コミケ探偵事件録

第4章 夏コミ3日目

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「ど、どうするっすか服部刑事っ。もうコミケ始まっちゃいましたよっ」
「落ち着け、太田さん。まだこの本の内容が現実に起こることかどうか分からない。いや、むしろ昨日の事を考えればタチの悪いイタズラに巻き込まれてると考えるのが妥当だし、その可能性が一番高い。こんなこと……現実に起こるとは考えにくい」
 コミケが始まってしまい、会場内は騒然としていた。1日目2日目よりも明らかに人の数が多いように感じられた。
 すると、僕も今まですっかりその存在を忘れていた伊乃が、久しぶりに口を開いた。
「私は会場内を調べようかなって思うけど――いい?」
 伊乃は兄に甘える妹の声で服部さんに懇願した。
「な、調べるってお前……」
 服部さんは突然のお願いに驚いているようだ。
「うん。私は思うんだけど、まず初めにある、殺人っていうのが鍵になってると思うの。たぶん意味があると思うの。まずはそこから調べたいと思ってるの」
 ……伊乃が言って僕も気が付く。そう。何か不自然だ。毒ガスで大量殺人というインパクトに負けていて気付いてなかったけど……この殺人。いったい何のために犯人はそんな事するんだ。
 毒ガスで大量に人を殺す前に、誰か1人を殺す必要があるのだろうか?
 それともこれは同人誌のタイトルどおり、犯人からの『挑戦』なのだろうか? 殺人事件を未然に防ぐことができれば最悪の事態が免れるというのだろうか?
 服部さんもその疑問点に気付いたのか考える素振りを見せて。
「い、伊乃……いいけど、でも……」
「分かってるっ。兄さんも気をつけてね、殺されるのは男なんだから。それじゃあ……鷹弥……ついてきてくれる?」
 伊乃が僕に振り返って、黒い艶やかな髪が揺れる。
「ああ、わざわざ聞くなよ。当たり前だろ」
「うん、そうだね。それじゃ兄さん、いってきます」
 伊乃は混雑する人混みの中に入って行く。
「ああ、俺もできる限りの手は尽くす! だからお前も、くれぐれも……危険な真似はするなよ」
「お兄さん、伊乃の事は僕に任せて下さい」
「……お兄さん言うな」
 僕は服部さんの声を背中に浴びながら、人混みへと突入する。


「くそっ……全然進まないし、視界が悪くて何も見えない……ケータイも繋がらないし……伊乃、どこ行ったんだよ」
 僕はいまだ東館から出られずに、人の壁をかき分けながらあてもなく歩いていた。
 ――情けないことに、僕と伊乃はすぐにはぐれてしまっていた。
 これじゃあ服部さんに会わせる顔がない。
「でも……多分伊乃は東館のどこかにいるはずだ」
 あの同人誌の内容によれば、東館から毒ガスが溢れ出し、それがきっかけとなり会場中が大惨事になるとでていた。恐らく毒ガスは会場内に複数仕掛けられている。
 ならばコミケスタッフも、服部さん達警察も……きっかけとなる初めの毒ガスを探すはず。東館を重点的に警戒しているに違いない。殺人事件についての手がかりがない以上、きっと伊乃も東館にいるはず。
 だったら僕もこの東館を調べるべきだ。犯人が毒ガス装置を仕掛けるとしたなら、それはどこに……そしてそれはどんな形のものなのか。
 僕は首を動かす。それらしいものを仕掛けるなら……サークルの販売物に紛れ込ませるとかか? いや、そんな不審なものが自分のスペースに置いてあったらすぐ気付くだろ。
 駄目だ。僕1人で考えても埒があかない……一旦サークルスペースに戻ろうと、僕はストレスが溜まりそうな、ゆるゆるとした速度で我がホームに帰還した。
「……って、仁江川先輩1人ですか?」
 戻ってみればそこには仁江川先輩の他に誰の姿もなかった。
「うん。服部刑事と太田さんは忙しそうにどっか行ったわ、東館を重点的に調べるって。で、創作会の2人は『サークルどころじゃない。オレ様達も犯人を捕まえる』とか言ってどっか行ったわ……」
 仁江川先輩は力ない声で言った。その姿にはおいてかれた感というか……哀愁みたいなものさえ感じられた。
「で、御堂君。君は何しに戻って来たの?」
「ああ、あの後すぐに伊乃とはぐれちゃって……いやぁ、凄いですよね最終日」
「ま……まぁね……そ、それで御堂君はどうするの? 休憩してく?」
「いえ……何か新しい情報がないか寄っただけなんで……なにか進展はありました?」
「進展……進展はないわね」
「そうですか……分かりました。それじゃ僕はもう行きますから――」
 せっかく戻ったけど、特に得られるものはなさそうだ。
「ま、待って」
 と――、僕が再び人混みの中に進もうとしたら、仁江川先輩が呼び止めた。
「なんです?」
「あ……う、ううん……なんていうか、思ったの。御堂君はどうしてそう、一生懸命なんだろう……って」
 事件のせいか、仁江川先輩はすっかり元気がなくなっていた。
「……一生懸命……ですか?」
 いきなりよく分からない事を言われて僕は戸惑う。
「うん。アタシには分からないの。だって、これってかなりやばそうな事件じゃない。ただの高校生が突っ込んでいい事件じゃないし、アタシ達が関わらなきゃいけない責任もないわけじゃない?」
 仁江川先輩は僕から視線を逸らして、消え入りそうな声で言った。
 ああ、そうか。仁江川先輩は怖がってるんだ。普通の女の子みたいなとこもあるんだな。
「はは……僕はあんまり深く考えてないから分からないですけど、ただ1つ言えることがあります」
 僕は、仁江川先輩を不安にさせないように、できるだけ明るい顔をした。
「え……」
「僕は――探偵倶楽部の部員で、伊乃の助手だって事ですよ」
 僕はそれだけ言って、仁江川先輩に背を向けた。
「アタシ……自分は周りとは違う、変わり者の人間だって思ってた」
 と、後ろから仁江川先輩の声が聞こえた。僕は立ち止まった。
「でも……ふとした瞬間思うの。それはただ自分がそう望んでるだけで、アタシはただの普通の人間で……特別な存在に憧れてるだけなんだって」
 僕はただ黙っていた。だって僕はその言葉に対して何も言えないから。僕は卑怯だから。
「……。呼び止めて悪いね……よかったら一冊買ってかない?」
 仁江川先輩はこれで話は終わりとばかりに空笑いして、僕に訊いた。
 その声は、いつものような、あっけらかんとした仁江川先輩のものだった。
「はは……今は遠慮しときます」
 僕は振り返って、笑って答えた。


