コミケ探偵事件録

第4章 夏コミ3日目

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 コミックマーケット東館の目立たないサークルスペース。この辺りには僕と伊乃とヤス子さん以外の姿はない。
「犯人って……なんの事を言ってるの?」
 僕が最後にその姿を見たときとは違って、ヤス子さんはとても冷静な口調で言った。
「今日、この机の上に同人誌を置いたのも、安藤虎兎殺害事件を起こしたのも、毒ガスを発生させたのも全部ヤス子さんのしわざ」
 伊乃は淡々と言った。僕は――ショックを隠せなかった。
「ちょっと伊乃……それはどういう事だ? これは全部ヤス子さんがやったって言うのかっ?」
「そういうからには――何か根拠があるんだろうね?」
 僕の言葉に被せてヤス子さんが、威圧的な態度で言った。
「あるよ。でもその前にまずは順を追って説明してもいいかな?」
 伊乃は探偵の顔で、指をぴんと立てて訊いた。
「ええ、それが探偵のやり方なんでしょ? そうしなければならないんでしょ? だったらあなたの気が済むようにすればいい」
 ヤス子さんは関係無いといった風に冷たく答えた。
「犯人をヤス子さんとするとね、昨日の同人誌の件については何も問題はないんだ。ヤス子さんが私達を調べ尽くして同人誌を書き、そして私達と行動を共にして同人誌の内容に沿うストーリーにしむける。それだけ」
「でも伊乃、それじゃあ切断事件は……? 地面の穴もヤス子さんが掘ったのか?」
「うん。そうだね。証拠はないけど犯人が掘ったのなら、ヤス子さんが掘ったってことだよね」
 煮え切らない言い方で伊乃は軽く流した。
「それより重要なのは今日の同人誌。これは昨日の同人誌と違って、実現するのに乗り越えないといけないハードルがいくつもあった」
 ハードル……それはさっき伊乃が言ってた3つの事項。
「まずはヤス子さんは今朝、どうやって同人誌を置いたのか。それなんだけど……」
 と、伊乃は注意を周りに向けた。何かを探してる様子だ。というより何かを待っている様子。
「ちょっと待ってて、それは……あ、来た来た。おーいっ」
 と、伊乃が大きく手招きした。その先には、こっちに向かってくる数人の人物がいた。
「あ、みんな……」
 それは伊乃のいとこの服部宗二刑事に、漫画研究部部長の仁江川八重子先輩、そしてベテランコミケスタッフの太田太さんと……誰だ? 知らない男が1人混じっている。見たところコミケスタッフのようだけど。
「よう、ようやくこっちも落ち着いて来たところだ。それとお前が言ってた物はちゃんと見つかったよ。それと頼まれてた物も用意しといたぞ」
 そう言って手に持ったスーツケースを持ち上げる服部さんの服装は乱れていて、さっきまで過酷な避難作業に追われていたんだろうと簡単に想像できた。
「い、伊乃ちゃんっ。は、話は全て聞かせてもらったっす。こ、この人が例の彼っす」
 謎のスタッフさんを指さす太田さんのTシャツは汗で色が変色していて、服と体が一体化してるような風貌だった。
「…………ヤスちゃん」
 仁江川先輩は複雑な顔をして、ずっとヤス子さんの方を見ていた。
「…………」
 ヤス子さんは仁江川先輩から顔を逸らした。目が泳いでいる。何か思うところがあるんだ。
 ヤス子さんと仁江川先輩――。2人は特別な関係だった……僕はヤス子さんが言っていた言葉を思い出した。
 そして、見覚えのないコミケスタッフの人。彼は状況が分からないといった様子で戸惑いの表情を浮かべ、伊乃の顔を変なものを見るような目で見つめていた。
「伊乃……この人は?」
 放っておいたら可哀相な気がしたので、僕は伊乃に尋ねた。
「うん。実は私が待っていたのはこの人。この人がキーパーソンなの。太さんに頼んで連れてきてもらったの。この人はね、サークル入場口に立ってたスタッフさん。今日一日コミケが始まるまで入り口に立ってたんだよ。私達はこの人にチケットを見せて会場の中に入ったんだよ」
 そう言って、伊乃はじゃじゃーんとスタッフさんを紹介した。
「え? え……えっと、うん。そ、そうだけど……でも俺に何かできる事があるのかい?」
 まだ何も聞かされてないらしく、スタッフさんは怪訝な顔を僕と伊乃に向けた。
「企業ブースのトイレで事件があったのはもう知れ渡ってると思うけど……実は私達が犯人の最有力候補なんだ。それで、スタッフさん。この中に見覚えのある人はいるかな?」
 いきなりぶっちゃけてくれる伊乃。でも、確かに今回の事件の主要人物は、安藤先輩を除いて全員いる。僕、伊乃、仁江川先輩、服部さん、太田さん、そしてヤス子さんの総勢6人。
 でもそれをなぜ、入り口に立ってたスタッフさんにそんな事を訊くんだ?
