説はそれをはっきりと示すのよ。読者の二次創作的なものでなく、正統な続編として。この小説にはちゃんと続きが存在するの。けれど読者は決してその内容を知りようがないの……ね、とっても幻想的でいいんじゃない?」
 だから俺は追憶の中にある神秘体験を求めて、これからも幾多の物語を渡り歩く。
「う〜ん。なんとなく言ってる意味は分かるけど、どうするんだよ? 偽のあとがきでも書くのか? つーか、そんな難題な注文だと、話をどうやって書いていけばいいか、どう続けていけばいいのかも分からなくなるぞ……」
 だから、俺は朱主ちゃんと共にこの幻想世界を歩んでいく――。
「それはね……とりあえずこの楽屋オチの後にはこう続くのよ」


 〜この物語はそもそも小説だ〜







 あとがき

 どうでしたか。楽しんで頂けましたか? え、わけ分からなかったですか? ならあなたは私の思惑通りに読んで頂けたわけです。これはそんな物語なのですから。
 この物語は現実と架空の境界線をあやふやなものにしようと試みた産物です。そうです、なんだかんだと作中で言ってましたが、こうして文字になっている以上、そしてあなたが読んでいる以上、所詮これは小説です。
 つまりは偽物の物語。強いて本物を挙げるとするならば、それは唯一この部分。そう、『あとがき』部分であると言えます。『あとがき』は作品全体を書き上げた作者の言葉。それは『現実』の人物の『現実』の言葉。唯一、読者と同じステージに立って語る事のできる場所。
 だから、こんな物語だから、私はここで言っておかなければならないのでしょう。本物としての私の言葉を。私の目的を。
 それは――この『あとがき』を含めた作品全体を通して、やはり全てが真実だという事です。驚きましたか? それとも怒りましたか?
『虚構』である作品内で、『あとがき』という例外だからこそ、ここで声を大にして言いたいのです。読者が唯一『真実』として読んで頂ける部分だからこそ。よけいなフィルターも先入観もなく、純度そのままに受け取って貰いたいから。信じて貰いたいから。
 こんな事を言うとまたあなたを混乱させる事になるでしょうが、ご理解頂きたい。そしてここまで読んでこられたあなたなら、きっと分かって頂けると思います。果たして私も、これを読んでいるあなたも、現実に生きていると言えるのでしょうか?
 きっとこの作品を読んでいる大多数の人が私の事を知らないと思いますし、私も一体誰がこの作品を読んでいるのか全て把握している訳ではありません。ならあなたは私を『虚構』の存在と思っても不思議ではないのです。
 ならばやはり世界は、いつ崩れるか分からない危うい均衡の上に成り立っているのでしょうか。
 私はその答えを探して、この作品を使って大がかりな実験を行いました。あわよくば世界の果てを目指して、違う世界の扉を探して、世界の答えを探して。
 そして私はとうとう答えを見つけることができました。それは物語の内側であるし、虚構でもある。それは現実であるし、その外側でもある。いわば私は作品という虚構世界にも行くことができ、また現実にも存在し、さらにはその外側にも在るのです。
 私は自由を手に入れました。エンターテインメントの数だけ……いや、それ以上、想像が許す限りの、無数の世界を自由自在に飛び回ることができます。
 まぁ、それは自分なりの答えですが……自分だけの答えですが……。
 なので申し訳ないですが、ここでその答えを口にする事はしません。なぜならその答えは一人一人がそれぞれ持っているものであって、誰かに聞くものではないと思うからです。
 だからこの本を読んでくれたあなた。頑張って下さい。きっとあなたも見つけることができます。自分が求める世界を。自分だけの世界を――。
 それでは私は一足先に旅立ちます。世界を越えた場所に。

