コミケ探偵事件録

第1章 夏コミ前日(設営日)

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

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 それから僕達が、服部さんとの約束の場所に着いて間もなくのことだった。
「うおおおおおおおお……」
 遠くから、男の叫び声のようなものが聞こえてきた。
 なんだ? 事件か? と思って僕は声のする方に顔を向ける。声は次第に近寄って来る。
 その正体は――スーツを着た若い男だった。
「御堂鷹弥あああ! いや、俺の可愛い伊乃を奪ったウジ虫野郎おおおお!!!! いいかげん伊乃を返せえええええええええ!!!!!!」
「な、なんかもの凄く怒ってらっしゃるっ!? 僕が何をしたって言うのっ!?」
 息を切らしていきなり駆けてきた男。それが高校生に対する大人の挨拶なの!?
「伊乃と一緒にいる事が既に万死に値すんだよ。本来は俺と一緒にいるべきなんだよ。とりあえず撃ち殺すぞ」
 どことなく伊乃と顔立ちの似た、モデルのような顔立ちのいい男は胸ポケットに手を入れた。
 っていうかそれだけで万死に値するなら、もう何人の死者がでていることか。
「ちょっと兄さんっ。鷹弥を撃ち殺したら、私が兄さんをなぶり殺すからねっ。えいっ」
 伊乃がポカン、とイケメンの頭を叩いた。
「く、くうっ……御堂鷹弥。これから先、背後には気を付けることだっ」
 伊乃に怒られた男――伊乃のいとこの兄は、大人げもなく僕を指さした。
「兄さんっ」
「ち。分かったよ。いいか、ウジ虫……今回のイベントを無事に終了させる事が俺の今回の勤めだ。でもお前には別に協力頼んでないからね。帰っていいよ」
 しっしっと手を振る服部宗二刑事。なぜか僕はこの人からもの凄く嫌われている。なんでも伊乃を自分から奪った人間だとかよく分からないことを言っているのだ。
「私は鷹弥と一緒じゃないと手伝ってあげないもん」
「……。ごっ、ごめんよ伊乃っ。宗二兄ちゃん頭良くないから伊乃がいないと駄目なんだ……こんな大きなイベントで兄ちゃん不安なんだよ。助けてくれよ、見捨てないでくれよぉ〜。こんなやつ捨てて兄ちゃんの傍にいてくれよぉ〜」
 いやぁ……相変わらず変な人だな。もしかして血筋なのかなぁ。
「よろしい。では早速会場を案内してちょうだい」
 と、伊乃はビシッと命令した。
「あ、ありがとうっ! さすが俺の可愛い伊乃っ。頼りにしてるよ〜。御堂鷹弥、俺はお前を認めたワケじゃないからなっ!」
「はぁ……その、よろしくお願いします」
 僕もうこの2人のペースについてけないや。
 この人がイベント警備の担当で大丈夫なのかな。

