コミケ探偵事件録

エピローグ ――祭りのあと――

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 
 コミケが終わってからというもの、一日一日が経つのが非常に早く感じられる。それは僕達に日常が戻って夏休みも終わりにさしかかろうというある日のことだった。
「それで……こんな暑いなか僕を呼び出して何か話でもあるのかい」
 僕は本棚から面白そうな漫画を探しながら訊いてみた。
「んーん、別に。ただなんとなく鷹弥の顔が見たくなって」
 伊乃はベッドの上にダラダラと寝そべっている。夏休みで出かける予定もないからって、伊乃はブカブカのアニメ絵Tシャツとハーフパンツという、見た目的にとてもけしからん……もとい、だらしない格好だった。ちなみにそのTシャツは、いつの間にだろうか、コミケの企業ブースで購入した戦利品らしい。
 僕はいま――伊乃に呼ばれて彼女の部屋に来ていた。僕達が会うのはコミケ以来だった。
 久しぶりにきた伊乃の部屋は、意外と世間一般の普通の女の子の部屋って感じで、ちょっとぬいぐるみの数が多いのは仕方ないとして……可愛い部屋だった。
「ねぇ、鷹弥」
「なに、伊乃?」
 やることもなく、伊乃の部屋にあった少年漫画をぼんやり読んでいたら、伊乃が僕を呼んだ。
 伊乃は、
「――ありがと、鷹弥」
「……ん? なにが?」
 突然感謝の言葉。いきなり何を言ってるんだろう、ちょっとよく分からない。
 僕は読んでいた漫画から目を離して伊乃の方を見た。
「私が安藤虎兎に追い詰められた時……あの時、鷹弥が私を助けてくれた。だから……ありがと」
 照れてるのだろうか、ベッドに女の子座りしてる伊乃は僕から視線を逸らしてたどたどしい声で言った。
「ふっ。なんだよ、そんなことか」
 もしかして伊乃が今日僕を家に呼んだのは、僕に礼を言うためだったのか。……なかなか可愛いとこがあるじゃないか。
「……そ、そんなことじゃないよ。だって、正面から安藤虎兎に立ち向かったのは、鷹弥だけだったもん。私に代わって戦ってくれたもん」
 伊乃は傍にあった大きなぬいぐるみをとって、ぎゅっと抱きしめた。
「そりゃあな……当たり前だって。だって僕はお前の助手だ。助手は探偵を助けるもんだろ?」
「で……でもっ、私は……探偵の私が安藤虎兎を見破ることをできなかった。こんな私じゃ……」
 伊乃は抱いていたぬいぐるみに顔を埋めた。
 僕は――。
「なに言ってんだよ、伊乃……。僕達は2人で1つなんだ。僕はお前の相棒で、相棒は一緒に戦うもんだ。そしてどんな事件も探偵は相棒と一緒にたちまち解決する。それが――ミステリアスムーンなんだ」
 僕は震える伊乃の隣に座って、彼女の頭を優しく撫でた。
「鷹弥……」
 顔を上げた伊乃の瞳はうるんでいて、頬が赤く染まっていた。そして――。
「鷹弥〜〜〜〜っっ!」
 伊乃がぬいぐるみを放して、僕の胸に飛びこんできた。
「……って、うわっ。や、やめろってっ」
 僕は慌てて伊乃を引きはがそうとしたけど……ま、今日くらいはいっか。僕は黙って身を任せ、伊乃の頭をもう一度撫でた。
 撫でながら思う。本当に、僕がやったことなんて伊乃が言うような大した事じゃない。
 というよりあれは……ほとんどその場任せの、思いつきで言ったような言葉だったんだ。あの推理で事件が解決した事に、他の誰でもない僕自身が驚いていた。
 それに結局、安藤先輩が言うには僕の解答は全然見当外れだったみたいだし……いや、本当のところどうなのか分からないけど、とにかくあの一言によって真相は闇の中に包まれてしまった。
 もしかして安藤先輩は――それが狙いだったのかもしれないと思う。
 あの一言を言うことで真相をうやむやにして、物語に謎を残したかったのかも。
 ……それは僕の思い上がりだろうか。
 いや。でも……僕だけが知らないっていうのは……いったい。
「今回の事件さ……安藤先輩の言いたかった事が分かる気がするんだ」
 僕は気が付けば、そんな事を口にしていた。
「……?」
 僕の胸に顔を埋めていた伊乃が、僕の顔を上目遣いに見た。
「この世界はどうしようもなく合理的で、どうしようもなく現実的で、そして退屈なんだ。アニメみたいな物語なんて日常では起こらない。だから人は、物語を創ることで退屈な心を満たす事にした。物語は、誰かの手によって強引に引き起こすしかないんだ。現実には存在しないのが物語なんだ。だから……その為の創作なんだ。それ故に偽物なんだ」
「鷹弥……」
 と――、僕にしがみついていた伊乃の腕の力が緩んだ。
「……でも所詮は物語は虚構にしか過ぎない。アニメも漫画もゲームも小説も……。誰かが創った理不尽で非現実的な非日常を、疑似体験する事で満足するしかない」