 再び僕は人混みの中に自分の存在を同化させたけど、この時の僕には確たる意思があった。
 仁江川先輩と会話していて、唐突に頭に浮かんだのだ。
 もしかしてこれは――犯人のトラップなのかもしれない。
 僕は同人誌の内容を思い出す。
 東館から紫煙が立ちこめた。それがきっかけだった。
 毒ガス――。毒ガスが吹き出してきて、それがすぐに会場内を満たして人々はパニックになる。
 …………。僕は考える。
 ――東館だ。この文章によって東館に注意を向けるのは当然の心理。でも……これが犯人の狙いだとしたら。
 そう――東館から紫煙が立ちこめるのと、毒ガスは繋がっていないのかもしれない。
 実は東館の紫煙は毒ガスと全く関係ないとしたら。東館の紫煙というのは、ただ僕達を東館に留まらせる為だけのものだとしたら。
 僕の推理に根拠はないし、自信はない。
 でも僕の足はまっすぐ――西館へと向かっていた。
 そして東館と西館を繋ぐ廊下にさしかかったところで。
「あれ……? 御堂くん?」
 透明感のある綺麗な声が僕の名前を呼んだので振り返ると――ヤス子さんがいた。
「あれっ、ヤス子さん……1人ですか? 安藤先輩は?」
「ヤス子じゃないです……ま、いいです。安藤くんとは途中ではぐれたの。彼はすぐ迷子になるから」
 ヤス子さんはむくれて怒りのアピールをした。
「ああ、なんとなく分かります……。ちなみに僕も伊乃とはぐれてしまいました」
「……ふふ。なら一緒だね。御堂くんはこれからどうするつもり?」
「僕はこれから西館に行こうと思うんですが……」
「あ。私も西館の方に行こうと思ってたの……もしかしたら安藤くん、西にいるかもしれないし。それじゃあ……一緒に行く?」
 断る理由もなかったので僕はヤス子さんと一緒に西館へ行くことにした。
 そしてしばらく歩いて僕達はようやく西館に着いて、でもどこに行けばいいから分からないから人の流れに任せて歩いていた。
「ねぇ……ヤス子さん、よかったら聞いてもいいですか?」
 亀のようなスピードで歩きながら、僕はヤス子さんに訊いた。
「なに?」
 ヤス子さんは企業ブース方面へ行く階段を昇っていく。僕も一緒について行く。
「ヤス子さんと安藤先輩……それと仁江川先輩って、どういう関係なんですか?」
 今まで気になっていたけど、なかなか訊きづらかったこと。
「…………」
 ヤス子さんは沈黙した。
「あっ、答えたくないなら別にいいですけど……」
「――私は、もともと漫研部員だった……そして八重ちゃんは特別な関係だった」
 ヤス子さんは、重い口調で語り始めた。
「私は創作するのが好きだった。漫画でも小説でも。生み出すことに喜びを抱いていた。漫研部は……私の心を満たしてくれなかった」
 今まであまり多くを語ろうとしなかった、ヤス子さんの心の内。ああ……それでヤス子さんは……。
「うん。あとは君の思ってる通り。安藤くんが私の前に現れた……漫研部をかき回すだけかき回しすぐに辞めていった安藤くん。創作の全てを創作する安藤くんが私をスカウトしてきた。安藤君の世界は私が求めていたものだった。同人活動にも積極的に取り組み、漫研部のようなただの馴れ合いの活動じゃない魂を震わせるものが……私の望んでいたものがそこにあった」
 ヤス子さんは恍惚の表情にも似た顔を浮かべている。
「そ、それじゃあ安藤先輩と仁江川先輩が……仲悪そうに見えるのは」
 やはり安藤先輩の方に問題があると思うけど……事実は意外なものだった。
「それは……全部私が悪いから……私は、八重ちゃんが好きだった。八重ちゃんも、私がすきだった。でも、それでも私は安藤くんを選んだの……っ。だから私は……八重ちゃんを傷つけるのが怖くて、八重ちゃんの好きな漫研部を否定するのが嫌で、それで安藤くんに相談したから……っ」
「どうなったんですか」
「安藤くんが私を無理矢理入会させた――っていう事にしたの……安藤くんが私を奪ったっていう設定になったの……っ」
 そう答えるヤス子さんの声は涙ぐんでいて。
「……安藤くんは何も悪くないの……っ」
「…………」
 僕は、それ以上なにも聞けなかった。
 ああ、そういうことか……。シンプルだけど、複雑な関係。
「ヤス子さん、それは――」
 僕は、ヤス子さんに何か慰めの言葉をかけなければと思い、口を開いたら。
「あ、ちょっとお手洗いに行っていい……?」
 ヤス子さんが企業ブース内にあるトイレを指さして言った。
「……あ、うん」
 僕は肩すかしを食らって脱力する。
「すぐ戻るから……」
 そしてヤス子さんはトイレの中へ姿を消した。
 その一瞬あとだった。
「きゃ……きゃああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」
 金属質な、ヤス子さんの悲鳴が聞こえた。
 瞬間――企業ブースから全ての音と動きが消えた。
 あれだけ騒がしかった声も、あれだけ動いていた人間も、時間が止まったように、コミケ会場全てが別世界へいってしまったように。
 すぐに世界は動き出した。企業ブースは喧噪に包まれる。
 しかし、もうここはコミックマーケットの世界ではない。異世界の出来事だ。
 トイレの周囲にあっという間に人が集まってきた。
 僕はトイレへと走って行った。
 トイレに入ってすぐのところに、ヤス子さんが腰を抜かして座り込んでいる姿があった。
「し、しんで……あ、あんど……くん。しん……」
 ヤス子さんは呪文のようにしきりに何かを呟いていた。
 そして――僕は見てしまった。

