コミケ探偵事件録

第1章 夏コミ前日(設営日)

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

3

 
 その後僕と伊乃はベテランコミケスタッフの太田太さんに案内されて、コミックマーケットの会場を一通り見て回った。
「ここが東フロアっす。西と東は結構な距離があるから行き来するのが大変っす。できるだけ少ない回数で西と東を往復するのがコツっす」
 東フロアは西フロアで見たのと同じように、ところ狭しと机と椅子が並べられていた。西フロアよりも広いような気がするけど……ここまで広ければ僕にとってはどっちも同じだ。
 もうだいぶ設営も進んでいるようで、ホールのほぼ全てに並んでいるその光景は、壮観だった。
「じゃあ今度は会場の外に行くっすか?」
 一通り歩き回ると、太田さんが汗だらけの顔を向けて何気なく訊いてきた。
「外? そこでも何かあるの?」
 さっきからテンションがあがった伊乃が顔を輝かせた。
「ふひひ。コミケの醍醐味は列に並ぶことと見つけたりっすよ。むしろ外で並んでいる時間の方が長いくらいっす」
 なんか熱く語りだしたぞ、更に気温が上昇しそうだぞ……これ。
「それに徹夜で並ぶ人間だっているっす。海の方で並んでいるとお台場の観覧車が綺麗っす。あっ、でも徹夜は禁止されてるしそんなとこ案内する必要はないすけど……そうそう。それに、なんといっても外にはコスプレスペースだってあるんすよ。コスプレがなかったらコミケじゃないっす!」
 と、得意げな顔で語る太田さん。周囲の気温が5度くらいあがった。
「わぁ〜。コスプレだって! いこいこ、鷹弥っ! 下見下見っ」
 なぜかすっかり太田さんに慣れたらしい伊乃はコスプレと聞いてテンションが上がった。。太田さんの汗が飛んできても気にしなくなってるし……慣れって怖い。 
「別にいいけどさ……それよりお前、ちゃんと調査してるのか? 普通にビッグサイト内を堪能してるようにしか見えないぞ」
 ま、今の段階じゃ大したものなんて得られないのだろうけど。
「大丈夫だよっ。もうこの場所の地図と、何があるかは頭の中にばっちり入ったからっ。さ、案内頼んだよ、太さんっ」
「うひひっ。元気いいっすね、伊乃ちゃんっ。ボク、こんな可愛い女の子とデートできて嬉しいっす。そうだ。せっかくだから伊乃ちゃんもコスプレした方がいいっす!」
 何を言ってるんだ、こいつは。
「えっ? コスプレ? 私が……? わぁ〜、どうしよぉ〜っ」
 まんざらでもないじゃん……。
「絶対似合うっすよ。みんなの注目の的っすよ!」
 なんかすっかり意気投合した2人は僕のことを忘れて、足早に歩いていった。
「やれやれ……」
 僕は一歩離れて、2人の後をついていった。


 その後コスプレ広場なども確認し、あらたか下見を終えた僕達は、太田さんと別れて、服部さんに挨拶して(もちろん、その際僕は恨み言を言われまくった)、そして帰りは駅を調べようという事で国際展示場正門駅からゆりかもめに乗って、行きとは違う経路で帰った。