                                   公 主人





 ――***――end



「ちょっと〜、聞いているのか路久佐ぁ」
 俺が惚けていたら友人の周防友根が咎めた。今日のこの会合の首謀者だ。
「お前まだそんなフラフラした状態でこれからどうすんだ? 大学は辞めたのか?」
 相変わらず俺についての案件で盛り上がる。まぁ、家賃払うのも限界だし、相変わらず実家からは帰還の要請が止まらない。正直何もかも放り出したくなるくらいだ。
 だが今回もそれだけじゃない。本日の会合の真の目的が周防により提示される。
「実は君たち二人に相談に乗って欲しい件があるのだが……」
 すげー嫌な予感です。
「ならば必然、ここの代金は貴様持ちだ」
 俺の隣に腰掛けている宮下境架が言った。
「まぁ……いいよ。そしてそれは同時に、それだけ僕は真剣だって事を暗示してる訳だからねぇ」周防は気にせず続け、そして「……実は僕、彼女ができちゃった」言った。
 ……正直どうでもよかった。てか、またかよ。輪廻してゆくつもりかお前は。
「すまん、どうでもいい」宮下が俺の気持ちを代弁するかのように同意見を述べる。
「今日のメインテーマを一瞬で終わらさないでっ!」
 いや、終わらせといた方がいいかもよ、周防。
「貴様、もう彼女はこりごりだとついこの間まで言ってたではないか」
「うっせ、彼女持ち。それはそれ、これはこれ。明日は明日の風が吹くのさ」
「だから彼女じゃないと言うのに……」
 はぁ……なんだかんだで俺達は変わらないな……。俺はガラス窓の向こう側に目を向けた。すっかり寒くなった外では今にでも雨が降りそうな、そんな空の色だった。
 周防が新しい彼女について不平不満を垂れ流している時、俺のズボンのポケットから携帯電話が振動しているのに気づいた。
「あっ……やべ、そろそろ時間だ」俺は立ち上がる。
「そうか、貴様、約束があったんだな」宮下が周防の話を切り上げるように、俺に顔を向ける。ついでになぜか立ち上がった。
「なんだよ、僕の話はこれからなのに」周防は不満そうな顔をしている
「遅れたらどうなる事か分からないからな……先に失礼させてもらうよ」
「……分かったよ。だが宮下、お前は僕の話に付き合え」
 周防は俺と共に帰ろうとしていた宮下に言うとにやにやと笑った。
「あまり変な話に俺を巻き込むのはよせ。迷惑千万だ」
 宮下はひとりごちるように言った。ご愁傷様。次はお前の番だ、宮下。


