喪女につきまとわれてる助けて

第1話 嫌な先輩

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

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 その後、授業に復帰した僕は奇跡的にも篠之木先輩からのいやがらせを受けることなくその日を過ごし、そのまま放課後まで平穏な時間が流れていった。
「久遠寺くん、よかったら一緒に帰らないかい?」
 前の席に座る吾川君が爽やかな笑顔を浮かべて僕に話しかけてきた。
「あ、ごめん。これからちょっと職員室まで行かなくちゃいけないんだ。ほら、今日保健室で寝てたせいで受けられなかった授業があるからさ。その辺りの用事をね」
 それもこれも篠之木先輩のせいだ。あの人は僕に害しか運んできない。
「そっか……久遠寺くん。なんていうか……本当に同情するよ。僕は影ながら応援してるから……負けちゃ駄目だよ。それじゃあ、また明日」
「うん。ありがとう。吾川君がそう言ってくれるなら僕も頑張れそうだよ。じゃ……バイバイ」
 吾川君は本当に優しいなぁ。僕がこの悪夢のような学校生活をなんとか耐えてるのも、ひとえに吾川君のおかげだと言っても充分なくらいだ。僕はそれだけ吾川君に励まされてきた。
 僕は吾川君の背中を見送ったあと教室を出て、職員室まで行く。
 そして案の定出られなかった授業についての話などを聞いて、それがようやく終わった後、さぁ帰ろうと僕が校舎を出た時だった。
「やぁ〜〜〜〜久遠寺〜〜〜〜〜! お前が来るのを首を長くして待っていたぞぉ〜」
 篠之木先輩が、学校の門の影で僕を待ち伏せていた。
「し、しししし篠之木先輩ぃっ!?」
 あぁ……今日はもう現れないと思ってたのに、僕としたことが油断していたぁぁ……。
「ははは、どうした。まるで幽霊でも見たようなリアクションだな」
 まさにその通りです。ていうか幽霊より怖いものを見ました。それはあなたです。
「それにしても遅かったな、久遠寺。学校が終わって私は真っ先にここに来て、そしてずぅっとお前を待ち構えて、その時間36分50秒だったぞ」
「ぐ、具体的な時間を言わないで下さい……なんか怖いです。あ、あの……それじゃあ先輩。僕はこれで……さようなら」
 僕は篠之木先輩に別れの挨拶をして、帰り道を歩き始めた。
「久遠寺〜〜〜。今日はなんか変な奴に絡まれたりしたけれど……それはそれとして今日も部活動に励もうではないか〜〜〜」
 不意に背中に篠之木先輩がのしかかってきた。なんか甘ったるい匂いが鼻をついた。
「や、やめて下さいよ先輩。離れて下さいよっ」
「なんだぁ? お前は私を36分50秒も待たせて、ハイさよならってつもりなのか〜? お前ははいつからそんな薄情になったのだぁ〜。私は学校が終わってすぐに走ってここまで来て、ず〜っとお前の事を考えながら、ず〜っとお前の事を待ってたんだぞぉ〜……」
「ひぃっ! み、耳元で囁くのはやめて下さいっっ。ていうかいい加減背中から降りてくださいよっ! 僕達すごく目立ってますって!」
 帰宅する生徒達は、みんな僕達の方を見て見ぬ振りで通り過ぎていく。
「……あれが有名な篠之木来々夢か」
「顔はすごく美人なのに、なんて残念な人なんだろう」
「下にいるのが彼女にいじめられてる1年の子だよね。可哀相に」
「いや、俺は優秀な部下だって聞いてるぞ。篠之木来々夢と一緒になってカップルを取り締まってるとか」
「やだぁ……気持ち悪い」
 な、なんか不穏な空気! 篠之木来々夢に関わるとろくなことがないって事はもうこの学校の常識みたいなものだけど……問題なのは僕まで同類に思われてるってこと! 僕は被害者なのに……誰か、助けて下さい。
「さぁさぁ久遠寺! このまま町をパトロールだ! 私を背に乗せて町中を駆け回るのだ! お前は馬だ! 馬のように走れっ! そして町にはびこるモラルを失ったけだもの達を粛正していくのだあああっ!」
 僕の背中でジタバタ動き回りながら、わけの分からないことをのたまう篠之木先輩。
「ちょっ……ちょっと、暴れないでくださいっ。そして叫ぶのをやめてくださいっ。は、恥ずかしいですっ。いつもより強引ですよ、どうしたんですかっ。なにかあったんですかっ」
 発情期とかだろうか。
「そりゃあカップル取り締まり強化期間だから否応にも強引になるさ! もしかしたら今日こそオールハートイーターを見つけ出すことができるかもしれないからな」
「今がそんな強化期間にあるなんて僕は初めて聞きましたけど……それよりオールハートイーターって……?」
 僕は聞き慣れない言葉に疑問符を浮かべた。そういえば今朝、登校中にも聞いたような。あとカップル取り締まり強化月間ってなんぞ?
