喪女につきまとわれてる助けて

第3話 オールハートイーター

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 その後は何事もなく平和な時間が過ぎていった。
 吾川君は怯えていたけど、風紀委員長がなんとかしてくれたから大丈夫だと言ったら、ずいぶん喜んでいた。
 それから……そういえば相楽さんに何か言っといた方がいいかなと思ったけど……相楽さんはたまに僕と目が合うと恥ずかしそうに俯いているし、教室ではあまり話しかけないほうがいいかなと思ってやめておいた。
 そして橘さんのおかげか分からないけど、その後は篠之木先輩の妨害を受けることなく時間は進んでいって――放課後になった。
 久しぶりの穏やかな日を過ごし、やっぱり今日はツイてる日かもしれないぞ、と僕は大きく伸びをして教室をでて帰ろうとした時だった。
「……おい、おい、久遠寺」
 囁くような声で僕に呼び掛ける声が聞こえた。
 せっかくいい気分だったのに、最後の最後でぶち壊しになるなんて……僕は意気消沈した気分で、黙って振り返る。
「今から帰るところなのか? どうせ帰っても暇だろう? 少し私に付き合ってくれないか」
 例によって僕の前に現れた篠之木先輩だったけど、その姿はいつもと比べて元気がないように見えた。妙に落ち着いてるというか大人しい感じというか……コソコソ誰かから隠れているようだった。
「ど、どうしたんですか篠之木先輩……。放課後に何か用事があるのでは……?」
 せっかく今日は何事もなく早く家に帰れると思ってたのに。
「その事について来たのだ。実は……久遠寺に頼みがあって来たのだ。これはお前にしか頼めないお願いだ」
 いつになく真剣な眼差しで僕をじっと見る篠之木先輩。
 篠之木先輩は何か問題を抱えているのだろう。僕にこんな事言ってくるなんて……でも頼み事ってなんだろう。僕にしかできないことって……?
「私は……久遠寺がいいのだ。お前以外の人じゃ駄目なんだ。私を助けてくれ……久遠寺」
 篠之木先輩は瞳をキラキラ光らせて、甘えるような声で僕に懇願する。柄にもなく妙に女らしい彼女はこの僕を求めていた。 
 僕はゴクリと息を呑んで――こう言った。
「いや……僕ちょっと家帰ったら用事があるので……」
 この人と関わらずに済むなら僕は大抵のことはする。とにかく関わらずに帰りたい。
「この馬鹿野郎っ。いいからさっさと来るんだ」
「あいたっ」
 僕は篠之木先輩に殴られて、そのまま強制的に連行されることになった。結局僕の意思は無視なのね。
「実はな、風紀委員に目をつけられた私は身柄が拘束されてしまっていて、思うように動けないのだ」
 隣を歩く篠之木先輩が頼りない声で言った。
 ……ああ、だから今日は僕にちょっかいかけてくる事がなかったのか。それならそれで大助かりだ。ありがとう、風紀委員。でもちょっと拘束力が弱い気がしますよ。
「久遠寺も私に構って貰えなくて寂しいだろう?」
「えぇ? あぁ……まぁ、はい……そうですね」
 いいえ、まったく。
「というわけで、奉仕活動を一緒にしようではないか!」
「へっ? 奉仕活動ってっ?」
 というわけで、ってのが何を指してるのか知らないが、奉仕活動ってどういうこと?
