アウトキャスツ・バグレポート

    1. 第2章 世界のアウトサイド

  • ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

    5

     
     その夜は空気が乾いていて、暖かかった。ついこの間までは寒かった夜空だったのに、もうすっかり春が来たんだと思わせる夜だった。
     守代はリンネと共に、先にヒドゥイヤロを追っていった巡了を追いかけていた。追いかけるといっても、守代は体力がないので、息をきらしながら早歩きで歩いていた。
    (結局、成り行きでここまでついて来ちゃったけど……本当に大丈夫かな)
     守代は不安な気持ちで隣を歩くリンネをチラリと伺った。
    「ん? 怖いかい、刻羽クン」
     守代の心中を察したのか、リンネが楽しそうな顔で語りかけた。わざわざ彼女は守代に歩調を合わせて進んでいた。
    「怖いっていうより……僕なんかがいいのかなぁって思うんです」
    「んん? それはどういうことだい?」
     リンネは赤い瞳を丸くさせて、おどけたように尋ねた。
    「カエル荘に来た日からとんでもないことに巻き込まれて……それで成り行き任せでこうして化け物を追ってるわけだけど……僕みたいなただの普通の人間がさ、こんなスケールの大きい物語の中にいるなんて……場違いっていうかさ……」
     そう。本来守代は巻き込まれただけの部外者なのだ。リンネや巡了にとって守代は、自分たちにとって邪魔でしかない存在だというのに。
     なんだか気分が沈んでしまった守代が顔を俯かせた時――リンネが「ふふっ」と、小さく笑った。
    「刻羽クン。そう自分を卑下することはないよ。確かに君にはこの秘密を知らないでいてもらいたかったが……でも決して部外者にするつもりなんてなかったよ。だって君は……カエル荘の住人なんだ」
     そう言って、リンネはまるで幼い少女のようにニコッと破顔してみせた。夜風に吹かれたリンネの銀髪が、まるで一本一本に命があるように柔らかく揺らいだ。
     顔を赤くして美しい少女を眺める守代は、なにも言えない。
     守代の沈黙を受け取って、リンネは言葉を続けた。
    「……そしてキミだけじゃないよ。右近クンも折花ちゃんも、もちろん明里ちゃんだって、みんなワタシ達の物語の登場人物だ。そこにのけ者なんていないよ。ワタシ達は家族みたいなものだからね」
     端から聞けば恥ずかしい内容だけど、不思議と月明かりに照らされたリンネの口から発せられるそれは、どんな綺麗な言葉よりも美しく聞こえた。
    「それに、キミは自分で思っているよりももっと凄い人間だよ。キミは特別なんだ。少なくとも、今のワタシに比べたらね」
    「え……僕が? 特別? そんなバカな……はは」
     守代は苦笑した。そんな事はあり得ない。
    「だってキミの中には一時的と言ってもワタシの血が流れているのだぞ? ワタシが言うのだから間違いないって。ワタシを誰だと思っているのだ」
    「まあ……そうですね。なんといったって究極の魔女ですからね」
    「ふふふ……そうだ。分かってるじゃないか」
     リンネはそう言って、守代の頭に手を置いて、くしゃくしゃと撫でた。
    「……っ」
     突然のことに守代は体をびくりと跳ねさせた。恥ずかしくてとっさに言葉が出てこない。
    「安心しろ。全部うまくいくさ」
     そう言って、リンネはゆっくり守代の頭から手を離した。
     不思議と、守代の気持ちは落ち着いていて、むしろとても清々しくもあった。そして思った。
     ああ……きっと大丈夫なんだ。この人がいるなら、なんでもできるんだ――と。
     リンネは守代を拒絶せずに、彼を高みに連れていってくれる。守代が望んでいたものを、リンネなら見せてくれる。そんな予感がしていた。
     自然と心拍数が早くなる。
     まさかこれは……いや、違う。この鼓動の高鳴りは、それはきっと早足で歩いているせいだ……。守代は自分にそう言い聞かせて、顔の赤くなっているのをリンネに悟られないように、歩くスピードを早めた。この気持ちも、悟られないように――。
     さっきよりも早い歩調で、守代はリンネと並んでまっすぐ前に進んでいた。
     手を伸ばせば触れそうな距離にいるのに、2人の間は数十センチの距離しかないのに、守代はその距離が何光年も遠くにあるような気がして、しかし同時に、リンネならどんな距離でも軽々と乗り越えてくれそうな気がしていた。だから守代はその場所に留まることを決めた。
