喪女につきまとわれてる助けて

第4話 安息の日々と解放

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

3

 
 僕の心は今、ぽっかりと大きな穴が開いた状態だった。
 篠之木先輩と喧嘩別れをした直後に、相楽さんが吾川君とデートしている現場を目撃した僕。僕のショックはあまりに大きい。
 だから僕は気が動転していたからだろうか――真っ白な頭になりながら、僕は――相楽さんと吾川君を尾行していた。
 もうすぐ日も落ちて夜になろうとしているのに、2人はショッピングモールまで行き、そしてエスカレーターに乗って上の階へと向かっていく。
 僕は少し離れてエスカレーターに乗り、見失わないように注意する。
 これで尾行は何度目だろう……もうすっかり慣れてしまった。なんだか惨めさを感じずにはいられないけど……今は別の事を考えるべきだ。まさか吾川君が相楽さんとも付き合っているなんて……いや。とは言っても嫌な予感みたいなのは前から感じていた。
 そう。吾川君と相楽さんが同じ日に繁華街にいたことや、相楽さんが吾川君の事を気にしていたりする事から、2人の関係を心のどこかで疑っていた。
 でも、まさか吾川君がクラスメイトまで手にかけるとは信じられなかった。もし相楽さんとも別れるとなった時、吾川君はどうするつもりなんだろう? これからの学校生活をどう送っていくつもりなんだろう?
 いや……それを言ったら僕だって同じか。現に小学校からの親友であるはずの僕と吾川君の関係は壊れてしまっている。だけど壊れたままそれぞれの学校生活を送れているのだ。
 だったらいっそ壊れるところまで壊れてしまえと吾川君はやけっぱちになっているのか。誰彼構わず、後先考えず、手当たり次第に女の子と付き合っているのか。もう彼は誰にも止められないのか。
 僕が色々と考えているうちに2人は最上階まで行って、とある飲食店に入っていった。僕も続いて入る。
 中は結構お洒落な店だった。中華風なレストランだ。お金を多めに持ってきておいてよかった……。
 僕は2人を見つけると、ちょうど向こうからは死角になる席に座った。僕、もしかして天職は探偵かもしれない。
 それよりも僕は2人の会話に耳を傾けることにする。
「僕はね、恋愛は人生においての1番のステータスだと思うんだ」
 吾川君が両手を広げて大げさに言った。
「それは、どういう意味なのかな?」
 テーブルの向かいに座る相楽さんは、興味深そうに尋ねた。
「よく考えてごらん。現代日本の価値基準は何なのかを。つまりそれは――恋愛なんだよ」
「なんで恋愛……なの?」
「今の世の中どれだけ恋愛したかによって人の価値が決まるんだ。どこに行っても街はカップルで溢れているし、テレビを付ければ恋愛ドラマがやっている。クリスマスやバレンタインなど、あらゆるイベントに恋愛を絡めてくる。マスコミなどはこぞって恋愛を推奨している。今はね、まさに恋愛至上主義時代なんだよ」
 吾川くんは、身振り手振りをまじえながら、興奮した様子で語っている。
「……へ、へぇ〜」
 相楽さんは笑顔を引きつらせながら頷いていた。
「だからさ、僕は嬉しいんだ。こうして君とデートできることがさ。僕は前から相楽さんの事が気になってたんだ。君がその気なら……僕達2人で世の中の勝ち組になって素晴らしい人生を満喫しようよ!」
 吾川君のテンションは最高潮だった。
「え、えへへ……まぁ……」
 相楽さんはどこかぽけーっとした顔をしていた。そして、その視線は、さっきからチラチラと僕の方を向いているような気がした。まさか、僕のことバレたってことないよな。
「あー。あのね、吾川君……恋愛はいいんだけど……その」
 と、相楽さんが口ごもりながら何かを言おうとしている。
「なんだい? 遠慮せずに言ってごらん」
「その……2年の篠之木さんが停学になったことなんだけど……」
 と、相楽さんは僕の中でも大問題になっている件について話した。
 それは僕にとっても聞きたい話。さぁ吾川君――君はこれにどう答える。
「ああ……それね」
 しかし吾川君は意外にも動揺する素振りもみせずに説明を始めた。
