喪女につきまとわれてる助けて

第4話 安息の日々と解放

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

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 その日の授業が全て終わって、僕は帰り道とは違う場所を歩いていた。
 迷いながらも辿り着いたのは、大きな一軒家。
 以前篠之木先輩に無理矢理連れられて1度来たことはあったけど……ちゃんと到着できてよかった。
 お金持ちそうな家構えに僕は立ち止まってちょっと辟易していたけど……ここまで来たんだ。勇気を持って足を踏み出した。
「あれ、あなたは……この間の……」
 だが玄関のベルを鳴らそうとしたとき、僕の背後から可憐な少女の声が聞こえてきた。
 誰だ。僕が振り返るとそこには。
「あ、君は掃除のときの……」
 このまえ篠之木先輩と一緒にゴミ拾いをしてた時に現れた、とても綺麗な中学生の女の子だった。
「やっぱりまた会えましたね、お兄様」
 少女は相変わらず中学生とは思えない、妖艶な微笑を浮かべている。でも、どうしてこの子がこんなところに……。
 僕が思考を巡らしたその時、頭の中でピタリとジグソーパズルのピースがはまったのを感じた。
「あ。君はひょっとして……篠之木先輩の……」
「あら……篠之木先輩、ですか。うふふふ、おかしいですね。あのお姉様が先輩、だなんて。ふふ……うふふふふふっ」
 美しい少女は口元に手を添えて、心底おかしそうにコロコロ笑っている。僕はわけが分からなくてただその様子を見守っていた。少女はひとしきり笑った後、手で目元をこすりながら言った。
「ええ……そうですわ。まだ名乗っていませんでしたね。わたくしは篠之木倫々夢と申します。お兄様のお考えの通り、篠之木来々夢の妹ですわ……不服なことに、ね」
 篠之木倫々夢と名乗った少女は、優雅な佇まいでそう言った。
「不服……」
「そう。不服ですわ。あんなのがわたくしの姉だなんて、一生の恥ですわ」
 篠之木先輩の妹、倫々夢ちゃんは、残酷なくらいの冷たい声で断言した。僕は背中がゾクリとするのを感じた。
「ところでお兄様……相手が名乗ったら自分も名乗り返すのが礼儀だと思うのですが」
「えっ、あっ……そ、そうだね。僕は久遠寺亮貴。ご存じの通り篠之木先輩の後輩だけど」
 僕はとっさのことに慌てつつも名乗った。
「そうですか、亮貴お兄様……ですね」
「いや、下の名前で呼ぶのは目を瞑るとして……お兄様っていうのはちょっと……」
「ところで亮貴お兄様はどうしてこの家に?」
 ……やっぱり僕の要望まったく受け入れられなかったし。
「ええと……ちょっと先輩に会いに来たんだ。その……ここのとこ学校休んでるから」
「……そうなのですか。お姉様に会いに、わざわざここまで……」
 倫々夢ちゃんは、僕の言葉に納得いかないといった顔で眉根を寄せている。
「うん。そうだけど……」
「あっ。ひょっとして亮貴お兄様はお姉様に脅されて来たのですねっ?」
 倫々夢ちゃんは、ぽんと手を叩いて晴れやかな顔をした。
「いや、脅されてないよっ」
 まぁ、普段は脅され続けてるんだけど。
「だったら……罰ゲームですか?」
「それも違うって!」
「じゃあなんなのです? どうして亮貴お兄様はわざわざお姉様に会いに来たのです? お……お金ですかっ?」
「脅しでも罰ゲームでもお金でもないよっ!」
 前回の時と全く同じようなくだりを繰り広げてるよ! なんだか篠之木先輩が不憫に思えてきたよ……。
「でも、お姉様は恋愛を随分憎んでいるでしょう? 高校2年生にもなって幼稚だと思いません? 恋愛は自由であるべきじゃないですか。誰にも邪魔できるものじゃないですわ。それをまるで子供みたいに……あんなのが姉だなんて、正直みっともないですわ」
「ちょっと……自分のお姉さんなんだから……」
「あら、私としたことが少し取り乱してしまいましたわ。わたくし、恋愛に関しては積極的にしている方ですのでつい……うふふ」
「そうなんだ……」
「ええ、それはもう情熱的に、貪欲に……ですわ」
 篠之木先輩は恋愛を憎んでいるけど、妹の倫々夢ちゃんはその逆だということか。姉に対しての反抗みたいなものかな?