「ふふ、よくぞ訊いたっ。実はな……近頃、この町に恋愛を過剰なほどする人間がいるという噂があるのだ」
 訊いてもらえて嬉しかったのか、篠之木先輩は感情を込めて説明を始めた。
「恋愛を過剰にするってどういうことですか……」
「同時に何人もの異性と付き合い、毎日デート漬けの生活を送り、飽きたら容赦なく交際相手を捨て、新たな得物を毒牙にかける。まさに人生を恋愛に染めている奴がいるってこと……つまり簡単に言うと恋愛中毒者だ。私はそいつを便宜上、オールハートイーターと名付けた。噂によるとそいつは我が校の生徒の中にいるらしいのだ。ならばキューピッズとして、私はそいつを全力で探し出して制裁せねばならんのだ」
 オールハートイーターといいキューピッズといい、この人はネーミングセンスが悪いなぁ。
「いやぁ、でも僕は……」
 そんな事に一切興味がないんです。そう言いたいけど、この先輩にそんな言葉が通じるはずがない。
「さぁ、分かったら走れ走れ。走らないと私が今までこっそり撮り続けてきたお前の恥ずかしい写真をばらまいてやるぞっ」
「……な、なんですか写真って!? 今さらりと言いましたけどなんですか写真って!? 僕、そんなの初耳ですよっ!」
「こっそり撮ってきたんだからお前が知らなくて当然だろう。答えが知りたければ早く行くんだな。そのうち憎き風紀委員の連中がやってきて面倒な事になるぞ、久遠寺〜〜〜」
 篠之木先輩は僕の上で体を左右に揺らして暴れている。てか自覚してるなら一刻も早くやめたらいいのに。
 心なしか、周りのギャラリーも更に多くなってる気がする。
「あの2人、前からおかしいと思ってたけど……やべーなー」
「あんまり見ない方がいいよ。変ないいがかりつけてくるから」
「目合わせたら襲ってくるんだぜ。帰ろうぜ」
「あたし、風紀委員の人呼んでくる……」
 僕らを遠巻きにして見ている人々がコソコソ感想を述べている。……うう。痛い人を見るあの人達の目が怖い。
「わ、分かりましたっ。い、行きますっ。走りますから大人しくしてくださいっ。ホントお願いしますっ」
 とにかく学校の校門付近でこんなことしてたらいい晒し者になって、僕の学校での立場がますます失われる事になる。僕は篠之木先輩を背負ったまま、とりあえず人のいない方へと向かった。篠之木先輩は細身で軽いから、そこだけが救いだ。
「遅いぞ、久遠寺〜。もっと早く! 風のようにっ!」
「た、ただでさえ危ないのに……上で暴れられたら落っことしてしまいますよっ」
 人通りが少ないところを走っているのに、今日はやけに人が多く感じる。みんな怪訝な顔をしてこっちを見てくる。小学生らしき子供達に笑われてる。うう……なんで僕がこんな目に。
 いっそこのまま篠之木先輩を道連れにして線路に飛びこんだ方が楽かもしれない――と人生を儚んでいた時、目の前に公園を見つけた。公園の中にはほとんど人がいない。
 ちょうどいい……僕は篠之木先輩を背負ったまま、公園の中へと入った。
「こんなところに来てどうするつもりだ久遠寺。人が全然いないじゃないか」
「あ。えーと……」
 さて、どうしよう。人が全然いないから来たなんて言えないし。
 僕が返答に悩んでいたら、篠之木先輩はいったい何を思ったのか。
「そ、そうかっ! 分かったぞ久遠寺! つまりお前はこう言いたいのだな? 公園といえばすなわちデートの定番場所。しかも人があまり来ない公園というからには逢い引きにピッタリだということっ。ならばここで待ち伏せして逢い引きするふしだらな男女を一掃しようという効率のいい作戦っ! さ……さすが我が右腕! つけいる隙がない! お前はそこまで考えて私をここに連れてきたのだなっ」
「……え、ええ。そうですよ」
 本当は全然そんな事なんにも思ってなかったけれど。
「お前も成長してきたじゃないか。私は嬉しいぞ! さぁ、それだったら話は早いっ」
 そう言うと、篠之木先輩はやっと僕の背中から降りてくれた。