「きっと君には隠し通せないと思うから正直に告白するよ。僕はつい最近まで女の子と付き合ってた。そして、篠之木先輩が原因で別れたんだ」
 ……吾川君のその言葉には語弊がある。確かに吾川君はこの前の女の子とは別れたのだろう。でも……彼にはまだ付き合っている女の子が複数いるんだ。
「やっぱり噂は本当だったんですか……吾川くんが……」
 相楽さんは深刻な顔をして口に手を当てた。
「そんな顔をしないで相楽さん。篠之木先輩に何もかも奪われた僕は気付いたんだ。本当に大切なものはなんなのかを……それが、君なんだ」
 なんて白々しい台詞を吐くのだろう。こうやって今まで数々の女の子を騙してきたのだ。そして僕も、親友の変化に気づかなかったんだ。
「吾川くん……」
 相楽さんはなんとも形容できない顔で吾川君を見つめていた。
「僕はね、人一倍寂しがり屋だから誰かの愛情が必要なんだよ」
 吾川君はいつものように顔が赤くなるような言葉を口にする。口先だけの言葉。
「だからこそ僕には分からないんだよ。篠之木先輩の僕に対する暴力……いや、カップルに対する仕打ちが」
「そ、それはもちろん暴力はいけないことだと私も思いますっ」
 まるで篠之木先輩を擁護する立場であるみたいに、相楽さんは困ったような顔をした。
「ううん。もちろんそれもあるけどね。僕が言いたいのは、篠之木先輩の暴力にはどこにも正当性がないってことだよ。彼女の暴力は災害のように理不尽なんだ。そうだろう? だって彼女に恋愛を止める権利があるなんて思えない」
 吾川君は教師が生徒に言い聞かすように説明した。
「そ、それは……そうです」
 なぜか相楽さんは言い負かされたという風に表情を暗くした。
 そして吾川君は、ここぞとばかりといったふうに、
「そういうことをする人間は決まって昔から……悪人なんだよ」
 冷ややかな口調で言い切った。
「…………」
 相楽さんは吾川君の正論すぎる言葉を、ただ黙って聞いていた。
「つまり僕が言いたかったのは、僕がどれだけ恋愛を大切にしてるかってことで……相楽さん。こんな僕だけど、相楽さんは僕と付き合ってくれるかい?」
 そう言って、吾川君は相楽さんの瞳をまっすぐ見つめた。
 相楽さんは少し迷ってから答える。
「え、ええ……分かりました。で、でもその……その前に一つ、いいですか?」
「うん? なんだい?」
 相楽さんのOKの返事に、吾川君は破顔した。
「あ……吾川くんは、他の女の子達にも同じようなことを言ってるの?」
 相楽さんが、吾川君に対して確信をついた言葉を放った。し……知っていたのかっ?
「……いや。確かにこの前付き合ってた彼女には似たような事を言ったかもしれない。だけど今は君だけだ。僕の気持ちに嘘はないんだ」
 嘘だらけの吾川君が、また一つ嘘をついた。だが彼の声はうわずっていた。
「正直に言って下さい。怒ったりはしないから。ただ私は……吾川君の気持ちが知りたいだけだから」
 相楽さんは吾川君を試すような口調で言った。僕にはそれが、まるで最後通告のように聞こえる。
「し、心配しなくても大丈夫だよ……僕は浮気は絶対にしないし、これからも勿論しない。それは誓うよ」
 吾川君は、何のためらいもせずに断言した。呆れるを通り越して僕は感心さえしそうだ。
 吾川君の汚れきった言葉を聞いた相楽さんは、しばらく考えるような素振りをみせて、
「でも男の人って、恋愛経験豊富な方が魅力があるって……いいますもんね」
 と、ぎこちない口調で言った。なにを言っているんだ、相楽さん。
 相楽さんの言葉を聞いた吾川君は、待ってましたと言わんばかりに顔を輝かせた。
「え!? ほ、ホント!? 君もそう思うのかいっ!? だ、だよね〜〜〜! やっぱり君はただ者じゃないって思ってたよ〜!」
 急に声のボリュームが大きくなって、声の質が甲高くなった吾川君。
「え、え〜と、それはどういう事です?」
 相楽さんはその変化に、少したじろいでいるみたいだった。
「いや、こうなったら隠さすのはやめようと思うけど、僕ね……こう見えてたくさんの女の子と付き合ってるんだぁ。でもね、それは世間では浮気を呼ばれてどうも嫌われてしまうみたいなんだよ。どうしてなんだろう? 僕はただ、自分の気持ちに従って楽しんでいるだけなのに!」