「これから学校の周りの清掃活動に励もうじゃないか!」
「せ、清掃活動? ……も、もしかして用事っていうのは……それなんですか?」
「ん? なんだその顔は。嫌なのか、久遠寺」
「え、ええと……まあ嫌ですね」
 僕が嫌なのは清掃活動じゃなくて篠之木先輩と一緒にいることだけど。
「でも大丈夫。私がついている。頑張ろう」
 いや、全然頑張れないよ。
 そんなこんなで半強制的に篠之木先輩に連れてこられたのは、校門の前だった。
「風紀委員から言われたのだ。どうやら学校の周りのゴミ拾いをしなければならないらしい。まったくふざけた話だと思わないか、久遠寺よ」
 頭に黒い三角ずきんのようなものをかぶり、黒い軍手をはめて、篠之木先輩はやる気満々に準備万端だった。満更でもないじゃん。ふざけた話はあなたの方ですよ。
「でも……それってとてもいい事だと思いますよ。町を綺麗にするのは心も綺麗になると思います。僕、掃除自体はそんなに嫌いじゃないですし」
 そもそも篠之木先輩がふざけているからゴミ拾いする羽目になったんだから、この機会に清い心になってもらえないだろうか。……無理だろうな。
「ふ……お前はまたそう真面目ぶった事を言って、自分だけ好かれようとするのだから……まあいい。さっさと終わらせるぞ、久遠寺。学校を一周するからこの辺からやっていこうじゃないか」
 篠之木先輩がゴミ袋を広げて、歩いて行った。
「あ、先輩。だったら手分けしてやりましょうよっ。その方が早く終わりますよ」
 篠之木先輩と並んでゴミを拾っていても多分はかどりそうにないし、むしろ余計に町を汚してしまいそうな気がする。なにより僕は、できるだけ先輩から離れたかった。
「な、何を言っている。つれないなぁ久遠寺は。一緒にやるから楽しいのだろう〜?」
 そう言って、気持ち悪い笑顔を向ける篠之木先輩。僕は苦痛なんですよ。
「で、でも一周するんでしたら2人いることだし、逆方向で回って半分の時間で終わらせられますよ」
「久遠寺……お前はもしかして……もしかして私の事が……そんな……そんなこと、ないよな」
 しまった……あからさま過ぎたか? みるみるうちに篠之木先輩の表情が曇っていった。いや、ていうか今更言われても……もしかしてじゃないし。
 でも僕は、お人好しの小心者だから……こんな顔をされると折れてしまうしかないのだ。こんなことだから篠之木先輩につけ込まれるんだって分かっていても。
「はぁ〜……分かりましたよ、篠之木先輩。一緒に――」
 ため息を吐いて僕が先輩に語りかけようとした時――僕の声は、新たに割って入った声にかき消された。
「だめよ、篠之木来々夢っ。久遠寺くんの言う通り、ここは手分けしてやりなさい。遊びでやってるんじゃないんだからねっっっっ!」
 それは、風紀委員長の橘織香さんだった。
「げっ。な、なぜ橘織香がこんなところにいるのだっ」
 おくびもなく嫌そうな顔をする篠之木先輩。そのはっきりした感情表現がうらやましい。
「あなたがサボってないか様子を見に来たのよ。久遠寺くんが手伝うのは多いに結構だけれど……やるのなら、2人バラバラでやりなさい」
 橘さんはツリ気味の目を細くして、僕達を睨み付けた。
 篠之木先輩は舌打ちして、僕は縮こまって、ゴミ拾いに向かった。それぞれ反対向きに学校の周りを歩いて行くルートになった。
 僕はゴミを探しながらゆっくり学校の外壁に沿うように歩き、ゴミが落ちているのを見つけたら手に持っている大きなゴミ袋に入れていってるのだ。
 さっき篠之木先輩にも言ったけど、僕は掃除は嫌いじゃない。元々綺麗好きで、部屋の掃除も暇さえあればしているし、細かい作業に熱中しやすいのだ。
 それにしても……結構なゴミが落ちていること落ちていること。ペットボトルに、割り箸に、カップ麺の容器に、レジ袋……世も末だね。