 俺は最近できた大型ショッピングモールに来ていた。
「遅いっ遅すぎるわ! 5分も待たせて!」
 待ち合わせの主も既に来ていて、そして怒りを露わにしていた。
「遅いって約束の時間通りに着いたじゃないか、っていうか5分位でうるさいなぁ」
 いきなりの洗礼に驚いた俺は至極まっとうな意見で反論する。
「言ってみただけよ。お約束だから」
 さっぱりとそう言って待ち合わせの主、朱主ちゃんはスタスタと歩き出した。
「そりゃ、ごもっともだ」
 俺は朱主ちゃんの後を慌てて追った。それにしても寒い。まだ冬になったばかりだというのに……これからもっと寒くなりそうだな、こりゃ。手袋しとけばよかった。
 朱主ちゃんの服装はこの時期にしては逆にまだ早いと思われる分厚いコート。男物か? サイズが大きいように見えるが……まぁ彼女にしてみれば意外とまともだ。
「うん、やっぱり寒いときはあったかい格好が一番だよな」
「ちなみにコートの下は下着姿よ」
 すいません、撤回します。この子まともじゃありません、変態です。痴女です。よし、今から朱主ちゃんの下着姿があらわにならないか俺が見張ってやらないとな。決してやましい気持ちはないぜ? 目を皿のようにして朱主ちゃんを追跡。
「ところで」と、朱主ちゃんは俺の方を振り向くこともなく言った。「公人、あなた執筆の方は進んでいるの? そんな気配が全然まったく見えてこないんだけれど」
「う〜ん、なんちゅうかやっぱり物語創りというのは俺には難しくてな〜……なかなか進まないんだな〜これが」全然まったく進んでいません。
 バイト先の先輩、美奈川さんと共に新作を書いているのだけれど2人共全然駄目。やっぱり俺達には才能というものがないのかもしれない。
 けれど俺がそんな風に嘆いていると決まって美奈川さんは、「大丈夫、路久佐君。僕達にはきっと輝かしい未来が待っている。今が辛いのもこんなにみじめなのも全部意味があったって分かる日が来るよ。だからここで諦めちゃいけない」とか言ってる。眼鏡をキラリと輝かせて。すっかりやる気まんまんなんだから。まったく、可愛い顔して。
「ふん、なによそれ。不本意だけれど、あなたは一応私の戦友でもあり、ライバルってことになっているんだからねっ!」
 おっと、美奈川さんの回想をしていたらすっかり朱主ちゃんの話を聞きそびれてしまったよ。えーと、なんだっけ。
「じゃあ、朱主ちゃんはどうなんだよ? 漫画書いてるのか?」
 よく分からないけど、とりあえず俺はわざとらしく、意地悪い口調でそう聞いてみる。
「ふっふん。聞いて驚きなさい、公人……いえ、違うわね。見て驚きなさいかしら」朱主ちゃんは不敵に笑っていた。
 どういう意味かと思っていると突然、朱主ちゃんの方からアラーム音が聞こえた。
「誰かしら……私にメールが送られてくるなんて珍しい」
 そんな悲しい事実をさりげなくカミングアウトしながら携帯電話をいじる朱主ちゃん。俺は知りたくなかったよ、いっそ。っていうか着メロが明らかにいつぞやの君の自作アニソンだったようだけど、その件はスルーでいいですか? 録音したの?
「……ふふっ」携帯画面を見つめる朱主ちゃんが笑みを漏らした。
「ほう」
 俺はそれを見逃さない。
「なっ、見てるんじゃないわよ。ちょっと下らない冗談に思わず失笑してしまったの」
 弁解している朱主ちゃんはなかなか可愛い。
「でも、朱主ちゃんも冗談が言い合える友達ができたんだな〜」
 照れている朱主ちゃんをしみじみと見つめる。まるでそれは成長を見守る兄のような目。
「ふんっ……その友達からあなたに伝言よ。早く実家に帰ってこい、お兄ちゃん」
「うっ……ええっ……」
 妹の仄かよっ! 思わずたじろいでしまった。防衛本能というか。
 てかちょい待ち。ここは軽く流しちゃいけないぞ。重要なとこあったぞ、おい。
「朱主ちゃん……もう一回、お兄ちゃんって言ってみて」
「ぼけ」
 朱主ちゃんのローキックが炸裂した。ブーツを履いていたのでこれは正直痛かった。
「ちょ……これ地味に痛いって……」
 俺が脛を押さえながら悶えていると、
「ぼっ、暴力はだめだよっ朱主ちゃん〜っ!」
 特徴的な、弱々しいけれども甘ったるい声が聞こえた。
「えっ!? この声は……!」俺は驚いて振り返る。
「や、やほやほ〜、公人くんに朱主ちゃん。こ、こんなところで奇遇だね〜っ」
 俺の密かな憧れの人、戒川仔鳥ちゃんだった。
「か……仔鳥ちゃん」
 痛みも忘れて仔鳥ちゃんに魅入ってしまう。匂いも嗅いでおく、くんかくんか。
「き、今日は寧音ちゃんとショッピングに来たんだけど……どうやらはぐれちゃったみたい〜」眉を寄せて困ったような顔をする仔鳥ちゃん。
「そ……そうなんだ。じゃ、じゃあさ俺達も一緒に探すの手伝おうか?」
 一応言っておくがこれは決して下心からの台詞ではない。……ごめん、下心かも。
 仔鳥ちゃんはそんな俺の気持ちを汲み取ったのかそうでないのか、しばらく俺と朱主ちゃんの顔を交互に見つめてから、
「……ううん、いいや。わたしのことは大丈夫ぅ」
 仔鳥ちゃんはおどおどしながらも満面の笑みを向けた。
「お〜いっ、仔鳥っ。勝手に動くなっていつも言ってるでしょー」
 遠くに東雲寧音が手を振っている姿が見えた。
「ほら、大丈夫でしょ? 寧音ちゃんはいつだってわたしを見つけてくれるもん」
 そう言うと仔鳥ちゃんはより一層の笑顔を向けて、
「そ、それじゃあお邪魔してゴメン、2人とも。ごゆっくりお楽しみにっ」
 そして小走りで東雲さんの元へと駆け寄っていった。
 と、思ったら……今度はなぜか東雲寧々が1人で俺達の方にやって来た。なんだろう。
「ちょっといいかしら、路久佐くん」
 俺は耳を貸すように言われたので、朱主ちゃんから少し離れて東雲さんの話を聞いた。
「あんたね……言っておくけど浮気わ駄目だからね……。ここだけの話だけど仔鳥には好きな人がいるんだからね」
「う、うそ……それは、誰……」
 衝撃の事実に俺はショックを隠しきれない。
「本屋の美形店員。仔鳥が師匠師匠って慕ってるの」
 そう言うと東雲寧々は仔鳥ちゃんの方へと走っていった。
 なんだか俺はどっと疲れた。……っていうか。
「……はぁ、なんかいろいろ勘違いされたかもしれないけど……ま、こんな思いがけない場所で仔鳥ちゃんと会えたからよしとするか……」
 仔鳥ちゃんの後ろ姿を眺めながらぼやいた。っていうかみとれていた。
 すると、またもや朱主ちゃんからローキックを頂いた。
「いたい」
 しかも先程と寸分違わぬ部分だった。集中攻撃だ。しばらく転げ悶えた。
「つか、何故に!? 理不尽だ!」
「自分の胸に聞いてみなさい」
 当分この足は使い物にならないだろう。
 
