アクター×アウター 〜演じる彼女と目立たぬ彼女〜

プロローグ

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 
 梅雨も明けたばかりだというのに、この日は雨だった。雨は昨夜から降り続いていた。
 そして鳴海葉鍵(なるみはかぎ)は困惑していた。
 この町に引っ越して来たばかりの彼は、今日から新しい学校に通うことになったのだが――その初登校の通学途中で、ちょっとしたアクシデントに出くわしていた。
「う〜ん。弱ったなぁ……」
 鳴海の目の前には川があった。生い茂る草木に挟まれたそこには、申し訳程度に水が流れていた。
 その細長い川の脇の草むらに、一匹の小さな獣がいた。鳴海はさっきからその獣を見ていた。
「ていうか何なんだろ……ネズミにしてはでかいけど……」
 一見するとカビバラのように見える獣がうずくまっていた。怪我でもしているのか、その獣は苦しそうに呼吸を乱している。
 新しい学校に初登校中の鳴海は傘をさして川沿いを歩いていたのだが、その時に偶然この、カビバラのような大きなネズミのような獣を目撃してしまった。降水を受ける獣は衰弱している様子で、なんとなくそのまま素通りするのに抵抗があった鳴海はこうして見ていた。
 でも、助けに行くには土手を下り川岸まで行かなければならないし、そうすれば転校早々きっと遅刻するだろうし、新品の制服だって泥で汚れるだろう。
 だから鳴海は困っていた。
 近くには人の気配がなく、自分が助けるしかない。放っておけないなら、やるしかない。
「ちっ、仕方ない――」
 鳴海は観念して身を乗り出そうとした――その時。
「あれっ? 人……?」
 鳴海が獣を助けに行こうとした時、彼の他に人は誰もいないと思っていたのに、いつの間にか、川辺に降りて行く少女の姿が見えた。
 鳴海と同じ高校の制服を着ている少女は、自分の服が汚れるのも気にせずに傘もささずに土手を下っていき、獣の元へと近づく。
「…………」
 それはまるで、そうする事が当たり前みたいな、何の迷いもない真っ直ぐな行動だった。
 少女のその姿を見た鳴海は――自然と足を踏み出していた。
 転びそうになりながらも鳴海は斜面を滑っていく。
 6月の草花が生い茂る周囲は、天候の影響のせいもあるか緑の匂いで一杯で、きっと体にまで染みつくんだろうなって思った。
 そして獣を両手で抱えて佇んでいる少女のところまで鳴海が無言で行くと。
「この動物はヌートリアって言うんです」
 鳴海に背を向けたまま少女は言った。
「ゆ、ゆーとぴあ?」
「いえ、全然違います。そんな素敵なものとは全くかけ離れたものです。ヌートリアです。ネズミの仲間です。元々日本にはいなかったんですけど、戦時中に毛皮を目的に輸入したんですよ。ですが用がなくなって野生化したのが繁殖して、作物を荒らすようになり特定外来生物に指定されて問題視されている存在なんです」
 聞いてもいないのに少女は流ちょうに説明した。とても綺麗な少女だった。
「随分詳しいね。動物好きなんだ?」
「いいえ、嫌いです。汚いです。病気になりそうです」
 少女はキッパリと否定した。
「い、いや……嫌いなのかよっ! でもその割には平気そうに抱いてるけど……そいつも大人しくしてるし」
「ヌートリアです」
「ああ、はい……ヌートリアね」
 絶対、動物好きだろ――と鳴海は心の中で思った。
「嫌いだけど、触れるんです。それに、嫌いと言ってますが……私、ヌートリアはどこか憎めないんですよね」
「それは、可愛いから?」
 といってもドブネズミをただ大きくしただけのようにも見えるが。
「ええ、それもありますけど……」
 あるんかい。やっぱ好きじゃん。