 僕はほっと、秘かに胸を撫で下ろす。でもこの先輩がそう簡単に僕に安らぎを与えてくれるはずもなく。
「それでは久遠寺。今日の私達の活動は、この公園内に存在するふしだらなカップル達を駆逐するということで異存はないな」
「え、ええっ!? あ、あ……ま、まぁ……はい。先輩がそうしたいんなら」
 異存ありますとは言えない僕は篠之木先輩から目を逸らしつつ、そう答えてしまった。
「よし! それでは調査を開始するぞ! ついてこい!」
「あぁ……はい」
 もういいや……どうせこんな時間に、こんな寂れた公園に、カップルなんてそうそういないだろう。適当に探すフリでもして、篠之木先輩をあまり刺激しないでとっとと飽きさせて帰ろう。
 僕と篠之木先輩は公園の中を奥へ奥へと歩いて行った。意外と大きな公園だった。
 外からの見晴らしがいい遊具が並んでいる広場にはカップルなんていないだろうということで、僕達は薄暗い木々の生い茂る方へと進む。
 確かにこの辺にならいそうだ。昼間でも薄暗い遊歩道。周りは草木で覆われたくねくねした細い道。
 僕と篠之木先輩が並んでその道を歩いている時、「うへへへ」「きゃぁ」といかがわしい声が聞こえてきた。
「……久遠寺、いるな」
「ええ、いますね……残念ながら」
 いろんな意味で残念だ。僕は声のする方に視線を向けた。
「私達がこれだけ熱心に活動しているというのに、一向にカップルの数が減少しない……こいつらはゴキブリなのかっ? 私はどうやって立ち向かえばいいのだっ!?」
「……さぁ。どうすればいいんですかねー」
 僕は適当に相槌をうつ。この人はカップルを撲滅させてどうする気だろう。ひょっとして人類社会を終わらせるつもりなの?
 それでも発見したからには仕方ない。こんなこと不本意だけど――篠之木先輩と並んでイチャイチャしているカップルをこっそり観察した。
 林の中に設置されたベンチに寄り添って座っている大学生らしき男女。
 盛り上がっているらしく、2人は大胆にスキンシップしながら楽しそうに話している。
 ……ていうか。冷静に考えたら僕達はなにをやっているんだろう。かたやカップル、かたや変質者……この対比を考えたらなんだか虚しくなってくる。
 しかし先輩は虚しさエネルギーよりも怒りがグングン沸いているみたいで、僕はもう早く逃げてーって気持ちだった。
「せ、先輩……早まった真似は……って、先輩?」
 ただの嫉妬じゃないのかという疑念を抱きつつ、篠之木先輩が暴走するのを阻止しようと思ったら――いつの間にか隣にいたはずの篠之木先輩が消えていた。ま……まずいっ。
 その間にも、大学生くらいのカップルはイチャイチャを繰り広げている。
 だ、だめだ……盛り上がるのはいいけど、篠之木先輩の前でこんな真似は命取りなんだ。
「いや〜ん、やめてよぉ〜。そこは駄目だってばぁ」
 女性が甘ったるい声を出して、軽く手を振り上げた。
 その時――。
「駄目なら駄目だとハッキリ言えっ! どうせ本当はもっとやって欲しいくせに! それともまさか、わざわざこんな人目につかない場所まで来といてそんなこと予想もしてなかったというのかっ!? ……ひ、人目につかない場所……だと? お、お前達こんなところでいいい、いったい……な、ななななにをするつもりなんだああっっっっ!?」
 黒いコートをたなびかせて颯爽とカップルの前に登場した篠之木先輩が、1人でなにやら茶番を演じていた。
「はぁ? なんだ、こいつは……?」
「え、女子高生……?」
 男性も女性も、首を傾げて間抜けそうな顔をつくっていた。
「き、貴様らあぁ〜。自分がいま、何をやっているのか理解してるのかぁ〜〜?」
 篠之木先輩が怖い顔で言う。
「何ってなんだよ? 俺達、別に悪いことなんて何もしてないけど」
 大学生風の彼氏が不機嫌そうに言った。
「……ねぇ、わたし何だかこの人怖いわ」
 彼女の方は、まるで危ない人を見るような目で篠之木先輩を見ていた。