「それより亮貴お兄様、教えて下さいませ。お姉様になぜ会いに来たのかを。まさかあんなお姉様ですから、亮貴お兄様が彼氏だなんてこと――ありえないですわよね?」
「なっ……そ、それはないってっ」
 倫々夢ちゃんまで変な勘違いをしている。
 今はこの話題はデリケートだし触れて欲しくなかったのに……。だけど――僕は恥ずかしいけど、篠之木先輩のためにも僕のためにも自分の思いを口に出すことにした。
「僕は……先輩がずっと家に1人でいるのは寂しいだろうって……そう思ったから、ここに来たんだよ。誰かに言われたからじゃない。僕は僕の意思で来たんだ」
「……そう、ですか」
 僕の言葉を聞いた倫々夢ちゃんは、つまらなさそうに絹のような髪を手で凪いだ。そして思いだしたように僕に愛想笑いを浮かべて。
「亮貴お兄様も変わった人ですのね……それではお兄様、頑張ってきて下さい」
 ペコリと僕にお辞儀をして、背を向け立ち去ろうとした。
「あれ? 君は家に入らないの? ここは君の家なんでしょ?」
 見た感じ、学校から帰ってきたところのように見えたんだけど、どこに行くんだろう。
「ふふ……確かにここはわたくしの家ですが……あいにく、わたくし現在は全寮制の中学校に通っているので。今日はたまたま通りかかっただけですのよ」
 まるで倫々夢ちゃんは、自分の家に入らないことを嬉しがっているような、この家自体を嫌っているような、そんな表情を浮かべた。
「それでは、お兄様……わたくしはこれで――」
「あっ、ちょっと待って」
 再び歩きだそうとする倫々夢ちゃんを僕はまた呼び止めた。
「まだ何か用ですか?」
 倫々夢ちゃんは柔らかい表情こそ崩しはしないものの、若干いらだちが伺えた。
「あ、えーと……」
 呼び止めたものはいいものを、自分でもなんと声をかけたらいいのか分からなかった。
 でも僕は、倫々夢ちゃんに何か言わなくちゃいけないような気がした。このままじゃいけないような気がした。だから僕は――。
「り……倫々夢ちゃんは、お姉さんに会っていかなくていいの?」
 とっさに頭に思い浮かんだそのままの言葉を口に出した。
 すると――倫々夢ちゃんは僕の言葉がそんなにも意外だったのか、目を点にしてしばらくその言葉の意味を考えていた。そしておもむろに口を開く。
「ふ……うふふふふふふ。わ、わたくしが? お姉様にっ? ふふっ。本当に分かってませんわね、亮貴お兄様。いいですわ、この際はっきり申し上げます。わたくしはですね、あなたが思っている以上に、お姉様のことが、大っ嫌い――ですのよ」
 恐ろしい……僕は目の前にいる綺麗な少女が、とてつもなく恐ろしかった。そして同じくらいに強い疑問を感じざるえなかった。
「な、なんで……どうして倫々夢ちゃんは先輩のことが嫌いなんだい?」
「あら……それは亮貴お兄様なら理解してくれるものだと思ってましたけど?」
 倫々夢ちゃんは意地悪そうに含み笑いをした。
「僕が……なんで」
「あらあら、本気で言っているのですか? うふふ……なら逆にわたくしの方が聞きたいですわ……亮貴お兄様は何故お姉様に会いにこられたのです? そもそもあなたは、よくあんなお姉様なんかと一緒にいられますわね。わたくし、あなたの正気を疑いますわ」
 ……倫々夢ちゃんの言う事が充分すぎるくらい理解できた。理解できてしまった。
「ぼ、僕は……その」
 倫々夢ちゃんの言葉はまったくもって正しかった。僕はいつも篠之木先輩の傍にいたけれど、僕はいつも篠之木先輩から離れていたかった。僕は篠之木先輩が嫌いなんだ。僕は……倫々夢ちゃんに何も反論する言葉はなかった。
「――ふっ」
 倫々夢ちゃんは黙りこくった僕を見て、勝ち誇った顔をした。大人びたその顔に、僕の背筋が凍り付きそうになる。
 もう僕から何も言葉が出てこないと分かった倫々夢ちゃんは、冷たく笑って。
「うふふ……ごきげんよう。お兄様」
 そう言って倫々夢ちゃんは去って行った。