 というわけで僕と伊乃は、伊乃のいとこの兄である服部宗二さんに連れられて、会場内を案内してもらった。
「会場は東と西にある。さっきお前達が渡っていた廊下で東と西に行き来するんだ。で、イベントだが主に3つのエリアに分かれている」
 そう言って服部さんは長いエスカレーターを降りて、そのまま真っ直ぐ開かれたシャッターの中へと姿を消した。
 僕達もその後を追って、シャッター内に入ると――。
「わぁ〜……見て、鷹弥。これがコミケなんだね……」
 伊乃が感嘆の声をあげた。
「うん……噂には聞いてたけど、やっぱり実際に見ると迫力があるなぁ……」
 僕達の眼前にあった光景。学校の体育館の何十倍あるんだろうって位のとてつもなく広大なフロアに、机が綺麗に並んでいた。
 見れば運搬用のトラックがそこら中にあって、大勢の人が机や椅子を運んで設置していた。
 広い会場内を埋め尽くさんばかりに、ところ狭しとびっしり並ばれていく。
 ここで明日から3日間、多くの人々が頑張って作った同人誌を売り、多くの人がそれを求めてやってくるのだ。
 オタクの一大イベントの地位を確立したコミックマーケット。僕はこのイベントに吸い寄せられる人達の気持ちが分かるような気がした。
「――ここが西フロアだ。他に東フロアがあって、そこにもここと同じように机が並べられている。あとは……企業ブースがあったな」
 いつの間にか僕達の隣に立っていた服部さんがぶっきらぼうに解説していた。
「企業ブース?」
 沢山の人が設営作業に励むのを、目を輝かせながら見つめていた伊乃は、いとこの兄に聞いた。
「行けば分かる。このすぐ上にあるから案内するよ」
 僕の時とは随分違う、ほがらかな表情を伊乃に向けて服部さんは西フロアを後にして、さっきとは違うエスカレーターに乗った。
「このエスカレーターを上がったらすぐ企業ブースだ。当日は下に広がるこの空間全部が人間のすし詰め状態になるっていうから……まったく驚きだよ」
 服部さんは投げやりな声をあげて肩を竦めた。
 そして上に到着した僕達は、企業ブースへと入っていった。
 企業ブースはさっき訪れた場所と似たようなところだったけど、さっき訪れた場所よりも見た目的にとても華やかだった。
 いやでもオタクイベントを彷彿とさせる、即席で作った特設ブースがそこら中にある。そのどれもがアニメや漫画のキャラのイラストで彩られていた。
「ここは文字通り、ゲーム会社やアニメ会社などの企業が出展するエリアだ。同じようにここにも大勢の人でひしめきあうことになる」
「うわぁ〜。みてみて鷹弥っ。ほら、あのアニメ私知ってるよ!」
 伊乃は服部さんの話も聞かず、僕の手を引っ張って急かす。
「ちょっ、引っ張るなって。痛いって……遊びに来たんじゃないんだぞ……」
 やれやれ。世話のかかる奴だな。僕は苦笑いを浮かべて服部さんの顔を見た。
 ……みなきゃよかった。鬼のような形相で僕を睨んでいる。いや、僕の気のせいだよね。
「……コロス」
「殺すって言っちゃったよ!」
 気のせいじゃなかったよ。やっぱり犯人ここにいたよ。まさかの刑事が犯人説だよ。
「兄さん、駄目でしょ。仲良くしないと」
「ちっ……」
 僕の腕を放した伊乃がむすっと服部さんを叱った。
「はぁ……完全に僕、お兄さんに嫌われちゃってるよ」
 一度は収まった殺意。しかし僕のその一言が、服部さんの怒りのゲージをマックスにしてしまった。
「お、お兄さ……っ? お前にお兄さん呼ばわりされる筋合いはないっ! 御堂鷹弥、お前……ほんとに死にたいようだなぁ」
 やばい、失言してしまった。
「ひぃ〜〜。ご、ごめんなさい……許してぇ」
 ああ。もしかしてこの事件って、初めから僕が犠牲者になるシナリオだったのか……。
 僕が第一の犠牲者となる覚悟を決めた瞬間――第三者の不気味な笑い声が聞こえてきた。
「い、イケメン刑事と少年のなにやらホモォな腐女子発狂展開っ。た、たしかに萌えるかもしれないけど、さすがにちょっと守備範囲外っすねぇ。ふひひ」
 僕が振り返ればそこには、会場内には冷房がきいているはずなのに、体中から汗をかいている、もの凄く太った男。その太りようは、着ているTシャツ(たぶんサイズは5Lくらい)が今にも張り裂けそうな様子だった。
 一目見た僕は直感する――この人、オタクだ! それも今どき珍しいステレオタイプの生粋のオタク! オタクの中のオタク! キング・オブ・オタク!
「なにこれ?」
 伊乃はまるで、未知の生命体と遭遇した女子高生のような顔をして、巨大な男から目を離さず見つめていた。
「ああ……彼は太田太さん。捜査に協力してもらうことになったベテランのコミケスタッフだ」
 僕を殺し損ねた服部さんは不服そうに、大柄な男を紹介した。なるほど、納得だね。