 ゆりかもめの車窓から見える東京湾はオレンジ色に染まっていて、宝石のように光っている。遠くにかもめが飛んでいるのが見えた。
「伊乃、大丈夫か?」
 ゆりかもめの中、僕は隣に座っている伊乃の方に視線を動かした。
「ん、なにが?」
 うつらうつらと頭を揺らしていた伊乃は、眠そうな眼を僕に向けた。
「なにって、明日からのコミケに決まってるだろ。だって事件だぞ。万一の事があるかもしれないし……」
 イタズラだろうというのが警察の見解だけど、相手は殺人予告状を送ってくる人間なんだ。
 今更になって僕は少し怯えていたのだ。伊乃に万一の事があったら僕はどうすればいいんだ。もう僕は……大切な人がいなくなるのは、絶対嫌だ。
「平気だよ。だって私は探偵だよ? 探偵は事件を解決するのが役目なんだよ。危険な事はあっても死ぬことはないよ。死んだら推理できないし事件を解くこともできないよ」
 僕の心配をよそに、伊乃はなんとも軽い口調で答えた。
「お前の言いたい事分かるようで分からないけど……別にお前がやる必要ないじゃないか。これは君のお兄さんの仕事だろ。大体あの人、難しい事件があると自分では頭使わないでいつも伊乃に推理させてるじゃん。で、手柄だけもらって出世して……それで今回みたいな大きな事件担当させられることになるんだよ」
 ツケが回ってきたんだ。今日が初対面だからどんな人か詳しくは知らないけど、はっきり言ってコミケは服部さんの手に負えるものじゃない。そもそも中止でもしない限り警察がどうこうできるイベントじゃない。
「兄さんを悪く言わないであげて、鷹弥。協力してるのは私が強引に頼んでるからで、私はただアドバイスしてるだけで兄さんは何も悪気はないんだからっ」
「でも今回はわざわざコミケに伊乃を呼んでるじゃないか」
「それはあくまでイベントの参加者として、警察とは関係無い形で推理するだけだから……っ。別に危険な事はなさそうだし、気軽にお祭りを楽しんで欲しいから、そういうつもりで教えてくれたんだと思うし……」
 いとこの兄のことを悪く言われて、伊乃はとても悲しそうだった。
「はぁ……分かった、分かったよ。服部さんに悪気はない……あの人の伊乃に対する態度を見てればなんとなく分かるよ」
 なぜかは分からないけど、伊乃が服部さんを擁護するのを見て、僕は気分よく感じなかった。
「じゃあなんで鷹弥はそんな事言うの……?」
 それは伊乃が心配だから……というのは違う。半分はあってるけど半分は違う。
「伊乃は……探偵好きか?」
 僕の口から、知らず知らずのうちに言葉が漏れ出ていた。
 ゆりかもめの中に、夕日のオレンジが差し込んできた。僕達の姿に燃えるような色が混じる。
「え、それはどういう……」
 伊乃の顔色も変わった。戸惑ったような顔。
「そのままだよ。お前は探偵を名乗っているけど、好きでやってるのかって言ってるんだ」
 あ。いけない……言い過ぎだ。僕は、僕は何を言ってるんだ。でも、それなのに僕は。
「お前……本当は自分が探偵だっていう立場を、そんなによく思ってないんじゃないのか?」
 僕の言葉は止まらない。僕の意思を無視して勝手に言葉が出る。
「な、なんで……べ、別にそんなこと……」
 伊乃は目を泳がせて、その声は震えている。
「伊乃、君は――本当は探偵なんてやりたくないんじゃないのか?」
 言ってしまった。
「…………なんでそういうとこ言うの」
 伊乃は目に涙を浮かべていた。
 僕は……こんなつもりじゃなかったのに。僕は、僕はただ……。
「僕はただ……お前に、自分の幸せのために生きて欲しいんだ。それだけなんだ」
 それは、本当の気持ちだ。僕が伊乃を事を大切に思っているのは本当なんだ。
 伊乃は、うるませた目で僕を見た。
「……私は、いま幸せだよ。……どうして。私が探偵をやっちゃ駄目なの?」
 すがるような伊乃の声。
 僕は――その言葉になかなか答えを出すことができなかった。
「…………」
 しばしの静寂。
 ゆりかもめの中の乗客は少なく、電車はゆっくりと蛇行していく。
「月子ちゃんだろ……?」
 しばらくして僕は、躊躇いがちに言葉を発した。
「…………」
 伊乃が沈黙する。
 伊乃が探偵をやっているのは、5年前に行方不明になった月子ちゃんを探すため。
 僕はそれが……気に入らなかったんだ。
「……伊乃。自分の人生を犠牲にしちゃいけない。伊乃の道を歩かなきゃ駄目だ」
 僕は力強い声で言った。
 すると今まで不安そうに視線を泳がせていた伊乃が、僕に負けないような眼差しで僕を見た。
「だったら――鷹弥にも同じことが言えるじゃない」
 夕暮れの光が、彫りの深い伊乃の顔を美しく際立たせる。人形のような整った顔。
「僕が……?」
 この時僕は――形成が逆転したのを感じた。
「こうやって私に付き合う必要なんてないんだよ。鷹弥こそ自分の為に生きるべきだよ」
 ……それは、その言葉は、僕に深い傷をつくる。
「ぼ、僕は、自分の意思でやってるんだ。伊乃の助手をやりたいから……」
「だったら同じだよ。私は月子を探すの。それが私の意思だから」
「…………」
 今度は僕が沈黙した。
 でも伊乃……違うだろ、それじゃあ。僕と伊乃は同じようでいて違うんだ。
 だったら伊乃。もし月子ちゃんが見つかって……いや、いい結果でも、最悪な結果だとしても、月子ちゃんの事件が解決したとき。
 お前はそれから――どうするつもりなんだ?
 ゆりかもめは相変わらず、ゆっくりした速度で走っていた。

 ――その後。
 ゆりかもめから電車を乗り換えて地元に着いた僕達は、言葉少なく黄昏の帰り道を歩いて。
「それじゃ、鷹弥。……明日から、頑張ろうね」
 坂の上の分かれ道で、伊乃が儚げな顔で微笑んだ。油断していると見とれてしまう姿だった。
「うん。祭り……楽しもうな」
 僕は力なく答えて伊乃と別れた。
 僕は、どうしようもなく弱い。探偵には遠く及ばない人間だ。


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