「…………」
 僕は倫々夢ちゃんの姿が見えなくなるまで、ただその美しすぎる後ろ姿をじっと見ていた。そうしてしばらく茫然と立ち止まっていた僕は、篠之木先輩に会いたい気持ちがすっかり消えていた。だから僕は、もう引き返そうかとも思った。が、それを思いとどまる。篠之木先輩の顔を思い浮かべて。篠之木先輩の気持ちを考えて。そしてなにより、僕はこのモヤモヤした気持ちを晴らしたかった。
 僕は僕のために行くんだ――勇気を振り絞って篠之木家のチャイムを鳴らした。
 ほどなくして。
『……誰だ?』
 インターホンから篠之木先輩の不機嫌そうな声が聞こえた。
 条件反射で身が強張るけども、大丈夫。僕は覚悟を決めて来たんだ。
「久遠寺です」
 僕は篠之木先輩に名乗った。きっと篠之木先輩のことだから、もの凄い喜ぶんだろうなぁ。
『お前か、久遠寺……何の用だ』
 が――。インターホン越しの篠之木先輩の声は、予想とは違って元気がなさそうだった。
「あ、いや、用ってほどの事はないんですけど……先輩に会いたくなって」
 出鼻をくじかれて僕は調子が狂う。篠之木先輩は思ったよりも落ち込んでいるのかもしれない。もしかしたら中に入れないってことも。
『……わかった。いま開ける』
 元気がない篠之木先輩だけど、僕を家の中には通してくれるようだった。
 そして僕がしばらく待っていると、玄関の扉を開けて篠之木先輩が姿を現した。パジャマ姿だった。
「さぁ久遠寺……中に入れ。話があるんだろう?」
 篠之木先輩はそれだけ言うと、さっさと家の中に引き返していった。
 いつもだったら出会い頭に僕にいやがらせしてくるはずだけど……やっぱり今日の篠之木先輩は元気がないんだ。
「お、おじゃまします……」
 すっかり意気消沈した僕は、トボトボと先輩の後に続いて篠之木家の中に入った。
「ここが私の部屋だ」
 篠之木先輩に通されたのは、女の子の部屋というにはゴチャゴチャしすぎている感のある場所だった。
「なにか飲み物でも出そうか?」
 そして今日の先輩は、いつになく妙に優しかった。
「あ、いえ……おかまいなく」
「いいよ。お茶でも入れてくるよ。ああ……そうだ、久遠寺。ちなみに今日はこの家に私しかいないからな」
「え? あ、はい……ありがとうございます」
 お茶を汲みに行った篠之木先輩の後ろ姿を見ながら、僕は頭に疑問符を浮かべた。家に篠之木先輩しかいないからって、それがなんだというのだろうか。気を遣わなくていいってことかな。
 ま、細かいことは気にしないでおこう。僕はざっと周りを見渡してみた。
 全体的に暗っぽい部屋だった。本などいろいろな物が床に散らばっている。その中には、オカルト本やタロットカードや数珠や水晶など、いかがわしいものが沢山あった。……さすが黒魔術師と呼ばれているだけある。
 少ししてから篠之木先輩が戻ってきた。
「ほら、飲め」
 ぶっきらぼうに言って、篠之木先輩はぐいっと僕に湯飲みを差し出した。
「…………」
 湯飲みの中を見つめた。黒っぽい液体。僕としては飲まずに済ませたいところなんだけど――仕方がない。
「いただきます」
 思い切って飲んでみた。意外と味は普通だった。
「それで。なぜお前は今日、ここに来たのだ……話してみろ」
 僕がきたことに、篠之木先輩は嬉しいどころかむしろ迷惑そうな顔を向けていた。
「そりゃあ僕は……先輩が心配だったから来たんですよ」
「フン。果たしてそうかな……お前は本当は嫌々私に会いに来たのではないか? 後で私に何をされるか分からないから、それで仕方なく来た。そうではないのか?」
 篠之木先輩はトゲトゲしい声で、批判するように言った。
「え……ち、違いますよ。そんな事ありませんって。僕は本気で篠之木先輩を心配して――」
「だったら何故こんな後になって来たのだ? もう5日は経ってるだろ? それまでの間、私のことを忘れていたのだろう? でももうすぐ1週間経つから、私が学校に戻ってくるから、それで怖くなってきたのだろう?」
