コミケ探偵事件録

第2章 夏コミ1日目

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「って、ぜんぜん調査活動どころじゃないんだけどっ」
「鷹弥、手離しちゃ駄目だよっ。きゃっ、誰かいま私のお尻さわったっ?」
 筆舌に尽くしがたいカオス状態。
 コミケが開始されてしばらくは、押し合う人の壁に僕達は身動きできなかった。
 しかも今は8月の半ば。夏も真っ盛りの季節で太陽の勢いが半端ない。参加者みんな汗だくになっていて、人にぶつかる度に気持ち悪い感触がして、そのうちどうでも良くなってきた。
「い、伊乃……これが事件の調査になるのかよ……僕には史上最凶の罰ゲームにしか思えないぞっ」
 はぐれないように強く握りしめる伊乃の手。汗でベタベタする。
「で、でもこうやって肌で感じ取って分かることもあるんだよ、鷹弥」
 ほんとかよ。
「そ、それはいったいどんな……」
「満足に移動することができない」
「確かに。強く同感するよ、伊乃」
 こんな状態なら別にいつ来ても一緒だったかもしれない。僕は来た事を後悔しながらノロノロと行列に従って歩く。
「心配しなくても大丈夫、名探偵の私に任せなさい。情報は今も仕入れてるし、それが全て揃った瞬間事件は解決するもんなんだよ。……うわ、スロープの下まで人がいっぱいだぁ。あ、あそこコスプレ広場だ! もういっぱいコスプレしてる人がいる!」
 ようやく人の壁から抜け出せた伊乃は、周囲に広がる光景を見て興奮している。ま、僕は伊乃が満足ならそれでいいや。
 しかし企業ブース内に入った僕達が、ろくに視界もままならないまま歩いている時だった。
「あっ、伊乃っ……」
 繋いでいた手が、離れてしまった。
「わわっ。た、鷹弥っ」
 手が離れた瞬間、どんどん僕から引き離されていく伊乃の姿。
 己の欲望に忠実な人間達の大群によって押し流されて、あれよあれよという内に、とうとう僕達ははぐれてしまった。