     自然と会話は途切れていたけれど、守代にはその沈黙が気まずいと感じなかった。むしろ、この時間がずっと続けばいいとすら思えていた。
     それからどれくらい歩いただろうか。どんな時間にも終わりはくるもので――当然、幸せな時間にも等しくそれは訪れる。
     守代は視界の端に、巡了と思しき姿をとらえた。
    「……あ、いましたよ」
     カエル荘からそれほど離れていない川原。川岸の草花の茂る大地に、巡了がぽつりと立っていた。
     闇にとけ込んだ長い黒髪。漆黒の空の下に立つ巡了の後ろ姿は幻想的で、彼女がリンネの妹だっていうことをまざまざと実感させた。
    「巡了さんっ。あいつは見つかった?」
     守代とリンネは堤防を駆け下りて、巡了の元へと向かった。
    「待って――。この先にヒドゥイヤロがいる」
     と、巡了は守代達に背を向けたまま、厳然たる声で静止を促した。
     守代は驚いて立ち止まって、巡了の視線の先を追う。
     ほとんど光も届いていない、いかにも不気味な高架下。守代が目を凝らせばそこに、息を切らしたヒドゥイヤロが、巡了と向かい合う形で立っていた。顔面には、さきほど巡了に蹴られた痕であろうアザが、ありありと赤く浮かんでいた。
    「クっ……こ、殺してやるうううううううっ」
     どうやらヒドゥイヤロは怒りで我を忘れているようだった。
     肝心のリンネは弱体化していて戦えず、頼みの綱は巡了のみ。だが、リンネが言うには敵はかなりの実力者らしく、油断すると巡了でも負けるかもしれないらしい。
     なら守代がやることは、巡了の邪魔にならないようにリンネと共に隠れていること。あとは巡了の強さを信じるしかない。
     守代の体は緊張で震えだした。いよいよ戦いが始まる――。
     先に動いたのはヒドゥイヤロだった。彼は体をピクリピクリと震わせて叫ぶ。
    「お、オレ様は……無敵なんだぞっ! こんな世界で死ねるわけねーんだぞっ! いつまでもこんなとこでくすぶってるワケにはいかねーんだよっ! 舐めるなよ……このクソアマがァアアアアアアアア!!!!」
     歯を剥き出しにして、腕を大きく振るって、巡了に向かって――。
     だが――しかし。
     まさに巡了とヒドゥイヤロの戦いが始まろうとした――次の瞬間だった。
     まったく予想外の、信じられない光景が展開していた。
    「え……? な……んだよ……こりゃあ……これはぁぁぁ……」
     今にも巡了に襲いかかろうとしていたヒドゥイヤロの体が、ピタリと止まっていた。
    「な……?」
     そして、彼の体は、ズルリと――縦に2つ、分断されていた。
    「……っっっっ!?」
     守代も、リンネも、巡了も、そしてきっとヒドゥイヤロ自身も、誰もがその状況を理解できていなかった。この、ありえない異物(マザリモノ)の死を。
    「なんでオレ様がぁ……そ、そんなぁ……オレ様がここで、退場だなんて……う、そ」
     情けない断末魔をあげるヒドゥイヤロ。左右に分かれた彼は地面にパタリと倒れた。そして別れたそれぞれの体は、黒い煙となって空へとあがっていった。
     あまりにもあっけない結末だった。
     守代はこの瞬間、ようやく理解する。ヒドゥイヤロは殺されたのだ。
    「……ど、どうなっているんだっ」
     ようやく口から声を出すことができた守代は、まだ状況が把握できずに混乱していた。なぜ……なぜいきなりヒドゥイヤロが死んだのだ。巡了が何かをした風ではないし、もちろんリンネがやったはずもない。ではいったい誰が彼を殺したのだ。それは。
    「それは、我が輩が殺した」
     いま、誰もが思っているであろう疑問に答えるように、ヒドゥイヤロが消滅した場所のすぐ後ろから、まったく新しい男の声が聞こえた。
    「……え?」
     守代は高架の下の真っ暗闇に目を凝らす。
     高架の影から、一人の男がゆったりと姿を現した。
     一見すると威厳ある会社の重役のような、またあるいは良家に仕える執事然とした、立派に整えた髭が特徴的な細身の老紳士だった。スーツをピシッと着こなしている。
    「だ、誰だ……」
     いきなり現れた執事のような男に、守代は呆然と眺めていた。
    「…………」
     男は何も言わずに、ピシャリと背筋をまっすぐした姿勢で、ポケットから白い手袋を取り出しそれをつける。まるで貴族のような、優雅な動作だった。
     男が、守代達を見た。
    (――ッッッッ!?)