 どうしたっていうんだ。篠之木先輩はどうしてこんなにもネガティブな人になっているんだ。いや……そりゃあいつも暗くて陰湿なのは確かだけど。でも、今日はいつもの暗さとは違う気がする。
「そんな悲観的にならないでくださいよ、先輩……。僕はずっと篠之木先輩の事を考えてたんです。だから今日、来たんですよ。ずっと頭から離れなかったから……」
「や、やめてくれ! 久遠寺……お、お前は私のことが嫌いっ! それで……それでいいんだ。そして私もお前のことが嫌い……それだからいいんだっ!」
 篠之木先輩は自分の体を抱きしめるように身をすくませて叫んだ。その体はいつもより小さくか細く見えた。
「な、なにわけの分からないことを言ってるんです。先輩、僕は……」
 確かに僕は先輩が嫌いだ。でも今の状況でそんなことハッキリ言えるわけがない。
「……言葉に詰まってるじゃないか。だが、まぁそれでいい……私達の関係はそれでいいのだ」
 それっきり篠之木先輩は黙り込んだ。暗い部屋の中に静寂が訪れた。
「…………」
 張り詰めた空気の中、僕は居心地の悪さを感じていた。いつもなら篠之木先輩が突拍子のない行動を起こして賑やか空気が演出されるけど、彼女に元気がないだけでこんなにも冷たい時間になる……これじゃあ僕は何のために来たんだ。
 だから僕は、何か話題をと考えて……ついさっきの出来事を思いだした。
「そうだ、先輩……僕さっき家の前で妹さんに会いましたよ。倫々夢ちゃんに」
 何気なく言った一言だけど、篠之木先輩は予想以上の反応を示した。
「な……に!? 会ったって、倫々夢ちゃん……倫々夢に会ったのかっ?」
 僕の目を見て、追及するような声をあげた。
「え、ええ……会いましたけど……たまたま通りがかっただけだと言ってすぐに引き返して行きましたけど?」
「そうか……」
 篠之木先輩は落ち着いた声で言ったが、平静を取り繕うとしているのが分かった。
「あの……篠之木先輩は倫々夢ちゃんと何かあったんですか」
「…………」
 篠之木先輩は僕の質問に答えようとしない。
「先輩……」
 僕はそれでも先輩に聞こうとする。
「……いいだろう、聞きたいならば話してやるよ」
 すると観念したのか、篠之木先輩は細いため息を吐いて、ゆっくりと話し始めた。
「なぁ、久遠寺。倫々夢ちゃん……いや、倫々夢は私のことを嫌っていただろう?」
「え、そ……それは……」
「いや、いいんだ。むしろこれで話す手間が省けたよ。お前も分かっている通り、私は倫々夢に嫌われたんだよ。全部、私のせいで」
「なにか、あったんですか……」
「……昔は仲がよかったんだ。本当に、よかったんだ……」
 篠之木先輩が遠い目をして、窓の外の方を見た。
「私が小学校の5年くらいの時だったかな……母親がな、不倫して出て行ったんだよ」
 ぽつりと、呟くように言った。
 僕は先輩にかける言葉が見つからなくて、ただ黙って聞いていた。
「父親は昔から仕事ばかりで気にもしてなかったし、そもそも私達姉妹のことすらろくに可愛がっていなかった。今だってこの家に帰ることなんて滅多にない」
 篠之木先輩は特に何の感慨もなく淡々と語る。篠之木先輩の家庭環境がこんなにも冷え切っていたなんて知らなかった。
「倫々夢は私の3つ年下だから、その時は8歳くらいだった。私は事情を全部知っていたけれど……倫々夢には、母が他の男のところに行ったなんてとてもじゃないけど言えなかった。でも今思えば……それが間違いだったんだ」
 篠之木先輩は悔しそうに、ギリ――と歯をくいしばった。
「突然母がいなくなったことに関して倫々夢からよく尋ねられた。私はどう答えればいいのか分からなかった。だから私は――母はすぐに戻ると何の根拠もないその場しのぎの嘘を吐いたんだ」