「……同情というんでしょうか。カピバラは動物園でも人気のあるみんなのマスコットみたいな動物ですけど、一方――見た目も似たようなヌートリアはみんなから嫌われていて害獣扱いされています。だから私は……ヌートリアの方が好きです」
「ふ〜ん」
 鳴海は分かったようで、分からなかった。だけどとりあえず頷いておいた。
 茶色い毛で覆われたヌートリアを両手で抱え見つめている少女の瞳は輝いていて、けれどどことなく寂しそうな瞳にも見えた。動物に癒しを求めている的なタイプの人間だろうか。
「……やっぱり動物、好きなんだな」
「いいえ、嫌いです。とっても不潔です。帰ったらすぐ消毒しないとです」
「そこは絶対否定するんだね……素直になろうぜ」
 鳴海が呆れるように言うと、少女はしばらく考えるように時間をおいてから、答えた。
「ええ……まぁ、そうですね。どっちかと言えば好きかもです。というか友達です」
「へぇ〜、友達なんだ。ずいぶんな心境の変化だね」
「ええ。私、人間の友達がいませんから」
「……あ、そう」
 鳴海は思わず言葉を失ってしまった。
「…………」
 だけど、沈黙してると余計に空気が気まずくなっていきそうなので、鳴海はわざと明るい顔になって、
「じゃ、じゃあさ、そいつ飼ってみたらどうかな?」
 適当に思いついたことを述べてみた。
「でも野生動物ですよ。飼ってはいけないんですよ」
 そう答える少女は、誘惑と戦っているような瞳でヌートリアを見つめている。
「それでも保護だったらいいんじゃないかな?」
 このままだったらこのヌートリアは死んでしまうだろうという事は、充分に理解できる。少女だってそれは望まないだろう。
 しかし少女は、さっぱりとした口調で、
「害獣だから保護するのも駄目なんですけどね」
 無感動に応えた。
「そ、そうなんだ……」
 意外と冷酷な少女に為す術なし。それじゃあもう、お手上げである。ていうかこの少女、なんだかやりづらい……。
 鳴海はそれ以上の言葉も見つからず、その場に立っていると、少女は表情一つ変えないままでぽつりと。
「……でも実は、もう名前決まってるんです」
 鳴海はその言葉に、ほんの少し口元が緩んだ。
「飼っちゃいけないって言ってたばっかりなのに……はは」
「そうですね。でも思いついちゃったから仕方ないです。えへ」
 少女は鳴海の方を向いて、笑った。
 その笑顔に鳴海は、思わず胸の鼓動が高鳴るのを感じた。
「ち……ちなみになんて名前?」
 心臓の高鳴りを悟られないように、鳴海は少女に尋ねた。
「ヌートリアだから、ヌーボーです」
「はは……適当だけど、なんか……しっくりするね。ボーっとしてそうな見た目とか。きっとこいつも気に入るよ」
「ありがとうございます。ですが、変な名前を付けたつもりなんですけど……そうですか、気に入りますか。この畜生」
 少女はヌートリアの汚い頭を撫でて言った。
「てか、本当に動物が嫌いな人に思えてきたよっ! 言葉と行動が一致してないよ!?」
「冗談です。とにかくそうと決まれば一度洗わないといけないですね。まさにドブネズミですもの。病気だらけですよ。ほんと、きったねー体です」
 鳴海はツッコもうかと思ったけれど――自分の制服が汚れるのを気にせずヌーボーを抱く少女を見て――彼は微笑んで頷くだけにした。
「あの……そろそろ行かないと学校間に合いませんよ? 今から急げばギリギリ遅刻しないで済みますよ?」
 少女は雨と泥を体に纏いながら鳴海に言った。
「……君はいいのかい? 同じ学校だろ?」
 と言っても、この格好で学校なんかには到底行けないだろう。
「私はこの汚いのを消毒するために一度家に帰ろうと思います……だから、後から行きます」
 少女はそう言って踵を返そうとした。しかし、何かを思い出したように彼女はピタリと足を止めて、こう言った。
「あの……ありがとうございます」
「え? ぼ……僕は特に何もしてないよ」