「見覚えある人なんて……分かるわけないだろ、伊乃。何か事件を起こしたとかだったら分かるかもしれないけど……あ」
 そうか、事件か……。犯人は入り口で何か事件を起こしたってことなのか?
 だけど、そのスタッフさんは――。
「いやぁ……分っかんないなぁ。だってサークル参加で入った人間は何万人もいるんだぞ……そんなの覚えてないよ。太田さんと刑事さんはもちろん知ってるけどさ、君達の事は覚えてないよ」
 ということは、ヤス子さんはともかく事件を起こした人間はここにいないってことになる。
「それじゃあ別の質問するね。今日、入場口に立っていて何かおかしな事ってなかったかな?」
 それでも伊乃はめげずに質問を変えてスタッフさんに尋ねた。
「えー、おかしな事? そりゃ沢山あるよ。おかしなことは……」
「たとえばね……一度中に入った人が、外に出たいって言ったりとか」
 伊乃は、熟考するスタッフさんに、耳打ちするように呟いた。
 一度中に入って、外に出る……? それが意味することは……2回入る?
「そ、そうかっ。2回……2回入ればいいんだ……っ!」
 ――僕は同人誌を机に置いた方法が分かった。
 コミケ開催前のビッグサイト内は、サークル入場口以外からは簡単に出入りできない。スタッフの監視の目をかいくぐることが厳しいからだ。だから基本的に一度会場に入ったら、入場口以外からは建物の外には出れないし、入場口から出たとしても、もう中には入れない。
 だから僕達5人で来たときも、入場の際にチケットはスタッフに渡すから一回こっきりで終わり。入場口へ引き返して外へ出たとしても、再び中には入れない。だから僕達には同人誌を置く事は不可能だ。そう思っていた。
 それなら――僕達5人でサークル入場するより前に、その中の誰かが一度会場に入ったと考えるなら……そしてその人物は一旦会場を出たとするなら。そして再び、僕達と一緒に会場の中に入ろうとするなら……どうする? それこそ誰でも分かる。
 サークルチケットが2枚あればそれは可能だ。
 つまり――犯人はサークルチケットを2枚使って2回入場した。
「最初に中に入った時に同人誌を置けばいいんだ! そして一旦外に出て、再度入場する! それなら簡単に実行できるっ!」
 僕達が待ち合わせしていた時間は8時。それより前に1回中に入って同人誌を置く時間はいくらでもある。後は素知らぬ顔で僕達と合流して、もう一度入場するだけ。
 つまり――一度建物から出た人間が誰か分かれば、そいつが同人誌を机の上に置いた人間だ。
 な、なんて簡単なトリックなんだ……。
「ああ、なるほど〜」と、僕と同じく犯人のトリックを理解したらしいスタッフさんは、記憶を辿るように視線を左上に上げて考えた。
「建物を出た人……あ。あったっ、いたよっ。それっ。いやぁ、珍しいから覚えてたんだよね。普通、外から中に入りたいってのは分かるんだよ。実際そういう奴いっぱいいるんだよっ。だからチケットなくしたとかイチャモンつけてどうにか中に入ろうとすんだけど……その人は、一回中に入ってるのに外に出たいって言ってきたんだよなぁ」
 やはり、ビンゴだ。
「その人って、この中にいる?」
 伊乃が訊いて、スタッフさんは服部さんと太田さん以外の人物に注目した。
「え? そうだな……その人は……」
 そう言ってスタッフさんは僕達の顔をじっくりと見回していった。
 というか――スタッフさんは女性陣ばかりをジロジロと念入りに見ている。な、なんでだ……もしや彼に下心的なものがあるとか?
 しかし、結局ジロジロ見回したスタッフさんは。
「……いや、いないけど」
 僕達から視線を逸らしてお手上げのポースをとった。
 いない。……なんだよ、それ。
 それじゃあ僕達の中に建物から出た人間はいないじゃないか。
 ってことは――つまり。僕達の中に、今朝同人誌を置いた人間はいない。
 僕は拍子抜けしそうになると……伊乃は、耳を疑うような言葉を吐いた。
「それじゃあヤス子さん……ちょっと着替えて欲しいんだけど、いいかな?」
 え?