「ふふん……着いたわ。約束の地……」
 そう言って朱主ちゃんはいつも以上に不敵に笑った。
「本屋じゃん」
 着いた先はショッピングモール内にある大型書店だった。
「ぬしししし……見て驚くのはこれからよぉ、公人」
 朱主ちゃんは歩を進め、漫画雑誌コーナーへ行くと立ち読みしだした。まさか……。
「そのまさかよ、これをご覧なさい」朱主ちゃんは漫画雑誌を開けて俺に見せつけた。
「すっげ……朱主ちゃん。これ朱主ちゃんの漫画じゃん!」
 俺は感動した。普段感情の起伏が著しく少ないこの俺がだぜ? その位のもんだよ。
 朱主ちゃんの作風は何度か漫画を見せて貰った事で俺は知っていた。確かにこれは朱主ちゃんの作品だ。
「といっても……読み切り作品だけれどね」
 朱主ちゃんは顔を赤らめて補足する。照れているのか? 頭撫でてやろうか? やめておくけどね。これ以上蹴りを受けたらこの足を放棄する事になってしまうから。
「それでもすげーよ、おめでとう。朱主ちゃん!」
 俺は朱主ちゃんの漫画をその場で一読。幻想的でふわふわして……うん、朱主ちゃんらしい作品で、とても面白い。そして気づく。この雑誌の出版社は才文社だった。
「あっ……この漫画、才文社のだったんだ……」何気なく呟く。
「そうよ、才文社よ……そしてね、面白いことに私の読み切り作品の担当は小岩井仮夢衣っていう人だったのよ」
「えっ……小岩井さん!? 小岩井さんってあの小岩井さんっ?」どの小岩井さんだ。
「そうよ。あなたのお友達の担当編集者の小岩井さんよ。はぁ。あの人も困ったものね。私があなたの知り合いだと言ったら話がどんどんと脱線していって、なぜか結局はいつもあなたの幼なじみの兎奈々偽大先生の話になるのよ……興味ないっての」
 朱主ちゃんは珍しく愚痴っぽくなる。でもなんだかんだ言って自分の漫画が掲載されて嬉しいんだろう。分かるぜ、朱主ちゃん。
 それにしても、兎奈々偽在兎……か。小岩井さんに警告された後、あいつとは会っていないよな〜……。久しぶりに在兎に会ってみるのも悪くないよな。といっても小岩井さんによってケータイの番号を変えさせられたのか、音信不通になっちゃったんだけどね。そういえば……実は朱主ちゃんはかつて俺の地元と同じ場所にいたんだよな。だったら……いや、それは今は置いておくか。
 そうさ。これが物語なら在兎にもきっと再会できる。そう、近いうちにきっと……。
 けれど……どうでもいいが、あいつってあんなに面倒見よかったけ。色々アドバイスしてくれて、自分の仕事犠牲にしてまでさ……もしかして俺のことが好きだったり。
「……はは、それだけはないか」
 何しろ男言葉で男装趣味。半分男だろ、あいつは。一度美奈川さんと会わせてやりたいね。……いや、適当に言ってみたがこれは実際マジで面白そうだ。
「……なにが?」朱主ちゃんがきょとんとした目で見る。
「いんや、独り言だよ」
 ――気にしなくてもヒロインの地位は朱主ちゃんなんだから安心しろってことだ。
 嬉々として漫画雑誌を手に、レジへと小走りで向かう朱主ちゃんを見ながら思った。
 そう、だってこれは俺と朱主ちゃんがいないと成立しない物語なんだもんな。
 俺はちらりと視線を、ライトノベルが並んだコーナーへと向ける。
 俺の書くライトノベルは世界の真理を解き明かす本。現実と虚構を繋げる橋。
 数多のライトノベルが並ぶ中、平積みにされたある1冊の本で視線を止める。
 俺の劇中劇中劇は世界に挑んだ一つの戦いの証。
 そしてこれからも俺達は世界に挑戦する。朱主ちゃんは漫画、俺はライトノベルで。
 俺の物語は、俺が書く話の中の話にもまた俺の話があって、その中にもある。そう、永遠に続いていく、無限ループ。そんなおとぎ話。しかし、それはもう完結したのだ。
 けど小説は完結しても物語は終わらない。だって人生はこれからも続くのだから。
「何してるのよ、行くわよ公人」
 漫画雑誌を購入した朱主ちゃんが呼んでいた。
 俺は視線を一冊のライトノベルから逸らして、朱主ちゃんへと向ける。
「はいはい、どこでも付き合いますよ。君の物語に」
 そして俺は――今や俺の物語において最重要人物になった少女の元へと歩いて行く。
 どうりで寒いわけだ、気付けば外では雪が降っていた。
 新しい物語はすぐそこだった――。