 そうは言っても篠之木先輩だってその当時は11歳だったんだ。彼女自身その辛さには耐えられなかったはずだ。なのに篠之木先輩は、自分の事よりも妹を気遣っていたのか。
 そしてその行為が、本当に過ちだったというなら……なんて残酷なんだ。
「私はずっと嘘をつきとおす為に様々な手を尽くした。今は別の世界で戦ってるとか、UFOに連れ攫われているとか、占いで現在いる場所を適当にでっちあげたり、そういう幼稚だけど……非現実的な嘘を倫々夢に信じ込ませていた」
 ああ……篠之木先輩が黒魔術師と呼ばれているルーツはそこにあったのか。
「でも、そんな嘘がいつまでもつきとおせるわけもなかった。いつかこんな日がくるだろうとは思っていた」
「知ってしまったんですね」
「ああ、3年ほど前にな。けれどもまさか倫々夢が……あんなに傷つくとは思わなかった。いや、そうじゃない……彼女は母親が不倫して出て行ったことよりも、それを私がずっと隠していたことに怒っていたのだ。私は倫々夢ちゃんのことを思ってやってたのに……っ」
 なんとなく、篠之木先輩は倫々夢ちゃんに対して過保護そうなところがあるように思われた。きっと行き過ぎた愛情の分だけ、それを埋め合わせる程の憎しみを倫々夢ちゃんは抱いたのだ。なんて……どこまで残酷なんだ。
「もしかして嘘を吐いて倫々夢を励ましていたのは、本当は倫々夢のためじゃなくて……私自身を癒すためにしていたことなのかもしれない。私は……倫々夢ちゃんをただ利用していたのかもしれないっ……」
 篠之木先輩の感情は不安定に上下している。
「私はずっとそのことに気付かなかった。それまで私は、明らかに距離をとるようになった倫々夢に、それでも気を惹こうと今まで以上に過剰に空想の物語や超現実的な小細工や非現実的な小道具を用意した。が、全部が空回りだったよ。結局、倫々夢じゃなくて私が私を慰めていた事に気付いたのは、倫々夢が全寮制の中学に入って家を出た後だった」
 いなくなって気付いたんだ。自分がやってきたことの意味を。それは全部……倫々夢ちゃんを傷つけるだけだということを。
「そしてすぐに私の耳にある噂が入った。倫々夢が……数々の男とつきあい始めていると」
「えっ? それはどういう……」
「私にも分からない。倫々夢はもう、私とはまともに話してくれないし、会ってもくれないんだ。ただ、彼女が何人もの男と付き合っているという噂だけがあった。そして……これは私の考えだが……倫々夢なりの復讐なんじゃないかって、私は思うんだ」
「復讐?」
「そうだ。不純な恋愛の末に消えた母親。それを知っててずっと隠し続けていた私。それらを全て見て見ぬフリをし続けた父親。……倫々夢は家族に復讐しようと、自分自身が恋愛の中に身をおいているのだと」
 篠之木先輩にあてつけるためだけに付き合っているというのか。
「……じゃ、じゃあもしかして、篠之木先輩がカップルを異常に憎んでいるのは……」
「それは関係な……いや、そうだな。ああ……その通りだ。確かに否定はしないよ。それがきっかけで私は恋愛する人間を憎むようになったのは確かだ。……母も、妹も」
 愛によって引き裂かれた家族。だから愛を憎み、愛を倒そうと先輩は頑張っているのか……。もしかすると、そうする事で家族が元に戻ると思っているのかもしれない。
「せ、先輩……」
 僕はなんだか篠之木先輩が哀れに思えてきた。彼女にはこんな背景があったのに、僕は何も知らずに今まで嫌っていたなんて。
 でも、それなのに先輩は――。
「やっ、やめろ久遠寺っ……そんな目で私を見るなっ! 私に同情するな……今の話でお前は何も理解できなかったというのかっ」
「理解ってなにがですか。だって先輩は――」
「違うっ! 同情してもらいたくてこんな話をしたんじゃないっ! 私に近づくなと言っているのだ! 私は、私は愛を破壊しなければならないのだ! なのにっ! なのにお前はっ!」
 篠之木先輩は取り乱し始めた。華奢な体を震わせて、自信のなさそうな瞳をあちこちに向ける。