 饒舌に語る吾川君。どうやらこれが本心なんだろう。なんて人間なんだ。
 相楽さんは凍り付いたような不自然な笑顔をしている。怒っているんだ……。
「ねえ、相楽さんは僕の考えをどう思う? 君なら分かってくれるよね? だって生物は、恋愛することによって生きている価値が見いだされるんだから!」
「ま、まあ……自然界ではそうですよね。恋愛して子孫を残すことが生物にとっての役割ですから」
「やっぱり〜。相楽さんはひと味違うよ! 君は僕の彼女にふさわしいよ!」
 吾川君はテンションを上げて、嬉しそうに笑っている。
「そうですか。ありがとうございます……」
 対称的に相楽さんは暗い顔をして、寂しそうな声でそう言うと、視線をふらふらと彷徨わせて――僕の方へと固定させた。
「――っ!」
 僕は瞬間、ドキリとする。
 ……もしかして相楽さん、僕の存在に気付いてるってことないよな……。
 まるで僕のその予感が的中したかのように、その時相楽さんに変化が起きた。彼女の目つきが変わり、まるで何かを決心したように。
「ちょっとお手洗いに……」
 と、おもむろに席を立ち上がった。
 今までゆっくり聞いていた僕は不測の事態に驚いて、慌てて身を縮め、俯いて、テーブルの上のチャーハンをじっと見つめる。
 相楽さんの足音がこっちに向かって近づいてくるのが分かる。僕は何事もなく彼女が通り過ぎるのを待とうとおもっていたが――。
 驚くべき事に、僕の席のすぐそばで、彼女の足音が止まった。そして――。
「……話があります。少し、付き合ってくれませんか?」
 囁くように語りかける相楽さんの声が聞こえた。相楽さんの細い足が僕の視界に写る。
 ……ば、バレてしまった。いや、もしや尾行は初めから気づかれていたのか?
「ずっと聞いてたんですよね。いえ……返事はいいです。顔もそのまま上げないでください。でないと――吾川君に見つかってしまいます」
 ……まるで吾川君に知られては不都合があるみたいな言い方だけどこれはいったい。
「ここに久遠寺くんが来ていたのは幸運でした。お願い、久遠寺くんしか頼れないの。吾川くんにバレないように、私について来て」
 相楽さんの声は切迫つまっていた。どういう状況なのか分からない。だけど相楽さんの懇願するような声を聞いて、僕は――小さく頷いていた。
「……ありがとう」
 相楽さんの掠れた声が聞こえて、そして足音が僕から離れていった。
 僕は小さく顔を上げる。トイレの方に向かって行く相楽さんの後ろ姿が見えた。僕は吾川君に見つからないように、ゆっくり立ち上がり、迂回してトイレにそそくさと向かう。
 一つしかない男女共用の個室トイレ前には、瞳を潤ませた相楽さんが立っていた。
「あ、ありがとう。久遠寺くんなら来てくれるって信じてた……」
「それで話って……」
 僕は恐る恐る相楽さんに訊いた。
「時間がないから端的に言います。私は――吾川君をずっと調査してきたの」
「へ……調査?」
 てっきり、ストーカーみたいな真似をしていた事について怒られるものだとばかり思っていた僕は、目を丸くした。
「最近……中学の頃の友達に会ったんです」
「……」
 話がいまいち飲み込めないけれど、僕は黙って相楽さんの話を聞くことにした。
「その子は引っ込み思案な私の数少ない友達で、私とは違ってとても明るくてみんなの人気者だったの。なのに彼女は……もう私の知っている彼女じゃなかった」
「それは……どういう」
「なんとか話を聞き出してみて分かったの。失恋したって――」
「……もしかして、それが」
「そう……それが吾川君です。それを知った私はショックだった。その友達が言うには、吾川君に唐突に捨てられたって言ってて……その理由を問いただしたら、『飽きた』ってただ一言……」
「あ、飽きた……?」
 そ、そんな簡単な台詞1つで、終わらせられるものなのか。
「うん、それだけ……あと彼女が言うには、彼女以外にも何人もの女の子と付き合っていたんだって。それを聞いた私は、吾川君のことがどうしても許せなくなった。でも、確実な証拠もないしどんな事情があるかも分からないし……けど本人に訊いてみたところではぐらかされるだけだから……」