「……どうしよう、ケータイも繋がらない」
 なんとか企業ブースから抜け出し、西フロア前のロビーみたいな広い場所で僕は伊乃に連絡を取ろうと試みていたが、電波の繋がりが非常に悪い。メールもこない。
 下手に歩き回ってても偶然に再会できるなんて到底思えない。
 伊乃がいない状況、僕はどうしたものか分からないけど……このまま無意味に立ち尽くしてても仕方ない。
「なら、僕も独自に調査しよう……」
 そういうわけで僕は伊乃に調査活動しとくよ云々のメールだけ送って、西エリアへと入った。
 ごみごみとしている会場内。昨日見た、荘厳に並んでいた机の全てに人がいて、販売物があって、それを求めに来る人がいた。
 歩いている人物の中にはところどころコスプレをしている人の姿も見かける。
 祭りだ。みんな祭りを楽しんでいる。
 昨日見た時はあまりの広さに萎縮してたこの空間が、今はオタク達によって圧倒されている。これぞ数の力。オタクの情熱。
 もし犯人が実際にいたとしても、コミケというあまりにも巨大すぎる存在を凌駕することができるのか。常に人の目があり、ほとんど死角のないこの場所で殺人を犯すことができるのか。
 僕はなるべく人の少ない場所を選んで通っていく。
 多種多様な人が多種多様の創作物を机の上に並べている。
 音楽CDや小説や小物類などあったが、やはり多くは同人誌。ちなみにその中でも18禁物が多かった。……さすが欲望の祭典。
 せっかくだから何か買っていこうかな。……そうだ、伊乃にプレゼントを買ってやるのもいいかもしれない。
 僕は積極的に人混みの中へと入り、そしてじっくりと1つ1つのサークルを吟味していった。
 ……あ、僕もこれでオタクの仲間入りをしてしまったかも。
 すっかり本来の目的を忘れてしまっていた僕は、サークル参加者が情熱を注いで制作した創作物を物色する。そして、いったいどんな人がこれを創ったのだろうかと気になり、僕はズラリと並べられた机の向こう側にいる、サークル参加者の人達を見た。若い人からお年寄りまで老若男女だ。
 その時、僕は本来の目的を思い出した。
 ――殺人予告状を送りつけた犯人は、サークル参加者を殺すと言っていた。それも、人気サークルの人間を皆殺し。
 もちろんこの情報は、あらかじめコミケ参加者には知らせてあるし、服部さんを始め、参加者全員が警戒しているのは確かだ。
『人気サークル』ということで、壁側に配置された大手サークル周辺には警官が等間隔で立っている。
 もし犯人が犯行を犯そうというのなら、その網の目をどうかいくぐる……?
 僕は俗に『シャッターサークル』と呼ばれる超人気サークルの行列の最後尾に行ってみることにした。
 一度シャッターから外に出て、ズラーっとアリの大群を彷彿とさせる列を辿って歩く。
 セミの合唱をBGMにしてやっと列の終わりまで来たと思ったら、『ここは列の途中。最後尾じゃありません』という看板。
 ……。僕は最後尾の場所を訊いて、また列を辿っていく。
 やがて『最後尾はこちら』という看板を持った人のところまで到着した。
 どんだけ長いんだよ。ふぅ……これが人気サークルの行列か…………。
 ……うん。せっかくここまで来といて言うのもなんだけど――さっぱり分からない。やっぱり僕には荷が重すぎたよ。
 昼時なので真上に昇った太陽がガンガン僕の体力を奪っていく。この人達は、この暑さの中何時間並ぶつもりなんだろう……。
 どうせここまで来たんだから、せっかくだし並ぼう――なんて到底思えない。
 なんかもう、一気にやる気がなくなった。そもそもまだ起こっていない犯行を推理するなんてレベル高すぎるよ。なにをどうすればいいか見当がつかない。
 そうだよ、探偵の仕事は起こった事件を解決することなんだ。やっぱりこれは警察の仕事で僕達の領分じゃない。
 なんて、僕がようやくのことで当たり前すぎる結論に達した時、ケータイが鳴った。
「あっ、繋がった」
 僕はすかさずケータイをとる。
『もしもし、鷹弥?』
『伊乃か。よかった、心配してたんだぞ』
『よかったぁ〜。やっと繋がったぁ。もうっ、それは私の台詞だよ。今どこにいるの』
『今は西館の外にいる。シャッターサークルの行列が沢山できてるところ』
『ふぇ〜、なんでそんなとこにいんの? 並んでるの?』
『待っててもしょうがないし、1人で調査してたんだよ。それより伊乃は?』
『ずっと休憩所にいて今もそこにいるよ。昨日、兄さんと待ち合わせしてたコンビニ前のとこ』
『分かった。今から行くからそこで待っててくれ。で、伊乃。その間に服部さんに連絡しといてくれないか? 一回会って情報を聞いておきたいし、このまま動いてても埒があかなさそうだしね』
 僕達だけで調べるのには限界がある。悔しいけど服部さんの手助けが必要だ。
 そういうわけで僕は、灼熱地獄から西館へ引き返し、ごった返す人の群れをかき分けて、伊乃のいる場所を目指す。少し慣れてきたかもしれない。