 突然の少女の感謝に、鳴海は理解が追いつかなかった。むしろ褒められるべきは鳴海ではなく、少女の方なのでは。
「いいえ、してくれましたよ……こうやって来てくれただけでも、その気持ちがあるだけでも……それで私はあなたにとても感謝してるんです。あなたにならこの大切なヌーボーを譲ってやってもいいくらいです」
 少女は両手に持ったヌーボーを鳴海に向けて、恭しくペコリとお辞儀した。
「いや、ヌートリアはいらないけれど……そっか。だったら……来てよかったよ。僕の方こそありがとう。それじゃあ後は、任せたよ」
 大きいネズミを受け取ってしまう前に、鳴海は少女に軽く微笑みかけて、学校へ行こうと少女に背を向ける。
「あの……」
 不意に、少女が呼び止めた。
「ん? なに」
 鳴海は振り返った。雨振りによって跳ねる川が、勢いよく流れている。
「あなたは――この世界を本物だと思いますか? この世界はまるで劇場のようで、自分達は舞台の上に立っているんだと思ったことはありませんか? そして、それだとしたらこの世界は――なんてつまらない物語なのだと」
 ヌートリアを抱える雨に打たれた少女は、儚げに立っていた。
「え? なんて……?」
 あまりの突然の話題に、鳴海は固まってしまった。
「いま、私とあなたがいるこの世界です。それは、あなたにとってどんな風に映っていますか?」
「さ、さぁ……そんな事考えたことないけど」
 少女の質問の意図が分からなくて、鳴海はその真意を見極めようと少女を見つめた。
 肩まで伸びた髪は雨でぐっしょり濡れて、制服がぐっちゃりと張り付いている肉体は、とても細くて、スラリとしていて、まるで雑誌モデルのようなプロポーションだった。
 少女は大きくまばたきして、濡れたまつげから水滴が零れた。
「だったら、興味ありませんか? 世界を支配する方法に。運命を克服する方法に。毎日の生活を素敵な物語にする方法に。起こりうる出来事を選択し、未来を自由自在に操作し、人生をより輝かしくする方法に」
 少女が言っているのが何の話なのか分からない。分からないが、少女は鳴海に何かを誘いかけているようだった。
 鳴海はそれが何なのか気になった。興味はとてもあった。だけど彼は、
「確かに興味、あるかもしれないね……でも僕は、その方法を使おうとは思わないかな」
 自分でも不思議なくらい、すんなりとそう答えていた。
「どうして?」
 少女は首を傾げた。
「……人生は何があるか分からないから楽しいんだと思うんだ。人生をやり直すことも、未来を観測することもできない。だから1秒1秒を大切にしようと思うんじゃないかな。だってそんな事できたら、人生はゲームになっちゃうよ」
 鳴海は何を言っているのか、自分でもよく分からなかった。分からなかったけど、こう答えるのが正しい気がしていた。ただの綺麗事だと分かっていても。
「……あなた、見ない顔ですけど」
 すると少女は、まるでこのとき初めて鳴海に興味を示したように、鳴海の瞳を凝視した。
「ああ、転校生なんだ。今日から君と同じ学校に通うことになったんだ。学校で会えたらその時はよろしくね」
 少女の大きく開いた瞳に吸い込まれそうな錯覚を覚えながらも、鳴海は平静を装い答えた。
 千本ヶ谷学園。彼が今日から通う学校で、そして恐らくこの少女が通っている学校。
 少女は――。
「そうですか。うふふ……なんだか面白くなりそうです。すいません、お時間とらせてしまって。それでは……また学校でお会いしましょう」
 そう言ってヌートリアを抱えた少女は、雨に打たれるのも気にせず、学校とは反対の道をまっすぐ歩いて行った。
 鳴海はなぜか、その後ろ姿から目が離せなかった。


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