 今まであまり気にしてなかったから気付かなかったけど……こうして見ると先輩が世の中に感じている怒りだとかが分かったような気になった。でも篠之木先輩の怒りと僕の怒りは基本的に違うんだろうけど。
 いけないいけない。せっかく純粋な心が養えると思ったのに、逆に心が乱れていってる。これは少し気分を落ち着けないといけない。
「ふ〜……まだ半分もいってないや。篠之木先輩は真面目にやってるかな」
 僕が気分転換に背筋を伸ばし大きなあくびをして周りを見渡してみた。
 すると前方に――とても美しい少女が立っているのを見た。
 長くて艶やかな黒髪。少しピンクかかっているが全体的に真っ白な顔。細い手足に、どことなく遠くを見ているような虚ろな視線。服装から察するに……その少女はここから少し離れたところにある有名私立中学に通う生徒のようだ。
 そんなお嬢様が僕に用件でもあるのだろうか、じっとこっちを見つめていた。
 よく見れば少女は誰かに似ているような気がして……そうだ。この子、どことなく篠之木先輩の面影があるぞ。まだ中学生だから篠之木先輩に比べると幼い顔立ちをしているから、先輩の昔の姿と言っても不思議じゃない。いや、それはすごく不思議なことだけど。
「うふふふ……」
 不思議な気持ちで綺麗な少女と視線を交差させていたら、彼女は年齢にそぐわない大人びた感じで微笑んだ。
「あ、あの……君は……」
 年下の少女相手に緊張しながらも、僕はどうにも気になって少女に声を掛けた。
 少女は、妖艶に、ゆったりした口調で語り始めた。
「いえ。たまたま通りかかって……少し気になったものですから。何をやっているのだろう、と。うふふ」
 そう言って、少女はしゃなりしゃなりと僕のところにやって来た。
「え、ええと……学校の周りのゴミ拾いをしているんだよ。清掃活動だね」
「ふぅん。そうですか……なんでそんな事しているのですか? 何かの罰ゲーム?」
 可憐な少女は、ゴミを拾っている僕をまるで汚い物を見るかのような目で見つめている。
「罰ゲームじゃないよ。確かに言われてやってる事だけど、やってみると案外楽しいものだよ」
「はぁ……そうですかね。わたくしにはとても理解できませんが。ホントは強がって言ってるだけじゃないのですか?」
「強がってないよ。どうせ掃除するなら楽しんでやらないとね」
「ああ……ゴミ掃除する惨めな自分を正当化させるために、楽しいと思い込んでいるのですね……(察し)」
「だから違うって! 君はどうしても僕を、嫌々やってる可哀相な人にしたいみたいだねっ!?(怒り)」
「だって見た感じ、気が弱そうで可哀相な感じの人に見えますもの、お兄様(軽蔑)」
 少女はおどけたような調子で言った。
「お、お兄様って……あんまり年上の人をからかっちゃ駄目だよ(汗)」
 ていうか……軽蔑の目を向けられた!?
「ところでお兄様、学校のゴミ拾いをしているのは何か理由があるのですよね? それはいったい?」
 コロリと話題を変えてくる少女。
「……僕への呼称は変わらないんだね、いいけどさ……うん。ちょっとある人のお手伝いでやってるっていうか……」
「ふふ。そういう事ですか。ならばその人物に、お兄様は巻き込まれたということなのですね……可哀相に」
「だから可哀相じゃ……いや、そこは可哀相で正しいね。僕は……いっつもその人に迷惑かけられてるからね」
 僕は遠い目で青空の彼方を見た。もちろんその人とは篠之木先輩のことだ。
「ぎざ可哀そすですわね。いかにも気の弱そうな弱者を執拗に責め立てるなんて……本当に駄目人間なのですねぇ、その人物は。世の中の絶対悪という存在ですね」
「あー、いや……それは言い過ぎだと思うけど」
 あと、僕に対してもちょっとひどい事言ってると思う。そしてぎざ可哀そす?