「だから相楽さんは自分から吾川君に近づいて、それで真意を知ろうと……」
「そう。それでなんとか今日デートするところまできたってわけです。あっ……もっ、もちろんこれは調査のためのデートですからっ。へ、変な勘違いは……っ」
 相楽さんは両手を振って調査だということを強調してる。
「いや、それは分かってるけど……じゃ、じゃあこの前の休日に相楽さんが繁華街にいたのも……」
「そ、そうなのっ、吾川君を調査していたのっ」
 ぶんぶんと首を縦に振って、真相を打ち明けた相楽さん。なんだかその姿は誤解を解こうとしているように見える。
「でもなんで……相楽さんがそこまで」
「私は確かめたいの。本当に吾川君はそんな酷いことをしている人間なのかって。もしそれが間違っていて何か事情があるなら彼女にそれを説明するし、本当に吾川君がそんな人間だったら……彼を止めないといけない。じゃないと、彼女だけじゃなくてもっと多くの女の子が泣くことになるから」
「……そっか」
 そうだった。相楽さんは大人しくて恥ずかしがり屋だけど、責任感と正義感が強く、いざという時は積極的に行動する強い人なんだ。
 もう僕は何も訊かない。だって、僕にも相楽さんの気持ちが分かるから。僕がこうして相楽さんの後をついてきたのも、彼女のことが心配だったから。そして吾川君をこれ以上悪い道に進ませたくなかったから。
「そして私はさっき吾川君と話していて分かったの。私の友達の話は真実だった。私は確証を掴んだ。だから後は……彼を止めるだけなの」
 今の相楽さんは、普段のおどおどしてる姿からは想像つかないほど頼もしく見えた。
 ただ後をつけて傍観することしかできない僕とは違って、相楽さんは1人でこんなにも果敢に行動している……。僕はこれでも一応、篠之木先輩の一番弟子なのに。恋愛中毒者にとっての天敵なのに……。
 ……なにか、なにか僕ができることはないのだろうか。僕は別に篠之木先輩の考えを肯定するわけじゃない。でも、このままじゃどうしても収まらない。僕が、僕ができることは……相楽さんのように僕が手にしている情報は。
「あ。そうだ……」
 僕はふと、この間の出来事を思いだした。
「え、なんですか」
 相楽さんは、眼鏡の奥の瞳を丸くさせた。
「その、これが相楽さんの役に立つか分からないんだけど……実はこの前、僕が保健室で寝ていた時なんだけど――」
 僕は、僕だけが知っている、偶然手に入れた情報を相楽さんに話した。それは保健室で聞いた吾川君と橘さんの会話の内容。といっても断片的な情報しか分からないのでそれほど役に立たなそうだけど……。
「そう、なの……まさか風紀委員まで手中に収めているなんて……思ったより事態は深刻なのかもしれない……」
 相楽さんは、予想以上に僕の話に関心を持ったようだった。頭を捻って考え込んでる。
「こんなので役に立つかは知らないけどさ……しょせん、たまたま聞こえただけの話だし。僕は相楽さんと違ってそんな行動力もないし……」
 なんとなく僕は相楽さんに申し訳なくなって、自分を卑下してしまった。
 すると相楽さんは急に顔を綻ばせて、小さく笑ってから言った。
「――久遠寺くんは昔、私と遊んでくれたのを覚えてる?」
「……小さい頃? 遊んだって……僕と相楽さんが?」
 突然のことに僕は首を傾げる。全然覚えてない。まさか僕と相楽さんは昔知り合っていたのか? 僕が疑問符で頭をいっぱいにさせていると、相楽さんは眼鏡の奥の瞳を細めて語り始めた。
「私は昔から引っ込み思案で友達がいなかったんです。私はよくひとりで公園で遊んでた……。でもそんな時に、久遠寺くんが声をかけてくれたんです」
「……あ」
 確かに、昔そんなことがあったかもしれない。運動神経がない僕は遊ぶ友達がいなくて、それでよく公園で女の子と、ままごとや鬼ごっこなんかをして遊んでいたんだ。小学校の高学年頃になって自然とその子と遊ぶことがなくなっていったけど、まさかその時の子が相楽さんだなんて……。
「久遠寺くんは、私と遊んでることが原因でよく男子にかわかわれてたけど、それでも久遠寺くんは私と遊んでたくれたんだよ? 私、ずっと覚えてるんだよ?」
 そうだ。そうだった。僕は覚えている。