「着替え……っ? 着替えっ!?」
 突然の展開に僕は驚きの声を上げた。
「…………っ!」
 ヤス子さんは、体をピクピクと震わせていた。
 動揺してるようだが……無理もない、いきなり何の脈絡もない要求をされたのだ。
「おい、伊乃。お前、それはどういうつもりなんだ――」
 ふざけてる場合じゃないぞと伊乃に言い寄るも、伊乃は意にも介さず勝手に進める。
「兄さん」
「ああ、これだな」
 理解が追いつかない僕を放置し、伊乃が服部さんに呼び掛けて、服部さんは手に持っていたスーツケースを開ける――そして、その中から服を取りだした。
 女物のワンピースにスカート。それに茶色のカツラ。あとは……コミケ期間中はしてなかったけど、普段ヤス子さんがつけている眼鏡。
「…………」
 ヤス子さんは辛そうな顔をして沈黙している。急展開に戸惑っているのだろう。
 男っぽい服を着ているヤス子さんに、いきなり女っぽい服に着替えろという不可解な要求。なんだ? まさか服を着替えるだけでスタッフさんの意見が変わるというのか?
 そんな馬鹿なトリックあるわけない。
「近くの店を片っ端から駆け回って同じのを手に入れてきた……ほら」
 それでも服部さんは疑問に思う事もなく、茫然と立ち尽くしているヤス子さんに新品の服一式を手渡した。
「…………」
 ヤス子さんはしばらく黙ったまま動かなかったけど、やがて観念したのか、僕達の前から姿を消して着替えに行った。
 ヤス子さんも律儀に従う必要ないのに……。
 そして数分ほどしてから、ヤス子さんが戻って来た。
 その姿は昨日見た時のような、女の子らしい出で立ちだった。それがいったいどうしたのだろうと僕が思っていると。
 信じられない事態が起こった。
「あ……あれ……? そ、そうだよ……君だよっ。君じゃん! え、うそ。なんで……って、ことは……あれ? 君はもしかして……」
 突然、スタッフさんが驚きの声をあげた。
 なっ? ま、まさか……本当に、男物の衣装から女物の服に着替えただけで……。
「ど……どういう事だ、これって……つまり……スタッフさんはヤス子さんを見たってこと?」
 僕にはどうなっているのか分からない。ヤス子さんが着替えたら……じゃあスタッフさんが見たのは女物の服を着たヤス子さんなのか? ということはヤス子さんは……。
「そうだよ、鷹弥。このスタッフさんが見たのはヤス子さんなんだ。女装したヤス子さんの姿」
 伊乃のその言葉に驚いたのは――他の誰でもない、スタッフさんだった。
「えっ? じょ……女装っっっっ!? てことはやっぱり……あの時僕が話してたのは――男だったのかあああああっっ!?」
 スタッフさんが驚愕の声をあげた。
 瞬間、僕の頭の中でピースがはまった。
「そっ、そうか……分かったぞっ! スタッフさんは……ヤス子さんを女だと思っていたのかっっっっ!?」
「うん。そうだよ、鷹弥。これはヤス子さんだからできるトリック。女っぽい男の人だからできるトリックなんだよ」
 そうだ……確かに言われてみれば僕も初めて見たときは気付かなかった。僕も完全に間違えていたんだ。ああ……そうだった。僕も暗黒創作会の部室で初めてヤス子さんと出会った時――その時も僕は、ヤス子さんのことを女だと思い込んでいたんだった。
 そう、ヤス子さんは――正真正銘の、男なんだ。
 それは、暗黒創作会の闇なる秘密の1つ。
 ――そしてこのスタッフさんも僕同様、完全に騙されていたというわけだ。
 でも僕は、1ヶ月近く接してきたからすっかり慣れてしまっていた。男だって十分理解してしまっていた。だから、そんなトリックをまさか使うなんて頭になかった。
 初めての人が見たら、一見すると男か女か分からない……それが彼の特徴なんだ。ヤス子さんはとっても綺麗な顔で、一人称は『私』で喋り方も女性っぽいから……もしも紛らわしい服装をしていたら、それこそ性別を騙すこと位は容易だろう。
 ついさっきまでもそうだったけど、昨日今日とコミケの期間中、彼は男物のTシャツにジーパンという姿だったから、誰が見ても男だと分かったけれど……迂闊だった。
「これで同人誌は誰が置いたかの謎は解けたね。ヤス子さんはまず女装した姿でサークルチケットを使って会場入りした。そして同人誌を置いて……その時ついでにヤス子さんは荷物預かり所に行ってるはずなの」
 ようやく僕がカラクリに納得したのを見て、伊乃が解説を始めた。