 たぶん普通に歩いて行く5倍くらいの時間をかけて、やっと伊乃のいる場所に着いて、僕は椅子に座った。疲労が一気に出た。
「兄さんはいま対策本部にいて忙しいけど、なんとか時間作って会ってくれるって。東館で落ち合おうだって」
 暢気にアイスキャンディーを食べながら魔法少女・伊乃は言った。
 その様子は、どことなく不機嫌そうに見える。1人だったから寂しかったんだろう。
 でもアニメ絵の紙袋が手元にあるところを見ると……ちゃっかり夏コミ満喫してるじゃん。何をお買い上げになったのかしら。
「そして伊乃。さらっと流してるけれど……その格好はなんなんだ?」
 ツッコんだら負けでもいいから、僕はさっきまでとは違う伊乃の姿について言及した。
「なにって、ここはコミケだよ? 無粋だね、コスプレしてこそコミケを楽しめるってもんでしょうが」
 江戸っ子みたいなことを言う伊乃の姿は、一言で言い表すと……かなりきわどい魔法少女――だった。パンツ見えそうだし、胸の谷間とか見えてるし。通りがかる男達の視線集めまくってるし!
「無駄にでかいそのカバンにはそんな物が入ってたのか……。そしてお前にコミケの何が分かるんだよ……ま、いいや。とにかくそろそろ行こう」
 伊乃があんまり注目を浴びるのが……なんとなくいい気がしなかった。なので早くここを出て服部さんと合流しとこう。
「鷹弥は休憩しとかなくていいの?」
 僕の気持ちも知らずマイペースもんで、アイスキャンディーを食べきった伊乃は、素っ気ない態度で棒の部分を口にくわえて動かしていた。
「伊乃は休んでたんだろ? 僕なら大丈夫さ。下手に体を休めたらすぐに疲れちゃうからね」
 僕はどっこっせ、と立ち上がって伸びをした。
 すると、伊乃も僕につられて慌てて立ち上がって、そして今度ははぐれないようにと僕の腕にくっついてきた。
「おいおい、恥ずかしいだろ……つか、当たってるし……」
 薄着の衣装だからか、伊乃の大きな胸の感触や体温がやけにリアルに伝わってくる。
「だって……鷹弥がいなくてずっと寂しかったんだもん」
 伊乃の声はか細く弱々しかった。
「……分かったよ、それで伊乃の気が済むなら。でもせめてもうちょっと体離そ」
 僕はなるべく感情が表に出ないようにして歩き、西館と東館を繋ぐ長い廊下を渡る。
 そしてエスカレーターを下り、東館へ。
 東館は――西館と同等か、むしろそれ以上の混雑ようだった。
 たぶん世界一人口密度が高い場所はビッグサイトだと思う。ただしコミケ開催中に限る。
「服部さんどの辺りにいるのかなぁ……」
「東123と456の間の通路のとこにいるって兄さん言ってたけど……」
 僕と伊乃が人の行き交う通路に出て周りをキョロキョロ見てると。
「ふひっ。いたいたっ、伊乃たん……いっ? ……そ、その格好は、伊乃たん……伊乃たん……伊乃た〜〜〜〜〜〜〜〜〜んっっ!!!?!?? た〜〜〜〜ん、た〜〜んっっっ……」
 ズシンズシンと地響きを立てながら、ベテランコミケスタッフの太田太さんが現れた。ていうか1人で勝手に発狂していた。
「あっ、太さん。おはよ〜」
 壮大なパフォーマンスしている太田さんに、伊乃が敬礼のポーズ。
「おふふっ、いいっ、伊乃たんっ。すっごく似合ってるっす。やっぱり僕の目に狂いはなかったっす。昨夜届けに行った甲斐があったっす。後でコスプレ広場で写真撮らせてくれっす」
 太田さんは舐め回すような視線で魔法少女姿の伊乃を見つめる。
 てか、あんたが伊乃に渡したのかよ。てか、いつの間にそんな仲になったんだよ。
「ところで太さん、こんなとこで何してんの? 警備とかは大丈夫なの〜?」
「ああ、ボクは警備主任と言っても、ほとんど警察が仕切ってるからね。暇なんす。ボクは服部刑事に言われて来たっす。服部刑事とっても忙しくてどうしても来れないから、暇なボクに伝言を頼んだっす」
「伝言……?」
「そっす。『すまない、俺が予想していたよりも遙かに大変なイベントだった。この事件は俺達だけでやるからお前達は帰っていい』――って言ってたっす」
「え? 帰ってって……これで終わり?」
 予想外の言葉だった。突然の解雇通告。
「伝言は以上っす。ま、仕方ないっすね。捜査どころじゃないっすもんね。素人には無理っすよ。ふひひ」
 変な声をあげて笑う太田さんは、「それじゃ伊乃たん、お兄さんとコスプレ会場行こうっす」とか言ってはしゃいでる。
「あ。ちょっと待って太さん。その前に教えて。その……なにか変なことはあった? 今日のイベントで。情報は色々入ってきてると思うんだけど」
 ちゃらんぽらんに見えて、伊乃もやっぱり探偵なんだなぁと思った。
 伊乃の質問に、太田さんはしばらく考えるような素振りをして、
「……ふひひ」
 そして何か思いついたように不気味に笑った。どうせよからぬことに違いない。
「そっすねぇ。それじゃあ伊乃たんとコスプレブースに行って一緒に撮影会してくれるんなら教えてあげるっす! ……どうするっす?」
 ほら、やっぱり。
「い、伊乃。それは……」
 僕は伊乃を止めようとした。だって、こんな変な人に伊乃を預けたら何をされるか分からな――。
「うん、私はいいよ。てゆーかむしろ興味満々だよ。いこ、太さん」
「めっちゃ乗り気っ!!?? 天性のコスプレイヤーだよ!!!!」
 即答だもん。
「うひひっ。ほらほらっ、そうと決まればさっそく行くっすよ!」
 太田さんはテンションを最大にまで上げ、伊乃を連れて駆け出していった。どさくさに紛れて手まで握ってるし。
「って、ちょっと待って下さいよっ」
 僕は慌てて2人の後を追った。


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