     刹那。守代は全身が総毛立った。男と目が合った時、本能的な恐怖を感じた。殺される――そんな圧倒的な凄みが、男にはあった。
     刹那。リンネが叫び声をあげた。
    「……ま、まずいっ! コイツは危険だ! 逃げっ――」
     と。同時に、守代の視界から男の姿が消えた――。
     いや、正確に言えば消えたのではない。ただ単に守代の目で捉えられない程のスピードだったのだ。
    「こっ……このぉっっ!」
     巡了がとっさに刀を構える。
    「だ、駄目っ! メグちゃんッ!」
     リンネが巡了を制しようと駆け寄った時――男の姿が突然、巡了の前に現れた。
    「えっ――?」
     守代は目をみはった。
     そして、巡了は呆然としていた。
    「あ……」
     巡了のすぐ目の前に姿を現した男は、巡了に向けて拳を振り上げて――。
    「早く離れてっ!」
     とっさに駆け寄ったリンネが、巡了の体を突き飛ばした。
     その直後。
     ――ぐちゃり。
     生理的に不快を感じる音がした。
     トマトが潰れるような音だった。
     そして守代の眼前に、あってはならない光景があった。
    「あ……ぅ……」
     胸から大量の血を流して、ふらふらと立っているリンネ。
     彼女の目の前に、片手に何かを持った老紳士が立っていた。その手は血で真っ赤になっている。
     何が起こったのか守代の脳が理解するに数秒を要した。
     男が持っていたのは――心臓だった。
     ――男の拳はリンネの胸を貫いて、その心臓をえぐり出していた。男が持っているリンネの心臓は、いまだトクントクンと脈動していた。
    「そ、そんな……っ。そんなあ……」
     守代は震えていた。絶望していた。男に対する恐怖からではない。リンネが心臓を抜き取られたという、ただその事実に嘆いていた。
    「……」
     巡了は言葉を失っていた。刀を持った手はぶらりと垂れ下がっていて、もはや彼女に戦意はなかった。
    「……ぁ、ぁ」
     虚ろな瞳をしたリンネは、開いた口から呼吸とも言葉ともつかぬ音を漏らしていた。
     そして老紳士は 目の前のリンネに勝ち誇った表情を浮かべていた。それは守代と巡了は眼中になく、あくまでリンネだけを見ているといった様子だった。
     そして、リンネの死に瀕した様子を充分に確認すると老紳士は――。
    「ふぉほほ……我が輩はついている。いや。我が輩の選択はやはり、いつも最善なのだ」
     今まで寡黙だった紳士然とした老人が、夜の闇の虚空へ向かって独り言を呟き始めた。
    「な、なんなんだこれは……」
     守代はようやく、言葉らしい言葉を出すことができた。
    「おお……いやはや我が輩としたことが紹介がおくれてしまった。我が輩はハガクレ・チェバスサン。その筋からは異端の貴族という異名で知られています。どうぞ我が輩のことはハガクレとお呼びくださいませ」
     紳士然とした老人は、ペコリと優雅な動作でお辞儀した。
     しかし守代はハガクレと名乗った老人のことよりももっと大切なことがある。
    「り、リンネさんっ……リンネさんっ」
     心臓を抜かれた状態で立っているリンネの元に、守代はよろよろと近寄った。
     だが、守代がリンネの体に触れそうになったとき、ハガクレが守代の腕を掴んで投げ飛ばした。
    「ぐふっ!」
     守代は地面を転がったが、痛みも恐怖も感じない。ただ、リンネのことしか頭になかった。
    「ふふふふ。まさか偉大なる魔女の中の魔女を仕留めることができるなんて。まさかこんなにもあっさり我らの悲願が達成されようとはっ。ふぉっほっほっほっほっほ!」
     見た目どおりの渋い声で話すハガクレは、優雅な雰囲気で、しかし興奮が隠せないといった風に笑っていた。
     するとこのけたたましい声でようやく状況が把握できるくらいに冷静になったのか、巡了が弱々しい声で泣きそうな悲鳴をあげ始めた。
    「い、いやぁあああ……いやぁあああ……」
     巡了の瞳は焦点が定まっていなかった。正常な判断ができていない動揺っぷりだった。
     だがそれは守代も同じだった。ふらりと立ち上がった守代も、リンネしか見えていなかった。ただ、リンネの元に。行きたかった。
    「……うそ、だ。こんなバカな……嘘だああああああああ!!!!!!」
     守代は、無意識のうちに飛び出していた。リンネを救おうと駆けだしていた。
    「…………ほほ」
     リンネの心臓を抜き取った男は目を閉じて、顔を空に向けていた。もう全てを達成した、清々しい顔だった。
     そしてハガクレは自分に向かって走ってくる守代に対して、ゆっくり左手をかざした。次の瞬間。左手から、守代に向かって光る何かが飛び出した。
     光は、守代の腹部を貫いた。
    「ごふぅあっっ!?」
     守代の体は逆方向に吹き飛ばされ、地面を転がっていった。開いた腹からは、血がとめどなく――。
     否、流れていなかった。
    「あ、あれ……」
     地面から起きあがった守代は不思議に思っていた。滑稽ですらあった。腹に穴が開いているのに、確かに痛みを感じるのに、意識がはっきりしていて、とても自分が致命傷を負ったとは思えなかった。
     むしろ、傷は、塞がりつつあった。
    (なんで……これは……再生している?)