「いいえ、許せませんわ。情けないけどこんなにも優しくて清い心を持った、お兄様のような人に被害をこうむるような人間なんて、わたしく軽蔑しますわ」
 まるで親のかたきであるかのように、少女は怒りの感情を露わにしている。
「あのさ……僕のことは別に気にしなくていいからさ、君はこんなとこで油を売っててもいいの?」
 ゴミ拾いしてる高校生に話しかけるなんて、よっぽど暇なんだろうなぁ。
「そうですわね……お兄様のおかげで色々知ることができました。ありがとうございます」
 少女はペコリと丁寧にお辞儀すると、くるりと僕から背を向けた。
 中学生とは思えないくらいとても綺麗だけど、なんだったんだろうと思っていると。
「そうそう、お兄様。機会があれば、またあなたとお話がしたいですわ……いずれ近いうちに、ね」
 僕の方に振り返ってそう言うと、「それではごきげんよう」と言ってスカートの端を両手でつまんで挨拶して、今度こそ去って行った。
 もしや僕は白昼夢でも見ていたんだろうか。なにか変な浮遊感みたいなものを感じながら、美少女が去った後もしばらく茫然と立ち尽くしていた。
 すると僕はそこでまた、とある人物を視界の端に偶然捉えた。
「あれ……あれは?」
 僕が見たのは、吾川澄志君が歩いている姿だった。
 といっても吾川君がただ歩いているだけなら別に気にならなかったんだけど、注目べきは――彼が1人でなかったということ。
「また彼女とデートしてるのかな……」
 吾川君の隣には、別の高校の制服を着た少女の姿があった。
 吾川君、今日も彼女と一緒にいるんだなぁと見ていたら……僕は大変な事に気付いた。あれはまさか……ち、違う。あれは違うっ。吾川君の隣にいる彼女――。僕が昨日繁華街で見かけた子とは、別の人だっ。
 僕はそんなに記憶力がいい方じゃないけれど、繁華街で吾川君と彼女のツーショットは少なからず僕に衝撃を与えたんだ。未だにあの時の彼女の顔は鮮明に記憶している。
 その顔は、いま吾川君の隣にいる少女のものじゃないって確実に言える。
 これは……どういうことだ。ただの友達同士というには、手も繋いでいるし女の子は恥ずかしそうにしているし……やっぱりカップルにしか見えない。繁華街で見た時と同じような状況だ。だったら、それが表す意味は――。
 遠くの方で信号待ちしている2人は、おしゃべりに夢中らしく僕の事には気付いていない。僕は2人に声などかけられるはずもなく、ただじっと眺めていた。
 やがて信号は青に変わって、2人は道の角を曲がって姿を消した。
 道路に姿を消していく2人の姿を眺めていたら、こっちに駆けてくる慌ただしい足音と声が聞こえた。
「おい、久遠寺! お前全然進んでいないじゃないか! さてはサボっていたなっ!」
 それは篠之木先輩の声だった。どうやら吾川君達のことには気付いていないようだけど……僕は先輩に悟られないようすぐに振り返った。
「あっ。せ、先輩もう終わったんですかっ?」
 注意をこっちに向けようと、僕はおおげさに驚いてみせた。
 というか僕はまだ3分の1も進んでいないのに、篠之木先輩はもう僕のところまで回ってきたという事実に、嘘ではなく本当に驚いていた。
「一生懸命猛スピードで掃除していたのだ。誰かみたいに無駄に時間を潰してなどいない。おかげで私が久遠寺の分まで掃除する羽目になったじゃないか」
 でもそう話す篠之木先輩の手にあるゴミ袋は、全然中身が入ってなくてペラペラだった。
「……僕は、できるだけ沢山のゴミを拾おうとしてたから時間がかかったんで……」
 実際、僕のゴミ袋の方が篠之木先輩よりも中身が多いように思う。
「なにぃ〜? すると久遠寺、お前は私が適当にゴミ拾いしてたと言うのかぁ?」
 そうじゃないんですか? と言いたいのを我慢。
「いえ、そうじゃないんですけど……あっ。そ、そういえば先輩……さっき誰かに声をかけられたりしませんでした? 中学生の女の子とかに」
 話を逸らそうと、僕はさっき声をかけてきた綺麗な女の子のことについて訊いてみた。
「中学生の女の子? 全然知らないが……なんだ久遠寺、お前は私がゴミ拾いしている間に中学生の女の子とイチャイチャ乳繰り合っていたというのかぁ?」
 なんだ……篠之木先輩はあの子に会ってなかったのか……。あの子なんだか篠之木先輩を知ってる風っていうか、篠之木先輩をやたら嫌悪してたからもしやと思ってたんだけど。
 ていうか……マズイ。篠之木先輩がますます怒っちゃった。僕の話題逸らしは完全に逆効果だったよ。乳繰り合うて表現、普通女子高生が使うか?