「久遠寺くんのおかげで私、勇気を出そう思えるようになったの。正しい事を躊躇わずに行動できる人間になろうと思えたの。私、久遠寺のおかげで友達もできたし、人生が楽しくなったんだよ」
 じゃあつまり……相楽さんの大胆な行動力と勇気は、僕のおかげだっていうのか? そんな……馬鹿な。
「で、でも僕はそんなつもりじゃなかった。相楽さんのために遊んだとかじゃないよ。僕はただ遊びたいから遊んだだけなんだ」
 ……それはただ、僕も友達がいなかったからなだけだ。僕は何も知らなかったんだ。現に、あの時の少女が相楽さんだっていうことも今の今まで知らなかった。
「ううん。それでも私は久遠寺くんのおかげで強くなろうと思ったの。きっかけなんてなんでもいいんだよ」
 きっかけ……それは相楽さんが強くなるきっかけ? じゃあ僕のきっかけは。
「だから、久遠寺くん。私は君のことが……」
 相楽さんはじっと僕の目を見つめた。
「……な、なに」
 それともそれは……。
「……ううん。なんでもないです」
 相楽さんは瞳を逸らして、恥ずかしそうに俯いた。
「…………」
 僕もなんとなくいたたまれなくなって、視線を逸らした。
「……とても貴重な情報ありがとう、久遠寺くん。これで私も打つ手が1つ増えた――」
 まるで何事もなかったように、相楽さんは話を元に戻した。
「あと……私も重要な証拠を持ってるの。久遠寺くんにも見せるね。これが……」
 相楽さんがガサゴソと何かを取り出そうとしたとき――。
「あっ――」
 僕が視線を相楽さんの手元に向けようとしたとき、偶然にも――ふと視界の端に、捉えてしまった。
 携帯電話を耳に当て誰かと電話しているらしい吾川君が、席を立ち上がったところを――。
「さ、相楽さんっ、後ろを向いてっ。あ……吾川君が席を立ったっ。多分相楽さんが遅いからこっちに来ると思うっ」
 僕は小声で、且つ早口にまくし立てた。通話を終えたらしい吾川君は携帯電話をポケットにしまった。やばい。どうする――逃げ場がない。
 しかし、僕からの情報を受け取った相楽さんの判断は速かった。
「2人でこのトイレに隠れましょう!」
「えっ。で、でもっ」
 僕は男子と女子が1つのトイレに入るなんてさすがに抵抗が……。
「いいからっ」
 相楽さんはトイレの扉を開けて僕の腕を引っ張った。
 確かにこのままじゃ吾川君に見つかってしまう。やむを得ない。僕はトイレに――。
「って、うわっ?」
 トイレの中に入った瞬間――僕は相楽さんの柔らかい体にぶつかった。
「ご、ごめん! 相楽さん」
「それよりも扉をっ」
「あ、うん――」
 僕は相楽さんに言われるままにトイレの扉を閉めた。
 1人しか入らないのを想定して設計されているから当たり前なんだろうけど、2人で入るには中はとても狭かった。その為、僕達の体はほとんど密着してると言っていい状態だった。いや……というか密着している。相楽さんの暖かくて柔らかい体が僕に押しつけられるように当たっている。
 そして動けば動こうとするほど、ますます相楽さんの体は僕に迫って、むにゅんとする感触を感じた。
「は……あぅっ」
 相楽さんが短い声をあげた。
「ご、ごめん相楽さんっ」
 僕は小声で叫んだ。するとすぐさま――。
「……相楽さん。中にいるの? なんか今相楽さんの声が聞こえたけど……大丈夫?」
 ドアの向こうから吾川君の声が聞こえてきた。僕達は凍りついた。
「だ、大丈夫っ。も、もうすぐ出るからちょっと待ってて」
 相楽さんが慌てて言う。
「そう? トイレに行ってから結構時間が経ってるから心配になって来たんだけど」
「ほ、ほんとに大丈夫だからっ。席に戻ってていいよ」
「……いや、僕はここで待ってるよ。もうすぐ出るんだろう? ずっとトイレにこもってるから、なんだか心配だ。早く出てきなよ」
「あ……うん。す、すぐ出るねっ」
 不気味なほどとても不自然な発言だった。女子がトイレに入ってるのに、その前でずっと待ち続けるなんておかしい。
 でも今ドアを開けるのはまずい。だって僕と相楽さんは狭いトイレという密室で、体を密着させている状態だから……。こんなの吾川君じゃなくても見せられない。どうやって脱出しよう。でも……相楽さんの胸が僕の体に当たる度、思考が散漫になって上手く考えられない。さらに2人共ずっと黙って体をくっつけてるから、なんだか空気が妙な具合になってくる。相楽さんの荒い息づかいが聞こえてくるし、僕の体を通じてそれを感じる。