     どういう現象なのか守代には分からなかった。
     しかし男は、守代のことは初めから眼中になかったからだろうか、すでに守代のことなんか見ていなかった。だが男は、少しの間だけでも、確かに気を逸らしていた。すぐ傍にいるリンネに対して、警戒を解いていた。それが彼の隙だった。
    「…………っっ」
     リンネはずっとその時を計っていたのか、瀕死であるはずの彼女の口元がわずかに動いていた。
     そして、リンネは震える手で男の腕をつかんだ。
    「うっ? な、なにをっ……ま、まさかっ……我が輩が選択を間違えたのかっ? ……この少年に気を取られていたからっ? だというなら……まさか……この少年のせいで我が輩の最善が崩れたというのかっ?」
     これまで高笑いしていた男が表情を変え、すぐさま虫の息のリンネに意識を戻した。
    「こ……」
     そしてリンネは、ほとんど空気をだしているだけのような、かすかな声を上げた。
    「お姉ちゃんっ!」
    「リンネさんっ!」
     リンネに意識が戻って、巡了と守代は顔を輝かせた。守代はもう、自分の受けた傷なんて気にもとめていなかった。それよりも、もしかしたら自分と同じようにリンネも助かるかもしれない。そう思えた。
     しかし、それは――永遠の別れの始まりだった。
    「この子達に、は……手を、ださせ……ない」
     リンネの声は、まるで最後の力を振り絞るようなものだった。
    「お、お姉ちゃん……。まさか……っ、まさかっ」
     何かを悟った巡了は悲痛な叫び声をあげて、リンネに近づこうとした。
    「め、メグちゃん。いいんだ……これで。悲しまないで……メグちゃん。これが……一番いいんだよ」
     リンネがほとんど聞き取れない弱った声をあげた。意識がもうろうとしているのか、その言葉の意味が守代にはよく分からなかった。
    「ちょっ……ちょっと待て……なんだこの展開……そんな最悪な選択がどうして出てくるッ……まさかそれは……この少年の能力? だとしたらこのガキの能力はいったい何だとっ!? ……い、いや、違うっ。だがそれは後回しだ……っ。い、今はそれどころじゃ……」
     男はいっそう狼狽する。
     リンネはここで初めて、守代と巡了の方を振り返った。そして――。
    「さ、さようならメグちゃん……そして、刻羽クン……あとは……よろしく」
     その表情は、とても穏やかで、とても美しくて、そしてとても素敵な笑顔だった。
    「い、いやぁああ……お姉ちゃん……やめてぇ……」
     巡了が走り出す。
    「り、リンネさ……」
     そして守代もリンネの元に足を踏み出そうとした刹那――。
     周囲の風景が、真っ白の光に包まれた。
     それは、目が眩むほどの強烈な閃光。夜の闇を切り裂く白。あまりに白く何も見えない中、男の叫び声が聞こえた。
    「え、な……っ? ま、まさか貴様ァアアアア!!! 我が輩を道連れにするつもりなのか!!!?? や、やめろおおっっっっ、それだけはぁああああああああ!!!!」
     さっきまでの優雅な態度とはかけ離れた、余裕の全く感じられない声。
    「あああああああぁぁぁぁ……」
     男の声は急速な勢いで遠ざかっていって――すぐに聞こえなくなった。
     そしてその閃光は一瞬のもので、すぐに辺りの風景は夜の色を取り戻していった。
     だけど――そこに現れた風景には、もうリンネの姿はどこにもなかった。
     残されたのは、守代刻羽と、天乃廻巡了だけだった。さっきまでとはうってかわって、寂しい夜の静寂に包まれていた。
    「……リンネさん」
     いったいどうなったんだ――と、言おうとしたけれど、守代はそれがどうしても言えなかった。彼は――とっくに気づいていた。理解していた。
     高架の上を貨物列車が過ぎていった。
     巡了が幽霊のようにふらふらと顔を上げて、呟いた。
    「姉さんは……死んだ」
     守代が見た巡了の瞳からは涙が止めどなく流れていた。守代はしばらく巡了の顔から目が離せなかった。
     守代が腹に受けたダメージは、その部分の服に穴が開いているだけで、もう完全に再生していた。
     巡了を見つめていた守代は、そのときふと理解した。きっとこれは、自分に流れるリンネの血のおかげなんだと。本来リンネが持っているべき能力だったのだと。リンネの代わりに、自分が生き残ってしまったのだ――と。


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