「久遠寺〜。まさかお前、その中学生に気があるんじゃないだろうな〜?」
「んなっ。そ、そんなことっ!」
「はぁああ〜……見損なったぞ、久遠寺。まさかお前がロリコンだったとはな」
「いやっ、僕はただ何やってるか訊かれたから、それでゴミ拾いをしてるって答えたんですよっ。それだけですよっ!」
「ムキになるところがますます怪しいな……これは久遠寺に再教育が必要かもしれないな」
「さっ、再教育っ!? いやぁああああ……」
 教育という名を借りた、数々のイジメの思い出が脳裏をよぎった。
「そ、それはご勘弁をっ! 本当にやましい事は何もしてないですよっ! ただ掃除は素敵だよっていう話を……」
 先輩に何をされるか分からない恐怖から、僕は言い訳にならない言い訳を必死に述べ立てる。
「……素敵なのか? 掃除が?」
「え、ええっ、掃除ってとっても楽しいなって思います! 大好きです!」
「そうか、大好きなのか。お前のその気持ち……伝わったぞ、久遠寺いいいいっ!」
 許して貰えないと思っていたけど、意外にも篠之木先輩は僕の熱意に感動したようだった。
「せ、先輩……」
「そんなにゴミ拾いが好きなら、残りは全部お前にゴミ拾いをやってもらおうか。私の分までな」
「――ええっ?」
 しまった。はめられたっ!?
「私も手伝いたいが、お前の思いを無下にすることもできないからな。それじゃあな、久遠寺。あとよろしくっ」
 篠之木先輩は薄笑いを浮かべながら颯爽と身を翻し、僕を置いて――
「いいえ、篠之木来々夢っ。ゴミ拾いはアナタが1人でするのよっ!」
 いつの間にか、僕達の後ろに橘さんが来ていた。
「なっ……なんだと。それはどういう事だ、橘織香〜〜〜っ」
 立ち止まって振り返った篠之木先輩が、目をカッと見開いて不満を表している。恐ろしい顔だ。目を合わせたら石化しそうだ。
「どうもこうもないわ。アナタ……全然ゴミを拾ってないじゃないの。もう一回やり直しなさいって言ってるの」 
「だ、誰がやるかっ。私は――」
「それが嫌ならアタシは別にいいのよ。ただ……これからはもっと監視の目をきつくするだけだけだからねっ。アナタは四六時中、風紀委員に見張られて生活するのよっ!」
 僕があんなに恐れている篠之木先輩を、橘さんが手玉にとっている。す、すごい……。
 篠之木先輩もタジタジとして橘さんのいいなりに。
「わ、分かった。それじゃあ久遠寺、一緒に……」
「いいえ、駄目よ。ここからはアナタ1人でやるのよ」
「なっ……ど、どうしてえええっ!?」
 篠之木先輩は今度は驚愕の表情。さっきからコロコロ表情が変わってる。
「アタシは久遠寺君と話があるの。だからこれで失礼するわ。後はよろしくね。ちゃんとゴミは拾いなさいよね……」
 橘さんはキッと篠之木先輩をひと睨みした後、僕の方を振り向いた。
「それじゃあ久遠寺くん、行きましょうか」
「え、あ……」
 橘さんは有無を言わせずオロオロする僕の腕を引っ張って、スタスタ歩いていった。
「あっ。く、久遠寺! 待って……くそぅっ……た、橘織香め……っ」
 篠之木先輩の恨み言が背後から聞こえてきた。後がきっと怖いけど、あまり考えるとまた今日も寝られなくなるから頭から消しておこう。
「それで、橘さん……僕に話ってなんですか?」
 篠之木先輩抜きで、橘さんが僕に話しかけてくるなんてどんな用事なのだと、僕はちょっと身構える。
「アタシが1番嫌いな人間はね、ルールを守らない者なの」
 僕の質問に対して、素っ気ない答えが返ってきた。というか答えになっていないし。
「えと……それは、篠之木先輩のことですか?」
「もちろんそうよ。そして、久遠寺亮貴……それは、あなたにもあてはまるわ」
「ぼ、僕も……」
「そうよ。アナタは自分が被害者だと思っているかもしれないけれどね、何もできないアナタは、1番卑怯で1番厄介な人間なのよ」
「え、と……」
 橘さんの言わんとすることが分からず僕は困惑する。