「よ、よろしくっす。今回の殺人予告事件の担当を勤めるっす。ちなみにこう見えて実はバリバリのオタクっす。かつては超人気サークルとして活躍してたっす。男の娘もばっちり守備範囲だから全然超余裕っすよ。そして好きな食べ物は次郎ラーメンマシマシチョモランマっす。あ、ちゃんと毎日お風呂入ってるから大丈夫っす」
「大丈夫ってなにが? 頭?」
 伊乃、うまい! 僕にはあまりにツッコミどころが多すぎて逆に何も言えなかったよ。精進せねば。
「ちょっと頭が変かもしれないが、これでも一応スタッフでは偉い人なんだ。でもあまり近づかない方がいいぞ」
 服部さんまでさらりと酷いこと言った。
「ガーン! ひ、ひどいっすっ! 傷つくっす! ボクのことそんな風に見てたなんてショックっす! この汗は全然汚くないっすよ! 次郎スープが体からにじんでるんすよ! とってもジューシーなんす!」
 太田さんが怒りだして体を震わせている。汗がプルプルと四方八方に飛び散る。
「きゃ、きゃあ〜〜っ。気持ち悪いよ〜〜〜」
 伊乃が珍しく世間一般の女子みたいな反応をして駆け回る。申し訳ないけど気持ち悪いのは僕も同じなので一緒に逃げる。
「ひっひっひ、待てっす〜〜。ボクの次郎汁を喰らえ〜〜〜〜っっ」
 太田さんが後を追っかけてきた。こ、怖ええ。これ、知らない人が見たら絶対通報するぞっ。むしろ僕が通報したい。ていうか傍に刑事いるし。 
「太田さん、俺の伊乃をいじめたら撃ち殺しますよ」
 服部さんが鉄のような無表情の顔で、太田さんの襟元を掴んだ。
「ぎゃふんっ!」
 太田さんは勢い余って後ろむきに転倒した。
「むぎゅ〜……」
「落ち着きましたか、太田さん。この可憐な美少女が、さっき話してた俺のいとこで探偵の千囃子伊乃です。まぁ、こんな可愛い少女を前にすれば太田さんのとった行動も仕方ない。目を瞑りますよ。それより――何か俺に用があって来たんでは?」
 ……なんか僕に対する時と態度が違うじゃないか。ひどいなぁ服部さん。
 服部さんの紹介に、太田さんは地面に寝転んだまま、穴が開くのかってくらい僕と伊乃をじっと見つめた。
 な、なんだ……気持ち悪い。と僕が身の危険を感じる視線を受けていると、突然。太田さんは何かに気付いて声をあげた。
「そ、そうだっ。すっかり忘れてたっす。準備会が服部さんに用があるみたいだから呼んでこいって」
 太田さんが仰向けになったまま、蚊の鳴くような声で言った。
「はぁ……せっかくこうして伊乃と会えたっていうのに、こき使いやがって……。太田さん、どうせ暇でしょ。だったらこの2人を案内してやって下さい。くれぐれも目を離さないで下さいよ……特にそのガキには」
 服部さんが怖い顔で僕を一瞥して、ぶつぶつと文句を言いながらどこかへと歩いていった。正直ほっとする。
「……え。あ、ああ……分かったっす。案内するっす……って、え? ちょっ待ってっす! た、立てないっす。起こしてくれっす〜!」
 太田さんはまるで裏返ったダンゴムシのようにジタバタと手足を動かしていた。
「あ、あのう……手を貸しますから。大人しくして下さいよ。ほら、伊乃も手伝って」
 僕は服部さんに代わって、太田さんの手をとった。
「え……なんかヤダな」
「文句言うなって。僕1人じゃちょっと無理そうなんだよ」
 ほんとは僕だっていやだけど、仕方ないので僕と伊乃は太田さんを頑張って起き上がらせた。タンスより重いと思った。
「ふひひ……ありがとっす。お礼にボクが案内するっす。あまり力になれることはないっすけど、明日から3日間安全にイベントを開催できるようにお互い頑張ろうっす!」
 ……そうか。太田さんもコミケを愛する1人の人間。コミケは参加者1人1人で成り立っているのだ。僕は……僕は太田さんのひたむきな情熱が理解できました!
「ええ、そうですね! 僕達で頑張りましょう! よろしくお願いします!」
 太田さんを見直した僕は頭をペコリとさげた。
 すると太田さんはさっそく僕達から背を向けて歩き始めた。
 おお、やる気まんまんだなぁと思って後を追うと、太田さんがなんか1人でぶつぶつ呟いてるのが聞こえてきて……僕は気になったのでそっと近づいてみた。
「ふひひ……じょ、女子高生と手を握ったっす。も……もう左手は永遠に洗わないっす」
 ゾクリ――と、僕は背筋に寒気が走った。人間の狂気というものを知ってしまった。
 ……今のは聞かなかったことにしよう。そして伊乃には間違っても言わないようにしよう。
 僕はまだ見ぬ犯人よりも、いま目の前にいる太田さんがとてつもなく怖かった。
 それに気のせいだろうか、太田さんが来た瞬間から周囲の気温が一気に上がった気がするし……暑苦しい。
 つくづく心配になってきた。ほんと……大丈夫だろうか。こんなんで。


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