 伊乃は僕の体から手を放して、一歩後ろに下がった。
 ……よかった。これで僕が心臓をバクバクさせていたのを気付かれずに済む……ほんと、僕達はもう子供じゃないってのに……不用心すぎるんだよ。
 でも――なんだろう。この違和感。この空虚さ。まるで僕は……伊乃を感じない。
「……でも、それは現実じゃないんだ。だから疑似体験じゃ満足できなかった安藤先輩は、現実で物語を創ろうとしたんだ。それは、現実があまりに退屈で味気ないから……」
「つまり……?」
 僕の前に立つ伊乃が、僕の手を両方の手でつかんで握った。暖かく……ない。
「つ、つまり、僕達の日常生活は価値のないものだって言いたかったんじゃ……」
 僕達が月子ちゃんを見つけ出すために頑張っていることも。
 僕達が探偵倶楽部を創って学校内の謎を解決していることも。
 僕達がコミケ事件に乗り出したことも。
 こうして……僕達が手を握り合っていることも。握りあって……。
「それは違うよ、鷹弥」
「え」
 伊乃の言葉が、僕に届いた。
「私には難しくてよく分からないけど……みんなただ気付いてないだけなんだよ。物語は――どこにでもあるんだよ」
 僕は伊乃を見た。僕の目に映る彼女は、漫画やアニメに出てくるヒロインそのものだった。
「物語はね、日常の中にあるんだよ。……ずっと続いているの。私と鷹弥がこうして話している今だってそれは物語だし、平凡でも退屈でも生きている全てが物語なんだって私は思うよ」
 ヒロインの女の子は、まるで祈りをささげるような格好で僕の手を握る。
 暖かかくなかった。伊乃の暖かさがまるで伝わらなかった。
「なかなか気付かないの。ずっと物語の中にいるから、ついついその事を忘れるんだよ。だからそれを見失った彼らは無理に物語を創ろうとしたんだよ。はじめから――そんな事する必要なんてないのに。それは、いつも傍にあるのに」
 伊乃はゆっくりと手を離して、そのまま僕を包み込むように、そっと抱きしめた。
 いつものような、僕にしがみつくようなものじゃない。母親が子供を抱くような、僕の全てを受け止めるような――。でもそれは――。
 僕の頭で閃光のように思考が爆発する。コミケ。安藤先輩。ヤス子さん。殺人事件。服部さん。月子。ミステリアスムーン。そして、創作。そして、虚構。
 僕はこの時、安藤先輩の言葉の意味を理解した。この瞬間、僕は真の意味で事件を解決した。
 僕はいま――確かに物語の中にいた。
「私はこの現実が好きだし、これからも生きていく」
 伊乃はそっと僕の頭をなでて、とても穏やかな声で言った。
 全てを悟ってしまった僕は、口元で微かに笑った。
「そっか……そうだな……ふふふ。お前みたいなのが1人でどっか行かれたら、僕は心配で物語どころじゃないもんな。はは」
 憑きものが落ちたように、僕の体から余計な力がみるみる抜けていった。
 何を考えてたんだろう、僕は。
 僕こそが、真の犯人だった。僕こそが、創作者だった。
 伊乃こそが――創作物だった。
「そうだよ、しっかりしてよ。そんなんじゃ月子を探し出すという物語だってちっとも進まないよっ」
「あ、ああ……そうだな……」
 いなくなったのは……君なんだ、伊乃。君は本当は……いないんだ。
 それは伊乃を想う者にしか見えない幻想。彼らが見ていたのは全部、僕の演技。僕が創りあげていた物語。ずっと演じ続けていた物語。
 そして僕達は今も物語の中にいる。
 でも僕は気付いてしまったんだ。そろそろ新しい物語を始めないといけないんだ。
「……なぁ伊乃」
 このままずっと、伊乃の腕の中でこうしているのもいいが――僕は彼女から離れて、向かい合った。
「ん? どうしたの?」
 伊乃は僕の顔を見て、もう安心とばかりに、純粋な子供の頃から変わらない表情をする。
 僕は笑顔を浮かべてみた。
 大きくなった僕の笑顔は、彼女のように上手くないかもしれないけど。彼女に比べると不器用かもしれないけど。
 子供の頃のように――。
「今から一緒に、ビッグサイトに行ってみないか?」
 僕はこれから、このヒロインと一緒に物語を満喫しにいこうと思った。
「……うん、いいねっ、それ」
 伊乃も屈託のない顔で笑った。
 8月下旬の――ようやく夏の終わりが見え始めた頃。外はまだまだ日差しがきつくて暑いけれど、あれだけうるさかったセミの声もようやく落ち着いて来て、秋の季節の訪れを予感させた。
 けれど夏の終わりまではもうしばらく時間がある。
 だからもう少しだけ、彼女と2人きりの世界にいたって罰は当たらないだろう。

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