「荷物……荷物って何の荷物だ?」
「その荷物は――安藤鷹兎に着せるためのドレスが入った荷物だよ」
「……あ」
 安藤先輩が着ていた衣装。あれがヤス子さんの用意したものだとしたら、一度目に入った時に預けてしまえば、後は安藤先輩に着せる前まで怪しまれずに置いていられる。
 伊乃は、続きを説明するね――と、また饒舌に話し始めた。
「その後、会場入り口まで引き返したヤス子さんはスタッフさんと話して会場を出た。あとはどっかで着替えて私達と合流して、2枚目のチケットを使って会場に入ったんだね」
 女っぽいヤス子さんだからこそできる技。ゆえにヤス子さん以外にはできない技。
「それで私は、この会場近辺のどこかに女物の服が捨ててあると思ったの。着替えた服を持って会場に入ると、荷物を調べられる恐れがあったからね」
 実際、服部さんに荷物検査をされたからな……。
「それで俺の出番だ。俺は伊乃に頼まれて、警官達に周辺を捜索させ、ゴミ箱に捨てられている女物の服一式を発見した。そしてすぐにそれと同じ物を買いに行かせたって訳だ」
 服部さんは勝ち誇ったように、スーツケースからもう一式の服を取りだした。透明な袋に入った、ヤス子さんが今着ているのと同じ服。
 証拠を押さえられて、もはや言い逃れできなくなったヤス子さんは――。
「……そう、全て――あなたの言う通り」
 まるで本当の女性のような、透きとおった美しい声で言った。
 僕達の目の前にいるヤス子さんはもはや、可愛い女の子にしか見えなかった。
 なるほど……スタッフさんも間違えるわけだ。彼女の事を知らなかったら、きっと僕だって騙されるよ。
 でも、僕にはまだ疑問に残る点がある。ヤス子さんは言い逃れしようと思えば、まだいくらでもできる状況にあるはずだ。
 だって伊乃が証明したのは――ヤス子さんが今朝、同人誌をサークルスペースに置いたって事だけで……ヤス子さんが安藤先輩を殺した事は何も証明できていない。
 それでも肝心のヤス子さんが罪を認めたのなら、それで事件は終わりだ。あとは警察の仕事で僕達の役目じゃない。
「……これで一件落着だね、伊乃」
 後味の悪い事件だったけど、ようやく事件は解決したと僕は伊乃を見た。
「ううん、違うよ鷹弥……まだ事件は解決していない。まだ――真犯人が出てきていない」
「……え?」
 僕も含めて、その場にいる誰もがその言葉に驚愕した。
 ただ……ヤス子さんだけが辛そうな顔をして、じっと下を向いている。
「し、真犯人って……ヤス子さんが犯人じゃないのかっ? 他に犯人がいるのかっ!?」
 僕は震える声で叫んだ。
 伊乃は不敵に微笑んで、ゆっくり言った。
「そもそも私は――ヤス子さんが安藤虎兎を殺したなんて、一度も言ってない」
「え、そ、それじゃあ安藤先輩を殺したのは彼女じゃない……?」
 僕の思考回路はうまく回らなくなってきた。
「そうだよ。ヤス子さんがやったと私が確実に言えるのは……同人誌を置いた事と、安藤虎兎殺人事件を引き起こしたこと、そして毒ガス事件を引き起こしたこと」
「え……でも殺人事件を引き起こしたって……それって安藤先輩を殺したってことじゃないのかっ?」
 どうなっているんだ。何が違うんだ。わけが分からない。
「違うよ。事件を引き起こしたのと殺したのは全然違うよ。だって――」
 伊乃はここで言葉を止めて、ゆっくり息を吸った。そして。
「そもそも安藤虎兎は殺されていない」
 と、力強く断言した。
 世界がまた、反転した。信じていたものが全て覆った。
「…………こっ、殺されていないっ……最初から殺人なんて起こってない……ま、まさかっ」
 僕達はもう、伊乃に反論する言葉が何も出てこなかった。
「そう、つまり。屍体は――フェイク。そして真犯人は」
 伊乃が言葉を止めて、突如あらぬ方向を向く。
 僕達はただ、黙って伊乃に従う事しかできなかった。
 東館エリアの入り口付近。
 そこには、いつの間にか、僕達の気付かない内に――一人の人物が立っていた。
「真犯人は――安藤虎兎」
 伊乃は、見覚えのある新たな登場人物に指さして言った。
 僕達はみんな、その人物に釘付けになった。
「おめでとう、名探偵」
 ――安藤虎兎がそこにいた。


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