※ ※ ※



 書店には、ある一冊の小説があった。
「ん? 何か1冊変な本があるけど」
「え? なに。変って、どんなのよ」
「うん、なんというか……周りの本と比べて空気が違うというのかな」
「なによそれ。で、その本って……ああ、この小説ね。ふ〜ん。そう言われてみればそんな気がする……なんとなくだけど」
「……買ってみるかな」
「え? 買うの? 直感で」
「これも運命なのやもしれん……な〜んてな」
「ふ〜ん、全然面白くない……別にいいんだけれどね」
「そ……それじゃあ少しレジに行ってくる」
「あ、なら私も買うわ。今日雑誌の発売日なのよ」
 その本が手に取られて、レジへ持って行かれるのを見て、思わず笑みがこぼれてしまった。

 世界には無数の本がある。本の数が世界の数だ。本を読むことによって無数の世界に旅立つことができる。
 ならば逆に、本の世界からこちらの世界へと旅立って来るような、そんな小説があってもいいのではないか。
 そう思ってこの小説を書くことを決めたのだ。
 世界をひとつに――。きっかけはそんな些細な事。
 けれどそんな些細な事が小説創りには大切なのだと思う。
 小さな事がきっかけとなって、それが波となり広がっていく。やがて波は巨大なうねりとなり、物語となっていくのだ。
 だから特に深い意味はない。信条も執念もない。ただ物語を紡いでいきたい。ずっとずっと続けていきたい。人生も物語なのだし、人生はずっと続いていくのだから。
 ……なぜそんなにも必死なのかって? それは簡単だ。それは――使命だからだ。
 総合的な創作によって、隠された世界の秘密を暴いていく使命があるのだ。ワタシは世界の謎を解く。もう一つの世界を探し続ける。世界と世界を繋ぐ架け橋となる。
 ――そう。
 だってワタシはエンターテイナーなのだから。


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