コミケ探偵事件録

第2章 夏コミ1日目

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 こうしてコミックマーケット1日目は何事もなく無事終わった。
 夕方に鳴くセミの声は、昼間に比べてゆったりしていて、ある種心地よくすら感じられた。
「どうやら杞憂だったみたいだな」
 電車を降りて我が地元の土を踏んだ僕は、帰り道を歩きながら隣を歩く伊乃に話しかける。
 いったいこれまでの人生で、何度この道を伊乃とこうやって並んで歩いたのだろうか――ふと僕は思った。
「うん。でもまだ今頃あっちでは盛り上がってる最中だし、その間に何かあるかもしれない……」
 その歯切れの悪い言葉から、伊乃にはまだ心残りがあるようだった。
「まぁまぁ、まだ1日目なんだ。あと2日ある。犯人だって、そんなに急いでないさ」
 僕は見慣れた坂道を登る。コミケ終わりで坂道は辛いものがあったけど、故郷に帰ってきたんだっていう安心感の方が今は優っていた。
「……そうだね。それに明日と明後日はサークル参加だもんね」
 あ、そうか……サークル参加。
「今の僕にはとても心強い言葉だよ。でも……服部さんは」
 もう捜査に協力しなくていいって言っていた。これは僕達の手に余る事件だと思っているんだ。
 けれど伊乃は、どこ吹く風みたいな清々しい顔をして、
「兄さんがなんと言おうと私はやるよ。どうせ初めっから私達は独自で動いてるんだもん。私は私のためにやってるんだから」
 暖かい夏の風が吹いた。べたつく汗には多少なりとも心地よかった。
「伊乃は熱心だね、相変わらずブレないっていうか……強いよ、ほんと」
 あれだけ強烈だった気温も、今はだいぶ落ち着いて来ている。犬の散歩をしているおじいさんが僕達を追い抜いていった。
 伊乃は飼い犬の後ろ姿を眺めながら言った。
「私は……がむしゃらに生きてるだけだからね」
 がむしゃらに……月子ちゃんの為にがむしゃらに生きる伊乃。皮肉にも……それが伊乃の強さなのだ。きっと犬の向こう側にある、夕日を見つめている彼女は、妹の事を考えているのだ。
「……まるでロケットだね、伊乃は」
「ロケット? そんなカッコイイのと私とじゃ全然違うよ、鷹弥」
 伊乃が、自嘲めいた声で足元にあった小石を蹴った。石はカラカラに干からびた用水路へと転がっていった。
「だってロケットは前に向かってしか進めないだろ? もの凄い勢いでさ」
 まっすぐ前だけを向いて、希望に向かって。
「だから違うよ。むしろ逆だって。だって私は……私はただ逃避してるだけだよ。ロケットは人々の夢を乗せていくけど、私は夢にすがりつきたいだけなんだよ。ロケットは夢を叶える為に飛んでるけど、私は夢を見続けていたいだけなんだよ。がむしゃらに生きていないと怖くて仕方ないだけなんだよ。夢から醒めるのが……怖いの」
 そう言って、伊乃は長い髪を指で弄った。夢を夢のままにしたいと言いたげな痛々しい姿。夢を叶える事自体に怯えているような姿。まるで伊乃の中にある本質は、夢とは対極にあるもの……絶望そのものとでも言いたいような、儚い姿だった。
 伊乃のたまに見せる、夕空の彼方を見つめるような寂しそうな瞳。この現実じゃない、どこか違う場所に思いを、希望を馳せている瞳。
 だから、僕は……たとえ伊乃の希望になれなくても。僕は言う。
「……ホントに変わらないよ、伊乃は。ま……それでも僕は伊乃をロケットだと思っているけどね。だって僕はそのロケットに乗って、一緒に前に進んでるつもりなんだ。確かに滅茶苦茶なロケットだけど……もう僕は何年も一緒に付き合ってきてるんだから、いいかげん振り回されるのに慣れたよ」
 やれやれと、僕は失笑する。
「もしかして……鷹弥はいや? コミケ……楽しくない?」
 伊乃は消え入りそうな声で言った。僕にすがりつくような瞳を向けて。
「確かにコミケは暑いし疲れるし精神的にもきついけど……でも不思議な魅力があるよ。みんなが1つのイベントに熱中している様子は僕は好きだな。僕もなんか頑張ろうって気になる。……それに、伊乃も一緒だからな。僕はなにより伊乃がいるから楽しめるんだ」
「……うん。がんばろ、鷹弥。私、鷹弥と一緒だったらなんでも楽しいよ」
 伊乃の顔から悲しさは消えていた。夕日のせいか激しい日差しのせいか、少し顔が赤く染まっている。
「ああ、そうだ。明日も頑張ろう、伊乃。探偵は途中で謎を放り出しちゃいけないもんな」
「そうだよっ。やっと鷹弥も探偵のなんたるかが分かってきたねっ。探偵の道はまだまだ奥が深いよっ」
 と――急にまた、いつものような元気な伊乃に戻った。テンションの起伏についてけないよ。
「でもまずは、家に帰ってシャワーを浴びたい……」
 僕は大きく息を吐いて、気怠く呟いた。
「ん……それは同感だね」
 珠洲は拗ねた小学生のような顔をして笑った。
 やっぱり僕は、伊乃にはこういう顔をしていて欲しい。そうでないと安心して宇宙に飛び立てないよ。


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