「あ、吾川君、なんでこんなに急かしているんだろっ。そういえばこっちに来る前に誰かと電話してたみたいだけど……」
 この雰囲気に耐えられなくなった僕は気持ちを紛らわそうと、外にいる吾川君には聞こえないくらいの声で相楽さんに語りかけた。
 相楽さんは――。
「あっ……ふぅんっ――」
 僕の吐息が感じやすいところにでも当たったのか、変な声をあげていた。
「あっ。相楽さんごめんっ。そ、そういうつもりじゃ……」
「い、いいのっ。気にしないでっ。あと声が大きいですっ。それよりも吾川くんが電話してたって……。そ……そうか。とうとう気付かれてしまったんだ」
 相楽さんの暖かい吐息も僕の体にかかった。なんだか変な心地だ。
「気付れたって何を……」
 なんだか嫌な予感がする。
「私が探っているってことです……。きっと、どこからか情報が漏れたんだと思う。私……けっこう大胆に動き過ぎちゃったのかな。てへへ」
「てへへって……それじゃあどうするの? このままじゃ相楽さんは……」
「私の事は心配しないで……それよりも聞いて」
「なに」
「さっき橘先輩の話してたよね。私……思うの。橘先輩に……橘先輩に協力してもらったらいいって」
「え? でも橘先輩は吾川君と……」
「大丈夫。私を信じて」
「信じてって……で、でもなんで……」
「だって、橘先輩は風紀委員長なんだよ。だから彼女を信じてあげて」
「わ、分かった……」
 僕は納得がいかなかったけど、時間の余裕もなかったので渋々頷いた。
「それと……」
「うん?」
「篠之木先輩のことは……久遠寺くんに頼みます。きっとこの件は、篠之木先輩の力が必要だと思うから……そして、篠之木先輩を動かせるのは久遠寺くんだけ……残念だけど」
「え……残念って?」
「ううん……なんでもない。さぁ……私が引きつけておくから、久遠寺君は隙を見て逃げてください」
「で、でもそんな事……」
「ここで久遠寺君まで見つかってしまったら私の努力が無駄になってしまう。久遠寺くん……お願い。愛は、愛はとっても綺麗なものなの。傷つくことはあるけれど……決して汚しちゃいけないの。だから、お願い」
 そう言うと相楽さんは、「これをお願い」と、僕に小さな機械のようなものを渡してきた。
「え、これは……なに」
「これ以上、女の子を泣かさせないための証拠……。それじゃあね、久遠寺くん。私はあなたを信じてる」
「……えと」
 僕が戸惑っていると、ドアが今にも突き破れそうな勢いでどんどんと叩かれた。
「相楽さん。本当に大丈夫かい? まだ出られない状態なの? 開けようか?」
 吾川君の催促する声が一層大きく響いている。猶予はもうない。
「う、うん! 全然大丈夫! い、いま開けるね!」
 相楽さんが身をよじって僕から体を離し――そしておもむろに僕を壁の隅に突き飛ばした。
「ぅっ――」
 僕はなんとか声を押し殺す。
 その瞬間、相楽さんの手でドアが開かれた。
 そのドアは、ちょうど僕を壁と挟むような形になって、僕の目の前で止まった。
「やぁ相楽さん。どうしたんだい? ずいぶん長いトイレだったね」
 漏れた光の先から吾川君の声が聞こえてきた。
「……あ、あまり女の子にそんなこと訊かない方がいいと思います」
「ふっ……しらばっくれちゃって相楽さん。ちょっとさ……この店を出ないかい? 君に、話があるんだ」
 なんだか含みのある声で吾川君が言った。相楽さんの言う通り、彼は気付いているんだ。
「……はい」
 素直に答える相楽さんの声には、緊張感が感じられた。
 そして、2人の気配は遠ざかっていった。
 僕は後を追おうかどうか悩んだ。でも、ここで追っては相楽さんの意思を無駄にすることになると思った僕は、どうしても足が動かなかった。
 相楽さんのことがとても心配だった。
 しかし勇気がない僕は、店を出てまっすぐ家に帰った。外はすっかり日が暮れていた。

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