「先輩……」
 僕はどうすればいいか分からなかった。ただ、彼女が落ち着くまでじっと見守っていることはできる。
「やめろ……私は絶対に違う。お前なんてどうとも思ってない……だからお前ごときが私を……っ。私は何をされたとしても動じないんだっ!」
「…………」
 篠之木先輩が何を言ってるのかよく分からないが、僕は何を言われようとも、ただ先輩の不安が消えるまで待つ。
 すると――篠之木先輩は、思ってもみないことを口にだした。
「久遠寺……私の体を触ってみろ」
 突然の、耳を疑いたくなるような要求だった。
「え――?」
 僕がその言葉の意味を理解するのに数秒を要した。そして頭の中で解析が完了。
「……って、いきなりなに言ってるんですかっ!? じょ……冗談は――」
「冗談ではない。いいから触れ、久遠寺!」
 篠之木先輩は怒鳴り声をあげて僕の言葉を遮った。
 シリアスな流れをぶちこわす有無を言わせないこの展開、今日の篠之木先輩はある意味いつも以上に暴走している。
 ぐいいっ――と。篠之木先輩はくっつきそうなくらい僕の近くまで来た。
「私がお前のことなど、どうとも思っていない事を証明してみせるのだ! さぁ! どこでもいい、ほら早く!」
 そう言って先輩はぐいっと胸をつきだした。パジャマの下の大きな胸が、ぷるんと揺れた。篠之木先輩の顔は恥ずかしさからか頬がほんのり赤く染まっている。彼女は本気だ。
「え、で、でも……」
 お互い嫌いあっているのに、なんでそんな事しないといけないのか。篠之木先輩はそんなことされて平気なのか? そもそも意味が分からない。
 僕がオロオロしていると、篠之木先輩が左右の手で素早く僕の手首をそれぞれ掴んで――大きな胸に押し当てた。
「なっ、なにをするんですっ。先輩ーーーっ!?」
 僕は手を引っ込めようとするけど僕の手首を掴んだ篠之木先輩の力は強く、その結果、僕の手は先輩の胸をぐにぐにと弄ぶような形になってしまった。大きさは相楽さんの方があるけれど、篠之木先輩の胸は弾力と感触が素晴らしかった。いや、そうじゃなくて。
「せ、先輩っ。手を離してくださいっ! こんな――」
 篠之木先輩は顔を真っ赤にして、目の端には涙さえ浮かべている。でも決して離そうとはしなかった。それどころか彼女はじりじりと体を寄せるように近づいてくる。
 そしてとうとう僕達の体は密着した。僕の体はわけのわからなさに硬直してしまっているが、それでも篠之木先輩の体の柔らかさと温かさを感じることはできた。両手はいぜん、先輩の胸に押し当てられている。
 ずっと黙っていた篠之木先輩が、誰かに宣言するかのように大きな声をあげた。
「みろ! わ、私はどうも思っていないぞ……! く、久遠寺に胸を触られても……な、何も感じないぞっ」
 篠之木先輩は息を途切れ途切れさせながら言った。手の平を通じて篠之木先輩の胸の鼓動の高鳴りを感じる。篠之木先輩がもの凄い動揺しているのが分かる。
 僕だって同じだ。篠之木先輩の平均より大きめの胸を、がっしりと触っているのだ。張りと弾力があって形のよさも分かる。早く放してしまいと思うのと同時に、ずっとこうやっていたいとも思っていた。
「私は……何も……感じてなんか……あっ。んくっ」
 篠之木先輩の体がビクリと跳ねた。彼女は女の顔をしている。
「先輩……もう、よしましょう……」
 僕の息づかいも自然と荒くなってくる。どんどんと理性がなくなっていきそうだった。
「はぁ……はぁ……私は……久遠寺が……久遠寺のことがぁ……」
 篠之木先輩の目がうつろになって、自分の顔を僕の顔にゆっくり接近させる。そして唇どうしが触れそうな距離までくる。
「い、いや! 駄目だ! 私にはできない!」
 突然先輩は叫んで、僕の体を突き飛ばした。
「うわあっ!」
 僕の体は勢い良く吹き飛んで、壁にぶつかった。もの凄い力だった。