 安藤虎兎先輩が死んでいるのを。

「なぁ……っ。これは……先ぱ……」
 開いたトイレの個室から、体を半分出して状態で仰向けに倒れている安藤先輩。安藤先輩はなぜかフランス人形みたいな純白のドレスを着ていて、その胸にはナイフが刺さっていた。
 ナイフを中心に真っ白なドレスは真っ赤になっていて――こちらを向いている女装姿の安藤先輩の顔は目を閉じていて、まるで安らかに眠っているようにも見えた。
「し、死んでる。安藤くんが、死んでいる……!」
 確認するように、自分に言い聞かせるようにヤス子さんは同じ言葉を繰り返す。
「や、ヤス子さん落ち着いてくださいっ、ヤス子さっ……」
「安藤くん、いやっ……安藤くーーーーーーんっっっっっっっ!!!!」
 ヤス子さんの叫び声が響き渡った。
 それを契機に、何人もの野次馬達が安藤先輩の屍体を見ようとトイレの中に集まってくる。
 そして、本当の地獄はここから始まった。
 僕はドレス姿の安藤先輩が倒れている個室から、微かに音がしているのを聞いた。
 その音は缶スプレーを吹くような、プシューという音。
 とっさに僕は、血の気が引くのを感じた。
 目をこらして音がする方を見ると、便器の中から、緑色の霧状のナニかが吹き出しているのが見えた。
 周りの人間達も、それに注目した。誰も何もできず、ただ静かに見守っていた。
 その沈黙を切り裂くように、ヤス子さんが大きな声をあげた。
「ど、毒ガス……っ! 毒ガスだぁぁっっっ!!!」
 それは、いま、一番言ってはいけない言葉だった。
 仮にもしここにコミケスタッフがいなければ、ただの戯れ言だと思われたのかもしれない。
 けれど、コミケスタッフには既に、例の同人誌の事は伝えられているだろう。そして、毒ガスのことも知っているだろう。つまり。
「ひ、ひいいいいいいっっっ!? 毒ガスだッッ! 死ぬ……みんな死ぬぅううう!!!」
 トイレの中にいた1人のスタッフが、ヤス子さんにつられるように叫んだ。
 終わりが始まった――。
 その瞬間、トイレの中にいた全ての人間が叫び声をあげてトイレの中から転がるように出た。
「にっ、逃げろみんなっ! 毒ガスだっ……毒ガスだああああーーーーっっっっ!!!!」
 そしてその恐怖は、企業ブース内全ての人間に伝染した。


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