「自分の事なんだから自分で考えなさい。ちなみに――アタシが2番目に嫌いなのはね……意思が弱く、強い人間のいいなりになるような人よ」
「とにかく……橘さんは僕が嫌いってことが言いたいんですよね」
「いいえ、嫌いじゃないわ。大嫌い、なのよ」
「…………。は、はぁ……あの、篠之木先輩のいいなりになってる自分が情けないって事は自覚してます……で、でも、橘さんには関係ないじゃないですか。僕は別に誰かに助けを求めているわけじゃないんですし……」
 僕はこういう修羅場が苦手なので、できるだけ橘先輩とは目を合わせないように、遠くの建物とか見ながら歩幅とペースを乱さないように気を付けて歩く。
「まぁ、確かに関係ないわね」
「な、ならその話はもうおしまいってことで……それで……用件はそれだけですか?」
 僕は橘さんを刺激しないように、無難な言葉を選ぼうと努力する。
「それだけといえばそれだけだけど……少し、お話に付き合ってくれないかしら?」
「お、お話っていうのは……?」
「オールハートイーター……篠之木来々夢の家来のアナタならそう言った方が聞こえがいいかしら? 当然彼女から聞いてるわよね?」
「……ええ」
 オールハートイーター。篠之木先輩が追っている恋愛中毒者。同時に何人もの異性と付き合い、飽きたら捨てる。交際相手の心をたぶらかし利用する人間。僕達の学校にその人物がいるという、そんな噂。
「そいつはいるわ、確実に。だってこの学校内でももう何人も被害者が出ているのだから」
「えっ……被害者が出ているんですか? そ、それじゃあ犯人が誰かっていうのは……」
「残念ながらそれは分からないの。被害者の女の子達は口を固く閉ざしちゃってて……ただ分かっているのはそいつが男だってこと……どうやら弱みを握られているか脅されてるかしてるらしいのよね」
「ま、まさか本当にいるなんて。で、でも……どうして僕にこの話を? 橘さんは僕達がカップル狩りしているのを快く思ってないんですよね? こんなこと言って、篠之木先輩がますます暴走してしまう恐れがあるんじゃないですか?」
 不純異性交遊を取り締まるのも橘さんの役目だけど、風紀を著しく乱している篠之木先輩と僕は、いわば彼女にとっての敵なのだ。
 橘さんは、車道を挟んだ反対側の歩道を歩いている高校生カップルを眺めながら呟いた。
「風紀委員でも調べているのだけど、どうも行き詰まっていてね。それでトチ狂ったっていうか……アナタについ話してしまったのよ。不思議だけど、アナタに話すことで次の道に進めそうな……そんな気がしたから。要するにこの状況を打開したいのよ」
「はぁ……」
 それは直感みたいなものだろうか。
「とにかくアタシは、アタシにできる事をやるだけよ。それに例の人物をつかまえる以外にも風紀委員の仕事はたくさんあるの。もちろん――アナタ達を取り締まることもね」
「それは……すいません」
「いいわよ。アタシはそれでもアナタに話したの。アナタなら信用できそうだから。アナタに力を貸してもらおうと思って。だから……もし、複数の女の人と付き合っている人がいたら、アタシに話して欲しいのよ」
 その時だった。僕の頭に――ふと吾川君のことが脳裏によぎった。
 さっき見た吾川君と、その隣にいた少女。先日繁華街で見た時と違う女性を連れていた吾川君。
「ん……どうしたの、急に暗い顔をして?」
 橘さんが不思議そうな顔で僕を見ていた。
「あ、いえっ……な、なんでもありません」
 僕は慌てて頭を振った。
「ふぅん。まぁいいけど……それと、くれぐれも篠之木来々夢が暴走しないようにねっ」
 橘さんがそう言うと、用件はこれで終わり――と。気を付けて帰るようにねと僕に別れの挨拶をして橘さんは去って行った。
 吾川君のことを言えなかった……。僕の胸に罪悪感が重くのしかかった。でも……確証がないんだ。まだそうと決まったわけじゃないんだ。
 僕は……それを確かめなければ。


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