「何を言ってるのだ。お前は嫌がっていたではないか。やめてよぉ〜って。それともやっぱり嫌じゃなかったってか? 本当はムラムラしてますよぉ〜ってか? でも自分からそんなこと恥ずかしくて言えないから私はあくまで被害者ですよ、何かあったら責任は全部彼氏にありますよってか!? ふ……ふざけるなっ! さっきから適当なことばかり言いおって! 私はお前の方が怖いわ! 素直にムラムラしてたって言え!」
 篠之木先輩が一人でわめきながら一人で怒っていた。
「ええっ。む、ムラムラって……ち、違うわよっ。だってあれは、その……嫌がってたというか」
 栗色の長い髪をした大学生くらいの彼女が恥ずかしそうに俯いて呟いた。
「嫌がってたというか……なんだ? はっきり言わないと分からないじゃないか」
 ほらみろ、といった顔をしている篠之木先輩。
「え、だって……」
 彼女はどうすればいいかわけが分からないといった顔をしていた。
 すると、困り果てた彼女を助けるように彼氏が口を挟んだ。
「なんなんだよ、お前。頭おっかしいんじゃねーか? それともなんだ……ひょっとして君ぃ、オレ達に妬いちゃってるのかぁ?」
「な……なん……だと? 貴様」
 彼氏の挑発に反応した篠之木先輩は体をぷるぷる小刻みに震わせている。
 ……この男の人、まずいことを言っちゃった。篠之木先輩を怒らせちゃったぞ。
「お? 図星? 図星だった?」
 それがどれほど恐ろしい事か知らずに、彼氏は嬉しそうにはしゃいでいる。
「し、篠之木先輩……」
 僕は先輩を止めようと飛び出したけど――時既に遅し。
 篠之木先輩が爆発した。
「な……なぁぁああにが彼氏彼女だッ! そんなものはクソくらえだっ! 恋人とか作る人間は自分1人で生きることもできない弱い人間だ! 恋人なんて時間の無駄だし、金の無駄だし、精神と体力の無駄遣いでそんなこと一銭の得にもならないわっ! す、すなわちぃぃいいい――恋愛してる人間なんて総じて負け組なのだぁあああああ!!!!!」
 公園中に響き渡る魂の絶叫。
「ちょっ……先輩、どうしたんですか。落ち着いて……」
 突然取り乱し始めた篠之木先輩に僕は頭がパニックになる。
「恋愛なんかにうつつを抜かすような人間はみんな頭が馬鹿になっていく! 大切なものが見えなくなっていく! そんなものはいらない! いるわけないんだ! そんなものはッ! わ……私は貴様らとは違う強い人間なのだああああッッッッ!!!!」
 篠之木先輩はいつにも増して怒っていた。なにかトラウマに触れるようなことでもあったのかっ!?
「や、やっぱこいつ頭おかしい……。お、おい……あんま調子乗ってっと痛い目みんぞ! オレはな、大学ではボクシング部に入ってるんだぜ? マジでオレに喧嘩売るの?」
 突然の篠之木先輩の怒りに彼氏は一瞬怯んだものの、弱者を脅すような顔になってベンチから立ち上がった。これ以上隣にいる彼女にかっこ悪いところを見せるわけにはいかないと思ったのだろう。指をポキポキ鳴らして篠之木先輩を威嚇している。
「フン……なるほど。暴力で解決か。いかにも精神レベルの低いクズのやりそうなことだが……私は分かりやすくて好きだぞ」
 しかし篠之木先輩は怖がるどころか悠然と彼氏の方へと歩み寄っていって淡々と言った。それと、篠之木先輩もすぐ僕に暴力ふるけどそこは別にいいのですか?
「私は暴力が大嫌いだけど――公然わいせつ罪をみすみす見逃すわけにはいかない。どうせお前みたいな男はやることしか考えてない低脳で、彼女が作りやすいからってだけでなんとなく大学行ってるようなウンコみたいな存在だろうが、慈悲深い私はたとえウンコであってもチャンスをやろう。忠告は一度しかしないぞ……さっさと消えろ。それが聞けんというなら……私が粛正してやる」
「ちょっ、ちょっと先輩……」
 ああ……こうなっては僕なんかに入り込む隙なんてどこにもない。篠之木先輩を止めようとした僕の声は弱々しくかき消えた。本当は暴力大好き人間なんでしょう?