 床に倒れながら、何がなんだか分からない僕は篠之木先輩の方を見る。先輩は目に涙を浮かべ、肩で息をしながら僕に言った。
「私はもう、お前の顔なんて見たくない……帰ってくれ、久遠寺」
「……えっ。ど、どうしてっ」
「いいから帰ってくれ! 1人になりたいんだ! そして……もう来なくていい。私も――もうお前には二度と関わらない」
「せ、先輩っ!?」
「ふ……フフッ、お前にとっては願ってもないことだろうっ? だってお前は私のことが嫌いなんだから……。さぁ行け! そしてもう私の前に姿を現すなっ」
 こ、こんな時まで……なんて勝手なんだ。いつも篠之木先輩はこうやって僕を振り回す。ああ、そうじゃないか。これは――僕が今までずっと待ち望んでいたことじゃないか。
「分かりましたよっ! 僕だってせいせいしますよ! もう先輩と会わずに済むなんて! 確かに先輩の言うとおりです! 僕は先輩の事がずっと嫌いでしたよっ!」
 今まで蓄積されてきた篠之木先輩に対する恨みが、とうとう爆発してしまった。
 僕の口から言葉が次々と溢れ出す。篠之木先輩に対する、これまで虐げられてきた感情がこぼれる。
「初めて会った時から嫌いでした! いつもいつも嫌がらせを受けて、暴力を振られて、ずっと悩んでいました! 先輩の顔を見る度に最悪の気分になりました!」
 きっと相楽さんや吾川君や橘さんのこともあって、僕は情緒不安定になっていたんだろう。言葉が勝手に溢れ出す。一度火が付いたら止まらない。
「…………」
 篠之木先輩は何も言わずにただ黙っていた。そしてその目から涙が零れたのに気が付いて――僕は冷静になった。
「さようなら、篠之木先輩……」
 僕は先輩に別れを告げた。これは僕の、篠之木先輩に対する独立宣言だ。
 去り際に見た篠之木先輩は、孤独に耐える小さな女の子みたいに見えた。
 僕の心の中に余計な感情が混ざってしまうその前に、僕は逃げるように篠之木家を後にした。

 わけが分からなかった。篠之木先輩が僕を突然突き放そうとしたことも、僕が篠之木先輩に対してあれほど感情を爆発させたことも。
 でも1番分からないのは……篠之木先輩と関わらずによくなったというのに、僕はちっとも嬉しいと思わなかった事だった。いや、むしろ僕は……どうしたんだろうか。それを寂しいとさえ思っていた。
 自分の気持ちも分からないまま僕が日の沈みかけた帰り道を辿っていると、吾川君が女の子と一緒に歩いているところを見た。
 ああ……また懲りずに女の子とデートしている。しかもまた新しい女の子のようだ。後ろ姿だけどそれが分かった。なぜなら今度はなんと僕達の高校の制服を着ている少女だったから。吾川君……オールハートイーターだとバレた後なのによく続けられるよ……。いや、風紀委員長と裏で通じてるところからすると……篠之木先輩がいない現状は、邪魔する者は誰もいないということか。
 僕がぼんやりと見ていたら、吾川君と女の子が立ち止まった。
「……っと!」
 僕は急いで物陰に隠れた。最近、こういうのが多いなぁと、我ながら情けなくなってくる。
 それにしても……篠之木先輩が停学処分を受けたと知って、また堂々とデートしているなんて……やはり彼には悪気なんて全く感じてないんだろう。
 けど新しい彼女はどんな人なんだろう。僕が少し気になっていると――僕の方に背を向けている、肩まで伸びる綺麗な黒髪の少女がちょうどこっちの方を振り返った。
「なっ……」
 思わず声をあげそうになった。その意外な人物に、僕は我が目を疑いたくなる。
 その人物は――。
「そ、それじゃあ次は本屋に行きたい……です」
「あはは。思ってた通り、君はすごく本が好きなんだね――相楽さん」
 吾川君のクラスメイトであり、それに僕のクラスメイトでもある――真面目で大人しい文学少女、学級委員の相楽早苗さんだった。


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