 篠之木先輩が彼氏の眼前に立つと、彼は血管を浮き上がらせて低い声をあげた。
「ああァ? メスガキぃ……てめぇ、マジで俺に喧嘩売ってんのかァ?」
 そう言うと、彼氏がボクシングのようなステップを踏みながら拳を構えた。
「喧嘩ではない、粛正だ。それと貴様ごときが私と戦おうなどと思わない方がいい。私とまともに戦いたいのなら5人は連れてこい」
「……ははっ、冗談きついぜ。ほんと、むっかつくガキだなぁ〜〜〜!!!! 俺はなァ、こう見えてもボクシングを――あぶべっ!」
 彼氏がボクシングのステップで篠之木先輩に接近した瞬間――体格のいい体がドサリと地面に倒れた。
「忠告は一度しかしないと言っただろう?」
 篠之木先輩が先程までと何ら変わらない様子で言った。あ……相変わらず滅茶苦茶強い。
「ひぇええええ……」
 ボクシング男の彼女は恐怖におののいた悲鳴をあげていた。まずい。もう時既に遅すぎる気はするけど、これ以上面倒事を増やされるわけにはいかない。
「せ、先輩。行きましょうっ」
 僕は先輩の腕を掴んだ。
「あ、おい。久遠寺。話はまだ……」
「ご、ごめんなさいっ! 多分その人、軽く気絶してるだけだと思うので……そ、それじゃあ僕達はこれでっ。通報は勘弁してくださいっ。さ、さようならっ!」
 僕は彼女に何度も頭を下げたあと、篠之木先輩の手を引っ張ってその場を離れた。
「痛いぞ。引っ張るなよ、久遠寺のくせに」
「それどころじゃないですよっ。どうするんですか、下手したら警察沙汰ですよ」
「ふん、それはないさ。あいつが警察に言うと思うのか? ボクシングやっている人間が女子高生にやられたと」
「た、確かにそれはそうですけど……」
「ま。可能性があるとするのなら、それは恐らく報復だろうな。きっと仲間を連れて襲ってくるぞ。お前も顔を見られたからな。この先ずっと奴からの復讐を恐れて生きていかねばならんのだ」
 篠之木先輩は意地の悪い顔で僕を見据えた。
「そ、そんなぁ! 僕はただの被害者だ! 関係ないのに!」
「そんな事情、あいつにも関係ないさ。どうする久遠寺? もうお前には安らぐ暇などないぞ。帰宅中に現れるかもしれんし、あるいは寝込みを襲ってくるかもしれん」
 僕に引っ張られる篠之木先輩が不吉に笑っている。
「こ、怖がらせないでくださいよぉっ!」
 涙が溢れてきた。もう僕には心安らかに過ごせる時間は二度と訪れないのか。
「くくくくく……怯えることはない。久遠寺も私のパートナーとしての実力は確実に上がってきている。次はお前が戦う番だ」
「た……戦う!? そんな番が来るんですかっ!? というか実力なんて全然あがった実感ありませんよ! まったくなんにも安心できませんよ!!!」
 僕はいつも右往左往しながら篠之木先輩の暴挙を見ているだけだったのに、なんてとんでもない事を言い出すんだ。
「だが安心しろ、久遠寺。お前には私がいるじゃないか。お前はずっと私の影に隠れてビクビク怯えながら過ごせばよいのだ。これからもずっと私に守られながら生きていくのだ」
 篠之木先輩は恐怖に震える僕をみて、心底愉快そうに笑顔を浮かべていた。とても美しい顔だけど、それ以上に残酷な顔だった。
「ひ、ひどい……」
 走る元気もなくなった僕は、公園を出たところの目立たない路地裏で足を止めて立ち尽くした。
 にたにた微笑む篠之木先輩は悪魔そのものだった。僕は一生この先輩に振り回されながら生きていかなければいけないのか。そんなの嫌だ。むしろひと思いに殺して欲しい。いや……なんならいっそ殺される前に殺すのも……今なら見ている人間は誰もいない。やるなら今しか――。
「諦めるのだ、久遠寺ぃ〜! 私とお前は一心同体なのだ! カップルを世の中から撲滅させるまで、共に戦おうではないかぁ。ふははははっ」
 篠之木先輩は唐突に両手を広げて笑った。その気迫に、僕の殺意はあっけなく霧散した。
 それにしても、そこまでしてカップルを破滅させようとするなんて……いったいこの人に何があったんだろうか。
 僕は真っ白になっていく頭の中の片隅でそんな事を思った。
 いや……別にそんなこと知りたくないな。

 僕が篠之木先輩から解放されて家に帰った頃にはすっかり日が暮れていた。
 グリーンベレーに伝わる地獄の特訓でもしたのかというくらい心身共に疲弊した。僕の日常はその辺の運動部よりもよっぽどハードだ。
 毎日こんな生活を送っていたらいずれ体を壊してしまうし、それより前に心を壊してしまう。
 そうなる前になんとか……なんとか手を打たなければならない。
 ベッドの上で仰向けになって考えていた僕は、いつの間にか眠ってしまった。


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